日本宇宙開拓史
(第6回)
第5章 日本人宇宙飛行士


 写真:「宇宙開発事業団(NASDA)提供」

 参考文献:
 的川泰宣著
 「宇宙に取り憑かれた男たち」 講談社

 中村浩美著
 「最新 宇宙開発がよくわかる本」中経出版

日本政府部内で、有人宇宙飛行が検討されるようになったのは1975年ごろのことであった。その十年後、1985年8月7日に日本ではじめての宇宙飛行士として、スペースシャトルのペイロード・スペシャリスト(PS) が選抜された。
毛利衛、向井(旧姓内藤)千秋、土井隆雄の3人である。

1. 「これ本番ですか?」

最初の宇宙飛行は毛利衛がなるはずであった。
しかし、1986年1月28日の、かの有名なスペースシャトル・チャレンジャーの爆破事故のため、シャトルの運行予定は大幅に見直され、毛利は宇宙への切符をにぎりしめたまま、おあずけをくらわされてしまった。
そんな時であった。NASDAの公式な宇宙飛行とは別に、民間で一般人の宇宙飛行士を送り出そうという企画が出たのであった。しかも、シャトルの計画見直しとは無関係に計画をすすめられるロシアのロケットを利用してのことだ。
1990年12月2日、「宇宙特派員」秋山豊寛の乗るソユーズTM11は、バイコヌール宇宙基地を飛び立ち、宇宙への旅路へとついた。
その第一声が「これ本番ですか?」であった。実にジャーナリスト的な言葉ではないか。
現在、宇宙開発史のなかで、この宇宙特派員の存在は公式にはほとんど無視されている。
しかし、秋山は確かに日本人として初めての宇宙飛行士であったし、また、世界で初のジャーナリスト宇宙飛行士であった。彼の一挙一動はカメラに収められ、お茶の間に放映された。この計画の母体が TBS という報道機関の手によることも大きかった。
それまでよく知られていなかったロシアのロケット発射のシーケンスもまたこと細かに報道されたものであった。
打上げの途中の船内の様子もまたカメラに収められていた。無重力になる瞬間に、秋山の顔がぐぐっとフェイスプレートに近付いたところも映し出されていた。
秋山については金で宇宙に行った男として、評判が悪い部分もある。しかし言い方は悪いかもしれないが、金さえあれば一般の人でも宇宙に行ける時代が到達したということなのだ。
その後の NASDA のミッションでも、多くのカメラがシャトルに積み込まれて宇宙飛行士たちの生の映像を送ってきた。しかし、ジャーナリストとして、撮られるために宇宙へと行った秋山を、もっと評価してもよいのではないかと思う。
秋山は宇宙から戻った数年後 TBS を去り、今は山奥で悠悠自適な生活をしているという。

2. 「宇宙は本当に青かった」

日本人で初めてスペースシャトルで飛行することとなった毛利衛は、1992年9月12日にスペースシャトル・エンデバーで宇宙に飛び立った。
秋山がジャーナリストとして宇宙に飛び立ったのなら、毛利は科学者として飛び立ったと言っていいだろう。
長い間おあずけをくらっていた矢先にちょっと出てきた民間の飛行士に、「最初」を持っていかれて、さぞかし残念であったろうが、本人はまったくそのような動揺を見せず、瓢々としてテレビのインタビューに答えていたことが記憶に残る。
彼は後にミッション・スペシャリシト(MS)の資格も取得し、来たる宇宙ステーション時代の宇宙飛行士たちを指導する立場に現在ある。

3. 「天女になった気分」

日本人宇宙飛行士の最初の3人のうちの一人、向井千秋は、毛利衛につづいて1994年7月9日に、スペースシャル・コロンビアによって宇宙に向った。
日本人として初めての女性宇宙飛行士である。
コロンビアの飛行は着地時、ケネディ宇宙センターの天候不良により1日延長された。そのおかげで、コロンビアはスペースシャトル飛行最長記録を更新し、また向井自身、女性の連続宇宙滞在時間世界記録を更新することとなった。
彼女は後に1998年10月29日に、スペースシャトル・ディスカバリによって宇宙の再訪を果す。その時は、かのライトスタッフのひとりジョン・グレンといっしょだったことは記憶に新しい。

4. 宇宙ステーションの手

国際共同で進めれられる宇宙ステーションの運営には、PS だけでなく MS の資格を持つ飛行士が必要であった。しかし、毛利らが飛行士として選抜された当時は、外国人は MS になれないことになっていたのだった。
宇宙ステーション計画が本格化する中で、ステーション要員としての MS が日本でも必要となった。そうして選ばれたのが若田光一だった。
彼は日本人初の MS として1996年1月11日、スパースシャトル・エンデバーにより宇宙へと向い、1995年3月にH-IIロケット3号機で打上げられた SFU を、ロボットアームの操作によって回収することに成功した。
彼はステーションでもロボットアームを活用する要員として活躍することになっている。

5. 日本人初の……

最初の3人の一人として選抜されていた土井隆雄は、不運にも長い間宇宙飛行できないでいた。先の3人がなにがしかの「日本人初の」ものであったのにである。すでに彼は来たるべきステーション時代にそなえ、 MS 資格も取得していた。そんな彼にもうひとつの「初めて」が用意されることとなった。
1997年11月19日にスペースシャトル・コロンビアによって宇宙へと旅立った彼は、日本人として初めて船外宇宙活動(EVA)を行ない、人工衛星を素手(といっても宇宙服越しではあるが)でキャッチして、シャトルとドッキングさせたのだった。

6. もうひとりの「日本人」初

日本国籍を持ってはいなかったが、秋山の前にも日系人として初めて宇宙へと行った人間がいた。
スペースシャトル・チャレンジャーの事故で命を落とした、エリソン・オニズカである。彼は1985年1月24日にスペースシャトル・ディスカバリで宇宙へと行っている。
彼は日系3世であったが、日本人としての誇りにあふれ、日本人として宇宙へと行ったのであった。
彼の冥福を祈る。

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