『ウツホの像』

桓崎由梨(Yuri Kanzaki)


(1)

 山道から充分に森の奥へ入った場所で、北澤は荷を降ろし、幅広く深い穴を一つ掘った。叔父の遺骨と、カーテンでくるんだマリカの体を横たえるための穴を。
 平日の山の中は、しんとしていた。
 小鳥のさえずりや、カラスの鳴き声すら聞こえなかった。

 邪魔な下草を引っこ抜き、木の根をシャベルで寸断しながらの作業は、思っていたよりも重労働だった。たちまち背中に汗が噴き出す。額から流れ落ちる雫を、彼は何度も袖口で拭った。
 人目を避けるためには、夜来たほうが良かったのかもしれない。だが、彼は山のことを何も知らない。夜、どんな危険があるかわからないような場所へ一人で来たくはなかった。闇を突いて現れるものが、たとえ貧相な野犬一匹に過ぎなかったとしても、それを叩き伏せるだけの知恵や技術が彼にはない。ましてや、気の荒い猪などに出くわした日には、どうなることかわかったものではなかった。
 地面を掘り返すたびに、むっとするような土の匂いが地中から立ちのぼった。落ち葉が腐ったような匂い。都会の人間には馴染めない、強烈な野趣を感じさせる匂いだ。山の好きな渡瀬や守谷なら、いい匂いだと言うに違いなかった。が、北澤には鬱陶しいだけだった。重く湿った土の匂いは、なんとなく、小学生の頃、遠足で山へ登った時のことを思い出させた。
 そういえば、守谷は昔からよく森の絵を描いていたな――と北澤は思った。あいつは作品が何枚かたまると、必ず、おれに見せてくれたものだ。「こういう地味な絵は絶対に売れないだろうなぁ」そう言いながらはにかむように笑っていたが、その顔には、自分の好きなものを誠実に描いている者の純朴さがあった。飾り気のない、魅力的な男がそこにはいた。おれは、あの頃の守谷が好きだった。無二の親友だと思っていた……。

 土の山にシャベルを突き刺すと、北澤は、足元に置いていた等身大の荷を抱き起こした。布でくるまれたマリカの体。それを穴へ投げ込み、骨壺を脇へ安置した。再びシャベルを手にとり、湿った土砂を穴の中へ戻していった。地面が元通りになるまで靴の底で踏み固め、引っこ抜いた雑草を植えなおした。適当に落ち葉を撒き散らし、カモフラージュした。
 全てをやり終えると、シャベルを担いでその場から離れた。細い山道を辿りながら、自動車道路を目指して急いだ。
 森の空気は、彼の肺には濃過ぎた。ざらざらした芳香、フィトンチッドの刺激が胸の中を掻きむしる。
 逃げきれるのだろうか、と北澤は思った。マリカがいなくなったことを知れば、守谷は必ず追ってくる。烈火の如く怒って、おれを問いつめることだろう。しらを切り続ける自信はない。今の守谷は、マリカのためならどんなことでもやってしまう。昔はそんな人間じゃなかった。だが、今ではすっかり変わってしまった。叔父と出会ってから、マリカを知ってから。そうなるように仕向けたのはおれだ。僅かばかりの欲得のために、おれは今、無二の親友を失いかけている。

 汗だくになりながら、北澤は車道へ出た。道路に他の車の姿はなかった。しんとしていた。どこかでヒヨドリが、キェーッと癇にさわる声で鳴いていた。大空はすでに薄暗い。秋の日は急速に暮れつつあった。レガシィ・ツーリングワゴンの後部ドアを開け、泥まみれのシャベルを投げ込むと、少しだけ気分が落ち着いた。
 マンションへ戻る気はなかった。全てのほとぼりが冷めるまで、しばらくこの街から離れなければならない。
 仕事――どうにもならない。放っておくしかないだろう。クビになったらフリーライターとして食ってゆくか、あるいは別の職種を探せばいい。この不景気じゃ、ろくな仕事にはありつけないだろうが。
 帰るに帰れない北澤にとって、愛車は唯一の武器だった。移動し、生活するための大切な家。運転席のドアに手をかけた時、近くでエンジン音が響いた。反射的に耳と目で探す。前方の、カーブで死角になっていた場所から、見覚えのある4WDが姿を現わした。守谷のパジェロだった。あっけにとられているうちに、パジェロは速度をあげて、北澤に向かって突っ込んできた。彼は慌てて車の側から離れた。二台の車は、凄まじい音をたてて衝突した。中古のレガシィの車体前部が、ものの見事に押し潰された。
(逃げろ)
 本能がそう命じたが、この山の中、車も無しにどこへ逃げるというのか。
 パジェロのドアが開き、中から守谷が飛び出してきた。手には散弾銃を持っていた。いつも野山の猟で使っている、愛用の水平二連銃だ。
「動くなよ、北澤」
 守谷は腰だめに銃を構え、勝ち誇ったように言った。
「この銃にはバックショットがこめてある。当たればずたずたになる。おとなしくしていたほうが利口だぞ」
 バックショット――北澤は思わず呻いた。「おれは子熊や猪じゃないんだぞ。そんな弾、どうするつもりだ」
「マリカをどこへやった。あれはおれのものだ。なぜ勝手に連れ出した」
「マリカはおまえのものじゃない、叔父のものだ」北澤は叫んだ。「叔父はおまえに、あれを譲るなんてひとことも言っちゃいない。勝手に持ち出したのはおまえのほうだ。恥ずかしくないのか、こんな真似までして。そんなに大事なのか、あのまがいものの女が」
 守谷の瞳に暗い色が滲んだ。
 次の瞬間、守谷は散弾銃を水平に振って、青黒く光る銃身で、北澤の右頬を殴り飛ばした。
 北澤は、吹っ飛ぶように道路の上に倒れた。立ち上がろうとすると、今度は背を殴られた。一瞬、気が遠くなった――が、ほどなく右手に加わった強い衝撃と、激烈な痛みに強引に意識を引き戻された。
 うつ伏せに倒れたまま、北澤は、呻き声を洩らしながら目を開けた。右手の甲は、銃の台尻で押さえつけられていた。背中は靴の底で踏みつけられ、身動きがとれなくなっている。口の中には血の味が満ちていた。激痛が、拍動するように指先から伝播してくる。指の骨を折られてしまったのかもしれない。北澤は歯ぎしりして後悔した。こんなことなら、あんなに早々と、車にシャベルを放り込むのではなかった。あれがあれば、多少の抵抗はできたのだ。
「どこかに埋めたか、捨てたんだろう?」守谷は落ち着き払った様子で訊ねた。「でなきゃ、おまえが山なんかに来る筈がない。平日の、こんな夕方に」
「東京へ行ってたんじゃないのか」北澤は訊ねた。「まさか、仕事の約束をほったらかして、後をつけてきたんじゃないだろうな」
「だったら何だって言うんだ」守谷は笑った。「最近のおまえの態度には、腑に落ちないところが多かったからな。人を雇って見張らせてたんだ。携帯電話に、随時連絡を入れさせてな。引き返してきて正解だったよ。すぐにここがわかった。もしかしたら、マリカが呼んでくれたのかもしれないな……」
「フリーの絵描きは信用が第一なんだぞ。こんなことをして、仕事をなくしたらどうする!」
「仕事なんて、才能さえあればどんどん入ってくるさ。だが、そのためにはマリカが必要なんだ。マリカさえいれば、おれはいくらでも絵が描ける――さあ言え、マリカをどこへやった?」
「おまえなんかに、マリカを渡すもんか――」
「腕が片方なくなるぞ、北澤」守谷は、北澤の右肘に銃口を押しあてた。「ショットガンをこの距離から撃ったらどうなるか、おまえだって知らないわけではあるまい」
 冷たい山の空気が、北澤の肺の底まで入り込んできた。が、体が震え始めたのは、そのせいだけではなかった。
 本気なのだろうか。守谷は本当に撃つ気なのか。拷問してまで、おれにマリカの居場所を吐かせるつもりなのか。あんなに仲の良かった親友に対して――いや親友だからこそ、自分の邪魔をされたことに対して、これほどまでに腹を立てるのか。
「足をのけてくれたら話そう……」北澤は、わめき出しそうになるのを必死にこらえて持ちかけた。「ついでに、その物騒なモノを退けてくれないか」
 右肘を圧迫していた筒先が離れていった。が、依然、背中は踏みつけられたままだった。北澤は、乾き切った口の中を舌の先で舐めて続けた。「マリカは確かにこの山へ埋めた。場所は、おれの身の安全を約束してくれたら話す。約束を守れるか?」
 こんなやり方に納得したわけではなかった。が、まずは身の安全を確保しなければならない。全てはそのあとの話だ。
 守谷が黙って足をあげた。北澤は右手を庇いながら立ち上がった。目が眩み、足元が揺れた。指は、少し動かしただけで、言葉を失うほどに痛んだ。背中にも、熱く重い痛みが残っている。足元に吐き捨てた唾の中には、まだ、うっすらと赤い色が混じっていた。
「案内しろ、マリカを埋めた場所まで」守谷は銃口で北澤の背を突いた。「そこまで行ったら解放してやろう」
「約束だぞ」
「守るさ。おまえを殺したって、何の得にもならんのだからな」
 耳につく甲高い声で守谷が笑った。まるで、北澤の知らない男のような声で――。

(2)

「趣味で彫刻を始めたんだ。一度、作品を見に来てくれないか?」
 北澤が、母方の叔父・渡瀬和義から電話で誘われたのは、三年ほど前のことだった。その頃も秋だった。芸術の秋とかいうやつで、またぞろ変なものに興味を持ったのかな、と思いながら、北澤は自分の部屋のカレンダーに目をやった。
「来週の日曜ならあいていますが、おれが見てもわかるようなやつでしょうね? 首が異様に長いのとか、手足が針金みたいに細いのとか、男か女かわからんような塊とかは……」
 渡瀬は、北澤の言葉を途中で制した。「オーソドックスな木彫りだよ。絶世の美女だ。全裸の立像だぞ。見に来い、絶対に気に入るから」
 昔から手先が器用だった渡瀬は、北澤が子供の頃、木で動く戦車を作ったり、竹トンボを作ったりして、よく一緒に遊んでくれたものだった。北澤の父親は、学校の教師だったくせに、そういうことにはひどく無関心で、彼は当時から、遊びのことになると叔父の渡瀬になついていた。
 渡瀬は、退屈することに耐えられない類の人間だった。だから、始終、何かをしていた。日本中が好景気だった頃には、証券会社勤務であることを利用して、得体の知れない連中と一緒に株の仕手戦に手を染めていた。そして、分不相応なほどの財を成した。
 渡瀬の妻・章子(あきこ)は、そんな渡瀬の性格をいつも気に病んでいた。幾らお金を儲けても、あの人の心には安らぎというものが皆無だと呟いた。
 北澤は、叔母に向かって慰めの言葉をかけながら、心の底では彼女のことを笑っていた。何もわかっていない女だと軽蔑した。叔父はなぜ、こんな潔癖な女と結婚してしまったのだろうと、不思議に思えて仕方がなかった。
「甲沢(かぶとざわ)のログハウスにいるから、そこへ来てくれ。そうそう、一緒に芸術に目の利く友達を連れてきてくれると、尚嬉しいんだがなぁ。その人達にも、作品の出来を見て貰いたいから」
「先生に習ってるんじゃないんですか? 立像っていうのは、かなり、でかいものなんでしょう?」
「我流なんだよ。だから、誰かに見て貰うのは、これが初めてなんだ」

 彫刻に詳しい人間と言われても、北澤には、とっさに思い浮かぶ人物がいなかった。そういう人間とは、あまり交流が無いのだ。
 北澤は、隔週発行雑誌《EX−α》の取材記者で、事件・政治班を担当している。
《EX−α》は、読者の好奇心を煽るような、どぎつい犯罪事件や政治家のスキャンダルを追い回し、センセーショナルに書き綴ることを目的にしている、北澤の父親に言わせれば「極めて低俗な」、北澤自身の言葉で言えば「庶民のガス抜き的な」存在だ。
 仕事の内容は殆どが取材活動で、執筆の機会は、たまにしか巡ってこない。北澤の職場では、記事の作り方に「データアンカー・システム」という方法が取られており、データマンと呼ばれる取材記者が取ってきた情報を、アンカーと呼ばれる執筆者が原稿におこすことで、誌面作りを行なっていた。
 北澤のような二十代後半の若い記者の場合、主たる仕事の内容は「データマン」である。たいして大きくもない会社なので、取材費の大半は、当然のことながら自腹を切ることになる。おまけに北澤のように、本業と並行して個人的な取材をもとにルポルタージュをコツコツと書いているような人間にとっては、金は幾らあっても足りなかった。
 ルポルタージュの執筆は、北澤にとって息抜きであり、同時に慰めでもあった。データマンの仕事ばかりやっているうちに、自分でも記事を書きたいという欲求が膨らんできて、いつしか、その捌け口を求めるようになったのだ。
 会社の仕事のための取材費、自分の原稿を書くための取材費、北澤一人で賄えるはずがない。その穴を、いつも埋めてくれるのが渡瀬だった。渡瀬は頼めばいつでも金を貸してくれた。しかも無利子で。但し、利子の代わりに渡瀬の頼みを聞いてやる必要があるのは、毎度のことだった。

 芸術に目の利く人間ねぇ……。
 北澤は短縮ダイヤルで、イラストレーターの守谷光二(もりや・こうじ)に電話をかけた。守谷は北澤の友人で、社会へ出てから知り合った得難い親友だ。映画関係のメーリングリストで知り合い、オフ会で顔を合わせてからは、いっそう親しくつき合うようになった。メールのやり取りでお互いの性格や趣味は知っていたものの、実際に会ってみると住所も近いことがわかり、なおいっそう意気投合した。そのうち、仕事で顔を合わす機会にも恵まれた。《EX−α》のコラムの挿絵を、一時期、守谷のデザイン事務所が請け負うことになったのだ。しかも描き手は、守谷自身だった。
 守谷が電話口に出ると、北澤はまず訊ねた。「今、手あいてるか?」
「ああ」電話の向こうで、守谷は元気な声を出した。「仕事ならさっき終わったところだ。今なら何でも聞くぞ」
 守谷は、自宅では、油絵やアクリル画を描いていることが多い。デザイン事務所では主にCG画像を扱っていたが、本来の彼のライフワークは、油絵とアクリル画を描くことだった。速乾性の絵の具や接着剤を使っている時に電話を掛け、北澤は一度、守谷から、こっぴどく怒鳴られたことがある。当たり前の話だ。が、当時絵のことに無知だった北澤は、耳を打つ罵声に仰天し、受話器を持ったまま凍りついてしまった。守谷のことを、それほどアグレッシヴな男だったのかと誤解して、しばらくは口をきくのも恐れていたほどだった。誤解は後日、守谷の笑い声と共に氷解した。以来北澤は、電話をする際には、まず彼が仕事中であるかどうかを、昼夜の別を問わず確認するようになっている。
「おれ、立体ものを、ちゃんと評価をできる自信は無いんだけどなぁ」
 渡瀬の話を伝えると、守谷は、困惑したような声を出した。守谷は、絵画一本でやってきた男だ。彫刻・彫塑の分野にも目は通しているものの、専門的な批評知識は持ち合わせていないとのことだった。
 北澤は、笑いながら答えた。
「適当に誉めとけばいいんだよ。日曜芸術家の作ったもんだ。どうせ、出来なんて知れている。お世辞の一つぐらい、おまえにだって言えるだろう」
「わかった。じゃあスケジュールを調節しておくよ」
「頼むぜ」
「その代わり、今度、一杯おごれよ」
「ビール券、何枚分ぐらいで手を打つ?」
「馬鹿を言え。上等のスコッチだ」

 甲沢のログハウスは、渡瀬が建てたものではない。他人から買い取ったものだ。
 元の持ち主は、転勤で今は北海道にいる。管理を頼む相手も財力もなく、かといって壊すのも惜しいということで、売りに出したのだ。
 ログハウスが渡瀬のものになってから、北澤も何度か小屋を訪れた。山にも小屋にも興味はなかったが、自分だけの秘密基地を持って嬉々としている渡瀬の心境だけは、よく理解できた。
 小屋の隅には、いつまでも放置されている荷物が一つあった。二メートルぐらいの長さの、油紙に包まれた大きな荷物だ。北澤が中身について訊ねると、渡瀬は「ガラクタだよ」と言って笑った。
 渡瀬は、ログハウスのことを家族には内緒にしていた。北澤も誰かに話すことはなかった。渡瀬がログハウスに若い女の子を連れてゆこうが、そこで怪しげな遊びに耽っていようが、北澤には関係のないことだったし、それをネタに彼を強請(ゆす)ることも勿論可能ではあったのだが、そんなことをするまでもなく、北澤が無心すれば、渡瀬は必ず、幾許かのものを寄越してくれたのだ。
「これはすごい。こんなに本格的なものとは、思いませんでしたよ」
 ログハウスの居間で立像を目にした途端、守谷は、我を忘れたように声をあげた。北澤も同感だった。確かに、人を呼びつけるほどのことはあると思った。
《マリカ》というタイトルがついたその立像は、若い女性の立ち姿を写実的に彫ったものだった。髪型はショートボブ、ほっそりとした面立ちの《マリカ》は、アーモンド型の綺麗な両眼を薄く開き、何かを追うような表情で片足を前に出している。上方を見つめるように顎を上げ、両手を前へ差し出していた。その両腕は、何かを包み込むように丸く形作られ、もしそこへ誰かを抱かせたら、そのまま乳房も露な胸の中へ、しっかりと抱きとめてしまいそうな雰囲気を漂わせていた。彫像の表面にはニスが塗られ、ぴかぴかに磨かれていた。触れると、木材特有の、ほっとするような暖かさと柔らかさが伝わってきた。
「テーマは、女性の愛の深さですか?」守谷が渡瀬に訊ねた。「僕には、そんなふうに見えますが」
 渡瀬は、にやりと笑ったきり答えなかった。四十代半ばの、したたかな男が漏らした笑いの意味を、守谷がどう受けとめたのか――。北澤は、少しばかり興味を覚えた。
「《マリカ》というのは、どういう意味なんですか」守谷は訊ねた。
「意味なんてないさ」渡瀬は、さらりと言ってのけた。「女の名前だと思って貰ってもいいし、作品そのものの名前だと思って貰ってもいい。でも、ぴったりの名前だろう」
「ええ」
「口の中で繰り返していると、それ以外の名前では有りえないような気がしてくる」
「そうですね」
「出来のほうはどうかな。美大へ行くと、彫刻や彫塑をやっている生徒が大勢いるんだろう。それと比べてみて、どんな感じなのかな?」
「美大の教授も吃驚――といったところでしょうか」守谷は微笑んだ。お世辞ではなく、本当に感動した時に浮かべる笑みだった。「渡瀬さん、この像、公募に出されたらいかがですか。これなら、結構、いい線まで行くと思いますよ。応募先なら幾つか覚えがあります。今度、FAXで一覧表をお送りしましょうか」
「いや、悪いが、そういうことに興味はないんだ」
「なぜです?」
 守谷の表情が、理解できないなぁという類のものに変わった。才能を持っているのにそれを世に対して問わないというのは、守谷にとっては理解できない感情だ。しかし、渡瀬は、瓢然として取り合わなかった。
「彫刻は、わたしの個人的な趣味だからね。賞という付加価値は、全く必要ないんだ。この作品の真価を理解できる人間が一人二人、ああいいなぁと思ってくれれば、それで満足なんだ。今日は遠いところをどうもありがとう。《マリカ》も、わたし以外の人間に美しさを認めて貰えて、さぞ喜んだことだろう。そのうちまた何か作ったら呼ぶかもしれん。見て貰えれば光栄だ」
「また、お邪魔してもいいんですか?」
 渡瀬は愛想良くそれを許した。口先だけの言葉ではないことが北澤にもわかった。渡瀬は他人に対する好き嫌いがはっきりしている。仕事の場合ならともかく、プライベートでは絶対に媚を売らないし、お世辞も言わない。それだけ、守谷の人柄を気に入ったということだった。
 北澤のレガシィで街まで降りる途中、守谷は助手席で、何度も渡瀬の腕前を誉めた。きちんと勉強しないことを惜しいと言った。あの半分でも自分に才能があれば……とすら言った。
「渡瀬さんは、どういう仕事をしている人なんだ? あんなりっぱなログハウスを持ってるなんて、随分、いいところの重役さんなんだろう?」
「医療機器メーカーに勤めてるんだ」北澤は、ステアリングを右へ切って、六甲山系特有の、きついカーブを曲がった。視界に、色づき始めた紅葉が飛び込んできた。
 守谷が続けた。「儲かってるのか。今、そういう業種は」
「そこそこにはね。だが、叔父の資産の殆どは、昔、株で儲けたものだ。バブルがはじけるまでは証券会社にいて、裏で妙な連中とつき合ってた。そいつらと一緒に、いろいろと稼ぎまくっていたらしい。オンライン・トレーディングにも昔から詳しかったしな。少し前、金融不祥事や不況のせいで、銀行や証券会社がバタバタ倒れてた時期があっただろう。叔父も勤務先が倒産して転職した口なんだが、元来、世渡りの上手な人だからな。善良な同僚達を尻目に、すぐに今の仕事を見つけてきて、上々の生活を送っているわけさ」
「ああ……。おれにも、それぐらいの器用さがあったらなぁ」
 守谷は、後頭部を背もたれに軽く叩きつけた。
 叔父のように器用な人間だったら。それは北澤も何度か考えたことだ。他人の原稿のためにデータを集めてくるような仕事ではなく、名刺に《ルポライター・北澤隆史》と書けるようになる日を、彼は、何度夢想したことだろう。
 守谷も似たようなものだった。全国規模の展覧会で第一席に選ばれ、大きな仕事を引き受け、1号一枚の値段が何万円にもなるような絵描きになりたい――それが守谷の夢だった。
 同じ雑誌で仕事をして以来、北澤は守谷と、仕事以外の場でも飲みに行くようになった。電話で、くだらない話を延々と続けることもあった。
 分野こそ違うものの、二人は、お互いの血の中に共通する匂いを感じ取っていた。それは時として、易々と憎悪を引き起こす源となるに違いない、肉親以上に濃い血の繋がりだった。
 知り合ってしばらくたつと、二人はお互いの家に行き、夜遅くまで飲みながら、いろんな話をするようになった。寝るのも惜しんで、何時間も話し込んだ。今よりも、まだずっと若かった頃の話だ。
 守谷はデザイン事務所に就職し、食うための仕事を誠実にこなしながら、コツコツと、自分のライフワークに打ち込んできた男だった。普段は、雑誌や実用書に挿絵を描いて生活しているが、本当は、最低でも50号はあるような、大きなサイズの油絵やアクリル画を描くことに喜びを見い出すタイプの人間だった。
 優れたデッサン力で描き出されたモチーフを、頭の中で半抽象化し、再構成して、コラージュのように画布の上に配置してゆく作風には、上質の幻想絵画と呼ぶに相応しい風格があった。北澤と出会った頃の守谷は、よく森の絵を描いていた。葉や木の実を抽象化したパーツを、混み入った樹木の絵の上にちりばめて、楽しんでいた。
 数年前、北澤は守谷のマンションに泊まったことがある。
 守谷の部屋には、木材と揮発油の匂いが満ちていた。キャンバスの木枠と画布の匂い、筆洗液や溶き油の甘い匂いが充満していた。それが守谷の生活の匂いだった。
「絵描きになると決めた時、不安じゃなかったのか?」
「不安? そんなこと考えたことも無かったよ。若かったからね。情熱だけで飛びだしちまった」
 絵描きになる道以外考えたことは無いんだ、自分のグラスに酒を注ぎ足しながら、その時、守谷はそう呟いたのだ。瞳の奥で静かに燃えているものに、北澤は容易に、自分自身の情熱を重ね合わせることができた。
 守谷の最大の武器は、その色彩感覚にあった。絵描きの才能には二種類あって、輪郭で物の本質を捉えるのが得意な人間と、色彩で物の本質を捉えるのが得意な人間がいるのだが、守谷は後者だった。100号の画布一面に絵の具をぬりたくった作品を見せられた時には、ただひたすら、その迫力に圧倒された。色彩のオーケストラ。色というものが、歌ったり笑ったりするものだということを、北澤は守谷の絵を通して初めて知った。
「おまえはどうなんだ。おまえこそ不安じゃなかったのか」
 今度は、北澤が訊ねられる番だった。
「雑誌記者の仕事も大変なんだろう。世の中には、そういう仕事に偏見を持ってる奴もいるしな」
「ははは。実際、偏見を持たれても仕方がないようなことをやってるからなぁ、うちの場合は」
 北澤が関わっている雑誌《EX−α》は、はっきり言って二流の雑誌だ。誌名の「EX」は、exposure(暴露)の頭文字からつけられたのだ。もっとも社の方針によれば、そこには extra(特別優良品)・excellence(優秀)・expression(思想の表現)等々、上品な意味も含まれているらしいのだが、編集長や、北澤たち現場の人間に言わせれば、そんなものは全て綺麗ごとだ。もし、彼の雑誌に相応しい単語を並べるとしたら、それはexcite(興奮させる・刺激する)・explosion(爆発・事件の勃発)といったあたりに落ち着くに決まっている。
 だが、北澤はそれらの言葉が持つ荒々しさを、それほど嫌いではなかった。そういう仕事が性に合っているのだ。
「たぶん天職なんだよ」守谷は言った。「おまえには、書くことで社会の矛盾を追求してゆくような力が備わってるんだ。記者の仕事に向いてるんだよ」
「独立して、フリーのルポライターになりたいと思うことならあるけどな。今すぐには無理だろうが、取材の経験を積んで、自由になる金をもっと貯めて、社会を見る眼を鍛えて、文章力をつけて――時期と機会が巡ってくればの話だがな」
「どんなジャンルをやるんだい」
「犯罪関係だよ。社会の歪みや人間の本質を暴露するのに、こんないいジャンルはないからな。それに売れ線だし」
「本が出たら送れよ。真っ先に」
「おまえも有名になったら一枚送ってくれよ、サイン入りで」
「売って儲ける気か?」
「他人に見せびらかすんだよ。『おれは守谷画伯と知り合いなんだぞ』ってな」
 二人は、グレンフィディックの瓶を早々と空けてしまった。なおも飲みたがる北澤を、守谷は厳しく諫めた。
 北澤は嫌々ながらもグラスを置いた。アルコールや煙草への耽溺を本気で心配してくれる守谷には逆らえなかったし、その思いやりが嬉しくもあった。
 守谷は酒豪だが煙草は吸わない。作品を描いている間は、その酒の量さえ減らして、ストイックに自分を追いつめてゆく。北澤とは正反対のやり方をしている人間なので、気になるのだ。
「長生きしろよ」と、守谷は言った。「おれ達が大成するには、まだ時間が掛かりそうだからな」
「成功できるのかな、おれ達」
「できるさ」
「断言しちまうのか。すごい自信だな」
「人間は、自分のなりたいものになるように出来ているんだ。だから、自信をなくすのが一番恐い。自分のことを駄目な奴だと思い込むと、本当に駄目になってしまう。だからおれは、いつも、自分が成功する時のことしか考えないようにしている。そうしていると、すごく調子がいいんだ」
「おれには、よくわからん考え方だな」
「人それぞれだよ。おまえは、自分の好きなようにやればいいさ」
 部屋にはベッドがなかったので、二人は、布団や毛布を適当に分け合って、カーペットの上で眠ることにした。
「おまえ、寝相はいいほうか?」と、守谷が訊ねた。
 北澤は答えた。「いや、ぐるぐる転がるほうだ」
「そうか。じゃあ、ぶつかってきたら蹴飛ばすかも知れんから、覚悟しておいてくれ」
「そっちこそ、おれに押し潰されるなよ。おやすみ」
「おやすみ。明日の朝はサラダを作ってやるから野菜を食えよ。体のためだぞ……」
 翌朝、守谷はものすごいボリュームの朝食を作った。中身のしっかり詰まった胡桃パン、熱い紅茶、ヨーグルト、チーズと何種類もの生野菜を使ったサラダ、ボイルした温かいソーセージ、半分に切ったグレープフルーツ、煮込んだプラム。
 低血圧で寝起きの悪い北澤は、食卓の上を呆然と眺めた。「いつも、こんなに食ってるのか? 朝から?」
「おまえは違うのか。毎朝、何を食ってるんだ」
「コーヒーと、トースト一枚……」
「死ぬぞ、おまえ。三十になる前に」

 二人は時々会って酒を飲み、時には激論を闘わせてストレスを発散させながら、それぞれの仕事やライフワークに熱中した。互いの幸運を祈り続けた。
 北澤は、酒も煙草もやめなかったが、守谷の忠告を受け入れ、食事だけはきちんと摂るようになった。自分の仕事が、結局は、体力勝負であることに気づいたからだ。事実、食べてさえいれば、体調はかなり良かった。入社年数が重なるにつれて、加速度的に増してゆく現場責任と忙しさの中で、栄養素は全て効率良く燃焼され、太る余裕など、どこにも存在しなかった。
 幸運を信じて、二人は努力を続けた。が、どちらの成果も、芳しくなかった。北澤はいつまでたっても雑誌社のデータマンだったし、守谷は何度か公募で入選したものの、そこから先の見通しが立たず、かえって懊悩を深めていた。
 無理もない。この不景気である。少し前なら掃いて捨てるほどあった画廊も即売会も、今では、すっかりさびれてしまった。
 入選の事実があるだけに、なぜ次の一歩を踏み出せないのか、画廊に持っていっても売れないのかと、守谷は時々、愚痴をこぼすようになった。北澤自身も、日々の仕事に追われ、遅々として進まないルポルタージュの執筆に、苛立ちを覚え始めていた。
 二人が、渡瀬から《マリカ》を見せられたのは、ちょうど、そんな頃だったのだ。

(3)

 前方の草叢から、けたたましい羽音をたてて、ウズラのような丸っこい体型の鳥が何羽も飛び立った。初冬の陽射しに、茶色の羽が透けて金色に輝く。赤褐色の尾羽と喉元の灰青色が、とりわけ強く目に焼きついた。
 四方八方に散ってゆく鳥達に、渡瀬と守谷は、それぞれの銃で狙いを定めた。渡瀬はポンプ・アクション、守谷は水平二連銃を好んで使う。三発の銃声が響いた。北澤がたまたま目を向けていた方角に飛んだ鳥が、空中でもんどりうって羽毛を散らし、真っ逆さまに落下した。
 犬が三羽の獲物を回収してきた。守谷は、一発撃って二羽しとめていた。散弾だから、一回の射撃で複数の鳥が落ちることが、たまにあるのだ。渡瀬は一発目を失中し、二発目でしとめたことを心底悔しがった。
「守谷くんの腕は、もうわたしより上だな。最近わたしはよく外すんだ。体がついてゆかなくなってきたのかな」
 守谷はちょっと微笑してから、落とした鳥の肛門に、小型ナイフを差し込んだ。中で心持ち捻ってから、ゆっくりと手前に引き抜く。肛門から、刃の先端に引っ掛けられた鳥の腸が、ずるずると引き出された。生ぐさい臭気があたりにたちこめた。北澤は、少し離れたところから、その作業を見物した。鳥の腸抜きを見るのは初めてだった。
 ここ一年ほどで、守谷の生活は随分と変わった。デザイン事務所の仕事ではなく、ライフワークとして描いていた絵が少しづつ売れ始め、いろんな仕事を受注するようになったのだ。書籍のカバー絵、企業のポスター。画廊でも絵が数点売れた。勿論、値札通りの金額で。一枚何十万円もする絵が、何枚も、すいすいと売れたのだ。
 経済的に余裕が出てきたところで、渡瀬が狩猟への誘いをかけた。何にでも好奇心を覚える守谷は、すぐに夢中になった。免許をとり、しばらくはクレー射撃をやっていたが、やがて本物の猟に出始めた。
 鳥の内臓を犬に食わせ、真赤な空薬莢を拾うと、北澤たちは、渡瀬のログハウスへ引き返した。さっき撃ち落とした鳥は、コジュケイという名前の野鳥だと、守谷が北澤に教えた。丸々と太ってはいたが、野鳥など食べたことのない北澤は、本当に旨いのだろうかと、半信半疑だった。
 ログハウスにはオーブンがあり、コジュケイはその中で焼かれることになった。渡瀬は、こういうことにかけても極めて手際が良く、北澤たちにもコジュケイの羽をむしらせると、鳥の首を落とし、腹をたち割って中に香野菜を詰めこみ、オーブンで、こんがりと焼きあげた。
 三人は缶ビールのプルタブを引きあけた。肉のしまったコジュケイと、丸いフランスパンを食べた。鳥は、北澤が思っていたよりもずっと旨かった。岩塩と胡椒だけの味つけだが、熱々に焼けているせいか、山を歩いて空腹だったせいか、街のレストランで食う鳥よりも旨く感じられた。渡瀬や守谷が猟をする理由が、ちょっとだけわかったような気がした。
「隆史も猟を始めればいいんだ」と、渡瀬は言った。「見てるだけじゃ、つまらなかっただろう。おまえにも銃が撃てれば、鹿や猪、そう、熊狩りだって夢じゃないんだぞ」
「猟友会の人達と一緒に行けばいいじゃないですか」北澤は、指先についた塩と鳥の脂を舐めながら答えた。「おれなんか、同行したってきっとヘマばかりです。人を撃っちまうかもしれない」
「猟は気の合った仲間と一緒にやるもんだ。見ず知らずの人間と山へ行ったってつまらないよ。ここにいる三人なら、ベスト・メンバーさ」
「金がありませんよ」と、北澤は答えた。「守谷はいいけど、おれはただの貧乏記者だから」
「おれだって、そんなに売れてるわけじゃないさ」守谷がすかさず応じた。が、その声に、独特の明るさと弾みがあることを、北澤は見逃さなかった。
 自分より一歩先に出た者に、疎ましさや悔しさを覚えないと言えば、それは嘘になる。ジャンルこそ違うものの、北澤も守谷も、同じ苦労をしてきた仲だ。運のあるなしだと言ってしまえばそれまでだが、なぜその運が、自分ではなく、守谷のほうへ行ったのかと考えると、無限の嫉妬地獄へ落ちてしまうので、北澤は極力、そう考えないようにしていた。
 一本のラインを挟んで、その前に出た者と、未だにその後ろに留まり続ける者。北澤はただ、前に出た守谷の背だけを見ていたかった。守谷が振り返り、無邪気な笑顔を向けてくるのを、ラインの後ろで見たくはなかった。そういうふうに気を使われるのは、かえって鬱陶しくてたまらない。

「やっと一枚売れた。東京の画商だ。これからも、定期的に絵を見せてくれってさ」
 守谷が朗報を持ってきたのは、正月もあけてすぐの頃だった。渡瀬に《マリカ》を見せて貰ってから、まだ三カ月もたってはいなかった。
「定期的にっていうのは、いいものがあれば、その都度、買ってくれるってことなのか」
「たぶんね。こっちは全国展の入選通知だよ」
 第一席や文部大臣賞ではなかったが、幾つかの入選作の中に守谷の絵が選ばれたのだ。かろうじて引っかかった感じなんだろう、と守谷は言った。自分では、まだ不本意な部分があった作品だったから、と。
 北澤は素直におめでとうと言った。そうしなければ、自分の足元が崩れ去ってしまいそうな気がしていた。 北澤のほうは、たいした収穫もなしに年を越していた。仕事は相変わらず忙しく、暇を見つけて書いていたルポルタージュは使い物にならなくなった。ルポルタージュの公募入選者の作品が、彼の書いていた原稿の内容と、ものの見事に一致していたのだ。こうなると、全く視点を変えて書き直さなければならないし、先発作品が見落としている事実を拾いあげてゆく作業も必要になってくる。手間のかかる作業に、更に、時間と知力と体力が要求されるようになってしまったのだ。発表の先を越されたのは、やはりショックだった。
 東京で売れた絵の写真を見せて貰った時、北澤は一瞬「おや?」と思った。
 そこにあったのは、いつもの守谷の絵ではなかった。珍しく、女性のポートレイトを描いた作品だった。画材はアクリル樹脂絵具で、大きさは20号ぐらいか。赤を基調にした色彩は、絵画全体を眩しく輝かせ、描かれた女の黒い髪と白い肌を、強烈に印象づけていた。幻想的というよりも、たおやかで美しく、限りなく優しい雰囲気の絵だった。
 ああ、何か一つ山を越えたんだな。北澤は単純にそう思い、それからふと感じた。守谷の奴、ひょっとしたら、誰かに恋をしてるんじゃないだろうかと。

「いいじゃないか、金ならわたしが貸すぞ。まず、クレーから始めてみないか。面白いぞ。標的が空中で木端微塵になると、スカッとするんだ。ストレスなんか、一発で吹っ飛んじまう」
 北澤は、渡瀬の強い勧めを丁重に断った。これ以上、渡瀬に借金をするのは気がすすまなかった。渡瀬は、邪気のない親切心で金を貸してくれる人間ではない。必ず交換条件を言い渡してくる。利子を取らないかわりに××してくれ、××を見繕ってくれという要求を、北澤は何遍呑んできたことだろう。その都度ツテを頼り、時には自分一人で何とかし、渡瀬の望みに応えてきたのだ。
 渡瀬は、自分の欲望に忠実な人間だった。欲しいものは、必ず手に入れるべく行動した。犯罪同然のあぶない橋を、北澤も渡瀬も何度渡ってきたかわからない。それでも尚、北澤が叔父から離れられなかったのは、取材費・生活費・遊ぶための金が欲しかったという、ただそれだけのことだった。人のことなど言えた義理ではない。自分も叔父と同じだ。自分が手に入れたいと望むもののために、薄暗い隘路を歩くことを厭わないでいるだけだ。
 渡瀬の誘いを適当にはぐらかすと、北澤はいつもの癖で、飲み干したビールのアルミ缶を、ぎゅっと握り潰した。これが最後の一缶だった。渡瀬はとっくにウーロン茶に切り替え、アルコールを醒ますかの如く黙々と飲んでいる。
 守谷はバーボンに切り替え、ストレートで飲んでいた。
 渡瀬は、にこやかに笑いながら言った。
「わたしの知人で、春先に君の絵を買っていった奴がいるだろう。家に飾ってたら、目の利く人間から誉められたそうだ。雑誌に載ってた君の写真とインタビュー記事を見せて、大いに自慢したそうだぞ。どこの取材を受けたんだ?」
「たいしたものじゃありません。公募情報誌の、入選者インタビューのコーナーに載ったんです」守谷は照れたような、それでいて自慢げな表情で笑ってみせた。「今までは、美術雑誌の入賞者一覧に、小さく名前が並ぶだけでしたからね。記者から電話が掛かってきた時には、吃驚しましたよ。最近は、どんなことでもインタビューに来るんですね。結局、あのあたりが転機になったんですが……」
「君には、もっと有名な絵描きになって貰わなきゃなぁ。大家の初期作品ってことになると、将来、高値で売れるんだろう? あれぐらいの小さな絵でも、何百万もの値打ちが出る」
「それは、ものすごく有名な絵描きになった場合だけですよ」守谷は笑った。「今のぼくのキャリアじゃ、壁半分塞ぐくらいの大きな作品を描いたって八十万そこらの値段です。1号が何万円もするような巨匠にならない限り、渡瀬さんのお友達が自慢できるようには、ならないと思いますが」
「でも、なってみせる自信はあるんだろう」
「勿論ですよ。ぼくは絵描きになることだけを考えてやってきたんだから、これで駄目なら、首を吊るしかありません」
「あはは。あんまり思い詰めんでくれよ。才能のある人間ほど早死にする、という言葉を思い出すじゃないか」
「思い詰めてるんじゃなくて、本気なんです」
「……まぁ、幸運は、とりあえず君のところへ巡ってきたわけだし、あとは、運勢が開花してゆくのを、ゆっくりと待てばいいんじゃないかな」
「ええ。努力ばかりしていた時期を、僕は、ようやく越えたんですね。これからは、運や状況、いろんな要素が僕の背を押してくれることでしょう。これで、ちょっとは楽になれたのかな」
 守谷はボトルを引き寄せ、からになったグラスに琥珀色の液体を注ぎ込んだ。自分を縛りつけていたものから解放されたような顔つきで、旨そうにあおった。
 北澤は低く呟いた。「努力はどんな時でも必要だぞ。忘れれば必ず足元を掬われる。どんなに有名になったとしても――」
「わかってるさ」守谷は、当然のことだと言わんばかりに続けた。「でも、人間、やっぱり努力だけでは駄目なんだ。最後には、運の強さがものを言うんだな。誠実に仕事を積み重ねてるだけじゃ、誰も振り向いてくれやしない。何か、ぱっと目立つような際立った出来事がなければ、一流の仲間入りはできないんだよ」
「何を言ってるんだ。誠実に積み重ねているからこそ、いい運も巡ってくるんじゃないか」
「突っかかるなよ。だったらそれを証明してくれよ、おまえ自身の体験で」
 北澤は思わず言葉に詰まった。言い返そうとした――が、できなかった。守谷の言っていることが当たっているだけに、目が眩むほどの怒りを覚えた。守谷に対してだけでなく、自分自身に対しても。
「まあまあ、二人ともよさないか」渡瀬が間に割り込んだ。「人生は長い。最後に誰が勝つかなんてことは、神様だってご存知じゃないだろうさ。それより守谷くん、今度の射撃大会のことなんだが……」
 その会話がきっかけになって、渡瀬と守谷は、射撃の話に熱中し始めた。
 守谷は、射撃の専門用語や身ぶり手振りを交えつつ、クレーや狩猟の話を、渡瀬と共に延々と話し続けた。それからまた絵の話に戻ってきて、展覧会のことや、画廊主や他の画家の反応に関して、こと細かに話し始めた。
 北澤は、守谷とつき合っているわりには、絵の販売についてはよく知らない。たまにふらっと訪れる展示場で、両方の掌を合わせたぐらいの小さな絵が十万円単位で売られているのを見て、いったいどこの誰がこういうものを買ってゆくのだろうか――と、ぼんやりと考えてみたりするだけだ。
 守谷がそういう世界の一角に身を置いていること、そこで成功しかかっている話を、北澤は何か、現実離れした出来事のように聞いていた。北澤にとっての守谷光二は、今でもまだ、雑誌でわかりやすい仕事をしていた頃の守谷光二であって、絵描きの守谷光二ではなかった。
 それは、友人の出世を現実のものとして把握できない、狭量な人間のひがみに他ならなかったが、幸い北澤の頭には、それを認めるだけの冷静さが多少は残っていた。が、無論、事実を認めることと、己の感情の浄化や昇華とは別問題だ。わかっている分、むしろ苦痛はひどかった。みじめだった。親友に嫉妬している自分の感情を、北澤はビールの酔いと共に持て余していた。美しくたおやかに変化した守谷の絵。彼の上に訪れた幸い。舞い降りたミューズ。自分には、いったい、いつチャンスが巡ってくるのだろう。一年先か十年先か。あるいは一生、夢見るだけで終わるのか。
 北澤は、バーボンのボトルに手を伸ばした。自分もストレートで飲み始めた。喉を焼く刺激の心地良さが、ついペースを上げさせた。
 酔いの向こうに、渡瀬と守谷の会話が溶けてゆく。眩暈がして、天井が、ぐるぐると回り始めた。酒で嫉妬を焼き尽くしてしまうのだ――。そう思って、なおもグラスに酒を注ぎ続けたが、手が震えてうまくゆかず、ボトルを握ったままテーブルに突っ伏してしまった。そして起き上がれなくなった。頭痛がひどかった。こんなにひどい飲み方をしたのは、久しぶりだった。
 渡瀬と守谷の会話が、ぼんやりと鼓膜を叩いた。
「今夜は、ここに泊まってゆくのかね」
「ええ、でも北澤をどうしましょう。このまま、置いておくわけにもゆかないし」
「わたしが車で運んで行くよ。そのために、ウーロン茶で酔いを醒ましてたんだ」
「すみませんね」
「いいさ。それより一晩、ゆっくり彼女と楽しむんだな。明日も休みなんだろう?」
「あはは。照れるようなことを言わないで下さいよ。渡瀬さんだって、今まで、ここで散々――」
「あいつは魔物みたいな女だからな。一度肌を合わせれば、離れられなくなっても当然さ」

(4)

 渡瀬が北澤をつれて車を出したあと、守谷はログハウスのテラスで椅子に掛け、酔いをがさめてくるのをゆっくりと待った。
 周囲の樹木の間から、夕暮れ時の柔らかな光が差し込んでくる。微かに暖かい陽射しは、赤く燃えながら山の端に落ちてゆく、見えない太陽の存在を感じさせた。
 斜めに差し込んでくる西日は、やがて急速に力を失い、冷え冷えとした空気があたりに漂い始めた。その頃になっても、守谷はまだ、テラスでじっとしていた。初冬の星座が昇ってくるまでのひととき、未だに天空に留まり続ける夏の星座――北十字の優美さに見惚れ、その先端が浸っている筈の銀河のきらめきを、実際に目で見える暗さになる前に、頭の中で想像した。
 ログハウスの中へ戻ると、暖炉のある部屋で夜が更けるのを待った。
 薪をくべることのできる本格的な暖炉は、元の持ち主の趣味でつけられたものだ。渡瀬もそれを気に入っており、きちんと管理しながら使っていた。渡瀬は、まめな作業が好きだ。もし芸術家になっていたら、自分よりも丁寧に仕事をする人間になっていたのではないかと、守谷は思うことがある。
 本格的な寒さの時期にはまだ遠いが、風邪をひいてはつまらないので、守谷は暖炉に火を入れた。オレンジ色に燃える薪が出す熱気と、木の焼ける匂いは、染み込むように身体に心地よかった。酒はもう必要なかった。すでに充分に飲んでいる。今は、穏やかに過ごしたいだけだった。
 守谷は思った。今日は、北澤に冷たくあたり過ぎてしまったかもしれない。あいつが、あんな酔い方をするのは珍しい。そこまで追いつめるつもりはなかった。彼を言い負かすつもりもなかった。ただ、今日、ここで一人になれる時のことを考えると、つい気持ちが高ぶってしまったのだ。
 ようするに、おれは一刻も早く一人になりたかったのだ――と結論し、守谷は、他人には見せられないような、歪んだ表情で苦笑いを洩らした。北澤を早く帰らせたかった、その気持ちが言葉に刺を持たせてしまったのだろう。悪いことをしてしまった。だが、もう済んだことだ。あいつは、いつまでも根にもつタイプじゃない。そのうち、今日のことは忘れてくれるだろう……。
 守谷は、暖炉の脇の安楽椅子に腰をおろした。背もたれに体を預け、うとうとしながら、時が流れるのを待った。

 室内の熱さと、仮眠のあとのけだるさに目が覚めたのは、三時間ほど後のことだった。
 眠り過ぎだ――。
 守谷は椅子から飛び降りた。彼女は多分もう来ている。時間を無駄にするわけにはゆかない。
 守谷が寝室へ行くと、女はいつものように、ベッドの上に横たわっていた。全裸でうつ伏せになり、静かに寝息を立てていた。
 そっと室内に足を踏み入れると、守谷はしばらくの間、女の姿を黙って眺めていた。手で触れるかわりに、視線で彼女の肌をゆっくりと愛撫した。彼女の全身は、室内の灯りを吸収して放出しているかのように、うっすらと発光していた。それは寝息に合わせて、ゆるやかな明滅を繰り返した。
 豊かな起伏と滑らかな肌の質感を、彼は、脳の中のクロッキーブックへ、舐めるように丁寧に描き留めた。何度見ても初々しい彼女の身体。そして、その内部で逆巻いているに違いない、燃えたぎる血と深い情念。彼女を描くだけで、百枚、千枚の違った絵が描けそうだと守谷は思った。
 守谷がベッドの端に腰をおろし、スプリングが軋んだのと同時に、女は身じろぎして目を開いた。ショートボブの髪を揺らしながら顔を上げ、仰向けになった。豊かな胸と、腰から下の全てが露わになった。
「……ごめんなさい。わたし、また眠っていたのね。どれぐらいの間?」
「大丈夫。今来たところだから」
「わたしが眠っている間、ずっと見ていたの?」
「ああ」
「……恥ずかしいわ。みっともない真似をしていなかった?」
「そんなことはない。綺麗だったよ。何と言えばいいのかな……。蛍みたいに、体全体が光ってた。起きている間は、光らないのかい?」
「自分がどうやったら光るのかなんて、わたし知らないわ」
「そうか。でも、とても素敵だったよ」
「どんなふうに?」
「うん。たとえば天の河を見ている時に綺麗だなぁと思ったり、生まれて初めて玉虫のメタリックな色合いを見た時に感じた驚きや、理科の実験で、マグネシウム・リボンが燃えるものだと知った時の感動――そんな感じに近いかな」
「何だか、人間以外のものを見た時の感動と、同じように言うのね」
「仕方がないよ。君は人間を超越した存在なんだから。ヒトの形をしているくせに、中身はヒト以上なんだ……」
「『以上』ということはないわ。わたしはただ、この世で、あなた達とは違う働きを、担っているだけなんだから……」
「何でもいいよ。それより、今日も見せて貰えるのかな」守谷は女の手をとり、口づけした。「君だけが知っている世界。おれが知らない、広大な世界の秘密を」
「ええ。見せてあげるわ」女は、守谷の全てを受け入れるように微笑んだ。「いくらでも見せてあげるわ。さあ、わたしの中へ入ってきて。好きなだけわたしを味わって。わたしの体を通じてあなたが見るものは、全て、最初からあなたに約束されているもの。だから、幾らでも持って帰っていいのよ。好きなだけ、自分のものにしていいのよ……」
「ああ、そうするよ。そうせずには、いられないんだから――」
 守谷は女の上に覆い被さった。二人はシーツの上で柔らかく抱擁を交わした。女の指は守谷のシャツのボタンに伸び、守谷の両手は、女の胸から腹、腹から腰へと優しく撫でながら、しっとりと熱を帯びた大腿部へと滑り降りていった。
 女は身を捩りながら、次第に、体全体を桜色に染め始めた。守谷は、前のはだけたシャツをもどかしく脱ぎ、スラックスをベッドの脇へ投げ捨てた。裸になって、再び、彼女ともつれ合った。唇で愛し合い、肌で愛し合った。お互いの敏感な部分に触れ、切ない吐息と喘ぎ声を洩らし合った。
 ああ、見えてきた――と守谷は思った。全身を、波のように駆け抜けてゆく心地よさに翻弄されながら。おれのために約束されている未来、おれがなすべきこと。何を描けばいいのか、何を描けば売れるのか。どんなものが皆から求められているのか、おれはどんな絵描きになればいいのか。
 形のない色彩と、瞬間瞬間に形を変えてしまう様々なイメージの激流。それが、守谷の頭蓋骨の中を反響した。彼は必死になって、そのイメージを、頭の中のF15号大のスケッチブックに描き殴る。イメージの断片から、またたくまにエスキースが作成され、主線が形を成し、色とりどりに彩色されるが、出来上がった絵は出来た時と同様に、あっというまに粉々になって消え去ってゆく。そして、また別のイメージが、頭の中で形を取り始める。一番良いものはどれなのか、脳の中の制御のきかない部分が、次から次へと試作しているかのように。
 その過程の激しさに、彼は翻弄され、ボロボロになりかける。が、意志の力でその流れを見極め、流れに乗り、力の続く限り試みを繰り返す。繰り返しているうちに、体が、甘い蜜の中に浸っているような快感を覚え始める。突如として感受性のレベルが跳ね上がり、全てが弾ける瞬間まで、彼は全身でそれと格闘し、それを味わう。
 可能な限り、記憶に刻み込んで持ち帰るのだ。交わりが終わればイメージは拡散してしまう。だから消すな、この素晴らしい体験から得られる記憶を! 自分が味わっている世界の、色と味と、匂いと痛さを。自分に約束されている可能性の全てを。「未来に描くかもしれない作品」の全てを。彼女の体を通して、自分の感覚が、広大な空間に向かって開かれている間に、おれは、そいつを持ち帰るのだ。
 全部持っていっていいのよ、と女は繰り返す。生活の厳しさの中で人々が求めているもの、芸術という領域に人々が期待するものを。あなたが描くべきものを拾ってくるのよ。何が見えるの? 何が感じられるの? わたしの中であなたが獲得するもの――それは、あなたに創造の種子を与えてくれる。創造の源を潤してくれる。あなたの未知の領域を押し広げ、古いあなたを粉々に打ち砕いてくれる。新しいあなたの礎石となる――。
 背中と腰の筋肉に力を入れ、身を反らしながら、守谷は、女の中で最後の瞬間を迎えた。暴れ狂う快感が脳へと突き刺さる。細やかな痙攣が、背筋に沿って這い昇る。呻き声と共に彼女の中へ放出した、灼けつくような情熱と引き替えに彼が得るものは、真っ赤な瑞々しい血が通った、この世にただ一つの芸術の種子。心の底から人々を震わせ、感動させ、時には怯えさせもする、彼にしか作れない作品の原型のかけら――。

(5)

 渡瀬のログハウスで、みっともない酔い方をしたあと、北澤は、叔父の手助けで自宅に運び込まれた。
 悪酔いはしていたが、食べたものを全部吐いてしまうほど、彼は酒に弱くはなかった。ただ、頭痛がひどかった。締めつけられるというよりも、半ば殴られているような頭の痛みに、ベッドの上でのたうち回らねばならなかった。
「真面目にやり過ぎてるんじゃないのか」からかっているのか、本気で心配しているのか判別がつかないような口調で、渡瀬は言った。「仕事もライフワークも適当に手を抜くことだな。守谷くんを見ろ。実に器用に立ち回っているじゃないか」
「守谷と比べるのはやめて下さい」北澤は、吐き捨てるように言った。「頭痛がひどくなる……」
「彼に勝ちたいか、隆史」
「……まあね」
「だったら、勝てる方法を教えてやろう。そうすれば、ベッドでダウンしているのは、おまえではなく、守谷くんのほうになるだろう」
「その気があれば自分で実行していますよ。変な妄想は吹き込まないで下さい。吐き気がする」
「気弱だな」
「それだけが、おれの取り柄ですから」
「憎んでみたいとは思わないのか、守谷くんを」
「どうして? そんなこと、意味のないことでしょう」
 守谷は叔父さんとは違うんだ、北澤はそう言いたかったが、あえて口をつぐんだ。
 北澤は、守谷の作り手としての誠実さに尊敬を覚え、人間的な魅力に惚れ込んでいた。守谷は持っている。どんなものの中にも美を見い出すことのできる才能を。人々が見過ごしている些細なものや、目をそむけてしまうような醜いものの中にも、普遍的な美が存在していればそれを見抜き、抽出し、作品という形で結実させる能力を備えている。その美しく大らかな存在を、どうして、おれが自分で叩き壊さなければならないんだ? つまらない嫉妬や、競争心から……。
 渡瀬が、しきりに何かを提案していたように思えたが、その直後から、北澤の記憶は完全に途切れた。
 不甲斐ない甥を放置して早々と引き上げてしまったのか、翌朝、渡瀬の姿は室内のどこにもなかった。泊まっていった形跡すらなかった。
 叔父にも、見捨てられたのか……。
 北澤は、よろよろと起き出して、冷蔵庫にあったペットボトル入りのスポーツドリンクを、がぶ飲みした。
 それからベッドへ戻り、思った。
 ――書かなければならない。名誉や成功のためなんかではなく、自分自身のためにだ。
 ここでやめたら、自分は、守谷と友人でいることすらできなくなってしまうだろう。勿論、それでも構わないとも言えた。自分には運も才能もないのだと、全てを捨ててしまうことも一つの生き方だ。だが、そんな選択をすることは、北澤にとって、今の苦境よりも恐ろしいことだった。自分の未来に対して、何も望まず、何も期待しない生き方――。それは、もしかしたら、静かな悟りに満ちた、充実した生き方なのかもしれない。生きるための知恵に満ちた、新しい道への最短距離――。だが、刺激と情熱を常に求め続けてきた彼にとって、それはあまりにも味気ない人生に思えた。想像するだけで背筋が寒くなった。恐ろしさのあまり、けたたましく笑い出したくなるほどだった。北澤にとって、そんな生き方は、死んだも同然の生き方だった。それならまだ、失意に狂って自滅してゆくほうが、よほど人間らしい生き様のように思えた。
 勿論、だからといって、意図的に坂道を転落してゆくつもりはなかった。北澤は思った。道は一本ではない、そのうち何とかなるだろう。脇道や寄り道を見つけながら進んでゆくのは自分の特技の一つだ。おれは、それでゆけばいい。

 翌日から、北澤は自分の日常に戻った。昼間は雑誌社の仕事に走り回り、夜や週末には、ICレコーダーに吹き込まれたインタビューの書き起こしを行った。
 ルポルタージュの執筆のため、毎日、夜中までパソコンのキーを叩いた。石のように固く張りつめた肩の筋肉をほぐすため、ストレッチ運動をしては、濃いコーヒーを飲み、疲労で鈍りがちな頭を目覚めさせた。
 書いている間だけは、何もかも忘れることができた。昼間の仕事のことも、叔父のことも、守谷のことすら。時々、自分は壮大な時間の無駄使いを――意味のないことを積み重ねているだけなのではないのかと思えることもあったが、人間、誰しも無駄なことばかりやっているのだと考え、気を取り直した。
 何日か後、北澤は、書店で一冊の美術雑誌を見かけた。関西の若手画家十人を特集した号だった。その取材相手の一人として、守谷が選ばれていた。ページをめくると、中には、自分の絵と一緒に写っている彼がいた。そして、半ページほどにわたるインタビュー記事。守谷は、自信に満ちた口調で、自分の芸術観と、これからの目標を語っていた。自分の才能を全開にして、語り尽くせない情熱を溢れさせていた。
 北澤はその雑誌を買い、自分の家で何度もページを眺めた。胸に迫ってくる何かを感じ、心が大きく揺れ動いた。
 飽きるまでその記事を読み、隅々まで記憶してしまうと、彼は雑誌を、書棚の奥に押し込んだ。それから自分のパソコンに向かって、猛烈な勢いで、自分の原稿を書き始めた。
 自分が今、ここでこうしていられるのは守谷のおかげだ、と彼は思った。守谷が先を走っているからこそ、自分も、その背を追って、前へ進もうとしているのだ――と。

(6)

 一年以上の歳月が流れた。
 絵が売れるようになってからの守谷は、北澤とは、あまり会わなくなっていた。かつては自分と一緒に飲んでいた時間を、今では、画商や新しい仕事仲間と共に忙しく過ごしているのだろう。北澤はそう判断し、積極的に彼を誘うことを控えていた。ただ、時々、彼宛てに書き送る電子メールの中で、機会があればまた会いたい、いつでも飲みにゆこう、と書くことだけは忘れなかった。
 北澤自身の生活に変化はなかった。雑誌社での多忙さは相変わらずだったし、自分のルポルタージュが売れるなどという幸運にも、まるっきり恵まれなかった。が、そのことに、以前ほどの不満は感じていなかった。嫉妬と羨望の対象が目の前から消えたことで、気分が落ち着いたのかもしれない。あるいは、日常の仕事が忙し過ぎて、そういうことにエネルギーを回す余裕がなくなったせいかもしれない。そういう意味では、忙し過ぎる自分の職種と、守谷と疎遠になっていることに感謝せねばならなかった。そんな自分の弱さに後ろめたさを覚えないでもなかったが、後ろめたいところのない人間などこの世には存在しない、と思っている彼にとって、それは別に恥ずべきことでも、唾棄すべきことでもなかった。勿論、誇るべきことでもなかったのだが。
 少なくとも、余計な回路にエネルギーを送り込んで、オーバーヒートを起こすよりは、よほどマシに思えたのだ。それは北澤にとって、ささやかだが、いずれはどこかで得る必要のあった、大切な教訓の一つだった。

 そんな頃、北澤の元へ突然、守谷から電子メールが届いた。「会いたい」というメールだった。久しぶりに飲んで騒ぎたい――というようなことが書かれていた。
 北澤は、素直にそれに応じた。嬉しかった。守谷が自分を忘れないでいてくれたことが。
 二人はJRの駅前で待ち合わせ、馴染みのパブへ足を運んだ。
「悪いとは思ってたんだが、仕事が忙しくてな」
 久しぶりに会った守谷は、昔の彼とは、随分雰囲気が違っていた。元々端正な男だったのが、今では、大輪の華が開いたように垢抜けた雰囲気に変わっていた。服装のセンス、世間慣れした物腰と表情。以前より、はるかにとっつきが良くなった分、容易に本心を見せない、したたかさも備えているように思えた。地味な誠実さは影を潜め、代わりに、抜け目のなさのようなものが時々滲み出る。北澤は、そのこと自体に不快感を覚えたりはしなかった。ようするに、守谷も年相応に草臥れてきたのだろうと思っただけだった。加齢は人を嫌でも変えてしまう。自分も守谷も、もう、青年期を終えようとしているのだなと、しみじみと感じた。
 二人はボックス席に座り、スコッチを、オンザロックで注文した。
「なんだか、十年ぶりぐらいに会ったような気がするな」守谷が言った。「でも、おまえは全然変わってないんだな。一緒にいると、何だか、とても懐かしい場所へ帰ってきたような気がするよ――」
 守谷は自分の近況について、どんどん話した。自分の絵の値段のこと、雑誌社のインタビューを受けた時のこと、気に入らない取引先と喧嘩をした時のこと、以前から欲しがっていた高価な絵の具を購入して作品を描いた時の喜び――。話題は、ひっきりなしにあちこちへ飛び、目まぐるしく展開しながら続きに続いた。
 さすがに、自分から呼び出しただけのことはあるな、と、北澤は半ば呆れながら話を聞いた。守谷は自動機械のように喋った。不自然なぐらいに陽気だった。
 最初のうち、北澤は彼の話に集中していた。吃驚したり、感心したり、大笑いした。だが、一方的に喋り続け、こちらの話をあまり聞こうとしない守谷に、次第に抵抗を覚え始めた。
「なぁ、守谷」
「何だ」
「今話した題材について、どう思う? ルポとして売る価値があると思うか? もしおまえが読者だったら、絶対に、本屋のレジまで持ってゆきたくなるような内容だと思うか?」
「うーん、難しいなぁ」守谷は、面倒くさそうに答えた。「おれ、活字出版のことはよくわからないんだよ。専門家に聞いたほうがいいんじゃないの? それより、おれ、このあいだニューヨークで建築家のパーティーに出席してきたんだけど、そこで、ものすごく変な男に会ってなぁ……」
 華やかな生活をしている分、守谷のほうに話題が多いのは理解できた。が、北澤自身、守谷と話したいことはたくさんあった。相談したいことも山ほどある。なのに耳を傾けようとしない守谷に、北澤は苛立ちを覚え始めた。解決したつもりだった羨望と憎悪が、自分の中で、再び鎌首をもたげつつあるのを彼は感じた。どういうつもりなんだ。まさか、自慢話をするために、おれを呼んだわけじゃないんだろうな? それとも、おまえの人生と比べたら、おれのは退屈で聞いてられないということなのか……。
 オンザロックを何杯も重ね、守谷は機嫌良く酔っていたが、そのうち疲れてきたのか、さすがに口数が減ってきた。北澤も、いい加減うんざりしていた。一方的に話を聞くのが、こんなに大変だとは思ってもみなかった。
 北澤は時計を見た。終電までにはまだ間があった。彼はふと、守谷を追いつめてみたくなった。多少の悪意を交えて。逆襲のつもりで。
「おまえ、今でも山へ鳥を撃ちにいってるのか」北澤は、さり気なく切り出した。
「ああ」守谷は欠伸しながら答えた。 「叔父と一緒にか」
「一緒の時もあるし、一人の時もある」
「金が掛かるんだろう。猟をするのって」
「困らないぐらいの収入は、ある」
「一人で、ログハウスに泊まったりとかもしてるのか」
「たまにはな」
「何をしてるんだ。そういう時には」
「別に……。星を見たり、本を読んだり――」
「星か。懐かしいな。夏になったら、おれも一緒に泊まらせてくれよ」
「……」
 守谷がふいに黙り込んだ。北澤は彼の心中を量りかねた。以前の守谷なら、こういう時にはすぐ、「ああ、いいとも」と、笑顔と共に答えてくれた筈だ。なのに今日はそれがない。何かを隠しているのだろうか? 勘を働かせ、北澤は意地悪く追求を続けた。「なるほど。さてはおまえ、あそこを、ラブホテル代わりに使ってるんだな。だから、女の子以外は連れて行きたくないんだろう。ひどい奴だなぁ。あれは叔父の私物なんだぞ。ちゃんと、許可貰ってやってるのか?」
 突然、守谷がムッとした表情を見せた。「当て推量で物を言うのはやめてくれないか。おれは、おまえの雑誌の取材相手じゃないんだぞ。下品な言い方をするのはやめてくれ」
 無論のこと、北澤はやめる気などなかった。素直に謝ればまだ引き返せる段階だったが、逆に、今まで以上に嫌味を込めて言い返した。「下品で悪かったな。だが、本気で怒ることはないだろう。ただの冗談じゃないか。それとも図星だから怒ってるのか? おれはおまえを取材しているつもりはないし、その女を紹介してくれなんてことも言ってやしないだろう。だが、隠すことはないじゃないか。それとも、隠さなきゃならないような相手なのか? 人妻だとか、未成年だとか、金目当てで寄ってくる類の女だとか――」
「よせと言ってるだろう、彼女はそんな女じゃない!」
 守谷は、北澤の予想以上に怒って、彼の胸倉を掴んだ。やっぱり女がいたのか、と思って北澤は満足し、にやりと笑った。むやみに騒いだりせず、じっとしていた。守谷が、周囲の客達の目を気にし始めるのを待った。が、守谷は興奮を納めなかった。ちょっとまずかったかな、と北澤は思った。いつもはどんなに飲んでも冷静な守谷が、今日に限って随分荒れ気味であることに、北澤は遅ればせながら気づいていた。冷や汗が背中を流れた。どうやって宥めたものかと、酔いで鈍った頭を回転させた。
 守谷は荒っぽい口調で言った。「取材しているつもりはないと言ったな、北澤。でも、今のおまえの口振りは、芸能リポーターの喋り方とそっくりだぞ。仕事と私生活の会話の区別ぐらいはつけろよな。失敬な」
 守谷は、北澤をソファの背に突き飛ばした。周囲の目が気になったのは北澤のほうだった。カウンターで心配そうな顔をしているバーテンダーに、北澤は「何でもないんだ」という意味の言葉を目で送った。バーテンダーは行儀良く視線を逸らし、掌の中のオンザロック用の大きな氷を、アイスピックで砕き始めた。
 ソファの上で座り直すと、北澤は上体を前へ傾け、テーブルの上で掌を組み合わせた。少しだけ笑ってみせながら言った。「……仕事柄、いろんな奴からいろんなことを言われるが、まさか、おまえにまで芸能リポーターよばわりされるとは思わなかったよ。ちょっとショックだったな。そんなに気を悪くしたのかい。おれは、冗談のつもりだったんだけど」
 守谷は沈黙していた。厄払いでもするように、荒々しくグラスの酒をあおった。
 北澤は続けた。「昔はおれ達、女のことでも気兼ねなく話し合ってたじゃないか。困ったことがあったら、お互い知恵を出し合って。おれは、そのつもりで――」
「そうやって、面白おかしく、お互いの境遇について語り合う時期は、もう過ぎてるんだよ……」
 守谷が、アルコールで潰れたような声で、ぼそりと呟いた。店内の照明が、ふいに暗さを増したように感じられた。北澤は、苦い果実を奥歯で押し潰した時のように、寂しさを一人で噛み締めた。
「それに彼女は」と、守谷は少しだけ口調を和らげた。「そういう話題を、おまえと共有するほど俗な存在じゃないんだ。おれにとって彼女は人生の全てだ。いや、人生そのものだと言っていい」
 眩暈がした。どうやら自分は、結婚でも守谷に先を越されることになるらしい、と気づいた北澤は、嫉妬半分、羨望半分の気持ちで言い返した。「わかったよ。悪かった。何でも好きなようにやってくれ。だが、おれ達は長年つき合ってきた親友じゃないか。言葉は選んでくれよ。これじゃあ、祝いの言葉を言う気にもなれやしない」
 守谷は頬杖をつき、掌で顔を撫で回しながらくすりと笑った。「親友か……。だが、おまえがおれのことを良く思っていないのは、おれも自分でよくわかっているよ」
 北澤は穏やかに問い返した。「どういう意味だ」
「おまえから見て、今のおれは、どんなふうに見える? 売れっ子の仲間入をした新鋭若手画家か? 世渡りの上手なイラストレーターか? 自分の夢を叶えて、別世界へ飛び立っていった憧れの友人か? アハハ、違うね。全然、当たっていない」
 守谷は、テーブルの端に置いてあったマッチに手を伸ばした。煙草を吸うわけでもないのに、紙マッチを一本むしり取って火をつけ、指先が焦げそうになるまで、その焔をじっと眺めていた。
 北澤が注意すると、彼は灰皿へ燃えカスを落とした。そして、また同じ動作を繰り返した。
「最近、売れてないんだ、おれの絵」
 マッチを擦り続けながら、守谷は投げやりに笑った。「売れたのは最初の一・二年だけ。あとは全然さ。ホームページのデザインを請け負っている時のほうが収入があるぐらいだ。フリーの絵描きっていうのは、本当に大変だな。こんなこと、始めなきゃ良かったとすら思ってるよ」
 北澤は絶句した。目の前が一瞬、大きく揺れた。「でも、雑誌に特集が載ったりしてたじゃないか……」
「だからって、急に絵が売れるわけじゃないよ」
 いつのまにか、守谷の顔からは笑みが消えていた。代わりに、陰欝な影が徐々に広がりつつあった。しまった、こんな話題を喋らせるんじゃなかった、と北澤は後悔したが、もう遅かった。守谷は次第に、彼の目の前で心の淵を広げつつあった。親しい間柄と思って安心したのかもしれない。が、この手の感情がひどくやっかいなものであることを、北澤は自分でも、嫌になるほどよく知っていた。この種の愚痴は、言えば言うほど、言った人間から生きる力を奪ってゆく。そして、生きる力を失ってゆくことほど、物を作っている人間にとって恐ろしい敵はないのだ。
「おれだって、頑張らなきゃなぁとは思ってるんだ」守谷は、目を瞑ったまま呟いた。「こんなのはよくあることだ。こういう地味な期間を我慢しているうちに、またいい時期も巡ってくる――」
「そうだよ」北澤は、守谷がある程度わかっていることを知って安堵した。「まだ先は長いんだし、おまえぐらい実力があれば」
「頭ではわかってるんだ。だが、体のほうがついてゆかない。イライラして集中力がなくなってくる。夜眠れない。やらなければならないことは山ほどあるのに、気持ちがうまく乗ってゆかない。嫌になる、何もかも。周囲にあるものを、手当たり次第にぶち壊してやりたくなる。街路樹で雀が呑気にさえずっているのを見ると、捕まえて、絞め殺してやりたくなるんだ」
 刺々しい口調の裏で、心が激しく揺れ動いているのが、北澤にも感じられた。何と言って慰めればいいのか、言葉に迷った。
 今夜の守谷の陽気さは、不安から逃れるための必死の抵抗だったのだ。笑って帰りたかったのだ、守谷は。親友から境遇を誉めて貰い、喜んで貰い、気持ちよく酔っぱらって……。久しぶりに酔って騒ぎたい、そう書いてきたのは守谷のほうだった。甘えたかったのは、守谷のほうなのだ。
 それを、彼の弱さだと非難することはたやすかった。何を贅沢なことを言ってるんだ、甘えるな、ちゃんと自分の足で立て。そう言ってやるべきだった。突き放すべきだった。何かを得た者のそれは当然の義務であり、支払うべき代償なのだから。勝ちっぱなしの人生など、あるわけがない。
 だが、できなかった。少し前まではそのつもりでいたくせに、自分の気の弱さを、北澤は心底嫌悪した。
 守谷は、紙マッチを全部擦ってしまうと、酔いで潤んだ眼で北澤をじっと見た。「……北澤。おまえだって本当は、おれのことを、たいしたことのない奴だと思ってるんだろう? 調子に乗って飛び出したものの、力が足りなくて転落したみじめな奴だと思っている。いい気味だと思って蔑んでるんだ。いや、絶対にそうに違いない」
「何を言い出すんだ」困惑が、北澤の胸を詰まらせた。「もう帰ろう。帰って寝たほうがいい」
「嘘をついてないで、本当のことを言えよ」再び声を荒らげて、守谷が詰問した。それは、彼の内面の悲鳴そのものだった。「おまえは心の底で、本当は、おれのことを馬鹿にしてるんだ。自分のほうが才能がある筈だ、守谷光二が世に出られるぐらいなら、自分が出世できないのはおかしいと考えている。きっとそうだ。親切そうなふりをしてたって、本心では、おれのことを憎んでるんだ。蔑んでるんだ。軽蔑しているんだ――」
「いい加減にしてくれよ!」
 思わず叫び出しそうになったのを、北澤は、かろうじて抑えた。
 嫉妬――。確かに嫉妬した。北澤は守谷の才能に、その運の良さに。彼のような天分が、ほんの少しでも自分にあったらと、どんなに悔しい思いをしたことだろう。だが、だからといって彼を憎んだことなど一度もない。羨ましいとは思っても、馬鹿にしたことなんか一度もない。こいつは何を勘違いしてるんだ。おまえこそおれを蔑んでるじゃないか。生活に流されて敗北した人間として、見下しているんじゃないのか!
「……家……そうだ、家に帰らなきゃ……彼女が待ってるんだ……」
 守谷は思い出したように呟き、よろけながら椅子から立ち上がった。北澤は彼を、すがりつくように見上げた。「守谷。また昔みたいに絵を見せてくれよ。おまえはいつも、新作ができると真っ先におれに見せてくれたじゃないか。おれはここ二年ほど、おまえの絵を全く見ていない。見せて貰っていない。色彩のオーケストラ――。100号の画布いっぱいに描かれていたおまえの魂を、おれは今でも、忘れることができないのに――」
「絵なら、松井画廊のオーナーが何枚でも持ってるよ。行けば、いくらでも見せてもらえるさ……」
 守谷は、自嘲するような笑みを浮かべた。ひきつった頬の筋肉の動きに、疲労と絶望が滲み出た。北澤は、自分の体の中心から湧きあがってくるものに、息がつまりそうになった。怒りとも憐憫ともつかない感情が、胸の中を掻きむしり、暴れ狂った。
 守谷は札入れから一万円札を数枚抜くと、テーブルの上に投げ出して店を出た。北澤はそれを掴んで支払いをし、彼の後を追った。
 北澤から離れたいと思っているのか、守谷は既に、暗い路地をずっと先まで進んでいた。足取りが少し危なかったが、追いついて声をかけても、怒鳴られるだけのような気がして、追うのが躊躇われた。
 諦め、北澤はネオンの洪水の中を一人で歩き始めた。どうせ駅の方向も違うのだ。
 自分の払った飲み代よりも、守谷が置いていった金額のほうがはるかに多かったことが、妙に物悲しかった。

(7)

 翌々日、北澤は守谷の絵を見るために、《ギャラリー松井》を訪れた。
 が、表のショーウィンドウの中にも、画廊内にも、守谷の絵は一枚も飾られていなかった。
 北澤は受付の女性に事情を話し、松井画廊のオーナーに連絡を取って貰った。近くまで出ているだけだからすぐ画廊へ戻る、松井は電話口で、そう返事を寄越したようだった。
 室内の椅子に腰をおろし、飾ってある絵を眺めながらオーナーを待った。北澤が絵を買いにきたと思ったのか、受付の女性が、売りに出ている絵の作者について説明したり、お茶を出してくれたりするので、彼は恐縮した。壁にかかっている絵は、どれもこれも、小遣いで買うにはあまりにも高すぎた。心を揺さぶられる佳品ではあったが、今の彼の生活に、絵を買って楽しむほどの余裕はない。
 松井黎司(まつい・れいじ)は、四十分余りしてから、ようやくギャラリーに姿を現わした。人の良さそうな、太り気味の中年男だった。急いで来たのか、玉のような汗を額に浮かべている。彼が近寄ってくると、周囲の温度が、二・三度上昇したような気がした。
「すみませんね。倉庫へ行って調べてたもんだから、遅くなっちゃって」
 北澤は会社で使っている名刺を出し、守谷の友人だと名乗った。松井は名刺を見るなり、「あ、雑誌社の方。じゃあ取材か何かでこちらへ」
「いえ違います。今日は個人的な用事で来ました。倉庫とおっしゃいましたね。守谷光二の絵はそちらに?」
「ああ、単なるお友達ということですか。じゃあちょうどいい。守谷くんの代わりに、あの絵、持って帰って貰えませんか」
「は?」
「いや、うちの倉庫狭いから。いつまでも預かってるわけにはいかんのですよ。あなた車ですか? じゃあ好都合だ。倉庫から持ち出して貰えませんかねぇ。あるいは、幾らか出してお買いになりますか。それなら守谷くんも喜ぶと思うんですけどねぇ」
 倉庫への入り口は、画廊の裏手にもあるとのことだった。松井はあらかじめそちらで荷物を確認し、表へ回ってきたのだ。北澤は、室内から通じているドアへ案内され、埃っぽい室内へ足を踏み入れた。
 倉庫の中には、荷のとかれていない絵や、展示用に使うワイヤー、額縁、ヒートンやテグスの箱、何が入っているのかわからないダンボール箱が数個。そして、渡瀬のログハウスにいる時に薫るような木材の匂いと、重い甘さを含んだ麻布の匂いが漂っていた。キャンバスの木枠と布地の匂いだ。何度か嗅いだ覚えがある。守谷の家に染みついている匂いだ。
 絵は全部で五枚あった。油絵が三枚、アクリル画が二枚。大きさは全て50号。松井は額縁の箱から絵を取り出し、一枚づつ壁に並べた。北澤は作品を見るなり、思わず、ああ……と声を洩らした。
 うまくなってるじゃないか、守谷!
 昔よりも、ずっとずっと!
 五枚の絵のモチーフは様々だった。まるで描き手が、自分に許されたあらゆる可能性を試しているかのように。溶け合うように描かれた街と森の姿、そこで暮らす人々の姿、樹木に絡めとられそうになっているように見える、繊細な魂の表現体――。
 守谷の描く森は、昔から、形の整った綺麗な森ではなかった。原初的で荒々しく、夜の闇の力を感じさせる――そのくせ、どこか暖かく、見る人の心を和ませるものばかりなのだ。五枚の絵は、全て、その夜の雰囲気を備えていた。力強い生命感に溢れていた。守谷の絵だ――これは守谷光二の絵だ。どれもこれも紛れもなく、守谷の森そのものだ――。
 五枚のうち、一枚だけ、若い女性の姿を描いたものがあった。湿地に迷い込んで困惑している、白いワンピースを来た女性。それは以前、守谷が売れたといっていた、あの赤い絵に描かれていた女性と、どことなく顔立ちが似ていた。
「なぜ、これが売れないんです」北澤は疑問に思って訊ねた。「こんなにうまいのに。こんなに、素晴らしいのに……」
「売れなかったのは、買い手がつかなかったから――ただ、それだけのことですよ」松井は、のんびりとした口調で答えた。「うまいとかヘタとか、そういう問題じゃないんです。絵は売れるか売れないか、ただ、それだけのことです。個人的には、守谷くんの絵はいいと思ってますよ。どんどん伸びて欲しいし、売れて欲しい。でもそのためには、ドーンと一発、大きな成功がないと難しいんですね。たとえばベストセラー作家の本の表紙を何枚も描くとか、売れてる化粧品メーカーのCMポスターを描くとか」あなた、そういう仕事に心当たりはありませんか。そういう方面で成功すると、風が向いてくるんですけどねぇ」
「守谷も、そのことはよくわかっている筈です。でも、なかなかチャンスが掴めないんでしょう……」
「そうですか。守谷くんは、そういうところが、いまいち運が弱いんだなぁ」
「東京の画廊では何点か売れたと言ってましたが、その後、そちらからの音沙汰はないんですか」
「さぁ。聞いてませんね。まぁ、関西と関東では美的センスにも違いがあるし、わたしらは、どういうものを描けとか描くなとかは、言いませんし」
 画廊を辞退したあと、北澤は先に自分の用事を済ませ、夜になってから、守谷のマンションを訪れた。
 売れない売れないと言っているものの、資産自体は北澤よりも多いのだろう。転居届けを頼りに訪れた守谷のマンションは、オートロック管理の、りっぱなものだった。銃を持つようになってから、守谷は、住居の安全管理に気を配るようになり、引っ越したのだ。今日まで来る機会がなかったので、初めて見た彼の新居に、北澤は驚いたり困惑したりした。
 暗証番号を聞いていない北澤には、オートロックを開けることができない。仕方がないので、インターホンで守谷を呼び出した。コールすると、すぐに反応があった。
「おれだ。先日は悪かったな。今日、おまえの絵を画廊で見てきた。いろいろ話したいことがある。中へ入れてくれないか」
「今、忙しいんだ」インターフォンの向こうの声は不機嫌だった。
「ギャラリー松井のオーナーから絵を預かっている。持って帰ってくれと言われたんで車に積んできた。これだけでも渡したい。降りてきてくれないか」
「わかった。じゃあ、すぐに行く」
 北澤は車へ引き返し、五枚の絵を担いで、またマンションの玄関まで戻った。
 守谷はすでに一階まで降りていた。暗い表情をしていた。目つきから、内面の荒れが伺えた。
「時々表に飾って、買い手を探して欲しいと言っておいたんだけどな」
 守谷がいまいましそうに言うので、北澤は、その場で松井の言葉を伝えた。
「松井さんは、おまえが管理しているほうがいいと言っていた。絵を誰かに見せる機会は、おまえのほうが多い筈だからと。頑張って伸びてくれと言ってたぞ。おれも久しぶりに見せて貰って驚いた。おまえ、うまくなってるじゃないか。失望するのはまだ早いよ。新しい仕事の相談をしないか。何かやりたいことや希望があるなら話してくれ。おれにできることなら、手を回してみるから」
 その言葉に心が和んだのか、お茶でも飲んでゆけよ、と守谷が言った。北澤は喜んで従った。守谷と部屋で話し込むなど、何年ぶりのことだろう。出会った頃には、よくそんなことがあった。芸術論や社会論をぶちあげながら、明け方まで話し合っていたことが何度もある。激論に及べば及ぶほど、北澤は守谷の人柄に惚れ込んだ。守谷は怜悧で繊細だった。平凡な男や女にはない魅力があった。少なくとも、以前の彼には……。

 広々とした居間には、壁ぎわにベッドや大型TVがあり、中央にはソファや背の低いテーブル、ダイニングに近い場所には、洋酒が並んだキャビネットが設置してあった。窓ぎわには、よく育ったベンジャミンの鉢と共に、見覚えのある立像が置いてある。二年ほど前、渡瀬が甲沢のログハウスで見せてくれた木彫りの立像――《マリカ》だ。
 北澤は立像に近づくと、数年ぶりで見る叔父の傑作に、しばらくの間、見惚れた。
「これ、叔父が昔彫ってた……」
「そう。マリカだよ。ログハウスから、こちらへ運んできたんだ」
「叔父から買い取ったのか」
「そうだ」
「よく叔父が納得したなぁ。展覧会へ出すことすら拒んでいたのに、他人に譲っちまうなんて」
「おれにとって、どうしても必要なものだと理解してくれたんだろう。ここへ持ってきてから、毎日、眺めてるんだ」
 守谷の手入れが良いのか、全裸の女性像は、以前見た時よりも艶やかに輝き、なまめかしい魅力を放っていた。顔つきが少し変わっているように思えた。以前よりも、はっきりと微笑んでいるような気がする。多少彫りを加えたのかな、と思い、あらためて全身を眺めまわしているうちに、北澤は心に妙な引っかかりを覚えた。この像の顔つき、最近、どこかで見たことがあるぞ――。
「素晴らしいだろう、マリカは」
 守谷は、コーヒー・カップを差し出しながら、北澤に話しかけた。熱いブラック・コーヒーを受け取ると、北澤は頷いた。
 守谷の賞賛は続く。「渡瀬さんは本当に凄い人だ。全くの素人なのに、いきなりこんなものを彫ってしまうんだからね。とても素人の仕事とは思えない」
「確かに、叔父の器用さにはずば抜けたものがあるからな。でも、これは偶然の傑作なんだろう?」
「傑作は偶然からは生まれない。必ず、何らかの、精神的な蓄積のうえに成り立っているんだ。ただ好きだからという理由だけで、傑作を生み出すことなんてできやしない。全ては、ある種の計算と、無意識のうちに方向づけられた指向性とに関係しているんだ。渡瀬さんは、ある特別の感情を持って、この像を彫ったんだと思う。それが何かはわからないが、だからこそおれは、この像に狂おしいほどの感情を抱くんだ」
「彼女、迷惑がらないのか? 部屋の中にこんな大きな置物があったら、何かと不便だろう?」
 守谷が怪訝そうに訊ねた。「彼女って、誰のことだ?」
「誰って……おまえパブで言ってたじゃないか。生涯離れられないほど惚れ込んでる女がいるって」
「ああ、あれか」守谷は、ぼんやりと答えた。「あれはこれだよ。マリカのことだ」
「おい、冗談はよせよ」
「マリカは一種の守り神なんだ」守谷は真剣な表情で答えた。「物を作る人間にとっては、喉から手が出るほど欲しい神様だ……。なあ、北澤。おれの絵が売れ始めたのは、マリカと出会ってからだということに気づいていたか? そう、マリカは自分を愛してくれる者の願いを必ず叶えてくれる。だから、おれは彼女に求めた。おれの絵が売れるようにして欲しい、そのために力を貸してくれと。マリカは、二カ月でおれの願いを叶えた。おれは狂喜した。だが、代わりに――一生、こいつから離れられなくなった」
 守谷は掌で像の肩を撫でた。堅い胸に額をおしつけ、目を閉じてじっとしていた。
「おい、しっかりしてくれよ」北澤は守谷を像からひき剥がした。頬を何度もはたいた。「大黒様や招き猫じゃあるまいし、こんなもの拝んだって絵が売れるものか。偶然の一致だよ。おまえは自分の実力で絵を売ったんだ。こんなものに騙されてどうする」
「でも、頼めば必ず作品が売れたんだ。本当なんだよ」
「じゃあ、今のおまえの有り様は何だよ。マリカを家に置いてるくせに、全然、売れてないじゃないか。何でも望みを叶えてくれる像なら、こんな時こそ役に立たなくてどうする!」
「彼女は代価を要求する――」守谷は沈鬱な声で答えた。「願いをかなえる代わりに、依頼者に代価を求めるんだ」
「代価?」
「愛情――だよ。マリカは願いの成就と引き換えに、自分への絶対的な愛情を要求する。少しでもかまってやることを忘れると、もう望みをかなえてくれなくなる。――こいつは辛い作業だ。それでも望みを達成できるならと、必死になってやってきた。だが彼女は貪欲だ。大きな成功を得るためには、さらに大きな愛情をマリカに注いでやらなければならない。おれは懸命にマリカを愛したさ。毎日彼女のことを考え、彼女に会い、夜毎に抱いた。それでも彼女は、まだ足りないと言う。得たいものが大きければ大きいほど、もっと濃い愛情を注げと言う……。おれは疲れた。だが、こいつから離れることもできない。美しいマリカ、愛らしいマリカ。絵の世界で生きてゆくことはおれの生き甲斐だ。その夢を叶えてくれるのはマリカしかいない。おれ一人の力では駄目なんだ。マリカがいて初めて、おれは陽のあたる場所へ出て行ける。志砕けて、挫折しなくても済むんだ――」
「わからない……わからないよ、守谷」北澤は、怒りと苛立ちに体を震わせた。「おまえ、いったい誰に騙されてるんだ。何にとり憑かれてるんだ。昔のおまえはそんな奴じゃなかったぞ。もっと強かった。自分を信じてた」
「やめてくれよ」守谷は、首を激しく左右に振った。「おれは強くなんかない。本当は弱い人間なんだ。最近になって、それがようやくわかった。人間の強さなんて、所詮は幻想だ」
「叔父のせいか?」北澤は直感して訊ねた。「おまえ、おれの叔父に何か言われたんだろう。そうなんだろう。よし。じゃあ、おれがおまえの代わりに文句言ってきてやる。謝らせてやるから――安心して待ってろ。いいな?」
「渡瀬さんも、おれと同じなんだよ」守谷は弱々しく笑った。「マリカに願いをかけて、代価を払い続けていた……だが、一人では払いきれなくなって、おれにその片棒を担がせたんだ。今はもう、おれだけに支払わせているけどね。あの人は確かに器用な人だ。引き際というものを心得ている。渡瀬さんにとって、マリカは人生の通過点に過ぎなかったんだろう。だがおれは違う。一生、マリカに寄り添ってゆく。そして、誰もが成し遂げられなかったような成功を収めるんだ……」
 北澤は叫んだ。「叔父のところへ行ってくる」
「渡瀬さんは家にはいない。入院してるよ」
「何だって?」
「だから、おれはマリカを自分の家へ連れてきた。彼女が淋しがらないように。なあ、北澤。もしよかったら、おまえにもマリカを貸してやるぞ。マリカは、必ず、おまえの望みを叶えてくれる。きっと、ルポルタージュが売れるようになるぞ……」
「いるか、そんなもの!」
 北澤は居間のソファをひと蹴りすると、そのまま守谷のマンションをあとにした。車を、渡瀬が入院しているという病院まで走らせた。
 心の中に荒野が広がってゆく。荒れた大地を、ごうごうと冷たい風が吹き抜けた。何が願いを叶えてくれる像だ。守谷は狂っている。自分の中に巣くっていた暗闇に飲み込まれたのだ。そのきっかけを作ったのは、叔父の渡瀬和義――。
 北澤は、左手でステアリングを殴りつけた。
 入院していようが何だろうが、絶対に聞き出してやる。問い詰めて吐かせてやる。いったい、守谷に何を吹き込んだのか。どうやって、彼の心を操ったのか。
 返事次第では許さない。必ず償いをさせてやる。

(8)

 勢いで病院までおしかけたものの、面会時間はとっくに過ぎていた。病室の明かりは全て落とされ、夜勤の看護婦は渡瀬の病室番号を教えてくれたが、面会なら明日にしてくれと促した。「渡瀬さんは、調子が良くないので、もう眠っておられます。他の患者さんにも迷惑ですから」
 頭に血が昇っていたせいで、病院の就寝時刻の早さをすっかり忘れていたのだ。いまいましい話だったが、仕方のないことだった。明日、出直すことにして、北澤は病院の玄関を出た。
 翌日は、午後から病院を訪れた。受付の女性に頼んで、渡瀬の主治医を呼び出して貰った。そして、病状について訊ねた。
 担当医は渡瀬の病名を《深在性真菌症》と言った。聞き慣れない病名に、北澤は思わず、きょとんとした。いったいどんな病気なのか、想像もつかなかった。
 医者は、ごく簡単に説明した。
 深在性真菌症は、カビの一種である真菌が体内で異常発生する病気だ。傷口から侵入した真菌が血液の流れに乗って全身に運ばれ、あちこちの内臓に障害を引き起こす。炎症、化膿、潰瘍、肉芽腫の形成。病変はあらゆる場所で発生する。脳・腎臓・肝臓・骨・心臓……。そんな恐ろしい病気がこの世の中にあったのかと、北澤は思わず身震いした。
 渡瀬の体内に入り込んだ真菌は、まず、肺を冒して肺炎を引き起こした。そのため緊急入院となったのだ。現在、点滴と内服用抗菌剤で治療中だが、面会できる程度には回復しているという。
 四階の個室が、渡瀬の病室だった。
 渡瀬はベッドの上で半身を起こし、「口から、カビの菌糸を吐き出しそうな気がするよ」などと、悪趣味な冗談を飛ばしながら、喉の奥でクックッと笑った。思っていたよりも元気そうなので、北澤は安心した。これで思う存分、渡瀬を問い詰めることができる。
「わたしは、守谷くんにマリカを譲るなんて言った覚えは、全然ないぞ」渡瀬は北澤の質問に即座に答えた。
「貸すとも言ってない。持って行けとも言ってない。彼が勝手にログハウスから持ち出したんだろう。守谷くんがあの像に執着していたのは知ってるが、まさかそこまでとは思わなかった。今度会ったら、ちゃんと言い聞かせておくよ」
「守谷の様子が変なんです。いったい何を吹き込んだんですか」
「わたしは別に何も……」
「嘘だ。守谷は、叔父さんとマリカの関係について教えてくれた。叔父さんがマリカに払ってた代価って何です。それを守谷に肩代わりさせてるっていうのは、どういうことなんですか」
「あいつ、そんなことを言ったのか」
「ええ」
「そりゃ半分おかしくなってる証拠だな。絵が売れなくて苦労しているとは聞いてたが、ストレス性の妄想でも出始めたのか――」
「狐と狸の化かし合いみたいなことならやめませんか、時間の無駄だから」
 沈黙がその場に落ちた。お互いが相手の出方を見ていた。こういう時、渡瀬は絶対に自分から喋り出そうとはしない。後手に出ることで自分を守る。だが、北澤は先手に出て、相手を切り崩してゆくほうが性に合ってる人間だ。迷わず疑問を叩きつけた。
「守谷がおかしなことを教えてくれたんです。あの像に願いごとをすると、どんな望みでも叶うんだって。彼はそうやって自分の絵を売ったそうですね。同じようにすれば――おれのルポルタージュも、売れるようになるんですか?」
 渡瀬は表情を変えなかった。北澤の思惑など、底の底まで見抜いているような、冴えた眼差しで彼をを見た。
「守谷はあれに狂っています」北澤はかまわず続けた。「絵が売れなくて困っている筈なのに、口から出る言葉はマリカ、マリカ、マリカ、そればかりだ。あの像さえ持っていれば、必ず社会的な成功が得られると信じている。彼を、それほどのめり込ませている理由は何です。あの像には、人間をひきつけて狂わせるような仕掛けがあるんですか」
「知りたいか」渡瀬はもったいぶった口振りで答えた。「知ってどうする」
「おれも、自分の原稿が売れるようにしたい」
「嘘をつけ。おまえは野心なんかとは無縁の人間だ。温厚で、善良で、お人好しで……。おまえの努力は、ただの自己満足だ」
「……」
 体をちょっと揺すり、渡瀬は両腕を組み合わせた。少しだけ口の端を吊りあげた。「おまえは、守谷くんをどうしたいんだ?」
「まともな人間に戻します」北澤は率直に答えた。「おれが知っていた頃の、守谷光二に」
「難しいぞ。一度大きな成功を見た人間は、次の成功へも執念深くしがみつく。金や生活や、己のプライドがかかっているのなら尚更だ。守谷くんだって、例外じゃない」
「どうやっても連れ戻します」
「おまえ、守谷くんに惚れているのか」
「友人として大切に思っています。彼は、社会へ出てから知り合った、得難い親友です」
 渡瀬は苦笑いを浮かべた。首を少しだけ傾けて言った。
「……おまえは《ウツホ木》というものを知っているか。いや、そういう言葉を聞いたことはないか。小さい頃、誰かから聞かされたり、本で読んだりして」
《ウツホ木》? 聞いたこともない言葉だった。北澤が戸惑いがちに首を横に振ると、渡瀬は「そうか」とだけ呟いた。
「わたしも人から聞くまでは知らなかった。そういう方面には全く興味がなかったんでね。ウツホ木というのは、中が空洞になっている木のことだ。ウツホ柱とも言う。中が空洞になっている木や柱には、霊魂が入り込んで棲みつくことがある――と考える民間信仰が、日本には古くからあるんだ。マリカも、その一種なんだよ。あの像の中に存在している小さな空洞――そこに何が潜んでいるのかはわたしも知らない。だが、そのこと自体は問題じゃない。彼女の中にある空洞自体が、人を彼女にひきつけ、離れられなくする。なあ、隆史。おまえは人間が、なぜ偶像や内容の薄い流行物に魅かれるのか、その理由がわかるか」
「さあ……」
「からっぽだからだよ。中に何にもないからだ。そういうものに、人は魅かれることがある」
「……自分自身を、その穴の中へ流し込めるからですか?」
「そうそう、おまえはなかなか勘がいい」喉の奥から笑い声が洩れてきた。「あれはもう何年も前のことだ。わたしは、大阪の馴染みの店で一人で飲んでいた。その時、店のマスターから、奇妙な話を聞かされたんだ……」

                  *

 あれは何年か前の夏だったと思う。勤務先が倒産し、新しい会社の営業活動で走り回っていた頃だ。
 今までとは勝手の違う仕事に、わたしは少々疲労と徒労を覚えていた。何しろ全て一からやり直しなんだからね。おまえは、わたしが株の儲けで困らなかったろうと思っていたかもしれないが、損失だってあったんだ。いろんな事情で、あちこちに配らなきゃならない金や、事後処理を頼むための金も必要だった。賄賂の類もな。ていよく巻き上げられてしまった分もあった。手元に残ったのは僅かなものさ。それでも慎ましく暮らしている人間から見れば、たいした額だったかもしれないがね。仕事を変わってからは猟仲間とも疎遠になった。年収が違うと、だんだん話が合わなくなってくるんだな。そのうち鳥撃ちには、一人で行くようになってしまった。
 大阪に、証券会社時代からいきつけにしていたパブがあってな。それほど高い店じゃないんだが、ひょろひょろした若者や、騒々しい女の子が来ない静かな店で、わたしは随分気に入っていた。店長とアルバイトのバーテンダーがいるだけの店だが、サービスは良かったし料理も旨かった。世間でビア・ガーデンが満杯になっていた時期、わたしは久しぶりにそこへ立ち寄った。
「しばらくですね。どうです、新しい仕事のほうは」
 カウンターにつくと、他の客は若いバーテンダーに任せて、マスターがすぐに寄ってきた。
「さすがにバテるよ。慣れるまで、もう少しかかりそうだ」
「渡瀬さんでも、そういうことがあるんですね」
「医療機器は、相場を読むようには売れない。お医者さん相手の仕事も大変さ」
 何種類ものチーズを盛り付けた皿が目の前に置かれた。わたしは景気づけにロイヤルサルートを飲みながら、しばらく世間話をした。軽い話題が次第に重くなり、ほとんど愚痴になりかけた時、マスターがさりげなく切り出した。
「渡瀬さんは、カウンセリングなんかに興味はありませんか」
「何だよそれ。おれにクリニックへ行けっていうのか」
「いや、心療内科を開いてる人じゃないんですが、出張診療みたいな形で、いろんな悩みを聞いて治療してくれる人がいるらしいんです」
「もぐりのセラピスト?」
「さあどうでしょう。外国で勉強してきた人かもしれない。でも、効果は抜群だっていう話です。一・二回面接を受けるだけで、人生観が全然変わってしまうと――。若い人達から中間管理職の間まで、静かに評判が広がっているそうですよ」
 わたしは少し興味を魅かれた。新手の新興宗教のような胡散くささを感じたが、それだけに好奇心も湧いた。酒の追加を頼んでから訊ねた。「どこにいるの、その人」
 冷たいグラスと共にメモが一枚差し出された。数字が幾つか並んでいる。携帯電話の番号だとすぐにわかった。
「一カ月以内なら、その番号で相手と連絡がとれるそうです。あとは、先方と渡瀬さんとで、会う日を決めて面談する」
「この番号、どこで聞いた」
「人づてに頼まれたんです。もし興味を持ってる人があったら渡してくれと。相手の身元は保障します。名前は出せませんがここの客です。何かあれば、すぐに連絡を取ることもできます」
 わたしはしばらくの間、指先でメモを弄んだ。開業もしていないセラピスト――携帯電話を次々と持ち替えて、足がつかないようにしているのか? そこまでしなければならない理由を、わたしは思いつけなかった。多分、ヤバイことに関わっている奴なんだろうが――。効果か。人の噂ほど当てにならないものはないからな。
「そんなに有名な人なら、マスターも一度会ってみたらどうだ」
「わたしは、もう会いましたよ」
 意外な返事だった。
「でも、そのメモは先方から直接渡されたんじゃありません。さっきも言った通り、人づてに貰ったんです。わたしが会ったのは、社会へ出てすぐの頃ですから」
「どんな人間なんだ」
「それは渡瀬さんが直接会って確かめて下さいよ」追求は、さらりとかわされた。「でなきゃ、楽しみが減るでしょう?」
 あるいは、マスターが会ったという話も嘘だったのかもしれない。だが、好奇心は、すでにかなりのところまで膨らんでいた。
 わたしはパブを出ると、近くの電話ボックスに入った。メモの番号をコールした。十一時頃だったので少し心配だったが、相手はすぐに反応した。
「はい、どちらへおかけですか」
 男の声だった。若いとも中年ともつかない落ち着いた声だ。不愉快な響きや、いかがわしさは感じられなかった。わたしはすぐに用件を切り出した。パブのマスターの名前を出し、面談を受けたいと申し出た。相手の男は、今週の土曜日午後六時半、大阪のお初天神の前で待っていると答えた。わたしは承知して受話器を置いた。そして約束通り、土曜日にそこで一人の男と会った。
 彼が、電話に出た男と同一人物だったのかどうかは知らない。だが、わたしは来た人物と話をするだけだから、気にはしなかった。男はタマズサと名乗った。どんな字を書くのか見当もつかなかったので訊ねると、掌に《玉梓》という字を綴った。歳はわたしよりも若そうだった。流行のジャケットとスラックスがよく似合っていた。俳優のように整った顔立ちをしていた。医者の威厳や堅苦しさはなかった。あるいは、セラピストというのは医者とは違うものなのかもしれなかったが、カウンセリングなど受けたことのないわたしには詳しい推測はできなかった。変な名前だ。どうせ偽名なんだろう。そんなことぐらいしか考えなかった。
 男は、どこかで飲みながら話しましょうと言った。費用は自分が持つから、あなたの好きな場所を選んで下さいと。わたしは大手ビール会社が経営しているチェーン店を選んだ。男はそれで良いと答えた。
 満席のビアホールで、わたしは男に、最近、人生に退屈しているのだと話した。
「わたしは今まで、いろんな仕事や趣味や遊びを経験してきた。だが、未だに魂の落ち着く先が見つからない。勤務先が変わったら新しい発見があるかとも思っていたが、結局、今の仕事にもいつかは慣れて、惰性で流れてゆくだけだということに気づいてしまった。退屈なんだ。年を追うごとに、胸の中が空疎になってゆくのがわかる。こんなに豊かな生活をしているにも関わらず……だ。心の穴を埋めるものが欲しいんだ。一生退屈しないで済むような、自分の情熱を注ぎ込めるような対象が欲しい。どんなものでもいいんだ。心当たりはないですかね」
「わかりました」男はにっこりと微笑んだ。「あなたの不幸は、自分の中にあるエネルギーの使い方がわかっていないところにあるのですね。有り余る熱量を向ける先を迷ってらっしゃる。ならば話は簡単です。仕事・遊び・趣味……そういったものの中には存在していない充実感を、わたしがあなたに与えてあげましょう。住所を教えて頂けませんか。二・三日中に送りたいものがある」
「それは困るよ」霊感商法のように、高価な壺や印鑑を送りつけられるのではないかと思い、わたしは住所を教えることを拒んだ。こちらは相手の情報を何一つ持っていないのだ。これを機会に、おかしな人間に自宅まで押しかけられては迷惑だ。
「変なものを送ろうというのではありません」男は笑顔を崩さなかった。「あなたには、彫刻用のセットを一組送ろうと思ってるんです」
「何だって?」
「わたしには、あなたが何を欲しているのかが良くわかる。仕事・趣味・遊び・友人・金・社会的な名誉……あなたが本当に欲しがっているのはそんなものじゃない。そしてあなたは、心の底では、もうすでに答を出していらっしゃる。ただ、それが言葉にならないだけで」
「……」
「別に、彫刻を趣味にして貰おうと思ってるわけじゃありません。だが、彫ってみて下さい。彫ればあなたは、自分が何を望んでいたのかすぐにわかる筈です。鑿を持って木材の前に立って下さい。その時、真っ先に浮かんだイメージを迷うことなく彫って下さい。彫りあがったものの姿が、あなたの望んでいた答そのものです」
 馬鹿ばかしい話だった。所詮こいつは、他人の悩みにつけこんで物を売りつける類の人間なのだと思った。わたしが椅子から立ち上がると男は言った。
「信じないのは自由です。変な話を聞かされたと思って、このまま帰るのも一興でしょう。だが、もしここで帰れば、あなたはこの先、答の出ない問いを抱えて苦しみ続けることになる。それでもいいんですか」
「結構。変なものを買わされるよりはマシだからね」
「代金は後払いでいいんですよ。答が出てからで」
「飲み代を出して貰う約束だったが、自分の分だけは払おう。無駄足をさせて申し訳なかったな。別の客を当たってくれないか」
「わかりました。では、自宅ではなくて、ログハウスのほうへ送らせて頂きます。奥様の目につかないように」
 わたしはギョッとした。わたしは男に、ログハウスのことなんか一言も話しちゃいなかった。勿論、あの酒場のマスターにだって言ったことはないんだ。いつのまに調べたのだろう。そう思うと気味が悪くなった。この男、どこまでも執念深く追ってくるんじゃないかと思えて。
「仕方ないな、じゃあログハウスのほうへ運んで下さい」内面の動揺を押し殺しながらわたしは答えた。ログハウスの住所は、わざと教えなかった。

 彫刻セットは、本当にログハウスまでやってきた。日曜日、山へ行ったら、小屋の玄関に大きな包みが置いてあったんだ。宅配便の伝票はどこにもついていなかった。つまりあの男は、直接、そこまで運んできたというわけだ。ご苦労様なことだよ。
 ずっしりと重い荷物を横抱きにして小屋の中へ運び込み、ナイロンの紐を解き、包装紙を破らないようガムテープを剥がした。中には、段ボールで包まれた高さ一・七メートルほどの大きな長方形の木材と、鑿や彫刻刀のセットが入っていた。説明書や、彫刻入門といった類の本はいっさいなかった。わたしはしばらく呆然としていた。やがて荷を元通りに包み直し、小屋の隅へ押しやった。
 まさか本当に送ってくるとは思わなかった。だが、言われた通りに彫る気にもなれなかった。わたしは確かに手先が器用だが、こんなに大きな木材を彫った経験はないし、特にその時、彫りたいものもなかったのだ。代金を請求してきたら、手つかずのこれをそのまま返してやろう。クーリング・オフの期間は法律的には一週間だが、相手は荷に自分の住所も名前も書いていないのだ。幾らでも文句をつけることは可能だろう。
 木材は、その後、一年近くもログハウスに放置されていた。おまえも何度か目にしたことがあるだろう。茶色の油紙に包まれた、あの大きな荷物だ。それはいつも、あの小屋の片隅にあった。誰の手にも触れず、包みを解かれることもなく眠っていた。だが、それはいつしか、わたしの心の中へ、一つのかけがえのない風景として沈殿していった。
 一年の間、わたしは街中やTVで彫刻や彫塑を見るたびに、小屋に置きっぱなしにしている木材のことを思い出した。だが、それは必ずしも不快な感情ではなかった。買ったまま積読状態になっている本のことを思い出し、ああ、あれを読まなくてはなぁ、と朧げに罪悪感を覚える時の感覚にとても良く似ていた。朝目覚めた時、ベッドに横たわりながら、木材を彫っている自分の姿を想像することもあった。鑿は雄々しく木を削り、小刀が嘗めるように木肌のうえを滑ってゆく。なかなか気持ちの良い空想だった。そして彫られてゆくモチーフは、動物でも神でもなく、わたしの場合、常に人間の女の姿だった。
 男からの連絡はいつまで待ってもなかった。一カ月で無効になると言っていた携帯電話の番号は、その頃確かに、玉梓と名乗った男のものではなくなっていた。全くの音信不通になっていることを知った時、わたしは自分の手に鑿を握っていた。土曜や日曜に山へ登り、妻にも内緒で彫刻をするようになった。
 木炭で各面にアウトラインを入れ、鑿の刃先をぐいと打ち込むと、あとはもう夢中になってしまった。木材を削るという行為には、元々、懐かしいような、安らぎを感じさせるような独特の官能性がある。大きな素材と向き合っていると、その快感は何倍にも増幅した。素人なのだ。彫り間違えればそこで終わりだ。無理をせず、慎重に刃を滑らせていった。彫れば彫るほど、彫ることに魅了された。木屑が舞い散るたびに、樹木の心地よい香りがあたりに立ちこめた。何かを彫るというよりは、この木材の中に埋まっている何かを掘り出しているような気分だった。土の中から遺跡を掘り出す作業――わたしの彫刻はそれに近かった。木目の下から呼ぶ声に導かれ、わたしはその表面に、泥の如く張りついている木材を削りとっているだけだった。
 全てが洗い流された後、表面に浮かび上がってくるものの正体をわたしは既に知っていた。いや覚えていた。ずっと前からそうしたかったのだ。どうして忘れていたのだろう。堅く赤い木材の中に埋まっている、つるつるした肌の若い女。両手を広げ、誰かを抱きとめようとしている温かな女。あの男はなぜ知っていたのだろう。どこで知ったのだろう。わたしの記憶の底に沈んでいた哀惜と恨みの感情を、どうやって見抜いたのか。嗅ぎつけたのか。いや、そんなことはもうどうでもいい。土曜日の夜半遅く、像は完成した。小屋の明かりに照らされて、艶々と輝く像の顔と姿を見てわたしは泣いた。それはわたしが、十三歳の時に亡くした、実の母の姿だった。

 その夜わたしは、一晩中、彫りあげた像を抱きしめていた。懐かしかったからじゃない。母に甘えたかったからでもない。その像を抱いていると、堅い木像の肌がいつのまにか柔らかい人間の肌に変わり、トクトクと、心臓の音まで聞こえてきたからだ。
 ……こんな話をしていると、おまえはわたしの気が狂ったと思うだろうな。そんな気味の悪い現象を目の当りにして、どうして逃げ出さなかったのかとも。だがそれは愚問だ。なぜなら、それこそがわたしの長い間の望みだったからだ。堅い木像の腕や足が、しなやかに変化し、撓み、しっとりと体に巻きついてくると、理性などどこかへ吹き飛んでしまった。激情だけがわたしを突き動かしていた。行き場を失っていたエネルギー、封印されていた感情、解放されて爆発する力――わたしは夜明けまで、何度も自分の母と交わった。
 ずっとそうしたかったのだ。母が生きていた時も、死んで棺に入ってしまってからも、ずっとずっと。理由なんかない。そんなもの知りたいとも思わない。母は、美しく逞しく優しかった。魅かれてゆく気持ちを、どうしても抑えることができなかった。だが、現実の世において、その望みが叶えられることはなかった。叶えられない思いは心の底に沈殿し、叶えられないがゆえに、わたしの内部をチリチリと焼き続けた。罪深い望み、愚かな情熱、わたしの内面を蝕む強烈な酸だ。人間として許されることのない欲望、時間と運命がかろうじて引き剥がしたものを、わたしは強引に手に入れたのだ。それが偶然だったのか必然だったのかは、わからないがね。

 朝が来ると、像は元通り木彫りの彫刻に戻っていた。わたしは、ベッドの上でぐったりと横になっていた。奇怪な夢に翻弄された一晩だった。いや夢ではない、現実だった。今でも体が覚えている。人間の肉の手触り、肉の重み、温かい厚み。
 机の上に置いていた携帯電話が鳴った。あの男からだった。どうやって番号をつきとめたのか、問いただす気持ちは既になかった。わたしは彫刻セットの代金を訊ねた。男は郵便振り替えの番号を教えてくれた。請求された金額を、わたしは安いと感じた。百万円出したって惜しくない気分だった。
「幸せになられたようで何よりです」何もかも承知している声だった。
「わたしが彫ったあれは何だ」それだけが聞きたかった。「どういう仕掛けになってるんだ。なぜ、木彫りの像が生きた人間のように変化する? 中に、何か特殊な装置でも入っているのか?」
「あなたは《ウツホ木》というものをご存知ですか、渡瀬さん」
「《ウツホ木》? 何だそれは。聞いたこともないぞ」
「だったら結構。像の中に何があるのかは問わないことです。あれは《ウツホ木》だ。あるがままを受け入れる限り、あなたはいつまでも幸せでいられるでしょう。ただし、一つだけ注意しておいて貰いたいことがある」
「何だ」
「あの像は、あなたを喜ばせるためならどんなことでもしてくれる。そういうふうに作られている。しかし、像がずっと活動を続けてゆくためには、燃料というか、エネルギー源になるものが必要です。この理屈はおわかりですね?」
 わたしは電話を握り締め、頷いた。
「人間の愛情――それが、像の望む食物です。だからあなたは、これから毎日のように、像に愛情を注いでやる必要がある。そうしている限り、あなたの心に穴は生じない。心の空疎感は消える。もし、自分一人で手に負えなくなったら、他人の手を借りてでも像に食事を与え続けて下さい。わかりましたね」
「もし、食事を与えられなくなったら?」
「あなたは自分自身の穴に食われて破滅する。そして、望んでいたことの全てが崩壊する」
「……」
「その像を、心の中から呼び起こしたのはあなただ。現実化させたのはあなただ。あなたには、自分が作ったものに対して責任を負う義務がある」
「代金を払わせたのはそちらだ」
「この話を教えてあげるための代金です」
「おまえがいなきゃ、おれは像など彫りはしなかった」
「いや、いずれは彫った筈です。誰に言われなくてもね」
 わたしは叫ぶように訊ねた。「おまえはいったい誰だ。何者なんだ」
 すると男は、初めて会った日のように一言だけ答えた。「玉梓」と。
 電話はそこで切れた。

                 *

 仕事があるんだ。毎日、像を訪ねてやることなんてできやしない。わたしは土曜の夜だけログハウスを訪れた。像はわたしと会うたびに人間になり、愛情を求めた。わたしは逆らうことなどできなかった。あの男の言葉が体を縛っていた。まだ死にたくはない。こんなところで人生を終わらせてたまるもんか。
 わたしは像に《マリカ》という名前をつけた。何とはなしに頭に浮かんだ名前だ。母を抱いているという罪悪感を消すために必要な、新しい名前だった。
 一週間に一度だけの逢瀬に、マリカは満足しているようだった。わたしは内心ホッとしていた。この程度の訪問なら何とか都合がつく。マリカを手に入れて以来、気持ちは晴れ晴れとしていた。会社の仕事も順調だった。人間関係もうまくいっていたし、籤運まで巡ってきた。わたしの愛情を繋ぎ止めておくために、マリカが与えてくれた運だった。
 そう、彼女は、世界を司る因果律に働きかける力を持っているんだ。この世界を支配する仕組みは、無限に広がる鉄道線路のようなもので、その要所要所にあるポイントを、どのように切り替えるかによって、進むべき線路が決定されてゆく。マリカは、ポイントの幾つかを器用に動かす。全てを動かせるわけではないのだろうが、接続させる線路さえ間違えなければ、その力は必要最低限でこと足りる。
 わたしは一時期幸運続きだった。だが、長続きはしなかった。運命の無理な操作は、人生そのものを枯らしてしまうのかもしれないな。そしてマリカは、一週間に一度の《食事》では満足できなくなってきた。夢の中に現れてわたしを呼ぶようになった。
(和義、和義)
(来て、早く、わたしを愛して)
(もっと、わたしを愛して)
(そうすれば、もっと大きな幸せを、あなたに与えてあげられるのに……)
 冗談じゃない、体がもつもんか。わたしは、マリカに愛情を注いでくれる、別の人間を探さねばならなくなった。マリカを手放す気はない。だが、わたしの力が及ばない部分を、代わりに満たしてくれる者が必要だ。体力があって心優しく、物をいとおしむ感性を持ち、尚且つ、心に野心を抱いている人間。自分の運命を変えたいと切望している人間。己の夢にとり憑かれている人間――そう、もうわかっただろう? わたしは隆史、おまえを標的として選んだんだ。ルポライターとしての社会的な地位、書くことを生き甲斐にしたいと夢に飢えていたおまえに、マリカを押しつけるつもりだったんだ。

                  *

「だが、おまえを選んでみたものの、心もとないと感じる部分はあった」
 ベッド上の渡瀬は、相変わらず、腕組みをしたまま枕に背をあずけていた。目の光はしっかりしている。熱に浮かされた妄想というわけではなさそうだ。でも、それなら、本当に気が狂ってしまったのかもしれない。真菌は既に、叔父の脳まで侵しているのだろうか。北澤は少しだけぞっとした。
「マリカは貪欲だ。おまえの愛情だけで彼女が満足できるかどうか……不安だった。それに、どうせ他人に任せるのなら、複数の人間に背負わせてしまったほうが効率が良いのではないか。そう思って、わたしはおまえに言ったんだ。『芸術のわかる人間を連れてこい』とね。芸術家なら、マリカの相手として相応しい人間であるような気がした。有り余るエネルギーを胸に抱き、その捌け口を求めて、常に欲求不満状態にあるアマチュア芸術家なら、尚のこと良かった。そのうえマリカに魅了されやすい、繊細な感受性を持っている若い人間なら、申し分なかった」
「そしておれは、何の考えもなしに、守谷をマリカと引き合わせてしまったんですね……」
「守谷くんが、あんなに敏感に反応するなんて思わなかった。わたしは、おまえ達二人ともが、揃ってマリカにのめり込むだろうと予測していたんだ。だが、おまえは、自分の野心に対して意外と淡泊なんだな。あるいは、おまえの守谷くんに対する想いが強過ぎて、マリカの入り込む余地が無かったのかもしれない。結局、絵描きとして実力があって、大洋に乗り出しかけていた守谷くんのほうが引っかかってきた。しかし、当たり前と言えば、当たり前の反応だったのかもしれん」
「守谷と親しくつき合ったり、猟に連れていったのは、そのためだったんですね」
「いきなり真相を話したって信じて貰えないからな。マリカのことを話題にしながら、わたし達は親交を深めた。ある日わたしは、守谷くんをログハウスに一人残して下山した。翌朝、何があったかを彼の口から確認して……あとはもう彼任せさ。守谷くんは、猟で山へ行った日には、必ずログハウスに泊まるようになった。わたしは気をきかせて、いつも先に下山した。他人がマリカと愛し合っているのを見て喜ぶほど、わたしは変態じゃないからな。《ウツホ木》という言葉を、わたしはその後、書物で調べて知った。あの男はマリカのことを《ウツホ木》だと言った。つまり中が空洞になっていて――そこに何かが巣くっているんだね。何が棲みついているのかはわたしも知らん。どうせロクなもんじゃないんだろう。人間の愛情を喰って生きているんだからな。あとはもう、おまえの知っている通りだ。守谷くんはマリカに魅せられて彼女を愛し、マリカはその見返りに彼に成功を与えた。いつもの彼女のやり方だ。美味しい餌で釣っておいて、求める愛情の質と量をエスカレートさせてゆく。守谷くんは、今、気息奄々といったところかな。実は、彼を選んで失敗だったと思ったことが一つだけあるんだ。守谷くんは人柄の良さに似合わず、独占欲が滅法強い。他人にマリカを任せれば自分は楽になれるのに、それができない。最近では、わたしが触れるのさえ嫌がるほどだった。ほとんど自分一人で相手をしているんだ。あのまま放っておくと腹上死しかねん。助けてやれ、隆史。今回のことではわたしも反省しているんだ。人選は、もっと慎重にすべきだったとね」
 北澤は低い声で笑った。何て叔父らしい言い方なのだろうと思った。渡瀬はある意味でマリカと同じだ。いや、マリカ以上に悪魔的な存在なのかもしれない。
 右手に力が籠もった。自分一人では抑えきれない真っ黒な感情が、北澤の腹の底から、堰を切って溢れ出した。
 意識が一瞬空虚になり、直後、北澤は渡瀬の頬を拳で殴っていた。渡瀬の体がベッドの上で傾いだ。渡瀬はとっさに片肘をつき、ベッドから転落するのをどうにか防いだ。同時に、吃驚したような顔で北澤を見た。まさか、甥が手をあげるとは想像もしていなかったというような表情だった。そこまで舐められていたのかと思うと、北澤は、ますます腹が立った。ちょっと待て、待て隆史、と叫んで制する渡瀬を、北澤は平手で何度も殴った。掛け布の上に鼻血が飛び散った。渡瀬は右手で顔を押さえて背を丸め、呻き声を洩らした。
 呼吸が荒れ始めていたが、北澤の怒りはまだおさまらなかった。ベッドの脚を蹴飛ばし、病室の壁を蹴飛ばした。床頭台の上の吸い飲みや、ティッシュボックスが振動で飛び上がった。もし渡瀬が病人でなかったら、ベッドから引き摺り降ろして、蹴りあげてやりたいぐらいの気分だった。
 同時に、北澤は自分自身に対して、猛烈に腹を立てていた。おれは今まで、自分が何様のつもりで事件記者などやっていたのだろう。叔父が生半可な人間でないことは知っていた。だが、まさかここまでとは思わなかった。資金を援助してくれるという理由だけで、おれは叔父の存在に目をつぶり続けてきた。見て見ぬふりをしてきた。もっと大きな悪党を追えばいいんだと、自分自身を誤魔化してきた。一人ぐらい身近に悪党がいたほうが、裏社会のことがよくわかっていいんだ、場合によっては、叔父から情報を金で買い取ってやろうとすら考えて――。その結果がこれだ。
 突き刺すような激しい後悔と、胸を焼くような罪悪感が、北澤の内面を引き裂いた。もし、守谷の人生に取り返しのつかないことが起きたら、その全責任はおれにある。おれは死んでもあいつを助けなきゃならない。自分の欲得のために失いかけているものを、絶対に取り戻さなきゃならない!
「……じゃあ今は、一刻も早く、守谷からあの像を取り上げなきゃならないわけだ」北澤は唇を噛み、呟いた。「おれはいっそのこと、あの像をぶっ壊してやりたい。木だから簡単だ。車で轢いてしまえばバラバラにできる。異存がありますか、叔父さん」
「ちょっと待て……それは最後の手段だ……」渡瀬はよろよろと体を起こし、掛け布の端で自分の顔の血を拭った。そして、くぐもった声で答えた。「あの美しい像を壊すようなことだけはやめてくれ。心が痛む。それに、そんなことをすれば、守谷くんはおまえを決して許すまい。必ずおまえを殺すだろう」
「まさか」
 渡瀬は全身の力を抜くように枕に背をあずけると、乱れた髪を片手でかきあげた。嘲笑に満ちた表情で、上目遣いに北澤を見た。
「おまえは、マリカを知る前の守谷くんしか知らない。だが、今の守谷くんは別人だと思ったほうがいい……。彼はもはや、おまえの言うことなんぞ、一言も聞きはしないだろう。病人のわたしを殴るように、彼を自由にはできないぞ。彼は射撃の名手だ。体力もおまえより勝っている。マリカのことが絡めば、とんでもなく残忍な性格に変わる可能性だってある。おまえに勝ち目はないよ」
「じゃあ、どうしろと?」
「壊すよりも埋めるんだ。マリカを、人目のつかない山の中へ……。そしてその時、わたしの遺骨をマリカの隣に埋めて欲しい。章子には遺骨を分骨をするように言っておく。マリカはわたしのものだ。わたしの体の一部だ。死んでからも一緒に寄り添いたい……」
 北澤は自分の耳を疑った。渡瀬の言葉が、反芻されないままに、脳味噌の中を谺した。
「何を言ってるんですか、叔父さん。こんな病気で、死ぬわけないじゃないですか……」
「人間の命なんてわからないものさ。これは遺言だぞ。必ず守れ。いいな。そうだ、埋める場所はログハウスのある山がいい。わたしにとっては狩場でもある思い出深い山だ。春には桜が、秋には紅葉が美しい。あそこにしてくれ」
「でも、埋めるなんてそんな面倒なこと。第一、守谷が見つけて掘り出してしまったらどうするんです」
「その時はその時だ。何とか手段を考える。おまえを助ける方法を考えておくよ。わたしが死んでいても、有効な方法をな」
「……」
「いいな。約束だぞ。必ず守れよ」
 渡瀬は体を前に折り、腹の前で両手を組み合わせると激しく咳き込んだ。口の端に血泡が浮いた。
「まいったな……」渡瀬は苦笑いを浮かべた。「まさかおまえが、ここまで本気になるなんて思わなかった。うんと効いたぞ、この乱暴者め。守谷くんは幸せな奴だ。だが、おまえも大抵にしておかんと、いつかその人柄の良さで、必ず、自分自身の身に破滅を招くぞ。適当なところで引き上げておけ。多少は、わたしの生き方を見習うんだな」
「……」
「あの男の名前、玉梓といった……」渡瀬は、ぽつりと呟いた。「玉梓というのは、日本の古い時代に使われていた言葉だ。《使者》という意味があるんだ。いったい誰が、何のために寄越した《使者》だったんだろうな。今となっては、どうでもいいことだがね……」

(9)

 しばらくして、渡瀬は本当に死んだ。
 真菌が再び活発化し、全身の内臓を侵し始めたのだ。
 四十度以上もの発熱が何日も続き、薬は全く効かなかった。意識だけはハッキリしている分、それは大変な苦しみだった。が、高熱に喘ぎ、全身の疼痛に苦しみながらも、渡瀬は、憎まれ口を叩くことを忘れなかった。
「これが、今までのわたしの行為に対する報いだとしたら、収支はちゃんと合ってるんだろうかね、隆史?」
 保冷剤を詰めた枕のうえで、何度も苦しげに頭を左右に揺すりながら、それでも渡瀬は、北澤に向かってにやりと笑ってみせた。「どう考えても、神様って奴は怠け者だとしか思えんな。こんな程度の死に方で許して貰えるとは、勝ち逃げと言ってもいいんじゃないかね……」
 実際には、全身をじわじわと蝕む痛みに、気も狂わんばかりになっている筈だったが、渡瀬は、泣いたり喚いたりといった醜態を、北澤に見せることは決してなかった。
 高熱と苦痛に翻弄されながら、渡瀬は徐々に衰弱し、この世から去っていった。まるで、煉獄の薔薇色の炎に焼かれるような死に方だったと、北澤は思った。
 薬が全然効かなかったことから、医者は新種の菌かもしれないと言い、真菌の影響による全身状態を診るため解剖させて欲しい、と章子にもちかけた。
「これだから大学の付属病院は嫌よ。うちの人を、研修医相手の見世物にするつもりなんだわ。ろくに治療もできなかったくせに」
 章子の頭の中には、医学への貢献という言葉は存在していないようだった。語気鋭く担当医を責めたて、強引に死亡診断書を書かせると、さっさと遺体を葬儀屋へ運び込んでしまった。北澤は叔母の強さを目の当たりにして、初めて彼女に好感を抱いた。

 葬儀の時、北澤は、自分が渡瀬に魅かれていたのは、父親への反発からだったのではないかと、ふと思った。教職につき、品行方正を信条としていた父。嘘をつくことや、悪意や悪ふざけに満ちた会話が大嫌いだった父。渡瀬は父とは正反対の人間だった。渡瀬を好きになることで、おれは自分が父親の中へ取り込まれてしまうことを避けようとしていたのかもしれない。現に、北澤の父は、未だに彼の仕事をよく思っていなかった。低俗な雑文書きなどやめろという。北澤が雑誌記者になることに賛成し、そのきっかけ作ってくれたのは、父親ではなく て、叔父である渡瀬だった。
 遺骨を分けて貰うという約束を、北澤は内心持て余していた。
(埋めてくれ、マリカと一緒にわたしの骨を)
 その言葉に従えば、自分は守谷と大喧嘩になる。ヘタをすると傷害沙汰にもなりかねない。だが、放置しておけば守谷はいつか破滅するだろう。運良くマリカと縁が切れても、その頃には、心身共にボロボロになっているに違いない。それは本意ではなかった。
 葬儀の日、北澤は守谷に、もう一度マリカに会わせて貰えないかと訊ねた。時々は貸して欲しいのだ、とも付け加えて。
 守谷の表情に驚きが広がり、ほどなく微笑が溢れ出した。「いいとも。運び出すのは大変だから、おれが留守の時に、ゆっくり鑑賞するといいよ……」
 北澤とマリカを二人きりにするため、守谷はわざと外泊日を作ろうとしていた。北澤は何も知らないふりをして頷き、守谷から、マンションのオートロックを解除する番号を聞き出した。鍵のスペアは後日作成した。
 考えてみれば、不思議なことではあった。渡瀬にすら触られるのを嫌がっていたマリカを、守谷は、北澤になら貸してくれるというのだ。さすがに自分の愛情に限界を感じたのか、あるいは、おれが自分と同じように苦しめばいいとでも思っているのだろうか。マリカと出会った後の守谷は、もう昔の守谷ではない。そう言っていた渡瀬の言葉が、心の中で苦々しく広がった。

 東京の画廊や出版社へ出向くため、守谷は、しばしば家をあけた。
 北澤は適当な日に、約束通り、マンションに泊まらせて貰うことにした。
 作り主を失ったマリカは、それでも所詮は木像だ、悲しみもせず、いつものように居間に佇んでいた。渡瀬にとっては母親であったというこの女の像に、守谷がこれほどまでに魅かれたのはなぜなのだろう、と北澤は訝しんだ。マリカは、確かに美しい顔立ちをしている。造形も見事だ。思わず手をふれてしまいたくなるような、上品なエロティシズムにも満ちている。だが、結局は木像じゃないか。なぜ、出会った瞬間、恋に落ちるような衝撃を受けてしまったのか。あるいは、それもマリカの策略だったのだろうか。守谷の中に存在するアニマを刺激するような表情を、他人にはわからぬ形でアピールしていたということなのか。最初に売れた赤い絵と、《ギャラリー松井》で見た森の絵に描かれていた女性の顔が、マリカとそっくりであることに北澤は気づいていた。守谷は確かに恋をしていたのだ。そして、恋をすることで作風が変わったのだ。これが本当の人間に対する恋だったら、どんなに良かっただろう。時々は自分も女性同伴で付き合いに混ぜて貰い、皆で遊びにいったり、旅行していたに違いないのに。
 北澤はソファに座り、缶ビールを飲みながらマリカを眺めた。愛情など、ひとかけらも湧いてこなかった。渡瀬は壊すなと言ったが、そんな約束など靴の底で踏みにじってやりたい気分だった。
 一人で飲んでいると、脳味噌の中に、手足をバラバラにされたマリカの姿が鮮明に浮かびあがった。床の上に転がされた胴体、あちこちに散らばる手足、頭部、それを陶然と見下ろしている自分自身の姿。北澤は、その鮮烈なイメージに悪酔いしそうになった。これもマリカが見せる夢の一つなのか。自分の内部にあるものが、彼女の力で、心の表面に浮上しつつあるのだろうか。おれの心の中には、美しい女の体をバラバラにして、それを眺めながら、うっとりと陶酔していたいという欲望でもあるのだろうか。そういう気違いじみたファンタジーが、心の底の底で、炎のように燃えているのか。
 ビールの缶を握り潰すと、北澤は、鞄から糸鋸と錐のセットを取り出した。
 マリカに近づき、拳で全身を叩いてみた。
 頭部には木がしっかりと詰まっている。手足も同様だ。胴体を叩くと虚ろな響きが返ってきた。確かに中に空洞があるらしい。音を頼りに洞を探した。胴体の中央部あたりをその場所と見当をつけた。北澤は、マリカの腹部に錐の先端をあてがった。が、考え直して背中へ回った。
 マリカは《ウツホ木》だと渡瀬は言った。この木彫りの中に、どれぐらいの大きさかわからないが空洞があって、そこに何かが棲みついているのだと。北澤はそれを見たかった。からっぽなマリカの命の源――もし、そいつが全ての元凶なら、中から引き摺り出して叩き潰してやる。
 人間なら背骨があるあたりに錐で窪みを作り、そこに糸鋸の先を差し込んだ。アルミ箔で作った皿で木屑を受けとめながら、像の背中に穴をあけてゆく。木屑は、あとで接着剤と混ぜ合わて、穴を修復するために使わなければならない。仕上げに、トノコを塗り込んで滑らかに仕上げてやれば、ある程度の誤魔化しは効くだろう。長期間、騙し続けることは無理かもしれないが。鋸刃は順調に木材を削り、刃先は、少しづつ像の背中へ食い込んでいった。しばらくすると、ふいに抵抗がなくなって刃がズボッと中へ吸い込まれた。そして固い壁に衝突した。刃先が生き物や物質を貫通したという感触はなかった。単に、からっぽな穴の内壁に突き当たったという感じだった。北澤は、鋸刃を上下に動かしてみた。が、触れるものは何もなかった。
 ――本当に、洞があるだけなのか?
 北澤は、糸鋸をゆっくりと引き抜いた。抜き出された鋸刃には、全体に、白っぽい粉のようなものが付着していた。指先で撫でてみると、やや粘性を帯びた細かい粉が、ねっとりとからみついてきた。
 何だこれは……。
 その瞬間、ふいに頭の中で答が弾けた。
 真菌――?
 北澤は悲鳴をあげて洗面所へ走った。蛇口を全開にし、ほとばしる水道水の中で、狂ったように両手を擦り合わせた。石鹸が一回り小さくなるまで、何度も何度も両手を洗った。体が震えた。不吉にも、叔父の死に様が、まざまざと甦った。
 落ち着け、落ち着け、落ち着け!
 何度も言い聞かせていると、恐怖は少しづつ薄れてきた。が、不安は遠のかない。北澤は蛇口を閉めると、居間へ戻ってキャビネットを開いた。高そうな洋酒の瓶が何本も並んでいる。一番アルコール度数の高いものを掴み出すと、それを持ってキッチンへ走った。
「すまん」と、心の中で両手を合わせて守谷に謝った後、北澤は、シンクタンクの上で、自分の両手に酒をぶちまけた。強烈なスコッチの芳香があたりにたちこめた。酒の匂いは、ふいに喉の渇きを意識させ、氷の鳴るオンザロックの旨さと冷たさを思い出させた。こんな高い酒、おれの一生で、いったい何回ぐらい飲めるのだろうか。そんな馬鹿なことを考えながら、北澤は両手を丹念に擦り、充分にアルコール消毒した。それから洗面所の石鹸をもう一度使い、酒の匂いをきれいに洗い流した。
 鋸刃は、流水で洗った後に、何度も熱湯をかけて消毒した。マリカの背中に開けた穴は、洗濯機の横にあった掃除用のゴム手袋をはめて修復した。とてもではないが、二度と素手で触る気にはなれなかった。
 全ての作業を終えると、北澤は、来客用のソファにぐったりと身を投げた。
 マリカは相変わらず、彫刻として居間に佇んでいた。その表情に特別な変化はなかった。北澤の一連の騒ぎを嘲笑うように、うっすらと美しい笑みを浮かべていた。
 この美麗な木像の体内に、カビがびっしりと繁殖しているなどとは、とても信じられなかった。洞の中に充満している真菌は、じわじわと菌糸を伸ばして滑らかな木肌にその先端を食い込ませ、彼女の体を、ぎしぎしと侵し続けているのだ――いや、侵されているのではない。真菌自体も、彼女の体の一部なのだ。人間の身体が、水分と蛋白質からできているように、マリカの身体は、木材と菌糸によって構成されているのだろう。
 多分叔父は、ちょっとした傷口か粘膜から、そのカビを体内に取り入れてしまったのだ。偶然だったのか、何かの策略だったのか――そこまではわからない。今となっては、わかる必要もなかった。叔父はもう死んだのだ。
 だが――マリカの中に巣くっているものがカビなのだとしても、それを育てる洞が木像の体内にあるのだとしても、だからといって、なぜこいつは動くのだ。なぜ人間に変化する? マリカの空洞の中を満たしているものの正体は何なのだ。渡瀬や守谷から受け取った愛情なのか? 空洞自体が引き寄せた何かの魂なのか? あるいは、カビ自体が、この木像に生命を与えているのか?
 北澤はたまらなくなって、守谷のアトリエへ逃げ込んだ。
 ウツホ木。
 自然の精霊が籠もる洞。
 そんなもの信じたくはなかった。全て幻だ。渡瀬も守谷も狂っている。いや、もしかしたら、一番狂っているのはおれ自身なのだろうか。今ここに自分がいることも幻か。今まで起きた出来事、全て幻だったらどんなに良かっただろう!
 様々な考えが、北澤の頭の中を、わんわんと飛び交った。守谷のアトリエには、描き終えた油絵や、描きかけのアクリル画が散乱していた。色彩のオーケストラ。甘い油の匂いが漂う。ログハウスにいる時のような匂いがする。キャンバスの木枠の匂いと、麻布に塗られた膠の匂い。パレットの上の油っぽい匂い。
 部屋の中をいらいらと歩き回っているうちに、クロッキーブックの束を蹴飛ばした。ぱらぱらとめくれた黄色い薄紙に、木炭で描き散らされたモチーフ、エスキースの全てはマリカを描いたものばかりだった。マリカの顔・指・手足・体。守谷の頭の中で組み立てられ、再構築され、シミュレートされたマリカの動き・表情・艶やかな爪と肌・乳房・唇。その体の上に置かれた手のデッサン。胸をまさぐり、彼女の足を撫で、腹の上に指先を這わせている。
 横たわっているマリカの表情に苦しみや悩みの色はなく、あどけないぐらいに美しかった。思わず視線が吸いつけられた。木炭で描き出された手のデッサンが、自分の感覚と同化してゆくのを北澤は感じた。溺れる――それは溺れるような感覚に近かった。肉の暖かさの中に沈み込む――あるいは母親に抱かれてるような、甘ったるい感覚。生理食塩水の中に浮かび、ゆるゆると眠りの淵に落ちてゆく感覚に近いもの――。
(彼女が欲しくないか、北澤)
 背中越しに、守谷が囁いたような気がした。
(欲しいだろう。彼女はおまえの夢そのものだ。おれにはそれがわかる。おまえとおれは同類だものな。さあ、行って、飽きるまで彼女を抱くがいい。そうすれば、おまえの運命は開かれるだろう――)
 北澤は目を閉じた。歯を食いしばって呻いた。こんな世界に引き摺り込まれたくはなかった。おれはおれだ、守谷。おまえとは違う。マリカの言いなりになどならない、絶対にならない!
 床の上に両膝をつき、北澤は、何冊もクロッキーやスケッチをめくり続けた。
 ひきつった声が洩れ出た。めくればめくるほど、怒りと憎しみを掻き立てられた。マリカ、マリカ、マリカ、どこもかしこもマリカばかりだ。こんな場所であいつは生活しているのか。絵を描いているのか。そして夜毎マリカを抱きながら、彼女に望みを叶えて貰おうとしているのか。
 ――埋めなければ。
 渡瀬の言っていた言葉が、現実のものとして胸に迫った。自分自身すらも焼き尽くしてしまいそうな感情が、腹の底から湧き上がった。守谷を救い出さなくては。この閉塞した世界の中から。マリカの洞の中から。
 北澤は、クロッキー・ブックを置いて、立ち上がった。
 遠くで、マリカが笑っているような気がした。

(10)

 散弾銃で殴られた痛みは、当分、おさまりそうにもなかった。土の道を進むたびに、足の底から伝わる振動で骨がきしんだ。
 守谷は後ろから黙々とついてくる。時々、銃身の先で背中をつつく。もっと早く歩けという意思表示だった。
待ち切れないのだ。が、北澤には、これ以上歩くスピードを増すつもりはなかった。目的地に着いた時のことを考えると、体力を温存しておきたかった。自分には、まだやるべきことが残っているのだから。

 分骨された遺骨を貰って帰宅した日、マンションの駐車場で、北澤は一人の男に呼び止められた。
「渡瀬和義さんの甥の、北澤隆史さんですね?」
「そうですが」と答えて、北澤は相手を眺め回した。見たこともない男だった。歳は自分よりも少し上のように見える。俳優のように整った顔立ちの男だ。
「あなたの叔父さんから頼まれてきました。読んで頂けますか」
 男は手紙を一通差し出した。北澤は、レガシィのボンネットの上に、骨壺の入った包みを置き、手紙の封を切った。

 隆史へ

 この手紙が、いつ頃おまえの手元に届くのか、わたしは知らない。だが届け主の言う通り、おまえが素直に行動してくれることを願っている。
 この手紙を持参する男の名は《玉梓》、以前おまえに話したあの男だ。
 わたしは再度彼に金を払った。新たな願いを聞いて貰うためにだ。何も言わずに彼の指示に従ってくれ。おまえの身を守るためだ。
                               和義

 北澤は視線を上げて男を睨みつけた。相手の胸倉を掴んで、手元に引き寄せた。「貴様のせいで、おれ達がどれほど迷惑したと思ってるんだ。よくもまぁ、平然とここへ来れたものだな」
 男は微笑した。「殴るのは用が済んでからにして貰えませんか。わたしは前払いでお金を頂いてるんです。仕事はきちんとして帰らなきゃならない」
「遺言だか何だか知らんが、そんなものはいらん」
「いらないと言われても一旦引き受けた仕事だ。勝手にキャンセルするわけにはゆかないのです」
 男は北澤の腕を右手で掴むと、穏やかに自分の体からひき剥がした。さほど力を入れているようにも見えないのに、すさまじい力で、北澤の腕をボンネットの上にゆっくりと押しつけた。北澤の腕は、釘で打ちつけられたように、ぴくりとも動かせなくなった。左手で男の手を剥がそうとしたが、無駄な抵抗だった。
「渡瀬さんの遺骨を見せて頂けませんか」男は、静かに囁いた。「望みはそれだけです。一分もあれば用事は済む」
「……」
「頑固な人だ」男は感心したような口振りで言った。ボンネットの上の包みを左手で掴み寄せ、片手だけで器用に包みを解きながら続けた。「わたしに開けさせたいんですか、それともあなたが自分で開けますか」
「勝手に触るな」北澤は叫んだ。「それはおれの叔父の骨だ。勝手なことをするな!」
 男は自分の手を引っ込め、スラックスのポケットに無造作に突っ込んだ。北澤はホッとして自分の手を撫でた。不思議と、痛みは全然なかった。
「今のは魔法でも何でもありませんよ」男は微笑しながら言った。「格闘技の一つでも学べば、あなたにもできるようになりますよ」
 北澤は、黙って包みから骨壺を取り出した。手紙にあった癖のある文字は、確かに渡瀬のものだった。今は素直に信じるしかないと思った。渡瀬がマリカを作って以来、おかしな事ばかり続くので、北澤の感性は、いい加減麻痺している。
「こんなところで開けるのか?」
「本当は室内でやりたいんですが、あなたの部屋まで入り込むのも遠慮でね」
 男は、上着の内ポケットから薬包紙のようなものを取り出し、折り目を開いた。中には、さらさらした金色の砂のようなものが入っていた。北澤が壺の蓋を開けると、彼は金砂を中へ落とし込んだ。それから壺の中に指を突っ込んで、中の遺骨と金砂を素早くかき混ぜた。一度だけふっと息を吹き込み、それから蓋を閉め直した。
「これで終わりです。ありがとう。あとは、あなたの好きなように扱って貰って結構です」落ち着いた眼差しで、男は北澤を見つめた。「まだ、わたしを殴りたいですか」
「いや、やめておこう」北澤は苦笑いを洩らした。「おれの腕じゃあんたに勝てそうにもない」
「賢明ですね」
 骨壺を布で包みながら、北澤は訊ねた。「一つだけ聞きたいことがある。なぜ、叔父にあんな不幸な死に方をさせた」
 しばらく沈黙した後、男は答えた。
「わたしは世界の因果律を読むことを生業にしている者ですが、世界の全てを動かせるわけではありません。例えば人の生き死に関する事がそうです。渡瀬さんはお気の毒でした。でも、あの方は、結構、幸せに死んでいったんじゃないかと思います」
「あんなに苦しんで死んだのに?」
「像を彫り上げた時点で、彼は既に幸福でした。それ以上を望むなら、奪う立場から与える立場に変わるしかない。でも、彼のような生き方をしてきた人が、そこまで価値観を激変させることが出来るのは稀です。人間は、皆、自分の罪科や業を背負ったまま死んでゆくしかない。彼のような結末はよくあることです。決して、不幸な死に方ではない」
「おれにはそうは思えん」包みのてっぺんにキュッと結び目を作ると、北澤は男に向き直った。「おまえが叔父にマリカを彫らせた、そのことが、全ての元凶だったようにしか思えない」
「人には、その判断を正しく下せるほどの長い寿命がありません。残念なことですけどね。長い目で見た場合、彼のやったことなど些細なことです。元凶と呼ぶほどにも及ばない」
「だが、おれ達にとっては、その短い寿命の中で起きることが、人生の全てなんだ」
「わたし達は、平行線のようですね」
 アスファルトに焼かれた風が、あたりを吹き抜けた。遠くで子供達の嬌声が響いている。北澤は、渡瀬と同じ問いを発していた。「あんたは、いったい何者なんだ?」
「……そうですね」はにかむような笑みを浮かべながら、男は答えた。「古代には呪術師と呼ばれていたこともありましたが、現代では、わたし達の一族にぴったりの名称なんて、果たしてあるんでしょうか。大いに疑問ですね」
「毎日、こういうことをして暮らしてるのか」
「いいえ。普段は酒場でバーテンダーをやってるんです。酒場はいいですね。社会の素顔がよく見える」
「あの像は、どういう仕組みで動いてるんだ?」
「あなたが知っても、仕方のないことですよ」
「穴を開けてみたんだ、あいつの背中に」
 男は、ほうと声を洩らした。「珍しい。そこまでやる方は、めったにいないんですが」
「あの木像には、白いカビがいっぱい詰まってた。あれは何だ。叔父を殺した真菌か」
「あれは依代(よりしろ)なんです。カビを依代にして洞に霊を呼び込み、呪文を使って封じ込める――。こう言っても、あなたには、何のことか意味不明だと思いますが」
「確かにそうだな」
「真菌が、普段どこに棲んでいるかご存知ですか」
「さあ」
「森の土壌の中ですよ。自然は菌類の生命で満ちているんです。わたしは彼らの生命力とエネルギーを、ちょっとばかり借用しただけです。あなた方の知っている科学とは、全く違ったやり方でね」
 男は再びポケットに手を入れ、メモ用紙を一枚取り出した。
「これ、あなたにも差し上げておきます。わたしの手を借りたいと思うことがあったら、ぜひ、その番号まで電話をかけて下さい。一カ月以内なら連絡がとれます。どうぞよろしく」
 北澤はスラックスのポケットに、紙切れを押し込んだ。
 男は、ちょっとだけ頭を下げて黙礼すると、ガレージを横切って通りのほうへ消えていった。

 何度か家に泊まって守谷を安心させた後、北澤は、彼の上京日を狙って、マンションからマリカを持ち出した。渡瀬の遺骨と共にレガシィに積み、ログハウスのある山へ向かった。マリカは結局、北澤の前では、一度も人間に変わることはなかった。北澤の、彼女に対する悪感情が、死ぬほど不味くて、食えたものではないと悟ったのかもしれない。
 一瞬、山へ埋めるのではなく、海へ沈めてしまったほうが良いのではないかと、北澤思った。そのほうが手間が省けるし、守谷だって探しようがないに違いない。ここから一番近い海はどこだろう。北澤は、道路地図をめくり、海岸へ出る道を探した。
 だが、進路を変え、海へ出る道にさしかかった時、道路の電光掲示板で、そちら方面へ向かう高速道路が、事故で封鎖中であることを知った。偶然の一致に過ぎないのだろうが、あまり良い気分はしなかった。何かが海へ出ることを拒んでいる――そんな考えが、頭の端をちらりとよぎった。
 北澤は、来た道を引き返した。
 迷っている時間は、もうあまり残っていなかった。

「多分、このあたりだ」
 マリカを埋めた場所まで来た時、あたりはかなり暗くなっていた。が、まだ懐中電灯が必要なほどではなかった。それでも薄暗い森の中は、昼間とは全く違う色彩・光景で、北澤を戸惑わせた。探し出すのに時間が掛かるのは、必定だった。
「どのへんだ」守谷が周囲を見回しながら訊ねた。「掘り返したあとなんて無いぞ」
「草木でカモフラージュしてある。土が柔らかくなっているあたりだ。地道に探ってゆけばわかる。だが、明日にしないか、守谷。これから森の中はどんどん暗くなる。へたをすると迷って出られなくなる。危険だ」
「今探すんだ」守谷は靴の先で、下草を薙ぎ払い始めた。「手伝え。何時間もかかる筈はない。すぐに見つかる筈だ」
 銃を手にしたまま、守谷はマリカを探し続けた。北澤も気乗りしないままに、そこらの地面を蹴飛ばしていた。
 ふと、守谷が足を止めた。爪先で、土をせわしくほじくり返し始めた。その動作が次第に激しくなり、情熱のこもったものに変わった。
「おい、ちょっと来てみろ」
 そう言われても、素直に従う気は起きなかった。黙って立ちんぼうを決め込んでいると、守谷は北澤の腕を掴み、強引にそこまで引き摺っていった。
「掘るんだ、マリカはこの下だろう?」
「自分で掘れよ」北澤は答えた。「おれは右手を潰されている。両手のあるおまえのほうが、効率良く掘り出せるだろう……。自分でやれよ、マリカは、おまえのものなんだろう?」
 守谷はじっと北澤を見つめていたが、やがて銃口を彼に向け「後ろへさがっていろ」と命じた。北澤は言われた通り、背中に樹がぶつかるところまで後退した。
 自分の足元に銃を置くと、守谷は、四つん這いになって、両手で地面を掘り起こし始めた。もの凄い勢いで土が跳ね飛ばされた。まるで、機械が土を掘っているようだった。荒い息遣いが森の中へ吸い込まれてゆく。穴の中へ半ば身を埋めるようにして、守谷は土砂を掻き続けた。
 やがて彼は、目的のものに到達した。荷に掛かっていた紐に手をかけて抱き起こした。ばらばらと黒っぽい土を撒き散らしながら、布にくるまれた大きな荷物が、土中から引っ張り出された。守谷はポケットからアーミー・ナイフを出し、紐を切って布地を切り裂いた。艶やかな赤茶色の女の像が中から現われた。歓声が、彼の喉からほとばしった。
 一瞬の隙が生じた。
 北澤は地面を蹴って前へ飛び出した。守谷が、ハッとなって足元の銃を踏みつけようとした。北澤はその体を突き飛ばし、散弾銃を左手で拾いあげ、引き金に指をかけた。大声で怒鳴った。「どけ、守谷。その像から離れるんだ」
「マリカを撃つつもりなのか」守谷は像を抱きしめたまま訊ねた。「そうか……いいだろう……。だが、おれはこのまま動かないぞ。おまえに、おれを一緒に吹き飛ばすだけの勇気があるのか」
「撃つのはマリカだけだ、おまえは関係ない」
「無理だな。素人のおまえにそんなことができるわけがない。ましてや、負傷した指で引き金がひけるもんか」
「守谷、今ならまだ間に合う。引き返すんだ、得体の知れない世界から帰ってこい。そいつを粉々に打ち砕いて、陽のあたる場所へ戻って来い。おまえにはそれだけの力がある」
「……」
「どけと言ってるんだ、聞こえないのか!」
 突然、守谷が北澤に向かって突進した。北澤はかろうじてかわし、守谷の背中を銃の台尻で殴った。守谷はよろけた。前へつんのめった。北澤は体を捻り、穴の縁に立っているマリカに狙いを定めた。撃とうとした瞬間、守谷が後ろから組みついた。腰のあたりを掴まれ、後方へ引き摺り倒されながらも、北澤は引き金をひいた。
 当たってくれ、弾丸!
 耳を聾するような轟音が響いた。右肩と両腕にもの凄い反動がきた。同時に像の頭部が、破砕音と共に木端微塵になって吹っ飛んだ。マリカの腹のあたりを狙って撃った弾は、大きく逸れて頭部に命中したのだ。木像の、最も美しい箇所である顔の部分に。着弾の衝撃で像は殴り飛ばされたように倒れ、逆立ちしながら穴の中へ落下した。
 守谷の咆哮を聞きながら、北澤は仰向けに地面へ倒れ込んだ。一旦は彼の体がクッションになったが、すぐに地面の上へ投げ出され、乱暴に銃をもぎ取られた。無理な使い方をした右手に痛みが走った。間髪を入れず、鳩尾に守谷の靴の先が飛んできた。北澤はその一発だけで完全にダウンした。背を丸め、腹をおさえて地面に両膝をついた。守谷は北澤の胸倉を掴むと、ざらざらした太い樹の幹に背中を打ちつけた。後頭部と背骨を打った衝撃に、北澤は目が眩んだ。再び腹を蹴り上げられた拍子に、口の端から胃液を噴き出した。右手を捻るように掴まれた途端、北澤は叫び声をあげた。激痛に身を捩らせた。そのまま気を失いそうになった。
 守谷は、怒りを通り越して蒼白になっていた。ぶるぶると震えながら叫んだ。
「なんてことをしてくれたんだ、あの美しい顔を粉々にするなんて、なんてことを……」
 銃身が北澤の喉を押さえつけた。守谷は銃の両端を握り、北澤の気管をへしゃげ始めた。息が詰まり、気が遠くなった。北澤は彼の両腕を掴み、弱々しく抵抗しながら、力なく笑ってみせた。
 今度こそ死ぬんだな、北澤はそう思ったが不思議と悔いはなかった。おれは守谷の目の前でマリカをぶっ壊してやった。海の底へ沈めるよりも、このほうがずっと良かったに違いない。これで諦めがついただろう? 今度こそ本当に目をさますんだ。マリカは永遠に失われた。もう戻ってはこない。これでおまえは、明日から生まれ変わることができる。元の守谷光二に戻れる。誠実な絵描きに戻ることができる。その代償としておれの血が必要だというのなら、いくらでも流させればいいさ。ルポライターとして世に出ることだけが人生じゃない。要るのなら、おれの命ぐらい、いつだってくれてやる……。
 もう少しで意識が飛びかけるという時、ふいに首にかかっていた圧力が消えた。北澤は、支えを失ってその場に崩れ落ちた。地面に倒れた時、遠くから響いてくる、女の声を聞いた。
(光二さん……)
 微かな声だった。消え入りそうなほどに小さな声だ。うつ伏せになっていた北澤は、頭だけを動かし、目を細めて声がした方向を見た。前方に盛り上がった土の山が見える。マリカを掘り出した時にできた土くれの山だ。その土の山の一角が大きく崩れた。すっかり暗くなってきた森の中で、それでも何かが、穴の底から這い出してこようとしているのが、ハッキリと見てとれた。
 気配に気づいた守谷が、ポケットからカード型のライトを出してスイッチを入れた。突然、穴の近くの風景が明るく照らし出された。丸く切り取られた白っぽい光景の中で、異様な人影が浮かび上がった。
 それは首のない木像の姿だった。散弾で頭部を破壊され、体の中から白っぽい粉をふわふわと噴き出しているマリカが、ふらふらと揺れながら、それでも着実な足取りで、こちらへ向かって歩いてくる。
(光二さん)
 北澤は、再びさきほどの声を聞いた。そして理解した。これがマリカの声なのだと。
(来て……見せてあげるわ……あなたの未来と可能性、あなたの成すべきことの全てを……)
 守谷が銃を持ったままマリカに走り寄った。北澤は愕然とした。「馬鹿! 行くな! 守谷、帰ってこい!」
 擦れた声で叫んだが、守谷は振り向きもしなかった。両手を広げてマリカの体を抱きしめた。
 首のない木像と守谷が、恋人同士のように、お互い腕を体に絡ませた。守谷は涙を流しながらマリカを撫で、その首筋に接吻を繰り返した。正気の沙汰ではなかった。が、それ以上に恐ろしいのは、首のない像の腕が、人間のようにしなやかに動き、彼の背中を蛇のように這い回っていることだった。それは、北澤がついぞ見ることのなかった、人間の肉体を得たマリカの姿だった。夜毎に渡瀬や守谷を誘惑した、幻夢の世界にのみ棲む筈の、得体の知れない怪物の姿だった。
 北澤は、余力の全てを振り絞って立ち上がろうとした。肘で体を支え、左腕を突っ張って上半身を起こした。体を捻って守谷のほうを向き、彼の名を呼んだ。
 守谷は、ゆっくりと顔を上げた。その表情からは、苦悩の色が消えていた。清々しいとすら言えるような、静かな面持ちに変わっていた。彼は呟くように言った。「すまん、北澤。おれは彼女と一緒に行く」
 左手で自分の体に引きつけるようにマリカを抱くと、守谷は、散弾銃の銃口を地面に向けた。「追わないでくれ」
 銃声が響いた。北澤と守谷の間の地面で小爆発が起き、土埃が舞いあがった。
 守谷は一旦マリカから手を離し、銃の根元を折って空薬莢を排出させると、新たな弾を二発、装填した。そして、もう一度、筒先を北澤に向けた。
「殺さないという約束だけは守りたい。近寄るな。このまま行かせてくれ」
「嫌だ」
「邪魔をするのなら許せない……撃つぞ」
「撃てるもんか……」
 守谷の表情が淋しげに歪んだ。「わかるだろう、もう元には戻れないんだ。おまえならそれがわかる筈だ。おまえなら――」
 首のないマリカに変化が起き始めていた。白い粉が、自分自身の力によって自らの形をこねあげ、人の相貌を作り上げようとしていた。白い塊は、身を捩らせながら、やがて元通りマリカの顔を作り上げた。ショートボブに包まれた、ほっそりとした面立ち。アーモンド型の綺麗な両眼、そこにうっすらと浮かんだ優しげな色――。
 それは、木像の上に不自然に乗せられた、大理石の首のようだった。白い塊はぼんやりと光り、頭部が揺れるたぴに、ゆっくりと明滅を繰り返した。
 マリカの微笑みには、嘲笑や毒々しさはまるでなかった。天使のように無機的な表情、誰にも文句のつけようがない優美さと、暖かさと、心地よい冷たさ、性別を越えた麗しさ。北澤は、渡瀬や守谷が、なぜマリカに魂を奪われてしまったのか、ようやくわかったような気がした。この存在には、悪意というものが、ひとかけらも混じり込んでいないのだ。人間の愛情だけを信じて生きている存在――それがマリカだ。そういうものを、いったい誰が警戒するだろう。真剣に憎もうとするだろう。疎ましくは思っても、せいぜいが見ぬふりをして、その存在を自分の中から消し去ってしまうだけだ。北澤は思った。おれほどに彼女を憎んだ者などこの世にはあるまい。おれほどに、彼女を叩き壊してしまいたいと思った者など、この世には存在しないだろう!
(マリカ)
 ふいに、別の声がどこかから聞こえた。腹の底へ響いてくる、重々しい声だった。北澤も守谷も、思わずあたりを見回した。声は次に、もっと二人に近いところで弾けた。
(マリカと行こうなんて、気が早過ぎるね、守谷くん)
 その時、滑らかな動きで、マリカが守谷の側から離れた。
 声に縛られたように、守谷は棒立ちになっていた。北澤も動けなかった。
 マリカは二・三歩歩くと、蛋白石のように輝く白い顔を、ふと虚空に向かって持ち上げた。そして、安堵したような温かい表情を浮かべた。
(来い、マリカ。おまえは、選ぶ相手を間違っているぞ)
 マリカは納得したように笑った。像の中から、するりと抜け出した。木像を衣服のように脱ぎ捨てたマリカは、首だけの姿になって、宙をゆっくりと舞い飛んだ。
 広葉樹の闇の中に、滲み出すように一つの影が浮かび上がった。マリカはそれを見つけると、迷うことなく飛びついた。影は両腕を開くと、マリカの首をしっかりと受けとめた。そして、北澤と守谷に向かって視線を投げた。見覚えのある顔が、いつもの皮肉な笑みを浮かべていた。
「叔父さん……」
 半透明な姿の渡瀬が、暗い森の中で、マリカを胸に抱いて立っていた。首だけのマリカは、安らいだ顔をしていた。守谷に抱かれていた時よりも、はるかに安らかな面持ちをしていた。
 守谷が、弾かれたようにそちらへ向かって駆け出した。渡瀬は、片方の掌をゆっくりと前へ突き出すと、
(来るな、守谷くん!)
 と、厳しい口調で命じた。
「渡瀬さん……」守谷は足を止めた。声が震えていた。「マリカはおれのものです。返して下さい。マリカは……」
(言っただろう)
 渡瀬は、あざ笑うように答えた。
(君では手に負えない。十年、早いんだよ)
「そんな……」
 渡瀬はマリカの頭を抱きしめた。白い大理石のような頭部が、彼の体中へ、あっというまに溶け込んだ。
 自分の中へマリカを取り込んでしまうと、渡瀬は満足そうな表情を浮かべた。ゆっくりと、その場から消え始めた。
 渡瀬の瞳は、もう北澤達を見てはいなかった。マリカを抱きしめた腕の形を解くこともなく、彼は森の空気の中へ溶け込みつつあった。北澤の肺を焼き続けている、濃い森の空気の中へ。
 守谷が散弾銃を構えて連射した。が、そんなものが、今の渡瀬に有効であるわけはなかった。散弾は渡瀬の体を通り抜け、その背後にあった樹木の幹を荒々しく抉り取っただけだった。渡瀬が声もたてずに笑うのを北澤は見た。最後に、ちらりとこちらを見た目つきは、完全に人間のものではなかった。戦慄が北澤の背中を駆け抜けた。あれは叔父ではない。叔父の姿はしているが何か別のものだ。マリカと同じものだ。それが今、二人して去ってゆこうとしているのだ……。
 両眼を金色に光らせながら、渡瀬はその場から消え去った。あとには、北澤が、マリカと一緒に埋めた小さな壺が転がっていた。渡瀬の骨を納めた壺だ。玉梓と名乗った男が、渡瀬に頼まれて仕掛けをしていった壺だ。守谷がマリカを土中から引っ張り出した時、土砂と共にそこへ投げ出していたのだ。
 穴の側には、抜け殻になったマリカの像だけが残った。魂が逃げ去ったあとの、ただの抜け殻が。
 守谷が、放心したように土の上へ両膝をついた。微かに肩を揺らし、しばらくの間、断続的に笑い声を洩らしていた。が、やがてその場に突っ伏すと、絞り出すような声で激しく泣き始めた。行ってしまった、マリカが行ってしまった、おれ一人を残して、もう二度と手の届かない場所へ――と。

 自分の目の前で何が起きたのか、北澤は、理屈以外の領域で理解することにした。マリカは渡瀬と共に行った
のだ。あの木像の中に巣くっていた存在は、渡瀬の心の空洞に入り込み、渡瀬はそれによって満たされた。長い間気に病んできた心の穴を、マリカ自身によってようやく塞ぐことができたのだ。生きている間には決して叶わなかった望みをやっと得て、満足しながら、この世から去っていったのだ。
 だから彼は、もう二度と、この世には姿を現わすまい。
 叔父は今度こそ本当に死んだのだ。多分、この結末のためだけに、自分が生きながらえる道を全て放棄したのだろう。そのための契約だったのだ。決して、おれ達を助けるためなどではなく、人間として生きる喜びを、天寿をまっとうするための手段を、マリカと引き替えに全て投げ捨てたのだ。これっぽっちの未練もなく。

 あの木像に巣くっていたのは、いったい何だったのだろう――と、北澤は喘ぎながら思った。あれは自然の中に満ちている生命力そのものだったのか。あるいは渡瀬の分身、魂の片割れ、彼の良心そのものだったのか――だが、それも今となっては、どうでも良いことだった。全ては終わった、おれ達は生き残った。いや、置いてけぼりにされたと言うべきなのか……。

 北澤は木の幹を頼りに、何とか立ち上がった。樹木にもたれ、全身の痛みに震えながら、歯を食いしばって呻き声を押し殺した。
 傷口を縛るため、ハンカチをポケットから引き出した時、小さな紙片が一緒ついてきて足元に落ちた。例の男から貰った、携帯電話の番号を書きとめたメモだった。北澤は、血まみれの手で、それを千々に引き裂いた。
 この手は、もう使い物にならないかもしれない。少なくとも、当分の間は動かせそうにもない。そういえば、明後日が締め切りの原稿が一本あったのだ。印刷所へ回さなければならない原稿が。この怪我でワープロのキーボードが叩けるのだろうか、と北澤は、ぼんやりと思った。が、それが何だというのだ。おれは守谷を取り返した。人間の世界に連れ戻すことができた。それと比べたら、腕の一本ぐらい使えなくなることが、原稿の一本や二本落ちることが、いったい何だというんだ!

 北澤は、よろよろと守谷に近づいた。足元に落ちていた銃を力任せに蹴飛ばし、うずくまっている彼の側へ、倒れかかるように自分の体をあずけた。
 守谷は、北澤の肩にもたれかかった。両手で顔を覆い、必死になって嗚咽を噛み殺そうとしていた。
 北澤は彼に向かって言った。
「心配するな。時間はたっぷりあるんだ。おれ達はまだ若い。いつか必ず成功できる日が巡って来るさ。だから、それまで必死になって新しい仕事を探そう。絵を置いてくれる画廊を探そう。おまえの画集を出してくれる出版社を、一緒に探してまわろう……」

(了)


『ウツホの像』のTopページへ