第三章 ギルゾン来襲


 北の将の要塞の書庫は冷たく巨大な空洞だった。襟の高い茶色の長衣をまとった小鬼の魔法使いテイリンは、空きが目立つ書棚を残念そうに見つめてため息をついた。
(西の将の書庫には戦闘に関する本しか無かったし、黒い盾の魔法使いゾノボートの書棚は黒の魔法の本しか置いていなかった、だがそれに比べてもここの空虚さはひどい。北の将はもう本など読まないのだろう)
 驚いた事に、この要塞の魔法使いギルゾンは書庫どころか自分の部屋すら持っていなかった。ギルゾンは常に外をかけまわっているので、要塞の中にはかつてゾノボートが築きあげたような大仰な組織も祭壇の間も存在していない。ソンタールの他の地域ではどこに行っても嫌という程目につく黒の神官の姿すらここにはまばらで、必要最低限と思える数しか住んでいなかった。その神官達もいつも何かにおびえたように背をすくめ、ギルゾンの下に配属された不幸を嘆きながら、毎日細々と日課の務めをこなしているありさまだった。
 そのため要塞に来て日が浅いテイリンは、まだギルゾンに会った事が無く、その人物についても良く知る事ができなかった。
 元々ソンタールの北のランスタイン大山脈で育ったテイリンは寒さに強かったが、この時、テイリンの隣に並んでいる小男は寒さに震えていた。
「マスターテイリン。なぜこの部屋はこんなに寒いのですか」
 テイリンは微笑んだ。
「火の気が全くありませんからね、イサシ殿。きちんと書庫が管理されていれば暖炉などあっても良いのでしょうが、この状態では火を置くことはかえって危険です」
 バルトール人は悲しそうな顔になった。
「われらが旧都ロッグも北方の地です。しかし海辺にあるのと、踊りの神バリオラ神が民人が裸で踊れるようにと教えてくれた建築様式のおかげで、これ程寒くはありませなんだ」
 イサシはテイリンが寂しげに持っているボロボロになった本にちらりと目をやった。
「それで、探しのものは見つかりましたか」
「いいえ、ありませんでした」
 テイリンは本を書棚に戻した。古い本の背の一部が崩れて床に落ちた。
「よろしければ、何を探しているのかお教えいただけないえしょうか。我らがバルトールマスターは、かつてのバルトールの首都ロッグをおさめる実力者です。ほとんどの物は探し出せると思いますよ」
 テイリンは別に自分が探している物を隠してはいなかった。巨竜ドラティが自分に託した卵の存在を知らなければ、テイリンの本当の目的を知る事は誰にもできないのだから。
「ミルトラの水というのを聞いた事がありますか」
 イサシは驚いた顔をした。
「なんと、ソンタールの魔法使いの方がその存在を知っているとは思わなかった。ミルトラの水は、シャンダイアのごく一部で知られている神々の秘密の一つです。豊穣の女神ミルトラ神の聖水で、セントーン王国の力の源と言われています。どんな形態で存在するのかは私も知りません。おそらくはセントーンのほうがより詳しい情報が得られるでしょう。東の将や南の将の元に手がかりがあるかもしれません」
「でしょうね。しかしセントーンを取り巻く状況は複雑すぎて。はみ出し者の私やゾックたちはちょっと近寄りがたいのですよ」
「お力添えはできると思いますよ」
 テイリンは不思議そうにバルトールマスターの使者を見た。一見すると平凡な小男のように見えるが、テイリンの研ぎ澄まされた感覚は、その平凡な仮面の下に隠された男の真の力を見抜いていた。
(この男は類い稀な頭脳と、鍛え抜かれた極めて危険な肉体を黒い服の下に隠している。魔法使いならともかく、生身の人間でこの男と渡り合える者はそうはいないはずだ。これ程の男を要塞によこしたとすると、ロッグのマスターは本気でシャンダイアを裏切ろうとしていると見てよいかもしれない。三千年続いたシャンダイアの団結力も、そろそろ終わりに近づいているのだろうか)
 テイリンは問いかけた。
「あなたも、ソンタールに通じるのならば。こんな北の果ての要塞よりも、首都であるグラン・エルバ・ソンタールに行ったほうが良いのではないですか」
 イサシは素早く首を振った。
「グラン・エルバ・ソンタールに潜入しているバルトールマスターが態度を明確にしておりません。手強い男です。それに我々はベリックという、王を名乗る男についてもっと知らねばなりません。あなたはカインザーではこの男に会いましたか」
 テイリンは苦い思い出をかみしめて答えた。
「いいえ。私はベリック王には会いませんでした。シャンダイアの貴顕には一人も会っていません。山の中を行って帰ってきただけです」
 イサシは失望の色は見せなかった。むしろベリックについて知る者は少ないほうがいい。イサシはいまのところこの魔法使いの使い道を思いつく事が出来なかった。テイリンの行動の動機がつかめなかったのだ。
(まあいい、この若さと行動力だ。そのうち何かの役に立つだろう)
「そうですか、それは残念です。それで、これからあなたはどうなさいますか」
「もちろん。ギルゾンに会います」
 茶色の髪の若い魔法使いは当然といった様子でそう答えた。

 北の将の凍える要塞を出たテイリンは、要塞の西の軍道を通って、兵達とその家族の住む町に入った。要塞の東と北は比較的平地になっているので、そこには三つの枝城が築かれているが、西側は真近にまで山が迫っているのでそのまま雪が積もるサルパートの山に分け入る事ができる。西の将の要塞が陥落して、カインザーからソンタール勢力が駆逐された後、若い魔法使いは様々な情勢を考えた末に北の将の要塞に身を寄せた。だがゾック達を要塞には入れなかった。マコーキンとゾノボートが支配していた西の要塞には、どんな生き物も軍隊も受け入れるある種の解放された雰囲気があった。しかしこの要塞は将も魔法使いもあまりにも自分の世界を築き上げすぎていて、よそ者の入り込む隙間が全く無い。
 山に慣れた者でも躊躇するような深い木々の間や岩の上を、事も無げに歩いてテイリンはやや大きめの洞窟の前に立った。その暗い洞窟の中にゾック達が待機している。生き残った二千数百匹すべてである。山育ちのテイリンは、すでにこのあたりの地形をくまなく調べていた。カインザーからここまでの山道の調査を総合してみると、サルパートの峰には洞窟が非常に多い。これは軍事上の重要な要素になるはずだ。
 テイリンはカインザー軍の強さを知っている。いつになるかはわからないが、必ずや彼らは北の将に戦いを挑みにここまで来るだろう。カインザー大陸で自分を追い続けたあの赤い将軍も必ずやって来る。テイリンは後に調べて、クライの町で殺した指導者らしき男が、あのクライバー男爵の父親である事を知っていた。だが、そのクライバーがすでにソンタール領に侵攻している事までは知らない。ソンタールの五将の支配地域はシャンダイアの一国に匹敵するほど広く、南の端がわずかに浸食されたくらいの情報は、中々要塞まで届かないのが現状だった。もっとも西の将だったマコーキンならば、自分の支配地域の隅々まで細かい伝達網を敷いたに違いないが。
(とりあえず北の将とその大軍はここ、北の要塞に腰をすえて盤石の体制を整えている。問題は魔法使いギルゾンのほうだ)
 テイリンは洞窟の中に入るといつものように両手を上げて呼びかけの念を放った。暗い洞窟の中に急にざわめきがおこり、光る目が洞窟の闇を星のように飾った。テイリンはちょっとホッとしたような顔をすると、洞窟の闇に背を向けてかけ声を一つ上げて走り出した。その姿に引っ張られるようにゾック達が次々と洞窟から飛び出し、おなじみのバッタのような跳躍でテイリンに従う。白い雪煙が舞い上がる中、小鬼と呼ばれる山岳生物ゾックの全軍が出動した。だが、かつてカインザーを侵攻したときよりその跳躍は高く、速度も驚く程に速い。暗い洞窟から外に出ると、ゾック達の足が赤く染まっているのが見える。カインザー大陸で死んだ巨竜ドラティの血を浴びたおかげで、ゾック達は強靱な機動力を手に入れていたのだ。足こそ赤く染まってはいないが、テイリンもまた同様の力を身に付けている。小鬼の魔法使いとゾックの部隊は智慧の峰に沿って南下を開始した。

 クライバー男爵家で用意された大きな部屋で、バルトールの少年王ベリックは二通の手紙を前にして考え込んでいた。それは前回の会議に顔を見せなかった三人のマスターのうちの二人のマスターからの手紙であった。旧バルトールの首都ロッグのマサズと、ザイマンのメソルである。今朝、フスツによってもたらされたその手紙は、ベリックの心に行動の時が来たという予感を持たせた。ベリックはまずロッグのマスターの手紙を開いた。手紙にはバルトールの伝統的なバラの刻印が押されている。
 ベリックはもちろんマサズに会った事が無いため、そこに書かれている文字から何らかの感情を読み取る事は難しかった。

「王の帰還を心よりお喜び申し上げます。つきましては、なるべく早くロッグにご帰還いただきますよう。まずはサルパートまでお迎えの使者をお送りいたしました。ぜひともおいでくださいますようお待ち申し上げております」

 ベリックは横に控えているフスツに手紙を渡した。フスツは一瞥して鼻で笑った。
「誘いにもなりません」
「うん、サルパートのマスターの使者はマサズに敵意ありと知らせてきている。それを僕が知っている事もマサズは承知しているはずだからね。これでは、罠においでなさいと言っているようなもので、むしろ決別宣言に近い文章だと思う。おいらはこれ程態度をあきらかにした理由のほうを知りたいな」
「ロッグのマスターはマスター議会の議長でもありました。王が帰還されるまでは、バルトールの第一人者だったのです。当然その権力を手放す気になれないのでしょう」
「ソンタールとシャンダイアの戦争の情勢を見て、シャンダイアに見切りをつけた可能性もあるね。その手紙にはサルパートで待つとある。サルパートのマスターは何かつかんでいるかい」
「北の将ライバーの元にマスター、マサズの使いが行ったもようです。名前はイサシ。マサズの腹心で極めて危険な男です。これが北の将と手を結ぶための使者ならば、よほどこの同盟に意欲があるのでしょう」
 ベリックは有能な男が存在するという事実に、敵味方の区別なく嬉しさを感じた。
「極めて危険か、イサシの相手をおまえに頼んだら手に余るかい」
 フスツは嬉しそうにニヤリとした。
「始末してもよろしいのでしたら、喜んで」
「場合によっては頼む」
 ベリックはそう言うと、もう一通の手紙を手に取った。そして困惑したような顔で文字に目を落とした。そこには育ての親であるメソルの、謎を含んだ言葉が書きつづられていた。ベリックは不思議な思いで手紙を読んだ。そこに記された引っ掻くような筆跡は確かに懐かしいメソルおばさんのものだった。そこにはこう書かれてあった。

「大切なものを送りました。必要とされる場所で役に立つ人物に持たせています。それがどこか、それが誰かはおまえならばわかるでしょう」

 ベリックは二、三度手紙をひっくり返したが、書かれているのはそれだけだった。
「メソルおばさんが、おいら宛に何かを送ったらしい。バルトール人が使っているカインザーの港はどこ」
「港のある所ほぼすべてでございます」
 ベリックはちょっと考えた。
「持っているのがバルトール人以外の可能性もある。ザイマンからの荷物を、バルトール人以外の者が手に入れる可能性はあるの」
「普通はございません。ただしマスターの許可があれば例外もございます」
「亡くなったロトフが死ぬ前に許可を与えた者のリストはある」
「いえ、リストという程の人数はござません。ロトフ様は用心深い方でございましたので」
「ならばまずは、その洗い出しだ」
「この半年という事でしたら一人です」
「名前は」
 ベリックは短く鋭くフスツにたずねた。フスツは時々、相手が少年であるという事を忘れるような思いがした。この王は恐ろしい程頭が切れるのだろう。フスツはそれによってベリックの心が決まってしまうのを恐れるかのように言った。
「サルパートの吟遊詩人、サシ・カシュウ」
 ベリックの心は決まった。
「よし、サルパートに行く。サルパートのマスターに使いを送ってくれ」
「なんと、それは危険でございます」
「ああ、だけどおいらが行かないと、誰が何を持っているのかわからないようだ。それにここにじっとしているのはおいらの性にあわない」
 フスツはしばらく黙って若い王を見つめていたが、やがて決心したようにうなずいた。
「わかりました。私と、現在我々に用意できる最高の人材が数人お供する事にいたします。ただし王の出発は隠密にします。カインザーのオルドン王にもです。ここ、セスタには身代わりの者を置いておきましょう。王に似たような外見のバルトール人の少年を用意いたします。幸い王の顔を知る者はまだ少ないのでそれごまかせるでしょう」
「それはいい考えだ。しかしそれでもクライバー家の人達だけには、どうしても協力してもらわないといけなくなるね」
 そう言ってベリックはアーヤの顔を思い浮かべた。
(問題はどうやってあの女のご機嫌をとるかという事になるかな) 
 フスツとの打ち合わせの後、ベリックは厩に行って愛馬の鼻面をなでた。ライア山で引き取った小柄な栗毛馬は、牡馬なのになぜかおせっかいなアーヤによってフオラという可愛らしい名前がつけられていた。ベリックの乗馬になってからしばらくは疲れが残っていたらしく、筋肉が硬くて歩様がぎこちなかったが、十分に休みをとらせたおかげで今ではすっかり元気になっている。ベリックは飽きずに馬の鼻をなでた。
(とても丈夫で辛抱強い。この馬の元の飼い主はとても良くこの馬を育てた。だが今回の旅に必要なのは、足が速い馬だ。そしていずれ自分に必要になるのは、会戦で揉まれてもつぶれない頑丈な軍馬だ)
 翌朝、階段を降りてきたアーヤを待ちかまえていたのは、濃い青のカインザーの宮廷服で正装したバルトールの王だった。
「アーヤ。君にプレゼントがあるんだ」
 アーヤの顔に花が咲いたような笑顔が広がった。
「まあ素敵。宝石、王冠」
 ベリックはちょっとひるみながらも、笑顔をつくろって少女に向けて右手を差し出した。
「こちらにどうぞ、レディ」
 アーヤを連れてベリックが裏庭にまわると、そこにはクライバー男爵の息子のアントンと、栗毛馬のフオラが待っていた。
「あら、フオラじゃない」
「欲しがってたろう」
 アーヤの目が怪しく光った。
「何をたくらんでいるの、盗賊王」
 ベリックはアントンとアーヤに近くに寄るように手招きした。
「君たち二人に相談がある」

 智慧の峰サルパートの守護神エイトリに声を授けられた吟遊詩人のサシ・カシュウは、カイト・ベーレンスの探索を逃れてポイントポートを脱出した。北の将の兵士にさらわれた妹に巡り会えるまで、自ら目を閉じ続ける事をエイトリ神に約束したために不自由な身ではあったが、サシは危険からの脱出が歌を歌う事の次に得意だった。しかし、カインザー貴族の中で最も聡明と言われているカイトもそう簡単には引き下がらなかった。ソンタール領であるはずなのに、ぴったりと追っ手が追跡してきている事に、吟遊詩人は驚きとともに気が付いていた。
(なるほど、どうやらベーレンスの若き当主は噂どおりの出来物らしい。これは久々に歯ごたえがある逃避行になりそうだ)
 サシは長身痩躯、身なりはみすぼらしいがその動作にはどことなく品がある。一芸を極めたものの誇りだろうか。年齢はまだ壮年期にさしかかったばかりのはずだが、長い髪は八年前に受けた苦痛と長く辛い旅のためにすっかり銀色になっていた。
 かつて彼は、サルパートの旅芸人一座の一員だった。早くに両親を無くし、一座に妹とともに拾われたサシは、美しい歌声で徐々に一座の花形になっていった。しかしそれを妬んだ仲間に毒を飲まされて声を失い、役立たずになったサシは妹と共に一座から捨てられる事になった。失意の中でサルパートの北部山中をさすらっていた二人は、北の将の兵隊に襲われて妹は連れ去られた。そしてサシ自身は声についで両目の光までも奪われてしまった。しかし降りしきる雪の中、瀕死の身で妹の無事を願う男の心の中の祈りは浄化と医療の神エイトリに届いた。
 エイトリはサシ・カシュウに両目と声を与え、妹に会うまではその目を開いてはならぬと命じた。妹思いのサシが、兵達をすぐに追いかけて逆に殺されるのを心配したのである。神の意図を理解したサシは時を待つ事を約束し、比類無き美声を頼りにシャンダイアの国々を放浪して妹と再会する機会を待った。そして、その足は時々ソンタール領にも向けられた。
 サシは今、サルパートの峰の東側のソンタール領を通って、北に向かっている。一見すると、年老いた愛馬に引かれた盲目の吟遊詩人のゆるやかな足取りのように見えたが、旅慣れた男の足は疲れを知らず、峰の西側に比べれば穏やかな気候にも助けられて常人とかわらぬ距離を毎日かせぎ出していた。
 智慧の峰の西側のサルパート領でギルゾンの襲撃が恐ろしい噂として広まっているように、現在智慧の峰のソンタール側の街道沿いの村々で語られているのは、カインザーのロッティ、クライバーの二将の北進の事だった。噂ではカインザー軍は虐殺を繰り返しながら進んで来る事になっているが、カインザー人を知っているサシ・カシュウはそれが事実と違う事を知っていた。カインザー人は粗暴だが残酷ではない。残酷さにはまた繊細さも必要なのだが、カインザー人の精神には繊細さのかけらも無い。
 この並外れて精強な戦闘民族の軍隊にソンタールで匹敵できるのは、おそらく西の将マコーキンが指揮する軍と、陸軍総大将のハルバルト元帥が指揮する皇帝の近衛部隊だけだろう。だがそのマコーキンは、要塞を奪われた罪により、現在首都グラン・エルバ・ソンタールで裁判を受けている。
 かなり重い罪になる可能性が高いとの噂もサシは耳にしていた。サシ・カシュウの美しい歌声はソンタール領でも知られていたが、盲目と思われているせいか人々はあまりサシに警戒しなかった。その利点を利用して彼はせっせと両陣営の情報をあつめたのだ。サシは北の将の兵士にさらわれた妹を探し出すため、集めた情報を提供するのと引き替えに様々な人々を利用して今日まで活動してきた。
 サシが見るところ、マコーキンの最大の失敗は要塞付きの黒い盾の魔法使いゾノボートを死なせてしまった事だろう。陸軍元帥ハルバルトはマコーキンの天才的な軍事の才能を惜しんでいるが、現在の帝国内ではバステラ神の神官の力は強大である。帝国の礎を築いたガザヴォックを中心とする魔法使い達を後ろ盾とした勢力が裁判では力を持つはずだった。家格の高い参謀のバーンの家を中心とした貴族達がどこまで頑張れるかだが、状況は厳しい。マコーキンは得難い人物ではあるが、西の将の地位は事実上消滅している。
 政治情勢の不安定な国境地帯を渡り歩くサシ・カシュウは、ソンタールのほかの将軍達の情報も集めていた。南の将とユマールの将は現在海軍の充実に心血を注いでおり、陸軍の能力はあまり高くないと思われる。東の女将軍は山猫に囲まれて暮らしいている変人で、平地での力は未知数。この三将はこれまでセントーンを囲み続けながら落とせないできている。
(そこで北の将だ。この男がどこまでカインザーの精鋭を押さえる事が出来るのか)
 
「吟遊詩人どの、一曲お願いしたい」
 酒場の奥で目立たぬように椅子に沈み込んでいたサシの前に男が立った。手にした熱い薬湯のカップをコトッと机に置いてサシは緊張した。
(この私が声をかけられるまで気がつかないとは、これは並の人間ではないぞ)
 疲れてはいたが、詩人は礼儀を失わないように胸に手を当て、声が聞こえたほうにうやうやしくおじぎをした。そして竪琴を取り出そうと袋をたぐりよせながら言った。
「はい、何なりと、お望みの歌を」
「どんな歌でも良いか」
 サシは少し傷付いたように答えた。
「はい、もちろん」
「それでは、ユリエラの薔薇を」
 サシは驚いた。
「サルパートの娘達が好む歌をここでですか」
 そして以前にこの歌を希望したサルパートの巫女を思い出した。
(レリス侯爵の娘スハーラ、リラの巻物の次の守護者であったな。もうサルパートに戻っているはずだ。今頃は学校にいるのだろうか)
 サシは注意を前に立つ男に戻した。男は続けた。
「いや、酒場でではない。我らがあるじが部屋で所望しているのだ」
「そうですか、それではお客様の部屋までおうかがいいたしましょう」
 有名なサシ・カシュウがそこにいる事に気がついた酒場の一部から不満の声があがった。ゆっくりと立ち上がったサシはその声のほうに深々とおじぎをした後、軽く手を振ってすぐに戻るという仕草をした。だがそれが無理かもしれない事も内心察知していた。
 サシ・カシュウは男に連れられて二階に上った。部屋の中には人が数人いると思われたが、それにしては空気が澄み過ぎている。吟遊詩人は竪琴を握りしめた。ちょうどその時、窓の外から騒ぎが聞こえてきた。誰かがカインザーと叫んでいる。カシュウは首をひねった。
(おかしい。ロッティ、クライバーがいかに速くても、戦闘をしながら進んでくるのだ。まだここまで来るわけがない)
 外の騒ぎはだんだん大きくなってくる。
 部屋の奥から落ち着いた老人の声がした。先ほどの男の主人らしい。
「吟遊詩人どの、どうやらカインザーの軍団がやってきたようです。ここは危険になるかもしれません。せっかく来ていただいたのに残念だが、お逃げになったほうが良いでしょう」
 サシは慎重に言葉を選んで答えた。
「いや、間違いでございましょう。私はポイントポートからここまで旅をしてきました。確かに目が不自由ですので速くはありませんが、カインザーの二将よりはかなり先んじていたはず。こんなに早く追いつかれるとは思えません」
「しかし、騒ぎが広がると何がおきるかわかりませんよ」
 その時、階下の酒場で男達の大声が聞こえた。宿泊している客達が逃げ出し始めたのだろう。
「吟遊詩人どの、私達も詳しい情勢がわかるまで避難いたします。とりあえず一緒に参りましょう」
 サシはその部屋の主人に連れられて、階下で待っていた馬車に乗せられた。座席が堅い何の変哲もない普通の馬車だ。サシ達を乗せると馬車はすぐに走り出した。サシ・カシュウはそこで以前にこれと同じ空気に包まれた事を思い出した。
(ああ、私とした事が不覚であった)
 サシは、向かいに座っている主人に声をかけた。
「わたしの闇しか見えない瞼に、薔薇の紋章の幻が浮かんでおります。サルパートのバルトールマスター様でございますね」
 老人は楽しそうに笑った。
「さすがだ、サシ・カシュウ。われわれの雰囲気はそれ程わかりやすいかね」
「いいえ、たまたま私は亡くなったカインザーのマスター、ロトフ様のおそばに呼ばれた事があります。これほどの静かな緊張にあふれた者を率いていられるのは余程の実力者。バルトールのマスターしかおりますまい」
 肩に力強い手が置かれた。
「うむ。わしはサルパートをあずかるマスター、モントだ。そなたをとどめ置くようにとのベリック王のご命令が届いた」
 サシ・カシュウはあきらめたように肩の力を抜いた。
「なるほど、あの騒ぎもモント様の手の者の仕業でしたか」
「いや、あれは違う。カインザーの不器用者が数名追いかけてきていた。どうやらどさくさに紛れて、そなたをどうにかしようとしたらしい」
「よろしいのですか。カインザーの者の目の前で私をさらって。ベリック王はカインザーと同盟していると思いましたが」
「かまわん。わしらはベリック王の命令を聞くものであって、カインザーに気をつかう必要など無い」
 老人は事も無げな様子を装って答えた。だがサシには、その言葉の裏に複雑な思いが揺れている事を察する事ができた。
(バルトール人は今、難しいところにきているのだな。二千五百年続いた生活が変わろうとしているのだ)
 サシは心配そうに質問した。
「私の馬はどうなったのでしょう」
「心配するな。おまえの唯一の道連れを奪うつもりは無い。荷物と共にわしの手の者が連れて追いかけてくる事になっている」
 サシは静かに微笑みをうかべると、ゆっくりと磨き抜かれた竪琴を袋から取り出した。
「お客様、後ほどどこかに落ち着きましたら一曲いかがでしょう」
 マスター、モントは嬉しさが顔ににじむような笑みを浮かべた。
「噂の歌声が聴けると思うと、任務でなくとも心が騒ぐ。ぜひ聞かせてくれ」

 その頃、智慧の峰のサシ達と反対側の山道を黙々と登る異邦人の一隊があった。聖王マキアと別れて、ネイランから山の中腹にある学校へと向かうカインザーの王子セルダンとその友人達である。道が狭く険しいため、今回は徒歩での登山となった。セルダンが先頭に立ち、その後にブライス、マルヴェスター、荷物を載せた小型の馬の隊列が続き、しんがりをベロフとアタルス達三兄弟が守っている。ブライスの大柄な葦毛馬のスウェルトはこの道に適さないため、アシュアンの元に置いてきた。
 ライア山のクライドン神の神殿への道を思い描いていたセルダンは、学校へ続く道が思ったより細い事にちょっと意外な感じを持った。しかし両側が盛り上がったその道が、うまく風を防いでいる事にも若い王子はすぐに気がついた。不思議そうに景色を見回しているセルダンにマルヴェスターが声をかけた。
「わかったか。どこにでもだだっ広い軍道をつくってしまうカインザーとは全く違う世界があるのだ。道は特に生活の中心だから、その土地の気候と生活を一番わかりやすく反映する」
 セルダンはかじかむ手を握りしめて答えた。
「カインザー人はどんな所でも我慢強いんです」
 横でブライスが笑った。マルヴェスターが続けた。
「敵は人間だけではない。そして北の将の要塞はもっと厳しい環境にある。我々だけでは戦えないよ。いま峰の東側を北上しているロッティやクライバーも、そのうちカインザー流の考え方が通じない時がある事を知るだろう。もっともあの部隊にはバンドンという超現実主義者がついているので、わしも最悪の事態だけは避けられるのではないかと思うのだが」
 これを聞いたセルダンが何か言おうとした時、ふいにブライスが身震いした。
「嫌な予感がするぞ」
「どうした」
 セルダンの問いかけに、ブライスが右手で防寒帽をめくって額の輪を見せた。
「額のエルディ神の銀の輪からゾクゾクするような危険な感じが伝わってくる」
 突如、セルダン一行のまわりで舞っていた雪が渦を巻いて上空に駆け上がった。そして前方に見えていた黒いの森の上空に長い衣を着た巨大な白い人の姿が浮かび、大きな叫び声をあげた。それを見たマルヴェスターが口をあんぐりと開けてあえいだ。
「おお、エイトリ神だ、エイトリ神だが泣いている」
 荷駄の馬がおびえたようにざわめいた。セルダン達が驚いて見守る中、エイトリ神の幻影はしばらく泣き声を上げた後、ちぎれるようにして消えた。マルヴェスターが叫んだ。
「いかん、学校か神殿かどちらかに何かが起きる。急ぐぞ」

 午後の短い光の中、雪の中を疾走しながらバイオンはギルゾンに念を放った。
「本当にあそこを襲うのか」
 ゾクッとするような魔法使いの冷たい答えが届いた。
「いかにも」
 そして魔法使いは耳障りな声で甲高く笑った。バイオンは頭の中からその声を追いだしたくて、首をはげしく振った。バイオン達は現在、北の将の要塞を遠く離れてサルパートの峰の南部に入っている。このあたりはすでにサルパートの領内で、エイトリ神の様々な施設がある。その中で最も重要なのは言うまでもなく神殿だ。狂える魔法使いはついにその神の領域を襲う決意をしたのだ。バイオンはこの行為には疑問を持っていた。
「神と戦う用意はあるのか」
「聖宝神など精霊に過ぎん。泣き虫エイトリなどその最弱ではないか」
 ギルゾンの言葉がキリキリとバイオンの頭の中に届く。そして黒い短剣の魔法使いは皮肉を込めて笑った。
「なんじはどうだ。ドラティは火の神クライドンと闘ったぞ、浄化の神エイトリはクライドン程強くはあるまい。望むなら譲ってやっても良いぞ」
「狼ととかげを一緒にするな」
 バイオンは嫌そうにうめいた。そして思った。
(エイトリならば確かに私にも相手ができる。問題はギルゾンにエイトリを殺させてはならないと言う事だ。神を殺した者が他に何を恐れようか。この魔法使いをこのまま暴走させると、サルパートの山の生き物が本当に死に絶えてしまう)
 やがて小型の狼ルフーの群は音もなく神殿を囲んだ。サルパートのエイトリ神殿は神官達の住居も兼ねた巨大な箱形の建造物だった。夏には聖王マキアもここに滞在する。威厳ある建物だが、政治的な要素が強いためと、過去に北の将の軍がここまで攻め寄せた事が無いため防備はきわめて手薄だった。
 ルフー達は神殿を取り巻く針葉樹の森に潜んで接近した。神殿を見下ろす崖の上から、ギルゾンとバイオンは灰色の点のように見える狼達が、神殿に十分に近づくのをじっと見守った。しかしバイオンの注意は、黒い頭巾に隠されて表情が見えない小柄な魔法使いに注がれていた。足下の白い雪ではその存在の重さを支えられなのではないかと思う程、その黒々とした塊からは禍々しい妖気が立ち上っている。バイオンがもう一度ギルゾンに考え直すように声をかけようとした時、魔法使いが叫びを放った。
「キアー、アアアアアー」
 その叫び声と共に、ルフーは神殿のあらゆる戸口から神殿の中に駆け込んだ。いつもながらの叫喚が雪の中にこだまする。サルパートの神殿にも神官戦士がいたが、サルパートの伝統で軍事は聖王マキアの統括と役割が分かれていたため、カインザーの神官戦士達に比べればはるかに戦闘力が落ちた。頼みのマキア王の兵は冬の間の王の不在中はほとんど神殿に配備されていない。小型とはいえ、ルフーの鋭い牙の猛攻に、神殿の警備の者達はほとんどなす術無く噛み倒されていった。
 ギルゾンは頃合いを見て崖を駆け降り、まっすぐに神殿に走り寄って中に踏み込んだ。その動きの鋭さ、素早さは狼の王バイオンですら恐れを感じる程だ。黒い短剣の魔法使いは思いのままに神殿の中を走り回った。目の前にエイトリ神の神官が通りかかると手にした黒い短剣を無造作に一振りする。するとその短剣から黒い粉のような妖気が一瞬走り、それに触れたエイトリ神の神官達は苦悶の悲鳴を上げて息絶えた。ギルゾンは魔法の触覚を伸ばして、神殿の中を乱暴に探った結果、自分が探している物がそこに無い事をすぐに悟った。
「無い、無い、無い。ここにも無い」
 魔法使いは狂ったように叫ぶと、短剣を大きく振り回した。すると短剣からは黒い火が吹き出されて神殿を襲った。
 バイオンは一足遅れて魔法使いを追いかけたが、巨体が神殿に入れなかったため、神殿の中の悲鳴を聞きながら悔しそうに外をうろついていた。やがて黒い炎が神殿を包み、火に襲われた壁や柱が穢されたようにボロボロと崩れ落ちた。バイオンはその炎を見ながら、ルフー達に殺戮をやめるように命じた。
(ギルゾンは何を探しているのだ。リラの巻物なのか、あんなもの手に入れた所でソンタールの魔法使いには何の役にも立たんぞ)
 やがて手ぶらでふらりと神殿から出てきたギルゾンを見たとき、バイオンはギルゾンがリラの巻物ではなく、黒の魔法のほうに繋がる何かを探しているのだと確信を持った。

 炎に森が照らし出され、ゴウゴウという恐ろしい音があたりを支配する中。エイトリ神の神殿の神官長のエスタフは、聖なるリラの巻物を抱えて命からがら神殿を脱出した。まさかこの神殿まで敵に襲われる事は無いを思われていたため、昔から聖なる巻物は守護者の住む学校より、神殿に保管されていることが多かったのだ。神官長は白い長髭のいかめしい顔の老人だったが、今、その青白い顔は恐怖に凍りついている。ガクガク震える体を若い神官達に支えられながら、エスタフは学校を目指して雪の中を逃げ延びた。後から傷だらけの神官達がわらわらと続いた。神殿と学校を繋ぐ道に恐怖と苦痛のうめき声が満ちた。

(第四章に続く)


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