日本宇宙開拓史
(第3回)
第2章 ふたつの射場

写真:「宇宙科学研究所提供」

参考文献:

的川泰宣著
「宇宙にいちばん近い町〜内之浦のロケット発射場〜」
春苑堂出版

十亀英司著
「日本最大の宇宙基地〜種子島宇宙センター〜」
春苑堂出版

的川泰宣著
「宇宙に取り憑かれた男たち」 講談社

松浦晋也著
「H-IIロケット上昇」 日経BP社

日本にはロケットを打上げる射場が2ヶ所ある。
内之浦の鹿児島県宇宙空間観測所と種子島の種子島宇宙センターのふたつである。
種子島射場は内之浦射場の10倍近い広さがあるが、それでも世界の他の射場に比べると非常に狭い。
ひとつの例を挙げよう。アメリカNASAのケネディ宇宙センターはなんと種子島全島とそう大差ない広さがある。色々な機能を集中させ、安全面も十分考慮するとそれぐらいの大きさになってしまうのだろう。
逆に言うと、日本の射場は限られた機能と安全に対する限界がある。安全面については、内之浦では斜め方向への発射で、種子島では飛行経路を工夫することでクリアしている。
今回はこのそれぞれの射場のなりたちについて見ていこう。

1. 内之浦

ペンシルロケットに端を発する東大系のロケットであるが、ペンシルの途中より国分寺から秋田県の道川に射場は移り、そこでベビー、カッパの各ロケットが打上げられていた。
しかし、カッパ8の最高到達高度が200キロメートルを越えたところで、糸川英夫は日本海のせまさを実感していた。このままロケットの開発を続けていけば、いずれ日本海を越えて対岸まで到達してしまうだろう。
そこで新しい射場の選定ははじまった。
射場選定にはいくつかの条件がある。広い平坦な土地、交通の便、近くに船の航路が少ないこと、漁船の出動率が少ないこと、航空路線との調整が可能であること、晴天率が高いことなどである。ただし、内之浦はこのうち平坦な土地という条件を満たしていない。これは糸川の逆転の発想からきている。
1960年に北海道、青森、茨木、和歌山、宮崎、鹿児島などの太平洋に面した場所に向けての調査が始まった。
糸川のもとに各地からの候補地の情報が集まってきた。しかし結果は芳しいものではなかった。
1960年10月24日、糸川と東京大学生産技術研究所(生研)下村潤二事務官が現地調査のために内之浦に入った。東大の偉い先生が来るというので役場の人や婦人会の人たちが出迎えようと待っていたが一向に現れない。すると、なんとつと通りすぎたタクシーの運転席に糸川は座っていがのだった。このあたりの道が悪いことからしぶっていたタクシーの運転手に、それなら私が運転するからと運転手を助手席にやってきたのであった。
糸川は町長に対して、ここに宇宙基地を作りたいとぶちまけた。いきなりの話に町長は困惑したが、とりあえず候補地を見ることになった。しかし、候補地は糸川のめがねにかなわなかった。
しかし、小用のため車を止めたとき糸川の頭にひらめくものがあった。ここだ。
その場所は宇宙センターとしては常識である平地がまったくない場所であった。同行した下村は、糸川の気が違ったのかと思ったという。しかし、これこそが、世界でも例を見ないユニークな場所に建設された宇宙基地のはじめだったのだった。

こうして、内之浦に射場が建設されることになったのだが、政府は当時内之浦を活用する一方で、道川も使いつづける意向であった。
そんなさなかに事故が発生した。
カッパ8型ロケット10号機の打上げのことであった。
1962年5月24日。
打上げ直後から見守る人々の間にはなにかおかしなことがおきているのではないかという気持があった。ロケットの上昇速度が異様に遅いのである。
と、みるまにロケットはかたむき、落下していった。
幸いにして負傷者は出なかったが、この事故の影響が地元住民に与えた影響は大きく、道川でのロケット実験は全て中止され、内之浦に一本化されたのだった。
その後、宇宙科学研究所のロケットは全て内之浦から打上げられることになる。

2. 種子島

文部省所轄の宇宙科学研究所に対して、科学技術庁下の宇宙開発事業団のロケットは鹿児島のすぐ南、屋久島のとなりにある種子島から打上げられている。
種子島はポルトガル人の漂着者によって日本ではじめて鉄砲がもたらされた土地でもある。 どのような経緯によってこの種子島に射場がやってくることになったのか。

宇宙開発事業団の前身である宇宙開発推進本部は、1963年から1965年度にわたって防衛庁新島試験場を利用してロケット実験を行っていた。平和利用を全面に押し出している現在の宇宙開発事業団では考えられないことである。
宇宙開発推進本部は新島に自らの専用の施設を作ろうとしたが、おりしもミサイル基地反対運動があり、新島でロケット打上げを実施することが困難となっていた。そこで、科学技術庁は独自の射場を建設すべく、場所の選定に入った。種子島はその候補地のうちのひとつであったのだ。当時、まだ沖縄も小笠原もアメリカの占領下にあり、日本に返還されていなかった。 種子島は糸川の調査においても候補に上っていたが、その時は鉄砲伝来の地、門倉岬の近くであった。今回の選定ではそこから数キロ東にある、現在の宇宙センターの所在地である竹崎・大崎地区に白羽の矢が立った。竹崎地区を小型ロケット射場に、そして大崎を大型ロケット射場とする計画であった。(なお、現在の大型ロケット射場は大崎のすぐ近くの吉信にある。) 調査は1966年の4月に行われた。
この地は大部分が国有地であり、また低緯度であるため、地球の自転をロケットの打上げに利用するのに適していることなどの理由により1966年5月に、ここに射場を建設することが決定された。新島が使えなくなってから種子島に射場が決定するまでの間は割とスムーズに事が運んだようである。
しかし、その後は思うようにいかないようなこともあった。
1966年の秋に種子島からの最初のロケット打上げが予定されていたが、漁業組合よりクレームが来た。燃え尽きたロケットが落下して漁業に影響が出るのではないか、ロケットの爆音で魚が逃げてしまうのではないか、大体、ロケットを上げている期間は漁ができなくなってしまうではないか。
1967年3月。
その日竹崎海岸の沖合いは多くの漁業船にかこまれていた。
漁業問題が解決されれば、直ちに打上げが可能なように準備が整えられていた。しかし、LS-Cロケットの打上げ実験は結局許可が降りなかった。漁業船の見守る中、打上げ作業はシーケンスの確認だけで終った。ランチャーにロケットが据えられながら、エンジンに火がつくことは結局なかった。
漁業組合との交渉は難航した。そして結局、打上げ期間を夏と冬の数ヶ月に限定するという条件のもとで、両者は合意した。種子島からの打上げが夏と冬に限定していたのはそのためである。(現在は条件が緩和され、秋の打上げも許容されている。プロローグにあったH-II の8号機も秋のうう打上げである。) 問題は他にもあった。大型ロケット射場の建設予定地であった大崎地区には多くの民有地があったからだ。
大崎地区の住民たちは昼間は農作業などのためではらっていたため、交渉は夜に行われた。宇宙開発事業団がとりあえず土地の測量をさせて欲しいと言うと、地権者からは測量を認めることは買収に同意することにつながると反対意見が出たりもした。根気強い説得ののち、ようやっと測量が認められ、ついで、土地の買収も進むこととなった。
こうして大崎地区に住んでいた人たちは、故郷をはなれ散りじりとなっていったのだった。かつて、大崎地区にあった恵比寿神社は移設され、現在も宇宙センター敷地内にある。
こうして、日本最大の宇宙基地が運用を開始したのだった。

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