『女神の石』

長嶋 有

 トイレには屋根がなかった。
「四角く区切られた空をあおぎながら用を足すのは不思議に開放的な感じがする」と大人たちはいった。マモルにはなんとなくしか分からなかった。マモルは屋根のあるトイレを知らなかったから。
 トイレだけでなく三階の屋根そのものがなかった。三階の途中より上はスプーンですくったみたいにえぐりとられてなくなってしまっていた。だから皆が「三階」といえば、それはつまり屋上だった。
「ゴジラが放射能火炎をふいたのだ」と河原田がマモルに教えた。トイレは三階の端にあったから壁もたくさん残った。反対の端にいくと、大人の膝から上あたりはなくなっていた。
 トイレの外には、それを裏付ける景色が広がっていた。廃墟となった手前の大型百貨店の腹に巨大な穴があいているのだった。その穴の向こうの建物も、そのまた向こうも、あきらかに円形のものが通過したような穴やへこみが、だんだん小さくなりながらつづいている。遠くからなにかが、あらゆる建造物をまっすぐに射抜いたのだと想像できる。マモルのいる建物は小さかったから隣にあった建物と円を分かつ形になっている。
「ゴジラは嘘だからね」英一が笑って訂正したが、マモルはゴジラというものも、それがなんなのか知らなかった。
「嘘なもんか。保をみろ」河原田は真面目な顔でいった。
「保のやつ、頭が真ん中だけ禿げているだろう。あいつは座高が高いから、トイレに座っているときに頭髪の上だけ放射能に焼かれたのさ」
 本当かなあとマモルは便器に腰掛けたまま思う。どんなに座高が高くたって、溶け残った壁の高さと保の座高は釣り合わない。マモルはトイレットペーパーを手に持っていた。雨で濡れないよう、下の階から持参する決まりだった。ペーパーホルダーは少し錆び始めていた。ホルダーの脇には傘が立て掛けてある。
 本当になにが起きたのか、誰にも分からなかった。
 急に暗くなったのでマモルは空をみあげた。飛行機の腹がみえた。黒いシルエットがゆっくり通り過ぎると再び太陽が現れ、マモルは目を細めた。誰かが大きなあくびをするのが聞こえる。
 トイレをすませて外に出た。
 ランニングシャツ姿の河原田が溶け残ったコンクリートの壁にもたれていた。あくびはまだ続いていたらしく、大きくあいた口がマモルにみられてやっと閉じようとしていた。
 三階はもともと何部屋かに区切られていたが、どの部屋もめちゃくちゃに荒れていた。誰も扉のあったところなど無視して、えぐられた壁をまたいで移動した。河原田は歯を磨きはじめた。泡をビルの外にぺっとはきだすと
「今、飛行機とんだぞ」と忌々しそうにいった。
「うん」マモルはあらためて廃墟の空をみやった。さっきは視界が狭くて一機しかみえなかったが、遠ざかる飛行機はブーメラン状の隊列をくんでいた。
「大丈夫。ここには来ないって」河原田は安心させようという口調だった。マモルはうつむいた。河原田の靴底が先からとれかけているのをみた。河原田の足の指がみえる。足の指は五本あると思った。河原田は鉄のコップでうがいをした。そして口の中の水をまた外に勢いよくはいた。
「痛いんだよ」河原田はそういうと唇をめくった。マモルにふくらんだ口内炎をみせてくれた。

 ピアノが聞こえた。河原田はちっと舌打ちした。一階のロビーで英一がひいているのだ。一階はガラス扉も窓も粉々になっていたから、英一のピアノの音は三階までよく聞こえた。「エンターテイナー」という曲だ。
「うるせえぞ!」河原田は下に怒鳴った。まだ口の周りに少し泡がついている。エンターテイナーの音がいつもと違うとマモルは気付いた。ところどころつっかえたり、弾かれるべき音がでない。
 英一はもう二本も指を切り落としているのだ。歯ブラシをもつ河原田の右手も小指がなかった。マモルはぶるっと身体が震えるのが分かった。それで建物の反対側にいった。
 周囲を見回せば、ゴジラは何回も、入念にあらゆる方向に放射能火炎をふいたのだと分かる。破壊の跡は無数にできていた。周囲にまともな建物は一つもなかった。支柱を失って倒壊したビルや、その下敷きになって瓦解した区画もあった。周囲一帯、人の気配はまったくしなかった。
 このビルにだけ生きて動く人がいた。河原田と英一と保と玲子、そしてマモル。
 物心というものがついたとき、マモルはすでにここで暮らしていた。橋の下で拾ったという言葉をそのまま真に受けていた。マモルにはこのビルが社会で、世界だった。
 マモルと並んで廃墟となった街をみるときの、大人たちの印象はばらばらだった。
 保は昔を懐かしんだ。
「あのビルが倒れていなかったころ、屋上のレストランにいったんだ。昔はね。倒れていなかったんだよ。昔はもっと綺麗だった」
 英一は批評した。
「とにかく、僕たちの科学力では不可能なことだった。僕たち五人が生きているのは、これを起こした誰かにすれば手違いか見落としに過ぎないんだろう」
 河原田は笑った。
「気分いいじゃないか。どうせいつか滅ぶと思ってたし。食べ物も当分あるし、トイレも流れる」
 玲子は泣いた。
「私たちは助かったんじゃない。きっと置いていかれたんだ」といった。
 そしてマモルはというと、きょとんとしていた。

「クリアランスセール」
「まろにえ商店街」
「パーラーオデオン」
「高圧電流」
「やさしさと信頼のはなまるクリーニング」
「ナシヨナル」マモルは屋上にたったまま、視界に入る看板の文字をよむ。英一や河原田が読み方を教えてくれた。
「大昔の会社はね、小さいヤユヨがなかったんだ。だからナショナルだけど、ナシヨナル」英一はいろいろなことを知っていた。物静かで、時折廃墟の街に出ては本をもって帰ってきた。あちこちの看板や標識を指さしながら
「なんだか星座を教えているみたいだ」と一人ごちた。その夜は英一が星座の説明もしてくれた。無人の街は闇に沈み、あまねく星は輝いていた。星のつながりにすら膨大な名前があることにマモルは感動した。それらの名前を覚える喜びに、マモルは生きていくことの楽しさを少しも疑わなかった。
 景色の中にはマモルの読めない字がまだたくさんある。廃墟には文字があふれていた。
「・・・ーク」遠くから視線を手前にもどしていくと、一番近くにはこのビルの壁にとりつけられた紫色の看板があった。ある晩皆に尋ねてみた。
「ホテルニューヨーク」と英一はいった。外壁に看板が取り付けられていたが上の部分はなくなっていて「ーク」の二字しか分からなかった。
「ホテルノイエムジークじゃなかったかなあ」と保がいった。
「ホテルミッキーローク」河原田が投げやりにいった。
「嫌だそんなホテル」玲子が笑った。
「ホテルといってもちゃんとしたホテルではないんだけどね。つまり・・・」英一が口ごもると
「ラブホテルっていえよ」河原田が横から笑いながらいった。
「厳密にはラブホテルじゃないんじゃないか。ロビーやピアノがあるなんて」英一が難しい顔でいった。
「ラブホテルってなに」
「セックスをするためのホテルだ」
「セックスってなに」
「もうすぐわかるさ」こんな壊滅的な状況でも道徳的なことを考えてしまう英一を笑った河原田だったが、ディテールまでためらいなく話すのは気が引けるようだった。

 とにかくマモルには知りたいことがたくさんあった。質問責めにしてうるさがられたが、マモルはなにしろ子供なのだから、いろいろ知りたがるのはおかしなことではなかった。
 マモルは自分の名前をどう書くのか知りたかった。英一や保のようにカタカナではない書き方があるはずだった。しかし誰も知らなかった。
「守だろう、普通」
「護ってのもあるな」
「なんでもいいんだよ、あなたの好きな名前にしなさい」といってくれたのは玲子だった。なんでもいいといわれるとマモルは困ってしまった。名前があるということがこの世界では唯一確かな規範のようにマモルには思えたのだ。
 ここの大人はあまりに知りたがらなさすぎた。この世界になにが起きたのか、今どうなっているのかといった根本的なこともそうだし、なぜ水道がとまらないのか、なぜ電気がつくのかといった実際的なこと、そしてこれからどうなるのか、生きてゆけるのかという将来的なことについて誰も口にしなかった。そうしてピアノを弾いてみたり、青空トイレに入っては開放感が、などといったりしていた。
 周囲がそんなだからマモルも実際暮らす上での不安はなかった。たまに飛行機の轟音が聞こえると(大きさからは考えられないほどの低さで飛ぶこともあった)不安になったが、その不安は大人たちが飛行機にはなぜか警戒してピリピリするので、その空気がマモルにもうつるためだった。
 ビルの外に出てはいけないといわれていた。景色は等しく破壊されていたので、遠くにいったら同じ景色の中、戻ってこられないだろうと懸念されたのだ。マモルは心外だった。毎日、凝視というぐらいにじっくりと景色を眺めているのだ。看板の倒れ方、道路の陥没、すべて分かるつもりだった。
 時々、玲子の涙を思い出した。そして自分たちが実は助かったのではなくて取り残されたのだという想像を自分もしてみた。実はどこかで助かっている大勢の人たちを想像するのはマモルには難しかった。

「うるせぇって」空をみていた河原田がまた下を向いて怒鳴った。河原田は絨毯素材の、しかし埃っぽい床に寝ころんでいた。物静かな性格の英一と荒っぽい河原田の仲は悪い。マモルはどちらとも仲がよいので、気を揉んでいた。
 いつからだろう。週に一度か二度、夜も遅くなると男たち三人はトランプをはじめた。はじめは、物品を渡したり取り返したりの小さな賭けを繰り返していたが、ある晩から緊迫感が増した。マモルにも伝わってくる真剣さがあった。
「一位の者が特別な夜を」勝った男は玲子と二階の一部屋にこもるようになった。マモルは不思議だった。
 あるとき英一のイカサマがばれた。同じ柄のトランプがもう一組、英一の椅子の下にあったのだ。イカサマをした方もしなかった方も憮然としていた。
「この世界にはルールがない」河原田は保に鉈をもってくるようにいった。
「だから、ここでちゃんとしておこうぜ。イカサマしたらどうするかについてさ」
 誰も反対しなかった。英一は怯えなかったし、おじけづきもしなかった。英一は河原田を睨んだが、保が英一の身体を抑えると抵抗しなかった。
 それをふくめてこれまで三回イカサマがあった。英一が二回、河原田も一回。
 指を切る様子をみるのは怖かった。怖いし不可解だった。保がイカサマをした者の身体を押さえつける。河原田が(英一が)切れ味のいい鉈を振り抜く。河原田は少しのためらいもなかった。目を背けて震えるのはマモルだけだった。イカサマをした方は切られる前から顔中に汗をじっとりとにじませていた。河原田は汗をながしながらも笑顔をみせた。
「さっさとしろよ」とさえいった。
 指を切り落とされた者は呻きながら、血がこぼれないようにか、手を高く持ち上げる。保が消毒薬を塗ってやる。脱脂綿はみるみる赤黒くなった。鉈をふるっていた者は、遠くで黙ってみていた玲子と連れだってさっさと上の階にいってしまう。翌日には皆なにもなかったような顔をしている。
 マモルは、一度もイカサマをしない保に聞いてみた。
「イカサマってのは、ズルってことだよ」
「なんでズルをするの」
「勝ちたいからさ」
「保は勝ちたくないの」
「そうでもないな。指を切られる方が嫌だよ。痛いもん」保はのんびりした調子でいった。そうすると、英一と河原田だけが互いに張り合っているというわけだ。二人になぜ勝ちたいのかとは、なぜか聞けなかった。

 エンターテイナーが終わるともっと静かな曲がはじまった。知らない曲だったのでマモルはあわてて一階に降りていった。知らないものは聞いてみたいのだ。
 一階はロビーだった。ロビーニューヨークなの、それともロビーノイエムジークなの、とマモルは尋ねたが、ロビーはただのロビーだといわれた。ロビーの壁際には小さなアップライトピアノがあった。玲子が英一にもたれかかるようにしている。
「なんて曲」マモルは近づいていって尋ねたが、玲子は指を口にあてた。マモルは玲子の隣にたった。英一は小声で歌も歌っていた。静かだった曲は突然リズミカルになった。英一はオペラ歌手のような声で陽気に歌いはじめた。そのうち曲はがらりと激しく、はやくなった。英一の歌も激しくなり、クライマックスを迎えると、とつぜん力無くぐったりした調子で最初のゆったりとした曲に戻って、終わった。
「なんて曲」終わると同時にマモルは尋ねた。
「ボヘミアン・ラプソディっていう曲」玲子が英一の方を向いたまま教えた。玲子のリクエストだったのだ。覚えがいのある曲名だとマモルは思った。
「ねえ。あんたこのままでいいの」玲子はいった。
「せっかくの指なのに、なくしちゃって」
「何度でもやるさ」英一は玲子をみつめた。それから大丈夫とばかりに次を弾き始めた。ロビーは暗く、二人の顔の表情がマモルには分からなかった。
「どうしても駄目なのか」片手だけで弾きながら、今度は英一が尋ねた。声はくぐもっていた。
「どこにいっても同じだよ」玲子は髪の毛をかきあげながら、今度は英一の方をみずにいった。
「同じじゃない。よそにいけばあいつらもいないし・・・」
「大勢いたほうが、まだマシだよ」
 玲子はそういったあとで「まだマシっていうのは、つまり・・・」と付け足そうとした。しかし英一は最後まできかずに八本の指で鍵盤をばあんと叩いた。
「うるせえっていってるだろう」すかさず三階から声がした。三階で聞いていたときは迫力があった河原田の声はここで聞くと間抜けに響いた。しかし英一は立ち上がった。それから憤然とした足取りで階段をのぼっていってしまった。マモルはどきどきした。
「馬鹿な男たち」玲子は小声でいうと、自分の苛立ちもそれでおさえられるというようにマモルの頭を軽く撫でた。マモルがなおも心配そうな顔をしていると、玲子はピアノの前に座った。そして弾き始めた。
 弾き始めると、やがて玲子は面倒なやりとりはなにもなかったかのように楽しげな笑顔をみせた。マモルもだから笑った。

 ガラスを踏む音がした。振り向くと保がホテルの外に日用品のどっさり入った袋を抱えて立っていた。以前にはガラスのはめ込まれていた入口のドア枠をくぐって入ってきた。
「ちゃんとシュガーレスのにしてくれただろうね」玲子は保に、というよりは買い物袋に近づいて自分の希望通りのものをもってきてもらったか物色をはじめた。しかし保は玲子にではなくマモルに向かって嬉しそうに
「わかったよ!」といった。
「英一が正しかったよ」いいながら保はレトルト食品のどっさり入った袋を奥のカウンターに置いた。
「ホテルニューヨークだ。ノイエムジークじゃなかったよ」マモルは嬉しくなった。
「どうしてわかったの」
「破片さ。破片」保は外を指した。二人は表に出た。ついさっきトイレにこもっていたころは晴れていたのに、外は曇っていた。雨気をふくんだ風が強くふきつけた。
「この青っぽいやつ」保は石のかけらをごつごつした頑丈そうな靴底でいじってみせた。
「自由の女神だったのさ」マモルはしゃがみこんで、辺りにちらばった破片を拾ってみた。
「自由の女神ってなに」
「ニューヨークにある有名な像さ。ホテルの屋上に、客寄せに立っていたんだ、きっと」
 破片は周囲にほんの少ししかなかった。マモルはその像というものの立っているところを想像してみようとして上を見上げた。雨粒が目に入った。まばたきすると、三階の端に人影がみえた。なにか叫び声がきこえた。
 もう一度まばたきすると、人が仰向けにどさりと落ちてきた。保がうわっといって飛び退いた。
 落ちてきた河原田の腹には刃物がささっていた。ランニングシャツは真っ赤だった。頭も強くうったらしい。頭部を中心に血だまりが広がった。まだ落ち続けているみたいにうめき声をあげつづけた。
 H・e・n・・・。
「ヘンケル」マモルはいつもの癖で刃物の柄についた文字を読んでしまった。河原田は身をよじらせながら、は、は、は、といった。無理に笑おうとしているようだった。
「駄目だ」河原田は視線だけを下に向けて、刺さっているものをみようとした。
「笑うと痛いんだ」
 本格的に雨が降り始めた。玲子が無言で近づいてきた。保も一言もいわなかった。
 三人は三階を見上げた。撫で肩の英一が立ちつくしている。雨足が強くなって全員をさらに沈黙させた。

(了)


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