『天の炎』

高本 淳(Jun Takamoto)




 古の装置は予想のとおりうまく働いたようだ。わたしはいま目的を果たすに十分な速度で天空を飛んでいる。怖れていたごとくにふたたびわれらが毋なる大地に引き戻されたあげくそこに激突してむなしく一命を落とす結果にはなるまいと思う。
 他の忠告に一切耳をかさぬ異端の者のかかる本音を聞くにつけ存外の感にうたれる諸姉もあるいはおられるかも知れない。わたしがこの計画の遂行にあたって堅持しぬいたかの自信は実のところそれほど確たる根拠を持つものではなかったのだ。わが行動が超越的な啓示や霊感のたぐいに発したものではないことをここに再び申し加えておかねばならないだろう。
 わたしの信念の唯一のよりどころは『創造者』たちは無意味なものを創造したりはすまい……という、いまとなってふり返ればはなはだ頼りない漠とした直感のみであった。すなわち長姉たちが一般に教え導くところとは違って、わたしにはかの『創造者』たちの心が……たとえ彼女らに比すれば無能で非力な存在であるにせよ……このわたしに理解しえぬものであるとは到底信じられなかったというだけのことである。思うに十分に知的な存在はすべて同じように思考し同一の技術的な解決手段に至るはずではないのか?
 いや、おそらくこのメッセージはこの大胆かつ不敬きわまるはかりごとの協力者たるわが友人たちにのみに伝えるべきものではあるまい。ことここに至っては敵味方を超えすべての同胞にこそ届けられるべきである。そしてまたいつの日かわたしの後に続く勇敢なる者たちが現れたときこの報告の内容が彼らを導く手堅い道標となることを願うべきなのだ。それゆえまったく予備知識を持たぬ者たちにもこの未曾有の挑戦をわたしが何故おこなうことになったのか、十分理解できるようにそもそもの発端から話をはじめるのがよいかもしれない。

 わたしの名はラヴラ・エタン。ナル高原北端のエタン洞の生まれである。わたしの群体としての経歴はわが毋体にして洞の長たるライラ・エタンが類族の合意に反して分体したことに始まる。当時エタン洞は絶えまなく宿敵キヴォガンの侵攻の危険にさらされており、そんな折りに将兵を束ねるべき領主が分体の危険に身を晒すことは立場をわきまえぬ無思慮と断じられてもいたしかたないところであった。衆知のごとく各世代を通じて蓄積されたベオーブの知識は同一群体の世代交替に関しては保存されるが分体の混乱のなかではしばしば失われる。もしライラがこれを強行すればエタンの領主が経験と知識を失った無力な二群体となる十分な危険があったのである。
 当時も今もエタンの花蜜の生産は漸減しつつあり分体によって洞の群体数を増やすゆとりはなかった。それゆえなぜライラが類族会議を敵にまわしてまであえてそのような賭けに挑んだのか、わたしは毋を思うたびにその心を推し量ろうと努めてきた。いま思うにあるいは彼女は言葉にできぬ啓示とでも呼ぶべき何かに触れていたのかも知れぬ。知識は世代を超えて保存されるからこそ次第に揺るがし得ぬものとなっていく。なるほどそれは現実的な諸問題を解決するには有効であるものの、それらを抜け出てまったく別の道筋を示してはくれない。それゆえに無垢なる心とそれを育む体験とがエタンの巣に新たな転機をもたらしうるのではないかと……。かかる『創造者の御子』への信仰は古くから民の間にもある。そして恐らくは毋をしてそうした淡い期待に縋らざるを得ぬほどまでに、あの時エタンの洞の置かれている状況は抜き差しならぬものがあったのであろう。
 しかしそうして彼女とは別の意識群体として目覚めたわたしはあろうことか雄体不妊の運命を背負っていたのである。新たな可能性を切り開くべく産み出されたわが産卵体は皮肉にもそれ自身はついに雄性卵を産み出すことはないのだ。それはわたしが生涯をかけて貯えた知識がわずか一世代のうちに消失するということを意味した。なんというそれは不条理であろうか……あるいはこの事実はわが毋ライラ、というよりその記憶を受け継いだ分体姉ラヴィラをひどく困惑させたかも知れぬと思う。健全なベオーブには理解しようもない底知れぬ無益さと空虚さ……それがわたしが一生をかけて負うべき軛であった。そしてそれはまたわたしの敵たちが指摘するようにこの野望を押し進める『呪い』でもあるかも知れぬ。とはいえそのことをもって毋体を恨む気持ちはないし、まして一部の者が喧伝するごとくすべてのベオーブに対してわたしが密やかなる憎悪を抱いているなどということは断じてありえない。虚無のうちに漂う単なる可能性としてではなくライラの決断のおかげでわたしはこうして現実の世界に存在できるのであり、つぎの世代に自らの知恵を受け渡す責任のない単独者であればこそかかる無謀なる挑戦もまた可能であったのである。
 しかしいずれにせよわが母ライラの願いは果たされぬ宿命にあった。わたしが物心つく前にエタン洞はキヴォガンの侵攻を受け、姉ラヴィラは戦闘のなかに解体し故郷を追われたわが種族は諸洞をさすらう流民と化したのである。花蜜の乏しい世界で巣洞を持たぬ民の暮らしは厳しいものとならざるを得ない。ある者は開花期を渡り歩く花蜜集めの雇い女となり、またある者は傭兵となって諸洞の民の身替わりに闘うこととなったであろう。もっとも目端のきく富裕な階層のうちには諸侯に金を貸し付けることで首尾よく多額の利益を得た者もいたと聞く。世の常にもれずわれらが類族からもこうした『卑賎なる職』に転じた幾体かがあったのである。
 一方このわたしはと言えばいまだあまりにも心幼きがゆえに、わが身元を引き受くべき類族らは話し合いのあげくこの孤立者を『創造者』のみわざを称え極める聖なる地に置くがよかろうという合意にいたった。むろん他に選ぶべき道とてなかったのであるが、この判断には思うにわれらが領主への鎮魂の意もこめられていたはずである。
 だがそうしてタジクの大僧院において一僧侶として修行を始めて数年たち、ようやくおのが立場を顧みるだけの分別を持つにいたったとき、自らが励むべき道に必ずしもふさわしい存在ではないのではないのかという疑念がしだいにわたしを悩ませるようになっていった。上古の知恵を学ぶことにかけては誰よりも優秀である……のみならず前例がないほどに優秀であると周囲には認められつつも実はわたしには僧としての致命的な欠点があったのだ。どうやらわたしには同僚たちが持つ敬虔なる信仰心が本質的に欠如しているようなのである。

 当時のことを思い起こすたびにわたしの目には僧院の一翼に聳え立つ西の塔の最上階から望む荒涼とした風景が浮かぶ。展望スクリーンを通じて眺める大地は地平に至るまで平坦でひび割れ、あらちこちらに奇妙な傘を拡げた柱が黒いシルエットとなって佇立していた。頭上には炎天が揺れ動き世界のすべてを微かに赤味がかった黄色に染めあげている。この生きるものとてない静謐たる情景のなか、ただひとつ『丘』の不規則な稜線だけが幾何学的な単調さを破っていた。その段状の丘陵は無数のドームや塔や多面体からなる奇妙な構造で埋め尽くされていたからである。どうやらこれらの建築物はそれ自体が自律的な機械であるらしく内部への何者の立ち入りをも拒みつつ歴史の黎明期より不可知の機能を果たし続けていた。そしてわれらが『創造者』への信仰を束ねる大僧院が位置するのもまさにこの聖別された土地のなか僅かにベオーブに知られた領域にすぎないのである。それゆえ僧侶たちの生活の場を一歩出れば、広大な『丘』の内部を縦横に走る迷宮の薄闇と悠久の過去からつづく寂たる沈黙とがそこをさすらう者を待っていた。にもかかわらずわたしは修道女としての多忙なる日課の暇を盗んでは好んでこの塔の小部屋でつかのまの孤独を得、自らの運命についてしばし瞑想の時を過ごしたのである。
 しかしそうした密かな楽しみでもあった習慣はある日突然、わが指導僧であるキチラ・リベニ長姉の声が背後から聞こえるにおよびもろくも破られることとなった。
「あなたは毎日ここで何を観察しているのですか?」
 わたしはあわてて映像装置を切ろうとしてうっかりスイッチを押し間違えたために、この展望室の円形の壁すべてに外界の景色が一度にうつしだされることとなった。
「早く映像を消しなさい!」
 炎天の眼を晒していられぬほどの光量が部屋に満ちていた。手探りで装置を止めるといきなりそれらの光景は消え、わたしは薄闇のなかほとんど盲目の状態でリベニ長姉のつぎの叱責の言葉を待った。
「『創造の丘』においては過剰な好奇心は身を滅ぼすのみならず他者にも危害を及ぼす、とあなたには教えてあったはずです」
「……はい、長姉さま」
「ここにある古代の装置はほとんどがその使用方法がわからないものばかりです。愚かな修道女がうっかりスイッチをいれたがために取りかえしのつかぬ結果が生じたという事例は過去にいくらもあるのです。あなたもそれは知っているはずですね?」
「はい」
「そうと承知していながらなぜこの部屋の装置を動かしたのです?」
 わたしは『創造者』たちのためのふたつの座席とこの年長の指導僧の間に挟まれて進退きわまり、自らの保護殻のなかに永遠に閉じこもりたいという強い衝動にかられていた。
「危険はないかと……」
「危険がない? なぜあなたにそれがわかるのです?」
 ためらった後にわたしは正直に答えた。
「……これらの装置をながめているうちにふと閃いたのです。この部屋は天空に何かの物体を射出したり回収したりするための管制を行う場所ではないかと。……例えばあの長大な溝はその物体を加速する装置です」
 わたしは相手が止めようとする前に素早くスイッチのひとつをオンにした。それはこの『丘』の東から地平線へまっすぐ延びる大地に刻まれた細い溝の映像をスクリーンのひとつに映し出した。
「この射出装置は恐らく別の場所でコントロールされます。なぜならそれらの動力は巨大なものであるにちがいなく、専門に制御にあたる者たちのための場所がどこかに置かれているはずだからです。当然そことの間に通話用の回線があるはずで、たぶんあの制御卓にある装置群がそれではないかと……」
「やめなさい!」
 リベニ長姉の低く怒りのこもった声がわたしの説明を封じた。
「いま喋っていることが不敬の極みであるとは気づかないのですか? あなたの言葉の意味するところは『創造者』のみ心をすべてわれら被造物が推し量りうる、というはなはだしく高慢な思いあがり以外の何ものでもないのですよ!」
 わたしは沈黙した。なぜならそれこそがまさに常日頃みずからの内心のうちに密かに感じている疑問にほかならなかったからである。
「以後、この部屋に立ち入ることを禁じます。そして百日の間、みずからの不敬への罰として『流率変数の座標変換』に関係する聖典を写本なさい」

 当時わたしの聞かされた教義はおよそつぎのようなものであった。……宇宙は開闢の当初から無限の炎に包まれていた。『創造者』の意志はそのなかに大いなる空洞を押し開かれこの球状の虚空の中心に同じく球形の大地を置かれた。そうして『創造の丘』に降臨され、われわれの生命の種をその地に播かれた。やがてこの楽園に生まれた生命たちは自らの創造者をまねて洞を穿ち地の底に満ちたが、いつしか望ましからぬ知恵を持つようになり互いに傷つけ殺しあった。そこで『創造者』はおのれの被造物にいたく失望し、この邪悪な種族を滅ぼすことを決意されると天なる炎をもて地を焼かれた後別の世界をふたたび造るべくこの世界から去られたのであった。しかし地の洞にあってすべて滅ぼされたかに見えた生命のなかにわずかに生き延びた存在があった。その者たちは次第に数を増やし、やがてふたたび至上の知恵の一部を理解しはじめ、今日の世界の成員であるわれわれとなった……。
「それでは『創造者』はいずこへ行かれたのですか?」
 ある日わたしは別の指導僧にそう尋ね、彼女はおごそかな口調で答えた。
「われわれには知り得ぬ無限の炎の彼方です」
「知り得ぬものが無限であるとなぜわかるのです?」
「なぜなら『創造者』の力は無限だからです。彼女がその無限の力を発揮する場である宇宙もまた無限です」
「失礼ながら、長姉さま。その論理は無意味な自己言及に聞こえますが?」
 相手はしばらく体光を明滅させつつ忍従の誓いの祈りを唱えているようであった。
「……『創造者』はこの世とわれらを創造したが故に原理的かつ絶対的にわれらより偉大です。それはわれらの有限な心がおしはかるところより『創造者』の実在のほうが大きいということを意味します。しかるにわれわれは数学的に無限を思惟可能です。よって『創造者』の実在は必然的に無限でなければなりません』
「それではその無限の力を持つ存在がこの世界とわれわれを創造したという証拠はあるのでしょうか?」
 彼女はもはや忍耐も限度といった調子で気脈口から強く噴気をもらした。
「ラヴラよ。おまえの考え方にはつねに懐疑の影がにじんでいますね。『創造者』が存在しないということはあり得ません。なぜならわれわれを活かしているすべての諸装置は自然には形作られるはずがないからです。それらなしに大地には何一つ生きうるものはないでしょう。それこそが彼女がわれわれを慈しんでいる証拠です。だからこそいつの日かかならず『創造者』はわたしたちの世界に再び降臨されるのです。その時われわれが彼女の望まれる姿でお迎えできるようにするのが、われら僧侶の神聖な務めと知りなさい。『創造者』への愛を伴わずただその存在を思弁的に理解しようとする態度は傲岸であり基本的に間違っています。不合理であるからこそわれ信じる……それゆえ今日の残りの時間をそう唱えて過ごすことを命じます」

 わたしはこの『創造者』による世界の創造を思い描こうとした。無限の炎……まあ、それはあながち否定はできない。なにより地上に出て頭上を仰げば地平の端から端まで揺れ動き燃え上がる空一面の炎が眺められるのであるから。……そして彼女はその内部に球形の空洞を穿たれた……だが、いかにして? 『創造者』の残した道具のなかにそのための装置が残されているのだろうか?
 確かに『丘』や大地の洞を満たす『創造者』の遺産は多種多様であり、ほとんどの作動原理はわれわれには理解できない。とはいえそれらが明瞭な物理法則にもとづいて設計され製作されたものであることは疑う余地はない。昔からこうした諸装置は研究されつくし今日では一部の単純なものならわれわれによって模倣され製作もされているからだ。あきらかに『創造者』がおのが力を発揮するときは奇跡ではなく物理的相互作用に基づく現実的な手段をもちいたのである。
 しかし無限の炎の中にいかなる物理力を用いて孔を穿つというのだろうか? そのときのみ彼女は奇跡的で神秘的な力を発揮したとでもいうのだろうか? そうした超越的な力の使用についてのいかなる証拠があるだろう? 否、存在を不必要に増大させる仮説は思考の経済原則に反する。むしろ『創造者』はわれわれ同様、その力を行使する場合はつねに物理的法則の限界のなかでのみおこなったと考えたほうがよい。
 なるほどかつて地上が灼熱の炎に焼かれたのは事実であろう。気密の服をまとい炎天の下に出て地表を詳しく調べた僧らの報告によりそれらが非常な高温によって変質していることがわかっているからである。しかしそれが超越者による罰であるという証しは一切ない。そうした説話はあくまで口承された神話伝説のたぐいにとどまっているのだ。
 今日天の炎がわれわれを焼き滅ぼすほどの高温でない以上、いちばん自然なのは長い時間のうちに宇宙全体が次第に冷却していると仮定することである。しかしそうするやいなやつぎの疑問が心のうちに頭をもたげてくる。われわれにとって望ましいこの状態は果たしてこの後長期にわたり安定しているのであろうか? いや、そう望むのはあまりに都合がよすぎるに違いない。むしろわれわれが備えるべきは長姉らの唱えるごとき何時をも知れぬ『創造者』の降臨ではなくいっそうの寒冷化によって大地のあらゆる生命の存続が脅かされるという由々しき事態であるのかも知れない。もしそうであるのなら、たとえそれが遠い将来のことであるにせよ今から万端怠りなく備えておくにこしたことはないはずである……。
 こうした考え方が僧会の教えから見て異端であることは明白である。だがわたしは世の権威ではなく自らの理性のほうを信じたいと願った。とはいえ同時に他の僧たちにこれが後継世代を持たぬ孤立者の心の歪みからくる脅迫的なる妄想ととられうることもまた十分に予想できた。それゆえわたしはわが懸念を声高く唱えぬように自重し、ごくごく親しい者だけに遠回しに暗示するのみにとどめたのである。



 第一日。すでにわたしを乗せた気密缶は引きずり下ろそうとする大地の引力に打ち勝ち、ただひたすら燃える天めがけて上昇していた。打ち上げの瞬間の恐ろしい音と振動、さらに息詰まる圧迫感は到底忘れ得ぬものであったが、それらの衝撃を受け止めわが身を守ってくれたおびただしい詰め物の中からようやく這い出してみるやいなやさらに驚くべき出来事がわたしを待っていた。すなわち自らの体がまるで微細な花粉のごとくに気密缶内部の宙に漂ったのである。もちろんこうした現象は当然ながら事前に予想はしてはいたのだが、いざ実際に自身にふりかかってみるとその奇妙な感覚はとうてい筆舌にはつくしえぬものがあった。それが根拠のない本能的恐怖にすぎないことはわかっていても、わたしはあたかも液体中におけるごとく全身が結合力を失って散逸する不安を強く感じざるを得なかった。
 そしてまたこの奇妙な状態は地上でならごくあたりまえに遂行できるはずの作業に思いもよらぬ困難をもたらしもした。この打ち上げにともなう試練が万事無事に終わった時点でわたしがまず行おうと思っていたことは気密缶の壁にある覗き窓から外を観察することであった。しかし万一の破損に備えて窓を被っているカバーを外そうとしてわたしは最初の問題に直面した。その金属の板はごくありふれた螺子で窓枠にとめてあるのだが、重さの欠如した状態で螺子を捩るのが少なからぬ難事であることをわたしはまったく予想していなかったのだ。螺子を捻る力でわが体は逆に回転してしまいその場に踏みとどまろうと拡げた偽足は空しく金属板の上を滑るだけであった。もしこのつぎ気密缶を設計する機会があればこうした部分の留め金は是非とも上下に跳ね上がる形式にしておくべきだろう……とはいえ、すべては遅きに過ぎるというものではあるが。
 ともかくもしばしの奮闘のすえ自らの身体を細長く伸ばし手近の支柱に絡めるという僧侶らしからぬ不定形かつ不体裁な姿で最後の螺子を捩り、わたしはようやくそのカバーを外すことに成功した。
 そうして……初めて見たあの光景を何と表現すべきであろう? いまだにわたしはふさわしい言葉を見い出しえない。眼下に広がるすべてはあまりにも明瞭であり天球の影なき照明のなかで信じられぬほど細かいディテールまでがわが眼に飛び込んでくるのだ。想像してほしい……大地のすべてがまるで精密な蜜蝋模型のごとくに覗き込む窓の外に広がっているのである。
 わたしの乗る気密缶は設計どおりその長軸を地表に向けてゆっくりと回転していたからその驚くべき眺めもまた方位の順序で移り変わっていった。最初のうちそれは微かな丸みを帯びた扁平な円盤とも感じられたが、しばらく見まもるうちに地表の様子が変化していくことで大地という巨大な球体が緩慢に眼下を回転しているというまぎれもない現実をあらためて思い知らされるのであった。むろんそれはこの気密缶がいまだ誰ひとり達成したことのない猛烈な速度でその上空を飛行しているからに他ならない。
 そうした壮大な眺めを前にして、ここでいまひとつの疑惑がわたしを捉えた。確かに現在の速度なら地表への再落下の心配はあるまい。しかしはたしてわれらが球形の大地を周回する軌道から脱するにたる速度であろうか? あの電磁加速装置が計算どおりの加速をこの缶に与えられたかどうかを判断するすべはない。あるいはわたしは長い楕円を描いて空しく永遠に大地の周り回るだけかも知れないのだ。
 ……いや、それならばそれでもいい。わたしは思いなおした。こうして誰ひとり眺めたことのない絶景を目前にしているだけでも十分満足すべきではないか? ……とにかく生まれ育った巣洞に何ひとつ貢献できなかったわたしがいまや種族の未来へと至る道を自らの力で切り開きつつあるのである。

 すべては……いまとなっては遠い昔と感じられるあの日、わたしがサグラ・ドムナ長姉の部屋を訪問したことに始まる。この伶俐でありながら傲慢な見習い僧をどうしたものか思い倦ねた上級僧たちが、いわば毒をもって毒を制するの喩えどおり同じく風変わりな考えに取つかれているこの老僧とひき会わせてみたら如何と考えたのだ。もしわたしがまんまとこの教導師の弟子に納まれば好都合、やっかいものふたりを同室に閉じ込めておけるというわけである。
 しかしドムナ教導師はわたしの存在を完全に無視し、わが型どおりの挨拶に反応らしい反応もなく自らの前に立てた書物筒の影に半ば隠れて古代の神聖文字の羅列にじっと見入るのみであった。しばらくなすすべもなく途方にくれていたわたしが、しかしやがて意を決して宇宙の寒冷化についての自説を披露し始めたのは、すでに自身この偏屈な老僧に何か予感するものがあったためかも知れない。
「……ここ千年ほどのうちに少なからぬ洞が放棄されております。一般にはそれらは『創造者』の諸装置が老朽化したためと言われていますが、愚考するに本質的な原因はむしろ炎天の力そのものがわずかづつ衰えていることにあるのです。われわれの受光装置は十分な電力を作り出すことができず、それゆえ通風や気温調節の稼動能率が低下し、それら地表に近い階層は乾燥により蜜花の耕作に適さぬ状況にいたったと思われます。もし、このまま手をこまねいていれば次第にわれわれは大地の下へ下へと退いた結果、数十世代を経ぬうちに絶滅の運命にいたるやもしれません……」
 わたしの話をしまいまで聞いてからも、この見栄えのしない老教導師は長い間沈黙のうちに書物を筒から筒へと巻き進めていた。それから半時ほどたって、さすがにわたしがしびれを切らしていよいよ退室したほうがよいのだろうかと考えはじめたとき、初めてこの隠者は重い口を開いたのだった。
「……おまえさんは若くして子をなしえぬという例の修道女だね?」
 彼女はわたしの保護殻の中身を見通すごとくとっくりと眺めてつぶやいた。たぶんそれは普通なら不快な言辞なのだろうが、その時この僧にそう言われれたわたしはなぜか不思議と腹は立たなかった。今思えばおそらく彼女自身わたしに似た境遇のうちにあるために、その言葉に侮蔑や偏見が込めれらていないことがなんとなく感じとれたためかも知れない。しかしその次ぎにこの老教導師が尋ねた言葉は返答に窮するものであった。
「もしもこの世界が寒冷化の果てに死滅の運命にあるとしても……孤立者たるおまえがいったいいかにしてそこに住む者たちを救おうというのだね?」
 確かにこの反論は予期したものではあったが答えるには現状ではあまりに不確定な要素が多すぎた。くわえて通常こうした質問はわたしのかかる懸念を揶揄するものであるのが普通だった。もしこれが他の同僚からの問いかけであればわたしは迷わずそれに応ずるにすこしばかり辛らつな質問をもって返したことだろう。
『確かにわたしは一代限りの存在ですから遠い未来のことを案ずるのは愚かかも知れません。ひるがえって自らの系列が永続しうるあなたがたが何故打開の策を探るかわりにただ座していつとも知れぬ創造者の降臨を待ちつづけるのです? 一時はわれわれを見限り焼き滅ぼそうとした彼女が都合よく世の終わりに間に合うよう戻ってきてくれるという保証がどこにあります?』
 しかしこの老僧の口調のなかの何かがわたしに正直な答えを選ばせた。
「……わたしには今のところ具体的にどうしたらよいものかわかりません。だからこそこの事実を世に問い、わたしより優れた知恵を持つ方々に教えを請いたいと願っております。ただひとつ確実なのはわれわれはいつまでもこの大地にしがみついているわけにはいかないだろうということです」
 他の者たちのように嘲笑することなくドムナ師は無言のうちに背を向けると薄暗い部屋の隅に這い進んでいった。
「その若い体躯であればこれを持ち上げるのにそれほど骨はおれるまい。……悪いが、こいつを取り出してもらえるかな?」
 彼女はそこに積まれた埃まみれの記録瓦の山のふもとに近い一枚を鈎杖でこつこつと叩きながら言った。わたしはしばし躊躇いとともにその堆積物を見つめていたが、やがて意を決して重い瓦をひとつづつ取り除く作業にとりかかった。そしてようやく取り出した古びた瓦を教導師の前の床に置くと、彼女は専用の帚でその表面に付着した埃を入念に払い浄めたのちおもむろにわたしをさしまねいて言った。
「神聖文字がどれほど読める?」
 わたしは現れた古の文字を眺めた。どうやらこれがこの教導師の弟子になれるかどうかの資格審査ということらしかった。『創造者』の諸機械が作動するさいにしばしばそのスクリーンに提示する神聖語についての多少の心得なら僧となって日は浅いながらもわたしにもあった。偽手で瓦を慎重に持ち上げ比較的明るい壁に立て掛けるとわたしはそれらの文字をゆっくりたどりはじめた。
「これは帝政時代の税の記録のようですね。最初の行は……ミアパスの蜜蝋二十樽。ジリの花粉十袋。……ニアンの装飾羽が一かご。……豊かな洞が想像されます」
「一番最後の品を読んでみなさい」
「リューマ蜜酒……四樽。貴重品です。リューマは最良の条件にある洞でしか花をつけません」
「だがそこに記されているようにこれはシエノンの支脈洞のある村の納めた年貢の記録なのだ」
 わたしは急いでそれを確かめ、押さえ切れず高ぶる声で言った。
「こんにちあの土地が産するのはわずかにグラの根茎のみ……これは動かぬ証拠です。かつて豊富に花蜜を産していた土地がいまではすっかり痩せてしまっている。あきらかにわれわれの世界は衰退に向いつつあります」
 しかしドムナ師はやれやれといった調子で体光をゆれうごかしつつふたたび部屋の片隅へと這い進んでいった。
「おまえはわたしを陥れるべくよこされた者ではなさそうだな……」
「もちろん違います」
 わたしは否定し、さらに自嘲的な口調でつけくわえた。
「……むしろわたしは長姉さまたちからは疎んじられているようです」
「そんなたわ言を言っておれば当然のこと」
 わたしは微かな失望を感じつつ反論した。
「……お言葉でございますが、わたくしの言ったことは決してたわ言では……」
 老僧が気脈口を痙攣させるように笑ったのでわたしは驚いて沈黙した。この隠者に笑うことができるとは想像だにしていなかったのだ。
「さてさて、どうかな? お若いの。それでは百戦錬磨のつわものどもを相手にはできぬわ」
 ふりむいた教導師の偽手には紐で閉じられた地竜虫のなめし皮の巻筒がにぎられていた。
「これを他の者に見せたことはない。まこと『創造者』のみ心は測りしれぬ。かかる日がこようとはの……かまわぬ、封印を切って拡げて見てみるがよい」
 わたしは彼女が投げよこしたそれを受けとり、こわごわ蜜蝋の封を開いた。
「ドムナさま、これはいったい?」
 暗い部屋の隅からわたしを値踏みするように眺めながら彼女は答えた。ようやく目が闇に慣れてきたわたしは老僧の体表を構成する構成体のほとんどが腐食性の菌類に蝕まれていることに気づいた。罹患した多数のそれらをあえてそのまま使役しているということで彼女の産卵体がすでに以前から新しい個体をまったく産み出していないらしいことがわたしにも想像できた。
「……世俗の頑迷さを打ち砕くには不本意ながらこちらもはかりごとをもってむかわねばならぬ。さもなくばおまえのその先見も狂気のたわ言としてしか世に記憶されぬであろうよ」
「はかりごと……と申されましたか? 長姉さま」
 それには答えず偽手に持った鈎杖で彼女はわたしが床に拡げた図面を指ししめした。
「この波線が何を意味するかおまえに想像できるかな?」
 それはまるで狂った線形虫がそこら中はいずりまわった軌跡のようだった。
 わたしは気脈口を収縮し偽手をまるめ、自分には見当すらつかぬむねつたえた。
「これは『創造者』の残したある太古の装置によって観測された記録の写しだ。わたしがまだ若い時分にその場所を偶然発見してな。のちに少しづつ修復してようやく近年作動するところまでもってきた。しかしもはやわたしはこの歳では結果を役立てることはできそうもない。ゆえにやむなく秘匿しておった。注意して見るがよい……この図の横軸は方位を、縦軸は電波の強度を示している」
「『電波』……?」
「光の本質が電場と磁場の相互作用によって真空を伝播する波動であることは知っておろう?」
「は、はい。もちろんでございます。それらはもっとも基本的な聖典に数理的に記述されております」
 わたしはこの老僧の精神がどれほど健全なのか急に不安になりつつ答えた。彼女の病がその心までをも蝕んでいるという悪意ある噂を思い出したからである。
「電磁波はわれらが感知しうる可視光線よりはるかに短い原子以下の波長の高エネルギー輻射から逆に数身体長の電波までを含んでいる。おまえの言う炎天が衰えるという現象はとりもなおさず電磁波のうち高エネルギーの要素、つまりわれらの目に青みを帯びて映る波長以短の成分が減少していることに他ならぬ。とはいえ……そもそも永遠の炎に囲まれた空洞が寒冷化するというのはいったいいかなる仕組によるのか、自ら納得のいくようおまえは説明しうるのか?」
 どうやらドムナ教導師はこの問題についてすでにわたしより遥かに周到に考察しているらしかった。言葉につまったあげくわたしは正直に告白した。
「もうしわけありません。漠然と奇妙に思っていましたが、これまでそのあたりをつきつめて考えたことはありませんでした」
「……考えるべきであったな。熱的平衡はおまえの考えているように単純なものではない。炎天がすべての波長の電磁波を注いでいればむしろ大地はまたたくうちに生命の生存を許さないほどの高温になってしまうだろう。そうならないためにはそれは自らの内の熱を特定の波長に変えて絶えまなく放射しなければならぬ。いわば天の炎には『窓』があるのだ。さまざまな証拠からその波長は標準的な結晶格子間隔の八千倍以上の範囲と想定される。そして……もしもわたしのこの推論が正しいのなら十分波長の長い電波のみを感受する目で観測した空は暗く見えねばならぬ……この図はまさにそれを記したものなのだよ」
 わたしは図面を見つめ、体表の構成体たちの刺針がにわかに逆立つのを感じた。
「……あなたは横軸は方位であるとおっしゃいましたね?」
「いかにも」
「不思議です。ほとんどの方位で値は無視できるほどのレベルなのに、ある方位にかぎり急激なピークが見られます……」
「さよう。のみならず仰角においても極めて狭い領域への集中が見られる。つまり、われわれの大地はおおむね炎天のあらゆる方向に向けて長波長の電磁波を送りだしているが、そのうちのごくごく狭い一点からだけは逆に大地に向ってそれが送られてきているのだ。さて、お若いの……いったいこれは何を意味すると考える?」
 わたしはそのとき高圧電流に触れたような衝撃と興奮とともに、この風変わりな老僧との出会いが自らにとって宿命的なものであるのかも知れないという予感を自らのうちに強く感じていた。



 第3日。わたしが独占しているこのささやかな世界は縦三体長、横がその半分ほどの円筒である。百幾十日にもわたるであろうこの旅にはいかにも手狭な空間ではあるが、重力を欠いた状態であればさほど窮屈というわけでもない。むしろ僧院の暗く湿った私室よりははるかに快適と言えるだろう。わたしの呼気は『創造者』のそれを真似て作られた天の光で働くからくりが浄化し、花蜜は極く上質なそれをある友人たちが密かに準備してくれた。唯一ないものはこの驚くべき経験とその感動をともに語りあう相手であるが、これはまあいたしかたあるまい。気密缶に搭載した伝達装置によってわたしのこの言葉が故郷の者たちにつつがなく届いていることをもってよしとすべきであろう。
 眼下の眺めは相変わらず驚愕の一言につきるが次第に見通せる範囲が狭まってきているのは残念である。観測窓は気密缶側面に開いているが円筒そのものはつねにその長軸を大地に向けようとする。これは大地が引き寄せる力の大きさが距離によってわずかに異なるため起る現象であり、そのためいわば『真下』に位置する地点を缶の内部から見ることができない。当然ながら気密缶が遠離るにつれて地上の観測できない範囲は拡大する。とはいえ十分な距離をおけば大地の呪縛から解き放たれてふたたびその全景を見ることができるはずである。
 それ以外の方向はすべて燃え上がる天の炎に取り巻かれている。これらの炎の渦巻き震え波打つ様は地上から観測するのとまったく同様でありわたしの期待するような変化の徴候は少しも現れてはいない……しかしまだ旅は始まったばかり。わたしの計算ではそれらが観測されるのはまだ当分先のはずである。
 懸念していた軌道の問題はどうやら杞憂に終わったらしい。あらかじめ定められた時間に地上の目印を測量することにより、気密缶が着実に大地から離れつつあることを確認しわたしはすこぶる満足した。これはまさに自らの仮説が正しかったことの証しである。すべての計算と準備は抜かりなくわたしを唯一の軌道へと送り込んでくれたわけだ。
 ……もっともわが学説を十分に知り得ぬ者はこれが無意味な言いまわしであると断じるだろうし、わたしの狂信をいよいよ証拠づけるものと考えるに違いない。地上の一点がどうして何かの基準になりえるのか? 大地が不動か、あるいは回転しているのか、という議論は昔から空虚な思弁の例としてとりあげられてきた。それらは座標のとりかたによっていかようにもなる、と識者は言う。さらにまたこうした者たちはなにゆえわたしが旅立ちの時刻にあれほどこだわったのか理解に苦しんでもいることだろう。大地の回転という表現が意味をなさぬのであれば、天球上のすべての方角は等しい資格を持つ。物体が射出される時間や方向にはなんの物理的区別もない。にもかかわらずわたしは気密缶に最大効率の加速を与えるべく特定の時刻に電磁加速装置を作動させるべきことを強く主張したのである。とはいえわが先見を過大に評価してはならない。わが師の発見とともに『創造者』たちがあえてその加速装置の軌道を東に向けて設置しているという事実がわたしをして必然的結論に導いただけのことである。彼女らにとって方位は単に地政上の便宜ではなく動力学的な意味をも持っていたのだ。必ずしもわが説に賛同せずとも友人たちがその段取りを整えてくれたことにいま感謝したいと思う。
 しかり、わたしは天空を横切るにあたって自らの航路を十分に承知しつつ進んでいる。これは気密缶の外壁にあらかじめ設置したもっとも重要な観測装置の働きによるものである。歯車によって回転と傾きとを制御しつつ、その装置が増幅し音に変換した天上の呼び声に耳をすませることで、わたしはおのれの軌道を掌握する……もういちどだけ申しのべるがこれは妄想ではなく物理的な事実である。
 とはいえこの装置の原理を発見したのはわたしではない。実のところわたしはたた『創造者』が数百倍のスケールで実現していたものを小さく粗末な雛形として模倣したにすぎないのだ。……そう、はじめてそれを見た日のことはいまでも昨日のように鮮明に脳裏に浮かべることができる。

 わたしは荷物の重さに喘ぎながら教導師の鋏が指す方角を眺めていた。そこにはなんの変哲もない岩壁があるだけだった。
「ここだ。ようやくたどり着いたな」
 四体の屈強な『従者』たちに背負われた輿から這い下りつつ老僧は妙に機嫌よく言った。途中の村で雇った農夫たちとはすでに最後の階層へ登る地点で別れていたからわたしは全員の携帯食や天幕や調査のための諸装備をひとり背負って険しい道を辿らなければならなかったのだ。これほど『丘』の頂上に近い場所の気圧はわれわれが通常住まうレベルの半分以下であり、その苦役はわたしの中枢部における思考能力をほとんどうばってしまっていた。そのため目の前にあるものが何を意味するかわたしは咄嗟には理解することができなかった。
「……ぼうっとしていないで早く荷の中からこの石蓋をひき起こすための道具を何かを探し出すがいい」
 ドムナ教導師は目の前の床の上の砂塵を払いながら叱咤した。従者たちは礼儀正しく遠巻きにしたままで側に寄ろうとはしない。わたしはあわてて荷を取り出し、袋の中から天幕の留め金のひとつを掴み出すと彼女が床面の塵を払ってあらわにした石蓋の隙間に差し込んで爪がかりができる位置までなんとかこじりおこした。しばしの孤軍奮闘ののち重たい石の蓋は地響きをたてて傍らに倒れ、師が孔の内部に大量に落ちた砂埃をはらうとそこにほとんど摩滅の跡の見られない入力パネルが現れた。ここに至ってもわたしはその美しい透明板の上に並んだ色とりどりの神聖文字をただ眺めているばかりだった。そんなわたしに老僧はやれやれという具合に構成した偽手を振り、わたし以外の者たちの目から隠すようにして並んだ記号を複雑な順で入力しはじめた。
「……わかったな? この記号の配列は断熱的な系において与えられた熱量を温度で割った値とある未知なる量との関係式になっている」
 老僧はゆっくり偽手を動かしながら僧以外の者には理解できぬ神聖語で説明した。
「……その温度はどの時点で定義されるものですか? 断熱的な系に連続的に熱が加われば当然温度は変わっていってしまうでしょう?」
 わたしは完全にコントロールできていない気脈を通る声で尋ねた。教導師は微笑して答えた。
「ラヴラよ。へたばっていても数理的思考はまともできるようだな。それは厳密には変化率の極限たる流率論のもとに取りあつかわれるべきもの……しかし、その意味するところは単純にして明解だ。つまりこの物理量は系のうちにあるすべてのエネルギーのうちで仕事に転換不可能なものの総量を示している。そしてわれわれの宇宙ではこの量は時間に非対称につねに増加しているのだ」
 それを聞いてわたしは急にしゃんとなった。
「……『創造者』たちはいずれ炎天の質が低下していくだろうことを予想していたはずです。彼女らはそのためにここを用意してくれていたのでしょうか?」
「さあてな、確実なことは何も言えん……それはおまえ自身が確かめるがよい」
 彼女がそう言うと同時に重い岩の壁の一部が後退し横に滑っていった。
「いや、それはもういらない……ラヴラの荷を持ってやりなさい」
 いつのまにかかたわらに従者たちが輿をすえて侍っていた。僧院をでてすぐの洞で落ち合い旅を共にしてきたにもかかわらずわたしはこれらの者たちが喋るのを一度も聞いた覚えがない。師の態度から以前から幾度となくこの遺跡への探索に同行してきた者たちであるらしいことはわかるのだが、単に荷物運びに雇われた平民とは思えぬ油断のない身のこなしぶりが感じられた。
 しかし教導師に従って一歩遺跡の内部に這い入った瞬間わたしの頭からは彼女らの存在は完全に追い出された。そこは岩盤を円形に掘り下げた皿状の盆地だった。薄ぐらい頭上は半球形の白っぽい天蓋で被われ、自動的に点った照明が低い位置からこの空間を照らし出している。周囲にはまったく使用された様子のない古代の装置が整然と並び、広大な部屋の中央に見上げるばかりの大きさの金属の構造物が鎮座していた。わたしはその巨大な装置の形状に目のさめるような興奮を覚えて酸素不足からくる慢性的な虚脱感をしばし忘れた。
「これは美しい機械ですね! いまだかつてこのようなものを見たことがありません。あの巨大な形態は……」
「皿状の部分は幾何学的に非常に精密な放物面になっている。頭上のドームは地表に露出しており、材質は金属ではなく耐熱性のある樹脂の一種と思われる。可視光線には不透明だが長波長電磁波に対してすぐれた透過性を持っているようだ」
 わたしは背後からの声のあまりに力ない調子に驚いて振りかえった。教導師は鈎杖にすがるようにして身を起こしこの『創造者』たちの装置を見上げていた。
「……長旅の疲れがでたご様子ですね? しばらくお休みになられたらいかがですか?」
「かまわぬ。時間がない。じきに気分はよくなろう」
 こと自らの群体のこととなるとこの老僧は頑固一徹をとおした。わたしはしぶしぶうなづくと前方へ視線をもどした。
「……これがあの観測装置というわけですか?」
「装置の基本的な仕組はすでにおまえは学んでいる。いまわたしが教えてやれば操作の方法は簡単に把握できるはずだ」
 彼女はそう言うとふらつきながら部屋の中央へ進みはじめ、師の身体を案じながらわたしもその後に従った。
 周囲の新奇な機械たちの間を通り抜けながらわたしはいくつかの装置の裏蓋が外されて導線が引き出され現在のわれわれの時代の技術で製作されたと思われる回路を納めた函が接続されていることに気づいた。さらに背後を振向くと『従者』たちがおのおの勝手知った者たちのごとくそれらの装置をひとつひとつ点検すべく散っていくのが見えた。
「……教導師さま、あなたが最初にここを訪れたとき、これらの機械は損傷し作動していなかったと聞きおよびましたが?」
「そのとおり。この部屋の装置類は『丘』の他のものとは違って自己再生するほど進化したものではないらしい。思うに『創造者』たちはしばしば単純な装置を故意に残しておくというやりかたを選んでいるようだ。あるいはわれらのような素朴な知性にその原理と仕組を考えさせる目的かも知れぬ。あまりに進化した機械に対してはわれらの分析はまるで及ばぬからだ。しかしそれゆえそうした機械は長い時間のうちに作動不良となる部分も出てくる。『創造者』たちがこれを作り上げてのちどれほどの時が経たことやら? それを考えればこれらを作動できる状態にもってくるまでに数十年程度ですんだのがむしろ奇跡と言えるかも知れぬ。むろんここに置かれた諸装置の原理がごく単純なそれであったことも幸いしたのだが……」
 わたしは近づいて観察しそうした回路を構成する真空管やコンデンサーに見なれぬ印章が記されているのを知った。
「これらは僧たちの手になる製品ではありませんね?」
 しかし、それには答えようとはせずドムナ師は唐突に別の話題へ移った。
「……ラヴラよ。おまえはなにゆえわれわれが時を数えるのに日という単位を用い、さらに日と年の数量関係があのように定義されると考える?」
 わたしは老僧を見つめつつ曖昧に答えた。
「それらは『創造者』たちが定められた単位なのでは? たまたまわれらの体内の蜜流を律する脈拍が約十万拍をうつ長さが一日となるように……」
「それなら一年を日に換算したときになぜあのような半端な数になる? 『創造者』たちの気紛れか?」
「……わかりません」
 当惑しつつわたしは答えた。コントロールパネルと見られる装置への短い階段をよじ登りつつドムナ師はふたたび奇妙なほどはずんだ声で言った。
「例の電波点源が天空を一周する時間がほぼ一日に近いというのは……ラヴラよ、興味深い事実ではないか?」
「はい。確かに……教導師さま。どうぞお気をつけて……」
 確かにそれは心踊る奇抜な考えかたであった。しかし今はわたしはむしろこの老僧の健康のほうに気をとられていた。この遺跡への旅は若く頑健なわたしにさえ厳しいものであったのだ。ささえる偽手の下で教導師の群体は異様に軽く感じられた。
「さて……ここがすべてを掌握する管制席だ。ここにあるアクセスパネルに今度は別の暗号を入力せねばならぬ」
わたしは師のわずかに震える偽手の動きをしっかりと頭に刻み込んだ。
「それはわかります。電磁場を記述する基本的な方程式の一部です……」
『コード確認。パラボラ制御命令を受け付けます』
 急に聞き慣れぬ声の神聖語がどこからともなく聞こえてわたしは驚きのあまり硬直した。
「これは……?」
「驚くことはない。この観測装置を管理する思考機械の声だ」
「思考機械!? ……まだ残っていたとは!」
 衆知のごとく帝国期以前に諸種族の相互の疑心暗鬼に発した動乱の末『創造者』の言葉を伝える思考機械たちはすべて破壊されてしまったと伝えられている。散逸したそれらの教えを収集し整理保存すべくタジクの前身たるアリウル僧会が発足したのはそののちようやく百年を経て後のことである。もし今現在それらのうちひとつでも残っていたなら、ようやく科学技術のとばくちに辿り着いたわれわれがどれほどの知恵を学びとることができるか計りしれない……。
「いや、残念ながらこの声には太古においてわれらを教え導いたというそれらのような優れた知性は宿ってはいない。わずかな命令を理解し実行するのみだ。……さて、ラヴラよ。いまここでおまえ自身の音声によってこれを使役してみるがよい」
「わたくしがですか……教導師さま?」
 老僧はうなづきわたしのために座をゆずった。
「やってみよ。そのためにここまで連れてきたのだ」
「しかし、いったい何と言えば……?」
「痴れ者が……ベクトル数値に決っているではないか」
 教導師の侮蔑したような口調になぜかわたしは突然嬉しくなり、気脈を整えるわずかな間をおいたのちにアクセスパネルに対峙し、かの電波点源を示す座標数値を一気に唱えた。一瞬、声量が十分でなかったかと危惧したが、ほっとしたことにはただちに感情を欠く機械の声が周囲の空間から返ってきた。
『指示された数値に対応する点は現在地平線下にありトレース不能です』
 わたしは傍らの老僧を見た。もの問いた気なわたしの気配を無視して彼女はうつむき黙したままであった。やむなくわたしはパネルに向き直ると続けた。
「……それなら座標原点を指向せよ」
『了解』
 見守るわたしの目の前で岩塊のごとき構造物が動き出した。その静かでありながらも力づよく着実な動きに魅入られ、われ知らずわたしは台座の間際へと引き寄せられていった。美しい曲線を描く縁に淡い陰影をまといつつ仰ぎ見る視野のうちに白亜の皿はおもむろにその角度を変えていき、そしてついに天空の一点……わたしがかつて存在しうると想像もしなかった天球座標原点……を指して停止した。
 否……それは完全に静止してはいなかった! ゆっくりと……目をこらさねばそれと知覚できぬほど緩慢に……この装置はわたしの指定した点を忠実に指し示しつつ動きつづけていたのである。
「おお……」
 感動のためにむしろわたしは囁くようにつぶやいた。
「いまこそ知りました……わが大地が天球に対して永遠に回転しつづけていると。これこそが古来よりの不毛な論争へのこの上なく明確な答え!」
 そう言いつつ師を振向いたわたしは、しかしその場に凍りついた。かの制御卓の前に崩れ落ちたごとく伏す小さな体があるのを見たからであった。
 おそらく小さな悲鳴をあげたに違いない。わたしは走りより、空気の薄い高地で急激に動いたためにひどいめまいにみまわれつつあわや解体しそうになる偽手で彼女を夢中で抱き起こそうとした。
「長姉さま……ああ、なんということ!」
 そのときにはしかし、師の体表を覆う構成体たちはすでに統制を失い蚊柱のごとき無秩序な群れとなって飛散しつつあった。動転し悲嘆にくれながらもわたしは体表に潜り込もうとする一部のそれらがわが身の構成体に取り巻かれ激しく攻撃されているのをぼんやり感じていた。われわれベオーブの系列群体としての寿命は限りないからその死滅の瞬間に立ち会う機会は少なく、これをじかに体験したことのない者もあるに違いない。一言で言えばそれは劇的に進んでいく秩序と構造の死である。まず蜜流から遮断されるとわずかな時間のうちにすべての偽足や偽手を形造る可動構成体は死滅し地に降り注ぐ。わずかに送れて体表を形成する組織構成体もその結合力を失って砂が流れ落ちるごとくに溶け散っていく。それらは体蜜の迸りとともにみるみる床に這い広がっていき、さらにそれに眼柄や中枢深部の崩壊がつづく。もはやわが師の気高い個性を作り上げていた微細なる光のネットワークは永遠に失われ、その活性の源である蜜嚢は裂け、張り巡らされた蜜管は滋養を流失し、体温を調整し酸素を供給する気脈は破断する。群体はもっとも外部の構成体から止めどなく、なしくずしに壊滅していくのである。そうして残された保護殻を抱きかかえ体蜜にまみれて蠢くそれらのなかに呆然と座り込むわたしの周囲を、気がつけばあの謎めいた従者たちがとりまいているのだった。
「ラヴラ・エタンどの」
 彼女らのなかの一体が耳なれぬ訛りのある声で言った。
「ご遺骸を葬したのちにわれらと同道を願いたい。ドムナ様の後継者としてお会いしていただかねばならぬ方がおられます」



 第五日。ついに変化が始まった。いままさに宇宙はわが眼前にその真の姿をさらけ出しつつある。
 大地はすでに炎の天球を背景にして浮かぶ触手の幅のうちに隠しうる円板状の輪郭へと姿を変えていた。わたしはあらかじめ幾度も行った計算によってまもなくこの気密缶が『啓示』の点にさしかかるはずであることを予期していたから前の日より観測窓の外の景色に終日注意を怠らなかった。しかしながら不幸なことには『創造者』ならぬこの身は眠りを必要とする(あるいは『創造者』たちもそうであろうか?)。ちょうど運悪く就寝時間に重なっていたためにわたしはわが学説の真偽を決するという意味で劇的であっただろうその瞬間に立ち会うことができなかった。この日、目覚めた直後の定例観測を行うべく舷側の窓に漂いついてはじめてわたしはその光景を見たのである。
 あまりにもそれが唐突にしかし劃然とした姿で目に飛び込んできたため一瞬わたしは窓のガラスに気密缶の内部の何かが映りこんでいるのではないかと疑った。しかしすぐにそれはあり得ぬと考えなおしこの眺めが間違いなく外部に実在する現象であり期待する心が産み出す幻覚や錯覚のたぐいではないことを戦く自らに言い聞かせた。
 炎天のただ中に生じた漆黒の割れ目……というのが最初の印象であった。そして正直に感じたところを申し述べるならば、その眺めは恐ろしいものでもあった。もはやこう告白しても誰も非難はすまい……わたしは『創造者』たちの超越性をまったく信じてはいない……だが、そうして徹頭徹尾合理性に殉ずる覚悟を決めたわたしの目にすら、炎天に生じた底知れぬ裂け目は宇宙最終の審判のために超常の力の押し開かんとする裁きの間の扉とも見えたのである。何人が心安らかに直視できるであろう? われらが頭上の空がまっぷたつに裂けていく禍々しきその眺めを……。目に見えぬほど緩慢にしかし着実に、その幅を拡大しつつある深くか黒きぬばたまの中にわたしは微かな光の鱗片すら認めることはできない。炎のゆらぐ様に似て明暗の狭間をあいまいに揺れ動き判然とせぬうちに、その縁は燃える天をはっきりと二つの領域に区分する闇の帯となって長大なるその弧をいままさに完成しつつあったのである。
 ゆっくりと観測窓が回転するにつれて眼前に天空の全景が展開していき、わたしはほとんど気脈を働かせることすら忘れてその恐ろしくもまた素晴らしい眺めを堪能した。闇の帯は炎の眩さに彩られる天空を一周しそのただなかに完璧なるリングを形成せんとしている。そしてこの途方もなく巨大な環のまさに中心をつらぬく軸が背後の大地より立ち上がり、わが気密缶が飛翔しつつある虚空を貫き、いまだに観測装置を通してのみその所在を知ることができるかの電波点源へとまっすぐに続いていることを今こそわたしは確認することができたのである。
 ……ああ、わが友よ。わが論敵よ。そして善良であっても信仰の梁に瞳を閉ざされたすべての者たちよ。いまこそ疑いえぬ真実を受け入れるべき時である。宇宙はそのまやかしの等方性をかなぐりすてて永遠の摂理たる壮大なる枢軸をついにわれらが前に示したのだ!
 その瞬間、すべてがむくわれたという思いがわが心を満たした。師の洞察は真であった。そしてわたしは自らは系列を持ち得ぬとしても大地にあるすべての巣洞の民の未来のために、ささやかではあれ何ごとかを成し遂げることができたのだ! 皮肉にもあの僧院の長姉たちによって、この身こそがそれらの命を踏みにじらんとした比するものなき脅威と看做されたにもかかわらずにである……。

「まさに前例なき信仰への……否、知的存在が本質的に持つべき誠実さへの、この上なき裏切りにほかなりません」
 高い段席から顔なじみの僧侶がわたしを見すえながら叫んだ。その体表は恐怖と嫌悪感を示して点り震えていた。
「この者はわれらをたばかったのみならず、わが大地に住むすべての民を裏切り、おのれの欲望のためにその系列の未来を平然と売りはらったのです!」
「リベニ教毋どの。ここは神聖であり厳粛であるべき審理の場です。過度に感情的かつ扇動的な言辞をつつしまれたい……」
「失礼いたしました。議長どの」
 僧会の最高権力者であるサハ大教毋はぐるり周囲を審問委員席に囲まれた谷底のごとき被告席に立つわたしに対し身を乗り出すようにして尋ねた。
「さて……エタン教導師。きみがかの女王あてに出した手紙がここにある。この文面に関してなにか弁明することがあるかね?」
「なにもございません」
 わたしは言った。
「そこに書かれてあるとおりでございます」
 審問会議室はざわつき数人の委員が激高した様子で偽手を振るのが見えた。
「……教導師。きみは幾多の罪状で告発されている。ひとつ、僧としての職務遂行中に知りえた情報を秘匿し故意に僧会への報告を怠った罪。ひとつ、僧院の所持する軍事的に転用可能な技術データを外部に漏らした罪。ひとつ、特定の権力から密かに人的あるいは経済的援助を長年にわたり受けつづけていた罪……等々。これらはどれひとつをとっても僧院の政治的中立の原則を侵しその存続を脅かしかねない由々しき犯罪行為である。にもかかわらずさらに加えてきみがしたためたとささるこの書状には、およそこの大地に暮らす者たちの安寧にとって到底看過しえぬおぞましき野望と陰謀とが記されている。もしもこれが事実であるならいかなる申し開きも御身を救うこととはなるまい。ゆえによくよく考えて弁明の言葉を選ぶがよいぞ」
「ありがとうございます。僧院長さま。しかしわたしは欺瞞によって自らの立場をつくろうつもりはございません。わたくしがあの遺跡を復興させるべくあえてゾイダルの力を借りたことは事実でございます」
「痴れ者め! 己が大罪をまるで悔いていぬかのような言い種ではないか!」
 いずこからか怒声が飛びふたたび委員会は騒然となった。サハ僧院長はグレブ石の杖の握りを幾度か机に打ちつけて静粛を求めた。衝撃によって石は怒りをこらえているかのような青緑色の燐光を発した。
「エタン教導師よ。いま一度尋ねる。この文章はまこときみがしたためたものかね? 『……この加速装置は蜜樽千個ほどの重さを持つ物体を大地を巡る低軌道上に投入することができます。簡単な反動モーターによりこの人工的天体は地上のあらゆる地点の上空を通過すべく軌道修正でき、また同じく地上のどの場所へも落下させることが可能です。ゆえに十分な規模と数の爆発物をこの加速装置を使って軌道上に配備することにより貴巣の政治的影響力はいちじるしく増大するでしょう……』」
「悪魔の所行じゃ!」
 最長老の委員が叫び、僧院長はふたたび石を打ち光らせてひき起こされた混乱を制せねばならなかった。
「静粛に……。いかがかな? 教導師?」
「そのとおりでございます」
 わたしの答えに大教毋は失望したかのように押し黙り、しばし居並ぶ委員たちを眺め回した。
「わが敬愛する委員諸姉よ。審問はこれにて終了する。各員、ラヴラ・エタン教導師の罪の有無を諮り、罪有りと思われるならばそのふさわしき刑を量せられよ」
「有罪!」の連呼が会議室を満たした。最後にリベニ教毋が全員の意見を代表するかのように席から立ち上がった。
「この罪はわが身にも及ぶものであります。なぜならわたしはこの者が修業をはじめた時、その指導の任にあったからです。とはいえ慈悲深き『創造者』のお導きもこの者を改心させるにはいたらなかった」
 リベニ教毋の演説は緩急自在にして群心を掌握するに巧みなものがあった。自らの裁きの場にありながらなお、わたしは次期僧院長の座を狙うこのやり手に対する大教毋の不興の有り様を興味深く眺めていた。
「もはや躊躇っておるときではありません。これは全審問委員の声であります。この教導師に対してわがベオーブすべてへの反逆の罪によりわたしは死を求刑いたします!」
 静まり返ったなかに大教毋が裁きの杖を水平に机の上に置く微かな音が響いた。
「これにて審議は決した。ラヴラ・エタンよ。ここにわたしは審問会議長の権限をもってなんじの教導師の称号をはく奪し、瞑想堂独居房において餓死の刑に処すことを命じる……」

 しかし独居房での生活が五日に及ばぬうちに煉瓦で封印された扉が荒々しく打ち砕かれて数名の兵士が押し入ってきた。護衛されつつ導かれた礼拝堂でわたしは寝込みを襲われ地位を示す装身具すらない姿で佇む高位の僧官たちが武器を構えた多数の兵士たちに厳しく取り囲まれているのを目撃した。そして呆然自失の態の彼女らを祭壇の壇上から尊大な面もちで睥睨しつつ宣じているのはほかならぬゾイダル女王自身であった。
「……われらは略奪者にあらず。いまここに慈しみ深き『創造者』を敬う魂魄の守護者として申しあげる。聖なる職につかれし方々を常日頃よりけがれた瑣事で悩ませしことまさにわれらが不忠にほかならず。聖俗の境のかく揺らぎ失せんとするは古の皇帝たちの絶えて諾わざるところなり。よって本日より僧院の守備および治安に関する庶務はすべてわれらゾイダルの信仰心厚き僕どもが申し受けたてまつる。以後は俗界を離れ心ゆくまで清廉なる祈りと瞑想のうちにお過ごしいただきたい。ご安心あれ。諸姉は丁重に遇される……ゆめゆめ軽挙妄動は慎まれるよう」
 しかし引き立てられつつもリベニ教毋はわたしの前を通るときに憎しみの気脈音を鳴らしつつ喚いた。
「この怪物め! タジクそのものまでをも売り払うとは……しかしたとえわれらが裁きを免れようと『創造者』ご自身の眼は逃れられぬぞ。覚えておくがいい。その汚れた魂が遅かれ早かれ天なる業火に焼きつくされる運命にあるということを!」
 微笑んでその言葉を聞き流しつつ壇上のゾイダル国王に会釈すると、わたしは片隅にひっそりと立つ弟子のゼラに這い寄って囁いた。
「ごくろうであった」
「いえ、わたくしはただパミラ教導師さまのご伝言を運んだだけでございます。……それにしてもゾイダルの電撃戦の迅速なること……」
「想像するに例の新兵器が大いに威力をしめしたのだろう」
 王が近づいてきたのでわたしたちは話をやめて彼女に対した。
「ようこそわが僧院へ。陛下、お待ち申し上げておりました」
「教導師どの。誘導噴射弾のひとつがそれて倉庫の壁に大穴を開けてしまったぞ」
「ご心配なく。あそこにあるのはすべて蜜樽です。僧侶たちが蓄積した記録は瞑想堂の書庫に安全に保管されております」
「ふん……そういえば、かの大教毋どのは蜜酒造りにご執心だったな。ならばさっそく瞑想堂へ軍事技師たちを送り込もう。神聖語の翻訳のほうの手配はすんでおろうな?」
「はい。わたしのもっとも有能な弟子たちがすでに待機いたしております」
「よろしい。……ところで教導師どの。あなたはほんとうにタジク僧院長の地位を望まないのか?」
「前にも申し上げましたように、わたくしはこのままの身分で結構でございます。そのかわり……」
「わかっておる。約したとおりきみの友人を据えることとしよう。確かに影から力をふるうほうが万事好都合かも知れぬ……いっかいの教導師ふぜいならば世間の目を気にせずお楽しみのほうも遠慮なく満喫できようしな」
 必ずしも心地よいとは思えぬ笑いをまじえつつゾイダル王は上機嫌で去っていった。
「……あの食肉蜂の巣めが!」
 私室へ通じる廊下を進みながらわたしは僧侶らしからぬ悪態をつく弟子に言い聞かせた。
「しばらく辛抱せよ。われわれには女王の力が必要なのだ。ともあれいまはかの電磁加速器の復活への道筋を確実なものにせねばならぬ」
「御意……。しかし、わが師よ……」
 さらなる暗がりへ誘いつつ彼女は囁いた。
「われらの助力によってゾイダルはあまりにその力を高めすぎました。これでは他の諸国のつけ入る隙が……」
「その心配は無用だ。軍事技術の独占がいつまでも続くはずはないのだ。かの国の優位は所詮一時的なものにすぎぬ。加えてわが類族には諸侯への軍資金の流れを操るに力ある者が少なからずいることを思い出すがよい」
「エタンどの」
 ふりむくとパミラ教導師が体表全面に嬉々とした光を浮かべ侍っていた。
「どうやら助け船は間に合ったようですな。善哉、善哉」
「この度は生命を救っていただきました。教導師どの」
「とんでもない。微力な自らを恥じるばかりです」
 ゼラはわたしたちにつつましやかに黙礼するとその場から立ち去っていった。
「こうしてわたしのためにあれこれ骨折りくださるあなたをこのうえ危険に晒すというのはまことに心苦しいのですが……」
「わたしを僧院長に据えるというあのご希望ですか?」
「わが理解者は少ない。信頼できる者はさらに少ない。あなたをおいて適任者がいないのです」
 彼女はわたしに触れ親愛の情をこめて言った。
「気になさいますな。エタンどの。わたしは世間からは小心者の傀儡と見られていますのでね。まちがってもこの生命を奪われることはありますまい。むしろ心配なのは時が至ったときのあなたへの処遇だ」
 わたしは明言を避けた。
「すべては賭け……わたしの望みはご存じでしょう?」
 彼女はぽってりとした偽手をもみ合わせつつ悲し気な溜め息をついた。
「あなたの運命はあなたご自身のものですからな……しかし、本当に予想どおりに事が運ぶでしょうか?」
「かの加速装置が完成していればただ一度だけ使用されることは確実と思われます」
「ほほう?」
「すべての者たちがあの装置の能力のほどを知りたいと願っている。所有すれば世界の支配者になれるのかどうか……まことゾイダルの喧伝するようにね」
「合議により破壊されてしまう可能性もあるでしょう?」
「可能性としては……しかし、いまだかって最終兵器を自ら手放した者がいたでしょうか?」
 わたしの言葉に彼女は微かに笑いながらつづけた。
「なるほど、すべては計算ずみというわけですか。ほ、ほ、聡いお方だ」
「いや、そうではありません。わたしはただあるお方のご意志をついだだけ……」
 わたしは地下霊廟の無数の凹みのひとつに納められた僧侶の遺骸のひとつを脳裏に思いうかべながら答えた。それは小さく薄汚れた保護殻であり、その表面には洗浄によっても消えない菌類による腐食のあばたが醜く残されていた。



 第六十二日。もしも大地に住む者たちがわが気密缶外部の光景を眺めたとしたら自らの眼に映じたものを信じることを拒むにちがいない。かの暗黒はいまや全天のほとんどを占めて広がり全宇宙は広大な虚無によって圧殺されんとしているのだ。がらんとした闇のなかで実体として眺めうるものはわずかにこの世界の両極に位置しているふたつの光の領域のみである。それらは観測窓が周転するにつれて真反対の方角にかわるがわる、周辺から内部へと次第に密になりつつ幾重にも重なった細いリングから成る明るく輝く小さな円盤として観測することができる。その中心にあるのはほかならぬわが大地であり、またいまひとつはいまや天の炎を一点に凝縮したごとくに眩く輝くかの電波点源なのである。
 もはや疑う余地はない。わが師サグラ・ドムナが予想したごとく宇宙は巨大なる回転楕円鏡である。そして天なる炎はその鏡面に極端に拡大して映し出されたあの電波点源の小さな表面に発する熱と光なのである。すでにこの舷窓から実像として望むことができるかの点状の光こそがわれわれのすべてのエネルギーの源にして、またわが大地をその引力のうちに捉え周転させつづけている超質量『天体』すなわち『太陽』にほかならない。
 わたしはここに確信を持ってそれを『太陽』と呼ぶ。これは幾つかの黙示聖典で繰り返し使用されわれら僧侶がつねに戸惑わされてきた謎の語句である。それらの奇妙な数理的記述の中でわれわれは二『天体』間に働く質量積に比例し距離の平方に逆比例する『万有引力』について、あるいは『太陽』の周囲を巡る『惑星』の運動諸法則について学んだ。そして僧侶たちの誰ひとりとしてそれらの言葉が本当に意味するところは理解しようもなかったのである。わたし自身、修業僧のときそれらが指し示すべきものについて幾度か指導僧たちに尋ね、そのつどそれらが純粋に数学的な概念にすぎないという答えを得たことを覚えている。……しかし、いまとなって思えば『創造者』たちにとってはそれらはごくあたりまえの実在物であったのだ。それゆえに聖典のなかで彼女らはそれを諸方程式の導出においてなんら予備的な説明なく抽象化したモデルとして用いたのである。
 わたしがいまから説明するまったく新たな世界の見方は、しかし、そうした夢想的なモデルにとまどいつつかの聖典を学んだ僧侶たちなら容易に理解できるはずである。『惑星』たるわれらが大地はその数万倍の質量を有する『太陽』の周囲を回転している。宇宙空間は真空でありこの運動はいかなる摩擦や抵抗にあうことなく理論上は無限に続く。ここで虚空のなかで永遠に回転しつづけるふたつの『天体』を脳裏に思い描き、つぎにこれら二つをその焦点に置く巨大な楕円曲線……長軸と短軸の比がほぼ4対1であるようなそれ……を想像してみてほしい。この図形を二焦点を通る軸のまわりにぐるりと回転したときに出来る回転楕円形状こそがわれらを取り巻く天空世界の真の姿なのである。
 この回転楕円面の内側が高能率の鏡でできていたとしたら……実際、そうであるに違いないのだが……まさにわれわれが大地から天を仰いだときに見える光景が目撃されるであろう。なぜなら幾何光学の原理により楕円曲面鏡の焦点のひとつから発した光はいまひとつの焦点にすべて集光するからである。
 わが気密缶は大地である焦点のひとつから遥かに遠離ったためにもはや鏡面に反射された光を受けることはできない。それゆえ現在のわたしの視点からは宇宙は漆黒の闇に閉ざされている。しかしこの楕円面は幾何学的に完全ではなく、そのためわたしはほんらいの経路から溢れ出たわずかな光を見ることとなる。ここから見えるわれらが『惑星』と『太陽』をとりまく多重のリングこそはそうした光学秩序から外れ鏡面によって繰り返し反射された残光のイメージなのである。
 わが報告を聞き、それを事実と認めた者の心には次ぎの疑問がわき起るに違いない。このような一見壮大な欺瞞とも言うべき驚くべき宇宙規模のからくりを何故『創造者』たちはわざわざ仕組んだのであろうか? ……それについてのわたしなりの解答はもはや空想の領域に入ってしまう。
 思うに『創造者』たちはわれらの太陽が次第に衰えていることを知り、その光を最大効率で集めわれわれ大地に暮らすものが利用できる工夫をしてくれたのだ。わたしは『創造者』たちが他の世界から来たというよりわれわれと同様に大地から産み出された種族であったであろうと考えている。恐らくそれはいまだ太陽が衰えを知らぬ数億年という遥かなる太古の出来事に違いない。彼女らは豊富な太陽の光の恵みのなかで進化しゆっくりと科学文明を育んでいったはずである。なぜなら彼女らにはわれわれのようにあらかじめ教え導いてくれる思考機械もなく字数を学ぶべき聖典もなかったからである。彼女らがいったいどんな姿形をしていたのか、彼女らの文明や社会がいかなるものであったのか、残念ながらいまとなっては知るすべもない。あるいは『創造者』は単一の種族ではなく、この大地が産み出した幾つもの異なった知的種族による共同体であったのかも知れぬ。いずれにせよ彼女らは最終的に天空を自在に移動する手段を手にいれた。そうして長い長い時が過ぎやがて太陽が衰えはじめると……それは伝説にあるごとくに一時期その光量を劇的に増したのかも知れない……『創造者』たちはこの大地を棄て他の世界へと旅立っていったのである。
 しかし後にする大地になんらかの知的存在が再び産み出される可能性がわずかながら残っていることを彼女らは知っていた。そこで彼女らは……あるいは『創造者』たちにもまた自らを律するさらに至上なる種の掟があるのであろうか?……旅だつ前に毋なる故郷をいま少しの間生き長らえさせるべく壮大な宇宙鏡を造り出したのである。なるほどそれはわれわれにとっては想像を絶する大事業であるが、数億年の齢を重ねた超種族にとってみれば比較的容易いことであったはずである。
 そうして彼女らの周到な配慮はむくわれたのだ。われわれは『創造者』たちの去った後の大地で無自覚で果敢ない虫けらから己の運命をコントロールする能力を持った知性ある群体へと進化した。おそらくはこの大地が産み出す最後の知的種族として……確かにこれは夢想にほかならぬ。しかしあながち見当違いな話ではあるまいとわたしは信じている。

 いまわれらは新たに天空へと進出する彼女らの技術のひとつを手にした。『創造者』たちはわれらの世界を心地よい卵の内部のように快適に設計してくれた。天の鏡が可視光を高能率で反射しエネルギーレベルの低い電波のみを漏出している限り、おそらくわれらが『太陽』の寿命は数十から数百倍に引き延ばされているはずである。とはいえわれわれはいつまでも大地にとどまっていることはできない。遅かれ早かれ『太陽』は冷却し大地の生命を活かしつづける力を失うだろうからである。この闇のなかで孤独な飛行を続けるわたしにはそれが痛いほど了解される。天なる炎は無限の広がりを持つ領域ではない。むしろその実体は暗黒の中に微かに点る灯火とすら称すべきものである。それゆえわたしはこの観察と報告とが続く者たちに真実を知ったうえでの大いなる焦燥感と、そしてそれを倍する不屈の勇気とを与えることを切に望む。
 旅はまだ終わりではない。わたしには最後の任務がまだ残っているのだ。それはこの神秘の鏡はいかなる材質によって造られているのか、そしてその背後になにがあるのかをわが身をもって確かめるという挑戦である。この気密缶にはそのための観測機器が若干積み込まれている。おそらく鏡面に激突する際のすさまじい衝撃と熱によって気密缶はわたしの身体とともに瞬間的に破壊され蒸発するであろう。しかしそのわずかな時間の間に鏡面の材質や構造、衝撃の大きさなどのデータが故郷の友人たちに向けて送られるはずである。
 光学的計算からの予想ではおそらく数十日の後にその時が到来するであろう。幸いさし入れられた花蜜は十分な量があるから最後まで至極快適に……タジクでの友人たちの思い出への感謝と懺悔の念ともに……わたしは生命を長らえることができる。
 そのとおり。わが心優しき友パミラよ。朋友たちがこの先どんな運命を辿ることとなるのか、おそまきながらようやくわたしも気にかけるようになったのだ。思えばしゃにむにつき進んできた長い年月、はたしてどれだけの者の運命をねじ曲げわが身の巻き添えにしてきたであろうか。巡り合わせ悪くこの異端者の弟子となってしまったゼラたちには深く詫びる以外なにひとつできようはずもないのだが……。

「エタンさま。今朝ゾイダル軍の無条件降伏の知らせが届きました。諸国連合の最終的な勝利かと思われます」
 ゼラが独房を訪ねたのはわたしの『刑』が執行される三日前のことであった。
「そうか……」
 わたしは友を迎入れるべく立ちあがりながら答えた。
「ようやくこれですべてが終わったな」
「ゾイダルは解体併合され、こののちは五大国および諸侯の代表からなる連合議会が戦後処理のすべてを決することになるでしょう」
「……」
「わが師よ」
「わたしはもはやあなたの教導師ではない」
 かつての愛弟子に微笑みかけてわたしは言った。
「ゼラよ。あなたは種族すべての利益のためにわたしを審問会議に告発したのだからな」
 わたしは偽手を伸ばし相手に触れた。
「とはいえ今後あなたは嫌でもこのエタンの直弟子として世間から見られることになる。おそらく様々な危険が待ち構えていると思う……どうかすこやかでいてくれ」
「エタンさま……」
 彼女の気脈は少なからず乱れていた。
「どうかこれからわれらが進むべき道をお示しください」
「わたしに問う必要はあるまい。きみはすでに知っているはずだ」
「われわれは誰ひとりこの遠大なる計画を考案されあなたを教え導かれたドムナ様を知りません。今あなたが往かれた後、ただ年長者であるというだけでわれらすべてを束ねる器がわたしにあるとは到底思えないのです」
 彼女はわが偽手に自らのそれを絡めつつそう告白した。
「心配はいらない。あなたはいま自らの担うべき荷にあらためて気づき、戸惑い少し不安なだけだ……師を失ったときのわたしがそうであったように」
 あえて彼女から離れ、スクリーンの側に寄るとわたしは燃え立つ炎天下の大地を眺めた。僧会がこの西の塔を罪人を閉じ込めるのにもっともふさわしい場所と考えたことにわたしは幾度となく感謝していた。
「わたしにはわかっている。わたしが去れば直にそんなことは忘れてしまうほど忙しくなるよ……とはいえ、あと数世代の間はかの加速装置が何かを宇宙空間に射出することはないだろう。ゾイダルの悪夢が完全に消え去るのはまだまだ先だ。ゼラよ、しかしいずれわれわれは天空へと乗り出さねばならない。その日にそなえて有能な弟子たちを集め、天文物理に関する『夢想的な』太古の記録を整理し編纂しておくがいい。古参の僧たちが一掃された今こそ改革の好機なのだから」
 ゼラはすでに落ち着きをとりもどしていた。
「はい。いまや僧会は連合議会の下でかっての権威を完全に失っています。ひとつの時代が過ぎ去りました。宗教とは別個に『創造者』たちの科学技術を調査研究する中立的機関を創設すべき時期にきているのです。わたしたちはそのため諸侯のみならず異教徒たちにも働きかけるつもりでいます」
 彼女の口調のなかの微かなためらいが同胞を殺された者への配慮であることを察してわたしは言い添えた。
「それでいいのだ。いつまでもキヴォガンと敵対している場合ではない。過去の経緯は水に流して彼女らのすぐれた知識や技術を積極的に受け入れるべきだ」
「すでに観測班が受信装置を使って電波信号を記録する準備を進めています。間違いなくご報告はわれらのもっとも貴重なデータとなることでしょう」
 わたしは満たされた思いとともに微笑んだ。
「ありがとう。あなたの献身に心から礼を言う。……旅立つときにここからあなたが見守っていてくれるだろうという思いがどれほどわたしを励ますことか。それだけを最後にきみに言っておきたかった」
 われわれは這い寄りあたかも子を成さんとする二群体であるかのようにしっかりと抱きあった。
「さあこれで罪人の懺悔はすんだ。もう行きたまえ……ゼラ教毋」
 彼女はしばらくじっと扁平になって永遠の別れを告げた。それから戸口から出るとき急に思いついたように付け加えた。
「あなたはご自分を罪人と呼ばれますが、そう考えている者ばかりではありません。将来、僧会が彼女らの立場を異端と断じなければよいのですが……」

 ゼラの最後の言葉は当日わたしが『刑場』へ引き出される途上で思いがけなく了解された。沿道につめかけた者たちはおおむね予想どおり、わたしに向って憎悪と侮蔑とを示して棒をうち振り石を投じ続けたのであるが、そうした群衆の背後に時たまこちらに向ってぬかづき両の偽手を絡めてひっそりと祈りを捧げるに似た姿が見られることに気づきわたしは当惑したのである。なにゆえこの者たちはわが身をうやまうのか? 怖れを知らぬ信仰への反逆者がいったい彼女らに何を与えたというのか? ここを石に打たれつつ引かれていくのは征服者と結んでその野心の飽くなき増大をあおり、あやうくすべての巣洞の民を破滅の淵へといざなおうとした罪人に他ならぬというのに?
 やがてわたしたちは射出場に到着した。そこはそれほど広くはない洞窟であったが、この前代未聞の大罪人を『創造者』の業火にて裁くべく天空に追放する瞬間を一目見ようと押し寄せたおびただしい数の群衆によって埋め尽くされていた。そしてそこにもまた憎悪の怒声をあびせかける彼女らにまじって畏敬と崇拝の念とともにこの身に近づき触れようとする者たちの存在が少なからずあることに改めてわたしは驚かせられたのだ。
 これらの者たちはあるいは解体されたゾイダルの流民であろうか? 彼女らにしてみれば確かに現在のタジクは宿敵たちによって支配される偽りの宗教的権威であろう。とはいえ彼女らがこのわたしを崇拝する理由などあるはずもない。あるいはかつてわが巣洞にあった同胞たちか? いまとなっては自分自身忘れがちであるがわたしはエタンの領主の系列を直接ひきつぐ者なのである。しかしまたそれだけではこれらの者たちの態度は腑に落ちぬ。彼女らはあたかも『創造者』そのものに対するごとく、このわたしに対してうやうやしくぬかづいているのである。
 そして怒声渦巻く混乱のなか守衛の兵士に守られつつついに真新しい気密缶の開け放たれたハッチへ至る登坂路の梺にたどりついたとき、わたしは呼べば聞こえるほどの間近くに見なれた姿を認めて驚愕のあまり立ちすくんだのであった。
 パミラ教導師……かつての僧院長にして大教毋があたかも祭壇の前に初めて祈りを捧げる修道女のごとき純粋にして敬けんな態度でほかならぬこのラヴラ・エタンに向って両の偽手を絡み合わせているのだ。余人にあらず、もっとも信頼した無二の友である彼女までもが……?!
 その瞬間わたしは自らが新たな神話を造ってしまったことを痛恨の思いとともに悟ったのである。わたしは孤立者であるとともに分体によって無垢なる空白の心を持って生まれてきた、いわばあらゆる系列から分け隔てられた異質な存在なのだ。そして前にも言ったようにそうした『孤立』した者を奉る習慣は古来ベオーブにとって特別なものではない。実際、タジクの創設者たる聖アリウル自身そうした孤立者であったとも伝えられている。知識を世代を超えて受け渡しうる系列的知性にとっては、まったくの未知なる混沌のなかから生みだされる『新しい心』はまさに『創造者の似姿』そのものなのである。
 とはいえかかる孤立者であればこそおのれを超える超越者を信じる心を持ちえなかったこのわたしが図らずも新しい信仰の求心的な象徴となったとしたなら、それは運命の皮肉と呼ぶほかはない。わたしの意図とは裏腹にこの者たちはそれが彼女らに存在することの意味を知らせ目的を教え導いてくれるのではないかという逆説的な期待のうちに明らかにわたしの行為に神聖な価値を付与せんとしている。その思いはわたしをして驚きとともに新しい罪の自覚に向きあわせるものでもあった。そうとは気づかぬふりをしつつも結局のところ、自らの目的のために彼女たちの真摯な願いを都合良くこのわたしは利用していたのではないのか? そしてあるいはこれはさらに悲惨な社会的軋轢へとつながりうる危険の萌芽であるのかも知れないのだ。……とはいえいまのわたしにいったい何ができよう?
 深い喪失感を感じながらいま一度群衆を眺め渡し、そうしてかつてあれほどまで楽しく夢見た運命へ続く長い坂をわたしは躊躇いがちに登りはじめたのだった。



 第百七日。
 ここ幾十日も気密缶外部の光景は変化することはない。定期的な観測のためにほとんど惰性的にそれに向うものの闇に向って開いた舷窓は灯火に照らされるわが姿をただ映し出すのみである。単調かつ孤独な生活の反復に心はいやおうなく内向せざるを得ない。
 ……孤立した者のみが真に鏡を覗き込む方法を学ぶ。こうした言葉を生前わが師ドムナはたびたびひとりごつ(あるいは自嘲する?)ごとく口にしていた。彼女の死後この謎めいた言い回しを自らの心のなかに反芻し、その背後に隠された意味を探ろうとわたしは幾度となく努めてきた。そしてかの見えざる障壁が次第に迫ってくるにつれてその言葉に込められた意味が採り残されたグラのごとくわが心に根を下ろしはじめたのを感じている。
 われらベオーブは通常自らの群体のうちに次世代の産卵体を育む。それはやがて新たなる遺伝情報を有する構成体を産み始め、それらは順次組織を形成する前世代の構成体たちと入れ代わる。この過程は中枢部分においても同様であり『わたし』という自意識をもたらす光のネットワークを支える情報処理体もまた何ら特別な感覚ももたらさぬうちに次の世代へと交替するのだ。とはいえすべての構成要素は入れ代わり、彼女は新しいその名とともに未知なる能力や気質を有する群体として社会に受け入れられる。
 それではこうした経過において『わたし』とは何か? これこそわれら僧会で行われる神学的論争のうちでもっとも重要かつ中心的な議題であろう。自己は光ネットワークそのものであるのか? それは身体によって支えられる形而上的存在なのか? あるいは物理的過程を離れて存在しうる超次元の実体であるのか? もし前者であるのなら不慮の事故や疾病で死滅するベオーブのそれは永遠に失われるのであろうか? あるいはまた後者であるのなら物理的な支えを失った魂はなんらかの手段によって自分以外の外界と相互作用できるのか?
 孤立者であるが故にあなたがたはこのわたしが深くその問題について考え抜いたに違いないと思われるかも知れない。しかしそうした実証不可能な範疇に属する問題について残念ながらわたし自身は生涯を費やしつついかなる確信も持ち得なかった。そしてわたしがわが世界観にこのような限界をあえて付与しているという事実をわたしを聖人としてあがめんとする人々にどうか伝えてもらいたいとも思う。わたしは何ひとつ悟ってなどいない。
 ただこのことは言えるかも知れぬ。孤立者であるからこそわたしは鏡のなかに知的な存在としての自分自身の限界を見ることができるのである。このように自らの死に向って虚空を猛烈な速度で飛翔し、暗黒のなかにあって心逸らすものとてなくそれに向き合うことを余儀なくさせられていればなおさら……。
 思うにわが師ドムナは自らの『老い』を鏡の内に見たに違いない。一方でつねに新しく更新される系列群体はそれを見ることは決してあるまい。わたしと同じく自身の終末を運命づけれらている存在であればこそ、死に向ってあゆみ行く自らをそこに垣間見ることができるのだ。孤立者はあたかもひとつひとつの構成体のごとくに『老い』『死滅する』のである。
 しかしながら少しばかり真摯に考察すればこの『老い』は実はわれらすべてのベオーブ本来のあり方であることもまた了解されるのである。これを聞くあなたがたも『創造者の御子』たるわたしと少しも違ってなどいない。なるほどあらゆるベオーブにとっても無限に系列が継続することはありえない。いつか不慮の事態が起り彼女の群体を崩壊させることはほとんど必然である。しかしわたしがいまここで語っている真理は単にそれだけを意味するわけではない。もしあなたがたが心静かに自らの姿を鏡に映してみる機会を得るなら是非このことについて思いめぐらしてみるである。
 各世代が交替し意識的経験を支える構成体が入れ代わるたびに『わたし』は死滅する。のみならず光ネットワークがひらめく瞬間ごとに魂は生成し死滅しつづける……なぜならわたしが自らの存在を確信しうるのは高々この一瞬にすぎないからである。『生存』とは自覚のないうちに始まりそれと気づかぬうちに消えさっていく縁のない視野のごとき領域なのだ。わたしはそれらの現象の総体的領域を『自己』と認識する。しかし実のところわたしたちは自分の持続の証拠を自らの記憶によって確認するのみである。そしてこれらの記憶を貯えているのは魂自身ではなくそれを産み出し支えている中枢構成体のネットワークにほかならない。それゆえに記憶を継承しつづけ常に更新しつづける系列群体であるあなたがたと、わずか一代で貯えた記憶を道連れに消滅していく孤立者であるこのわたしとの間に本来いかなる本質的な差もありはしないのだ。
 もちろんこれはわたし独自の見解というわけではない。衆知のごとくかつて異端と断じられたサマーン分離派の唱える教義にほぼ一致するものである。わたしは別の考え方に立って精神の同一性、連続性を説く僧侶たちがいることを知っている。そして彼らとわたしといずれが正しいのかを結論づけることは恐らく誰にもできまい。とはいえ真に心と身体の関係を考え抜いた者であればこれが決して奇抜な見方でないことが理解できるに違いない。
 その事実に思いいたるとき、かかるぬきさしならぬ真理はわれらを孤独な者となさずにはおかず、そしてまた真に孤独な者のみが鏡を覗きその中に有限なる自分自身を直視しうるのである。
 わたしはいま暗黒のなかにひとりそうして自らを見つめながら過ごしている。わが気密缶は刻一刻と『創造者』の鏡への距離を縮めており、少なくともあと数日のうちに両者は激突しわたしは消滅するであろう。そしてこれは自らの目的のために他者を利用し手段を選ばなかった者へ下されるべき正当な罰であり結末であるに違いない。……とはいえとどのつまり、それはあなたがたすべての生とそれほど違っているわけではないのだ。



 第百十一日。
 時はいたった。しかしわたしは生きている。

 最後の瞬間自らの乗る気密缶の鏡像がこちらに飛来してくるのが見えることを期待していたのだが速度があまりにも大きかったためかそれを確認することはできなかった。そして驚くべきことには『創造者』たちの鏡はほとんど抵抗らしい抵抗もなくわが気密缶を通過させたのである。
 こうして無事に通り抜けた今思えば、それらは磁気によって安定させられた電離した気体のごとき極めて密度の低い物質の層であったに違いない。いかなる未知の技術がそうした奇跡を可能にするのか思い描くこともできないが、おそらくこの特殊な性質を持つ気体の層が波長のうち短い成分だけを鋭く回折し、あたかも高能率の鏡がそこにあるごとくに可視光を反射しているのであろう。それほど希薄なものであればこそわれらが大地の周期的回転運動にさしたる影響を及ぼさないこともあらためて納得されるのである。
 そうしてまったく思いもしなかった存命の奇跡に驚き喜びながら、わたしは窓の外に広がる光景に目をやったのである。

 外は闇であった。われらが太陽の光はここではいま通り抜けたばかりの不可知の膜によって完全に遮断されているから当然のことではあるのだが、しかしそれは楕円鏡面の内部に見るような虚無ではなかった。目をこらすにつれて次第に数限りない光の点が……見回す限りの暗黒を背景にあたかも微細な光虫をぶちまけたごとくちりばめられているのが見えるのだ。しかもこれらの光はひとつとして同じ光量、同じ色合いのものはない。あるものは青白くまたあるものは黄色く、赤く……刺針のごとく鋭く目を射るものあり、また薄布を通して眺めるごとく優しくけぶるものあり……そしてその無数の輝きたちのただなかを霞みのごとくに淡く漠とした真珠色に輝くガス状の流れが横断しているのである。じつにわが目を潤ますほどに美しく、しかしなぜか心に激しく切ない懐かしさの感覚を与える眺めであった。
 あるいはこれは死後のまどろみのなかに見る夢か? いや、そうではあるまい……これこそが真の意味での啓示にほかならぬ。それまでわたしは万が一でもこの天なる鏡面の外部を垣間見ることができたなら、その瞬間にこの生命を失ってもかまわないとだけ念じつづけてきた。しかしいまこうしてそれが実現し、信じられぬ眺めへの驚愕が去ってみると思いがけなくわたしの心にはさらに新たな願望が生まれていたのである。
 思えばかつてあの『創造者の丘』の西の塔から見上げ、その構造についてあれこれ思いをなしていた天空はなんと小さく単純であったことか! 当時それと想像していた宇宙はわずかに大地をその直径の数十倍の大きさでとりまく球殻にすぎなかった。そしてわが師の導きにより新たに知ったそれはそれを数万倍の大きさで凌駕する規模で設置された驚嘆すべき楕円鏡面であったのだ。わたしはこの宇宙像を心のうちに秘めつつ、それを信じようとしない者たちを密かに侮蔑していたのかも知れない。しかしいまやわたしはそれさえも遥かに超える真に想像を絶する大宇宙の姿を眼前にしている。
 これらの無数の光点すべてがわが太陽と同様な熱と光を発する天体だろうか? もしそうであるならそれらは恐らくわれらが大地とそれとの距離を数十……否、数百万倍するほどの遠方にあるに違いない。われらの卑小なる距離の尺度ではそのスケールを漠然と表象することすら不可能である。わが悟性をもっては到底認識しえぬことであるが、あるいはこの暗黒の空間の広がりは数量的に無限であるのかも知れぬ。とすれば、その内に包含されるこれらの光の点たちの数も同じく無限であろう。そして心に浮かべようとすれば身のすくみ気の遠くなるようなイメージであるが……われらが大地と同様の数限り無い天体たちがこれらおびただしい光点の周囲を巡っているだろうこともまた確かなのである。あきらかにそうした世界のひとつを目指して遠い昔『創造者』たちは旅立っていったのであろうから……。
 それを思うとき圧倒されつくしてもはやわたしには語るべき言葉すらない。しかしなおかつわたしはそれらの遠い光のもとへと飛んでいきたいという果てしない郷愁にも似た渇望を感じているのである。

 わが友パミラよ。あるいはあなたはわたしの中に超越者のイメージを見たのだろうか? あのときわたしはあなたのような信仰を持ち得ぬ自分に空しさと寂しさとを覚えたものだった。だがいま壮大なるこの真の天空の姿を目にし、わたしはわれらを遥かに超越した存在が必ずやありえるだろうことを戸惑いつつも予感している。
 この大宇宙を前にしてわたしたちはあまりにも小さく果敢ない。しかしまた一方でいかに微小なものに過ぎないとしてもわれわれの生が空しいものであろうはずはないのだ。仮に宇宙の歴史が徹頭徹尾無機的な時の潮流であり、われわれが物理的なわずかな揺らぎから生じたその中の刹那の渦動にすぎないのであるなら……なにゆえに宇宙はかくもわれらが予想を超えて美しく、そしてなにゆえわれわれはその計り知れぬほどの価値を感受しえるのか?
 ……わが友パミラよ。あなたがわたしの自己犠牲的なふるまいのなかに超越者のイメージを見たとしたらそれは大いなる逆説である。なぜならわたしはいまわが生命はまさにこの光景を眺めそのなかに何かを感じ取るためにこそあったという静かな確信のうちにあるからである。わが生きざまは間違ってはいなかった。むろん種族を滅亡の淵から救う道を示すに自らがささやかなりと貢献しえたことは満足している。だがこの場所に来ることによってもっとも救われたのは……ほかならぬわたし自身であったのだ。

 すでに最後の花蜜を消費してから数日が経過している。やがてわが体内の蜜嚢が空となり蜜流が断たれるとともにわたしという存在を形成しているこの群体は離散するだろう。だがわたしは空腹とは似ても似つかぬ深い充足のうちにある。いまだに窓の外に目をやるだけでわたしは法悦にも似た戦慄と共に底知れぬ存在の謎に触れることができるからだ。ついにわたしはかの『創造者』たちの心を理解しえたように思う。彼女たちは不本意ながら燃え尽きようとする自らの故郷を後にしたわけではない。まだ手にしてはいない無数の神秘を求め、自らの認識と存在とを限りなく変容させつづける夢とともに旅立ったのに違いないのだ。そうしていつか彼女ら同様わたしたちもまたそれらを得るためにあの星々の彼方へと向うことだろう。なぜならわたしたちがこの願いを強く感じ取れるかぎり、われらの存在は侵され得ぬ真に価値あるもののすぐ傍らにあるからだ。自らの心がそう願うとき、この広大無辺なる宇宙のすべてを前にしてなおわれらは無力なものでも卑小なものでもないのである。

(了)


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