第3回

[その7][その8][その9]

(その7)

「わたしのナイフを返して下さい」

 水玉ヒヨが座った壁際の二人掛けの席にマスターが水の入ったグラスとおしぼりを持っていくと、彼女は、マスターの顔をのぞきこむようにして、やけにきっぱりとした口調で言った。

「えっ?」
「わたしのイニシエフォールドをここでなくしました。15年前のことです」
 女が異様なほどはっきりと力強くしゃべりながら、まるでにらみつけるようにマスターの目をのぞき込んでいるので、マスターは、うっかりすると、またこの女もあばれはじめるのではないかと、内心気が気ではなかった。

「ここにイニシエフォールドをお忘れになったのですか?」
 マスターは、この女が、15年前にナイフを振り回して暴れだした女と同一人物であることをほぼ確信していたが、そのことには触れずに、さりげなく聞いてみた。

「ここでわたしのイニシエフォールドをなくしました。15年前のことです」
 女は、じっと身動きせずにマスターの目をみつめたまま言った。
「お客さんの忘れ物は、最低2年間は保存してるんですがね。それでも取りに来られなかった場合、処分してしまうものが大半なもので……」
「15年前、ここでなくしたんです。大切なものなのに」
「どんなものだったのですか」
「このぐらい。ほら、こんなに小さくて、私の掌の中にすっぽりとはいるでしょう」
 女は、マスターの目の奥をじっと見つめ続けている。
「そんなもの、あったかねえ。まあ、ちょっと見てきましょう」

 マスターは、空の盆を持ってカウンターの後ろに戻り、しゃがみ込んでカウンターの下のナイフコレクションの入っている扉に手をかけた。
 女が言っているのは、あの、奇妙なマークのついたイニシエフォールドのことに間違いなかった。おおかたアステロイド・セレス社の模造品で、本物に比べたら大した値打ちではないのだろうが、マスターはなぜかあのイニシエフォールドが気に入っていた。(だめだ、あの女に渡すわけにはいかない。これはもう俺のものだ)

「そこにあるのでしょう?」
 いきなり声をかけられて、マスターは驚愕して顔を上げた。
 いつの間にか、女が席を離れてカウンターのところまでやってきていた。淡黄色のメタリックのワンピースにつつまれたすらりとした身体をおりまげるようにして重厚なオーク材を模した木材のカウンター越しに中をのぞきこんでいる女を、ケンとジョーが興味深そうに口の端に笑みを浮かべて見ている。
 マスターの額から、汗が流れ落ちはじめた。

「そこにあるのなら、返して下さい」
 女が、カウンターの中にさらに上体を差し入れるようにして言った。

「そ、そうですね。あったかな?なかったかもしれないな……あったかどうか、ちょっと見てみましょう」

 マスターはしかたなく隠し扉を開け、ナイフコレクションがしまってある引き出しの取っ手をつかんで手前に引こうとした。

 その手の上に、ほっそりとした冷たい指が重なった。
 いつの間にか、女がカウンターの内部に入り込んできて、マスターの真後ろに一緒にしゃがみ込んでいるのだった。

「お、お客さん、ここに入ってこられちゃ困ります」

 マスターがあわてて言うのがまるで耳に入らないかのように、女は手を重ね合わせたまま動こうとしなかった。

「その8」

 アラームが鳴り続けている。そして、アラームよりもさらに大音量の音声で、選択ボタンをはやく押すようにと、丸木台太は催促され続けていた。

「選択すりゃいいんだろっ」

 丸木台太は、大きく息を吸い込むと「最後までがんばります」のボタンを勢い良く押した。
 表示画面が切り替わった。

「この選択において、あなたは精神的および肉体的苦痛を受ける恐れがあります。選択しますか? はい/いいえ」

 「精神的および肉体的苦痛」の文字を見た次の瞬間、丸木台太は「いいえ」のボタンを押していた。

 画面がまた元の選択画面に戻った。

 音声が高らかに早く選択するようにとうながしはじめた。
「選択ボタンを押して下さい……30秒以内に選択して下さい……25秒以内に選択して下さい……20秒以内に選択下さい……」

 丸木台太は、首にかけていた貴金属製のペンダントを引っ張り出して蓋を開けた。中には、濃い栗色の髪の少女の写真が入っている。
「美々絵……」
 そうだ、こんな所で死ぬのはいやだ。美々絵JE5825Nにもう一度合いたい。最後まで頑張ってみなければ。

「最後までがんばります」の選択ボタンが再び押された。そして今度は、精神的および肉体的苦痛云々の選択にも、ためらうことなく答えたのだった。

「『最後まで頑張ってみる』が選択されました」

 次の瞬間、画面は宇宙艇の故障部分の位置と説明の画面に切り替わった。

「これより、状況説明を行います。本艇第一エンジン部分に異常が発生しました……」

 説明が続くうちに、丸木台太の顔は青ざめてきた。

「本艇第一エンジン部分……?ええっと、たしかこの艇は、なんとかエンジンってやつで動いてるんだよな。だけど、どうすりゃいいんだ?俺、エンジニアでも直し屋でもないんだぜ。宇宙飛行士に、艇の修理しろっていうのかよ」

 丸木台太は、エンジニアというのは、第一太陽系の第四惑星とか、第五太陽系の第三惑星とか、とにかく特殊な場所に住んでいる特殊な人間だと思っていた。そういう所は、惑星のほぼ全体が、超巨大工場からたった一部屋の小さな工場まで、さまざまな工場とエンジニアたちによって覆い尽くされている。
 昼夜の区別なく働き眠り食事を取り、ひたすら物を作り続ける。それは、丸木台太にとっては、まるで別世界の話だった。

 丸木台太の仕事は、宇宙艇を操縦することだけなので、艇の整備に関しては、何をどうすることもできない。

「直し屋を呼ぶしかないだろうな」

 丸木台太は、モニターにさらに流れ続けている状況説明を無視して、外部との交信を試みた。しかし、どうしても、外部との交信を行うことができない。艇に発生した異常に関する説明が最優先されているため、他の操作がまったく出来ないのだ。

「ちくしょう!直し屋も呼べないのかよ」

 丸木台太は、操縦パネルの手の届く限りの範囲をめちゃくちゃに叩きはじめた。

「その9」

「美々絵JE5825N、おきてる?」

 誰かが、美々絵JE5825Nを呼んでいる。少女の声には違いないが、いったいあれは誰の声なのだろうか。
 少女としては落ち着いた低めの声。確か、あの声が素晴らしい深みのあるメゾソプラノに変化するのを聞いたことがあったような気がする。

 純白のリネンに埋もれるようにして眠っていた美々絵JE5825Nは、その呼び声で目を覚ましたが、寝返りを打つとすぐにまた目をつぶって眠りに戻ろうとした。

「美々絵JE5825N、おきてるのね?」

 再び、誰かが美々絵JE5825Nに呼びかけた。
 あの声のことをよく知っているような気もするのだけど、いったいどこで聞いたものなのか、美々絵JE5825Nの記憶はどうもはっきりしない。それに、あのぼそぼそした声と、澄んだ泉の底をのぞき込むような透明なメゾソプラノが、なぜ頭の中で結びつくのだろう?

 美々絵JE5825Nは、ほんのわずかの間だけ声の持ち主について推測してみようとしたが、すぐに疲れてしまって考えるのをやめた。

 実際、何を考えるのも面倒だった。
 いつかは目を覚まさなければと思いながら寝ているのだけれど、目を覚ましたらどうすればいいか、まるで分からない。
 合唱隊の練習に間に合うように起きるべきなのだろうか?寮の食事の時間に遅れただろうか。シャワー室が使える時間は、まだ終わっていないだろうか。そんなことは、もうどうでもいいことだった。

 美々絵JE5825Nにとって重要なことはただ一つ、エリーEF2263Nに絶対に顔を合わせたくない、ということだけなのだ。

 目を閉じてベッドの中に横たわっていても、昨日の晩のエリーEF2263Nの姿が目に浮かぶ。
 肩にかかる長さの栗色の髪の毛を時々かきあげながら楽しそうにしゃべるエリーEF2263N。
 笑いながら机の引出しを開けて、中から美々絵JE5825Nのものとそっくりな形をした骨董のペンダントを取りだすエリーEF2263N。
 その古風なペンダントを床にたたきつけるエリーEF2263N。
 エリーEF2263Nのきゃしゃな靴のかかとの下で踏みつけられ、へこんで原形を失う貴金属合金製のペンダントと、破れてくしゃくしゃになる蓋の裏側に張られていた小惑星の写真。粉々になって飛び散る内側に用いられていた年代物のガラス。

 ほがらかな笑顔を浮かべたエリーEF2263Nの姿が、美々絵JE5825Nの脳裏に動画のように幾度となく浮かび上がってくる。だが、どうしたわけかあのペンダントが壊れた時の音が思い出せない。そして、エリーEF2263Nがどんなことをしゃべっていたのかも。そもそも、エリーEF2263Nがどんな声をしていたのか、美々絵JE5825Nには、どうしても思い出せなかった。

 エリーEF2263Nの声はいくら努力しても思い出せないのに、さっき自分を呼んだ声のほうは、なぜか昔からよく知っている声に思われた。だが、こちらのほうは、声の持ち主が誰なのかをすっかり忘れてしまっている。

「美々絵JE5825N……」

 また、あの声が呼びかけた。
 美々絵JE5825Nは、もう一度寝返りを打って、なんとか声を無視して眠りに帰ろうとしたが、もう眠ることはできなかった。
 しかたなく、美々絵JE5825Nは、そっと目を開いて声がした方向に頭を向けた。

(第4回に続く)


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