第六章 サムサラ砦


 ソンタール大陸の中央部に帝国の背骨のように隆起して、東西に連なるランスタイン大山脈の西の端と、サルパート山脈の東に延びる支脈が最も近づいた所にサムサラと呼ばれる村がある。このあたりがちょうど北の将とソンタール本国の勢力圏の中間にあたるため、村は不幸にも両方の経済圏の辺境という運の悪い環境に置かれていた。それでもサルパート山脈から流れ出る雪解け水を集めて畑には細かく治水がなされ、秋には作物が豊かに実って大地を彩った。広々とした畑の中には小さな林が点在し、その木々の中には太い木材で組まれた村人の家が、乾いた風を避けるようにして建ってた。畑を貫く道には使役用の馬と農具を載せた車が行き交い、村人達は土ぼこりを防ぐために頭巾から目だけを出して毎日懸命に働いた。
 しかしそうして収穫された作物は、村の北にある闇の神バステラ神の教会を通じてソンタール本国と北の将の要塞両方に送られてしまうため、人々の暮しはとても苦しかった。もっともその教会にいるバステラ神の神官達は、いつも村人達よりさらに不幸そうな暗い顔をしていた。なぜならば北の将の要塞にいる高位の神官ギルゾンは、不思議なくらいに他の神官をもてあそぶのが好きで、過去に何人も呼びだされては帰らぬ人となっていたのである。そんな希望の無い神官達の残酷な気晴らしは、時々サムサラの村人達に不幸な事件を起こす事があったが、黒の神官に逆らうには農民達は無力過ぎた。
 北国の長い冬もようやく峠を越えたある日、そんなサムサラの村の西側の平野に、突如戦士の大陸カインザーの大軍が南風にのってやってきた。快速の騎馬軍団は到着したその日のうちに、村にあるバステラ神の教会を焼き打ちにした。抵抗しようとした神官達は、ことごとく粗暴な戦士達に切り伏せられた。村人達は初めて見る狂戦士の来襲に恐れおののいたが、教会の焼き打ち以後カインザー人達が村に押し寄せる事は無かった。教会を追われた生き残りのバステラ神の神官達は、もちろん北の将の要塞ではなく、本国からやってくると噂されているソンタール軍を頼って村を逃げ出した。
 カインザー軍団は、来襲の翌日から村とサルパート山脈の中間近くにある小高い丘の上に砦を建設し始めた。心配した村人達はこっそり偵察に行ったが、カインザー人達はそんな村人の姿を見かけてもいたって無関心だった。どうやらこの戦士達は、敵の戦士以外は相手にしないらしいという観測が村人達の間に広まり、一時的にバステラの神官からも開放された人々は心のなかでこっそり安堵のため息をついた。しかし名にしおう凶暴なカインザー軍の事である。何をしでかすかという不安は村人の心を去らなかった。そのためにカインザー軍への村人による偵察は、それ以後おおっぴらと言っても良いくらいに大胆に続けられる事になった。
 村人達が観察して判断した結果、どうやら総指揮官は茶色い鎧の将軍らしかった。この将軍は驚くほどに騎乗がうまい。将軍は実に巧みに馬に乗ってかけまわりながら、配下の軍団を指揮してわずかの間に砦を建設中の丘のまわりに大量の低い柵と溝を作った。その柵と溝が設置された範囲は数日のうちに丘を中心に数キロ四方に及んだ。ただし唯一西側、サルパート山脈に向かう方角にだけは一直線に道が残されていた。戦いのためにつくられたのは明らかだが、作られた柵はあまりに低く防壁というにはお粗末なくらいに簡素な作りで、とうていソンタールの軍隊と戦う用意には見えなかった。溝も幅が狭く、深さはあるが板を敷いて渡る事も埋めてしまう事もたやすいだろうと村人達には思われた。
 一方、やや若いもう一人の指揮官らしい赤いマントの将軍に率いられた軍隊は、丘の上に石をつんだり木を切って並べたりして何とか砦を造ろうとしているらしかったが、どうにも不器用で形にならず数日で放り出して北に進軍して行った。やがて、村の北方にある北の将の補給基地が次々と襲撃を受けたという情報が村に届くようになり、数日おきにたくさんの略奪物資を引いた馬達が砦に入っていった。どうやら噂以上にカインザー人は凶悪な盗賊らしい。村人はそんな者達が村の近くに駐屯している事にあらためて恐怖した。
 赤いマントの将軍が去った後の丘の上には、数百人の柄の悪い一団が残った。何者だろうと村人達はいぶかしんだが、この一団は手際よく見る間に簡素な砦をつくりあげた。そして砦の建物が出来上がると、僅かの見張りを残してサルパート山脈を目指して出かけて行った。最初はカインザー軍を恐れていたサムサラの村人達だったが、大ソンタールの民である事を誇りにしている者達は、この一団の一見不真面目にも見える臨戦態勢にいささか不満を覚えた。そしてはやく本国の軍が到着して散々にやっつけてくれればいい、と顔をあわせるたびに話し合うようになった。
 そんなある日、村に明るい知らせが届いた。ソンタール本国の大軍があと二週間程で到着するというのだ。しかも指揮をしているのが名門ゼンダ家の当主グルタス・ゼンダだという情報が伝わると、村は都の有名な貴族を迎えるための準備にわき返った。娘のいる親達は特に期待に胸をふくらませた。ゼンダ家の血筋でなくともいい。その家来にでも気に入られれば、家族はこれからの裕福な暮らしを約束されるのだ。その期待の前に、村人達の心の中からカインザー軍への恐怖などは吹き飛んでしまった。なぜならばゼンダ家の大軍の前にはカインザーの兵など全くの無力であり、粉微塵に粉砕されるのが明らかだからだ。

 カインザー王国の機動部隊。ロッティ子爵、クライバー男爵の二人の貴族が率いる三万の軍団がサムサラに到着しておよそ二週間がたった。そろそろソンタール軍が到着すると思われる頃、サルパート山脈からの物資の輸送路を整えて元盗賊の頭のバンドンが砦に戻ってきた。約三百人の部下も乗馬の鞍に糧食やバンドンが選んだ実用的な資材を大量に携えて後に続いている。
 バンドンは戻るとすぐに主立った部下を連れて、砦の建物の前の見晴らしが良い高台に上がった。そしてそこからロッティが作りつつある平たい防衛線をざっと眺めると、すぐに頭をかかえて横に並んだ部下に愚痴った。
「おい、あのお粗末な柵は結局あのままなのか。ロッティは二週間もあれを並べてたってのか。なんなんだありゃいったい」
 バンドンの指さす先には、確かに出発時の柵と溝がその設置範囲を拡大しただけで延々と続いている。
「俺はこの戦役が終わったら逃げ出してまたカインザーで盗賊をやろうと思っていたんだが、こいつは考えにゃあいかんなあ。カインザー人の狂い方は尋常じゃねえ。ソンタール人のほうがよっぽどマシだ」
 バンドンが怒りながらうろうろしていると、バンドンと一緒に戻ってきた部下の一人が、やっと気がついたように大声をあげた。
「こりゃあ馬の訓練場だ」
「なんだと」
 バンドンは足を止めてその部下をうんざりした顔で睨んだ。
「あっしのせいじゃねえですよ、お頭。ロッティの名がつく者は結局馬の事しか頭にねえって事でさあ」
 部下はロッティがつくった柵を指さしながら説明した。
「おいらのおやじはロッティ家の牧場の馬番の一人だったんでね。だから知ってるんですが。馬っつのあ、ほんとは丸太もまたげねえほど臆病なんです。ロッティ家じゃあそいつをうまく訓練して、障害物のある所でも平気で進めるようにするんですが、その訓練場がこんな感じでした。もっともこいつはバカでか過ぎますけどね」
 バンドンはそう言われて、眼下の数キロ四方におよぶ障害物をじっくりと眺めてみた。
「なるほどな。ソンタールの軍は一見大した防御もされていないこの平野に進軍してくるだろうが、馬でも人でも進むのにかなり難儀をするはずだ。しかしロッティの騎馬軍団は平気でこの障害物の中を走り回って攻撃も退却もできるってわけか」
 他の部下達も感心してその広大な障害物の平野を眺めた。しかしバンドンはこの作戦に否定的だった。
「こんな方法が何日ももつもんじゃあねえだろう。敵の数が多過ぎる。一箇所突破されれば、後は堰を切ったように押し寄せてくるに違げえねえ」
 そう言うとバンドンは砦の留守番をしていた部下に聞いた。
「ところでクライバー戻ったのか」
「いんや、まだでさあ」
「なんだと」
「北の将の駐屯地をさんざん荒らし回って、その物資を送ってきてますよ」
 そう言って部下は、砦の貯蔵庫のほうを指さした。そこには倉から溢れた穀物の袋が無造作に積まれていた。
「それはわかってるが、しかしいつまでやってるんだ。もうソンタール軍は目の前に来てるんだぞ。しかもあんまり刺激すると北の将の兵まで来ちまうじゃねえか。ちくしょう、カインザー人ってのはどうしてこうも加減を知らないんだ」
 バンドンのあまりの剣幕にその部下が恐る恐るたずねた。
「お頭、逃げますか」
「アホ言え。ただ逃げたんじゃこれからどこに行っても相手にされねえ。ロッティとクライバーにくらいついてソンタールの軍団を散々なやませてから、危なくなったら俺達だけささっと退散するんだ」
 バンドンはそう言うとテキパキと指示をして部下を砦に展開させた。
(こうなったら自分達の身は自分達で守るしかねえぜ。カインザーの狂戦士どもと心中はごめんだからな)

 サルパートの吟遊詩人サシ・カシュウは、智慧の峰の北部にある小さな山塞に捕らえられていた。妹の死を知り、そのかたきの山賊の頭を刺殺した夜。マスター、モントに別れを告げて、一人で北の将の要塞への道を辿った翌日の出来事だった。愛馬を引きずるような急ぎ足で山中を進んでいたサシを、前日の山賊達が待ち伏せて襲った。サシ自身もそれなりに戦いの仕方を知っていたが、いかんせん開いたばかりの目が光になじまず、行動が思うようにいかなかった。わずかな抵抗の後、あっという間に縄で縛り上げられてしまったのは仕方の無いところだろう。山賊達の山塞はサシが捕らえられた場所のすぐ近くにあった。
 サシを捕らえた山賊達は山塞でサシを殺すもりだったらしいが、それが有名な吟遊詩人のサシ・カシュウである事を知ると、殺さずに北の将の要塞に売り飛ばそうと閉じ込めた。それはそれで願ったりだとサシは思った。元々北の将の要塞を目指していたのだから。
 サシは山塞の最上部にある小さな部屋に閉じこめられた。見通しが悪い山の中の砦では、ほとんど用が無い部屋である。寒さに耐えるためにつくられた建物はさすがにすきま風一つ無いしっかりした建て付けだったが、古くなった木の小さな穴から差し込むわずかな光が空気の中に筋をつくり、昼になるとサシはそのまぶしさに目をすがめた。
(光というのも面倒なものだ)
 サシは当初、北の将の要塞に辿り着い後、バルトールの旧首都ロッグのバルトールマスターの配下であるイサシと交渉して要塞に潜入するつもりだった。その後は自分の美声をうまく活かして、北の将に接近する機会をうかがえばいい。しかし山賊達のおかげで、ルドニアの霊薬が無い状態でイサシと危険な駆け引きをする必要が無くなった事はむしろ幸運だとサシは考えた。バルトール人と付き合う機会が多かったせいか思考がタフになてきている。
 しかしその思惑とは裏腹に、監禁のわずか二日後にマスター、モント達の山塞襲撃であっさりとサシは山賊から解放されてしまった。後で知った所によると、山賊達はほとんど抵抗する暇すらなかったらしい。訓練されたバルトール人というのはこういう狭い場所での戦闘が恐ろしく強い。サシは襲撃が始まったらしい階下の騒音を聞きながらおおよその状況を悟った。そして、物音が止んだ後、監禁された部屋の扉を開けて見慣れた老人が入ってくるのをぼんやりと待ち構えていた。
「またあんたか、今度はどこに連れていく」
 モントはサシの元気な姿を見つけて嬉しそうに笑った。
「ジンネマンの洞窟の話を聞いたことがあるか」
 モントはそう言って水の入ったカップを床に座ったままのサシに渡した。サシは受け取って口に含んだ。
(ああ、うまい。しかし水を汲んでくる程の余裕があるとは、さすがにたいしたもんだ)
「ああ、巨大な洞窟だ。サルパート人なら誰でも知っている」
「そこに入る。一緒に来て欲しい。どうやらおまえが目を閉ざし続けた八年間の経験が必要になりそうなんだ」
 サシはカップをコトリと床に置いた。
「断るね。俺は誰のためにも自分の力を使うつもりはない」
 モントは険しい顔で言った。
「ならば、おまえの妹のためにやれ。北の将ライバーを滅ぼす」
 サシは驚いた。
「本当にできるのか」
「そのために我々はおまえを呼びに来た」
 サシはしばらく考えていたが、やがてゆっくりと腰を上げた。
「なる程な。おまえが主とあおぐベリック王や、カインザーの狂戦士達以外にはソンタールの将軍と戦う勢力はこの世界にいない。俺にも選択肢は無いという事か」
 サシはモントに続いて山塞の通路を歩きながら、制圧された山賊達に意外に死者が少なそうなのを見てなぜかホッとした。

 モント達がサシ・カシュウを連れて去った翌日、一人の小柄な男がその山塞をたずねた。男は山塞の堅く閉ざされた門と高い塀をしばらく眺めていたが、ひょいとジャンプしてその塀に取りつくと、やすやすとよじ登った。中からの攻撃は無かった。男は身軽く中庭に降り立つとツカツカと庭の中央まで歩いて行って立ち止まった。数組の矢が砦の窓から一斉に男に狙いをつけた。男はニヤリと笑うと腰に手を当てて大声でどなった。
「ここは北の将ライバーの兵達と、つながりがあると聞いてきた。頭のサイダルはいるか」
 しばらくして、山砦の窓から痩せたイタチのような顔の男が顔を出した。
「サイダルのお頭は死んじまった」
 中庭にやってきたイサシという名のバルトール人は、素早く山賊の表情を観察した。かなりおびえているように見える。
「それではサイダルの次の頭は誰だ」
「ジンバだったが、ジンバも殺されちまって、いまじゃおいらが頭だ」
 イサシは顎に手をやって薄い髭をしごいた。
「二人は誰に殺された」
「サイダルは吟遊詩人に殺された。ジンバを殺ったのはバルトールマスターの一味だ。モントとか言った。サイダルのお頭を殺った吟遊詩人をひっつかめえてたんだが、そいつを取り返しに来たんだ。化け物のように強ええ奴らだった」
 イサシはうなずいた。
「相手はバルトールマスターだ。おまえたちの手に負える者では無い。ところでその吟遊詩人は何か薬のようなものを持っていなかったか」
「うんにゃ知らねえ、持っててもバルトールマスターにとられちまったべえ」
「そうか」
 イサシは曇った空を見上げて考え込んだ。
(どうやらザイマンのマスター、メソルの使いは役に立たなかったようだな。ルドニアの霊薬でサルパートをゆさぶれると思ったんだが、モントの手に渡ればサルパートに渡る。よし、この件からは手を引こう。後はギルゾンと狼達がどう対処するのか見物といくか)
 イサシは新しく頭になった男にたずねた。
「モントはどっちの方角に向かったんだ」
 山賊は中庭の男が自分達には興味が無さそうな事を知って、ホッとしたように窓から遠くの山を指さした。
「北西のほうだ」
 イサシは北西の空を振り仰いだ。峰の上のほうを灰色の雲が覆っている。また雪と嵐が来るようだ。
「ふむ。そっちには何がある」
 山賊の頭は大声で答えた。
「ジンネマンの大洞窟だあね」
 イサシはそれを聞くと何も言わずに踵を返して山塞の門に向かった。そして山賊達が驚いて見守る前で、巨大な門を片手で楽々と押し開けて山道へと消えた。

 イサシが遠くあおいだ大洞窟はサルパート山脈の最北方の中腹にある。洞窟には魔物が住むとも果てが無いとも言われ、過去に幾多の冒険者が踏み込んだが、まだ誰もその果てを見たものはいない。その巨大な洞窟を背にしたジンネマンの村にシャンダイアの要人達が続々と集結しつつある。
 最初に到着したのは、最も遅くサルパート入りしたバルトールの少年王ベリックだった。ベリックは、腹心のフスツとその部下の少数精鋭で移動しているために移動速度が一番速かったのだ。途中で馬と話ができる少女エレーデを拾ったため多少遅くはなったが、エレーデも山育ちだけあって旅に慣れると機敏にベリック達についてきた。
 ベリックと行動を共にしてから最初の数日の間は、この不幸な生い立ちの少女は暗く沈んで、ほとんど会話もできなかった。しかし辛抱強くベリックが話しかけてているうちに、少しずつ明るさを取り戻してきた。やはり山賊の中での暮らしは辛かったのだろう。ベリックはバルトールに伝わる方法で加工した薔薇の花をエレーデに贈った。赤い薔薇は摘みたてのような美しさで、少女の胸で花開いた。

 次に到着したのはやはりバルトール人、モントの一行だった。吟遊詩人サシ・カシュウは、ここで初めてベリック王と対面した。そしてベリックの後ろに隠れるようにして様子をうかがっているエレーデに、なんとか話しかけようとした。しかしエレーデは父を殺した伯父を遠くから見つめ、決して答えを返そうとはしなかった。

 続いて一人のバルトール人が村の近くの森の中に潜伏した。失われた都ロッグのバルトールマスター、マサズの腹心のイサシである。イサシは最初旅人を装って村にさりげなく足を踏み入れようとした。しかし村はずれで見張りをしているバルト−ル人を見て、あわてて道から逸れて茂みに身を潜めた。
(あれはモントの部下ではないぞ。殺気が数段違う。おそらくはカインザーのバルトール人だ)
 そこでイサシはハッと気がついた。
(とすればフスツが来ているのか、フスツは王を名乗るベリックのそばを離れないはず。それならばここにはベリックがいるぞ)
 イサシは高鳴る鼓動を抑えながら、慎重にベリック王を確認できるチャンスを待つ事にした。

 最後に到着したのが、巻物の守護者スハーラと冠の守護者ブライスに率いられたエイトリ神の巫女達だった。雪に消え入りそうな可憐な乙女達は村の教会と、そのまわりの家々に分かれて宿泊した。シャンダイアの国々の相談役、魔術師マルヴェスターはサルパートの聖王マキアの名のもとに村を戒厳令下に置いた。
 村の中心には洞窟を見張るようにエイトリ神の教会が建っていた。信仰の国サルパートの教会は、村人達が寒さを避けて屋内で会議が行えるようにとの目的でつくられているため、しっかりしたつくりと規模を持っている。巫女達が到着した夜、一同はその教会に集まった。主立った者達がエイトリ神の祭壇の前に並び、二百人の巫女達が椅子に座った。全員が揃った事を見届けた後、巻物の守護者スハーラが進み出て、決意のこもった声で皆に宣言した。
「私達は今、ふるさとサルパートが滅びるか生き残るかの瀬戸際に立っています。なつかしい峰を覆う白い雪を赤く染め上げた魔法使いギルゾンを倒すために、私達は今日ここに集いました。エイトリ神の英知を信じましょう。ジンネマンの暗闇を通り抜けて必ず牙の道に辿り着きましょう。本当の戦いはそれからなのです」
 そう言うとスハーラは一息ついて、目の前の巫女達を見渡した。そしてマルヴェスターにたずねた。
「いつ出発いたしましょうか」
 マルヴェスターはスハーラの決意に少し目を赤くしながら答えた。
「急ごう。セルダン達はもう牙の道に着く頃だろう。あの寒がりをあまり待たせるわけにはいかない。明日の朝、エルディ神の神託をあおいで出発だ」
 横に並んでいたブライスが驚いたようにマルヴェスターを見た。
「俺がセルダンよりも寒がりだって事を、まさかあなたが忘れているわけはありませんよね」
 マルヴェスターはその言葉を予期していたように応じた。
「船乗りが早起きだって事は知っているぞ」
「いや断じてそれは迷信です。船乗りが起きるころ、太陽が昇ってくるのです」
 マルヴェスターは興味深そうに髭をつかんだ。
「そんな馬鹿な事は無い」
 ブライスが反論しようとした時、教会の中に世にも美しい歌声が流れた。ブライスも、マルヴェスターもスハーラも驚いて振り向いた。今まで教会の一番後ろの椅子に座って目を閉じていた痩せた年齢不詳の灰色の髪の男が、立ち上がって両手を差し伸べるように体の前に上げて巫女達に向かって歌いかけていた。歌はサルパートの古い民謡のようだった。ある時は月の光のように美しく冴え冴えと、ある時は春の日差しのように暖かくほがらかに。高く、低く、太く、切なく。魔法のように声をあやつりながら、サシ・カシュウは巫女達の座る椅子の間を歩いた。そして部屋の中央で立ち止まると、巫女達をうながすようにゆっくりと両手を振った。明日の洞窟への冒険に恐怖を憶えていた巫女達は涙しながらその歌に加わった。やがて教会に美しい合唱が流れた。

 翌早朝、同じ教会にブライス、スハーラ、ベリックの聖宝の守護者とマルヴェスター、バルトールのフスツとモントとその部下達、サシ・カシュウ、エレーデ、智恵の峰の年長の巫女達が集まった。そして三人の聖宝の守護者は、力を合わせてエルディ神を呼んだ。女神が現れるかどうか心配しながら一同が見守る中、美貌の女神は色とりどりの衣を何枚も重ねて身にまとった姿であらわれた。その美しさに、同席していた数人のリーダー格の巫女の間からため息があがった。ホッとしたような声でブライスがうなった。
「そのセンスはいかがなもんでしょうエルディ神」
「あら、いきなりごあいさつねブライス」
 女神は軽く宙に浮きながら一同を見回した。
「おはよう、冠と短剣と巻物の守護者。そして神に声をもらった吟遊詩人と馬と話す者。よく揃ったわね、マルヴェスター。でもほんとうにこんな危険な挑戦が必要なのかしら」
 マルヴェスターは険しい表情で答えた。
「ギルゾンを一刻も早く止めなければなりません。それにどうやら北の将も重い腰を上げて、サルパートを本気で滅ぼす戦いの準備を始めたようです」
 女神も心配そうにうなずいた。
「そうね。もうこれ以上の攻撃を受けたら、エイトリが限界にきてしまうわ」
 スハーラが恐る恐るたずねた。
「エルディ様。私はまだエイトリ神に正式に巻物をゆだねられてはおりません。どうすれば良いのでしょうか」
 エルディは美しい眉をひそめた。
「それはちょっと微妙な問題なの。守護者を終生と定めていたルールはたいして問題じゃない。それは変える事ができるわ。でも、あなたは巻物の守護者としてここサルパートで一生を終える事ができるかしら」
 スハーラはうなずきかけて真剣な顔のブライスに気がついた。
「そういう事よ。もちろん巻物はあなたの手にゆだねないとこのサルパートの峰は救えないわ。だから直線的な考え方しかできないセルダンとブライスの宣言のおかげで、リラの巻物は無事あなたに譲渡できた。ごめんなさいねブライス」
「いいえ、かまいませんとも我が母上」
 エルディはちょっとひるんだ。
「母上はやめて。さて、守護者の交替についてはエイトリも文句は言わないと思うわ。ただ、あなたをブライスに連れ添わせてザイマンの私の元に送るのが恐いのよ。ただでさえエイトリの力は弱まっているのですもの」
 ブライスがちょっと怒った声で口をはさんだ。
「じゃあ、俺達は一生離ればなれって事なんですか」
 しばらくエルディの美しさに見とれていたベリックが、ふとブライスを見て事も無げに言った。
「シャンダイアが統一されればいいんでしょう」
「そうよ。賢い子ね」
 エルディは飛び出してベリックを抱きしめた。ベリックは目を白黒させながら真っ赤になった。エルディが離れると、ベリックはエレーデを見てバツが悪そうにせき込んだ。エルディはクスリと笑うと次にエレーデに歩み寄った。
「ベルザ・デザ・ラ・フォンタン、これはおまじない。馬と話す者よ、あなたの人生には辛いことがたくさんあったでしょう。でもここにいる者たちを信じなさい。そして王との約束を忘れない事よ、それがあなたに力を与えてくれるわ」
 ベリックは不思議そうにたずねた。
「王って誰です」
 スハーラが気がついてエレーデに近寄り、その肩を抱いて耳元でささやいた。
「彼は賢いけれど、でもやはり男の子よ。たくさんの約束をさせなさい。それがあなたを守ってくれるわ」
 エルディとスハーラは微笑んだ。そしておずおずとエレーデも微笑んだ。ベリックは何か大切な事に気がつかなければいけない事を知ったが、それが何かわからなかった。
 マルヴェスターが女神にたずねた。
「その子について気になる事があるのです。エイトリ神は今回の事態を予測してその子を我々につかわしたのでしょうか」
「そうでは無いと思うわ。でも気まぐれではありえない。馬と話す能力を人間にさずけるのはとても大変な事なの。何か彼なりの予測があったんだと思うわ」
「ふうむ。あなたの国ザイマンを統括している、バルトールマスター、メソルについてはご存知ですか」
「いいえ、私の島にいるはずだけどまだ会った事が無いの」
 エルディはブライスに向き直った。
「ブライス、ここでの戦いに決着がついたらザイマンに戻ってらっしゃい。私の足元をもう一度固めなおさないといけないわ」
 ブライスが嬉しそうに笑った。
「誰もそれを言ってくれないかと思った。あなたに抱きつきたくなってきましたよ。雪と山、そして洞窟。俺の神経はそろそろ限界にきてます」
「そうね、サルパートを解放したら一度だけ抱きついていい事にします」
 ブライスは目を丸くした。エルディは少し浮き上がると皆に向かって言った。
「どうかくれぐれも気をつけてください。とても大事なところにさしかかっているようです。私はエイトリと一度話し合ってみます。彼の力があなたたちには必要になるはずですから」
 そこで、ベリックがたずねた。
「一つ質問していいですか」
「もちろんよ。短剣の守護者」
「船乗りは太陽が昇るから起きるんでしょうか、それとも船乗りが起きるころ太陽が昇ってくるんですか」
 エルディは大きな目をパチクリした。
「誰がそんな疑問を思いついたの」
「サイマンの王子とマルヴェスター様」
 ベリックは子供らしい率直な投げやりさで答えた。
「もちろん、船乗りが起きるから太陽が昇るのよ」
 後ろで聞いていたマルヴェスターが愕然とした。
「まさか、そんな」
 エルディは腰に手を当ててマルベスターを睨んだ。
「あたしは暁の女神よ。みんなが起きていない時に出てきても誰も見てくれないじゃない。その私が太陽を連れてくるのよ、ねえみんな」
 そう言って、エルディはスハーラの後ろに並んで、驚きの表情で見つめていた他の巫女達に笑いかけた。緊張していた巫女達の顔にほほ笑みがうかんだ。女神は若い巫女達に軽く手を振ると、踊るように身をひるがえしてあっという間に消えた。教会の中にあたたかい沈黙がおりた。マルヴェスターがちょっと怒ったようにベリックを問い詰めた。
「なんであんな事を聞いたんだ」
「だってこれから戦いに赴くのに、疑問は残っていないほうがいいでしょう」
 そう言ってブライスを見上げた。大柄な冠の守護者は腕を組んで満足そうだった。
「ちろん。一番大切な事さ」
 マルヴェスターはプリプリしながら教会を出ていった。それを見送ってスハーラが笑いながらベリックに声をかけた。
「ありがとうベリック。皆の緊張がとけたわ」

 その日の午後、サルパートの巫女達はジンネマンの大洞窟の入り口に立った。入り口の高さは約三十メートル程もある。のぞき込むと洞窟の中には幾重もの段や裂け目があり、単純な丸い穴では無かった。そしてその複雑な形は、入るとすぐに冒険者達から光を奪ってしまう事が容易に予測された。ブライス、スハーラは皆に松明を持たせて、長い隊列の適当な間隔に火をつけさせた。これとてどれ程役に立つかはわからず、そう無闇に使うわけにもいかない。
 こうしてサルパートの命運を背負った一行は、外の光になごりを惜しむように洞窟に入って行った。
 先頭に立つのは、エイトリ神に声をもらった吟遊詩人サシ・カシュウ。八年間閉じられていた澄んだ瞳は、暗闇の中に道を探して今はしっかり見開かれている。
 サシの後ろにはサルパートをおさめるバルトールマスター、モントが十人の部下とともに列の先頭を守っている。
 その後ろに智慧の峰の巻物の守護者スハーラ。若い乙女の胸にはリラの巻物が入った帯が巻かれ、服の内側にルドニアの霊薬が大事にしまわれている。
 スハーラの左側を守るように進むのはザイマンの冠の守護者ブライス。シャンダイアの導き手であるエルディ神を守り神に持つ好漢は、今はその力を銀の輪に宿して額に輝かせている。
 その二人の後ろに約百人の年長の巫女達が続く。巫女達の手には松明が持たれ、背中の袋に一週間ぶんほどの食料が入っている。
 列の中段には短剣の守護者ベリックと馬と話す者エレーデ。そしてフスツと四人の精鋭が七頭の馬を引いて従っている。エレーデは時折馬に低い声で話しかけて臆病な動物を落ち着かせていた。
 ベリック達に続いてさらに百人の若い巫女が続く。一人一人手を繋ぎあって暗い洞窟の中をけなげに進む。
 そして列のしんがりを翼の神の一番弟子マルヴェスターが守っていた。マルヴェスターは最後尾の巫女達にしきりに冗談を言って笑いを誘い出していた。やがて洞窟はゆるやかな下りになり、外の光が見えなくなった。

 サルパート山脈の北の果て。やがて山脈が尽きようというなだらかな丘陵地帯をカインザーの王子セルダンは進んでいる。付き従うのは武術師範のベロフ男爵と、その配下の精鋭ベロフ抜刀隊。このあたりまで来ると空気は顔に巻いた布越しでないと吸えないくらいに冷たい。天気の良い日は、地表に貼り付いた雪の表面が乾いた風に吹き飛ばされて、空中でキラキラと輝く。水色のマントの若々しい王子は頬を赤くしながらサクサクと進んでいった。雪の積もった木々を右手に見ながら丘を登り、道を降り、何度目かの小さな森に分け入った時、前方の木々の間に北の将の軍隊が見えた。
「ギルゾンのお出迎えだね」
 セルダンは横に並ぶベロフに微笑んだ。
「挑戦状はちゃんと届いていたようですな」
 ベロフもニヤリと笑った。北の将の軍は徒歩だった。雪が多い丘陵地帯では馬の動きはにぶい。むしろ実践的な部隊が来たとみるべきだろう。セルダンが気配を数えた。
「森の中に三百。右手の丘の向こうに三百」
 ベロフがうなずいた。
「そんなところでしょう」
「三倍だね。一人で三人しか相手にできないや」
「残念な事です」
 黒いマントの抜刀隊は一斉にマントをはね上げて白刃を抜いた。それと呼応するように森の中から北の将の軍が一斉に押し出してきた。ベロフは短く部下に指示した。
「迎え撃て。馴れない雪の中を無理に走る事は無い」
 抜刀隊はおたがいを背にした大きな円陣を組んだ。それを見て側面に隠れていた北の将の軍も攻撃に移った。やがて北の将の軍は三分の一の数のカインザー軍を押し包んだが、まるで風車にはじかれる水のように白刃の元にバタバタと散っていった。いつのまにか丘の上には北の将の部隊の指揮官らしい男と騎馬の一隊も現れていたが、その指揮官も部下の苦戦の様子を見て、あわててカインザー軍をめがけて切り込んできた。セルダンはカンゼルの剣を高く掲げて迎え撃った。そしてすれ違う一瞬に敵の指揮官を馬の下から切り上げた。馬上の男はその一撃で絶命してドウと雪の中に転げ落ちたが、馬は無傷で走り去った。
「お見事」
 残りの騎馬の兵を一掃しながらベロフが褒めた。
 アタルス、ポルタス、タスカルの三兄弟は、円陣の中から退屈そうに戦況を眺めていたが、突然走り出して、森の中に駆け込むと黒い頭巾のバステラの神官を引きずって戻ってきた。神官は寒さと恐怖で震えていた。セルダンは剣をしまうと、ひきすえられた神官に向かって白い息をはきながら言った。
「ギルゾンに伝言を頼みたい。迎えは無用と伝えてくれないか」
 神官はガクガク震えながらも大きく頭を振った。
「我が命つきる事でギルゾン様は部隊の全滅をお知りになります。殺してください」
 セルダンはちょっと驚いた。
「その必要は無いだろう」
 しかし神官はガバッとひれ伏して懸命に懇願した。
「剣の守護者、その魂を奪う剣で私の命を絶ってください。我が魂をギルゾンの手の届かぬ所に葬ってください」
 セルダンはベロフを見た。ベロフがうなずいた。セルダンはしぶしぶ剣を構えた。
「わかった。そのとおりにしてやろう。だがその前に聞かせて欲しい事があるんだ。北の将の元にいるギルゾンと僕が倒したゾノボート。どちらが魔力が上だったんだ」
 神官はこの質問に不思議そうな顔をしたが、しばらく考えて答えた。
「魔法の性質が違います。高位の神官の中ではガザヴォック様があらゆる面で突出している事は確かですが、他の高位の神官の力の比較はとても難しいでしょう」
 セルダンは質問を変えた。
「では黒の魔法使いの中でおまえが最も仕えたいのは誰だ」
 これには神官は即答した。
「それはもちろんガザヴォック様」
「次は」
「南の将の元にいる黒い剣の魔法使いザラッカ様」
「ふうむ。ゾノボートがもし生きていたら」
「その次です」
「ギルゾンはどのへんにあたる」
「その次の次、東の将の元にいる黒い巻物の魔法使いレリーバ様の次です」
「よくわかった。それでは安らかに眠るがいい」
 そう言ってセルダンは剣を振りおろした。神官は嬉しそうに笑った顔で息絶えた。今度はベロフが不思議そうにセルダンにたずねた。
「今の質問は何のためです」
 セルダンは黒の神官が雪の中に散らした赤い血を眺めながら答えた。
「僕が倒したゾノボートとギルゾンの比較が知りたかったのさ。ゾノボートは確かに怪物だったが、数万という神官兵の軍団を組織していた。もしかしたら戦いや組織に関する考え方は、けっこう僕らに近かったのかもしれない。それに引き換えギルゾンはたった一人で行動している」
 ベロフがうなずいた。
「なる程。ガザヴォックが最も仕えたい相手というのは純粋に力への崇拝でしょうが、南の将の元にいるザラッカと、死んだゾノボートには神官達をまとめる一種の人望があったのかもしれませんな」
「そう、言い換えればギルゾンはゾノボートよりはるかに異質。僕らにとって全く計り知れない相手というわけだ」
 セルダン達の後ろでサルパートのエラク伯爵が震えながら一部始終を見つめていたが、決して引き下がる事は無かった。ベロフが笑顔を見せて声をかけた。
「エラク伯爵、お見事な態度です。牙の道はまだ遠いのですか」
 細身の伯爵は丘の向こうを指さした。
「あそこに煙があがっています。あの下あたりが牙の道の入り口になります。温泉が涌いていて谷に沿って流れ降り、谷は流れに沿って北の将の要塞まで続いています。寒さはここほどではなく、洞窟もいくつかあってギルゾンが来るまで待機できるでしょう」
「よし、行こう」
 セルダンはそう言って歩き出したが、すぐに舌打ちをした。
「しまった」
「どうしました」
「もう一人いた。最後の一人、ギルゾンよりも仕えたくない魔法使いについて聞いておけば良かった」
 ベロフはしばらく記憶をさぐった。
「ユマールの魔法使いですな」
「ああ、黒い冠の魔法使いだ、名前を知ってるかい」
「いえ」
 二人は顔を見合わせた。
「マルヴェスター様にあとで聞いてみよう」

 ロッティとバンドンがこもるサムサラの砦に向かったのは、グルタス・ゼンダという名の壮年の将軍だった。家格は高いのだが、グラン・エルバ・ソンタールの厳しい出世争いに破れ、この北方での戦いに家運の挽回を期していた。それだけに意気込みはある。一族郎党十二万の大軍を率いてはるばる北の戦線に遠征してきた。
 グルタスは大軍の中央で馬を進ませていた。体格の良い黒い髭の将軍は、行軍の間中上機嫌で大声を出してまわりの者に話しかけていた。
「わしがサムサラにたむろしているカインザー貴族どもをけちらせば、老いぼれのライバーを隠居させて北の将だ」
 隣に馬を並べた長男のジョンスも同意した。
「カインザー軍は三万との報告ですので、我が軍の四分の一。相手になりますまい」
 グルタスは当然と言ったふうに笑った。
「わざわざ華やかなセントーン戦線から、こんな田舎にやってくるのだからな」
 やがてゼンダ軍はサムサラの村で情報を仕入れ、村人達の様々な誘いを丁寧に断った後サムサラの砦へと向かった。グルタスは戦闘の前に部下達にはめを外す機会を与えるほど愚かでは無かった。十万を越える大軍は、ゆっくりと地形を値踏みするように進軍し、堂々とロッティの準備した柵の前に長大な陣を敷いた。
 長い時間をかけて何列にも重なった堅固な陣を築くソンタール軍を、砦の櫓からロッティは眺めていた。
「ううむ。さすがにソンタール本国の兵は装備も万全、あの隊列の見事さから言って志気も高い。これは手ごわいな」
 バンドンが隣でぶつぶつぼやいた。
「これほどのやる気だとは思わなかったぜ。ソンタールにゃあ将軍が星の数程いるから、たまにゃこんな奴も出てくるんだろう。だが見かけ通りの力があるかどうかまでは試してみないとわかるまい」
「それはそうだ。クライバーから連絡があった。こちらに戻ると言ってきた」
 ロッティはそう言って櫓を降りる階段に向かった。バンドンもひょいひょいと体を揺らしながら続いた。
「そいつは頼もしい。もっとも今の兵力差じゃあ、クライバーが戻るまでもつかどうかも怪しいもんだが」
 ゼンダ軍は翌日から攻撃を開始した。迎えるロッティの軍は約一万五千。ゼンダ軍の先陣の騎馬軍団は手順通りにまずはロッティの巡らした柵に突進したが、馬が柵を越えられずに立ち往生した。すかさずバンドンの部下達が矢をあびせる。そして溝と柵で迷路のようになった道を通って、ロッティの騎馬部隊がゼンダ軍を襲撃した。ロッティの軍は柵と溝で分断されたソンタール軍の中を縦横に暴れ回って引き返した。ゼンダ軍は数に物を言わせて追撃にかかったが、ロッティの馬たちが軽々と越えた溝に馬がはまって混乱に陥った。約半日、この行動が繰り返され、ゼンダ軍は山のような死者と負傷者を出して退却した。しかし砦に戻ったロッティはさすがに息を切らしていた。
「敵の数が多すぎる。このままでは人はともかく馬がつぶれてしまう」
 バンドンが手にしていた酒の瓶を大事に懐にしまった。
「休んどきな。夜は俺達の出番だ」
 元盗賊の頭はそう言って、三百人程の部下を連れて夜襲にでかけた。ロッティが砦から監視していると、やがてゼンダ軍の幕営の各所から火の手があがった。昼間に確認しておいた陣営の状況から察するに食料集積地を狙い撃ちしたらしい。
「なるほど、効果的に焼いてくれるものだ」
 こうして一日目が終わった。
 ゼンダは翌日は歩兵を繰り出して、柵の取り外しと、板を敷いたり溝を埋めたりして障害物を取り払う工事にかかった。バンドンがそれ見たことかと言った感じで両手をあげた。
「だろうな、ああすると思ったぜ」 
 ロッティは弓兵を繰り出した。馬に乗る兵達は小さな弓をたくみに操るが射程距離は短い。馬を柵の際まで走らせ、馬上から狙い打った。
「よい練習だ」
 ロッティが満足げにうなずいた時、大地をとどろかす轟音が響いた。ロッティの騎馬軍団の中心部が砲撃されて、土煙が舞い上がった。馬は驚いて立ち上がり、乗っていた兵士を大地に振り落とした。バンドンが頭をかかえた。
「しまった、大砲を引いてきていたのか。あんなもんを引きずり回すのは西の将の参謀のバーンって奴だけかと思ってた」
 ロッティもこれには少し困ったようだった。
「しかし砲数は少なく狙いは不正確だ。今夜あれを引いている車を壊してきてくれ」
「ああ、わかった」
 その日はロッティとバンドンの部隊は敵兵がハリネズミのようになるまで矢を放ったが、柵は徐々に取り外され、溝は埋められていった。やがて夜になった。待ってましたとバンドンが夜襲にでかけたが、しばらくして逃げ帰ってきた。
「おかしな罠が陣のまわりに張られている。ありゃあ魔法だな、サムサラの村から逃げた神官どもがへんなものを仕掛けやがった。なあロッティこいつは手ごわいぞ。クライバーが戻るまで退却しようぜ」
 ロッティは困ったような顔になった。
「退却だと」
「こいつらの目的は俺達だ。北の将の要塞にはいかない。それなら俺達の陽動作戦の役割は充分に果たしただろう」
「いや、引けばおそらく北進する。十二万のソンタール軍が北の将に合流すれば、たとえ王子達がギルゾンを倒しても。サルパートは滅びる」
「だが」
「ここを死守だ」
 ロッティはバンドンに鋭い目を向けた。
「シャンダイアとソンタールの兵力の差は大きい。はっきり言ってしまえば我が方で陸上の戦闘で使い物になるのはカインザー軍だけと言っても良い。しかも指揮する貴族は俺も含めて数人だ。今、俺達の目の前にいるソンタール軍を率いているのは要塞をまかされている将ですらない。こんな相手で引いていたら、どうやって北の将や南の将を倒せるんだ。ましてや大元帥ハルバルトの直属部隊や、ソンタール皇帝の親衛隊にどうやって我々の剣の先が届くんだ」
  ロッティは断固としてそう言うと、独特の形状を持つ三日月型の剣を抜いて星空に掲げた。かがり火を浴びて赤く輝く剣のはるか彼方には、アイシム、バステラの二神がこの星を創り上げた時、最後にバステラ神が手の中に残った塊を放り上げて創った真っ白な三日月がかかっていた。

(第七章に続く)


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