孤島にて

チャブ(Chabu)


 その島はまるで緑の塊だった。隙間無く生い茂った灌木が狭い孤島を覆い尽くし、濃紺の海へと崩れ落ちている。
 私は銀色の翼を翻して、島の上空を二度三度と旋回した。目指す建物と、このハリアーがランディング出来うなスペースを探した。暗く鬱蒼とした森の上を私の機影が過ぎると、爆音に驚いた数千の白い鳥の群が泡のように飛び立った。そして幾つかの集団となっていつまでも森の上を舞っているのが眺められた。
 目標の建物「シェラトン・ヒルトップホテル」は、その白い群の下に、緑に埋もれた、ほとんど廃墟と化した状態で認められた。かろうじて、かつての展望台ででもあったのだろうか、テーブルらしきものが置かれた細長いビルの屋上部分が見分けられるだけだった。人影はまったく見当たらなかった。人の住んでいる気配さえ、上空からは感じることが出来なかった。
 展望台からやや離れた位置に、比較的広く平らなスペースを見つけた。びっしりと蔦のような植物に被われて直接ランディングゾーンを確認できないのが不安だったが、なんとか機を降ろすことは出来そうだった。他に適当な場所も見つかりそうになく、私は覚悟を決めて垂直エンジンを噴射した。
 機はゆるゆると、幾重にも重なり合い絡み合った蔓植物の茎を焼き払いながら無事ランディングすることが出来た。
 そこは広いプールの跡だった。エンジンの炎に焼かれた下から、華やかな、昔の賑わいを偲ばせる明るいタイル模様が覗いていた。広大なプールサイドには、蔓に絡まれた丸いテーブルや椅子が、あるいは空になった清涼飲料水の瓶が、昔捨てられたそのままに転がっていた。高く伸びたナトリウム灯の支柱には、真っ赤な、毒のような蔓花が咲いていた。
 目指すホテルの建物は、押し寄せる緑の大波に飲み込まれ、押し潰されるようにして建っていた。昔の栄華を誇るように、所々に残った赤い瓦や、真っ白い壁の一部がまぶしく輝いていた。
 もともとは小高い丘の頂に建つ豪奢なリゾートホテルだったのだ。このホテルから見下ろす街の夜景が売り物だった。千万の宝石を散りばめたように灯りが弧を描いき、長い砂州の上に拡がっている。その灯りを眺めるために人々は、ロープウェイでこの山の頂まで登って来たのだった。
 それがまるごと沈んでしまって、この頂きだけが小さな島となって残った。それはまさしく水と植物の勢いに追い詰められた現在の人類を象徴しているような姿だった。わずかな希望を携えてここまで博士を追って来た私だったが、絡みつかれた緑の中に埋もれるこのホテルを目の当たりにすると、私の気持ちは暗く落ち込んでいった。最早どうあがいても、結局人類は、この膨れ上がった海と植物の中に沈み消えていくしかないのだと思わずにはいられなかった。
 私は機を離れ、積み重なったコンクリートの残骸の前で耳を澄ました。空には依然として鳥たちがうるさく舞っていた。風にざわめく木々の音に混じって、打ち寄せる波の音が聞こえた。低く、地の底をえぐるような響きだった。
 ホテルは上空から見た印象よりもさらにひどく壊れ、植物の激しい侵略を受けていた。至る所太い蔓植物が這い回り、積み上がったコンクリートの残骸を割って、逞しく伸びた樹木が、さわやかに風を受けそよいでいた。
 私は、ホテルがわずかに原型を留めているあたりを目指して歩きだした。人が住めるとしたらその部分しかないことは、上空からの偵察で分かっていた。しかし、プールサイドから幅の広いタイルの階段を上ってゆくと、すぐに行く手を阻まれてしまった。崩壊したガレキの山に樹が生い茂って、文字通り壁のように立ちはだかっていたのだった。密生したその暗がりへ足を踏み入らせる事は困難だった。どこかに道がないかと探したが見つからない。わずかに、踏み跡ともいえないほどの細い隙間が緑の闇の中へ延びているのを見つけた。私は、その中へ踏み込んだ。
 ”森”の中はむっとする湿気でむせ返っていた。植物はわずかな光を求めて互いに枝を伸ばし、複雑に絡み合って、私を押し返そうとする。足下は湿って滑りやすく、砕けたコンクリートは苔に被われていた。突き出た鉄筋が赤く錆び、青黒い油を浮かせてくねっていた。蟻が行列している。つやつやと光る大きな葉の裏には、べったりと昆虫の卵が産み付けられていた。
 大型のカタツムリの殻があちこちに白く散らばっていた。それはまるで捨てられた骨のようだった。
 何も彼もが驚くほどの密度で棲息していた。空気までがべっとりと粘って濃かった。私は息苦しさに喘ぎながら緑の底を進んだ。積み上がったガレキの山を乗り越えると、突然、井戸の底のような薄暗い空間に出た。どうやらホテルの中庭のようだった。周りをぐるりと高い壁で囲まれている。そこだけは奇跡的に崩壊を免れていて、しかし、ここにも植物の侵入は容赦なく進んでいた。壁面の至る所から滝のように垂れ下がった蔦は、井戸の底をびっしりと柔らかく覆い尽くした苔の緑と重なり合っていた。淀んだ空気が黴び臭い匂いを発散していた。
 博士はそこにいた。中庭の中央、青銅の水鳥が大理石の水盤の央で空へ首を伸ばしている泉水の前で、すらりと美しい女性の足元にひざまづき、彼女の脚を抱きかかえるように蹲っていた。女性は、古代のギリシャ風衣装をゆったりとまとい、優しく博士の髪をなでていた。
 丁度、一筋の陽の光がその部分にだけ落ちていて、二人の姿は暗い闇の中に浮かぶまるで一枚の絵のようだった。 
 私はその光景に見とれた。神秘的な、非常に美しい眺めだった。
 大きな蜥蜴が一匹、磨かれた大理石の水盤の上にじっとしていた。水盤の下にもカタツムリの殻が骨のように散っていた。
 女性の方が先に私に気づいた。ゆっくりと物憂げに視線を送って私を見つめた。
 が、そのまま視線は私を通り越しどこか遠い所へ流れていってしまった。なんの感情も現れていなかった。
 女性の衣装の裾が割れて形の良い脚がむき出しになっていった。ゆっくりと博士の肩に乗せられた。博士の頭が展かれた彼女の脚の付け根に吸い込まれ、その秘められた場所に埋もれていった。
 彼女は博士の髪を掴み、首をそらせて吐息を漏らした。
 私の指に大きな赤黒いヤスデが噛み付いた。私はそれを振り払い小石の山を崩してしまった。
 博士が私に気づいた。
「お久しぶりです」
 私はどぎまぎしながら再会の言葉をそう切り出した。
 博士は何か夢から覚めないように私を見ていた。
「……ああ。君か」
 ひどく疲れて、生気のない声が返ってきた。彫りの深い顔が、前よりもいっそう痩せて、暗い輪郭に縁取られていた。額にうるさく髪が落ちてくるのを、神経質そうに払った。
「お迎えに上がりました」
「迎え?」
「連絡は届いていたと思いますが」
「……ああ、あれか。あれなら断ったはずだが」
 私は博士の体の具合が気になった。
「どこかお加減が悪いのですか」
「いや。ちょっと目が覚めないものでね。今、眠っていたものだから……」
 そう言って立ち上がった。
「まあ、いい。久しぶりだ。ゆっくりしていってくれ。ドームの中のようにという訳にはいかないが、ここもそう悪くない。ああ、それから彼女を紹介しよう。妻のセイヤだ」
 博士はその背の高い美しい女性を私に引き合わせた。薄い生地を通して彼女の下着を付けていない裸の身体が透けていた。私は目のやり場に困りながら笑顔を作って手を差し出した。しかし、セイヤは私の手を黙って見つめたままだった。
「彼はぼくの教え子でね。まあ、そう幾つも齢が違うわけじゃないのだけれど、例の地変で優秀な教授連がみんな死んじまったから、ぼくみたいなもんでも教授をやっていたことがあるわけさ。本当はぼくなんかよりもずっと明晰でね。素晴らしい頭脳の持ち主なんだよ」
 博士は世辞を交えて私のことをセイヤに紹介した。
「とんでもない。西博士の選択的免疫抑制作用の研究といえば、人類の生化学史に残る偉大な成果です。その偉大な成果を博士は一人抱え込んだまま、突然ドームを出てこの島に移ってしまわれた。私たち教え子としては、その先をどうしても知りたくて、ご迷惑とは思っても、こうして博士をお迎えに上がったというわけです」
 セイヤはなんの感情も見せない冷たい顔で私の話を聞いていた。目に焦点がなかった。まだ私が話し終わらないうちに、突然博士の腕を取って先に歩きだした。まるで私を無視したような仕草だった。
「悪気はないんだ。驚かないでくれ」
 振り返って、博士が弁解した。
「妻にはちょっと障害があってね」
 指をこめかみに立てた。
「いえ。少しも」
 私は了解し、二人の後について歩き出した。歩きながら、博士の異様に疲れたような足取りがやはり気になっていた。
「新しい奥さんがいらっしゃるとは知らなかった」
 私と博士は夕食の後、屋上テラスへ出て涼んだ。博士とセイヤが佇んでいたあの中庭を囲む建物の一画だった。上空から展望台と認識したその場所だった。
 片側に井戸のように暗い中庭を見て、もう一方は、目の覚めるような明るい月の光りの海だった。遠く、雄大な積乱雲がその頂をカナトコ型に拡げて、銀色に輝いていた。
 夕食は簡単だったが、まずまずのものが揃っていた。豪華な古い造りの食堂で、博士は手慣れた仕草でそれらを私のために準備してくれたのだった。
 夫人は、食事の間中とうとう一言も発しなかった。無表情に、姿勢良くスープだけをすすっていた。彼女の障害がどのような種類のものなのか分からなかったが、表情というものがまるでないその様子は、この上もなく美しい人形のようだった。
 私たちは多少の息苦しさを覚えながら、三人での静かな食事を済ませたのだった。
 食事の後博士がテラスへ誘ってくれたことに正直ほっとした気分がした。幻想的に輝く月の海を眺めながら、私たちは上等のコニャックを片手に思い出話に花を咲かせたのだった。しかし私は、最愛の妻を亡くして隠棲したはずの博士が、新しい奇妙な夫人と暮らしていることに軽い興味と、反感を覚えたていた。
「奥さんは事故で亡くなられたそうですね」
「不運な事故に巻き込まれてね。ほとんど即死だった」
「聡明でとても優しく、そしてたいそう美しい方だったとお噂は聞いておりました。一度お会いしたかった」
「会わなかった方がいいのです」
 博士はコニャックのグラスを掌に包みながら、暗い井戸の底を見下ろしていた。悲痛な歪みが口許に漂っていた。
「……出会いというものは、いつも新しい不幸の始まりです。別れることが決まっている人間となんか、最初から出会わない方がいいのです。死者を記憶にもつということは悲しいことだ」
「そうかも知れません。でもまた、新しい出会いもあるでしょう。新しい喜びもある」
 皮肉な調子を込めて私は言った。
「博士は新しい喜びに出会われたのではないのですか」
「……?」
「大変きれいなお方ですね」
 戸惑ったような眼を私に向けた。
「セイヤのことかね」
 怒るかなと思ったがそんなことはなかった。よりいっそう沈んだ声で「ああ、そうだね」と答えた。
「悲しみは常に喜びよりも大きい。分かっていても、小さな喜びを求めてより大きな悲しみを人間は背負ってしまうものです」
 私もコニャックのグラスを抱いて、博士の横に立った。
「筋金入りのペシミストですね。それでもう誰にも会いたくなくて、こんな孤島に一人こもってしまわれた。とはいえ、新しい奥さんも美人でセクシーだ。私からみれば、おそらく博士はこの地球上に残った人類の中で、いちばん幸せな部類の人間だと思いますよ」
「そう見えるかね」
「見えますとも」
 博士は苦く微笑んだ。
 暗い井戸の底を青白い蝶のような影がひらひらと舞って通り過ぎた。セイヤが、微かな月の光に照らされて、中庭を横切ったのだった。
「セイヤ! セイヤ」
 博士はテラスから身を乗り出して夫人に呼びかけた。しかし夫人には何も聞こえなかったのか、そのまま暗い建物の陰へ吸い込まれてしまった。
 博士は明らかに落胆していた。手すりに置いた両の拳の間に顔を埋めて首を振っていた。肩が揺れて今にも泣き声が漏れてきそうだった。
 私には、博士の突然の感情の高まりがなんであるのか分からなかったが、ともかく、博士の新しい生活もそれほど楽しそうでないことだけは分かった。ひょっとしたら、博士自身もうここの生活に行き詰まっているのかも知れない。また別の生き方を模索しているのではないかと思った。
「もう一度、私たちのために力を貸して頂けませんか」
 私はズバリと目的に切り込んでみた。
「私たちはあの地変にやっと生き残った。やっと生き残ったというのに、私たち人類は展望のないドームどうしの争いに明け暮れています。それぞれのドームに籠もって、まるで昔の戦国の世か、それ以前の時代のような状態です。目先の、小さな利害の対立に目を奪われ、だれも人類そのものの未来を考えようとしない。このままでは互いに消耗し尽くして、人類という種そのものが滅亡してしまいかねません。博士も見抜かれている通り、今のドームが博士に求めているものはサイボーグ兵器開発者とNです。私はそれを否定しません。博士が兵器開発者となることを拒否する気持ちも解っているつもりです。けれども、もう少し長い目でみれば、博士の研究は必ず人類全体の利益となるでしょう。私は、この何もかもが狂ってしまった環境の中で、人類が生き抜いてゆくためには、博士の力がどうしても必要なのだと考えているのです」
「私が必要?」
 私の演説を聞き流していた博士が、その言葉に反応した。皮肉な笑いがよぎった。
「私が人類にとって最後の悪魔かも知れないのに?」
 今にも大声で笑い出しそうだった。
 闇の底からピアノの音が流れてきた。激しく、悲しげで、それでいてとてつもなく美しいメロディーだった。
 心が惹き付けられてゆくのを感じた。
 気まずい雰囲気の中で、私たちはしばらくその旋律に聞き入った。
「『テンペスト』ですよね?人類の偉大な遺産だ。夫人が弾いてらっしゃる?」
「ああ。他に誰もいない」

* *

 夜半になって風が出てきた。
血管のように壁中を這い回り、この崩れかけたホテルを締め上げている蔓植物の葉が一斉にざわめきだした。地の底からわき上がるような海鳴りも聴こえ、建物中が囀るような、囁くような、賑やかな夜となった。
 私はその音の中に奇妙にかすれた響きが混じっているのに気づいた。高く低く空き瓶で笛を吹くような音だった。音というよりも声に近かった。荒れ狂う闇の底で、何か巨大なものが咆哮しているような声だった。どこか悲しく孤独な叫びのように聞こえた。
 音の正体を確かめようとベッドを離れ窓を開けると、どっと生暖かい風が吹き込んできた。ひとしきり部屋の中のものを騒がせ散らかした。飛ばされた紙片の一枚がドアの隙間から廊下に流れ、私はそれを取ろうとドアを開けた。
 廊下には暗く非常灯だけが点々と灯っていた。
 人の気配はまるでない。
 そしてその長い廊下の奥からも得体の知れない不気味な叫びは続いていた。 
 私は、真鍮のルームナンバーを打ち付けた扉の列が両側に続く暗い廊下を辿っていった。闇の奥底から呼び寄せるような音に導かれ、階段を下り、迷宮の建物の中を彷徨った。しかし眼にするものは、何処まで行っても黴臭い、染みだらけの、死の匂いのするものばかりだった。
 やがて地階まで下りると、床一面が得体の知れない植物の群生に被われていた。剥き出しの白い根が神経束のように絡み合い、厚い層を作っている。その層の至る所からたくさんの淡い新芽が吹き出していてひょろひょろと高く伸びていた。先端は柔らかく膨らんで、巻き貝ようにすぼんでいた。
 それは未熟な少年の性器を私に連想させた。少年の性器が床一面を埋めて、びっしりと生えているようだった。
 私はその性器の林の中に、古ぼけたセイヤの写真が放置されているのを見つけた。手に取ると、セイヤは安っぽいアルミのフレームの中で笑っていた。おそらくは今の「障害」を患う前に撮ったものなのだろう。生き生きとした表情がとても魅力的だった。
 奥には大型の医療器具がまとめて押し込まれ、暗い、不揃いな影の山を作っていた。様々の検査機やモニターや透析機などだった。赤く薄暗い電灯に照らされたそれらが、もう長いこと使われていないことは明らかだった。近づいてライトをあて機器の内部を覗き込むと、細かな電子部品の隙間にもびっしりと植物の根は入り込み、微細な昆虫が巣を作って蠢いているのが見えた。柔らかくしっとりとした地衣類が、下の方からじわじわとそれら機器類を覆い始めていた。
 私は、博士が完全に研究を放棄してしまっていることを確認させられた。あの新しい夫人、セイヤとの、怠惰でふしだらな生活に耽溺し、博士の精神はこの地下に押し込められた研究機器同様、ひたひたと腐り始めているのだと思った。
 部屋へ戻る途中、風の音に混じってふと博士の声を聴いたような気がした。私は耳を澄まし、勘を頼りに折れ曲がった廊下を辿ると、わずかにドアの開いた部屋に突き当たった。紫の光が筋になって漏れていた。
 人と人とが肌をすり合わせている気配が伝わってきた。粘つく濃密な空気が部屋の外にまで漂っていた。
 私は大きなヤモリが張り付くドアに息を殺して耳を押し付けた。不気味に赤いヤモリの腹が、私のすぐ眼の前で呼吸していた。
「違う!」
 いきなり博士の押し殺した怒鳴り声が聞こえた。
 同時にピシャリと何かを叩く音がした。小さな悲鳴と、引きずるような泣き声が途切れ途切れに続いた。私は、ドアの隙間から恐る恐る中を覗いた。
 立て掛けられた一枚の大きなパネルに裸のセイヤが縛られていた。泣いている。着けていた薄い衣装は剥がされ、翅のように両側へ展かれて、その真ん中に四肢を拡げ固定されていた。まるで展翅板に留められた妖しい蝶のようだった。全身が汗に濡れていた。そしてその長くしなやかな四肢を繋ぐ胴体の、細くくびれた部分を抱えて、博士の青く凄惨な顔が押し付けられていた。乳房を掴み、彼女の長い脚の付け根をまさぐっていた。それはまるで一匹の忌まわしい毒蜘蛛だった。セイヤというこの上もなく美しい躯に取り付いた毒蜘蛛だった。
「愛してる」
 博士のかすれた囁きが聞こえた。
「愛してる」
 そうまた呟く博士の顔も泣いていた。
「愛しているわ」
 セイヤが答えた。
「愛してる愛してる愛してる……」
 首を振り、憑かれたように何度も何度も同じ言葉を繰り返していた。私に気付いた様子はまるでなかった。二人だけの世界に沈んでいた。
 私は吐き気がした。これが二人の「愛の形」なのだろうか。実に嫌なものを見てしまった気分だった。孤独な咆哮が私の背後から再び盛り上がり、すっぽりと私を呑み込んだ。言い様のない恐怖が襲って来た。私は逃げるようにその場を離れた。
 部屋に戻ってもしばらく「愛しているわ」と機械のように繰り返し続けたセイヤの声が耳を離れなかった。同時に、それがセイヤの声を聞いた最初であることに気がついた。
 浅い眠りの後に、朝早く目が覚めた。窓を開けると、風は依然として強かったが、空は良く晴れて朝の光がまぶしかった。私は夕べの悪夢を振り払うべく、ジャケッツを引っかけ散歩に出た。
 たっぷりと時間をかけた散歩から戻ると、博士が昨日のテラスで食事の用意をして待っていた。
「こんな島でも歩いてみるとなかなか広いだろ」
 上機嫌に声をかけてきた。
「セイヤはちょっと気分が悪いらしくてね、まっ、朝はいつもそうなのだが、まだ眠っている。少し遅くなったが君と二人で食事としよう」
 テーブルには白いクロスが掛けられ、焼きたてのパンとコーヒー、それに茹でたソーセージと野菜のサラダが載っていた。
「これ博士が全部ご自分で?」
「どれも冷凍だよ。野菜だけは少しばかり栽培してるがね。こんな島にも行商の船がまわってくる。地下の倉庫にうなっている旧時代のワインと交換してるよ。ドームの中に出回っている高級ワインも、案外わたしの所が出所かも知れない」
 気持ちよさそうに風に髪を掻き上げながら笑った。
「こうして、明るい陽の下で語り合えるのはいいな。実に久しぶりだ。いつもはセイヤに合わせて日暮れ頃に起き出すのでね。まるでヴァンパイアだ」
「確かに。今日の博士はまるで見違えるようです。昨日お会いした時はどこか病気なのだろうかと心配しましたよ」
「島の印象はどうだい。植生が豊かだろ。昆虫類はもう完全に熱帯、亜熱帯種に置き換わった。南の斜面にはコアジサシの大コロニーがある」
「ええ。見てきました」
「大型の哺乳類はまだいない。ネズミ、トカゲ、マイマイの類は豊富だ。それらを餌に鳥類の数も多い。また、海流の関係か霧に被われることが多いこの島で、苔類やその他の着生植物も優勢だ。風の当たらない森の中やこのホテルの中庭のように、空気の動かない所ではその発達が著しい」
 私はテラスから苔むした中庭を見下ろした。
「昨日、いきなりこの空間に飛び出した時には驚きましたよ」
 言いながら、私はこの緑の光の中で抱き合っていた二人の光景を思い出していた。あの時はまるで絵のように美しいと感動したものだったのが、今は異常な愛のおぞましい象徴だったような気がした。
「この中庭に立つと、まるで柔らかに子宮の絨毛に包まれているように私には感じるのだよ」
 力のない笑い顔を見せて博士が言った。
 強い風がどっと井戸の底から吹き上がって私たちの髪を逆立て通り過ぎていった。そして、あの奇妙にかすれた、孤独な唸りが空を駆け登っていった。私はその声に耳を澄ました。
「年に何度か、この子宮が泣き声を上げる日がある」
 同じように耳を澄ましていた博士が言った。
「ちょうど昨日の晩がそうだった。偶然にも、突然君がやって来た日だ」
「この響きだったんですね。おかげで昨晩はなかなか寝付かれませんでした」
「……思い出す。初めてセイヤを抱いた日にもこの子宮が風に吼えていた」
 博士の陽気さはすっかり消えていた。またいつもの、沈痛さが顔に出ていた。深いところへ、博士の気持ちが引き込まれてしまったのが分かった。
「ドームへ帰りましょう。もちろんセイヤも一緒に。ドームは博士の希望の全てを保証するつもりでいます」
 私は提案してみた。
「いや」
 博士はきっぱりと断った。
「私はセイヤとこの島を離れない。君が来てくれたおかげで決心がついたよ。だから今日はいつになく気分がいいのだ。食事がすんだら君はもうドームへ帰りたまえ」
「私ひとりで戻るわけにはいきません」
「私は嫌だよ」
「命令を受けています」
「君は命令か。私は自分の意志だ。もう、放っておいてくれ。私はこの島でセイヤと二人暮らし続ける」
「奥さんと二人で? 博士はともかく、奥さんがこの島で暮らしてゆくことが幸せだとは思えない」
「セイヤに同情したのかね。たしかに彼女は不幸だ。私は彼女のことを思うと、絶望から這い上がれない。だからこそ、私はこの島から離れない。セイヤのために私は自分の運命を捧げる」
 私の中で昨夜の嫌悪の情が黒く渦巻いていた。
「まるで言っていることと、している事が反対だ。博士は、障害のある彼女の全てを奪って、この島で、ご自分の欲望の奴隷として弄んでいる。私は夕べ、見てしまったのですよ。セイヤを縛り犯しているところを!」
 博士はちょと返答に詰まったようだった。それから例によっての曖昧な笑いを浮かべて、二三度首を横に振った。
「…‥そうかね。それじゃあ君も分かったろ。私が卑しい性愛に狂ったただのけだものだと。とても君が考えているような人類救済に役立つ高潔な男ではない、ということがな」
 静かに、自嘲気味に答えた。
「ええ。たしかに私は博士を誤解していたようです。亡くなった奥さんを思い続けるロマンの紳士かと思っていた。伝説とは、確かめてみなければ分からないものですね。私は博士をずっとお気の毒な、同情すべき方だと思っていました。しかしどうやら、同情すべきは自分の甘い感傷のようだった。博士が心変わりしたことを私は責めません。けれども、可哀想なセイヤを、あんな風に博士の欲望の犠牲としてはいけません」
「立派な演説だ。君は何についても立派な演説をする。しかし、本当のことを言い給え。可哀想なセイヤだって!君に何がわかる。私たちを諸とも殺しに来た君に!白状したまえ。君は私に「YES」か「NO」のいずれかを選ぶようドームから司令を受けて来たのだろ。「YES」ならば私をドームに連れ帰り、醜いサイボーグ兵士を作らせる。「NO」ならばこの島ごと吹き飛ばして、きれいに私の痕跡をこの世から抹消する。下手に後を残して他のドームに私の研究が渡ってはいけないと心配しているのだ」
 全てお見通しだった。
「ははははは。しかし心配することはない。研究は挫折した。嘘だと思うならこの地下に捨てられた実験装置のクズを見るがいい。君らが考えるような、人類のサイボーグ化なんて夢のまた夢さ。それに……、そんな風にしてまで生き残って、一体、何になるというのだ」
「確かに、今のドーム政府は目先の覇権に目を奪われている。小さなドームの取り合いに夢中になって、人類に迫っている本当の危機を認識しようとしない。けれども私は、もっと先のことを信じて博士をお迎えに上がったつもりです。いつの日かきっと、博士のこの研究が人類そのものを救うことになると」
「君は口がうまいな。だが私は人類救済のヒーローにはなりたくないし、そんなことは実際誰にも不可能だ。君だって気づいているのだろ。寿命が尽きたのだよ。種としての人類の寿命が。地球は再び太古の、鬱蒼とした植物の星に戻ろうとしている。その大きな流れの前に、私のささやかな研究など何の役にも立たない」
「役に立つかどうか、それを決めるのは歴史です。私たちとしては、残されたわずかな可能性にも賭けてみたい」
「きれい事を並べるのはよしたまえ。君らドームの連中が考えていることは結局、サイボーグ化したより強い兵隊を作りたいだけだ」
「いえ。私は博士の研究に人類の未来がかかっていると信じています。この激変した環境を生き抜く人類の未来が」
 博士はおかしさをこらえきれないといった風にクックッと喉を鳴らして笑った。
「とんだ皮肉だな。人類の未来がこの異常性愛の学者くずれにかかっているとは。しかし残念ながら、私は君に託すべき何の成果も持っていない。それに、これだけは断言できる。私の研究は決して人類を救済しはしない。より不幸で、より悲惨な地獄へ人類を突き落とすことになるだけだ。もし私に使命というものがあるとすれば、それはセイヤと二人この島に留まって、静かにその生の閉じるのを待つことだろう。私は何があってもこの島を出るつもりはない」
「博士の気持ちは解りました。しかし、魅入られた夫人の方こそいい迷惑でしょう。せめてセイヤだけでも解放して上げたらどうです」
「二人だけのプライベートな問題に君の指図は受けない」
「あなたは傲慢で身勝手な方だ」
 私は席を蹴って立ち上がった。
 私はすでに博士を見限っていた。これ以上この島に留まっていても何の成果も期待出来ないだろうと思った。博士が研究に熱を失ってしまったことは間違いない。この崩れたホテルの地下に放置された機材の様子からいってもそれは明らかだった。それに、何よりも博士そのものから受ける印象が、とても最先端に位置する第一級の科学者のそれからほど遠かった。今はただ障害のある女性の上に君臨して痴態を繰り返す、人間のなれの果てとしか思えなかった。偏執的で、絶望だけに支配された哀れな人間だった。
 私は作戦の中止をドームに要請するつもりだった。もはや博士にも、この島の施設にも何の価値もないことが分かったのだ。価値のないものをわざわざ消すことはない。忘れてしまえばいいのだった。
 私は簡単に報告書を作成すると、部屋を後にした。最早、この島に留まっている理由は何もなかった。
 中庭へ降りると、庭に面して開かれた石造りの部屋の一つで、セイヤが古いピアノに向かっていた。そして私を認めると、まるで待っていたかのように鍵盤を叩き始めた。
 デタラメな、無茶苦茶な音のかたまりが強く、まるで挑むように中庭に鳴り響き始めた。私は言葉に出来ないセイヤの怒りをその音に感じた。激しい感情の高まりを形に出来ないで、意味のない音の暴発を繰り返しているように思えた。彼女を哀れと思った。
 しかし、セイヤはすぐに混沌とした音の洪水の中に一つの流れるメロディーを弾き出した。混沌は瞬く間に収束し、柔らかな美しい旋律の中に呑み込まれる。昨日聴いたあの曲だった。
 私はピアノの傍らに佇んでセイヤを見つめた。そのやさしく理知的な顔立ちは、間違いなくあの写真の中で微笑んでいた昔の彼女そのものだった。
 鍵盤を叩くセイヤの指先から力が抜け、見つめる私と視線が絡んだ。深い深い、紺色の沼のような瞳がじっと私を見つめた。
「……愛しているわ」 
「え?」
「愛しているわ」
 いきなりセイヤの腕が伸びて私を引き寄せると、私は鍵盤の上に組み伏された。もの凄い力だった。私の躯の下で一斉に、押し潰された鍵盤が悲鳴を上げた。
「愛しているわ」
 眼が異様な光を帯びていた。狂ったように同じ言葉を繰り返す。シャツのボタンが引きちぎられ、ズボンの中に手が差し入れられた。私はどうすることも出来ず、ただピアノの上でもがくばかりだった。セイヤは自ら衣服を引き千切り、私の上に覆い被さった。バランスが崩れてそのまま二人、床の上に転げ落ちた。
 ずしりと彼女の体重が圧しかかった。柔らかな二つの乳房が私の顔を塞いだ。そしてそれは、何かが微妙に違う奇妙な感触を私に伝えた。
 少し落ち着きを取り戻した私は、下になったままそっと夫人の首筋に指を当ててみた。ゆっくりとした大きな脈が正確に打っている。極度に興奮したこの状態でそれは異常なことだった。背中の窪みにそって指を滑らせ脊髄を探ると、まるで一本のチューブのようになんのおうとつも感じられなかった。
「違う!」
 博士の声が響いた。
 気が付くとセイヤの肩に手を掛けて博士がそこにいた。
「違う。私はここだ。分からないのか」
 耳元でそう囁いた。
「愛してる。さあ、わたしが優しくしてあげよう」
 なだめるように夫人の肩を抱き起こした。
 セイヤの頬を撫で、口づけした。
 セイヤの身体からみるみる力が抜けた。うっとりと博士を見つめ、その首に腕を絡ませ立ち上がった。
 私は呆気にとられていた。捨てられたように転がったまま、夫人の裸の腰に腕を回して遠ざかる博士を黙って見送るしかなかった。

* *

『君に頼みたいことがある。全てを焼き払ってくれ』
 博士が書き遺した私宛のメモはそういう書き出しで始まっていた。落ち着いたしっかりとした文字でホテルの便箋に書かれていた。
  ―――――もう分かったろう。彼女が君の探していた私の研究成果だ。
 私はセイヤが死ぬことに耐えられなかった。あの日、私が知らせを受け医療センターへ駆け付けると、すでにセイヤの心肺機能は停止していた。わずかに、脳の深部がまだ生きているだけだった。
「安全装置がうまく作動しなかったようです。奥さんは胸部をひどく圧迫損傷され手の施しようがない状態でした。車体に挟まれて救出が遅れたことで、ダメージは全身に拡がっています。ことに、脳表層のダメージは深刻で、まったく回復の見込みはありません。我々治療チームとしてはこれ以上の救命活動は不可能と判断し、生命維持装置の解除に同意願いたいと思います」
 そう言って担当医は私に書類を差しだしサインを迫ったのだ。私にセイヤの死の決断をしろという。
「まだ見込みがある。脳幹は生きているじゃないか」
 私は脳内血流のモニターを見ながら叫んだ。
 担当医は残念そうに首を横に振り、
「あなただってご存じのはずだ。うろたえないで下さい」
 きっぱりと言った。
「うろたえる」その一言で私は自分を取り戻した。そうだ、うろたえてはいけない。私が彼女を治療しよう。私の持っている知識と技術の全てを投入してセイヤを生き返らすのだ。私にはそうしなければならない義務があるはずだった。私はセイヤの死に責任を感じていたのだ。あれは事故ではなく、自殺だったのではないかと思っていた。
 研究に没頭してセイヤの心にまったく関心を寄せなかった私は、ただ私が必要とする時にだけ彼女を求め、そして彼女の期待には何一つ応えてこなかった。そのうえ人一倍の嫉妬心から、子供じみた、些細なことにこだわってじくじくと彼女を苛めた。いつも要求するばかりでセイヤのことを何も解ってやろうとしなかった。私が彼女を追いつめ、死に追いやってしまったのだ。この世で一番かけがえのない、何よりも大事な人だったというのに!
 もう一度やり直したい。
 この手で彼女の命を救い、もう一度はじめから、二人の生活をやり直したいと思った。そして私にはその手段があったのだ。人体各器官の人工臓器への置換。まだ未完成の研究課題ではあったが、私には自信があった。
 私はセイヤの体温を極限まで下げ、ほとんど代謝が停止した状態に於いてなら生命維持装置の取り外しに同意すると伝えた。医師は不審な顔をしたが、面倒を回避して書式さえ整えばいいと思ったのか、私の提案をあっさり受け入れた。手回しよくセイヤの死亡診断書までそろえておいてくれた。私は『死亡』したセイヤを自分の研究室に運び、途中からはこの孤島のホテル跡に移って独り研究を続けた。セイヤの蘇生を信じた。そしてついに、セイヤは生き返ったのだ。再び彼女が目を開き、私を見つめた時の気持ちをなんと表したらいいだろう。私は彼女の瞳を覗き込み、何度も何度も二人の人生の再起を誓ったのだった。
 しかし幸せは長く続かなかった。蘇生した彼女はセイヤでありながら元のセイヤではなかった。あれほど私を魅了していた笑顔は消え、その美しい声も言葉も失っていた。きらめく知性も豊かな感情も消えていた。優しく細やかで、唯一、私の理解者であり続けたセイヤは戻らなかった。遠い死の淵から私が呼び起こした彼女は、ただセックスだけを意志とするモンスターになり果てていたのだ。
 彼女は、昼も夜もセックスを求めた。一方的に限りない奉仕を求めた。それはまるで満たされなかった過去の、私に対する復讐だった。
 しかし私は、彼女の全てを受け入れようと決心していた。それが彼女に対する私の贖罪の証しなのだ。
 私は気力と体力の限りを尽くして、充分に彼女を満足させることだけに務めた。そして充分に満たされさえすれば、セイヤは、柔らかな、以前の優しい顔を取り戻し眠るのだった。私は彼女を縛る紐を解き(セイヤは絶頂に達すると信じられないほどの力で私を締め付けた。そのため私は彼女の四肢を紐で固定し自身の身を守った。君が見て、彼女を虐めていると思ったのはこのことだ)次のセックスに備え、私自身の休息をとる。
 私たちの毎日はセックスをして眠り、またセックスをする。その繰り返しだった。その合間々々に食事をとり、身の回りを整理した。そしてセイヤは、時折ピアノを弾いた。不思議なもので、全てを忘れてしまった今でも、指先だけが覚えているということがあるらしい。ピアノに座ってしばらくとじっと鍵盤をにらんでいると、いきなり流れるようにセイヤの指先からはメロディーが迸るのだった。
 その演奏は紛れもなく、あの情感豊かだったセイヤそのものだった。私は、蘇ったセイヤを前にしながら昔のセイヤを思い出して泣いた。亡霊のように、はかなく立ち現れては消えてしまう彼女の幻影を求めて泣いた。
 正直に告白してしまおう。私にとって今のセイヤは重荷だ。自然の理に逆らって彼女を蘇らせた私が愚かだった。これまでに何度、セイヤと共に命を絶とうと考えたかわからない。けれどもいつも、彼女の昔と変わらない美しい寝顔を見ると、私の決心は鈍った。ああ、どうして二度までも彼女の命を絶つことなど出来るだろう! 私は毎日をむなしく、そして焦燥の思いで過ごした。私の何よりの不安は、私がセイヤよりも先に死んでしまうことだ。後に独り残された彼女のことを思うと、気が狂いそうなくらいどうしていいかわからなくなった。
 私は君に助けを求める。いかに私の研究がくだらない、つまらないものかもう分かったろう。私の研究は人類に不幸しかもたらさない。人は分限を越えて望んではいけないのだ。私は迂闊にも、人恋しさにその一線を越えてしまった。しかしもう、この不幸を他へばらまきたくない。私と共に全て消してしまいたいのだ。たった今、セイヤに塩化カリウムを注入した。彼女は眠ったまま静かに呼吸を停止した。優しく美しい本当のセイヤのままで息を引き取った。そして私も君への最後の願いを今こうして書き終えようとしている。どうか私の願いを聞いてくれ。何もかも、全てを焼き払って欲しい―――

* *

 積雲はその頂をバラ色に染め夕暮れの空にそびえていた。すでに海面は夜の闇に閉ざされている。私は機を闇と淡い残照が溶け合う境において、一直線に飛ばせていた。振り返ればおそらく、その島影は黒い塊となって空とも海ともつかない水平の彼方に浮いているだろう。二人並んでテラスへ置かれた遺体も、まだほんのりと温もりを残してこの暗い海を見つめているに違いなかた。
 コクピットのビューアーには非常な速さで接近してくる鮮やかなオレンジ色の軌跡が映されていた。私の要請に基づいて発射されたドームの戦術核巡航ミサイルの軌跡だった。間もなく私の機と眼下ですれ違い、そのおよそ一分後には目標にヒットする。私は博士の遺言を忠実に実行しようとしていた。果たしてその選択が正しいものなのかどうか、私には分からない。しかし、博士の痛ましい生涯の最後の幕を閉じるのにこの終末はふさわしいものに思えた。ほんのわずかばかりの滞在の間に私もまた終末論者となってしまったのかも知れない。いや、そうではない。博士はあの暗い井戸の底にこもってセイヤの復活だけに熱中していた。全精力をそこに傾けてしまった。外の世界に明るい月の海が拡がることを見ようとしなかった。間違った道へ突き進んでしまった。それが間違ったものならば、清算しなければならない。ペニスの林の中でほほえんでいたセイヤの写真を思い出した。
 コクピットに警告音が鳴り響き、海面すれすれの闇の中を巡航ミサイルが青い炎の帯を引きずって消えていった。私はその帯に向かって敬礼した。葬送の儀礼だった。
 爆発は、紫色の衝撃波となって天空を駆け抜た。積雲はストロボを浴びたように明滅し、そして捨てられた血のように暗い赤を反射した。
 私は機を翻して島を見た。そこには闇の中に血膿よりもどす黒い光球が立ち上っていた。私はその光球に向かってもう一度敬礼すると、再び機を元のコースに戻した。気が付くと、そびえた積雲の彼方から煌々と月が出ていた。見下ろす海面が銀色の砂漠へと見る間に変じていった。

(終)


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