『愛車』

先樹二(Sakiji)


 
「症状は?」
「はい、朦朧状態ですがいまのところ脈と呼吸は比較的しっかりしています」
「患者の横に、この睡眠薬の瓶が転がっていました。一部吐いたみたいですね」
「一瓶全部飲んだようだな。まあ、それが幸いしたのかも。」

「おい、しっかりしろ」
「こりゃいかん、すぐに胃洗浄の用意!」
 誰かバタバタと駆けていく音が遠くに聞こえた。

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「おはよう美也子さん。今日の調子はどうですか?」

「相変わらず反応がないですね」
「最近、食事のほうは?」
「相変わらず箸をつけようとはしません。点滴でもっているようなものです」
「カウンセリングも全く受けつけようとしませんね」
「やはりご主人を失ったことが大きなショックだったようだ」
「しかたがない。また映子に声をかけてみるか」

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 主人と私の愛車だった濃紺のGalan VR-4。またこの車に乗りに来てしまった・・・

 三星のラリードライバーだった主人が、'99年のWRC第11戦のチャイナラリーで命を落としてはや三年が経ちました。中国で初のWRC開催とあって、各チームとも慣れないコースと悪路に悪戦苦闘しましたが、その中で三星ランサー・エボリューションに乗る主人は、着実にポイントをあげていきました。しかし、SS7でコースミス、長い右コーナーの出口ではらみ、立木に右ドアからぶつかり還らぬ人となってしまいました。

 生きる望みを失い悲しみに打ちひしがれる私のために、三星グループが総力を挙げて改造してくれたのがこの車、"Mitsuboshi Galan Virtual Riality type 4"略して"Galan VR-4"でした。

 ドアを開け、ファブリックの運転席に腰を下ろします。このベージュの内装は、あの人と一緒に決めた色。
 運転席に座り、ハーネスを締めフルフェイスのデータヘルメットをかぶり、データグローブを装着します。そうしてゆっくりとエンジンキーを回します。
 助手席から、いつもの声が、
「また、会いに来てくれたんだね」
「あたり前じゃないの。夫婦なんだもの」
 私は、助手席に手を伸ばし、データグローブ越しにあの人の手を握ります。柔らかく握り返してくれるあの人の手の感触に、思わず涙がこぼれそうになります。仄かに匂う汗に混ざったあの人の整髪料の香り。この匂いをかぐといつも昔に戻ったような気がしてならないわ。
「そろそろ、僕のことは忘れて、君も新しい道を探したほうが良いのじゃないか。まだ君も若いんだし」
「お願いだから、もう二度とそんなことは言わないでね。それに私はこうしてあなたに会いに来る権利があるんだから」
「うれしいよ。美也子・・・」

 あの事故から一年。私の愛する悟は、この車の中にしか居ないのです。

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 かたくなにカウンセリングを拒否してきた美也子だったが、時は全てを癒すとの言葉通り、最近は態度に落ち着きも見られ、他人の意見にも耳を傾ける余裕が生まれてきた。もうこの車に乗りに来てはいけない、そう思いつつもこれまで別れを先延ばしにしてきた。
 何時も、今日限りにしようと思い、この地を訪れるのだが・・・

「おはようございます、奥さん。お電話があったのでいつもの所に駐車してありますよ」
 ここ三年、変わらぬ三星自動車水島工場開発室の守衛のオジサンだ。
「ありがとうございます。ちょっとお邪魔しますね」

 裏の開発工場の駐車場に回った美也子は、そこにあり得ない姿を見付けて愕然とした。
 亡くなったはずの夫が、車の横に立っていたからだ。
「あ、あなた?」
 嘘だ。夫は亡くなり、私が会いに来ているのは、コンピュータの中に保存されたデータが再現した仮想現実の中の夫なのに。
 そう考えて美也子は突然気がついた。いままで、夫が亡くなってしまったという事実から目を背け続けていたことに。

 愛した夫、悟がこちらに向いて笑いながら手を振り、ドアを開け、車内にもぐりこんだ。パタンとドアを閉める音がして、ク、クゥィ〜ンとエンジンのかかる音がする。ギャランは、キュキュと軽くホイールスピンの音を残しながら、悟を乗せたまま走り去ってしまった。
 これで良かったのかも知れない。滂沱たる涙を拭おうともせず、美也子は佇み続けていた。

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 もとより現在の技術では本物と見まがうばかりの仮想現実は望むべくもない。しかし今ある技術に、映子の<力>をプラスすると、驚くべき効果が得られる。
「映子、ご苦労さま。昔だったら、こんな面倒なことをしなくても、夫の霊が枕元に立てば信じてくれたのに」
「あの奥さん高学歴だから、無理に幽霊を見させたら症状が悪化してたかも知れないわね」
「仮想現実に夫を蘇らせるという、現代技術を総動員すれば、可能かも知れないというシチュエーションが良かったのかも。それと奥さん自身がそれを信じたがっていたし」
「ともかく、元気になって良かったわ」
 映子はそう呟くと、工場を後にした。水島に来るようになって、三年目の秋だった。

〜山の民5〜

(了)


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