タイタンにあがる月〈改〉

第一回 詠唱

八月やつき 休希やすき

【プロローグ:十二日目】


副操縦席に座った少女が右腕を上げ前方を指差す。その人差し指は二センチほどが透明に結晶化していた。

「我はエレメンタルを統べるもの。ティジリ・アマラルが命じる」

コクピットの照明が暗くなる。ティジリの全身の輪郭が黄色く光沢を放つ。

「終焉の座標を書き換え、転進の劫火ほむらを刻め」

突き出していた透明な指先が青白く輝き始める。

「ヒッ、びっくりした」

「大丈夫、そのまま続けなさい」

声が静かに先を促す。うん、と頷くとティジリは手前のディスプレイを見直し、青く輝く指を振りながら詠唱呪文コマンドの続きを確認。

運命プロヴィデンスの鎖を歪め、我が意のままに。えっと⋯⋯ぎ、ぎかく〇・七?」

ティジリは口ごもる。

「ぎょうかく、よ。慌てないで」

先ほどの声が、優しく諭す。

「もう一回、初めからやってみて」

初めからになるのか、とティジリは姿勢を正す。一語一句間違えず言わないと、船は正しく動かないと注意されていた。

画面を見直すと、呪文コマンドは微妙に変わっている。

運命プロヴィデンスの鎖を歪め、我が意のままに。仰角〇・九、因果律を断ち切る矢を解き放て!

時空を穿つ特異点シンギュラリティ・ショット』!」

間違えないで言えた。ほっとする。

船内にいくつもの噴射音が長く響く。スラスターにより船が回転を開始。ほんの僅かなGを感じる。外部映像ディスプレイの星々が下に流れ出す。

「よくできました、頑張ったね」

先ほどの声が優しく労い、船内の明るさが戻る。

「本当に船が動いてる⋯⋯」

「文句なしの上出来よ。さあ、その目でしっかり見てごらんなさい」

外部映像ディスプレイにズームされた岩石が映る。その岩石が徐々に近づいてくると同時に、画面下へ動いていく。

「あなたがあの岩との衝突を回避したの。ティジリ、あなたのおかげよ、誇らしいわ」

航行軌道制御コンピューターCaGYaかぐやの静かな音声にティジリは「てへへ」と笑う。

「初めての詠唱呪文コマンド、すごい上手だぞ、ティジリ」

操縦席に座るはかりは大げさに両手を広げ、さらに拍手を加える。

「ティジリの発する言葉で、このでかい船が動くんだ。なかなか壮観だろ」

はかりは岩石が映るメインディスプレイの隣、噴射している船尾スラスター映像のディスプレイを指差す。それを見たティジリはちょっとだけ頷き、微笑んだ。

CaGYaが言う。

「船の操作はこれからもいっぱいあるの。ティジリも手伝ってくれるかしら」

「できるかな、わたしなんかに」

笑顔が陰る。

「今、立派にできたじゃない」

「そうだぞ。やればできる、やらねばできない。やってみればできるもんさ」

「うん⋯⋯、やってみる」

二人の言葉にティジリは小さく頷いた。


【一日目】


軌道上のポートステーションに地球―低軌道往還シャトルが接続し、シートベルトサインが消える。他の乗客が立ち上がりシャトルを出ていく。ティジリと地球政府職員のミリーは立ち上がらず、最後までシートに座っていた。

窓が青い地球の一部を切り取っている。見える地形がどの地域なのか、ティジリにはわからない。

なんでこんなところにわたしはいるのだろう、そんな想いを強く抱く。

ついこの間までは、羊とヤギを連れて家族とアルジェリアの山野を歩いていたのに。そこには父と母がいた。二人の兄もいた。でも、今はもういない。

「そろそろ行こっか」

ミリーに促され、シートベルトを外す。立ち上がろうと床についた足に力を入れると、身体が浮き上がる。焦ってミリーにしがみつく。押されたミリーも慌ててシートに掴まる。無重力に不慣れな二人だった。

ゆっくりとシャトルを降りる。

ポートステーションの到着ロビーには大柄な男性が待っていた。

先行するミリーはその男性にぶつかりそうになり、近くの手すりで止まる。空いている手でティジリを止めると、ミリーの眼鏡だけが慣性でふわりと顔から離れてしまった。慌てて手すりを離し眼鏡を戻した。

「ミリー、久しぶりだな」

男性は笑顔でミリーと拳を合わせた。

そしてティジリの方を向く。

「俺は久門くもんはかり。惑星間の運び屋だ。よろしく、ティジリ」

ティジリはうつむいたまま微動だにせず、計が差し出した手はそのまま宙に浮き続ける。十一歳のティジリにとって、大人は怖い相手だった。ティジリから家族を引き離したのは白衣と防護服を着た大人だった。

あの白い部屋を思い出す。

父も母も兄も、家族はみんな死んでしまい、その後すぐティジリも病気になった。するとベッドしかない白い部屋に閉じ込められた。たくさん苦いものを飲まされ、たくさん針を刺された。嫌だと言っても服を脱がされ、体中に機械をあてられ、皮膚を切られもした。誰も会ってくれなかったし、話をしてくれなかった。ティジリの言葉を聞いてくれる人はいなかった。

悲しむこともできず、寂しくて孤独で恐怖の日が続いていたある日、ミリーが部屋に入ってきた。ミリーはたくさん話をしてくれて、抱きしめてくれた。ミリーだけは信じていいと思った。ティジリはミリーの胸でたくさん泣いた。

それなのに。

「ティジリはこれからタイタンという星に行くの」

ミリーにそう告げられた。

なんで大人が自分のことを勝手に決めるのか。病気を治すためよ、と言われても、ミリーも一緒に行くと言われても、もう何も信じられなくなった。

この計という人が、遠い星へ連れていってしまう人。見たくも触りたくもなかった。

「あー、俺、手を洗ってなかったかな」

計は差し出した手で頭を掻くと「いやー、触んなくてよかったよ」と笑い飛ばした。

「俺の船で、君をタイタンまで連れて行くんだ。絶対に間に合わせるからな」

何に間に合うのかわからない。大人はいつもわからないことを言う。

移動ノブに掴まり、長いポートステーションを流れていく。多数のドッキングポートを通り過ぎ、計の輸送船が停泊しているC106ドッキングポートに向かう。

ミリーは計に近寄ると、小声で何かを尋ねた。ティジリには、断片的な言葉だけが聞こえる。

⋯⋯奴ら⋯⋯武装輸送機⋯⋯情報が漏れて⋯⋯。計は黙って頷いた。

こうやって大人たちは自分の何かを勝手に決めていく。ティジリはまたそう感じた。

C106ゲートをくぐると、窓から船を一望することができた。白い外壁を持ち円筒が組み合わさった宇宙船が接続されている。

「円筒を七本束ねたように見えるだろ。最も長い中心が宇宙船の本体だ。俺達はそこに乗る。周りを取り囲む六本の円筒は燃料タンクだ」

計が得意げに説明する。

「スフェニスク号っていうんだ。しばらく一緒に暮らすことになる。ま、自分の家と思ってくつろいでくれ」

スフェニスク号に入ると、手すりを辿って狭い通路を進む。通路の先の扉が開くとそこはコクピットの床だった。コクピットは通路と直角に交わっている。扉の対向はコクピットの天井にあたる。

全員がコクピットに入るのを見計らったように照明が消えた。計の「なんだ?」の声と同時に、暗闇の中でいくつものディスプレイが灯る。

メインディスプレイには、

「ティジリ、ミリー

ようこそスフェニスク号へ」

という文字が浮かぶ。文字の背景には、いくつもの四角に緻密な斜線の入った幾何学模様。ティジリには見慣れたベルベルラグの模様だった。

他のディスプレイには、数々の写真が表示されている。崖際を渡る高い橋と建物の風景、夕焼けの下に荘厳に佇むモスク、青空と森と草原、砂地などの写真が、ゆっくりとスクロールしていく。

ミリーが「これはアルジェリアの?」と言葉を漏らす。

ティジリは懐かしい風景に見入り、近寄ってそれらを眺めていく。

いつもいた山ではないけど、よく似ていた。羊の写真、カバの写真もある。

「わたしの居場所ところ

思わず声が出た。ひとつひとつ写真を見ていると、コクピットが明るくなった。

「いらっしゃい、ティジリ、ミリー」

静かな声が室内に響く。

「航行軌道制御コンピューターのCaGYaかぐやだ」

計が紹介をした。

「粋な演出しやがって」

「あんたはどうせ、握手でもしようとして無視されたんだろう。オムライスは作ってもケチャップを出さないみたいに配慮がないんだからさ」

「見てきたみたいに言うな。それに俺はマヨネーズ派だ」

ミリーがくすっと笑った。

「すぐに出航するぞ」

ティジリは個室に案内され、自由に使っていいよと言われた。

狭い船室だった。また閉じ込められた、そんな気がしてしまった。


【五日目】


地球の重力の大部分を振り切った頃、ミリーは自室から通路を通り、コクピットの床から顔を出した。

「ちょっといいかしら?」

コンソールに向かって操作をしていた計がシートごと振り向く。

「もちろんさ、どうした」

通信担当の席にミリーは導かれた。

「タイタンへの到着時間を確認したいの」

するとCaGYaが答えた。

「計画では地球出発から百二十六日目、タイタンに着く予定だよ。地球換算では八月十三日に相当ね」

航路計画図がメインディスプレイに表示される。

「六十三日間最大に加速して反転、同じだけ減速という航法よ。連続加速航行が一番早く着くのでね、ホーマン軌道では間に合わない」

計が口を挟む。

「こんな芸当ができるのは、民間ではこの船くらいだ。おかげで膨大な推進剤を用意するはめになったよ、船体重量の約二倍の固体スラッシュ水素だ。貨物室ですら推進剤が詰まっているさ。必要経費、地球政府に回すぜ」

ミリーは苦笑すると、不安を切り出す。

「相談したいのはね。ティジリ、結晶化の進行が速すぎるのよ。若いからかしら」

透晶病とうしょうびょうに罹患した人の平均余命はおおよそ七ヶ月、ティジリの発症は二月十日なので、九月頃がティジリの命のタイムリミットだった。

コンソールに触り、データを呼び出す。

「今は足の指先が四本、手の指先が二本、いずれも五ミリ程度」

透晶病はタンパク質や脂肪である炭素化合物を変化させる。炭素原子をダイヤモンドと同じような網目状構造へ再結合させる。その結果、生体組織が有機ガラス化し、硬質で透明度の高い物質に変わってしまう。これを透晶病の結晶化という。

ミリーがサブディスプレイに予測グラフを表示した。右肩上がりの曲線が二つ。実線と点線がある。

「結晶化は皮膚から始まるんだけど、外胚葉組織が選択的に侵される傾向があるみたい。なので皮膚の表面だけが先に進行していくの」

ミリーが予測グラフの原点あたりを指差す。今はここね、と言ったあと、上にある水平な線を指した。

「この横線が生死の境目。身体の表面積の結晶化率五十%のラインよ。この線に到達すると、発汗や体温放熱に問題が出るし、もし胸の皮膚が固まってしまうと、横隔膜や肺の膨らみを阻害し呼吸ができなくなる。心臓の脈動にも影響する」

もしものため、肺や心臓を人工的に動かす装置も積んである。ミリーはその装着訓練もしてきた。これらの出番が来ないことを切に願っている。使っても僅かな延命にしかならないからだ。

「平均的な進行速度が点線、そしてティジリの実測値からの予測が実線。平均よりも三十日も早い」

CaGYaが素早く計算する。

「一ヶ月早まったということね、八月上旬がタイムリミットになる。今の計画ではタイタンに着くのは百二十六日目の八月十三日。ぎりぎりというか、かなり際どい」

計は腕を組む。

「でも今以上に加速できないぞ、もっと早く到着するのは不可能だ」

「やっぱりそうよね」

ミリーも俯いてしまう。

しばらく沈黙が流れる。

「ティジリを運ぶのは、エンケラドゥスが噴出するエンクジンを治療に使うからだよな」

そうよ、とミリーが頷く。

「エンクジンの光反応の性質、特定波長の光を当てると分子形状が変わるの。その時に電場が発生し、隣接する電子の状態を結合状態から励起状態に変えるんだって。量子のなんとか効果で。それで炭素の共有結合が解除され生体組織が正常化するとか。結晶化がそんな可逆変化するのか疑問だけどね」

そもそもだけどさ、と計が疑問を呈する。

「わざわざ患者を運ぶより、タイタンから地球にエンクジンを運んだほうが早くないか?」

「もちろんそれは真っ先に検討したわ。でもエンクジンという高分子はデリケートで、宇宙空間で採取したあとすぐに変性してしまう。それに僅かな量しか採取できないので、とっても貴重なの。治療にどれほどの量が必要かも見積もれない。なのでエンケラドゥスの近くで実験することにしたのよ」

さらに、エンクジンにはまだ解明されていない性質があるかもしれない、と付け加える。人体や地球生物に取り込まれたとき、どのような反応が起こるかわからない。だから地球に持ち込むことに慎重な派閥もいる。

計は頷く。

「ミリーはずいぶんとティジリに肩入れしているんだな、船に同行してまで。専門の看護師がいるだろうに」

ミリーは曖昧に微笑む。

「ティジリは家族を亡くしてすぐ、彼女も発症したの。悲しむ間もなく病院に預けられて。でもそこでは病原体の元凶のように怖がられ、忌み嫌われ、非人間的に扱われた。まだ感染症ではないことが明らかになっていなかったから」

「さぞ辛かっただろうな」

「結晶化のメカニズムが分かってきて、エンクジンが有効かもしれないという仮説が出ると、実験体として都合の良い条件を備えたティジリは、一転して人類の希望と祭り上げられた」

「それはあれだな。おまえには誰も悲しむ人がいない、不要な人間だと宣告したってことだ。あんな小さな子に⋯⋯」

計は拳で膝を打つ。

「ティジリを救おう。任務を成功させるためだけじゃない。俺はティジリに、生きていてよかった、産まれてきてよかったと、そう思って欲しい」

計は横を向き、少し小さな声で言う。

「俺も孤独だった、寂しさは知っているつもりだ。だからこそ、幸せを感じて欲しいんだ」

ミリーも力強く頷く。

「そうね、私も。私もそう思っている。だからこの付き添いを願い出たの。ティジリに笑って欲しい、笑顔を見せて欲しいから」

「わかった。とにかく一秒たりとも無駄にできないな。CaGYa、炉のメンテナンスも最小限にして最大で加速していくぞ。絶対にタイタンに連れてってやる」

「ありがとう」

ほんとはね、とミリーは心の中だけで計の問いに答える。もし私の娘が今も生きていれば、ティジリと同い年だったの。


【七日目】


広い青空、白い雲が浮かんでいた。遙か先に高い山、その手前には数本の痩せた木が見える。砂地を歩いていくわたしの家の数匹のヤギ、たくさんの羊。群れの中心には父が立っていた。羊を追い立てる二人の兄のはしゃいだ声が響く。

わたしの手は母の服のはしっこをにぎっていた。遠くを見つめる母のまっすぐでカッコいい横顔。

帰りたい。胸の奥がぎゅっとなり、涙があふれる。

ドンドン。どこかから鈍い音がする。

「⋯⋯寝てるのか。ティジリ、聞こえるか」

ティジリは薄く目を開ける。白く柔らかい壁、正面の扉、狭い部屋が見える。ここはスフェニスク号。

記憶と意識がはっきりする。涙を拭う。

正面の扉の裏から聞こえるのは計の声のようだ。

ためらった末、開けて、と小さな声でルームコントローラに指示をする。

横向きの計の顔が、スライドした扉の間から覗く。

「やぁ、ティジリ。コクピットに少し遊びに来ないか」

断る言葉を探して目をそらす。

「CaGYaが君と話したいってさ」

それを聞いて、最初に見た多くの故郷の写真を思い出す。ティジリは、こくりと頷いた。

「じゃ、コクピットで待ってる」

と言い扉を閉めた。

ティジリは壁に固定されたシュラフから抜け出し、服を着替える。服は一組しか持っていない。お気に入りの白と赤のギンガムチェックのブラウス。ボトムは大き過ぎるジーンズ。

部屋を出て、ゆらゆらと通路を進み、コクピットの穴から顔を出す。計が振り向き、CaGYaが歓迎してくれた。

「いらっしゃい、ティジリ。よく来てくれたわね。さあ、こちらにどうぞ」

一つのシートがスポットライトに照らされる。

スフェニスク号のコクピットは円形をしている。壁に沿って周囲をコンソールパネルとディスプレイが埋め尽くし、四つのシートが均等に配置されている。シートは百八十度回転が可能で、反転すると四人が顔を合わせて会話ができるようになっていた。

スポットライトが当たっているのは正面ディスプレイに向かって計の左、副操縦士の席。

「ティジリは、魔法使いが出てくる映画を観たことあるかしら」

シートに座るや、CaGYaの問いかけにティジリは首を振った。映画というものを観たことはなかった。

「そう。なら素敵な魔法ってものを見せてあげる」

コクピットの照明が半分ほどに暗くなる。ティジリは何が始まるのか不安になった。

「計、ちょっと右手を前に出しなさい」

名指しされた計は、拳を握り右腕を前に突き出す。

「そのままゆっくりと左右に振ってみて。ゆっくりとよ」

「こうか?」

拳を左に水平移動。するとその跡を光の粒子が流れた。

驚いたティジリは、身を乗り出す。

計が拳を右に動かすと、また光の尾が跡をひく。計も面白くなったのか、拳を上に下に。そのたびに拳の軌跡が輝き消えていく。ついに腕をぐるぐると回し始めた。光軌が円を描く。流れ星より彗星より明るい、魔法の光だった。

「調子に乗らない」

CaGYaがたしなめたその時、大きく振り回した腕が派手な音を立てて上部パネルにぶつかり、そこでマジックショーは終わった。

「いてて」

「船を虐めないで」

「俺への慰めはないのか」

「あんたは自業自得というの。我慢しなさい」

計はやれやれと言いながらシートに座ると、「どうやってこんなことを⋯⋯」と呟く。

CaGYaは声だけで微笑んだ。

光トラップ空間ディスプレイOTDの応用よ。たくさんの粒子を光トラップで動かすの」

ティジリは自分の拳を見ていた。なんだったのだろう今のは。魔法なの?

「そんなことより、次はティジリ。まずは指を立ててみて」

言われた通りティジリは少し結晶化した右手の人差し指を立てる。一センチほど透明化しているその場所が輝き、光球が灯った。

「わぁ」

思わず声が出た。指を立てたまま手を動かすと、その軌跡が残った。計の時とは違い光軌は消えない。ぐねぐねと線が引ける。丸を描き、三角を描く。

人差し指を折り曲げると、指先の光が消える。指を伸ばすとまた灯った。それで絵が描けるようになった。

小さな頃、落書きをしたカバを描いた。故郷の絵描き歌のカバだ。

「きゃは」

腕の届く範囲が光で埋もれたので、席を立ちコクピット中を浮かび飛び回る。ぐるぐると螺旋模様やハートを落書きした。少し考えて、自分の名前を書く。次にCaGYaの名もスペルを聞きながらゆっくりと書いた。

と、そこで照明が点く。眩しさに目を細め、すぐ開いた時にはもう空間の落書きはすっかり消えていた。

「次に、俺の名前だっただろ!」

計の抗議はCaGYaにスルーされる。

「ティジリの描いた絵はとても綺麗だったわよ。魔法、楽しかった?」

もう一回やりたいなという思いを込めてティジリは「うん」と大きな声を出す。こんな不思議なお絵かきは初めてだった。

「あなただけができる、あなただけの特別な魔法」

これが魔法。もっとやりたい、もっと魔法を知りたい。ティジリの瞳に輝きが灯った。

「それにしてもティジリ、字が書けたんだな。資料には読み書きはできないとあったが」

「ミリーが教えてくれた」

地球で旅立ちの準備をしている頃、ミリーと一緒にペンでアルファベットを練習した。単語もたくさん教わった。言われたからやっていただけだった。おかげで、こうして光で字を書くことができた。そして褒められた。ちょっと嬉しかった。

「よし、これから俺たちが面白いことをいっぱい教えてやる。星座や、向かっている土星のこと、地球のこと、この船のこと」

「部屋で音楽を聴いたり、映画を観たりできるようにもしてあげる」

こんなことを言ってくれる大人は初めてで、ティジリは戸惑う。

少し間を空け、CaGYaが静かに添える。

「ティジリは私たちの大事な娘だから、ね」

夢で見た母の横顔を思い出した。ティジリははにかんで笑うと、小さく頷いた。


【十四日目】


スフェニスク号は火星軌道のあたりにいた。四十時間前にティジリは初めての詠唱呪文コマンドを唱え、岩石を見事に回避した。

そして今は慣性航行をしている。船のエンジンである無中性子Aneutronic直接Direct核融合Fusion推進機関Driveを定期的に停止させ、短いメンテナンスをする。だから今は加速をしていない。

計には、ティジリに見せておきたいものがあった。ティジリがまだ動けるうちに。ティジリに船外活動EVAをさせることを、無理やりミリーに承諾させた。

すぐにティジリに宇宙服を着せる。エアロックに二人が並び、ゆっくりと外壁が開いていく。

フェイスシールド越しにティジリは星の光を直接見た。地球の大気越しではなく、船外カメラ越しでもなく、たった厚さ五ミリメートルのポリカーボネート越しに。地上からは見ることのできないほど多くの、色とりどりの星々が明るく輝いている。

計は身軽にハッチから躍り出て、横のハシゴに掴まる。ティジリとつないだテザーが波打ち踊った。

別のテザーフックを二人分取り出し、船体横のガイドに引っ掛けると、計は手を差し伸べた。

エアロックの下を覗き込むティジリ。虚無に浮遊する恐怖を感じているだろう。

「落ちないから大丈夫だ」

そう言って計はテザーを持ち上げ、つながっていることを伝える。重力がないことを頭で理解していても、地面がない恐怖は本能からくる。

計はティジリを焦らせることなく慣れるのを待つ。何度かハッチとハシゴをゆっくり往復して見せ、手本を示した。

ティジリが恐る恐るハッチの外に手を伸ばす。補助をして取っ手に掴ませると、ティジリの全身がハッチの外に出た。

計が先導して、ゆっくりと二人で船体後方へ進み始める。

スフェニスク号の中心になる主筒は全長百十九メートル、直径六メートルの円筒形をしている。進行方向前方がコクピットのある操縦制御ブロック。続いて居住ブロック、貨物ブロック、燃料ブロック。そして核融合炉のある推進機関ブロックで構成される。

この主筒の周囲を取り囲むように、同じ太さの燃料タンクが六本配置されている。これらの燃料タンクで船全体の三分の二の質量を占める。

二人は居住ブロックのエアロックから出て、燃料タンクの外壁を貨物ブロックとの境目あたりまで這い進んだ。

白い外壁は、長年の宇宙塵や宇宙線に晒され黒く汚れている箇所も多い。そんな中、ティジリが異質な模様を見つけた。丸い目にひし形の口。お化けのような体型。短い腕が左右に出ている。

「なにあれ」

ティジリが落書きを指差す。

「あー、俺が子供の頃に描いた落書きだ」

「おじさんも子供だったの?」

「俺だって生まれた時からおじさんだったわけじゃない」

「そっか」

「ペンギンって知ってるか。もう地球にはあまりいないけどな。それを描いたんだ」

ティジリのバイザーにCaGYaが南極のエンペラーペンギンの画像を表示する。

「かわいい」

計が腰のポシェットから一枚の大きなポスターステッカーを取り出した。

「そしてこれが、前にティジリが描いた絵だ」

魔法の光で描いたカバの落書きが、そのまま印刷されていた。

「極限環境耐性のあるステッカーさ」

そう言いながら、ペンギンの落書きの隣に貼り付けた。

落書きが二つ並ぶ。宇宙に浮かぶ子供の絵。カバとペンギン。

「あはは」

声を出してティジリが笑う。

ティジリの笑顔がバイザーの中で見えないのが残念だった。

「さ、いくぞ」

計は動き始め、ティジリもついて行く。

「この船はさ、俺のじっちゃんが作ったんだ。

じっちゃんは宇宙軍の研究者で、核融合推進の開発をやっていた。その試作機を買い取ってさ、この宇宙船を作ったんだ。

じっちゃんの工場で遊んでいた俺がこっそり描いたのがあれ。ペンギン」

もう一度落書きを振り返る。

「じっちゃんは気づいてたと思うけどな。消さなかったんだ」

今や無中性子直接核融合推進機関aDFDを持つ宇宙船は徐々に普及しつつあるが、それでもまだ製造は難しく、民間で持っているのは計だけだろう。祖父が作ったこの船を維持するため、父親は高機動性をアピールした惑星間輸送会社を立ち上げた。政府筋の人脈を活かして仕事を取ってきた。計はそれを引き継いだのだ。

「子供の頃の俺はじっちゃんの工場が遊び場だった。じっちゃんから宇宙の話を聞き、CaGYaから数学を教わった。同じ年頃のやつらと遊んでも面白くなかった。だから友達はできなかった」

計はティジリを振り向く。少女の孤独は、少年時代の自分と重なる。

「じっちゃんのことを手伝えるようになると、俺も一緒にこの船を作った。じっちゃんの設計を理解するのは大変だったけどな。でも製造機械の操作は俺の方が上手だったんだ」

自分の孤独には救いがあった。じっちゃんがいてくれた。ではティジリには誰がいるのか。

貨物ブロックが終わり、燃料ブロックに差し掛かった。

「じっちゃんがいなくなり、親父とCaGYaと、この船で暮らした。太陽系中どこでも行った。今はCaGYaと二人だけどな」

計は言葉を切り、黙って燃料ブロックを這い進む。

ティジリの方を向く。

「ティジリたちが来てくれて賑やかになった。とても楽しいよ、ありがとうな」

ティジリが戸惑いながらも、うん、と呟く。

ティジリを守りたい計の気持ちには、そんな昔の自分への救いも込められている。計は自分でそれを認めていた。

二人は燃料タンクの終端まで来た。そこから主筒後尾の推進機関ブロックを見下ろすことが出来る。

計は取っ手に足を掛け立ち上がると、同じようにティジリも立たせる。そして眼下の推進機関ブロックを指差した。そこには楕円に潰れた球体が三つ、その後ろに円錐形の噴射ノズルが同じく三つ見えた。

「この船は核融合フュージョンの力で進む。あの丸いのが核融合反応を起こす炉だ」

視界に入らない裏側のも含めると炉は全部で六つある。

「燃料はホウ素と水素イオン。レーザーを当てプラズマ化させ、それらを核融合させる。するとヘリウム原子核が生まれ、すごい勢いで飛び出す。これに推進剤である水素を加えて質量を増加させ、エネルギーを速度に換えて磁気ノズルから噴射する。その反動でこの船は前に進むんだ」

CaGYaの音声が割って入る。

「もっと分かりやすく教えてあげなさいよ。ティジリ、例えばね」

そう言うと、ティジリのバイザーに鍋のアニメーションが動き出す。

「豆を入れた超強力な圧力鍋を、すごくすごく熱くするの。するとその豆同士は激しく動き回り、ぶつかり合ってポップコーンに変わる。ポップコーンに変わった瞬間、猛烈な勢いで弾ける力と熱風が生まれるの。その勢いでポップコーンを細いノズルから吹き出させて船は前に進む。これが、この船のエンジン無中性子直接核融合推進機関aDFDよ」

ポップコーンをポンポン吐き出しながら、計の似顔絵のついた白い宇宙船が横に流れていった。

「とっても熱いの?」

「ああ、すごく熱いぞ。核融合する時は二十億度。磁気ノズルから噴射されているのは百六十万度だ」

「宇宙船、溶けないの?」

「粒子が炉の壁に触らないように磁力で閉じ込めて、浮かせているから大丈夫だ」

計はティジリの肩を叩く。

「それに、これからティジリに呪文を唱えてもらうからな。頼むぞ魔道士ティジリ」

ティジリのバイザーに詠唱呪文コマンドが表示された。

「またこれを読むの?」

「そうよ。これがあなただけが唱えられる呪文。あなただけの魔法」

少しの沈黙の後、か弱い声で小さく読み上げる。

「我はエレメンタルを統べるもの。ティジリ・アマラルが命じる」

画面がスクロールし、次の言葉が現れる。

「死神の肋骨あばらよ鎌となれ。心臓の絶叫、灼熱の虚無を、凍える星の海に解き放て。

熱力学第二法則エントロピー排熱境界ボーダー、展開」

船体が震える。振動が、立っている足裏から伝わる。

推進機関aDFDブロックの前後にわたって一本の鉄柱が埋め込まれていた。その柱の後部だけが迫り上がり、鉄柱が傾斜を作る。船体から四十五度ほど持ち上がり動きが止まった。

「なんなの⋯⋯?」

「これがラジエーターの液滴回収バー。全部で六本あるんだ」

計の腕が側面を指す。スフェニスク号の周囲六十度ごとに柱が広がっていた。その一本一本は、炉の位置に対応している。

「炉の熱はこれらで冷やす。さ、続きだ」

ティジリのバイザーに次の詠唱呪文コマンドが現れる。

「次から少し長いわよ、頑張って。ティジリならできるから」

ティジリの詠唱が始まる。

「我はエレメンタルを統べるもの。ティジリ・アマラルが命じる」

そこにCaGYaの声が小さく重なる。

「電力接続、炉内モニター開始、核融合制御起動。ホウ素ボロン、レーザー加熱ヒーティング開始」

ティジリが続ける。

「肉体よ融解せよ、霊魂よ昇華せよ。歪曲なる檻の中で、電子よ目覚めよ」

「プラズマへのフェイズ移行を確認。ミラー磁場流動ケージ形成、磁気回路安定」

「審判の光、収束し、神の指先が、心の臓に触れる」

陽子プロトンレーザー、充電チャージ完了。目標ターゲット捕捉九十八%」

自然とティジリは拳を上げ、胸に当てる。

ぜろ、宇宙そらを射ろ。アポロンの核のごとく。禁忌の融合フュージョン、今ここに」

「プロトンビーム断続照射開始⋯⋯核融合反応を確認。炉内安定、臨界を超えます」

ティジリの視線の先、核融合炉が淡紅たんこうに輝き始める。そこに向けて手のひらを突き出す。

「狂える劫火ほむらを導け、深淵へと至る残酷なる道標みちしるべ

「磁気ノズル内磁場固定、推進剤希釈注入」

ティジリは頭上に高々と腕を掲げた。そして。

「轟かせ! 咆哮せよ! 魂の旋律! 重力の呪縛を解き放て!」

詠唱と同時に振り下ろした。

最後尾の六つのノズルから、青白い輝きが吹き出す。徐々に明るくなり、尾が伸び始める。

「プラズマ噴射開始。全モジュール推力発生、二十五キロニュートン。⋯⋯二十九キロ⋯⋯三十二キロ⋯⋯三十三キロニュートン、最大加速に到達。加速航行に移行します」

体が僅かに傾き加速を感じた。轟音を立てているかのように見える高熱のプラズマ噴射は、完全なる静寂の中、熱だけを放射している。

さらにCaGYaの声。

「次がフィナーレ、しっかり」

ティジリは画面に目を落とし、力強く最後の呪文を唱えた。

「溢れ出せ、あかき涙。磁界の揺り籠に導かれ、紅蓮の翼で舞い上がれ!

磁力誘導液滴循環マリオネット・リキッド・サーキット』起動!」

炉の曲面がことさら赤く輝き、表面に靄が発生する。

どうなるのかとティジリは目を凝らす。

炉の表面から小さな赤い光の粒子が浮かび始めた。浮かんだ粒子が上に流れる。次々に粒子は増え続け、高く昇った粒子は迫り上がったバーに引き寄せられる。一本二本と吸い込まれる赤い軌跡は増えていき、線はそれぞれ太くなる。広がった線はやがて面になる。炉のある推進機関ブロックと、迫り上がったバーの間に三角形の光の膜が形成された。

三角形の底辺付近、炉の近くは濃い赤。上に昇るに従い淡い赤に変わっていくグラデーション。そんな光の膜が宇宙船の帆のようであり、翼のようであった。

「きれい⋯⋯」

「この光の膜はラジエーターだ。液滴ラジエーターといって、炉の熱を液体金属の粒が吸い取り、宇宙空間に光として放射する。放射しながら、磁界に操られて回収バーに吸い込まれていく。こうして六つの炉の熱を逃がし、熱暴走を防いでいるんだ」

三角形のグラデーション膜は、円筒形の宇宙船から放射状に六枚広がっていて、ティジリの視界には三枚が輝いて見える。

全天を覆う星々の輝きを背景に、光り輝く赤い翼。

「これが見せたかったんだ。俺の自慢のじっちゃんが作った最高傑作の推進機関。唯一無二の船だ」

しばらくの間、見惚れる。そしてティジリは計を見上げた。

「ありがとう、計。見せてくれて」

ティジリが初めて計の名を呼んだ。


<続く>