
所載の「まずはほんの自己紹介」(いしとびたくみ)から引用

石飛卓美先生年表はこちら→「石飛卓美先生の生涯」
今号と次号は、懸案だった「山陰SF創作会」と「雲魂」の特集です。「雲魂参拾四」参加レポートはコラムの記事をご覧下さい。著者インタビューでは、「山陰SF創作会」と「雲魂」の創始者にして島根県在住だったSF作家、故石飛卓美先生を偲んだ企画を行いたいと思います。
石飛という名字は珍しいので、ごく最近までペンネームだと思っていたのは内緒です(汗;)
ペンネームと言えば思い出したことがあります。 石飛がマガジンに投稿していた初期には「ほちやねいむ」という名を使っていたはず。 (漢字は忘れてしまったけれど)
伊藤さん、ありがとうございます。「ほちやねいむ」って、全く漢字を思いつかない(汗;)
さて前編は、幼少期から大阪時代、「星群」時代までのあれこれを、自伝と自己紹介から紹介したいと思います。
SF病に感染したのがいつのことなのか、記憶をたどってみると中学一年まで遡る。「中一コース」の付録、福島正美(文)の一連の海外作品に夢中になって読んだ。火星人もタイムマシンも四次元も宇宙航行も、田舎者の好奇心旺盛な少年にとっては、赤ん坊のできる原理と同じほど驚くべき発見だった。しかし決してSF少年ではなかった(町に本屋が一軒しかないというハンディがあった)高校、大学と進むにつれ、SFよりはむしろ流行の音楽の方へ傾倒し(自作の曲が七十曲はあったのです)病気は治ったかに見えた。ところがそいつが潜伏期間とやらで、まもなく再発、見事本格的SF病患者として復活を遂げたのです。SF病は一過性の熱病ではないのだ。
自らSFを書くようになったきっかけが今もってよく判らない。だいたいが筆無精で、その上SFのようなすごいアイデアをすごい文章ですごい話に仕立てるなど、普通の人間にできる芸当ではないと感心ばかりしていた位だ。ともかく作品を最初に投稿したのがSFMの「リーダーズ・ストーリィ」豊田有恒氏の書評欄に名前が載ったのがもとで、やたらと書きまくったら常連ということになってしまった。掲載作は243号、269号。S・Sだけではなく長いものも書いた。第五回SFコンテスト応募、一次予選通過のみ。ところが第六回コンテストで何の間違いか最終選考まで残ってしまった。選考会ではムチャクチャにこきおろされ、当然のごとく落選とあいなったが、結果の不満なし。何しろその時のメンバーは、大原まり子、火浦功、水見稜という今をときめくそうそうたる面々。同じ落選組に石坪光司(星群)がおり、まあレベルが高かったのでありましょう。その後「星群の会」同人となり相変わらず書き続けている。
一九五一年六月十四日生、双子座、血液型AB、独身。(『神魂 KAMOS1』より引用)
そういえば、うちの元編集長の-卓-さんも、最終選考落選組だなぁ。←すごいことなのですけどね。
そこが人生の岐路だったのでしょう。まあ禍福はあざなえる縄のごとしですし(汗;)
『才のままに生きて、努力というものをしなかった小説家の遍(変)歴』から、幼年期から大学時代・大阪での就職までを抜粋して駆け足で紹介します……(以下、紹介の文責は雀部)
一九五一年、島根県出雲地方内陸部の山間地に、三人兄弟の長男として生まれる。父親は農業、母親は小学校の教諭という比較的裕福な家庭で育った。
小学校の頃から頭の良さは抜きんでていて、母親からただの一度も勉強を教わったことはなかったが、分校での成績もトップ。やんちゃ気質でいたずら小僧だったが、気の弱いところもあった。赤面症でどもる癖もあったのだ。
五年生から本校にうつり、ここでも茶目っ気を発揮して人気を得るが、集中力に欠け授業の妨げになると通信簿の評価を落とされる。しかし、両親はおおらかな放任主義で、小学校時代に家庭で教科書を開いたことは一度もなかった。
中学生になり成績が下降気味になったので、たまには予習復習をするようになるが、あまり努力はせず授業をサボることもしばしばだった。
運動神経は優れていたが身体が小さくやりたいスポーツ、興味をひくクラブもなかったので、部活も参加しなかった。
高校進学が近づくが、家庭の事情(母親の転勤問題)もありほとんど受験勉強もせずだったが、無事に進学校に入学する。結局母親は弟二人を連れて山奥の小学校に赴任することになった。
高校では、入試の成績によりAとBとにクラス分けされる。最初はBクラスだったが、一学期の終わりの学力テストの結果、無事Aクラスへと編入される。部活では小柄でも通用すると考えた卓球部に所属。しかし卓球はあまり上達しなかったので、二年生の一学期で辞めてしまう。
高校の時の一番の思いではバイク通学したこと。十七歳で自動二輪免許を取得、それに乗って母親のいる町へよく行ったものである。
進学組に入ったら英国数の三教科を集中的に学ぶのであるが、不得意な数学は捨て英語と国語に集中、私立大学を狙うこととなった。
進学指導の先生に勧められて新聞奨学生となり、学費や住居費は新聞社と販売店が負担してくれた。
そこでは様々な出会いがあり、社会勉強するには格好の職場だった。ここでも持ち前のユーモアと温厚で率直なところを発揮して付き合いが広がった。住んでいたトイレ付きの六畳四畳半という文化住宅では、同居人がころころと変わったが、どんな同居人とも喧嘩したことは無かったし、文句を言ったこともなかった。自分の女を連れてくる奴もいたが、自分ではついぞ女の子と付き合うことはなかった。
大学では目標は留年せずに卒業することでその先は考えてなかった。麻雀と競馬も嗜んだがそれほどのめり込むことはなかった。ともかく、人生の中で最も充実し、成長したのが学生時代であったろう。何の目的も持たず意味も無く進学しても、高卒で就職するよりはずっと多くのことを経験できるのだ。大学生らしく過ごしたのはゼミで、何よりもユニークな仲間に恵まれ、ごく親しかった数人とは卒業後も交流を続けた。
唯一の趣味とも言えるのが音楽で、高校生のときからアングラにのめり込んで、やがてフォークシンガーに影響を受け大学入学時にヤマハのギターを買い弾き語りを始めた。創った楽曲は五〇曲を超え、ラジオ局に送った「悲運のタイガース」はラジオで流された。
しかし、趣味は趣味、遊びは遊びと割り切り、面倒な無益と思われる努力はせず、毎日を楽しく過ごした。そしてそのスタンスは卒業してからのちのちまで続くのである。
今回石飛さんの知り合いの皆さんにうかがったところ、趣味の音楽は「雲魂」等ではあまり披露されたことはなかったようですね。テープ等が残っていればぜひ聞かせてもらいたいところですが。
就職についても放任主義の親からは助言とか心配は一切なくて、卒業間近になって初めて就職活動を始めたようで、ここでも怪しい広告代理店にしか合格しなかったようです。
その会社での仕事はクリエイティブとはほど遠く、新規の広告の契約を取ってこいという飛び込み営業をやらされた。毎日毎日が同じ事の繰り返しで、人間関係の面白さもなかった。結局、その広告代理店は二年目の年度末のボーナスを貰って辞めた。その後、二つ目の会社で知り合った友人の立ち上げた貿易会社に就職したが、祖父が入院してどうやら危険な状態だという連絡が入り、帰省を決断した。(以上、文責:雀部)
以上で前編(大阪編)の抜粋紹介を終わります。
以下は、石飛卓美先生とおつき合いのあった「星群」の仲間からの聞き取りパートです。
堀晃先生は、「星群」時代の石飛先生をご存じだったのでしょうか。
石飛さんの思い出ですが……
・小生が石飛さんと知り合ったのは星群時代で、石坪さんらと並ぶ星群の有力メンバーだったという記憶しかないです。石坪さんあたりがいちばん詳しいでしょうね。
・よく覚えているのは、90年前後の数年、SF大会で西川公規さんが主宰していた「S年F組授業ライブ」が面白いので、メンバーとしていっしょに出演していたことでしょう。石飛さんのネタはアルバイトでの体験談などだったような。細かくは覚えてません。議員活動の話は出てこなかったと思います。やってれば面白かったでしょうね。
自分のことですが、小生は92年のハマコンでやった「大林雅美事件」で暗黒星雲賞を受賞したのが自慢です。
これくらいですかねえ。
ありがとうございます。第2回暗黒星雲賞のゲスト部門なんですね。
「星群」有力メンバーの石坪さんは大阪時代の石飛卓美先生について何かご存じでしょうか。
残念ながら、多くは知りません。
名前を知ったのは1980年の第六回ハヤカワSFコンテストで互いに最終選考に残った時です。
勿論名前を見た程度で、その後彼は「星群」に寄稿し始めますが(眉村さんの勧めらしいですが)親しく話をする事はありませんでした。
ちゃんと話をしたのは(不確かですが)1988年の星群祭。その帰りに自宅に泊めた時ぐらいですか。
その後、星群祭が中断し、私の方は会社の仕事が忙しくなり、ファン活動から遠ざかったので、縁遠くなりました。
星群の会代表の伊藤氏が、石飛氏とお付き合いがあったそうです。
また、坪井さんは、星群祭や雲魂での関係だけだそうです。
伊藤さんは、大阪時代の石飛卓美先生について何かご存じでしょうか。
よろしくお願いします
石飛と私(伊藤)の出会いについて 私に石飛を引き合わせたのは福岡重春(故人)である。 福岡は後に福崎録のペンネームで「SF作家人想書き」を星群本誌に連載することになる。
話を少し前に戻す。
そもそも私と福岡の出会いは、卒後就職した会社で同僚だったことによる。二人ともわずか半年で退職したのだが、その後も付き合いはずっと続いた。。
おもろいやつがおるから紹介するわ、というようなノリで紹介されたのはたぶん1977 年だったと思う。当時、石飛はYとふたりで貿易商を営んでいた。案内されたのが、そのオフィス兼住居である。石飛とY、そして福岡、さらに後で登場するMは大阪経済大学のゼミ仲間なのである。
場所が淡路であったことは覚えている。二階建てで、二階が石飛の居室だった。Yは別のところに住んでいたように思う。何を商っていたかというと、まことに怪しい商売なのであった。油絵が所狭しと立て掛けられていた、ちょっと無国籍風の第一印象がいまだ残っている。どこで仕入れてくるものかまでは知らないけれど、無名の画家の作品にポールだとかジョンだとか適当なサインを書き込んで売るのだと言っていた。(もう時効だからいいだろう。)その次に訪れたときは、取扱品はシイタケに変わっていた。石飛の実家(三刀屋)で栽培しているものだとのことだった。オーストラリアの商工会議所から返事がきたとか言ってたような…。こちとらは、まあまっとうな商売ではある。
すみません、淡路って淡路島でしょうか?
淡路は淡路島ではなく、東淀川区の淡路です。
当時の石飛は、小説にも手を染めかけてはいたようだけれど、私との接点は音楽のほうだった。私は大学時代(彼らとは別)からギターの弾き語りをしており、共通の趣味の持ち主としても福岡は引き合わせてくれたのだった。彼の歌声は覚えているが、どんな曲だったかまでは思い出せない。
その翌年だったか翌翌年だったか、石飛は突然(のように映った)大阪を後にして三刀屋へ帰っていった。
それから数か月後だと思うのだが、町の本屋でたまたまSFマガジンを手に取った。すると、石飛卓美の名前が目に飛び込んできた。リーダーズ・ストーリーの優秀作である。そのとき初めて彼がSFを書いていることを知ったのだが、そもそも私はSFは好きだったけれど、雑誌を買う習慣はなかったので、全くの偶然だったのだ。
そこで私もと思い、リーダーズ・ストーリーに応募した。すると、なんと優秀作に選ばれてしまったのだ。
まあそれっきりだったのだが、不思議なことではあった。
それから年に一度、京都の星群祭で再会を祝すことになる。私に続いて福岡(福崎録)も星群に参加することになる。
先に触れた石飛のゼミ仲間の残るひとりMもまた弾き語りをしていた。そんな彼が高校時代の級友を中心に企画したのが CollectionⅡという文集であり、石飛、福岡、そして私も誘われて寄稿している。「予知電話」「老人式」のSS二作は”幻の石飛作品”といえよう。
発行は 1988 年 7 月 1 日とあるが、書かれたのは'82~'83 年である。
伊藤さん、詳しくありがとうございました。応募してすぐに優秀作に選ばれるとは凄いですね。私も数回応募したのですが、かすりもしませんでした(汗;)
その話は『才のままに生きて、努力というものをしなかった小説家の遍(変)歴』にも出てきてないですね。没になったとは返す返すも残念です。
坪井さんは石飛さんとのおつき合いはどうだったのでしょうか。
石坪から聞いてました。石飛のことでしたね。
石飛が存命中は、私も毎年のように「雲魂」に参加してました。だから出雲松江は、私にとって思い入れのある土地なんです。
おととし、夫婦で出雲松江旅行をしました。石飛の墓参をしようと思ったのですが、時間的なことで断念しました。
石飛は、亀沢邦夫、菅原豊次とともに、「星群地方三羽カラス」といわれました。それぞれ、山陰、東海、東北で指導的な立場のファンダムのビッグネームファンです。三人ともいまはもういません。
石飛と亀沢は病没。石巻の菅原さんは東日本大震災の津波で亡くなりました。
以前いた会社で、社員旅行の幹事をやらされました。出雲で一泊。会社の宴会が嫌いな私は、宿を抜け出し、石飛を呼び出して二人で飲んでました。
石飛と会うといえば、やはり夏です。星群祭です。合宿には彼は必ず参加してました。合宿所に着くと、缶ビール片手で、すっかり出来上がった石飛が宿の玄関で出迎えてくれました。石飛と酒があれば、楽しい夜は約束されたようなものです。
松江でSF大会がありました。「ゆーこん」です。楽しいSF大会も終わり、さあ帰ろうか。ホテル玉泉のロビーで「石飛さん、神戸へ帰るわ」とあいさつしました。隣に座ってた小松さんに「気つけて帰りや」と声をかけてもらったのを思い出したました。
石飛の名前は星群入会以前から知ってました。SFマガジンの「リーダーズ・ストーリイ」の常連だったのです。やたらうまい人がいるな。思ってました。選者の豊田有恒さんも石飛のことは気に留めていたようです。
私はいまもそうですが、当時も星群の連絡人でした。石飛が入会したとき、当時の会計だった清水弘子と喜びあったのを覚えています。この清水の会計のあと会計係を引き継いだのが菅浩江でした。
星群に入会してからは本誌、星群ノベルズで健筆をふるいました。
雫石鉄也
坪井(雫石鉄也)さん、ありがとうございました。「雲魂参拾四」でもお二人のお話しを「石飛卓美を語る部屋」で披露しました。「星群地方三羽カラス」のお三方が全員逝去されたとはご存じない人もいたようで、驚かれてました。
編集の都合上「星群」時代のことも前編に含めましたが、SFの創作を始めたのは、年代的には島根県に帰られてからしばらくしてから(町会議員に当選した後)の出来事です。