第一章 バイオン


 その白い狼は、巨大な体をユサユサと揺らしながら雪深い渓谷を進んで来た。十メートルはあろうかという巨体のために、森の木々の間を歩くことは出来ない。だから凍りついた小川に沿った岩場を、鋭い爪で荒々しく削りながら走っている。一息ごとにつくハァハァという荒い息と、ザクザクという足音だけがこの数時間単調に繰り返されていた。まだ昼間だというのにサルパートの峰々を覆う空は薄暗く、舞い踊る雪が白いまだら模様を描いて灰色の空を汚している。雪はやがて吹雪になろうとしていたが、襲う予定の村にはまだ着かない。
 谷を囲む森の中でルフーと呼ばれる小型の狼の群れが激しく鳴きだした。黒い短剣の魔法使いギルゾンが、また魔法で容赦無く鞭打っているのだろう。バイオンは氷の葉をまとった森を見上げて怒りのうなり声をあげた。
(私の小さな子供達に手を出すな)
 もちろん、この星の生き物の雛形としてアイシム、バステラの二神に創造されたバイオンは、直接子供は産まない。しかし、バイオンはこの小さなルフー達を我が身の一部のように可愛がっていた。こういった愛情にも似た感情を持つあたりは、守るべき者の無い他の巨獣達とは大きく違う。
 崖の上の森の中には何者の姿も見えない。だが魔法使いギルゾンもルフーの群れと行動を共にしているはずだった。バステラ神の高位の神官、黒い短剣の魔法使いギルゾン。巨狼バイオンですら、かつてこれ程冷たい心の持ち主の人間に出会ったことは無い。まさしくギルゾンこそ闇に生を受けた暗黒の魔法使いの名にふさわしい。遠いカインザー大陸で死んだと伝えられる巨竜ドラティが、毛嫌いしていた黒い盾の魔法使いのゾノボートなど、ギルゾンに比べたら人の良い老人に過ぎないだろう。しかしバイオンが守る要塞の主人である北の将は、この魔法使いに完全に心を支配されていた。冷酷なギルゾンの限りなく強い呪縛の力と容赦の無い行動力。かつて誇り高かった北の将ライバーは、年齢と共に失った力をあの地獄の魔法使いに求めたのだろうか。
 バイオンは視界を遮る雪に鼻息を吹きかけて、思いを目前に迫った襲撃に振り向けた。
(ギルゾンもライバーもそのうちに滅びる。我が身をこの北の将の要塞に縛りつけた、あの魔神に等しい黒い指輪の魔法使いガザヴォックでさえもいつかは滅びるだろう。くだらない人間同士の争いなど、私のまばたきの一瞬の間に過ぎないのだ。残るのは我ら狼族の牙の道のみ。それまでは仕方あるまい、北の将の要塞の鎮護の獣としての勤めを果たしてやろうではないか)
 やがて谷にかかる木造りの橋が見えてきた。その橋を支える木材は芯まで凍りついて、黒い姿を白い雪の中にみじめにさらしている。バイオンは一声吠えて、橋のたもとの崖を駆け上った。崖の上には村まで続く広い道がある。その道はバイオンの巨体をも充分に進ませる事ができる幅があった。バイオンが足下の雪をならすように踏みしめた時、遠くで冷たい空気を切り裂くように鋭い悲鳴が上がった。バイオンの雄叫びを村人が聞きつけたのだろう。しかし気がつくのが遅過ぎた。数分の後には、ギルゾンに命令された狼の群れが、まるで黒い虫の大軍のように白い大地を疾駆して村に襲いかかっていった。狼の吠え声は、すぐさま人間達の悲鳴と騒然たる破壊の音にかき消された。
 ルフーの群れは、容赦無く村を食い散らかした。人も家畜も、動く物はすべてルフーの標的となった。一足遅れてバイオンが悠然と村に足を踏み入れた頃には、すでにそこに音は無く、咬み千切られた村人達の無残な体が道端に転々と転がって白い雪を赤く染めていた。バイオンはその赤い色に、ふと人間という生物の生命力の強さを見たような気がして、先程の自信とはうらはらに自分の種族の将来にうすら寒い予感を覚えた。
(人間とは、なんという濃い色の血を流す生き物だろう)
 その不安を振り払うように首を振って雪を散らすと、バイオンはゆっくりと村の中に入っていった。空気すらも濁るような血の臭いを嗅ぎわけながら進むと、村の中央広場の囲いの中に大きな牛が一頭おびえて立ちすくんでいる。子供達が残してくれたのだろう。バイオンは前脚で囲いを踏みつぶすと、巨大な顎ですくんでいる牛の背骨を噛み砕いた。そして血と肉をまとめてすすり上げると、ほおばった肉のあたたかさとうまさに身震いした。すでにこの山には、バイオンら狼達の腹を満たす程の量の食べ物は残っていない。ギルゾンの無謀な襲撃の繰返しが、山の生命そのものを奪い去っているのだ。狂える魔法使いに呪いあれ。
 巨大な狼は強さを増した吹雪の中で、雪の舞い落ちる虚空に向かって高々と叫び声を上げた。我が名はバイオン、この星の最初の狼であると。

 戦士の大陸と呼ばれているカインザー大陸の諸侯が、黒い盾の魔法使いを倒し、西の将をその要塞から追い出して、ソンタール大陸の入り口にあたるポイントポートに築城を始めて三か月がたっている。築かれつつある城の城代には、最前線という事もあってカインザー戦士軍団長のトルソン侯爵が着任していた。傷だらけの豪傑トルソン侯爵が率いる戦士団は、接近戦においては文句無しにカインザー最強である。これは旧シャンダイア王国連合軍最強である事も意味していたが、先の西の将の要塞軍との激戦の末、さすがに戦える戦士の数が減っていた。そのため、このポイントポート城にはもう一団、ケマール川の戦いで戦死した名将ベーレンス伯爵の長男、若武者カイト・ベーレンスが率いる戦士団が加わっている。この若者は戦士としては父親ほどの重厚さは無いものの、その頭脳と人望は父をも凌ぐのではないかと噂されている。カイトは自らポイントポート城の築城の指揮を買ってでて、オルドン王に許されていた。
 カインザー王国の国王オルドンは、最前線の一歩手前にある旧西の将の要塞に居城を移した。そこに軍をとどめ、二度と奪回されないように要塞の補強と前線への指示に神経を注ぐ事にしたのだ。西の将マコーキンと黒い盾の魔法使いゾノボートの二重統治で構造が複雑化していた巨大な要塞は、カインザー流の大雑把な改築が加えられて青の王旗で城壁が飾られた。そのため、ここは以後青の要塞と呼ばれる事になる。
 それまでの政治の中心地マイスター城は、引き続き九諸侯筆頭のランバン公爵と内務大臣のテューダ侯爵がとどまって政治をつかさどっていたが、外務大臣のアシュアン伯爵は夫人のレイナを連れて青の要塞に移った。乾いた大地を馬車で揺られる旅は、二人の体重を少しは減らすのでなないかと、アシュアン家に仕える者たちは淡い期待をいだいたが、二人は酷使されるお尻の脂肪のために十分な食事を摂ったため、むしろ体重を増やして要塞に辿り着いた。
 一方海路では、碧眼の好漢バイルン子爵の艦隊による航路が、海洋王国ザイマンのブライス王子の手助けによって徐々に準備されつつあった。ソンタール大陸中央部のエルバン湖から流れ出すエルバナ河の河口付近は、ソンタール皇帝直属の海軍提督ゼイバーの艦隊が制圧していたためにまだ近寄る事はできなかった。しかしカインザー大陸の西側の海域は昔から比較的安全で、ある程度の航路ができていたため、バイルンはまずそこを整備してポイントポートまでの仮の輸送路をつくった。何よりもまず、最前線のポイントポートへの物資の輸送が再優先だったのだ。また、カインザー大陸の北東にある青の要塞に最も近いカンポスの町の港を拡張し、ここからも青の要塞に物資を運び込む計画が進んでいる。そのため、これまでカインザー大陸の内陸にあった大都市セスタに集積される事になっていた前線への物資が、海路を利用して、直接青の要塞やポイントポート城に運びこまれるようになりつつあった。このままカインザー諸侯が二つの城を守り通せれば、巨大都市セスタは前線への補給基地という使命を終える事になるだろう。

 そんなある日、そのセスタの巨大な城門の下をくぐり抜けて、白いレースのカーテンの付いた大きな馬車がゆっくりと街の中に入っていった。中には、これもレースのフリルに埋もれるように、不格好な黄色いドレス姿の少女が険しい表情で座っている。風変わりな灰色の瞳と白い巻き毛、魔術師マルヴェスターによってカインザー王国の王室に預けられているアーヤ・シャン・フーイである。その向かいの席では、こざっぱりした薄い茶色の服を来た小柄なバルトールの少年王ベリックが、小さな顔に困ったような表情を浮かべて腕を組んでいる。この馬車には、不思議な生い立ちを持つ少年と少女が同席していた。
「これは巨大な陰謀だわ」
 アーヤが両手を振り上げてベリックに訴えた。馬車の窓から差す明るい日差しが、黄色のドレスの上で乱暴に踊らされた。
「おいらはあたりまえだとおもうがなあ。アシュアン外務大臣が青の要塞にレイナ夫人と行くのはわかるけど、あんたがついて行ったって何の役にも立たないだろう。危険だし邪魔になるだけだぜ。おいら達はこのセスタに滞在しろという王様の命令は不思議でも何でもないと思うけど」
 ベリックは、ようやく王子や貴族達との付きあいに慣れてきていたが、言葉使いはまだ地下商人達の中にいた頃のままだ。その返事を聞いたアーヤの怒りに燃えた灰色の瞳が、一瞬白くなったように見えてベリックはちょっとひるんだ。シャンダイアの国々で迫害をうけたバルトールの民の中で苦労して育ったベリックは、正直言ってこの女の子が苦手だった。どうにも思考の流れが、バルトールのみなしごとはかけ離れ過ぎている。そしてもう一つ。巨大な竜ドラティにすら怯えなかったベリックが、この少女の言葉にだけは、妙に従わされてしまうような力を感じる時があったのだ。
「いいえ、セントーンのエルネイア姫が、私をセルダンがいる要塞に入れないようにオルドン王に頼んだのよ」
「エルネイア姫って誰だっけ」
 アーヤはドレスの膝のあたりをつかんで激しく振り立てた。アーヤがドレスの下に履いている長い下着が真っ赤な事に気がついたベリックは、さらに情けなさそうな顔になった。
「何べん話をさせるのよ。セントーン王国のミルカの盾の守護者よ。あたしがセルダンに近づくのに嫉妬してるんだわ」
 ベリックは頭をかかえた。
「ちょっと聞くが、あんたはセルダンが好きなのか」
「馬鹿ね。あんな粗野なカインザーの王子はあたしにふさわしくないわ」
「粗野はともかく、似合わないだろうね。歳も違うし、思い出したけどエルネイア姫ってすごい美人だって言うし」
 またアーヤの瞳が白くなって、ベリックが窓から逃げ出したくなった時、まるで救いの手を差しのべるかのような声が馬車の窓の外から届いた。
「ベリック王、アーヤ様。ようこそセスタにお越しくださいました」
 カーテンを開いて窓の外を見たベリックの目に、自分と同い年くらいのハンサムな少年が、栗毛の美しい馬にまたがって馬車と並走している姿が映った。青い目が印象的な少年はベリックにほがらかに笑いかけた。
「初めましてベリック王。アントン・クライバーと申します。父が軍を率いて要塞に行っているため、替りにお迎えにあがりました」
 ベリックはこの救いの手に飛びついた。
「ありがとうアントン。馬は他にいないの」
 アントンは後ろに従っている家来に手を振って合図した。
「馬車をお止めください。この者の馬をどうぞ」
「いや、止めなくていい」
 ベリックはそう言うと窓からスルリと体を乗り出して、器用に馬車の屋根によじ登った。
「近くまで来て」
 アントンの家来が不安げに馬を寄せてくると、ベリックはタイミングをはかって並走している馬に飛び乗った。
「つかまってて」
 ベリックは突然目の前に降ってきた少年に驚いている男に声をかけると、手綱を男の手から取って馬に軽く鞭を入れた。アントンがその後ろ姿に声をかけた。
「真っすぐ行くと大きな広場があります。それを横切った正面の屋敷で、迎えの者達が準備しております」
「わかった。ありがとうアントン」
 走り去るベリックを笑顔で見送ったアントンは、速度を落とした馬車の中でハンカチで顔を隠している幼なじみのアーヤに声をかけた。
「アーヤ様。お久しぶりでございます」
 アーヤは右手で顔を隠したまま、左手をヒラヒラと振った。
「いきなり覗かないで。レディーには挨拶するための準備が必要なんだから」
「それでは先に行って屋敷でお待ちいたしておりましょう」
 アントンは思った通りの答えといった感じでほがらかに笑うと、そう言ってベリックの後を追った。残されたアーヤは馬車の中で地団駄を踏んだ。
「もお、男の子って本当にどうしょうもないんだから」

 その夜のクライバー男爵の屋敷での食事は、ベリックにはとても楽しかった。マイスター城に滞在している間は、大柄なカインザー戦士ばかりの中で何となく居心地が悪かったのだが、年齢が近い男の子のアントンに出会えた事と、その母親のクライバー男爵夫人のポーラの優しさが嬉しかったのだ。ポーラの絶えないほほ笑みは時としてベリックの心に痛みすら感じさせた。そして、育ての親であったザイマンのバルトールマスター・メソルが、とても厳しい女性だった事が思い出された。荒野での生存のための訓練と、短剣の扱い方、巨竜ドラティの倒し方など。幼い少年になぜこれ程の試練を詰め込んだのか、ベリックにはもちろんわからない。
(あの額に宝石が埋まった女性は、今頃どうしているのだろう)
 夕食が終わり、大嫌いな風呂に形式程度につかった後、深夜になってベリックはクライバー邸を抜け出した。身軽に塀を越えて道に飛び降りると、そこにかつてカインザーのバルトールマスター・ロトフに仕えていた、地下商人のフスツが立っていた。痩せた、左頬に深い傷のある男は一礼して王を迎えた。
「お待ちいたしておりました。すでに一同揃ってお待ち申し上げております」
「よし」
 ベリックの答える声とともに、大小二つの影はセスタの巨大な都市の闇にまぎれた。ベリックは速足で道を進みながら、夜の風を体に感じて充実感に気持ちが浮き立つのを覚えた。流れる町並み、窓から漏れるランプの灯。すえた夜の臭い。ここにはセルダン達のような昼間の戦士の世界とは違う、もう一つの世界がある。やがて二人は、バルトール人が経営する酒場の地下から続く通路を通って、薔薇の模様の扉を開き、小さな部屋に入っていった。
 ほとんど何も無い部屋の中には、黒いマントに身を包んだ三人の人間が立っていた。ベリックが部屋に入ると三人ともハッとしたような表情を顔に浮かべて、驚いたようにこの少年を見た。三人の側に立って振り向いたフスツが、ベリックにそっとうながした。ベリックは腰から聖なるバザの短剣を引き抜くと、右手に持ってゆっくりと三人に示した。やがてその青い金属がにぶく光り出して男達の顔を照らした。個性の見えない平凡な顔立ちの三人のバルトール人達は、しばらく心を失ったようにぼう然とその短剣を見つめていたが、すぐにその瞳を涙で濡らしてベリック王に深々と頭を垂れた。
 フスツが幼い王に説明を始めた。
「現在のバルトールは七人のマスターによる合議制で統治されている事はすでにご存知のとおりです。しかし、七人の意見を合わせるのは極めて重要な事項に限られておりますので、事実上は分割統治されていると言ってもいいかもしれません。そのバルトールの国が、ただいまからベリック王の元に統一される事になるのです」
 そう言うと三人の男に向けて手を振った。
「名前は言う必要がございません。彼らはそれぞれのマスターの使いであり、彼らの言葉はマスターの言葉に等しいのです。右から智慧の峰サルパートのマスターの使い。守りの平野セントーンのマスターの使い。そしてソンタール帝国領ユマール大陸に潜入しているマスターの使いです。王を育てたザイマンのマスター・メソルの使いは参っておりません。カインザーのマスター・ロトフは亡くなりました。後任はまだ決まっておりせん」
 ベリックは指折り数えてみた。
「七人いると言ったよね。もう二人はどこのマスターなんだ」
「ソンタール帝国の首都、グラン・エルバ・ソンタールに潜入しているマスターと、バルトールの旧都ロッグにいるマスターです」
 サルパートのバルトールマスターの使いがうやうやしく口を開いた。
「ベリック王にご報告申し上げます。我らが失われし都ロッグのマスターの動きに不審なものが見られます。どうやらあなた様を疑っているようです。さらにザイマンのマスター・メソルにつきましても、せっかくの王家を血筋を、なぜドラティ討伐などという危険な目に合わせたのか追及しなければなりません」
 ベリックは最初の報告には不思議そうな顔をしたが、二つ目の疑問については心配していなかった。
「それはおいらがメソルおばさんに会えばわかる。ザイマンに行く」
 この話を聞いたフスツが、とんでもないというふうにあわてて手を振った。二度とこの王を手離すまいとする激しさがそこにはあった。
「それはいけません。マスター、メソルはこれまでにも謎が多いマスターでした。しかし今回の王の件で、ますますその正体が怪しくなってきました。現にこの会議に使者を送って来ていません。やはり現在一番安全なのはこのカインザーです。まずはここにいる者達とそのマスターは信用してくださって大丈夫です。そして王制が確立されるまでは、次のカインザーのマスターも任命しておいたほうがよろしいでしょう」
「おまえはなれないのか。ロトフの腹心だったんだろう」
 フスツはこれにも両手を軽く上げて否定の仕草をした。
「私はマスター、ロトフに王の身の護衛を任じられたものです。王から離れるわけにはまいりません。誰か他の者をご任命くださいますよう」
「他の者ったって、他の人はあまり知らないから。でもこれからセルダン王子達と行動を共にする事が増えるだろうから、バルトールの民の活動の内容も徐々に変わってくるだろうな。地下商人より、むしろ情報集めの役割が増えてくると思う」
 フスツと三人のマスターの使いは、このベリックの言葉の陰にある聡明さに驚いた。とても十歳そこそこの少年とは思えない状況の掌握力だ。四人の瞳に誇らしげな光が宿った。
「お言葉の通りでございます。最近特にカインザーの貴族達が密貿易の取り締まりに力を入れ始めましたから、少なくともカインザーでの商売は難しくなってまいりました。王のお言葉のとおり、これからは諜報のほうに力を入れていく事になるでしょう。カインザーのマスターにはとりあえず代行の者を就かせるといたしましょう」
「人選はフスツに任せる」
 そう短く言ったベリックは、三人のマスターの使いの者に向かうと、はきとした声で命令した。
「それでは、まずはセルダン王子に頼まれているふくろうの紋章の小瓶を全力をあげて探してくれ」
 三人のマスターの使いはそれに右手を胸にあてて素早く頭を下げてこれに答えた。その無駄の無さに、嬉しそうにこぶしを胸の前で握ったベリックは、横に立ったフスツに小声でたずねた。
「フスツ、もう一つ調べて欲しい事がある。カインザー宮廷に疑問があるんだ。あのアーヤって女は何者なんだ」
 これにはフスツも困ったような顔をした。
「わかりません。魔術師マルヴェスターが連れてきたそうです。出生についてはこの国の誰も知らないようですが、現在バルトールの情報網に調査を命じております」
「知りたいな。どうにも不思議な所があるんだ」

 翌朝、ベリックは珍しく寝坊をした。深夜に部屋に戻ったわけだが、もちろんそれが理由ではない。クライバー家の雰囲気になんとなく気が緩んだのかもしれないし、この数ヶ月の環境の変化で疲れていたのかもしれない。とにかく王は寝坊した。
 寝ぼけ眼でのんびりと食堂への階段を降りてきたベリックを、一階でアーヤが待ち受けていた。ベリックはアーヤのドレスの刺激的な赤い色に一気に目が醒めたが、その魅力的なドレスも、まだ子供のアーヤが着ると、ただ大きな赤い袋をかぶっているようにしか見えない。アーヤは小さなボードの上に乗せた紙の束と羽ペンを差し出すようにして宣言した。
「おはよう王様。朝ご飯の時間はとっくに終ってるわ。さあ、読み書きの勉強をはじめましょうか」
 バルトールの少年王は険しい顔でこの少女を睨んだ。
(この女王様然とした怪物は本当に何者なんだ)

 サルパートの峰に雪が降り積もっている頃、冬を知らないパイラルの陸橋に近い青の要塞の巨大な広間に、戦線で活躍するカインザーの諸侯が集まって軍議を開いていた。大きな窓から差し込む日差しは長方形の机の上を明るく彩り、そこに広げられている世界地図をやや見にくくしている。机の短い一辺には、マイスター城から取り寄せた巨大な壁掛けを背にして、戦士の王国カインザーの鋼鉄王オルドンが座っていた。壁掛けにはカインザーの守護神であるクライドン神が、この戦いの発端となったライア山の山頂の岩に聖剣を突き立てている姿が刺繍されている。オルドン王の向かって左後ろには、後継者であり、今は聖剣カンゼルの担い手である王子セルダンがいつものように体をやや右にかしげて立っている。おなじみの水色の服は、最近では何着かを交代で着るようになっていたので清潔だが、若い細い体は歴戦の勇者である父と比べるとまだまだひ弱い。
 王と王子の前には向かい合うようにしてカインザーの諸侯が並んでいた。王に向かって左側の列には、王に近いほうからカインザー戦士団の長トルソン侯爵、外務大臣のアシュアン伯爵、機動部隊の指揮官ロッティ子爵、王子の親友猛将クライバー男爵が席を占めている。その向かい側の列には、智慧の峰サルパート王国からの使者であるエラク伯爵、その隣に海軍司令官のバイルン子爵、さらに王子の武術師範でもある武術家ベロフ男爵が座っている。各貴族の後ろにはそれぞれ二名ずつの部下が立っていたが、クライバー男爵の後ろに立っている二人のうちの一名は、かつてアルラス山脈の南部を荒らしまくった盗賊団の頭バンドンだった。先の戦役の功績によって収容所暮らしを解かれ、クライバー男爵の預かりの身となっていたのだ。旧シャンダイア王国の相談役にして、翼の神マルトンの一番弟子マルヴェスターは、いつもどおり席に着かずに立ったまま窓から外を眺めている。
 セルダン王子は自分の前に並んだ戦士達を眺めながら、あらためてこの戦いの厳しさを思い知った。一人ひとりはたいへんな戦士であり、その率いる軍団も精強で恐れを知らない。しかし、その軍団が三千年かけてようやく手にしたのが、やっとポイントポートの町一つなのだ。
 傷だらけの見慣れた顔に混じって、セルダンが初対面だったのはサルパートの外交担当者であるエラク伯爵だが、その伯爵の、とつとつとした声が先程から部屋に流れていた。エラク伯爵はサルパート人らしい背の高い細い体に、銀の鎖で飾った黒い服を巻き付けるようにまとっている。この伯爵はサルパート王国とソンタール帝国の国境のテイト城の城主でもあったが、ソンタール内でのサルパート対策は北の将の管轄なので、北の将の要塞から遠く南に離れたテイト城はそれ程の戦役を過去に経験してはいない。
「魔法使いギルゾンの村々に対する襲撃が続いております。何を急ぐのかこの冬のさなかに。幾つかの村はルフーと呼ばれる狼の襲撃に無残な形で全滅してしまいました」
 そこまで説明して伯爵は言葉に詰まった。アシュアンが丸い子供のような顔に精いっぱいの悲しみを浮かべて、なぐさめるように言葉をかけた。
「ご心中お察し申し上げます」
 トルソンが傷だらけの顔をゆがめて言った。
「北の将ライバーがセントーン攻めに加わりたいのだろう。サルパートを今攻めてもあまり益があるはずが無い。しかしご安心めされよ。ようやく我々が西の将の要塞を抜いた。これからは陸づたいにサルパートにカインザーの戦士を送る事ができる」
 それを聞きながら、思慮深いロッティが眉を寄せた。
「それだけだろうか。どうも話を聞いている限りでは、ギルゾンには何か他に目的があるような気がするんだが。あるいは北の将の体調でも悪いのではないだろうか。生きているうちにサルパートを攻略してしまおうと焦っている可能性は無いですか」
 エラク伯爵の暗い顔に、一瞬明るい表情が浮かんだ。
「おお、その可能性は考えていませんでした。それならば嬉しいのですが。我々は北の将に苦しめられ続けてきたので、あの男が人間であるというよりも怪物のような印象を持っていましたので、そんな事は考えもしませんでした」
 その時、クライバーの後ろに立っていたバンドンが口を開いた。
「ちょっといいですかい」
 口髭をなでて思案していたベロフが険しい顔で睨んだ。かつてバンドンに荒らされたカインザー南部はベロフの領地だったのだ。
「よかろう」
 会議の実質的な進行役であるトルソンが言った。
「山を執拗に動き回る奴は、必ず何かを探してるんだ」
 突然、窓から外を眺めていたマルヴェスターが振り向いた。
「うむ、いい所に気がついた。その可能性は十分にある。ギルゾンが探している物とすれば、おそらくはかなり魔法に深く繋がるものだろう」
 トルソンが巨体を揺らしながら机を叩いた。
「相手が西の将マコーキンならともかく、今の北の将ライバーなぞ正面から戦えば倒すのは造作ないわ」
 冷静なロッティがこれに反論した。しばらくトルソンとロッティのやり取りが続く。
「平原で戦えばおそらく勝てる。しかしライバーは要塞から出てこない。問題は北の将の要塞にどうやって兵を送るかだ。それと同時に、ソンタール本国からの北の将への援軍を阻止しなければならん」
「ソンタールの本国が援軍を送るものか。ソンタール軍はセントーン包囲網を完成させつつある。今どきサルパート攻めに割く兵力等、無いはずだ」
「いや、それはわからん。ソンタールの平野は広く守りが堅い。我らがカインザーとしてもなかなか攻め渡れるものではない。しかし北の将の要塞が落ちれば、ソンタール帝国は北にも兵を割かねばならなくなる。そうなると状況が変わってくる」
 マルヴェスターが話に割って入った。
「ソンタールは強大だ。兵の数はシャンダイアの国々に比べてはるかに多い。やはり北の将への援軍があると見たほうが良いだろう。セルダン。半年前にわしがソンタール帝国を倒すために聖宝の力を集めるように言ったのを憶えておるな」
「はい」
「世界各地にある聖宝の現在の位置をおさらいしてくれ」
 セルダンはまず、父王の椅子にたてかけておいた剣に手を置いた。
「まずクライドン神の聖なるカンゼルの剣はここにあります」
 そう言って一同を見回した。皆の目にあきらかな敬意が浮かんでいる。数か月前にセルダンはこの剣で黒い盾の魔法使いゾノボートを倒したのだ。
「エルディ神のカスハの冠はザイマンにありますが、現在ザイマン王国はセントーン攻めに南の将が動かないように全力をあげてけん制しています。そのために冠の力が必要ですので今は戦いのために動かす事はできません。しかし、ブライス王子はエルディ神からさずかった銀の輪で、ある程度の力を引きだす事ができます。同様にソンタールに包囲されつつあるセントーン王国の、ミルトラ神のミルカの盾も持ち出す事は無理です」
 そこまで言ってセルダンは一息ついた。世界各地に散らばる聖なる宝を合わせてソンタール帝国と戦うこの考えが、急にとてつもなく困難な事に思えてきたのだ。セルダンは皆のうながす顔に気づいて後を続けた。
「バリオラ神の聖なるバザの短剣は、現在セスタに滞在しているはずのベリック王が持っています。ベリックは巨竜ドラティにこれでとどめを刺しました。エイトリ神の聖なるリラの巻物はサルパートの峰にあり、最後の一つ、聖なるアスカッチの指輪はクラハーン神がお守りになって、遥か北のシムラーにあるはずです」
 サルパートのエラク伯爵が嬉しそうに声をあげた。
「少なくとも、剣と短剣をサルパートにお持ちいただけるのですね」
 マルヴェスターが長い髭をひねった。
「短剣については思案中だ。いかに聖宝の守護者とは言え、幼いベリックが戦闘に参加できるかどうか。それより巻物はどうなんだ。サルパートの代々の王も神官も、これまで知恵は出したが実際に力のある巻物を神殿から持ちだす事は無かった。過去のいくつかの局面で巻物の力を直接使えば、今のように一方的に北の将に蹂躙されずに済んだのかもしれんのだぞ」
「我らが王も神官達も、今回の度重なるギルゾンの攻撃には深く憂慮しておられます。それに次なる巻物の守護者との声が高い巫女スハーラ様は積極的なお方です」
「最後の一人が一番信頼できそうだな」
 トルソンが無精ヒゲの生えた頬をボリボリかきながら発言した。
「話を戻しますぞ長老。聖宝だけでは戦いはできません。サルパートの兵は残念ながら数が少なく、また戦士としての能力もそれ程高くない。失礼エラク伯爵」
「いいえ、まさにその通りですから。ご遠慮なく戦力を分析してください」
「それではやはりどうやってカインザー兵をサルパートに送るかが問題になります。バイルン、船ではどうだ」
 碧眼の大柄な戦士バイルンが、首を振りながら答えた。
「カインザー艦隊は生まれたばかりです。まだ大量の兵を運ぶ程の輸送力はありませんよ。それに馬を船に乗せるだけの準備はまだできていません」
「それならば陸路で行くしかあるまい。ポイントポートからテイト城を通って、サルパート山脈の西のサルパート領を抜けて、王の居城ブンデンバート城までカインザー軍を移動させて要塞を攻めよう」
 ベロフが首を振った。
「大軍をそこまで動かすには半年かかるし、北の将の要塞をはさんだソンタールとの消耗戦になってしまうだろう。マコーキンと違って、北の将ライバーの軍団はこのところ積極的な行動には出ていない。出てきているのはギルゾンの狼だが、この狼共に夜中にゲリラ戦をやられてはとても長期に渡って大軍を保つ事は難しい」
 マルヴェスターが引き継いだ。
「狼だ。まずはどうしても狼をサルパートの峰から一掃しなければならん。そうすれば要塞もその軍団も余裕を持って攻撃する事ができる。そのためにはスハーラが探していたルドニアの霊薬をどうしても見つけ出さなければ」
 エラク伯爵もこの意見にうなずいた。
「狼の退治を急がなければなりません。このまま狼を放置しておけばサルパートの民だけではなく、智慧の峰のすべての命が死んでしまいます」
 マルヴェスターが驚いたような表情をした。
「もしやそれが目的なのではあるまいな。ギルゾンは山ごとエイトリ神の知恵を抹殺してしまうつもりなのではあるまいか」
 一同が口をつぐんだ。ギルゾンというまだ見ぬ魔法使いの底知れない冷たさの一端を、ようやく理解できた感じがしたのだ。ベロフがその恐怖を振り払うように口を開いた。
「要塞の北からは、やはり地元のサルパートの兵に全力をあげて攻めてもらいましょう。まず当面の目標は狼の一掃。そして我々カインザーは来るべき北の将との戦いに備えて軍団をサルパートに送る。問題はそれをどこに送るかです」
 ロッティが自信ありげに言った。
「サルパートの峰の東側、ソンタール領内を進む部隊を編成できるかもしれません」
 トルソンが笑った。
「でたな、お得意の敵中突破が。おまえの軽騎馬軍団ならソンタール平原を駆け抜ける事はできるかもしれん。しかしソンタール本国から北の将への援軍に後ろを追いかけられれば、そのうち要塞との間でつぶされるぞ」
 それまで黙っていた若いクライバーが自信ありげに発言した。
「その援軍はどこかで引きつければいいでしょう。北の将は誇り高いと聞きますから、そう簡単に本国の力は借りないはずです。サルパート山脈の東側の、北の将と帝国直属軍の管轄の境目あたりまでうまく進出できれば、両勢力の間隙をつけるかもしれません」
「俺が行くしかあるまい。その境目に砦を築いて防いでやる」
 トルソンが身を乗り出した。しかしそれをベロフが制した。
「平地では包囲されるだけだ。山城がいい。サルパートの神殿から下ったあたりに山城を築いて、ソンタール軍が近づいたらけん制して山に引く」
 ロッティは気のりしないようすだった。
「それでは山から遠く離れた所をソンタール軍が移動したら意味が無いし、こちらから追いかけようにも距離を取られては追いつけない。何の役にも立たんよ」
 アシュアン外務大臣が王を仰いだ。オルドン王が決断をくだした。
「よし。セルダン、まずはエラク伯爵と、アシュアン、ベロフと共にサルパートに向かってくれ。戦況を分析してこい」
「はい」
「わしも行こう。サルパートの王族や神官達と話をしなければ。それにルドニアの霊薬についてもサルパートでもう一度調べてみたい」
 マルヴェスターがそう言うと、待ってましたといった感じでバイルン子爵が進言した。
「すでにポイントポートからサルパート領のマットまで、高速艇の航路が出来ております。その船に乗るのが一番早くて安全でしょう」
「冗談ではないわい。ポイントポートからソンタール領を抜けていく。どうせその街道は確保しなければならんのだ。だろう、オルドン」
「そうなりますな。しかしすぐには無理です。サルパートにはやはり船がいいでしょう」
 船嫌いのマルヴェスターが抗議しようとしたが、オルドン王はかまわず続けた。
「ロッティ、クライバー、最前線のさらに切り込み隊の指揮を命じる。ポイントポートとサルパートのテイト城の間の街道をまず確保しろ。そしてソンタール帝国本国の動きを見てサルパートの峰の東側に進出するのだ」
 ロッティとクライバーが嬉しそうに声を揃えた。
「ありがたき幸せ」
「お待ちください、オルドン王。その任はやはりこのトルソンに」
「いや、おまえにはベーレンスの息子と共にポイントポートを死守してもらわなければならない。そこがかなめなのだよトルソン。ポイントポートが無ければカインザー軍はソンタール大陸で活動できないのだ。バイルン、サルパートへの物資の輸送航路の整備を頼む」
「了解いたしました。ザイマンのブライス王子がことのほかその輸送路に熱心なのです。カインザー大陸の西側からサルパートまでの海域にはソンタールの勢力はほとんどおりませんので、それ程整備に時間はかからないでしょう」
 セルダンはサルパートを目指す船上で舵を取るブライスの姿を思い浮かべておかしくなった。
(それは熱心なはずだ、ブライスにはスハーラさんに会うという目的があるのだから)
 会議は終了した。半年以上前にマイスター城で行われた、聖剣奪回のための会議のような暗さはそこにはなかった。しかし北の将とサルパートの峰が、カインザー諸侯にとって初めての相手と戦場である事を考えると、決して油断が出来る状況でも無かった。セルダンは、バイルンをつかまえて話をしているベロフの姿にチラリと目をやった後、聖なる剣を抱えるようにして部屋を出た。すると廊下に親友のクライバーが待っていた。
「セルダン。耳に入れておきたい事があるんだ」
「なんだい」
「セスタから報告が来ている。ベリック王がセスタ入りをしてから、バルトール人が大量に都市に流れ込んできているらしい」
「そうだろうな。二千五百年間探していた王様なんだから」
 クライバーが困った顔をした。
「バルトール人と、カインザー人は必ずしも仲がいいとは言いがたい」
「騒ぎが起きてるのか」
「いや、まだだ。セスタは大きな都市だから、昔からある程度の数のバルトール人がいた。そういった者達の努力でなんとかやっている。だが周辺の小さな町では、そろそろいさかいが起き始めているらしい」
「マルヴェスター様に相談してみよう。ベリックをセスタに留めるように言ったのはマルヴェスター様だから」
「頼む」
 そう言うと、クライイバーはいつもの明るい笑顔を見せた。
「子供が三人になったと言ってポーラが大騒ぎだ」
 セルダンも笑った。やさしいポーラとアントン。ベリックにはいい環境かもしれない。
「加わりたいね」
「ああ、でも俺たちはもう子供じゃない。サルパートでは風邪をひくなよ」
 クライバーはそう言い残すと、紅のマントをひるがえして去っていった。セルダンは自分の水色の服を見下ろしてちょっと不安になった。
(この服では寒いだろうな)

 翌朝、セルダンはいつもの仲間と一緒に要塞を出た。まずはポイントポートまで行き、そこから高速艇に乗る予定である。セルダン達の後を追って、ロッティ子爵とクライバー男爵が、軍勢が整い次第発進して、ポイントポートからテイト城までの街道を確保する事になるだろう。
 馬上から見上げると、海が近いせいか青一色の空がとても高い。セルダンは戦士の子らしく、やはり山の上より平らな大地が好きだった。数カ月前、ライア山の山頂でクライドン神と巨大な竜ドラティをめぐって起きた様々な不思議より、目の前にある剣の戦いのほうがセルダンには性に合っていた。しかしそこに神の力が介在する限り、これからも不思議な出来事を次々に乗り越えて行かなければならないのだろう。
 セルダンの後に馬を進ませるのは、いつもながらの黒い服装の魔術師マルヴェスター。武術師範のベロフ男爵。そしてアシュアン伯爵とエラク伯爵の二人の外交担当者が、がっしりした馬車に乗ってその後に従っている。列の最後尾を守るのは、自らセルダンの護衛役を任じている、かつてのバルトールマスター・ロトフの家来、アタルス、ポルタス、タスカルの三兄弟だった。
 一行が進むパイラルの陸橋は狭い地橋だが、ほぼその中央に敷かれている軍道から両端を見る事はさすがにできない。広いと言えば広いのだが、大軍を動かせる程の広さではない。陸橋の途中に宿泊施設がある小さな村が七つ程ある。村を吹き渡る風はいつも潮風だ。
 要塞を出たセルダン一行は五日かけてパイラルの陸橋を渡りきった。若い王子は陸橋から追い立てるように吹いてくる風に海の香りをかぎながら、青の要塞での会議について考えた。カインザー王国の諸侯はとにかくパイラルの陸橋を渡った。しかしその先にはソンタール大陸の大平原が広がっていたのだ。この平原を押し渡り、帝国の首都グラン・エルバ・ソンタールを攻める日がいつか来るのだろうか。シャンダイア復興三千年の夢の重さに、セルダンはふと絶望的な気分にかられて目を落とした。馬の背中のあたたかさと、たてがみの臭いの現実感が嬉しかった。
 太陽が中天に差しかかる頃、セルダン達の耳にポイントポートの築城の槌音が聞こえてきた。まずは城壁からという事で、かなり町から遠い位置に石積みの塀が築かれている。まだ城壁と呼べる程の規模では無いが、セルダンは、あのトルソン侯爵が城を守って戦うなどとは思っていなかった。これが必要になるのは、ポイントポート城にいよいよ危機が迫った時になるだろう。道に沿って馬を進めて行くと、その塀の前に銀色の鎧の戦士達が揃ってセルダン達を出迎えていた。ベーレンス家の戦士達である。その列の中央から二十代後半ながら、額の秀でた若い当主のカイトが馬をすすめてきた。
「お久しぶりですセルダン王子」
「久しぶりカイト。もうすぐクライバーもやってくるよ」
「うかがっています。また三人で遊びたいところですが、お急ぎなのでしょう。バイルンの要請を受けたというザイマンの高速艇がすでに入港しております」
「それはずいぶんと手配が早いな。よし明日には発てるぞ」
 馬車の中からアシュアンが、カイトに情けなさそうに声をかけた。
「カイト、すまん。柔らかいクッションを集められるだけ持ってきてくれ。まさかこの三か月ばかりの間に、マイスター城からサルパートまで移動するとは思わなんだ」
 ベロフが古い友をとがめるように睨んだ。
「おぬしは外務大臣だろう。この程度の移動で音を上げられては困るぞ。カインザー人のくせに馬車になど乗るからいかんのだ」
 アシュアンがちょっと傷ついたような表情になって反論した。
「わしだって馬にくらいは乗れるぞ。しかしそれでは外交の話ができんのだ」
 馬車の窓から顔を出した、サルパートのエラク伯爵が両者をなだめるように割って入った。
「ベロフ様、アシュアン閣下には他の国々について色々と教えていただいていたのです。なにぶんにもサルパートは閉鎖的で、しかも実際の政治上の決定権の多くは神官達の手に握られていますので、外務担当者等と言いましても私は何も知らないのです」
 これにはマルヴェスターもうなずいた。
「サルパートでは巫女、神官、王家の順に力があるからな」
 エラク伯爵が少し期待を込めた目でマルヴェスターにたずねた。
「マットに着いたら私のテイト城にお寄りになりますか」
「いや、その時間は無いだろう。とにかくまずは王に会おう。神官にいかに権力があるとは言え、軍を握っているのは王なのだから」
「王でしたら、おそらく現在ネイランにおいでです。夏は神殿や居城のブンデンバート城にいらっしゃる事もあるのですが、冬のこの時期は山を降りて、比較的暖かい海沿いのネイランで執政をしているはずです」
 セルダンは嫌な予感がしてきた。
「まさかこの旅は、またどこかで山登りになるんじゃないでしょうね」
 マルヴェスターはニヤリとした。
「少なくとも巫女も神官も、サルパートの山の上にある学校と神殿にいる。サルパートの実力者達に積極的に行動してもらうためには、王の次に彼らを説得しなければなるまい」
「ロッティの意見に賛成したくなってきました。真っすぐにソンタール平野を駆け抜けて北の将の要塞を攻めましょう」
「こう言ってはなんだが、おぬしらカインザー人の考え方はいささか単純に過ぎるぞ。敵地であるソンタール大陸に踏み込んだ以上、これからの戦いは複雑になる。戦闘も政治的かけ引きもだ。オルドンは最強の戦士であり、あまねく尊敬を集める王だが、すでに聖剣の守護者では無い。カインザーとシャンダイアの将来を担うのはセルダン。おまえなのだよ。様々な経験をしながら、柔軟な考え方と広い視野、そして時には辛抱強さをも身に付けるのだ」
 そう言われてもセルダンはさっぱり自信が無かった。カンゼルの聖剣を握ってみたが、それでもあまり力がわいてこなかった。どうやら守護神のクライドンも、頭を使う事と辛抱は苦手らしい。

 セルダン達は建設中の城壁を抜け、ポイントポートの町の中に入っていった。築城のための人足と、トルソン、ベーレンス両家の兵士達がこの町に集まっていたので、通りはセルダンがこれまで見たことも無いくらいに混雑していた。
「これは凄い。セスタ以上の賑わいじゃないか」
 カイトが説明した。
「以前からここにいた住民よりもはるかに多い数の人間が入ってきました。全く新しい都市の建設と言ったほうがいいかもしれません。食べ物も生活用品も不足ぎみです。青の要塞からここまで続く、パイラルの陸橋の街道も整備しなければならないでしょう」
「大丈夫。もうすぐ、ロッティとクライバーがサルパートへの道を確保してくれる。そうなればサルパートからの物資も入ってくるさ」
 そう言うと、セルダンは馬を巧みにあやつって道に落ちている材木を避けた。要塞建設用の資材が大量に運び込まれているので、町の中は雑然としている。土埃の中を馬で進みながら、セルダンは髪と瞳の黒い、彫りの浅い顔立ちの人々の姿が多く目につく事に気がついた。
「バルトール人が多いんだね」
「ベリック王帰還の噂が引き寄せているのです。おそらくベリック王が旗揚げすれば、一大軍団が出来るほどの人数が集まるでしょう」
 マルヴェスターが眉をひそめた。
「困ったのう、まだその時期では無い。ベリックはまだ子供だし、バルトールの民は集団戦闘の訓練を受けていない。うかつにかつぎ出されては、せっかくの王家の血が失われてしまう可能性すらある」
「その血が大きな話題になっています。早くもお妃の座を求めてバルトールの有力者達が、息のかかった娘をカインザーに送り込もうとしています」
 老魔術師は、咽に物がつかえたようなうめき声をあげた。
「うう、なんと。セルダン、ベリックをセスタに置いてきたのは正解のようだな。しばらくはアントンとアーヤの相手をしてあそこに居てもらおう。サルパートでの戦いはベリック抜きで済ませられれば一番良い」
「しかしセスタにもバルトール人が集まり始めているそうです。クライバーが心配していました」
「それはいかん。いっそマイスター城に戻すか」
「でもルドニアの霊薬を探すためにはバルトールの情報網が必要なんでしょう。バルトール人が直接僕達に協力してくれる事はあまり期待できませんから、やはりベリックには連絡が付きやすい所に居てもらう必要があります。マイスター城では遠過ぎます」
 セルダンはアタルス達三兄弟のほうを振り向いて話しかけた。
「君達は、いまだにバルトールの組織に組み込まれているのかい」
「いえ。ロトフ様は私達にセルダン王子と行動を共にするように命じられてそのまま命を落とされました。私達は主人の最後の命令に従います。しかし、ベリック王かフスツ様が私たちにつなぎを取ってくる可能性はあるはずです。私達はバルトール人特有の連絡方法をある程度は理解しておりますので、彼らが送る印に一番気がつきやすいですから」
「わかった。何か気がついた事があったらすぐに教えてくれ。マルヴェスター様、いっそベリックを青の要塞に連れてきてしまったらいかがですか」
「そうだなあ、しかし戦場に近過ぎる。あの子はもうしばらく戦線から離しておいてあげたいのだよ。できればポーラやアントンの元がいいと思うのだ」
「そうですね。セスタの治安が維持できるならば、僕もそれが一番いいと思います」
 その夜、造りかけの城の中で夕食を取ったセルダン達は、早々に部屋に入って眠りに就こうとした。しかし、セルダンがまだベッドに入る前に、町の中で起きたらしい騒ぎの音がベランダの向こうから聞こえてきた。続いて兵士達のガシャガシャといった出動の音が聞こえてくる。セルダンはあわてて中庭を見下ろすベランダに出てみると、下でカイトが兵士達を指揮していた。
「どうしたカイト」
「バルトール人の暴動です。いつのまにか、カインザーの王子と翼の神の弟子が、バルトールの王を誘拐したというデマが流れていたようです」
「そんな、それで暴動の規模は」
「小さなものです。すぐに鎮圧できるでしょう」
 あわてて支度をしたセルダンは、城の中央にある会議室に向かった。そこにはすでにマルヴェスター、ベロフ、アタルス達三兄弟が待っていた。
「原因をお聞きになりましたか、マルヴェスター様」
「カイトから聞いた。扇動した者がいるらしい」
 しばらくしてカイトが戻ってきた。何事も無かったように薄い髪をなでつけながら会議室に入ると、そこにセルダン一行全員がいる事にちょっと驚いたような顔をしながら報告した。
「たいした騒ぎにならずにならずにすみました。どうやら噂を流していたらしい人物の見当がついたので探している所です」
「誰だ」
 セルダンの語調は厳しかった。若いセルダンは自分の名前を使った今回のデマに、かなり怒っていたのである。
「サルパート人の盲目の吟遊詩人だという話です」
 セルダンとマルヴェスターとベロフの三人が、同時に顔を見合わせた。カイト・ベーレンスが不思議そうにたずねた。
「ご存知なのですか」
「たぶん知っていると思う。その吟遊詩人はものすごく歌がうまいと評判じゃなかったかい」
「その通りです」
「サシ・カシュウだ。サルパートの伝説的吟遊詩人だ。でも本当は盲目では無い」
「なんと盲目では無いと。少しご説明をしていただけませんか」
 セルダンは、数ヶ月前にカサインザー大陸のユルの町であった出来事をかいつまんで説明した。
「何をたくらんでおるのだ、あの男は」
 ベロフがかなり不機嫌そうに言った。サシ・カシュウが自分の領地のキンサトの港で密貿易に関与していたらしい事を聞いて以来、ベロフはこの吟遊詩人に好印象を持っていないようだ。マルヴェスターがカイトに指示した。
「わしらは明日の朝には出立してしまうが、早急にその男を捕まえて知らせて欲しい。出来れば、わしらを追いかけて護送してくれ。直接質問がしたいのだ。カシュウはバルトール人に深く関わっているが、どうもベリックのために行動をしているのではなさそうだ。いかんぞ、北の将と戦う前にバルトールが割れてしまいそうな気配だ」
「承知いたしました。もうすぐトルソン侯爵も戻ってきます。そうなれば暴動等は起こしたくとも起こせないでしょうが、その男は必ず捕まえてお送りいたします」
「頼んだ。セルダン、明日は早く発つぞ。どうも雲行きが怪しくなってきた」
 マルヴェスターの言葉に一同は急いで部屋に戻った。しかしセルダンはその夜、漠然とした不安に襲われてなかなか寝つけなかった。

 翌日、セルダン達はポイントポートの町に近い港に向かった。以前から使われていた港だったのでそれなりの設備はあったが、やはりザイマンの船がそこに停泊していると、港としての威厳が違ってくる。海洋民族の島の船乗り達に手入れされた船の姿は、いつもながらに頼もしかった。
 セルダンが背の低い高速艇に近づくと、甲板の上から赤いチョッキ姿の巨漢があらわれて大声で呼びかけた。
「よう、セルダン」
 セルダンはその懐かしい姿に思わず顔をほころばせた。
「あれっ、ブライス。どうしてここにいるの」
「海がある所、ザイマンの王子ありだ。ごきげんうるわしゅうマルヴェスター、またいっしょに航海ができますね」
 マルヴェスターはみるからに嫌そうな顔をして、船を見上げた。
「機嫌はうるわしくないし、お主に会えるのも嬉しくなどないわい。おかしいなあ、この星には陸地がたくさんあるはずなのに、どうして重要な時にはいつも船に乗る事になるんだろう」
「一番大きな陸地が、ほとんどソンタール領だからです」
 ブライスがこの愚痴をあっさりと受け流すと、老魔術師はがっくりと肩を落とした。
「三千年かけても我が夢はかなわずだ。船に乗らずに自由に旅ができる世界。それだけが望みじゃよ」
 ブライスは高らかに笑い声をあげて一行を船に迎え入れた。皆の乗船と荷物の積み込みを監督していたブライスは、船への渡り板の上で思い出したように懐に手を入れると、小さな小瓶を取り出して見送りに来ていたカイト・ベーレンスに放り投げた。
「ご注文の毛生え薬だ。ザイマンの伝説的秘薬だぞ」
 カイトは一大事とばかりに受け取ると、ブライスにどなりかえした。
「伝説的秘薬ならばもう少し大事に扱ってくださいな」
 これには最後まで陸地に残ってグズグズしていたマルヴェスターが笑って答えた。
「あんまり期待するな。数多くの魔法を見てきたこのわしでも、毛生えの魔法はあまり見たことが無い。多くは一歩間違うと、全身毛むくじゃらの獣に変身してしまう類いの物だ。薬などで生える程簡単なものではあるまい」
 カイトは不満げだった。
「おかしいなあ、おおげさな魔法が可能で、こんな簡単な事がなぜ難しいだろう」
「おそらく、生き物の体をつくっている物質の、成長のようなものに直接関与するからだろう。加減がとても難しいのだ」
 そこまで言ってマルヴェスターはふと首をかしげた。
「一人だけ。そういった事が簡単にできるかもしれない魔法使いがいる」
 カイトは勢い込んだ。
「誰です。あなたですか、そうだあなたならば出来るでしょう」
「いや、わしはもちっとハデな魔法が得意でのう。わしではなくてカインザーで小鬼ゾックを操っていた魔法使いだ。あやつの奇妙な魔法は、何か生き物の生命力のようなものに関与しているような気がするのだよ」
 渡り板の上り口にいたセルダンが、思い出したように口をひらいた。
「そういえばどこに行ったんでしょうねえ。あの後、カインザー大陸内部では見かけた者はいません。パイラルの陸橋の住民の話からすると、どうやら陸橋を渡ったらしいですよ」
 ブライスが出発の合図の手を叩いた。
「それならば、またソンタールで会えるだろう。さあ、出発しますよマルヴェスター。カイト、今度は智慧の峰で薬を探してきてやるさ。まずはそのザイマンの薬を使ってみてくれ」
 皆が交わす挨拶の声の中、錨が勢いよく引き上げられ、船は波を蹴立てて出港した。この海域は天候がおだやかな日が多い事で知られており、ザイマンの高速艇はほぼ七日をかけてサルパートのマットの港にたどり着いた。マルヴェスターは魔法で風を送ると主張したのだが、ブライスは額の銀の輪にかけてこの反則に抗議した。
「風は大いなる海が送ってくれるものなんです。魔法なんかでいじっちゃいけません」
 そう言った後ブライスは、まじまじとマルヴェスターの顔を覗き込んでたずねた。
「以前から聞こうと思っていたんですが、海には神様はいないんですか」
 マルヴェスターは青い顔をしてうなりながら答えた。
「特に海を統治している神はおらん。精霊のたぐいはいくつかいるし、わしも会った事がある。しかし少なくともザイマンの船に乗っている限りは、エルディ神の意志が尊重されるのだろうな。なんと言っても暁にあらわれて、皆を導く女神なのだから」
 セルダン達は、マットからエラク伯爵の居城であるテイト城には寄らないで、真っすぐに王が住むネイランの町を目ざす事にしている。サルパートの西側を通る街道を北上してネイランの町まで行き、王に謁見した後智慧の峰と呼ばれるサルパート山脈に分け入って、神官達がいる神殿をたずねる予定だ。大急ぎでも三週間はかかる旅になるはずだった。すっかり同行する事に決めてしまっているブライスは、船から大柄な葦毛の馬をおろした。セルダンは機嫌が悪そうな馬の顔に見憶えがあった。
「スウェルトだね。ロッティの城でもらった」
「そうだ、こいつは俺になついていてなあ。おれ以外の者を乗せないのさ。俺もこいつ以外の馬には乗る気がしない」
 スェルトは悲しげな顔をして訴えるようにセルダンを見た。
「そうかなあ、君の馬だからね。嫌でも乗せなきゃならないし、それにちょっと気分が悪いみたいだよ」
 ブライスは驚いたようにスウェルトの頬に手を当てて言った。
「馬でも船に酔うのか、考えた事も無かったぞ」
 それを聞いたマルヴェスターは、涙を流しながら馬の鼻を何度も優しくさすってやったのだった。

(第ニ章に続く)


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