第六章 陸橋を渡る者


 小鬼の魔法使いテイリンの軍は、山岳地帯を通りクライドン神の神殿を目差している。しかしアルラス山脈の山々は険しく、ゾックがいかに山地に適した生物といえども行軍速度はかなり落ちていた。
 カインザー大陸の北方の戦場における戦いで、魔法使いブアビットがトルソン侯爵の軍を打ち破った時に放った、勝利の叫びの念派はもちろんテイリンにも届いた。しかし、それで状況が好転したかと思われたのもほんのわずかの間だった。その夜にゾノボートが死んで要塞軍が総崩れになったのを知って、テイリンはゾック軍の生き延びる可能性が、かなり低くなった事を悟った。
 翌日、レンドー城攻略に失敗したマコーキン軍に従軍していた魔法使いキゾーニから、西の将退却の知らせが届くに至って、テイリンのわずかな希望も失われた。
(どうやら我々はこの戦士の大陸で完全に孤軍となってしまったらしい)
 そしてさらにテイリンを驚かせたのは、この山岳地帯を後ろからカインザーの部隊が追いかけてきている事実だった。こんな地形で行動できるカインザー戦士についての情報は、ソンタール帝国の情報部のどこを探しても無い。またアルラス山脈の山麓にもすでに騎馬軍団が進出して来ていて自分達を包囲している事も、偵察に出したゾックの報告でわかっていた。もうテイリン軍には、たとえ嫌でも前にしか進む道が残されていない。こうなったら、何としてでもこの戦いを始めたクライドンという神に会って、この戦いの意義を問いたださなければ。それだけを目標にテイリンは進んだ。

 クライバー男爵に頼まれたバンドンの率いる盗賊部隊は、テイリン軍からわずかな間隔を開けて追跡を続けていた。バンドンの盗賊部隊と呼応して、地上ではクライバー軍が包囲網を敷いてゾック部隊の逃げ道をふさいでいる。追跡部隊を率いているバンドンは、ライア山を見上げる位置に着いたあたりで部下達に休息を取らせた。バンドンの休めの声を聞くと、歩き疲れた盗賊達はへたり込むように地面に座り込んだ。山に慣れた男達にもこの追跡行は相当こたえているらしい。
「お頭、あの茶色の魔法使い野郎が目指している神殿ってのはまだ遠いんですかい」
 そうぼやき声をあげた部下に、バンドンはグッと腕を伸ばして目前にそびえるライア山を指さした。
「目の前にデカイ山が見えるだろう。あのてっぺんだ」
 そう言われた部下は山を見上げてため息をついた。
「ひあー、高え。なんだってえ俺達はこんな事しなきゃ、なんねえんですかねえ」
 バンドンは苦笑した。それは自分にもよくわからない。愛国心がこのスレた心の中にまだ残っているのか、それともクライバー男爵という男が気に入ってしまったからなのか。仕方なくバンドンは手下達にこう説明した。
「俺達はカインザーの盗賊だ。この国がおかしくなっちまったら家業がお手上げだからよ。もう少しだ、すでにクライバーが山頂で待ち構えている。そこにゾックを追い込めばおしまいだ。後はあの重たい鎧を着た戦士達が片をつけてくれるだろう」
 バンドンは休みを取っている部下達を見回しながら考えた。
(それにしてもあの茶色の魔法使いは、なぜクライドン神の神殿になどに向かっているのだろう)

 戦士の大陸カインザーの王子セルダン、海洋民族の島ザイマンの王子ブライス、祖国を失った民バルトールの少年王ベリックの三人の聖宝の守護者と、翼の神の一番弟子である魔術師マルヴェスター、さらにバルトール人の地下商人フスツと、カインザー人ながらバルトールマスターに仕えていたアタルス、ポルタス、タスカルの三兄弟はレンドー城へ向けてザイマンの高速艇でケマール川を溯っていた。
 カインザーの東の海からケマール川へ、険しい山岳地帯や平原の旅を終えて水の上に出た日から、ブライスはほとんど狂ったかと思われるほどに連日機嫌が良かった。今日中にもレンドー城に着くという朝を迎えると、さっそく操舵室に登って自ら舵を取った。鼻歌混じりのブライスの操船さばきは豪快で、時々船を大きく揺らしては父親ゆずりの高笑いを川面に轟かせている。船中をかけ回るブライスの、ドタドタというやかましい足音に驚いたセルダンが、寝ぼけ眼で甲板に出てきたのをブライスが見つけてどなった。
「セルダン、遅いぞ。船の夜は暁とともに明けるんだ。なぜ我らのエルディ神が暁の女神と呼ばれているのかを知らんのか」
 セルダンはぶつぶつと文句を言った。
「自分だってあんなに早起きを嫌がってたのに。でもねえ、マルヴェスター様のうめき声で夜が眠れないんだよ」
「仕方ないだろう、あの人の船嫌いはもう一生直らないんじゃないかなあ。でもあと半日でレンドー城に着くからな。親父さんの軍はもう出発したんだろうな」
「うん。昨日届いた伝令鳥の知らせにはそうあった。しかしレンドーから先は馬の旅になるぞ。今度はブライス、君がきつい番だぜ」
 操舵室から甲板を見下ろしたブライスが渋い顔をした。
「俺が行く必要があるだろうか」
「あるさ、クライドン神が復活したら、暁の女神様にお知らせしなければならないんだ。君に呼び出してもらうよ」
「おおっ、そうだったか。それを一番避けたかったのに」
 ブライスは額の銀の輪に手をあてて、辛そうにうめいた。
 その日の午後、セルダン達はようやくレンドー城に到着した。激しい戦闘があった城内は整然と片付けられていたが、目ざといアタルス達三兄弟は、各所に残る戦の傷跡の酷さに時々声を低めては話し合っていた。ソンタールの南の将との海戦に慣れているブライスですらさすがに眉をひそめた。
「何があったんだこれは。人と人が戦った跡がこれ程のひどいありさまになるのか」
 そのブライスの言葉にマルヴェスターが答えた。
「驚いてはいかんぞブライス。これは人と人との戦いの跡だ。しかし人と獣。あるいは人と魔法使いの戦いの跡がどうなるのかは、何度か経験したわしですら次の想像ができん」
 その時、セルダン一行を迎えるバイルン子爵が近づいてきた。
「ようこそセルダン王子」
 そう言ったバイルン子爵の表情は、まるで戦など知らぬかのように晴れ晴れとしていた。セルダンは、この子爵の明るさとおおらかさがいつも不思議だったが、ブライスと長い間一緒に旅をしているうちに、なんとなく海にゆかりの深い男の気性がわかってきたような気がしていた。
「久しぶりだねバイルン。無事でよかった」
「お待ち申し上げておりました。皆様よくぞご無事でお戻りくださいました。聖剣の奪還、おめでとうございます」
「約一名、無事じゃないご老人もいるようだが」
 マルヴェスターを指で差して、そう言ったブライスに目で答えてバイルンが続けた。
「すでに馬の用意もできておりますが、今夜はこの城にお泊まりください。クライドン神の神殿にはすでにクライバーが向かっております。準備をととのえているはずなので、ここから先は早く進む事が出来るでしょう」
 マルヴェスターが当然とばかりに言った。
「もちろんそうするぞ。それからこの先バルト―ルのベリック王には特に気を使うように、城や軍の主立った者たちに伝えて欲しい。バルト―ル王の帰還の噂でも流れると何がおこるかわからん」
「うけたまわりました」
 そう答えると、大柄な子爵は一行を城内に導きいれた。

 その夜、バイルン子爵は待ちかねていたようにブライスと物資の輸送航路に関する話を始めた。その計画の中には、パイラルの陸橋のソンタール側の都市、ポイントポートまでの輸送路も含まれている。カインザー大陸を出てソンタール領内で戦う事になれば、当然物資輸送の海軍が必要になってくるだろう。カインザー海軍が設立されれば、バイルンが提督になる事はほぼ間違い無い。
 にぎやかな夕食の席で、セルダンはようやく飲めるようになったビールを少しずつ咽に流し込んでいた。船酔いでクタクタになっているマルヴェスターは、テーブルに突っ伏したまま酒の瓶を抱えて高いびきをかいている。そこには三千年にわたる戦いを指揮してきた賢者の面影はどこにも無い。果たしてもう一方の大魔法使いガザヴォックも、こういう格好をする時があるんだろうか。セルダンはそんな事を考えながらふと室内を見まわすと、将来のバルトール王となるべきベリックがパンをボソボソとかじりながら、つまらなそうにテーブルの上を眺めているのに気が付いた。その隣では、要塞脱出以来、片時もベリックのそばを離れていないフスツが見守っている。
「ベリック。ちょっと外に出て話をしないか」
 セルダンはそう言って立ち上がると、ベリックの背に手をやって軽く叩いた。心配そうなフスツに大丈夫だというふうにうなづいて、セルダンは若い王をベランダに連れ出した。ベリックは小さな甘いパンのかけらを手に持って、ベランダに出た。セルダンは途中のテーブルから果物のジュースが入ったカップを一つずつ、両手に持って後を追った。月の光が明るい。あの西の将の要塞での出来事からもう一か月近くが経っているのだ。
 セルダンは、ベリックにジュースのカップを渡すと、自分もカップに口を付けておいしそうにゴクゴクと飲んだ。ベリックが不思議そうに見つめている。セルダンはベリックにウィンクして話し始めた。
「実は僕はまだお酒のおいしさがよくわからないんだ。王子だから、みんなの前では大人として振る舞っているけど、まだ初陣を済ませて数か月しか経っていないからね。君は今、どの国とどの国が戦争をしているのかは知ってるよね」
 ベリックはとまどったように答えた。
「おばさんが教えてくれた。シャンダイアとソンタール。でもどこまでがシャンダイアの国でどこまでがソンタールの国かはわかんない」
「元々は一つの国だったからね。おばさんというのは、君を育ててくれた人だよね。大きな島に住んでいたの」
「そう、島がいっぱいあって、おいらが住んでる島が一番おっきかった。おいらは船に乗ってここまで来たんだ。おばさんの知りあいだった男達が連れてきてくれた」
「おばさんはザイマンのバルトールマスターだったそうだ。君を連れて来てくれたのは、たぶんバルトールの人達だろう。でもまさかその人達は、バルトールの民が探し続けている王を自分達の船に乗せているとは思わなかっただろうな」
 ベリックは勢い込んでたずねた。
「おいらは王なんてのはよくわかんねえ。だけどそのせいで、おいらは一人で竜と戦わなきゃなんなかったのか」
「そこがわからないんだ。そのおばさんは君が王だって事を知っていた。ならばなぜこんな危険な事をさせたんだろう」
 セルダンはベリックの真剣な眼差しを見つめ返した時に、まだこの子に質問をする時期では無いと悟った。この世界についてもう少し知らなければ、自分の生い立ちから謎の答えを見つける事は出来ないだろう。
「心配しないでいいよベリック。マルヴェスター様がそのうち答を見つけてくれるさ。ブライスがザイマンに帰ればすぐに君のおばさんを見つけだしてくれるはずだ。それまでこの国にいればいい。ここにはセスタという大きな都市がある。そこに君と同じくらいの年齢のアントンという少年がいる。僕の友達のクライバー男爵の息子だけど、おそらく君のいい話相手になってくれるよ」
 セルダンはそう言ってベリックの肩に手を置くと、共に肩を並べてしばらく月を見上げていた。そして一つ思い出した。
(そうだ、あのわがままなアーヤもちょうど同じくらいの年齢だったっけ。さてと、会わせたものかどうか)
 セルダンはベリックに聞いた。
「君には女の子の友達はいるの」
「いねえ」
 ベリックはぶっきらぼうに答えた。
「欲しいかい」
「わかんねえ」
 セルダンは、ちょっと意地悪い笑みを浮かべた。
「一人、マイスター城にいるから紹介してあげるよ」
 ベリックは興味無さそうにうなづいた。
 翌朝早くセルダン達は馬に乗り換えて神殿へ向かった。ここまで付き従ってきた仲間達がみんな一緒だった。

 アルラス山脈の高峰をつたって、ようやくライア山の山頂に近づいたテイリンとゾック達を待ち構えていたのは、クライバー男爵率いるカインザー軍だった。平地と整備された道を通ったため一足先に山頂に着いたクライバーは、結界を守るようにして陣を張って待っていたのである。
 その光景をうかがったテイリンは、結界の存在を知らなかったため、この軍は神殿の警護にあたっているのだと思った。テイリンは神殿を前に立ち往生してしまった。戦おうにもライア山のこの高度までくると、ほとんどむき出しの斜面でカインザー兵と戦わなければならなくなってしまう。それでは勝ち目は無い。やむなくテイリンは、クライバー軍の目の届かない窪地にひそんで様子をうかがう事にした。

 聖なる剣を皮の袋に入れて背中に背負ったセルダンとその仲間達は、道の無い平野にまで馬を走らせて、アルラス山脈のふもとのクライの町に到着した。そこで一夜、亡くなった神官長マイラスの冥福を祈った一行は、翌朝早くにライア山への登山を開始した。
(まさか数ヶ月の間に二度もこの山を登る事があろうとは)
 セルダンは人の力を超越した戦いの不思議さを味わっていた。しかし重い装備をして登った前回と違い、今回の登山では先に山を登ったクライバー男爵の軍の補給路が存在していたため、セルダン達は極めて軽装でひたすら先を急ぐ事ができた。やがて生えている植物が丈の低い高山植物だけになり、息が凍るように気温が下がる頃、クライバー男爵とその軍勢が列を正して待ち構えている結界の前に着いた。セルダンは遠くからクライバーの顔を見付けると、待ち切れないといった感じで駆け出した。
「久しぶり。クライバー」
「ようこそセルダン王子。お待ちしていました」
 クライバーも嬉しそうだった。
「何か結界に異常は」
「私が来てからは何も変わった様子はありません」
「クライの町でダーレスに聞いたんだけど、ゾックの部隊がこっちに向かっているという話はどうなった」
「ゾックもそれを操る魔法使いもまだ現れていません。元盗賊の頭のバンドンが、ライア山の周りを囲むようにして追いたてているはずですから、程なくここに現れるでしょう」
 セルダンはカンゼルの剣を馬の鞍にくくりつけていた袋から取り出した。そしてその聖なる剣を両手でかかげた。
「それではその前にドラティと決着を済ませてしまおう」
 マルヴェスターがブライスとベリックに騎乗するように命じて、自分も引いてきた馬にまたがった。ベリックは少年ながら、乗馬がうまい。
「わしらも結界が消えたら、すぐに駆けつける。クライバー、ゾックが近づかないように警備を頼むぞ」
「承知しました」
 それらの手はずを見届けた後、セルダンは神殿を囲む結界に向かって歩いて行った。
 久しぶりに結界を前にしたセルダンは、この数ヶ月の出来事を一歩ごとに思い出した。多くの人々と出会い、命をかけて戦い、幾つかの命を奪い、そして何人かの仲間を失った。去年まではセルダン少年の望みは一日も早く戦場に立ってソンタールの軍と戦う事だけだった。しかし戦いは終わらせるためにするものだという事に、この数ヶ月でセルダンは気付いた。まずはこのカインザー大陸での戦いに決着をつけるのだ。巨竜ドラティを倒せば、もはや要塞で魔力を持つ者は、トルソン・ロッティ軍に敗れて要塞に逃げ帰った魔法使いとライア山に近づいているゾックの一軍だけになる。
 多くの人々が見守る中、若き剣の守護者は結界に踏み入っていった。セルダンの手の中でカンゼルの剣が振動しているのがわかる。聖なる剣とその守護神が共鳴し合っているのだ。やがてクライドン神と巨竜ドラティの力の格闘を示す、黒い球形の膜がセルダンの行く手に見えてきた。球の透明な部分はセルダンの背丈より低くなっており、ほとんど竜の力の黒い膜に覆いつくされたと言ってもよい状態になっている。
 球の上のドラティは鈍い光を込めた目で、剣を携えてやってくるセルダンを見やった。しかしその怪物からは何の意志もセルダンに伝わってこなかった。セルダンは目をこらしてクライドン神の姿を球の中に探したが、すでに視界を遮る膜の色が濃すぎて見る事はできなかった。セルダンは振り向くと、約一千年前にクライドン神が聖剣を突き刺して、この戦いを始めた岩に歩み寄った。光が消えた岩は何の変哲も無いただの岩に見えたが、その中央にかつて剣が刺さっていた筋が残っている。セルダンはやや背伸びするようにしながら、両手でカンゼルの剣を逆向きにかかげると、力いっぱい岩に突き刺した。
 岩は抵抗する事無く剣を受け入れていった。しばらくセルダンは剣の柄を握り締めていたが、だんだん柄が暖かくなり、握っていられない程に熱くなってきた。セルダンは柄から手を離して後ろに下がった。岩は剣から力を受け、内側からにじみ出させるようにゆっくりと光り出した。そして岩全体が輝き出すと、その明るい光がしたたるように大地に伸びて、やがてクライドン神に呼ばれるかのように巨大な黒い球状の膜に向かっていった。
 地面を這うように広がった光の輝きは、ようやくクライドン神を包む球に届いた。球は地面に接した部分から音も無く輝きを吸収し、やがて透明な部分がじわじわと球の上のほうに向かって上がっていった。玉座にうなだれたクライドン神の姿がはっきりとわかるようになってきた頃、突然に球は消滅した。低く声に出して唸った竜がはばたこうとしたその瞬間、玉座から素早く立ち上がったクライドン神の手から閃く光が放たれた。光は一瞬にして竜を取り巻き、激しくまたたいて竜の体を切り裂いた。空中で痺れるように体を硬直させた竜は、傷口から吹き出した真っ赤な血で血だるまになりながら大地に飛び降り、何歩かよろめいた後にバサンッという大きな音をたてて横倒しになった。
 しかし光を放ったクライドン神も、まだ力を取り戻しきっていなかったらしく、竜が地面に落ちたのを見届けた後そのまま玉座に座り込んでしまった。竜はまだ身じろぎしている。止めを刺そうと、セルダンは岩に突き刺していたカンゼルの聖剣を取るために振り向いた。そこにマルヴェスターとブライス、ベリックが駆けつけてきた。
 マルヴェスターが叫んだ。
「やめろセルダン、今、剣を引き抜くとクライドン神のお命が危ない」
 マルヴェスター達三人は馬から飛び降りてセルダンに駆け寄った。その中で最も素早かったのはベリックだった。少年はセルダンの横を駆け抜けると、迷う事なく倒れている竜に向かった。そして横倒しになったため登りやすくなっていた竜の体によじ登って、腰の部分に突き刺さっていたバザの短剣を引き抜いた。竜が吠えた。その声に応えるようにベリックも短かく気合いを入れると、今度は確実に逆さに生えた鱗を狙って短剣を突き刺した。その姿を見たクライドン神とマルヴェスターがほとんど同時に讃嘆の声をあげた。
「みごとだ短剣の守護者」
 クライドンがほめ称えた。
 しかし数千年の寿命を持つ竜は、そう簡単には死ななかった。うなりながら立ち上がると、残った力を振り絞って体を揺すった。振り落とされそうになったベリックは、自分から器用に地面に飛び降りて竜を仰ぎ見た。古き獣は血をしたたらせながらも咆哮をあげて天空に駆け登った。

 岩陰に隠れて山頂の様子をうかがっていたテイリンは、何者かのすさまじい雄叫びを耳にした。そして山頂から巨大な竜が天空に昇ってゆくのを見た。しかし竜は高度を取りきれず、ふらふらしながらテイリンのいる方角に向かって飛んでくる。
(ドラティだ。おお、古き竜が傷付いている)
 テイリンは信じられない思いのまま無意識のうちに竜を追った。その後にゾックが続く。そのテイリン達の姿を上空から目にしたのだろうか、やがて巨竜ドラティはテイリンの眼前に墜落してきた。竜は苦しげな息をしながら、テイリンに意識を放った。
「おお小鬼の魔法使いか。ふさわしい者がきたものだ。頼みがある」
 竜の思念はテイリンにその願いを伝えた。しばらく竜の意識を受けとめていたテイリンの目が、やがて驚愕に見開かれた。テイリンはドラティに語りかけた。
「うけたまわりました、古き獣の王よ。我が命にかけても、あなたの意志に従う事を誓いたいところです。けれども、今の私にはそれを成し遂げるのは無理かもしれません。このゾック達をご覧ください。私はこの種族を救わなければなりません。しかし、やがてカインザーの戦士達がここに殺到するでしょう、私達は生き延びる事すら出来ないかもしれないのです」
 竜は苦しいながらも、しっかりとした意志の力で答えた。
「おびえることは無い、テイリン、そして小さき鬼達よ。我が体から流れ出ている血の中を歩み去るがいい」
 テイリンと子鬼達は竜の意志どおりに、巨大な体から流れる血の中を歩いた。竜の体から離れた時、テイリンは足が異様に軽くなっている事に気が付いた。見ると小鬼達の足の膝から下が明るい赤に染まっている。その変化の意味を魔法使いであるテイリンは知った。赤い足になった鬼達は、驚異的なスピードとジャンプ力を手にいれたのだ。テイリンはあわてて靴を脱いて自分の足を見たが、テイリンの足は赤く染まってはいなかった。薄目で見ていたドラティが笑った。
「ゾックを大切にせよ、大地の意志を持つ魔法使い」
 飛ぶ力もすでに失っていた竜はそう意識を伝えると、気力をふり絞って近づいてくるクライバー軍の戦士達の列に突入していった。さしものクライバー軍もこの思いがけない怪物の乱入に混乱に陥った。その隙に、山頂を遠く迂回して、テイリンと小鬼達は北に向かって脱出した。
 その前にテイリンはここまで運んできた自分の馬の鼻先に、軽く手を触れてさようならを言うのを忘れなかった。
(いい人に拾われますように。ありがとう)
 そしてライア山の山頂を肩越しに振り仰いだ。
(クライドン神、あなたにも会ってみたかった。またいつか機会を探しましょう)

 セルダンは、クライバーとその兵達が竜を囲んで戦っている所へ急行した。見ると手負いのドラティが狂ったように暴れまわっている。セルダンは叫んだ。
「クライバー手を出すな、離れるんだ。竜は放っておいてももう長くは無い」
 クライバー達はあわてて竜から遠く離れた。ドラティはやってきたセルダン達を睨むようにして、しばらく大きな息をつきながら体を上下させていたが、やがて静かに息を引き取った。憎き敵であった竜だが、数千年の命を持つ生き物の死は、見ている者の心に痛みのような寂しさを感じさせた。
 クライバーがセルダンに小声で報告した。
「ゾック達が向こう側にいたのです。明るい茶色の服を着た魔法使いの姿も見ました。しかし、竜に気をとられているうちに、信じられない程の速度で岩場を走って逃げて行ってしまいました。どうしてあんなに速く走れるのか謎です」
 そこへ、ベリックがどこからか小型の馬を引いてきた。ブライスが不信そうにその馬を覗き込んだ。
「これは誰の馬だ。クライバーの兵士が乗るにしては小さ過ぎるだろう。まあベリック、おまえに丁度いい大きさの馬だけどなあ。賢そうだし、もらっとけ」
 マルヴェスターが近づいてきて、馬の鼻先に自分の鼻をつけてしばらく嗅ぐような仕種をしていたが、不思議そうに眉を寄せた。
「奇妙な魔法の気配がする。おそらくはゾックを操っていた魔法使いの乗馬だったのだろう。しかしこれは黒の魔法ではないな」
「でもゾックは黒の魔法の産物でしょう」
「それはそうだが、ゾックは長いこと黒の魔法の中心から離れていたから、もはや独自の生物と言ってもいいのかもしれん。この魔法使いにはどこかで早く会ってみたいのう」
 そこに近くの岩陰から、盗賊の頭バンドンがひょっこり姿を見せた。
「小鬼の後に付いてきたらこの騒ぎだ。とんでもねえ戦いに俺を参加させやがったな、クライバー」
 クライバーは笑った。マルヴェスターが重々しく言った。
「とんでもなくなるのは、まだまだこれからだ。ソンタール大陸に踏み込めば、さらに強力な魔法を持つ者たちが跋扈しておる。マコーキンとてこのまま引き下がりはすまい」
 老魔術師は古き竜に近寄ると、その傷だらけの顔にそって手を置いた。
「安らかに眠るがいい。この星の最初の獣よ」

 すべての騒ぎが終わった後、クライドン神の待つ神殿に戻ったセルダン達は暁の女神エルディを呼び出した。ここはカスハの冠があるザイマンからは遥かに遠く、時間も夕方に近かったが、セルダンが持つ聖なるカンゼルの剣と、ベリックが持つ聖なるバザの短剣の力を借りてブライスは額の銀の輪に祈った。
 やがて冷たい澄んだ空気が支配する山頂の神殿の前に、花のような女神が白い綿入れの服を着て、むくむくと着膨れた姿であらわれた。ブライスがちょっと残念そうな顔をした。
「なあにブライスその顔は。これはあなたの国民が贈ってくれたものよ。じゃまくさいんだけど、ここは寒いんだもん」
 そう文句を言ってから、女神は巨大なクライドン神を見上げた。
「こんにちはクライドン。おひさしぶり」
 それまでいかめしい顔をして立っていたクライドン神の顔がかすかにゆるんだ。
「こんにちは姉上。あなたを見ているとこの世に闇があることなど信じられなくなる」
「私に対してご機嫌を取らなくてもいいのよ。でもよかった、心配したわ」
 エルディはそう言うとフワッと浮き上がって、クライドン神の顔の高さまで昇ると、その頬にやさしくキスをした。そして空中で舞うようにしながらクライドン神の周りを回った。すると、セルダン達が立っている地上の空気が少しだけ温かくなった。エルディ神は今度はゆっくりと舞い降りて、ベリックの前に立った。
「初めまして。小さな短剣の守護者さん。どこでその短剣を手に入れたのかをマルヴェスターやブライス達に詳しく話してあげてね。その短剣を守っているはずの私の姉さんがもう二千五百年も姿を見せていないの」
 ベリックはきょとんとした顔をして黙っていた。というより、どういう言葉を使って答えればいいのかわからなかったのだ。マルヴェスターが言った。
「エルディ神、ようやくここまでこぎつけました。これからオルドン王が西の将の要塞を攻めます。おそらく落とすことが出来るでしょう。カインザー軍は三度ポイントポートに向かいます。しかし今回は奪い返されてはなりません。守りの平野セントーンが危ないのです」
 エルディ神は、美しい顔を引き締めた。
「マルヴェスター、セルダン、ありがとう。ここまで来れたのはあなた達のおかげね。もちろんオルドンの遠征は成功するでしょう、新しい剣の守護者がここにいますから。でもセントーンが危険なのも確かです。そしてセントーンを南の将から守る責任は私のザイマンにあるわ。ブライス、あなたのお父さんのドレアントからの伝言よ、カインザーに残って艦隊建造の指揮をしなさい」
 ブライスはちょっと驚いた。
「親父に会ったんですか」
「あなたたちが出発したすぐ後にね。たっぷりしごいてやったわ。あなたの王家はわがままだから」
「それは守護神に似たんでしょう」
「口の減らない子だこと」
 マルヴェスターが、ベリックが連れてきた馬を引いてきてエルディ神に見せた。
「女神様、この馬から感じる魔法に憶えがあるでしょうか」
 エルディ神は怪訝げな顔をして馬の鼻面をなでていたが、頭を振った。
「知らない魔法だわ。いまはかすかな力しか感じないけど、何か大きな力に繋がっているような気がします。気を付けたほうがいいでしょう」
 そう言って体をおこすと、クライドン神を仰ぎ見た。
「クライドン、元気になってね。わたしはもう戻ります。あなたがいつも力と共にありますように」
 クライドン神は力強く応えた。
「姉上がいつも暁と共にあり、道を示すことができるように」
 エルディ神は腕を振って、綿入れの服を中に放り投げた。その服が風にあおられて、ヒラヒラと舞いながら空に消えるのに人々の目が奪われているうちに、女神は姿を消していた。ブライスがドサリと地面に座り込んでつぶやいた。
「行っちまった。寂しいなあ」
 クライドン神は地上を見下ろすと、まだ岩に突き刺さって輝いているカンゼルの剣を片手で引き抜いた。そしてセルダンに向かってとどろくような声で言った。
「セルダン、そなたを正式に聖宝の守護者に任じる。わしにはオルドンがそれを望んでいる事もわかっている。これを持って、我が兄弟達の導く国々と力を合わせ、バマラグとガザヴォックの野心によって乱された光と闇のバランスを保て」
 セルダンはかしこまって剣を受け取った。
「我が命にかえても」
 聖剣の守護神である戦いの神は満足そうにうなづくと、人々のほうに向き直った。そしてやがてゆっくりとその姿が薄れて姿を消した。
 
 その日から数日後の事である。ライア山の山頂から脱出したテイリンとゾック達は、驚くべき速さでアルラス山脈の北端に達していた。テイリンは巨竜ドラティに指示された通りに渓谷をたどり、ついにドラティが住処にしていた洞窟を探し当てた。
 洞窟に足を踏み入れたテイリン達は慎重に奥に進み、竜がねぐらにしていた巨大な部屋にたどり着いた。主を失った洞窟はやけにガランとしており、飛び立つために空けられた天井の穴から、寂しげな光が差し込んでいるだけだった。
 テイリンは心を落ち着かせた。これから大きな使命を背負わなければならないのだ。若い魔法使いは一呼吸すると、竜から授けられた呪文を静かに唱えた。
 しばらくするとテイリンの目の前にある、壁だと思われていた岩がかき消すように消えた。そしてその奥にもう一つの巨大な部屋があらわれた。テイリンがその部屋の中央部に進むと、柔らかい土が盛り上がった所に、テイリンが両腕で抱えないと持てない程の大きさの、巨大な卵があった。これが竜が隠していた秘密だった。
 闇をつかさどる創造神バステラが創り出した生物、巨大な竜ドラティは、光をつかさどる創造神アイシムの聖なる短剣を身に受けることによって。子孫を生み出すことが可能になったのだ。
「我が卵を見付けて、豊饒の神ミルトラの水につけよ」
 竜はテイリンにそう言い残していた。テイリンは魔法をかけて卵の重さを少し軽くすると。大事に抱き上げた。卵は時々脈打つように光を発した。テイリン達は竜に教えられたとおりその部屋のさらに奥にあるほら穴に入って行った。ほら穴はやがて大きな縦穴に続いた。跳躍力を増したゾック達は、その縦穴を壁から壁に跳び渡りながら器用に降りて行った。テイリンもその後に続く。
 最下層に降りると、そこにはアルラス山脈から流れ出る地下の川が流れていた。テイリンたちは川下側の、水によって穿たれた小さなトンネルに潜り込んだ。膝までくる水は冷たかったが、竜の血にさらされたテイリンとゾックは、それに耐える事が出来るようになっていたのだった。

―――――――――

 すでにカインザー大陸におけるの戦闘の舞台は、レンドー城からサルバンの野に移っている。マコーキン、バーン、バルツコワの率いる軍が急ぎ足で退却するのと入れ違いに、まだ無傷のキアニス将軍の軍がソンタール軍のしんがりにまわってカインザー軍と相対した。十分な兵数を揃えたオルドン王の軍勢は、着々と要塞に近づきつつあったが、キアニスは虎視眈々とこの機会を待ち構えていた。
 サルバンの野の中央部には、過去幾度もの戦闘で使われた幅の広い軍道が存在しているが、キアニスはその軍道を中心とする地域に、陣を重ねるように敷いてカインザー軍と戦った。一つ一つの陣地ではさしたる抵抗は出来なかったが、それでもカインザー軍の速度を落とさせる役には十分立っていた。
 そのキアニス将軍の陣は現在、最前線い近いとある町に置いてある。ここ数ヶ月の間にサルバンの野に点在する町や村、地形などをすっかり頭の中におさめた実務型の将軍は、冷静にマコーキン軍とオルドン軍の距離をはかって作戦を立てていた。その日も地図を見つめて作戦を検討していたキアニスのもとに、将校がやってきて戦線の様子を伝えた。
「将軍、また町が一つ、取り返されました」
 キアニスはそのままの姿勢で問い返した。
「我が軍の損害は」
「軽度です。ご命令どおり、カインザー軍を翻弄して退却しました」
「それでいい。町と住民は無事か」
「はい。街道沿いの森を中心に抵抗しましたので、町を戦場にはいたしませんでした」
 キアニスはよしといった感じで、地図から目を上げた。
「それで良い。退却の際には決して町や住民に危害を加えるな。じっとしていれば、オルドンの軍が来て開放してくれると思わせるのだ。個々の町や村に抵抗されては面倒なことになるからな」
 報告をした将校は不思議そうな顔をして、キアニス将軍にたずねてみた。
「オルドン王の軍は人数が多いだけに、進行速度が鈍くなっています。現在のマコーキン様の軍とオルドン王の軍の速度を見ると、オルドン王が追いつくのはまず無理でしょう。そろそろ我々も引き上げてしまってはいかがでしょうか」
 キアニスは意外といった感じで将校を見た。
「退却だと、せっかくカインザーの王と遊べるのだぞ。ぞんぶんに楽しませてもらおうではないか」
 そう言ってキアニスはまた地図に目を落とした。むろんどうやっても勝ち目は無い。サルバンの野はただの平原なのだから、どんなに陣地を築こうと騎馬軍団に迂回されるか、強大なオルドン軍に一蹴されてしまうのがオチだった。ただ、何かをせずにはいられなかったのだ。
(このまま退却してしまって良いものだろうか)
 キアニスは立ち上がって屋外に出てみた。陣が置いてある建物の周りには兵士達が立っているが、町の住民には平素どおりの生活を続けるように言い渡してある。ここを戦場にするつもりは無い。しかし村人達は緊張した面持ちで陣の近くの道を歩いている。その窮屈な雰囲気を感じているうちに、突然キアニスは耐えきれなくなってきた。
 将軍は何かを決意したかのように、側にひかえている将校に伝えた。
「よし、全軍退却する」
 将校はホッとした様子でその事を伝えに走った。
 その地域で指揮していた全部隊がキアニスの前に揃った時、町の長が現れた。すでに馬上の人となっていたキアニスは、心から町の長に礼を言った。
「短い間だったが世話になった。敵の支配に従うのは不本意だったかもしれないが、これも戦いの常だと思って欲しい」
 町の長は深々と頭を下げた。
「我々は戦士の国の民、常に強者に従います。閣下の支配の間、町にいささかの危害も加えられなかった。その統治ぶりは見事でございました。オルドン王にもそう申し上げましょう」
「それは何より嬉しいことだ」
 キアニスは満足げに笑うと、馬を翻してマコーキン軍の後を追った。

 ソンタール大帝国を支える五つの軍団。その一軍を率いる西の将マコーキンは、レンドー城攻めから退却する軍勢の中央にいた。カインザー王国のオルドン王をぎりぎりまで追いつめながら、あと一歩の所で退却せざるを得なかった悔しさは、もうその顔には残っていない。参謀のバーンはマコーキンのやや後ろを馬で進んでいたが、風を浴びて走る西の将の妙にすがしがしい顔を見てふと不安になった。
(まさかこのまま要塞で討ち死にするつもりではあるまいな)
 バーンは馬をマコーキンに寄せた。
「どうやらオルドンには追いつかれないで済みそうです。要塞に戻ってから、どうやって防衛戦を組み立てるおつもりですか」
 マコーキンは首を振って大きな声で答えた。
「要塞には戻らない。カインザー攻略を再び行うためには、この戦いを中途半端な終わらせ方をしてはならない。今、ゾノボート亡き要塞に戻ったところでカインザー全軍の攻撃を持ちこたえるのは無理だろう。しかもソンタール本国は東のセントーン王国攻略にかかりきりで援軍を送ってはくれまい。被害を最小に食い止めるにはいっそ要塞を捨てたほうがいい」
 この案にはバーンも異存が無かった。
「このままパイラルの陸橋を渡るのですね。しかしポイントポートの町は要塞よりもさらに守りに不適切です」
「ポイントポートはいつでも取り返せる。オルドンとその息子にくれてやろう。しかしポイントポートから先の大平野に踏み込んで戦う程の国力は、カインザーにはまだ無いはずだ。まずグラン・エルバ・ソンタールに戻ってハルバルト元帥に今回の不首尾をお詫びする。そしてその後も一軍を率いる事が許されるなら、ソンタールの大平野で得意の野戦を展開してオルドン王とセルダン王子と戦ってやろうではないか」
 バーンはこの的確な判断に感心した。これだけの大胆な行動ができる将軍はソンタール広しといえども他にはおるまい。
(この男に賭けた俺の判断は間違っていなかった)
 問題は、今回の件でマコーキンがどの程度の処罰を受けるかだ。自分の家名に物を言わせて、出来る限りの運動をしなければならないとバーンは思った。何と言っても西の将の失敗は、まぎれもなく参謀である自分自身の失敗でもあるのだから。こうしてマコーキン率いる西の将の軍団は、ソンタール帝国へ戻る道を取って進んで行った。

 一方、要塞に戻った魔法使いブアビットは、率いていた一万の神官兵に要塞に残っていた五千の神官を加えて篭城の準備に入っていた。ゾノボートの死を知った時点で、神官中心の考え方しか出来ないブアビットは、マコーキンも退却すると判断した。事実そうなったが、実際に西の将の退却を知ったブアビットは、一日千秋の思いでマコーキンの帰還を待ちこがれた。
(まだすべてが振り出しに戻っただけなのだ。いや、今ではこの俺が要塞第一位の魔法使いだ。ゾノボートのように力を無駄にして守りに専念するのでは無く、この俺は積極的に西の将と連携してやる。そうなればこの要塞はそう簡単には陥落しないし、やがてすぐに反撃に移れるだろう)
 ほとんど一人で要塞内をかけまわりながら指揮をしているブアビットは、そう思っていた。ちょうど要塞の司令室にブアビットが戻った時、マコーキンからの書状が届いた。ブアビットは使いの手からもぎ取るように書状を引ったくると、震える手で開いた。しかしそこには全く意外な文字が記されていた。
「要塞を捨てられたし」
 ただ一言のこの要請にブアビットは血を吐かんばかりに激怒した。
「狂ったかマコーキン。西の将が要塞を捨てて何とする。ええいかまわん。この要塞は俺一人で守りぬくわい」
 ブアビットはマコーキンの指示を蹴った。そしてマコーキン軍が要塞を全く無視して要塞の遥か東を通過して行くのを、怒りを込めて見送った。しかしもう一人。この要塞に留まる決意をした男がいる。キアニス将軍である。この不思議な将軍は、マコーキンにその望みを伝えて許されると、わずかな兵を率いて要塞に戻った。ブアビットは戻ってきたキアニスにたずねた。
「なぜ、西の将と行動を共にしないのだ」
 キアニスは笑って答えた。
「私は軍人だ。マコーキン様もバーンもバルツコワも、ケマール川で存分に戦った。しかし私は補給作成と撤退戦しかやらせてもらえなかった。ここで軍人としてのけじめをつけたいのだよ」
 この言葉にブアビットは喜んだが、キアニスは内心とても要塞が守り切れるとは思っていなかった。わずかに二万程度の兵ではこの巨大な城をとても守りきれない。しかし、キアニス将軍が戻った事で、要塞はまがりなりにも防衛戦の格好を付けることが出来るようになった。もしかしたらキアニスはその格好を付けたかったのかもしれない。大ソンタールの将の要塞が、まともな防衛戦も行わずに落ちる事がこの将軍には許せなかったのだろう。
 そして二週間後、まずトルソン侯爵とロッティ子爵が率いる七万の軍が要塞を囲んだ。さらに五日後、オルドン王の青の旗を先頭に押し立てた十万の軍勢が到着して、要塞の周りは蟻一匹這い出る事もできないくらいにカインザーの兵で埋まった。ブアビットとキアニス将軍は、押し寄せる戦士の国の精鋭部隊を、城壁の上からぼう然と見つめていた。ブアビットは怯えたように叫んだ。
「なぜこういう事になってしまったんだ。キアニス、なぜだ」
「結果的にカインザーを甘く見過ぎたのでしょう。マコーキン様があれ程見事にレンドー城を囲めたのなら、あなたは無理してトルソン侯爵と戦う必要は無かった。あるいはゾノボート様は、翼の神の弟子マルヴェスターとセルダン王子に、もっと注意を払うべきだったのかもしれません。しかし今更、何を言っても遅いでしょう。戦って、ここを守れるだけ守ってみましょう」
 そう言ってキアニスは城壁を後にした。ブアビットはしばらく一人でたたずんでいたが、やがて両腕を広げて空に雲を呼び、雨と風を起こしてカインザー軍に叩きつけた。しかし、オルドン王の青の旗は嵐の中でも揺らぐ事は無かった。
 オルドン王が到着した翌日から、カインザー軍の攻撃が始まった。魔法使いブアビットとキアニス将軍は驚異的な戦いぶりをみせて奮戦したが、十倍のカインザー軍を相手にしてはすでに勝敗はついていた。これまでと見たキアニス将軍が城門を開いて、トルソン侯爵の軍に突入していったのは、要塞の攻防戦が始まってからわずか十日後の事だった。トルソン侯爵との激しい一騎打ちの末にキアニス将軍が戦死して、遂に西の将の要塞は陥落した。しかし陥落した要塞には、最高司令官であるブアビットの姿だけが無かった。

 西の将の要塞陥落の知らせは遠く東の果て、守りの平野セントーンにも届いた。セントーン王国は西の山岳地帯から東の将、南の陸地づたいに南の将、海からユマールの将と三方からソンタールの将軍に囲まれていよいよ危機が迫っていた。しかし聖宝ミルカの盾の守護者、セントーンの花と呼ばれるエルネイア姫の美しさには、そんな状況などかけらの影も落とすことができないようだった。
 まさに花が満開といった感じの美しさの王女は、美しく整った白い卵形の顔をやや伏せて、サラサラとした金髪を風になびかせながら、セントーン王の城の屋上で伝令鳥が運んできたセルダンからの手紙を読んでいた。そばに控えていた、これも驚く程に美しい女魔術師ミリアはその内容におおよその見当が付いていたが、お付きの侍女達は遠く西の果ての国の戦いの結果を知らずに不安そうに王女を見守っていた。
 エルネイア王女は手紙を読み終わると、顔をツンとそらしてツカツカと屋上の城壁に近づいた。そしてバッとスカートをたくし上げると、片足を城壁の低くなっている所にかけて風に向かってほがらかに笑った。そしてクルリと振り向くと、驚く侍女達をしり目にミリアに近き、瞳をキラキラさせながら手紙をミリアに向けて突き出した。
「あたしのセルダンが勝ったわ」
 手紙を受け取ったミリアは、クシャクシャになった手紙のしわを、なでるようにのばしながら言った。
「よかったわ。セルダンは賢く勇敢な王子でしたから、必ずカインザーに勝利をもたらすだろうと思っていました。マルヴェスターとブライスもいましたしね」
「もう一人。短剣の守護者がいたそうよ」
 ミリアは驚いて、手紙を読み始めた。そして目を走らせながら何かをぶつぶつとつぶやいた。その時、全く突然にエルネイアの瞳に涙があふれた。
「危険だったの。危なかったの。黒い盾の魔法使いと直接戦ったのよ、あのオドオドした優柔不断の王子が」
 美しい王女はそう言って女魔術師に抱きついた。ミリアはやさしくこの感情の激しい娘を抱きしめた。
「すくなくとも戦っている時は優柔不断ではなくなったようね。この次に会う時までには、あなたももう少し大人にならないといけないわよ」
 エルネイアは涙もぬぐわずに笑ってうなずいた。

 カインザー軍の支配下に入ったかつての西の将の要塞の地下、ゾノボートの部屋のさらに深い底にある部屋で、ブアビットは一人生き伸びていた。ここはかつて巨竜ドラティが要塞に巣くっていた頃に作った洞窟の最深部にあたり、部屋の半分が段になっていて、低くなった所を遠くアルラス山脈から流れ出す地下水の川が流れている。
 ブアビットはこの薄暗い部屋で懸命にオルドン暗殺の機会を狙っていた。すでにブール無く、神官兵すら失ってしまったからには、このままソンタールに帰るわけにはいかなかった。何としてでもオルドン王の命を奪って、グラン・エルバ・ソンタールへの手土産にしなければ帰れない。ブアビットの表情は次第に鬼神の様相を帯びてきていた。
 オルドン王は現在、ポイントポートへの遠征に出かけている。しかしマコーキンに守る気が無いとすれば、ポイントポートは戦わずして落ちると思っても間違いは無いだろう。
(勝ちにおごったオルドンがここに戻ってきたその時こそ、黒の神官の秘術が、致命的な一撃をカインザー王に加えるのだ)
 地下のよどんだ空気の中であぐらを組み、日課の瞑想に入ろうとしたブアビットは突然バシャバシャという水音を聞いた。何事かと飛び起きたて急いで地下水の川に駆け寄ったブアビットは、いきなり川のトンネルから飛び出してきたテイリンと鉢合わせをした。二人の生き残った魔法使いは、しばらくお互いの姿を見つめていたが、先に口を開いたのはブアビットだった。
「テイリンか、小鬼の魔法使いか、貴様生きていたのか」
「ブアビットか」
 そう言ってこれも驚いているテイリンの後ろから、赤く染まった足をしたゾックが次々にあふれ出してきた。それを見たブアビットは狂喜した。
「そうか、生きていたか。テイリン、このゾックを使わせてもらうぞ」
「使う。どういう事だ、要塞はどうなったんだ」
「陥落した。オルドン王はポイントポートを落として、もうすぐこの要塞に戻ってくる。その時に要塞内に一斉にゾックを放つ。そして混乱している隙にオルドン王を殺すのだ」
「断る」
 テイリンは即座に拒否した。ブアビットは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「断るだと、今ではこの俺が要塞で最高位の魔法使いなんだぞ。貴様、流れ者のくせにこの俺の命令に逆らうのか」
 ここで、ブアビットはテイリンの抱えている卵に気がついた。
「貴様、何を持っている。何をしようとしている」
 テイリンはひるむ事無くこれに応じた。
「俺には使命がある。俺には生まれた時からいつも使命があった。おまえ一人の欲望の手助け等している暇は無い」
 これを聞いたブアビットは怒りにかられて、テイリンに炎の魔法を叩きつけた。しかしテイリンは、龍の卵をかかえた腕の、右手の先を軽く振ってこれを跳ね返した。跳ね返された炎は激しい勢いでブアビットに襲いかかり、魔法使いを炎に包んで後ろの壁に叩きつけた。そしてブアビットはそのまま声も無く芯まで燃え尽きた。これにはテイリンが驚いた。自分の魔力がかつてより遥かに高まっている事に、これまで気が付いていなかったのだ。
(何という事だ、自分はどうなってしまうのだ)
 ブアビットの燃えかすを見つめて、テイリンはしばしぼう然としていた。その時テイリンの腕の中の卵がゆっくりと光りだし、暗い空間に明かりを灯した。そして心配そうにそばで見ていたゾック達が、力づけるようにテイリンのまわりに集まってきた。小鬼の魔法使いテイリンは、これまでに何度もしてきたように頭を振り、心を決め、顔を上げて、また北へと向かう水路へと踏み込んでいった。

 パイラルの陸橋の近くにある漁村に住む村人は、その冬、多くの軍勢がカインザーからソンタールへと陸橋を渡るのを見送った。まずはつぎはぎだらけの鎧を身にまとった傭兵隊長ガッゼンが率いる傭兵部隊が通り過ぎた。村人達は略奪におびえて部隊の通過を見守ったが、ガッゼンの部隊はわき目もふらずに駆け抜けた。次に黒い鎧に身を固めた西の将マコーキンが率いる元要塞軍が、規律正しく、しかし追われるようなスピードで過ぎて行った。その次にやってきたのが、村人達の新しい王だった。青い旗をかかげたカインザー王国のオルドン王は自ら村に立ち寄り、これからパイラルの陸橋はカインザーの支配下に置かれると宣言した。
 程なくしてカインザー軍が、陸橋のソンタール側、ポイントポートの町をほとんど抵抗無く手に入れて、城を築きはじめたという話が伝わってきた。そしてそんなある日の深夜、見張りでおきていた村人は不思議な光景を見た。それは何か大きな荷物を胸に抱えた男と、その後に続いた赤く光る足を持つ小柄な生き物達が、まるで飛ぶように陸橋を渡って駆け去ってゆく姿だった。

(シャンダイア物語 第一部 戦士の大陸 完結)


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