第9回 ミス・スペル


 とっくに勤務が終わっているはずなのに、いつまでも食事に降りてこないカオル君の身を案じたミカは勇を鼓して階段を上り息子の部屋のドアをノックしたが、うんともすんとも返事がないので、こんなこともあろうかと密かに用意していた合鍵でドアを開け踏みこんだところで思わず悲鳴を上げた。シム操作用の黒装束に身を固めたカオル君が糸のもつれた操り人形よろしく、たくさんのケーブルで天井から吊り下げられたまま気を失い、がっくりと頭を垂れた胸元と股間をしとどに濡らしていたからだ。それはよだれと涙と胃液と尿だったのだが、動転していたミカはすっかり血だと思い込んで泣きじゃくりながらカオル君に取りつき、ああああカオル、こんなことなら戦争になんか行かすんじゃなかったなどと叫びながらがくがくと頭を揺すぶった。やがて意識を取り戻したカオル君はミカに手伝ってもらいながらケーブルとヘルメットと手袋を外し、濡れたユニフォームのままベッドに倒れこむとそのまま3日3晩眠り続けた。

 ようやく目を覚ましたカオル君はすっかり別人になっていた。

 頬がこけ、眼の下に隈ができ、たるんでいた腹が引っ込んで精悍になっただけではない。何か悲壮な決意を秘めているらしい目つきは、あのお調子もので軽薄で自己中心的で甘ったれなカオル君のものとは思えない。ミカはいつまでたっても幼児性が抜けなかった息子が突然見知らぬ男に変貌してしまったのにとまどいを禁じえなかった。回心ということばを思い出した。放蕩無頼を極めた悪人が何かのきっかけで信仰に目覚めると、後の世で聖人と称えられるような純粋な求道者になることがままあるらしい。カオル君は世間的には悪事を働いてきたわけではないのだが、ゲームやセックスに燃やされていたエネルギーが今やまったく別の方向に噴き出しているのは確からしかった。

 3日続いた夢の中でなんどもカオル君はヒカルとたった一度この部屋で会ったときのことを思い出していた。すっかり忘れていたはずのヒカルのことばが切れ切れに浮かびあがり、やがて意識の水面で明確な形を取った。(何か気づいたことがあったら連絡してよ、俺は○○にいるから)ヒカルが口走った連絡先が、今のカオル君にとっては唯一の啓示だと思えるのだった。

 カオル君はもはや誰に貰ったのか思い出せない黄色い毛糸のスキー帽を目深にかぶり、サングラスを掛けマスクをつけて家を出た。スキー帽の内側には銅線を張りめぐらしてある。頭蓋内に埋めこまれた発信機の電波を遮断するためだ。家を出た瞬間から尾行されているのがわかった。まるでシムを操作している時みたいに知覚が増幅されているのだ。尾行は3人。戦場で鍛えた身のこなしで軽がると袋小路の塀を飛び越え、まずひとりを出し抜く。閉まりかけた地下鉄のドアに絶妙のタイミングで滑りこんでもうひとり。デパートのエレベータから降りかけて思いなおしたように戻り、次の階で降りて階段を駆け登り、おまけに助走をつけて屋上から隣のビルに飛び移ったころには最後の尾行者も煙に巻かれていた。

 ヒカルが告げた所在地にあったのは何の変哲もない古本屋だった。狭い通路に置かれた本棚の天井から床までびっしりとかび臭い本が並んでいる。文庫本やコミック、同人誌に雑誌が中心で専門書はほとんどない。記憶違いかとも一瞬思ったが、何か手がかりを隠すには格好の場所だと思いなおす。木を隠すなら森の中、情報を隠すなら情報の中だ。端から一冊ずつ確かめて行くなら大変だったろうが、今のカオル君は書棚を一瞥しただけですべてのタイトルを読み取ることができるのだ、ヒカルが残したものがあれば決して見逃さない自信があった。
 ゲーム攻略本が無秩序に並ぶコーナーでカオル君はそれを見つけた。デザイン的には何ら目立たない本だったが、タイトルが目に飛び込んで来たのだ。
「戯偉夢」…暴走族の当て字みたいな奇妙なタイトルで、「ゲイム」と読むのだろうけれど、ゲームおたくのカオル君の知る限り、そんなゲームが発売されたことはない。急いで手にとってページを繰ると、中はまったくの白紙だった。裏表紙に鉛筆で500と書いてあるきりだ。あぶり出しかなんかだろうか。それとも本の中に何か、たとえばマイクロフィルムかなにかが隠してあるんだろうか。ともかく買って帰って調べてみよう。そう思ってもう一度ぱらぱらとページをめくると、中ほどにたった1行走り書きが見つかった。

 アブラカダブラの仇を取れ

 特徴のある極端な右肩上がりの文字はたしかにヒカルの筆跡だった。だけどこれは一体…? その時カオル君の脳裏にまざまざと10年前の夏休みの記憶がよみがえった。ああ、あれはヒカルとふたりで新しいゲームづくりの計画に没頭していたときのことだ。蝉時雨とサイダーの味と屋根裏部屋の熱気にがんと鼻先を殴られたような気になる。ヒカルの家の屋根裏に作った秘密基地に扇風機を持ちこんで、サウナみたいな中でアイデアを出し合ったんだ。
「これは魔除けの呪文なんだぜ」
 ヒカルがノートの下の端にサインペンで大きくAと書いた。その上にAB、その上にABR…だんだん長くなる文字列が積み重なって、一番上の行がABRACADABRA、アブラカダブラだった。こんなふうに、

ABRACADABRA
ABRACADABR
ABRACADAB
ABRACADA
ABRACAD
ABRACA
ABRAC
ABRA
ABR
AB

「な、かっこいいだろ」
「変なの。これってさ、反対から読んでもアブラカダブラになるわけ?」
「いや、そうじゃないよ。一番下のAから右上に読むとアブラカダブラになるけどね。逆に読むと…えーと、アルバダカルバかなぁ」
「そっちの方がいいじゃん」
 結局どっちの呪文もゲームには採用されなかった。ふたりが目指していたゲームは単なるパズルやシューティングやシミュレーションやRPGじゃなくって、そういった全部の要素を含みながらステージが上がるにつれて次々に内容が変化していく、ゲームの中のゲームと言えるようなものだった。一夏かけて決まったのはゲームの名前だけだったけれど。
「名前、考えてきた?」ヒカルが尋ねる。
「えーとね、ゲーム大学なんてどう?」
「だめだね。gameはほんとはゲイムって発音するんだぜ、それにカオリンは大学になんか行かないだろ」
 ゲームの名前と大学に行くかどうかなんて全く関係がないのだが、あの時はむきになって反論したっけ。
「行くもん。ぜったいに行くもんね」
 今にして思えば何がなんでも大学に入ろうと思ったのはあれがきっかけだったのかも。
「じゃあヒカリンはどんな名前を考えたのさ」
「ゲイム・ゲイムってのはどう?」
 あの頃同じ名前をふたつとかみっつ並べるのが流行っていて(クライム・クライムとかベリー・ベリー・ベリーとか)、本当はけっこうかっこいいと思ったんだけど、自分のアイデアをけなされた手前、素直に認めるわけには行かなかったんだ。
「マイム・マイムみたいで嫌だな」
 そうだ思い出した、それで結局「戯偉夢」になったんだった。間違いない。これはヒカルからのメッセージなんだ。考えてみりゃ、得体の知れないゲーム攻略本、しかも中身は白紙なんて代物を金を払ってまで欲しがる客なんているわけないもんな。それにしてもこのメッセージには何の意味があるのだろうといぶかりながら20パーセントの消費税込み600円を差し出したカオル君の手を、何を思ったか古本屋の主人が握ってきた。中指を掌に折り込んだ手で。カオル君の手からばらばらと100円玉がこぼれる。

「グリーンアースへようこそ」以外に若々しい声で主人が言った。

*                         *

 まるでB級スパイ映画みたいに、本棚をずらすと隠し階段が現れ、下りたところがグリーンアースの地下アジトなのだった。
「安普請に見えるけどね、ここはれっきとした核シェルターになってて少々の爆撃じゃびくともしないし3ヶ月くらいは楽にろう城できるんだよ」
 ハナダと名乗った古書店主がリーダーのようだった。床に固定されたステンレスのテーブルを囲むメンバーは4人。参謀といった感じのいかにも頭の切れそうな長髪銀縁メガネの青年がヒラオ君。通信技術者だという初老の紳士がヤギさんで、
「帽子は取っていいよ、ここは電波を傍受される心配がないから」と言われたカオル君はちょっとびっくりした。体育会系の浅黒いウシクボ君は黙ってうなずき、紅一点のぽっちゃりした小柄なヨネツさんはなんとなくばつが悪そうにカオル君のピンヘッドを眺めている。
「どうしてぼくを迎え入れてくれるんです? ぼくはいちおう軍人で、あなた方の敵かも知れませんよ」サングラスとマスクも外しながらカオル君が言った。
「でもヒカルの友人だろ?」ハナダが答えた。
「君が家を出て軍の尾行をまいた時点でわれわれは君がこちらに向かっているものと判断し、ここに集まったんだ」それが癖なのか、メガネを神経質にいじりながらヒラオが言った。
(なんだ、ダブル尾行だったのか)ようやく緊張が解けてカオル君は大きく息を吸いこんだ。
「ヒカルは残念なことをした」ハナダがつぶやき、全員がうなずいた。
「あいつが小型原子炉を盗もうとしたっていうのは本当ですか」
「嘘に決まってるじゃないのっ」ヨネツさんが叫んだ。激しやすい性格らしい。「ヒカルさんはシムの秘密をつかむために海軍病院に潜入して、そこで捕まってしまったんです」
(ああそうか、やっぱりあいつはテロリストなんかじゃなかったんだな)
「ヒカルがどうなったか知っていますか?」カオル君は尋ねた。
「およその予想はつくが…」ハナダは口を濁した。
「ヒカルは…」カオル君はあらいざらいをぶちまけた。シムが死体を改造したものであること、ヒカルがシムとなってカオル君の前に現れたこと、そのヒカルをボウガンで撃ってしまったこと…不思議と冷静で、悲しくなかった。涙を出し尽くしてしまったせいなのか、それとも話の途中で激しく泣き出したヨネツさんにつられまいと思ったせいかも知れない。シムが単なる遠隔操縦のロボットでないことはグリーンアースも感づいていたようだが、目撃者であるカオル君の証言はやはり衝撃的だった。カオル君が口をつぐんだあとしばらくは誰も口を開こうとせず、アジトに響くのはヨネツさんのすすり泣きと空気清浄器のかすかな作動音だけだった。
「…ぼくがもっと早く気づいてあいつに知らせてやれば、あいつは死なずに済んだんです。あなたがたの目的はシム・システムを告発することなんでしょう? ぼくにできることがあれば、手伝わせてください」
「その言葉を待ってたよ。君でなければできないことがあるんだ」ヤギが自分の禿げ上がった額を指差しながら言った。

(第10回に続く)


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