タイタンにあがる月〈改〉
第二回 会敵
八月 休希
【十五日目】
いつもの時間になりミリーはティジリの扉をノックする。
「ティジリ、入るわよ」
壁にシュラフで固定されているティジリの前にはディスプレイがある。映画のエンドロールが流れていた。
「あら、何観ていたの?」
「ずんぐりしたロボットと金色のロボットが宇宙を飛んで、光る剣で戦うやつ」
「ああ、それ私も大好きよ。たくさんあるから見応えあるし」
話をしながら手際よくミリーが結晶化部分の大きさを測っていく。日課の検診。バイタルモニターの数値を確認し、唾液を採取、分析機にかける。
「昨日外で見た宇宙、映画の宇宙と全然違った。すごく綺麗だった」
計がティジリを外に連れ出すと言い出した時は、そんな無茶なことさせられないと猛反対したけど。戻ってきたティジリの上気した様子を見て、ミリーは胸を撫で下ろした。計には感謝しないと。
「よかったわね。計も、ティジリがとても喜んでくれて嬉しかったって」
彼らもティジリに優しく接していて、彼女は日々明るくなっていた。
「これからもっと楽しくなるよ」
ミリーがそう言うと、ティジリは顔を背けた。
「なんで? なんでそんなに優しくしてくれるの? わたし、迷惑ばかりかけるお荷物なのに。邪魔ものなのに」
ミリーは手を止める。そんなことないよ、と言うのは簡単だ。でもそんな言葉をティジリは受け取らないだろう。
何気なさを装って、
「どうしてそう思ったの」
と、ミリーは尋ねる。
ティジリは黙り込む。ミリーは静かに診察を続け、辛抱強く次の言葉を待つ。
ミリーがティジリの服を戻し、シュラフのハーネスをはめた時、ティジリが口を開いた。
「わたしのせいで、父さん、ケガしたの」
ミリーは続きを促す。
「うちで飼ってたヤギが、わたしにぶつかって来て。なんでかわたし、ヤギを怒らせちゃって。それを父さんが助けてくれて」
その時、父が角で脇腹を怪我したと話した。
「ケガの次の日、父さんの皮膚に結晶が現れた。透晶病になったの」
「それで、ティジリはお父さんが亡くなったのは自分の所為と思ったのね」
「兄さんにそう言われた」
透晶病の原因は、工場の産業廃棄物から生まれるナノプラスチックの体内への蓄積だ。特定の物質の組み合わせが一定量蓄積した時に、結晶化を誘発する物質になると言われている。つまり怪我は関係ない。タイミングが悪かったのだ。
「それでティジリは自分を責めちゃったのね」
ティジリは首を振る。
「それだけじゃないの。わたしがそうやって家に病気を招き入れちゃったから、母さんも兄さんたちもみんなかかっちゃって。わたしだけ、残って⋯⋯」
消え入るような声。
「だから。ここにいるのは⋯⋯罰なの」
ミリーは、そっとティジリの手を取る。
優しく何度も撫でる。
「いいのよ。ティジリはもう辛いこと、いっぱいあったから。もういいの。
これからは大丈夫。ここには私も、計も、CaGYaもいる」
両手でティジリの手を包み込む。
「みんなでね、ティジリの病気、やっつけに行きましょう」
明るくそう言うと、結晶化し透明になったティジリの指にミリーはキスをした。
「だめ!」
慌てて手を引っ込めるティジリ。
「ミリーも死んじゃう」
「大丈夫、私は死なない。ティジリと一緒にいるよ」
そう言うともう一度ティジリの手を取る。
ティジリの手は力なく動かない。顔を伏せたままだ。そして目を閉じた。
記憶の中の自分の家、床の布団に横たわる父をわたしは見下ろしていた。おなかに包帯を巻き、そこから広く結晶化した皮膚が出ている。苦しそうな父の呼吸。母と二人の兄が心配そうに父をのぞき込んでいる。
そして全員がわたしをにらみつけ、指差す。
「おまえのせいだ!」
びくっとティジリの手が震えたその時、ミリーはしっかりと、強く、痛いほど強く握りしめた。
「私たちはティジリの味方。ずっとよ」
ティジリがミリーをじっと見つめると、ミリーが頷く。
ティジリも強く、その手を握り返してきた。
【六十三日目】
木星軌道、スフェニスク号は全航行距離の中間点に近づいていた。
ティジリはコクピットで毎日、計やCaGYaにいろいろなことを教わっている。そして時々、詠唱呪文で船の操作をする。
焦茶色の袋をいくつも抱えた計がコクピットに入ってきた。ティジリと向き合う。
「チョコレート、好きか?」
袋の印刷写真をティジリに見せてくれる。チョコレートという名前をティジリは聞いたことがある。だけど食べたことはない。
首を振ると、計は袋を破き、三角のケーキを取り出した。ティジリに手渡す。完全に透明になり動かなくなった両手で、そっと焦茶色の柔らかいそれを挟む。両手のガラスの指が触れ合い、カチリと音を立てた。
どうやって食べればいいのか困っていると、計はもう一つ袋を破り、大きな口でケーキを丸ごと頬張った。
ティジリも真似しようとして、でも口に入りきらない。ケーキの半分が顔の前に浮かんだ。
「うまいだろう?」
柔らかい。口の中でとろける食感。そして広がる甘さ。
うっとりとしてしまう。そんなティジリの表情に計も嬉しくなったようだ。
「もう一個食え」
新たな袋を取り出し、中身をティジリに向けて漂わせた。
「さて、これからやることを説明するぞ」
さらにもう一つ、別のチョコレートケーキを、ティジリの顔の前に浮かばせる。
「重力の無い宇宙では、止まっているものはずっと止まっている」
右手でチョンとチョコレートケーキをつつく。
「力を加えると動き出す。動いているものは、ずっと動き続ける」
ケーキは、ゆっくりと横に流れていく。
「止めるにも力が必要なんだ。動かした時とは逆向きの力が、同じ量だけ必要だ」
ケーキを左手でチョンとつついて止める。
「さて、この宇宙船はタイタンに向かって、ずっと加速している。ずっと力を加え続けて、速度を上げてきたんだ」
ケーキに指を当て、右に押し続けた。
「このままではタイタンに着いても凄い速度で通り過ぎるだけで、タイタンに上陸はできない。ならばどうすればいい?」
ティジリはもう開かなくなった透明な右手で、そっとケーキを押し返した。
「反対から押して止める」
「そうだ。逆向きに同じ分だけ加速してやる必要がある。加速というより減速だな」
「加速も減速も向きが違うだけで同じこと、よね」
「よく分かってるな。どれほどの力を加えると、どれほどの加速や減速をするのか。そのルールを表したものを運動の第二法則という。覚えておくといい」
そう言うと計はそのケーキを口に放り込んでしまった。ティジリはちょっとがっかりする。
「地球を出てから今まで六十三日間、推進機関ブロックは後ろにいて、ずっとこの船を押してきた。その結果、太陽に対して二百三十四キロメートル毎秒の速度が出ている。もうすぐ中間点を越える。この後六十三日間は推進機関ブロックを前にして、止めていくようにする」
そのためのスフェニスク号の転回をやってほしい、と言った。
「だからさっき推進機関を止めたのね。わかった、いつやるの?」
ティジリがそう尋ねるとCaGYaが答えた。
「二分後よ」
「はや!」
副操縦席のサブディスプレイに詠唱呪文が表示される。
きっかり二分の後、ティジリは詠唱を始める。
「光と闇、規律と混沌、真と偽、相反し中に潜む反理論。逆転を統べ、刻を空間へ、重量を光熱へ。
『次元暗黒反転』!」
スラスターの噴射音が船内に響き、振動が伝わる。四百トンの船体プラス残存燃料三百六十一トンの質量が動き出す。ゆっくりと星々が画面下に流れ、スフェニスク号の回転が始まった。操縦制御ブロックの先端スラスターと推進機関ブロックの後端スラスターが、逆方向に噴射している。回転軸は船体の中央付近、貨物ブロックのあたり。Gをほとんど感じることはなく、回転運動は十五分ほど続いた。
百八十度回転が完了し、進行方向先頭に推進機関ブロックが来た。CaGYaの姿勢制御完了のアナウンス後、ティジリは推進機関起動の呪文を唱えた。
【七十日目】
ミリーがティジリの個室に入ると、ティジリは右腕を天井の照明に向けて上げ、結晶化した部分を熱心に観察していた。
「なに見てるの?」
ガラスの左手が右の前腕を示す。前腕の半分以上は結晶化している。
「この透明になったところ。肘に近い方は結晶の粒が小さくて。きらきらときれいだなって」
自分を死に追いやる症状を見て、綺麗と評するティジリに呆れるが、ティジリにはそういう達観したところがある。
ミリーも一緒に覗き込んでみた。透過光で見ると分かりやすい。確かに新しい結晶は粒度が小さく、手に近い方は大きい。手の方は直線的な結晶境界面がセンチ単位なのに対して、肘の近くはミリ単位で結晶が入り組んでいる。万華鏡のような美しさがあった。
「ほんと綺麗ね。よく気づいたわね」
日々の検診では、結晶化しているかどうかの測定に気を取られていて、こうした質の違いに気づかなかった。
部位により違うのかしらと、左腕や両足も確かめる。どこも新しい結晶は粒度が小さかった。
結晶化の進行速度が遅くなっていることは、ミリーも分かっていた。出発時点では、結晶化面積が全身の五十%に至る予測日と、スフェニスク号がタイタンに到着する日とがほぼ一緒だった。ティジリの命が尽きるのが先か、タイタンに着くのが先か、賭けのようなものだった。
ところが最近の予測値では数日の余裕ができている。なぜ結晶化の進行速度が遅くなっているのか、原因は判っていなかった。
粒の大きさがヒントになるかもしれない、ミリーはそう考えた。
そこで医療データベースを検索し始める。結晶サイズや病気の進行速度を決める要素は何なのか。
夢中でコンソールを操作していると、ティジリが話しかけてきた。
「そういえばミリー、計とケンカした? それってチワゲンカってやつ?」
キーを打つ力加減を誤り、ミリーの身体が回転する。
「ち、違うわよ!」
なんとか姿勢を戻し、ずれた眼鏡を直す。誰から聞いたのかは明白だ。
「喧嘩もしてないし。ちょっと文句を言っただけよ。そんな言葉、どこで覚えたの」
「よかった。わたしのせいで、二人がケンカになっちゃったら悲しい」
「そんなことないわよ、安心して」
あんなことをどうしてティジリに話すのかしら、あの正直バカ。聞いたティジリが気に病むことくらいわかるだろうに。ほんとデリカシーがない。
ミリーは、はぁ、と溜息をつき、コンソールに向き直る。検索結果一覧に出ていた一つのタイトルが目についた。
『患者の情動と結晶化の相関考察』
気になったそのレポートを開き、アブストラクトを読む。驚いた。
「結晶が小さいの、病気が遅くなっている証拠かもしれない」
本文を流し読みすると、ティジリにレポートを見せる。
「このレポートによると、患者の情動、生きようとする気力や幸福感みたいなポジティブな感情で、結晶化の粒が小さくなり、進行速度が鈍るっていう仮説が出てる。仮説だけどね」
「どういうこと? 気持ちで病気を治せるってこと?」
ミリーは首を振る。
「そうじゃなくて。地球にいた頃、ティジリの病気は進行が速かったでしょ。その理由が、あなたの生きる意欲が少なかったから、かもしれないってこと。大きな結晶ができて、速く成長した。この船に乗ったあとは楽しいことが増えたから、結晶が小さくなった。それで病気がゆっくり進んでいる。
気持ちというか、生きる意欲、それが病気の進み具合に関係あるかも、っていうレポートよ」
ストレスからくるホルモンの影響とかあるのかもね、とミリーは思った。
これが事実なら、タイタンに辿り着くのに余裕ができる。このところの様子からして、それは正しいことのように思えた。ティジリの心を救いたいという行動は、病気からもティジリを救うことになっていたのだ。
「ティジリ、大発見ね」
ミリーはティジリを抱きしめて喜ぶ。
「CaGYaや計にも教えてあげて」
ティジリが言う。
「うーん、どうしよっかなー」
我ながら意地の悪い笑みが浮かぶ。だって、私にはチョコレートケーキ、くれなかったんだもの。
【百十一日目】 タイタン到着まで、あと十六日
上腕まで結晶化は進み、肘はもう曲がらなくなっている。食事は自力でできず、ミリーが口に運んでくれる生活になっていた。
朝食後、昔のヒーローアクション映画を観ている。目元を隠すマスクを被ったヒーローが、赤い大きな丸い盾をフリスビーのように投げて敵を倒していた。
その動画が突然停止。CaGYaからのメッセージが画面に重なって表示された。
「緊急事態。ティジリもミリーも宇宙服を着て、コクピットに来なさい」
動かない手足にミリーと四苦八苦しながら、なんとか宇宙服の中に入り込む。足で壁を蹴れないのでミリーがティジリを押しながらコクピットに入る。副操縦席のシートを最大角までフラットに倒し、ハーネスでしっかりと固定される。ミリーはレーダー席に座った。
計が状況を説明する。
「我々の進行軌道に交差する宇宙機がいる。レーダー観測では三十万キロメートルほどの距離だ。大きさや正体は分かっていないが⋯⋯」
「奴らなの?」
と、ミリーが尋ねる。
「この広い宇宙で、わざわざスフェニスク号の軌道を横切るんだ、そうみて間違いないだろう」
するとティジリが、
「ヤツラって?」
と尋ねる。
「土星系衛星で活動する保守的環境保護の過激派さ。わけわからん地球の病気を持ち込むな、と騒いでいる」
「わたしを⋯⋯」
ティジリは言葉を失い、CaGYaが計を叱る。
「あんたね、言い方ってのがあるだろう。ほんとデリカシーがない」
「緊急事態だ許せ」
ティジリに向き直る。
「もともと土星の衛星のいくつかには原生生命体の可能性が期待されていた。なので衛星探査で地球の細菌や微生物を持ち込まないよう細心の注意を払ってきた歴史がある。タイタンに植民を始めてからも厳格にそれは守られている」
百年以上前の土星探査機カッシーニの伝説は、ティジリも計から教わっていた。
「それを過大に解釈し、系外からの侵入に過剰に反応する奴らが出てきた。自ら凍結の守護者なんて名乗り、環境保護を掲げているが、はた迷惑なただのテロ集団だ」
サブディスプレイにはテロリストのシンボルなのだろう、白くて丸い記章が表示された。
「こいつらがティジリのタイタン入りに反対し、輸送船を襲撃することは予想していた。だから公式には宇宙軍の武装輸送機で送ると発表した。だがそれはブラフで、実は俺たちが秘密裏に運ぶ。そういう計画だった」
ミリーが後を引き取った。
「私たちが地球からポートステーションに移動している時、情報漏洩の可能性が見つかった。輸送にスフェニスク号が使われる、そのことが奴らに知られたかもしれない、と」
計はシートにもたれると、大きく伸びをした。
「あーぁ。スフェニスク号は速いぶん、推進機関は赤外域で見るとめちゃくちゃ明るいからさ。探す方からすれば簡単だろうさ」
大げさに項垂れてみせ、
「政府の情報管理なんてアテにならねぇなぁ」
と愚痴る。
「で、どうするの、計」
心配そうなミリーが眼鏡のツルをつまんで尋ねる。
「この船に武装なんて無いよ、民間船だからな。速いだけが取り柄の草食動物と同じだ。襲われたらなす術はない」
「そんな!」
ティジリは思わず声が出る。自分はともかく、ミリーや計やCaGYa、それにスフェニスク号が破壊されてしまうことが怖かった。
「逃げようよ、タイタンに行かないでいい。地球に帰ろ」
ティジリは首を回しミリーを見る。だが計は首を振った。
「軌道を変えたり引き返したりするには、船に力を加えないといけない。力学、教えただろ。その力を生むのは推進機関だ。推進機関を動かすと明るい熱が出る。この熱は敵の赤外線センサーでよく見える。つまり、軌道を変えても赤外線量ですぐに加速ベクトルが算出され、いつどこにいるのか全部分かってしまう。だから攻撃を避けることはできない」
CaGYaが現在の状況を補足する。
「今は推進機関は止めている。わざわざ敵に居場所を教えてやる必要はないからね。このまま慣性航行を続ければ、十時間ほどで敵機の軌道との交差座標に到達するってわけ」
「そこで敵が待っているってことね」
「ところがそうはならないの。奴らの宇宙機もそれなりの速度を持っているのよ。急に止まることはできない。そのままの速度なら、私たちが交差座標に到達した時、奴らは一時間前にそこを通過しているはずよ」
「なら大丈夫じゃない」
すると黒い球体の画像がメインディスプレイに表示された。計が口を開く。
「これは宇宙爆雷。軍に配備されているベーシックな兵器さ。簡単で効果的。なんといっても安い。辺境のテロリストが使うにはこれ以上都合のいい武器はない」
CaGYaが画面にアニメーションを作って説明してくれる。
「宇宙爆雷は、敵の進行軌道上に漂い敵機の接近を検知すると、爆散し鉄片を広範囲に拡散するの」
アニメーションでは宇宙爆雷を中心に球が広がっていった。
「そこに宇宙船が入っていくと、鉄片との速度の違いで鉄片が機体を貫いて破壊する」
宇宙船マークが爆発した。
計があとを継いだ。
「使い方は敵の軌道上に宇宙爆雷を置いておくだけ。多少ずれたところで爆散するタイミングを調整すれば爆雷圏の大きさを変えられる。とにかく敵機を爆雷圏に入れさえすればいいのだから簡単だ。敵機の軌道が精密に分かっているほど、敵が多少の回避行動をしたところで逃れられない。爆雷圏の拡大の方が遥かに速いのだから」
「もう逃げられないの?」
「ああ、逃げるために軌道を変えると、変えたことが奴らに探知される。この距離で曲がれる量なんてたかがしれている。何をしても無駄だ」
「何をしてもって。軌道を変えることの他にもできることないかな? やればできる、やらなきゃできない、でしょ」
「軌道を変える以外といってもなぁ」
計は頭の後ろで手を組み考える。
ティジリも考える。
三十分が経ち、一時間が経過した。CaGYaは熱反応の少ないスラスターで、僅かばかりの軌道変更を試みていた。敵に検知はされない熱量ではあるものの、船体の進行軌道に与える変化は極僅かだ。
ティジリは、今まで生きてきた記憶を全部ひっくり返していた。アルジェリアでの身の守り方。CaGYaと計から教わった、星と物理、生物に化学。船内で観た映画やまんが。
「盾みたいので跳ね返せないかな」
ティジリがふと思いつきを呟く。
「鉄片から守る盾をスフェニスク号の前に置けたらいいのにね」
「うーん、そんなでかくて硬いものは、そうそうないなぁ」
スフェニスク号の直径は十八メートルある。盾になるような頑丈な物体を、そんな大きさで積むことは出来ない。
「大きく広がるようなものか。傘みたいに、展開できるもの⋯⋯」
計はうなってばかりだ。ティジリはそれを聞いて連想した。
「展開⋯⋯。『熱力学第二法則・排熱境界』展開⋯⋯。排熱装置⋯⋯。排熱?」
ティジリは目を見開く。
「熱!」
ティジリが叫んだ。
「熱よ熱! 炉にはたくさんの熱がある。熱の盾! 熱で鉄片を溶かしちゃおう!」
ティジリが出したアイディアを、計とCaGYaは猛烈な勢いで理論検証し、設計した。この作戦のため、CaGYaは液滴の磁気制御ソフトウェアを更新、計は船外活動で回収バーの改造を施した。
なんとか実装を終わらせ、エアロックから計が戻ってきた時が交差座標到達六分前だった。
その間、敵機の赤外線輻射がないかをパッシブセンサーで監視していたが、センサーの感度内で反応は無かった。なので敵機は最初に測定した速度のまま慣性航行をしていると考えられた。だが軌道交差座標を正確に算出するために、レーダー波を一度だけ発信し周囲の観測を行う。
かくして計算上の予測座標に敵機はいた。それはすでに交差座標を一時間近く前に通過していたことを意味する。交差座標に宇宙爆雷が浮遊しているだろう。
CaGYaがティジリに呼びかける。
「では、さっそく始めましょう。ティジリ、詠唱をお願い」
「こんな時まで、あれやるの?」
「こんな時だから、よ。やればできる、だからね」
ティジリの副操縦席正面のサブディスプレイに詠唱呪文が表示された。
「我はエレメンタルを統べるもの。ティジリ・アマラルが命じる」
言い慣れたフレーズ。核融合炉の起動が船体に伝わる。
回収バーを展開する詠唱呪文をわざとスキップしていく。
「轟かせ、咆哮せよ、魂の旋律、重力の呪縛を解き放て」
推力が生まれる。推進機関ブロックは進行方向にあるままだ。プラズマ噴出は前方に出ている。
「溢れ出せ、赫き涙。磁界の揺り籠に導かれ、紅蓮の翼で舞い上がれ。
『磁力誘導液滴循環』起動」
回収バーが開いていないまま、液滴ラジエーターが稼働を始める。核融合炉の周囲では液体金属粒子が赤く浮遊し始めているだろう。
CaGYaの声が割って入った。
「今、宇宙爆雷の爆発を検出! その数五! 距離千二百キロメートル。四十六秒後に爆雷圏に接触するよ!」
「五か。奮発してきやがったな」
ティジリはかまわず続ける。
「神の火盗みし咎が貫く我に跪け。彷徨える灼熱の雫を飲み干し、災厄を阻む盾となれ!」
今度こそ大切な人を守る、大事なものをもうなくしたくない。ティジリは熱い想いで右腕を前方に突き出す。ガラスのように結晶化している右手はもう動かない。それでも守りたい想いが声となり、手のひらに伝わる。
「『灼熱の絶対拒絶』!」
その言葉に応えるように、突き出したガラスの手が大きく開いた。ガラスの手を透かして赤い光が見える。炉の周囲を漂っていた液体金属粒子の光だ。浮き上がり、進行方向前方に流れ出す。赤い筋を引き磁気ノズルのプラズマ光のさらに前に集っていく。
溜まった液体金属の塊は、高密度に集積し平たく広がり、すぐにスフェニスク号の直径を越え盾となる。すると磁気ノズルから噴射するプラズマが液体金属の盾に当たり、そこがさらに赤く輝いた。
炉から続く熱と、噴射プラズマの熱が合わさる。供給される熱と拡散し放射される熱が釣り合い、盾は赤く輝き続けた。
シミュレーションされた爆雷圏の拡大する球体と、スフェニスク号の現在座標が今まさに接触するところだ。
「通過に〇・九秒」
外部映像で液体金属の盾を凝視していると、鉄片が当たりプツプツと波打ち始めた。
すぐに激しい波となる。
外部映像ディスプレイの片隅が光った。盾を貫通した鉄片が推進機関ブロックのどこかに当たったのだ。連続して、数え切れない閃光が走る。船内に鈍い轟音が死神のごとく響く。
と、盾が平らに静かになる。
「抜けた?」
ミリーが声を上げる。シミュレーション画面では爆雷圏の外にいる。
すかさずティジリは推進機関を停止させる。
「『磁力誘導液滴循環』閉鎖!」
液体金属の流出が止まる。
前方に集まった盾は輝きを失い黒くなる。磁気誘導が停止し、液体金属は空間に拡散していった。
計が、もったいない、と洩らす。液体金属はとても高価らしい。
「まずは生きていられたことを喜びなさい。何よりもティジリのおかげ、あなたのひらめきで生き延びられた。本当にありがとう」
CaGYaの言葉にティジリは首を振る。一度開いた右の手のひらは元に戻っていた。
「みんなだよ。みんなで乗り切ったんだ。やったらできた、そういうこと」
計が、ふっ、と笑う。ミリーは眼鏡の下を指で拭っていた。
張りつめていたコクピットの空気がほどけていく。その中心に自分がいることが、少しだけ誇らしかった。
【百十二日目】 タイタン到着まで、あと十五日
宇宙服を脱ぎ、再びコクピットに集まった。ティジリがシートに着くと、CaGYaが話し始めた。
「さて。先の攻撃での被害状況を報告するわよ、心して聞いて」
メインディスプレイにスフェニスク号の模式図が表示され、破損箇所が赤く光る。
「核融合炉六機のうち三つが損傷、修理不能。外壁破損は推進機関ブロック十三箇所、燃料タンク二十二箇所、貨物ブロック五箇所。だが、居住ブロック、操縦制御ブロックの破損は〇。いずれも隔壁と応急処置で気密は確保。燃料タンクが二つ破損しスラッシュ水素が二十八%消失。液滴ラジエーター用液体金属九十二%を損失」
計が沈痛な面持ちで補足する。
「今後の航行への影響だけど、生命維持には問題ない。推進剤損失も炉が少なくなったので問題ない。重要なのは液滴ラジエーターがほとんど使えないということだ」
みんなが状況を飲み込むよう間を取る。
「つまり推進機関を動かせる時間は、排熱をしなくてよい時間だけとなる。それは約五分。五分間動かしたら炉から放射だけで排熱されるまで約八時間休止しなければならない。八時間ごとに五分しか減速できないということだ。しかも三つしか炉が使えないから推力は今までの半分しか出ない」
今やティジリにもブレーキをかけずにタイタンに突っ込むようなものだと理解した。
CaGYaが話を続ける。
「この減速力でタイタンに到着できる軌道を計算すると、土星の周りを九百三十周しないといけない。約五百五日かかることになるのよ」
論外だった。
「だから、あと十五日以内にタイタンにあがれる方法を探索した。膨大な、それこそ無数にある組み合わせの中から実現可能な方法をたった一つだけ見つけたの」
「CaGYaすごい!」
さすが軌道制御コンピューターね、とティジリは喜ぶ。
「土星の公転エネルギーを利用した減速スイングバイと、タイタンの大気でブレーキをかける大気制動。この二つを合わせる。これなら当初の予定よりも早く、あと十一日でタイタンに到達できるようになる。
まず土星の公転エネルギーで私たちの速度を相殺する。でもこれだけでは十分なブレーキにならない。次にタイタンの大気に飛び込んでその摩擦で制動をかける」
スイングバイはティジリも聞いたことがあった。惑星探査機の勉強をした時に出てきたから。探査機でよく使われているのは加速する航法。それを逆に使えば減速もできるということは知らなかった。
大気制動は摩擦で減速するので熱も発生する。あまり長時間はできないだろうな、とティジリは考えた。
するとCaGYaが意味深なことを言い出した。
「でも。この軌道を使うには、今のままでは不可能なの」
「今のままって?」
CaGYaが何を言おうとしているのかティジリには分からなかった。計が顔を背け、俯いた。
「スイングバイの軌道はとても精密に行う必要があるのよ。その調整を行うための推進機関は使い物にならない。あと使える推進力はスラスターだけ。でもスラスターでは弱すぎる」
それにね、とCaGYaが続ける。
「大気制動では大気との摩擦で熱が発生する。この発熱に耐えられる時間内で減速するには、今のままでは質量が大き過ぎる」
ティジリはこれらの言葉の意味を考えていく。CaGYaの言わんとすることと、計の項垂れの理由が分かってきた。運動の第二法則。容赦ないCaGYaの声が続く。
「この二つの課題を解決するには、今より質量を小さくしなければならない。減速スイングバイの開始前に⋯⋯」
続きは聞きたくない、とティジリも横を向いた。
「この船から操縦制御ブロックだけを切り離すのよ」
思わず計を見上げたが、彼は俯いたまま、表情が見えない。
スフェニスク号を家族として生きてきた計。人生をスフェニスク号と共に歩んできた計。それを捨てろと言われている。それも、こんなわたしのために、だ。
「全員が生き残るためには、これしかないの。これが私が導き出した、たった一つの冴えたやり方、よ」
CaGYaの冷たい声がコクピットに響く。
また大切な人の大切なものを奪ってしまう、わたしのせいで。父の怪我、家族の発病。わたしはいつも大事な人を傷つけてしまう。
「いやだ⋯⋯」
ティジリがそう口を開きかけた時、計が立ち上がり、横たわるティジリを見下ろす。
「全員でタイタンに着く。どんなことをしてもティジリを助ける。助けてみせる」
そう宣言した。ティジリの反論も泣き言も我儘も、全てを封じる涙と共に。
<続く>