日本宇宙開拓史
(第10回)
第9章 日本製スペースシャトル

 参考文献:
 松浦晋也
 「H-IIロケット上昇」
 日経BP社

 「NASDA ノート」
 財団法人 日本宇宙フォーラム

 写真:「宇宙開発事業団(NASDA)提供」

最初の日本のシャトルについての構想は1970年代後半にまで遡る。当時まだ H-II ロケットは飛行していなかったし、米国のスペースシャトルの初飛行もまだ先のことであった。 当時 NASDA が考案したシャトルは有人で、H-II ロケットの打上げ能力で十分軌道に投入できるものであった。 この案は当時新聞でも簡単にとりあげられたが、さほど反響を得たわけではなかった。 それが、1982年に東京新聞の記事で注目度が一挙に高まることになる。NASDA のシャトルには当時特に愛称のようなものがあったわけではなかったが、記事の中では1号機はヤマトと呼ばれるというように書かれていたのだ。イメージの一人歩きが始まる。当時、アニメの宇宙戦艦ヤマトがはやっていた時期であり、ヤマトの呼称でマスコミに知れわたることになった。 当時、宇宙開発は慎重に進めたいという雰囲気が NASDA にはあり、また、政府としてもそんな夢物語的な発想を許容するところではなかった。NASDA のもとに科学技術庁や宇宙開発委員会からの苦情が殺到した。 実はこの当時のシャトルの構想が、現在の HOPE-X の構想とどのように結びついているかの資料は集らなかった。しかし、日本のシャトルの具体的な構想はこの「ヤマト」にはじまるのではないかと思う。 科学雑誌上でも、日本のシャトルの案として、様々なメーカによるデザインが掲載された時期があった。それぞれ、有人のものもあれば、無人のものもあった。 当時進んでいた国際宇宙ステーション・フリーダムの補給船としても有望ではないかという評もあった。(こちらは結局 HTV (H-II Transfer Vehicle) にとってかわられたが。その HTV も今やロシアの補給船にとってかわられそうな状況である。) いつしか政府の基本方針として、日本製シャトルは無人で行くことに決定された。また、いくつかの段階を経てシャトルを打上げるためのプランも決定された。 シャトルは HOPE という呼称に決定され、その実験用の飛翔体が H-II と J-I の初号機に塔載されることとなった。 1994年2月4日、軌道再突入実験機 OREX (Orbital Reentry Experient Vehicle) は H-II ロケット1号機によって打上げられた。読者の中にも OREX の空飛ぶ円板のような形状を見たことのある方がいるかもしれない。これは、HOPE の先端部だけを取り出したもので、大気圏再突入の実験をするためのものであった。 一旦高度約450キロメートルの上空に投入された OREX は地球を一周回してきたところで逆噴射をかけ、大気圏に再突入した。そして、円板のおわんのような丸い面を下にして落下を続け、打上げ後約2時間10分後に、キリバス共和国のクリスマス島の南約460キロメートルに着水してそのミッションを終えた。その間、さまざまなデータを NASDA は得ることができた。 OREX は「りゅうせい」という名称を与えられた。 これによってとりあえずの大気圏再突入の実績を得ることはできた。そこで、次はより実機に近い形状の飛翔体によって再突入をすることとなった。 それが極超音速飛行実験機 HYFLEX (HYpersonic FLitght Experient) であった。 HYFLEX は単純な円板型の OREX と違い、比較的シャトルに近い形状をしていた。小さいながらまがりなりにも翼がついていたし、また姿勢を制御するための飛行機のようなフラップ(エレボン)がつけられていた。 これによって、シャトルのような複雑な形状の飛翔体を制御しながら大気圏に突入する試験が行われることになっていた。当初、翼はもっと大きく、もっとシャトルに近い形状のものも考えられていたが、打上げ時の制御が複雑になることをさけるために、HYFLEX はフェアリングに覆われることとなった。なにしろ、翼が着いた状態で打上げる技術を日本はまだ持っていなかったので、安全策を取ったのだ。そのため、翼は小型になり、機体の側面に縦に申し訳程度に装着されることとなった。 HYFLEX は1996年2月12日に J-I ロケット1号機によって打上げられた。J-I は1段として H-II の固体補助ロケットブースター (SRB) を使用し、2段に ISAS の M-3 ロケットの M-23 モータを使用するという、NASDA と ISAS の共同ロケットであった。1号機は周回軌道に乗せる必要がなかったので2段式であったが、本来は3段に ISAS の M-3B エンジンを塔載する予定であった。 HYFLEX は軌道に乗ることなく弾道飛行を続け、日本近海の海域に着水した。惜しくも機体の回収は失敗したが、飛行中に機体から送られてくる信号を受信することには成功しており、再突入実験の役割は成功したと言える。 余談であるが、HYFLEX を打上げた J-I の2号機は1段として H-IIA ロケットの SRB-A を使用して打上げられることになっていたが、ひき続くスケジュールの延期により予算が増大し、3号機以降の計画は抹消されている。また2号機自体の打上げも現状では不透明な部分が残っている。 OREX, HYFLEX によって大気圏の再突入実験は行われたが、HOPE と同形状の飛翔体による、遠隔操作の実験がまだであった。HOPE は無人のシャトルであるため、大気圏突入後に宇宙基地に帰還する際に遠隔で操作する必要があるのだ。そのための実験機として ALFLEX (Automatic Landing Flitght Experient) が用意されていた。 ALFLEX は HOPE のミニュチュアで、ヘリコプターによって上空から離脱した後に遠隔操作でコントロールされながら着地する技術を検証するために用意された。 HYFLEX 打上げと同じ年、1996年の7月6日に第1回目の着陸実験がオーストラリアのウーメラ飛行場において行われた。10時41分(日本時間)に上空1500メートルで分離された機体は約50秒間飛行した後飛行場に無事着陸することができた。実験は8月15日までの間に計13回実施され様々な条件における飛行実験の結果を得ることができたのだった。 しかし、ALFLEX が飛行するあたりから、雲行は少しづつ変ってきていた。 当初は宇宙ステーションにも機材や補給品を輸送できるように考えられていた日本版シャトル HOPE (H-II Orbiting PlanE) であるが、度重なるスケジュールの延期により予算はかさみ、また HTV による使い捨て機体による輸送の方が安くすみそうだということがわかってきたために、計画が変更されることとなったのだ。 当初は ALFLEX の後に HOPE-X, そして HOPE という順で実験を行うこととなっていたのだが、HOPE そのものの計画をとりやめることとし、HOPE-X を本番の機体とすることとなったのだ。その後の再利用機体の実験は HOPE-X の機体を改良して行うという方針が立てられた。ここにおいて、日本版シャトルの計画は大幅に縮小されたことになる。 目をアメリカに向けても、この時期オリジナルのスペースシャトルの維持費用が当初の計画よりもかさんでいることが問題となっていた。 本来、機体を地上に戻して何度も再利用しようという計画は、同じ機体を何度も使用することによって経費を削減することが目的であったはずであった。しかし、地上でのメンテナンス費用が予想よりもかなり高くつくことがわかってきて、それでスペースシャトルそのものの新規建造も頭打ちとなっていたのだった。 HOPE-X の打上げは現在の計画では2004年度以降に予定されている。しかし、現在 H-II ロケット8号機の打上げ失敗や、その後の H-IIA ロケットのメインエンジンである LE-7A の不具合の発見などの問題により、NASDA の体制が H-IIA 一本槍となっているなか、HOPE-X の状況は極めて厳しいものとなっている。 しかし、何度も再利用できる輸送システムの開発は、有人宇宙飛行とのからみもあって、非常に重要な課題となっている。 将来的に HOPE-X そのものの計画がどうなっていくのかは今は見えない。しかし、いつの日か完全再利用型の宇宙輸送システムが開発されることは間違いないであろう。

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