『ボルツマン・インターセクション 』

高本 淳/原著者による脚注

 彼と同時代の人の多くは、ボルツマンの仮説や議論の信ぴょう性を疑った。彼らは、「目に見える変化の底流をなす深い宇宙のことわりの中には、合目的性が存在する」と主張していたが、ボルツマンの仮説によって、その主張が否定されるかもしれないと恐れたのだった。ちょうど、ダーウィンの説がそのころ、合目的論の化けの皮をはいだように――。ボルツマンは、彼らの侮辱に苦しみ、情緒不安定と不幸に打ちのめされ、自殺してしまったのだった。(P.W.アトキンス『エントロピーと秩序』米沢富美子/森弘之訳)

              *

 転がる岩とうねりの一拍ごとに動き続ける“違世界”……太陽系第五惑星『地球』の夜の荒野でぼくたち三人は焚き火を囲んでいる。周りは横たわったままで時どき鰓をばたつかせたり悲しげな呻き声をあげたりするドラゴンたちの影。
「さて、こんな夜のことだ。その“声”がわしにたずねた……」さっきから牧童頭ひとり喋っていてぼくはもっぱら聞き役にまわってる。
「声の主はあいつ? 世界中のあらゆる者の目のなかから密かにのぞいている……」
「そうだ。奴は殺された後も声だけになって内側からわしらを滅ぼそうとしているわけさ」
「それって“キッド…”?」時おり口をはさむもう一人はまだ少年だ。
「しっ」彼は年若い牧童をたしなめた。「名を呼べば奴に力をつけるだけだ」
「それで声は何て?」
「質問だよ、妙な……。ハイペリオンについて知っているかとさ」
「“ハイペリオン”って? ダン・シモンズの?」
「違うね。むろんヘルダーリンの書いたやつでもない。奴の言っているのは衛星のひとつらしい」
「そんな名前の星があるの?」と少年。
「土星をめぐる不規則な形の岩だ。そいつはここのところずっと混沌に落ち込んでいるという」
「混沌は大きな岩とうねりが作るものだから?」
「そのとおり。しかもさがせば誰にでも見つかる。パイ生地をこね上げる根性さえあればね」少年の薄笑いを見て四本腕の牧童頭は言った。「いやいや真面目な話さ」
「よくわからないよ」
「それじゃあこれはどうだ? 一羽の利口なオウムがいるとする」
「オウムが利口なのは知ってるさ」
「まあ黙って聞け。そいつは特別頭のいい奴なのさ。誰の声でもそっくり真似をするし、いかにもそいつの言いそうなことを喋る。……さてある日お前はあの海辺の町の俺の部屋の前で“俺の声”を聞いた。ドアには鍵がかかっている。なかにいるのはオウムか俺か?」
「そんなのわかるわけないだろ」
「どうしても知りたかったら?」
「もしそいつがオウムなら何時かボロを出すだろうから、それを待つよ」
「言ったとおりそいつは利口なオウムだ。長い間待つことになるかも知れないぞ」
少年は肩をすくめた。
「逆に言うとしようか……相手がミスをしないかぎり中にいるのが“オウムでない”ことをお前さんは何時までたっても確信できないはずだ。こいつを『ヴィトゲンシュタインのパラドックス』という。つまり言語というゲームの規則は言語自身では明示できないものだから、相手が自分と同じ規則に従っているかどうかを人は有限な時間のうちに知ることはできない、というわけだ」
「それとパイ生地作りと何の関係がある?」回りくどい話に少しいらいらしながらぼくはたずねた。
「いい加減なところで妥協するのが利口ってことさ。『ヴィトゲンシュタインのパラドックス』を数学的な表現で置きかえると“ある数列が読みあげられていくとき、それが本当はどんな規則に従っているかを人は決して知ることができない”になる。あるいは逆に一見ランダムな数列が本当にランダムであるかどうかを証明する方法は“一般には”ない、と言ってもいい。いずれにしてもそこには無限に継続するシークェンスを読みとる作業についてまわる現実的な限界がからんでくる。
 ……理屈ではパイ生地を折りたたみ続ける限りバターと小麦粉の層はいくらでも細かく重なるはずだ。だが実際にはやり過ぎたら少なくとも人間の目にはメチャクチャにかき混ぜたのと区別できなくなってしまうだろう。つまりそれは混沌と呼ばれるランダムさだ。“奴”が言うには、少なくとも混沌のひとつのタイプは実在というよりもむしろ俺たちの認識能力の限界との関係のなかに立ち現われてくる」
「そんなこと言われるまでもないさ」
「だがその事実があいつの仕事を助けている! ゲーデルの名は知ってるだろ?」
「いいや」と少年。
「アインシュタインのそれと交わるもうひとつの曲線を描き出した人物」とぼく。
「その曲線の成果のひとつに『チャーチとチューリングの提唱』がある。例えばその表現のひとつは『数学の問題は数学を行なうことによって解かれる』というものだ」
「馬鹿げた同語反復だ」
 相手は低い笑いをもらした。「確かにな。だが考えようではそうでもない。肝心なのは『数学を行なう』という言葉が……ある数がある性質をもった集合の仲間であるかどうかについて“再帰的な手段によって有限な時間のうちに”判定すること、を意味する点にある。“再帰的な手段”とは、まあ、コンピューターの働き方だと思えばいい。つまりこの『提唱』を言い換えると『数学的な性質を持った問題についてはあらゆる者が同じプロセスをとおして同じ結論に達する』ということになる」
「そう聞いても全然驚かないね」
「いいや、お前さんはまだわかってない。『あらゆる者』とはたんにあらゆる数学者だとか、あらゆる人間だとかを意味しているだけじゃない。たとえば百億光年離れた惑星のアメーバ状生命であろうと〈心的調和ともつれ狂った反応の連合〉を利用した人工知能であろうと、あるいは神ご自身であろうと……およそ論理的に思考する存在はすべてこの提唱のいう推論能力の限界……つまり『万能チューリング機械』としての限界を持つだろうということなんだ」
「それじゃ、あんたは神が完全じゃないと言っているのかい?」
「この“不完全”さを数学者たちは『オメガ』と呼んでる。それは“数を数えることに終わりがないのと同じ様に、ひとつづつ増えていく数値を変数に代入した論理の命題がすべて定理であっても、それらをひっくるめて全称命題としたものを定理にすることができない”といったような意味だ。
 そしてゲーデルの“定理”はラッセルとホワイトヘッドの『プリンキア・マテマティカ』の形式システムが数論を完全に模倣しながら、なお“オメガ不完全”であることを示している。同様に神の推論がもし数論の命題をすべて証明できるほどに十分強力かつ“完全”なら、それは必ずその内部に再帰的な手段によっては真とも偽とも判定できないような命題を含んでいなければならない。つまりたとえ神であれ、完全な論理的推論をする存在は必然的に“オメガ不完全”でなければならない」
 なんとなく背筋がぞくぞくしてぼくは背後の闇をふり向き、それから自分の耳をかきながら牧童頭を見た。
「…まあ、そこまではわかったとしよう。それが奴の仕事を助けるという理由は?」
「有限な時間のうちに無限の手続きを含む推論をすることは神にもできないという事実について今わしらは同意したわけだ。そしてもしそうなら同様に最初の小さな数値の違いを極端に拡大していくようなシステムの将来を神は予想できないだろうということになる」
「納得できるように説明してくれないかな?」
「つまりこういうことさ。パイ生地の折り畳みのアナロジーが意味しているものは、“x→kx(1−x)”……“ロジェスティック”と呼ばれる写像の幾何学なんだ。この写像はkとxを軸とする平面上で無限にふたまた分岐する樹木状図によってあらわされる。こいつがユニークなのは自分自身の相似形をその部分としてもってること。つまりkの値がある領域にあるときにはxの値は無限の入れ子構造の演算によってのみ求められる。これはkの値のごくごく微小な変化でxの値が大きく変化することを意味していて……つまり有限な時間のうちに無限階の演算操作ができる存在をのぞいてxのおおよその値を求めることすら不可能なんだ」
「そして神はそういう存在ではない?」
「気象や経済を始めとしてほとんどの“複雑”な現象は同様のフラクタルな性質を持った方程式で書き表わされる。いっけん単純にニュ−トン的な天上の秩序に従っているように見える天体運動でさえ……あのくそいまいましい衛星のとんぼ返りのありさまを描写するためにはこの非線形で自己相似的な書式が必要とされるんだ。だからこそこうした性質を持った諸現象の総体としての世界そのものの動きを原理的に神は予想できないってことになる」
「“神はサイコロ遊びをしない”んじゃなかったっけ?」
「神はサイコロ遊びができるし、それを楽しんでいると思うね」
ぼくはため息をついた。「なるほどそれは奴にとって願ってもない結論だな」
「どういう意味?」
ぼくたちはそろって無邪気な少年をふり向いた。
「ティヤール・ド・シャルダンとジョン・レノンの神話は知っているだろ?」
「もちろんジョン・レノンの名なら知ってる。ビートルたちのひとりだった」
「地上から国というものがなくなり人々がただ平和に日々暮らしている世界を想像してごらん、と彼は歌った」
「ああ」
「そしてシャルダンは同じことをキリスト教神学にそくして体系づけたのさ。宇宙の歴史というものはすべて単純から複雑へというものごとの進化をその本質にふくんでいる。赤熱した溶岩の大地に地圏がつくられ、有機物質の溶け込んだ原始の海の混沌から豊かで複雑な生命圈がうみ出されたように、いまたがいに争い傷つけあっている人間たちもいつの日かより複雑で高い段階へ進化した精神圈のなかに“超人間”として一体となって結ばれるだろう。それはヨハネやパウロによる“すべてであり、すべてを完成するもの”としてのイエスへの信仰の道とも一致する……と彼は考えた」
「だがもし神が“オメガ不完全”であるなら……」
「神は南米ではばたいた蝶を見てやがて東アジアを襲う台風の発生を予知することはできない。ましてわしらひとりひとりの活動が複雑な影響を与えている世界の将来を計画することなどできるわけもない」
「それじゃ、ティヤール・ド・シャルダンの言っていることは?」
「非論理的で夢想的な願望……ってところだろうな」

 暗い荒野のむこうで赤い髪をした別の少年がニヤリと笑った。

              *

 早朝左舷遠くにレムノス島。オルフェウスの首が埋葬されていると言い伝えられるレズボスの沖をすでに船は夜の間に通過していてその島影は見えない。長き櫂をそろえコルキスをめざしたいにしえのアルゴノートたちの航路をやがてぼくも横切るだろう。海の魚たちを船の周囲につどい集めたという彼の歌声のかわりにアズナブールを甲板のスピーカーから大音量で響かせながら。アイガイアの海原の葡萄酒色はしかし、英雄たちの生きた昔と少しも変わらないはずだ。

 もちろんこの物語を書くにあたって、ぼくはいくつかの現実の単純化を自分に許した。例えば“再帰的に計算できない”という表現のもとに本来は別々に考えるべきである万能チューリング機械についての“離散的”な計算不可能性と、カオス力学に関係する“実数連続性”にもとづくそれとを故意に同一視している。さらにヴィトゲンシュタインのパラドックスについても……もともとはその議論が修辞学以上に意味論に関係したものであるにもかかわらず、あえてそうした事実を無視した。
 なぜならぼくが望むのは厳密な議論じゃなく宇宙についての直観的感情表現なのだから。たぶんこの“牧童頭”の結論はホフスタッターたちと同様“強いAI”の立場からのそれになっているだろう。人間の心が万能チューリング機械としての限界をもつなら神のそれも同じ……過激な極論に聞こえるかも知れないけれど、その主張は神秘的な超能力によって一気に物事の本質を見抜けるという擬似科学的宗教運動に特徴づけられる超越性への傾倒を否定するものでもある。つまりそれが正しい主張であるかどうかということより、この“神秘主義”から慎重にとった距離……こそが“グノーシス”の本質であるという主張を描きたいとぼくは感じている。

 船はトラキアの岸をめざす。オルフェウスはエウリュディケを失った後、彼の土地のバッカイたちによって八つ裂きにされたともいう。キュベレーとともにけざやかな神話世界のただなかに深い闇を落とす荒らぶるデュオニソス。その出生のとき、嫉妬に狂ったヘラは妊娠したセメレーを屠るべく比類なく見事なパラドックスをしかけた。憐れな妊婦は主神ゼウスにこう願ったのだ……“あなたが十分強力なシステムなら、わたしにそれを証明して見せて欲しい”……人はその神を信じることのみに満足せず、やがてその存在を確認したいと望む。そして哀しいことには限界を越えた人のその願いはつねに身の破滅をもたらすものであるらしい。

              *

 湿った霧が麓の方向からわきあがり一瞬視界を閉ざして稜線へと流れ昇る。ぼくが歩いているのは急峻なガレ場を横切る隘道……のはずだ。なのに様子がおかしい。ときどき足許のもろい板石がもうろうとかすみ目をこらすとまざまざと金押しされた文字が浮かびあがってくる。あんまりその幻がはっきりとしているものだから背表紙を上に積み重ねられた書物の山のうえを歩いているみたいにも思えてくる。しかも裸足の裏には革の装丁を踏みしめる柔らかな感触。
「痛!」
 向こうずねにいやというほど“角”が当たりぼくは叫んだ。“角”だって? 何の?……涙にかすむ目で見ると足もとには『葉脚類化石標本便覧4訂版』と書かれた分厚い書物が落ちている。
「おや、おや。たまたま通りかかるとは不運だったな」
脚を押えてうずくまる頭の上のほうで声がする。
「手がすべっちまってね。悪いが先を急がないならそいつをここまで持ってきてくれんかね?」
 なんとも虫のいい申し出じゃないか? むっとしながらもその本を抱えて跛ひきつつ急坂を上りはじめたのは、果たして自分がどこに行こうとしていたのか、そう言えば見当がつかないという事実に気づいたから。そもそもここはどこなんだ?
「そうさな。人間たちの呼びかたで言うなら……カナディアン・ロッキー山中」
 手わたされた恐ろしく重いその本の埃をはらいかたわらに積み上げられた書籍の山の上に慎重にバランスをとって乗せながらその老人は答えた。
「あるいはヨーホー国立公園。さもなきゃブリティッシュ・コロンビア州。どれでもお好みしだい……しかし一番名高い名は“バージェス頁岩”だ。ところでおまえさんはどこへ行くつもりなんだね?」
 答えにつまり、ため息をつきついでにぼくは周囲を見渡した。急に霧が吹き払われ全景をあらわした広大な岩場の斜面のあちこちで男たちがタガネやハンマーをふるってる。
「ずいぶん前にいっしょだった者が死んだ。あるいは殺されたのかも知れない。それで旅に出たんだ。以前はりっぱに神話的な目的もあったのだけれど……今となってはよくわからない」
「ふむ……そいつは普遍的な動機だ。だがいずれにしてもこの道はちょっと先で行き止まり。わしらに用がないかぎりあんた道をまちがえてるな」どうもそうらしい。
「少し休んでいったら? そこの魔法瓶に熱いコーヒーが入ってるぞ」言われて遠慮なくちょうだいすることにした。本をとどけてやったんだし岩の間をぬう長い登りで喉もかわいていたから。
「ところでそいつは岩? それとも書物?」
ぼくの好奇の視線の先でにやり笑って相手は表紙をたたく。
「両方かな。この岩山全体が一冊の膨大な書物と言っていい。まあ見ていてごらん」
彼は足許のタガネとハンマーを取り上げ掘削された壁のひとつに歩みよった。「頁岩というのは無数のページからなっている。そこで適当な厚味に切り取ると……」
無造作にタガネの刃の一撃をくわえると鋭い金属性の音とともに岩の一片が欠落した。
「分冊が手にはいるという寸法さ」
ぼくは目をしばたたいた。そこにはていねいに装丁された『便覧』が一冊落ちていた。
「どれどれ。うーむ」老人はページをぱらぱらめくると図版のひとつに目をよせた。
「……たとえばこいつがオパビニアだ」
「“オパビニア”?」
「約5億年前、カンブリアの大爆発で生まれたかわいいモンスターたちの一種族だ。ほれ、ハサミ状の長い口吻がわかるだろ? しかしこいつはなかなか見事なサンプルだな」
押しつぶされた5億年前のちっぽけな化石をほれぼれ眺めている老人を前にきっとぼくは少しばかり否定的な心情をあらわしていたにちがいない。気づいた彼はちょっといらだたしげに説明するのだった。
「ユニークな形状の口吻に突出した五つ目……この種族の子孫にあたるものは現在まったく存在していない。もしも生き残っていたらSF作家の想像力をも陵駕するさぞかし奇怪な外形の生き物だったろうにな」
「そんな昔に絶滅した種族に何かの重要性があるの?」
老人はぎょろりとぼくをにらみ、「絶滅したからこそよけいに重要であるとも言えるぞ。つまり生命の進化が必然ではなかったことの左証というわけだ……ところでわしにも一杯くれんかね?」。
 魔法瓶のフタにコーヒーをついで手わたすと相手はベストのポケットから取り出したフラスコの中身をそこにたらし、ちょっと弁解めいた口調で言った。「スコッチだよ。日が暮れると冷えるからな。あんたもどう?」礼を言ってことわって気がつくと霧はすっかり消えて地平まで連なる峰々をシルエットに日没もちかい。ぼくは空洞になった剣の掴……二十ある穴の調整で立派に演奏できる……をそっと唇にあて『亡き王女のためのパヴァーヌ』の主題を静かに奏でた。作業している男たちのうち幾人かがふり向き、雄大な眺めにあらためて気づいたように背筋をのばすのが見える。老人はといえばぴくりと身動きし首をかしげて…あまり思い出したくない何かを思い出してしまった様子。普遍的な動機?そう言われればそうなのかも知れない。
「客人、そいつはあんまりぞっとしないな」
 ぼくは演奏をやめ、コーヒー片手にかたわらの書籍の山を無表情にかき回していた彼は大部な一冊をつかみ出して膝の上にいとおしげにひろげた。
「さて、ご覧。こいつが最近一番の収穫だ。例のアノマロカリスの全身化石だよ」
“例の”と言われたって……ぼくはのぞき込んだ。数十センチにおよぶひしゃげた体節の連鎖。とび出た眼柄。海老の尻尾みたいな奇妙な食手……この歪んだ円形が仮に口だとしたらだけど……。
「カンブリア紀最大最強の種族だ。絶滅した原因は謎だ。そして一方で……」別のページにはまるでさえないナメクジみたいな生き物。「……ピカイアは生きのびた。人間を含めた脊椎動物たちの祖先さ」
 つまり老人の話はこういうことだ。もしも時間をカンブリア紀初期まで巻き戻してもう一度よーいどん……進化のレースを再開したら、たぶん今度は別の種族たちが生き残り今日までに至る生命の歴史はまるで違った様相をていしていただろう。現生種は無論のこと化石に残る見慣れた生物たち……たとえば恐竜たちさえ存在していなかったかも知れないのだ。 「化学溶液のなかに結晶が析出することを想像してごらん。外部と熱的平衡にたっするまでビーカーの温度は下がり……そして混沌のなかから結晶が生まれる。しかし系全体のエントロピーは間違いなく増大してるはずだ。そして注目すべきなのは生命という“結晶構造”のもつ最低エネルギー状態が複数個あること。熱っせられたカンブリア紀の海をじょじょに“冷やして”いったとき、そこに残る構造は無数の可能性のうちのひとつでしかない。ちょうどあのスピングラスの物性のようにね」
スピングラスなんて聞いたこともないけれど……「あらゆる生物は偶然によって産み出され形づくられてきたのさ」
「て、ことは人間もまた?」
「言うまでもない」老人はうなづく。
「……何時も不思議に思っていた。宇宙が熱的死に向かって突き進んでいるっていうのは本当かな?」とぼく。
「そういうことになっているね」
「それなのになぜ生命はそうまでして進化しつづけようとするんだろう?」
 老人はたっぷりコーヒーの入ったフタを岩の上に置いて静かに言った。
「さあ……だが、かつてそう信じられていたように宇宙の歴史は最終的に人間あるいはそれに準じた知性を産みだすことを目的とした過程ではない。少なくともそれだけは確かだろうな」
「“神話はいつも目をつぶるのにいちばん難しい場所にある”」
「え? なんだって?」
「昔の知り合いの言葉です。……でもぼくには人間の存在がこの惑星の歴史の偶然がもたらしたハプニングにすぎないっていう結論は気安くは飲み込めないな」
「ふん。スペンサーやベルグソンやシャルダンの仲間がまた一人か……」
「だってあなたの言っているのは物語にはゴールはなく先はわからないということなんでしょ? つまりこれら全体がすべて大きな岩とうねりのなかで果敢なく響く不協和音かも知れないって……」
「お若いの、それが現実なら仕方あるまい?」
 風が強くなり紫色の夕闇が麓からゆっくりはい登ってきた。ぼくはなかば無意識に物悲しい和音をいくつか重ねながら夕星またたく地平を眺めた。

              *

 突然のヴォスポラス海峡の雨。鳥肌立つ海面を風はアジア側からヨーロッパ側へと吹き渡っていく。桟橋に寄せ集められた小舟はまるで海老たちがカドリールを踊っているようにひょこひょこと上下し、茶屋の主人はあわてて表のテーブルや椅子をたたみ始める。ずぶ濡れになって走っていく赤髪の少年。その孤独な軌跡と交差して通りを足早に横断していった痩犬。茶に汚れた受け皿に欠けたカップをもどしながらぼくは自分の乾いた靴下に感謝する。吹き込む冷たい潮の匂い。旧市街にかすむ回教寺院のか細いミナレットを雨はやはり濡らすのだろうか?
 しばらくして通り雨が止んだ後でぼくは魚市場のほうへ降りていってみた。ビザンティンの時代の摩耗した石段の脇、オレンジ色のビニール袋のなかでギリシア活字の古新聞にくるまれたイワシたちが揺れている。魚屋が店先でマグロを解体していてその様子をぼくは子供たちとあきもせず眺めた。樽のなかの血水に沈んだ臓物を淡いタヴィ色の猫がねらっている。
 度重なる陵辱の歴史にもかかわらずこの都市に涙はにあわない。幾人もの主人の持ち家になりつつ数百年生きのびてきた強かさだけではなく、掠奪されながらその都度なお誇らしげに“コンスタンティヌスの都”と呼ばれた町。“カイとロー”の印において打ち勝った皇帝のすべる帝国が自らの聖都を強姦したとき、ゴルゴダの丘への道は全世界へと続くことになったのだ。
 つねに異教徒たちのなかにあって己れの信仰を守り通したビザンティン。その様式は混沌。その技法はコラージュ。そのコンセプトは懐柔。八世紀以降新興のブルガリアの脅威に対処するために帝国は異端の民を選らんでトラキアに移住させた。そしてぼくはセラフィムならぬ蝿の舞い飛ぶ下で夢想する。もしもコンスタンティノープルの帝国の三つの華麗な都市のひとつとまでうたわれたフィリッポポリスが、あの野蛮な十字軍によって灰塵に帰すことがなかったなら……パウロ派の教えはやがてキエフやロシアの民に受け入れられ生きのびていたかも知れない、と。
 物語のつぎの展開で主人公はグノーシスの本質についてPHAEDRAにたずねることになるだろう。

              *

「かつて資本主義は過剰な生産のはてに瓦解すると予言した男がいたわ」
海に面した大都会の混みあった社交場で“ダヴ”は言う。
「しかし実際はその男の予言のとおりにはならなかった。わたしたちはその手の専門家たちを総動員してつねに自分たちの欲望を喚起しつづけているから。たぶん人間の欲望は無限に生産を飲み込み続けることができるのでしょうね」
「それがあなたたちのしていること?」
「わたしは誰もが恋愛しつづけることをうながす存在。現代の一部。行く道の混乱をいつでも豊かにしておくべきことをめざすもの、そう言えばすべては明らかじゃないかしら?」
 明るい瞳とほほえみの絶えぬ唇。バルコニーのうえで無数の眼に見つめられて銀色に輝く“偉大な白い雌犬”。
「……でも、でも」少しどもりながらぼくはたずねた。相手が実は“彼”でもある変幻自在、両性具有の存在であることを思い出して。
「それですべてなんだろうか? どこかに別の道が?」
「さあ」ダヴの眉がかげった。
「何時かは世界もその運動も変化する時がくるかも知れない。その時はわたしも役割を終えて舞台から引き下がることができるでしょう」
そして“彼女”はすべすべした両腕をあげてこのバルコニーから見える世界をまるごと抱き締めるようなポーズを見せた。
「でもいまはスポットライトを浴び続けるのがわたしの仕事。このダヴの“撃力”が宇宙という大きな機械を動かしている……その事実を他の何かと取りかえることは少なくともここ当分の間できそうもないわ」
 ぼくはバルコニーの手擦りを握り締めて夜の中を見通そうとするように身を乗り出した。この闇のどこかにあの若者がいる。愛を説き、明日を予言し、奇跡を行ない、崇拝されたあげく撃たれ、大木にかかげられて……。
「彼は過剰なものを本当に理解できていなかったのだわ」すぐ背後にダヴの声が聞こえた。首筋に吐息がかかるのがわかるほどの近さで……彼女の言っているのは十字架の上の若者のことだろうか? それとも資本主義の終焉を予言したとかいうあの男のこと?
「わたしたちの力は混沌から引き出される。だからそれがどんな予言にせよ未来を見通すことができると主張する者たちをわたしたちは拒否しなければならない」
「でもそれでは一体……」
「“どこに神話と英雄たちは行ってしまうのだろう?”」銀の産毛のオーラに包まれた両腕がぼくの胸の前で組み合わされ甘い声がささやいた。
「そんなものはいらない。いつまでも駆け続けていたいのなら過去と一緒に人であることのあらゆる重さは捨てなければ……なぜあなたは九十九にしがみつくの?」
 そのとき社交場の床がゆっくりと回転を始めた。両義性をもった人々の足の下で両極性をもった偏光プラスチックが透明になる。そこに現われるのは暗く錯綜した迷宮……あるいは無機能者たちのための“終容所”。
「はーい、ベイビー!」
 下からPHAEDRAが叫んだ……心的調和ともつれ狂った反応の連合を取りあつかう顔なじみの中央演算装置。
「せいぜい楽しんでおくれ! 狂気と死をこちらが引き受けているあいだにね……あら、それともこれは放送禁止用語だったかしら?」
「おお、禁止されていなくとも言葉には気をつけて。こちらにいるのはみな心優しい紳士淑女ばかりよ」
「ちっ、ちっ」
 PHAEDRAは光をまたたかせる。
「よく言うよ! ゴッホの『ひまわり』に惹かれるのはいつだって終末論に取りつかれたブルジョアたちと相場が決まっているのにね」
 ぼくは笑い、ダヴは見せかけのはすっぱな口調で答えた。
「舌を噛んでおしまい。この、おしゃべり機械!」
「まあ、ここに降りておいでよ、そこの坊や。物事の成り行きってやつのせいで、あんたの質問に答えなければならないみたいだからね」
「ぼくの?」
「どうやらそれがあたしの役目なんだ」

              *

 現にある熱力学を最高理論のカテゴリーに入れるのを、私はためらう。しかし、大勢の物理学者は、このような美しい基本的な一団のアイデアを、単に有用であるという低いカテゴリーに入れることを瑕疵だとたぶん見なすだろう。私の見解では、通常理解されているような熱力学は、システムの個別的な要素にではなく、平均的なものにしか適用されない――部分的には他の理論からの演繹である――ものは、私がここで意図しているような意味での物理理論では決してない(ロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心』林一訳)

「情報の本質は負のエントロピーである」と考えれば、「これまでの物理学の枠のなかだけで、自然現象は充分に理解できるはずなのに、なぜ生命現象の理解だけに、不可解な〈意味的な情報〉をあらたにもちこまなければならないのか?」という疑問がとうぜん出てくる。意味的な情報を科学のテーマにすることができるかどうかということが問題にされるのは、それまでの近代科学の歴史から言って無理からぬこととおもわれる。近代科学は意味とか価値という問題にはいりこまないようにみずからを拘束し、そのことによって発展してきたからである(清水博『生命と場所』)

              *

 天井が回転するとラビリンスは闇に沈んだ。
「ポラリゼーション……つまり“偏光性”と“両極性”がわたしたちの関係なの。上の連中は狂気や奇形や死を排除しながら逆に心の底ではどうしようもなくそれらに憑かれているというわけ」
「そりゃまた、なぜ?」
「ここがシステムの“あまった部分”だからよ。天上の神々ならぬ動かしうる冥界……やれやれ、こんな世紀末的な隠喩はうんざりなんだけどね」
「うんざりするのもなんとなくわかる気がする、PHAEDRA」
 計算機の発する微光のなかで……よだれをたらしながら壁ぎわにうずくまった老人、果てしなく床に額をこすりつけている男、ぼさぼさに乱れた髪を指先でこねくりまわしながらクスクス笑い続けている娘……のおぼろげな姿を眺めながらぼくは言った。
「こんな場所にずっといたらね。空気がよどんでるし……ひどい臭いだ」
「なにしろきわめつきの三次元迷路。風だって迷ったあげく座りこんじまう。せいぜい二酸化炭素には気をつけ……」
「……シチリアの牛だ! それを磨きあげた奴が最初の試しだ!」
闇の奥から完璧に常軌をいっした調子の男の叫び声が響いてきた。
「……ここは地獄かい?」
「いんや。地獄みたいに教育的な部分なんか気ほどもない自然主義。なにより先行き不透明なところなんかまずおあつらえ向きね」
「でもあんたは出口を知ってるんだろ?」
「ちっちっち」機械は言った。
「『チャーチの提唱』を忘れちまったのかい?」カタカタと紙テープを閃かせつつ。「ほらほら。あたしゃ『停止問題』にまるごとしっかり限定されてる由緒正しい“万能チューリング機械”。どうしたらいいかなんて予言はできないね……そういえば“彼女”、予言について何か言ってたでしょ?」
 ぼくはダヴの言葉を思い出した。
「“それがどんな予言にせよ未来を見通すことができると主張する者たちをわたし達は拒否しなければならない”って」
「前向きなスローガンってもんだわ」
 剣を置き手さぐりでぼくは床にすわり込んだ。
「一体何を話してくれるつもりなんだい?」
「とりあえずは“迷路を抜け出す”ということについてだわね」
「抜け出し方は知らないと今言わなかった?」
「たぶん“出口”はあるだろうってこと」
「でも、それだけじゃあまり役にたたないだろ?」
「ベイビー。グノーシス……“知恵”はいつだって有効よ」
「“グノーシス”?」
「そいつはまさにシンクレティズムだもんだから、当然どんな問題の解決にもからんでくる」
ぼくはため息をついた。「説明してくれよ」
「こういうこと……想像してごらん。天国はなく地の底に地獄もない、しかし世界が非合理的に組み立てられ、目的を持たず、予想不可能な気違いじみた力学に支配されているひとつの迷宮であると。人の魂の故郷はその外部にあるんだけれど、そこへ脱けだす道筋は誰も知らない……」
「でも“出口”はある?」
「少なくとも“出口はある”と知ることがグノーシスへの第一歩。さもなきゃ永遠に闇のなかをさ迷うだけだものね
」 「頼りないんだな」
「多くを望まないの。もっとずっとひどいことになりかねないんだから! ……あのうなり声が聞こえる?」
 ぼくは耳をすました。ずっと遠くで何かが低くうめいている。何やら尾てい骨のあたりがぞくっと冷たくなる感じ。
「……あれは?」
「ここは手厚い厚生施設じゃないのよ。闘争とカニバリズムをくり返していりゃあ自然と額に角も生えてくるわ」
「ぼくらも怪物になってしまうのかい?」
「人は質点でもビリヤードの玉でもない。だからこそ悪の問題にゃいつだって凄味と深みってものがある。ミノトールを倒せばそれですむほど世の中単純じゃないわよ」
 身震いしてぼくは立ち上がった。
「ここから出なくっちゃ!」
「はじめてまともなことを言ったね」

              *

 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
 主はわたしを緑の牧場に伏せさせ、いこいのみぎわに伴われる。
 主はわたしの魂を生き返らせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
 たとえわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。
 あなたがわたしと共におられるからです。(詩篇23)

              *

 右手に剣、左手に壁を触れながら進む。なんだか妙な手ざわり。そうやっていれば最悪でも同じ場所にもどってこられるとPHAEDRAは言う……でも自分が“三次元三叉路”のあのややこしいたどり方を覚えていられるとは思えない。たぶんもう道に迷っちまってるはずだ。
 暗闇についてはこれまたPHAEDRAのアドバイスで……古代の人間たちが置いていった道具のつまった部屋をかきまわして妙な形のヘルメットを手に入れた。どういう仕掛けなのかわからないがゴーグルを下ろすと淡いオレンジ色の明りのなかに通路が浮かびあがる。細かい部分までは見えないけれど、おかげで下の階層へ通じる縦穴に落ちる心配だけはしなくていい。
 そんな調子で半日近くさ迷ってるとミノトールに遭遇した。
 赤ん坊のミイラを胸にかかえてぼんやりうずくまってる痩せこけた母親を眺め、「さあこい! 夕飯め!」と叫びつつ手探りで襲いかかってくる少女たちを撃退しながら、たどりつく先といえばのっぺらぼうな袋小路ばかり……泣きたくなってる時には一番会いたくない相手。たぶんテセウスだってその時にはきっとずいぶんと情ない思いをしたに違いない。  不体裁な戦いのありさまをえんえん説明するまでもない。結局ぼくは生き延び、怪物はぼくの剣を腹に突きたてられ床に沈んだ。
 そしてそのうめき声の調子が変わったんだ。
「……ロービー」
下腹のあたりからすっと暖か味がひく。最初に遠く唸り声を聞いたときとはちょっと違った感じ。
「暗闇のなかで話をするってのはやっぱり嫌?」
「まさか……あんたなのか?」
幼なじみの声を間違えるはずもない。ぼくは震えだした。
「ああ、ドリック! “あいつ”はあんたを生き返らせたんだな」
ささやき声で「久しぶりだな、ロービー。あの旅立ちの日以来だろ」
「でも……何でこんなところにいる?」
無駄な質問をしたもんだ。故郷の村の終容所の番人をしてた両性具有者が秩序から落ちこぼれる場所にいるのはあたりまえ。相手はぼくを無視してひとり納得したようにつぶやく。
「いつかこうなると思ってた」
掴に滲んだ血糊がまとわりつくように感じてぼくは思わず剣を落とした。
「そいつをしっかり持ってるんだ、ロービー。後で必要になるだろうよ」
「なんてことだろう……ぼくはもうどうしたらいいのかわからない」
含み笑いをしようとして相手は血でふさがれた喉をごろごろ鳴らした。
「もちろん出口をさがすのさ。他になにがある?」
「そして空しくさ迷ったあげく怪物になるの?」
「ロービー……壁のレンガを見てごらん。暗闇でも見えるんだろ?」
ぼくは見た。
「文字が書いてある。ひとつひとつに」
「そんなに細かいとこまでは見えない」ぼくは弁解するように言い、ドリックは息を整えるためしばらく沈黙した。
「……じゃ手さぐりで」言われるままそうした。幼い日たわむれでそうしていたように。
なるほどだから手触りが妙だったんだ。
「何か文字が書いてある……“T”、“I”、“M”……つぎは“E”?」
「そいつには確か『タイム』」とつづられている」
ドリックの声はもうほとんど聞き取れないほど小さい。
「ここらあたり、ずっと以前の世紀末に使われていた言葉たちでできてるから」
「どういうこと?」
「わからない? ここは焼き固められた言葉たちの迷宮なんだ」
隣のレンガに手を触れた。たぶん……“トラヴェラー”。そしてその隣からずっと……『は……わたし……たち……に……深遠……な……問題……を……解説……して……いた』。
「ああ、……わかったような気がする」
「語られて、書かれて、刻まれて、焼き固められた言葉たち……」
そして声が跡絶え、ぼくは泣いた。最後に奴は暗闇のなかで教えてくれたんだ。この迷宮のもうひとつの姿をだ。
 しばらくしてから……ぼくは力の抜けた膝頭をはげまし立ち上がった。ここからはいよいよ一人で行かなくちゃならない。どこまでも続く闇のなかへまず一歩。探る手で触れた壁のレンガはかすかに暖かくなっている。
『ボルツマンの墓碑銘“S=k・log W”において、k=1、底を2としたとき、エントロピーSは系の状態Wの持ちうるバイナリー情報の欠落と見なしうる。つまり情報は負のエントロピーと解釈できる』
 指先が触れる文字たちはそうぼくにささやきかけてくる。とっくに死んだ言葉たちのくせにいまだにそれは自分たちの運命について空しく語りつづけている。
『だがそれはサイバネティクスにおけるシャノン的な意味での“情報”にすぎない。現実には生命に関係する情報はわれわれ人間がそれを利用できなくなったとき変質する。あたかもそれがポテンシャル・エネルギーから熱エネルギーに変換されたように』
 いつのまにかゴーグルの視野全体がしだいに明るく、壁の文字も輝きとともにはっきりと読めるようになってきていた。どうやら迷宮の壁が内部から熱を発しているらしい。気温だって気のせいか少しづつ高くなってきているみたいだ。
『そして言葉の背負う意味もまた変質する。それはくり返し使用され、秩序というレンガに刻みこまれることで生き生きとした生命力を失う。そのエントロピーは増大し世界は熱的死という終焉に向かってまた一歩追いやられる』
 終わりが近づいている。
 中空の刀身が壁に触れ金属音をたて……そしてぼくはたまらず走り出した。しだいに高まる気温に追い立てられて息をはずませなから、白熱する文字たちで縁取られた迷宮の闇を全力で駆けぬける。果たして出口があるのかどうかさえわからず、最後にはたぶん時間切れで倒れふすことになるだろうことは薄々わかっていながら。
 何かにつまづいて床の上に投げ出された。苦痛で息が止まりゴーグルの視野がノイズで乱れる。堅いレンガに撃ちつけた肘がしびれ、一瞬遅れて擦りむいた膝が飛びあがるほどにうずきだす。うめき声を奥歯でかみ殺し、浅い呼吸で息をととのえ……ずっと昔、どこかでこんなことをしていたような気がする。
『汝は数えられたり、数えられたり、秤られたり、そして分かれたり』
燃える文字たちが床のうえでぼくを嘲笑している。
 そう、きっとダヴの言うように、人であることの重さを全部捨てさればもっと軽々と飛がごとく馳せることもできるんだろうけれど……。
「う、ふ、ふ、」
 子供の含み笑いだった。そっと目をあげて空耳でないことにほっとする。まだ小さな幼児だ。そのうえ丸裸。ぽこんとふくらんだ腹が暖かそうな光を発している。
「やあ……」ぼくは血の味のする唾をはきながらがさついた声を絞りだした。
「ひとり? パパやママはどこだい?」
 相手は答えない。いったいどこから来たんだろう? あたりは暗闇、誰ひとりいないというのに。
 柔らかにカールした巻き毛とふっくらとした手足。このゴーグルを通してでは男の子か女の子かもわからないけれど、幸せそうに笑いさざめきながら壁に両手を触れ、ゆっくりとその子はつたい歩きしている。まるで絵本を読むようにそこに書かれた文字たちと戯れているように……まだ言葉を喋ることすらおぼつかないだろうに。
「何かいいことが書いてあるの?」
 子供はぼくの顔を見て……間違いなくおごそかににっこりと微笑んだ。ぼくは瞬間雷に撃たれたようになり、それからおずおずと身を起こし壁の文字を読んでみる。
『転がる岩とうねりの一拍ごとに動き続ける“違世界”……太陽系第五惑星「地球」の夜の荒野でぼくたち三人は焚き火を囲んでいる。周りは横たわったままで時どき鰓をばたつかせたり悲しげな呻き声をあげたりするドラゴンたちの影……』

(了)


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