植叢うぇるびーいんぐ

Yoh クモハ

Anima Solaris AWARD

毛穴に差し込まれる感触には官能の予兆がある。今年のエステティシャンは腕がいい。細い苗を的確に差し込む動作に柔らかな砂糖水のような慈愛を感じる。

植叢うぇるサロン「ゆい」はSNSでの評判もよい。半年待ちもあると聞いていたので運がよかった。脱毛が隆盛を極めた時代もあったと代理母うみのおやから聞いたことがある。ただ抜くだけなんてもったいない、とエサラは吐息をつく。

最初は流行り、ファッションだった。

「『No more hair.』ウィッグの代わりに植物を!」という特集がファッション誌の表紙を飾った時は、尖っていると感心した。頭頂に入れるのはためらわれたが、耳脇にひと束、垂れるように植えたエリアンサスはその時付き合っていた彼女にはウケが良かった。

「あなたの光合成で温暖化を止めよう」

サイエンス誌が書き始める頃には、街中に猫じゃらしの耳マフや、ススキの帽子を見ることは普通になっていた。頭に芝を植え、月に一度散叢さんそうをかかさなかったのは職場の上司。彼とは一度朝まで過ごしたことがある。抱き合った時に草の匂いがするのは悪くない。

いかがですか、と掲げられた鏡に映る背中のくさむらは見事な等間隔に揃えられていた。肩甲骨の下から骨盤の上まで。鏡にまといつくのはふと置かれたくなる指だった。施術ベッドから立ち上がり、衣服をまとう。いまやファッションも植叢うぇるを抜きにしては語れない。どこに植えるかによってランジェリーもドレスも選択できる。合わせただけで布同士が絡み合う新素材のワンピースは、緑の苗にツヤツヤと映えた。

今週は水分をたっぷり摂ってください。軽くうなずき、エステティシャンの服装に気づく。両脇からのぞいている紫色の古代小麦、黒いシャツとの映りもいい。また、来ようかな。あっ控除の申請しておかなきゃ。


「十億総田んぼ」の見出しがネットニュースで流れ始めたのはいつだったか。もともと植叢うぇるには「イネ科」が使われていた。単子葉植物だから差し込む時、身体に負担が少ない。特筆すべきは成長点の位置だ。ほとんどの植物が茎の先端から伸びるのに、イネ科の成長点は根元にある。つまり葉先をカットしても必ずしも植え替える必要がない。植叢うぇる料金は安くはない。リカットだけという選択肢が植叢うぇるを一層身近にした。いままで手をこまねいていた層がエステサロンに行く気軽さで通うようになった。植物を育てるのに身体の栄養を使うから、期せずしてスリムボディが手に入る。

その先へ踏み込むにはしばらくかかった。賛成派と反対派の論争が行き着くところまで行くと、政府が動いた。遺伝子組み換えマイクロ稲の開発も後押しをした。「食糧生産控除」が設定され、自分の食料を自分で生産することが経済効果につながった。


秋の初め、サロンの待合室から金色の葉が飛び交う街路が見える。街の風景も変わったな、とエサラはヒューマニックライスラテをひと口飲んだ。からだの一部に植物を植えている人が大半で、行き交う人混みにも草色/褐色/金色が混じる。穂の出ている人もちらほら。緑のない都会では代わりに人が街の景観を作る。

名前を呼ばれ、施術ベッドに横たわる。出穂しゅっすい前の定期検診だ。この時期はとにかくお腹が空く。何を食べても太らない。血となり肉となり、やがて米となる。

「幼穂ができていますね。順調です」エサラの耳元でささやく声は叢をなでる風だ。今日のシャツは脇が縫い合わせてあるタイプだった。エサラの視線に気づき、その人は薄い笑みを浮かべる。刈り入れました。お似合いでしたのに。別なのを植えましたよ。どこに? 


ホテル・ジュラの一室。室内にはベッドの他にチェアが備えつけられていた。からだの叢をつぶさぬようにまぐわうのは常識、正常位セックスの概念も変わった。相手の叢に敬意を払わない奴とは交われない。

口づけた時のジョリジョリする感触。想定された器官が股間にぶら下がる。その前を青々としたくさむらが覆っていた。たないんです、とその人は微笑む。エサラは指で叢をすく。スズメノテッポウの小さな穂が見える。舌で叢をくさむらなぶると息が荒くなる。植物の根は皮膚に入り込み、感覚をともにする。もうわたしたちは別の生き物。誘うように四つん這いになる。その人は叢をこすりつける。熱い舌が、指が入ってくる。感覚が極限まで開かれたとき、背中の稲穂が一斉に出穂し、花を開かせた。

風媒花。うつ伏せのまま達したエサラのくさむらを繊細な指がさらさらと解く。美しい、とその人はささやく。繁殖したいと思ったことはないけれど、こういうのも悪くない。

夜勤明けのツンとするまぶたの奥で、金の穂が揺れている。消毒薬の匂いに押し込められたアンモニア臭にも慣れてしまった。あなたは思う。わたしたちは排泄する生き物。四階のステーションを通り過ぎて、四〇四号室に向かう。新しいナース靴は音を立てない。必要はない。仕事でもない。ただ、見たいだけだ。人の生における最後の実りを。

さらさらと音を立てる金の穂。粒は大きくはない。実りで穂が垂れるのは昔話での出来事。人体に特化して開発されたマイクロ稲はコンパクトな設計になっている。彼女はうつ伏せになったまま快適な状態で吊られている。人としての意識は薄く、ただ苗床として生をまっとうする。書類に不備はない。身寄りもない。自分の意思で選んだのだから。彼女の短く刈り取られた白髪と不似合いなくらいよく育った金色の稲穂。彼女は運がよかったと、あなたは思う。健康で既往症もなく、最後まで命を育てることができる。女ひとりの年金でも最新の設備が整ったここで最後まで暮らせる。幸福は誰が測るのか、あなたはもうわからない。

部屋を立ち去りながら、自分のことについて考える。二人産んだ子どもはいずれも生物DNA親に渡した。「腹を貸すだけ」と蔑むように言われた時代もあったが、今は違う。代理母うみのおやと呼ばれる職業に悔いはなかった。どちらも愛しい子で乳を外す時は死ぬほど張った。自分の子を持つほど贅沢なことはない。あなたは産めたからまだよかった、と知り合いの一言が胸を刺す。子育てに時間を費やさないから看護師の資格も活かせる。この仕事ではくさむらは生やせない。仕事を変える時が来たら、その時考えよう。健康でも稀に適合しない人がいる。イネ科アレルギーと呼ばれている。自分はそんなはずはないとあなたは思う。四〇四号室には名札がかけてある。いまでも人間である患者かのじょの名前が。

はーい

ハーイ

よく育ってる? 

順調

身体の調子は? 

耕されている感ありあり。いらない脂質とか燃やしている

痩せた? 

そうでもないけど、意外と背中が重い

腰を痛めないように。……サポーターのリンク送る


代理母うみのおやとの接触は推奨されていない。そもそも自分がどの腹から生まれたのかを知る必要はない。生物DNA親とうまくいっていさえすれば。エサラはそうではなかった。十代に入った頃から母親への嫌悪感が止まらず、初潮を迎えてからひどくなった。学校には逃げ出すように通い、家にいる時はひたすら自室に閉じこもった。通学しなくてもVRで授業は受けられたが、この身体をこの家から引き剥がすことが生き延びる道だと確信していた。生き延びる本能。だが同時に死にたい、という気持ちも強く、リスカがひどくなると精神科の診療を受けさせられた。「希死念慮きしねんりょ」という言葉を知った。代理母出産のケースなどザラにあり、相談してもルーティーンで返された。エリアンサスが好きだった彼女に打ち明けた時、虹色のまつ毛をきらめかせて彼女は言った。

「アイデンティティの問題じゃね。自分がどこからきたか調べてみたら」

彼女の淡い産毛はとうにエノコログサに植え替えられていた。そこを擦り合わせながら、エサラは初めてのオーガズムを迎えた。

生きたいという本能と死にたいという本能。生物DNA親たちは裕福な人たちで、望むことは何でも叶えてくれた。お金持ちで美しく優しい人たちに囲まれながら、真綿で締め殺されるように窒息していく。手首の傷と彼女と触れ合う時だけが真実に思えた。彼女の入れ知恵でエサラは専門機関に「子どもの権利」について相談し、ずっと知りたかった代理母うみのおやの情報開示を請求した。母親は泣き、父親は勝手にしろ、と言った。誰が遺伝子上の親でも私は私。そう教育されてきたし、信じてきた。愛されているはずだった。なのに、なぜ? 

代理母うみのおやの情報開示には段階がある。相手にも権利があり、知られることを一切望まない契約をしている場合、どのような条件でも開示はされない。エサラの代理母うみのおやは緊急事態条項にはサインしていた。すなわち「子どもの命に関わる場合には情報を開示する」と。その人の連絡先にエサラは動画を送った。会う、会わないは相手の判断に任されている。動画の中で彼女とまぐわい、手首を切ってみせた。生きたいと死にたい、をそのまま届けるほか、十代の子どもにすべはなかった。

代理母うみのおやと会ったのはエノコログサも枯れ果てた冬の渋谷。流行りの「植叢うぇる」も、ネイルもペディキュアすらしていない人で、看護師をしていると言った。「シンプル」という言葉が浮かんだ。その人は微笑んだ。

何をしてくれたわけではない。ただあれから色々なことが変わった。高等教育を受けることを勧められ、寮にはいって生物DNA親からは独立した。自分一人で生きていける人への憧れもあった。直接会ったのはそれきりだったが、時々オンラインで話をした。デザイン系の資格をとり、半ばフリーランスで働きながら、好きなように生きた。その中にはさまざまな身体改造と、性別を問わぬ逢瀬が含まれていた。自分の体内で命を育てることには興味がなかった。生物DNA親は遺伝子の継続を求めてきたが無視している。稲を育てるのは遊びの最終形態みたいなもので、ついでに節税もできればという程度の気分だった。意外だったのは、代理母うみのおやが珍しく顔を曇らせたことだ。画面の向こうで何かを言いかけて黙った。今まで見たことがない仕草だった。

「私は古い世代なのね、きっと」

そうかな、とエサラは思った。家族というクソ形態にとらわれず、産んだ子どもに手を差し伸べ、誰にも頼らず生きている。

「若いうちは好きなようにすればいい」

言葉はすり抜け、思いだけがエサラの胸に残った。

「刈り入れ」はすぐ終わった。贅沢に「手刈り&指名コース」を選んだ。ミナクの手際はよく、地肌スレスレで痕も残らない様に刈り取ってくれた。スマホに転送された「収穫量」のデータを見て、エサラはため息をついた。ミナクはクスリと笑った。いまは頭髪の一部にキラキラと輝く小判型の植物を入れている。

「あまり焦らない方がいい。収量にこだわりすぎるのはよくありません」

「その草はなに」

「ヒメコバンソウです。可愛いし、オススメですよ」

「あなたは……食料を植えようと思わないの」

「僕は役に立つ存在でありたくないんです」

「控除があるわよ」

無言の笑顔はその必要がないことを告げていた。これだけの腕があれば、指名も引を切らないだろう。

「除草剤が出ますので、薬局に寄って行ってください。今晩はアルコールの摂取は控えて」

エサラはツンとして処方箋のデータを確認した。エステティシャンのミナクとは数回肌を重ねた。彼はその度ごとに違う植物をさまざまな箇所に植えていた。一般には出回っていない草も多く、センスにはいつも驚かされる。交わらないまぐわいにも慣れた。女性と付き合うのとたいして変わりはない。刺激が欲しければ、そのための用具もある。彼の存在はエサラの何かをかき乱した。それは恋とは違う。もっと……深い部分に触れる交わりだった。

久しぶりに背中の閉じたコートを羽織りながら(今日のために買ったニューデザイン)帰り支度をしているエサラに、ミナクは低くささやいた。

「飲まない方がいい」

聞き違いではなかった。エサラは答えず、受付へと向かった。


迷った末に薬を飲んだ。その晩、背中が焼けるようで眠れなかった。ただ植えるだけの草と違い、収穫を目的とする植叢うぇるは身体から栄養を吸い上げる分、どうしても根は張る。放っておいてもいずれ吸収されるが、連作はできない。デザイナーとしては中堅でも、マイクロ稲の控除がなければ何度も植叢うぇるサロンにかかるのは贅沢の部類だ。ミナクの指で植えてもらう快感を求めてしまう以上、仕方がない。エサラは夢の中で貫かれていた。背中への挿入は愛そのものだった。

四〇四号室の患者をハナコさんと呼び始めたのはサギサワさんだったと、あなたは記憶している。

「ハナコさんの収穫の日って、マネージャーは当番ですか?」

彼女はあなたにさりげなく尋ね、ハナコさんというどこか懐かしい名前と「収穫」という言葉から察しはしたものの、答える気になれなくてじっと見返す。

「患者さんをあだ名で呼ぶのは感心しないな」

「気にするんですね、そういうの。意外でした。四〇四号室の患者さんて長くて……」

「名前があるわよ。彼女の名前」

「……名前って、生々しくありませんか? 時々同僚と話すんですが、私たち彼女の世話をしているというより、田んぼの世話を」

あなたの中に湧き上がってきたものが、目から噴き出たのだろう。彼女は黙る。三歩、五歩歩く間にあなたは呼吸を整える。立ち止まる。彼女の方を向いて言葉にする。

「あの人は自分で選択してあそこにいるのよ。オギ ユリさん、それがあの人の名前」

若い看護師は目を大きく開く。

「自分もそうなるかも、とは思わないの。彼女の選択を最後まで尊重してあげて」

きれいごとを言っているつもりはなかった。パートナーも子どももいないあなたは、自分をその人に重ねていた。あの人はもう自分で育てた米を食べることはない。米は国家の備蓄になる。身をもって礎になる? 戦争でもないのに。いや、これは長く続く冷たい戦争。誰が食べ、誰が食べられるかを決めるガチャがどこかにあるのだろうか。人をそのまま食べた方がマシだとは思わないけれど。

サギサワさんのイヤーカフが鈍く光る廊下をあなたは去る。脳裏に浮かぶのは自分のお腹から出てきた赤ん坊、死にたいと言って生きることを求めた若い女の顔。


四〇四号室の「刈り入れ」はすぐ終わった。電子刈り入れ機は音もなく仕事をし、そのまま玄米と、籾殻もみがら、茎を裁断したものに振り分け、袋に詰める。病室が汚れることはない。小木ゆりさんの収穫は十キロに達していた。マイクロ稲は昔の流通種の三倍の栄養価があるから、当時に換算すると三十キロの袋一つだ。祖父が米農家だったという院長は、感慨深い目で小木さんの小さくなった身体を見ていた。

「上々じゃないか。栄養管理がうまく行ったな。このデータは私の方に回してくれ」

刈り入れはお祝いだという院長の方針でベッドの上部には紅白の横断幕が飾られている。あなたは目を逸らし、黙々と作業を進める。栄養管をすべて外された小木さんの身体は天井から吊られて揺れている。自発呼吸が認められる、まだ暖かい身体。彼女はこの病院で処置をする「刈り入れ後」の患者、第一号になる。誰もこれから先のプロセスを経験したものはいない。あなたはこの先を想像する。

「排泄管」はこのまま、栄養の補給がなければ彼女は萎びていくだろう。

「最後の収穫後、延命措置を求めない」という項目にチェックが入っていたのは、何度も確認した。でも小木さんにだって想像できたわけではないだろう。自分の身体が植物に吸い取られた玄関マットみたいになるとは。

一週間後、自発呼吸の止まった小木さんの身体は、病院から直接焼き場に搬入された。骨灰は遺言通り「農場」に撒かれるという。最後の収穫と引き換えにすべてが公費で賄われる。あなたは病室を片付け、名前を消す。小木ゆり、という名前がこの世から消えた。

シェアハウスでのパーティーに誘われたのはクリスマス前だった。刈り入れ後の点検にきたエサラは連作は無理だ、という診断結果が気に入らず、ツンとして席を立った。その時、ミナクが渡してくれたメモに住所と日時、それに用件が書いてあった。最高にイカれたやり方だった。ミナクがプライベートに誘ってくれたことはもちろん、紙での伝達を使ったことが。ペーパーレスは極限まで進み、オンラインが当たり前のエサラには、紙で情報をやり取りするなど死滅寸前の酔狂な趣味にしか思えない。メモには「覚えてください」と添え書きがあった。その言葉通り、二十四時間経つと文字は消えていた。

都心の八十階建てのビル。受付で部屋番号とIDカードを確認され、エレベーターに乗る。シェアハウスはワンフロアを占めていた。雇われエステティシャンが営める暮らしとは思えない。ドアを開けてくれたのは、短い頭髪に桃色の実をたわわに揺らすスーツを着た人物だった。背が高く細めの筋肉質で一瞬性別がわからないところが、ミナクを思い出させた。エサラの視線が頭髪に行くと、その人は微笑んで答えた。

「タカキビ。見たことないの。収穫量の割に負担がかからない優れものよ」

ミナクは料理を運んできたところだった。グリーンのサラダは色合いも様々で、濃い紫や黄色い花が鮮やかだ。

「ようこそ、我がコンパートメント、フラワーオブライフへ」

ミナクは手を伸ばしてエサラをハグした。ミナクの指先はいつも繊細だが、今日はかすかに酸味かがった匂いがする。

「こちらはシェアメイトのアイリン。おいで、みんなにも紹介しよう」

キッチンにはもう四、五人がいて、つまみながらそのままグラスを傾けているようなラフな雰囲気だった。名前は覚えなくていい、とミナクは笑い、代わりに植えているくさむらの名前を教えてくれた。イヌビエを肩から生やしている少年、脇の下に実をたくさんつけている大女はジュズダマ、股の割れているマロン色のズボンからカラスムギをたらしている男のヒゲは芝生だった。皆個性的だが、性別も国籍も不明な感じだけが共通している。街ではあまり見かけない植物でも、彼らには似合っていた。エサラは何も植えていない自分の身体を恥ずかしく思った。

飲み物を聞かれたが、先日、薬を飲んだ後体調がすぐれず、アルコールを断ったエサラに手渡されたのは、薄茶色の透き通るお茶だった。

「はと麦茶、私が育てたの」

アイリンはイタズラっぽく笑いながらグラスを手渡してくれた。

「あなたのお米はどうだった」と聞かれ、エサラはミナクを睨んだ。守秘義務があるはずなのに情報が共有されている。彼らの仲を察し、胸が傷んだ。

「心配しないでかわいいお嬢さん。ミナクはただのシェアメイト。私はあなたの方が好みだから。自己紹介をさせていただけるかしら。私はアイリン。趣味は雑穀を育て、食べること」

「アイリンはアメリカン・チャイニーズで植物学のPh.D.を持っている。マイクロ稲の開発に関わる研究室にいたこともある」

エサラはアイリンを見上げた。背の高さだけではなかった。代理母うみのおやが言っていた本物の「高等教育」のニオイをかいだのだ。自分がちっぽけで無学であることが身にしみた。

「エサラは美しい背中をしている。なのに勤勉なんだ。収穫量のことばかり気にしている」

ミナクの声音にハッとした。何度もまぐわったけれど、こんなふうに言葉で表されたことはない。イヌビエと呼ばれた少年がやってきた。

「ボクの肩甲骨も褒めてよ」

黒い液体の入ったグラスを手にしたまま、ミナクの前に額ずく。ミナクはその指でイヌビエをさらさらとすいた。小さな花が揺れる。一体一の関係など望んでいたつもりはない。ミナクとの逢瀬だけでよかった。なのに彼らの自在なコミュニケーションを見ていると、子宮の底から何かが込み上げてくる。それは咥え込みたい、貫かれたいという軽蔑しきっていた雌の本能だった。エサラは必死でそれを抑え込む。アイリンの手が伸びてきて、エサラの髪をすく。

「イヌビエ、かわいいお嬢さんをいじめないで」

アイリンの指は桃の花の香りがする。


料理はどれも独特な味がした。ジュズダマによれば、これらはすべて植物から作られているという。

「私たちが育てたものも多い。あとはそこの温室で栽培している」

ジュズダマの声は低く、フリルのブラウスから喉仏が見えた。プリーツの多い長いスカートを履く格好は女性だが、トランスだとしても驚かない。自由に生きていたつもりだった。だが、彼らと話すごとにまとわりついていた「常識」が音を立てて剥がれていく。いつの間にかエサラは靴を脱がされ、足指をしゃぶられていた。

「あなたはおいしいね。ミナクの言った通りだ」

カラスムギが頭を上げ、エサラを見上げた。足指を触られただけなのに、クリトリスが熱を帯びている。私は一体どうなってしまうのだろう。

隣に座っていたミナクが顔を寄せると、ヒメコバンソウがサリサリと音を立てた。

「キミは考えたことがあるかい。自分の身体で米を作り、それを食べるという真の意味を」

口調は真剣で、エステサロンで見せているどこか醒めたような表情ではなかった。

「仕事柄、何千という人の背中にイネを植えた。そのままでうまく育つ人は少ないから、たいてい肥料という名の薬剤を処方される。それだけじゃない。収穫が終われば除草剤だ。みんな控除だ、食料だと喜んでいるが、それで何が残る。薬でズタズタになった身体は回復しない。うまく切り抜けても死ぬまで米を作らされる。しまいには苗床になって……干からびるんだ」

「理想の死に方じゃないの。誰にも迷惑をかけず、国葬されるのよ」

「自分で自分を食い殺している。それがわからないのか」

アイリンが諭すような口調で割って入った。

「ミナク、あなたがエサラを助けたいと思うのはわかる。でも、彼女が受け入れるタイミングというものがあるのよ。人に生き方を押し付けることはできない」

イヌビエは本物のコカで作ったコーラを勢いよく飲み干した。

「ミナク、お前の推薦だから期待したけど、ただの物分かりの悪い生き物じゃないか。こんな奴を仲間に……」

「まあまあ焦るな」

カラスムギが伸びすぎたヒゲをカットしながらつぶやいた。緑色の草がテーブルに小さな山を作る。それを吹き飛ばすとカラスムギは言った。

「お嬢さん、私たちは植叢うぇる自体を否定しているわけじゃない。むしろ逆だ。植物たちを愛している。彼らなしではこの地上に生命は存在しなかった」

「バカにしないで。そんなことくらい学校で習ったわ」

カラスムギは大きく頷いた。いささか大きすぎる仕草だった。

「だが人間は増えすぎた。世界の人口はまもなく100億に達しようとしている」

「だから私たちは自分の身体で食糧を……」

「それはひとつのやり方ね」

アイリンはタバコの葉をふかしながら、天井を仰いだ。今まで嗅いだことのない透き通った香りがエサラの鼻腔を通り過ぎた。

「私は、いえ私と博士はもうひとつのやり方で問題を解決しようとしている。人間が人間を食べるのではなく、私たち自身が植物と共生する。収穫する必要はないのよ、エサラ。植物の根から直接栄養を胎内に巡らせる。そうして私たちは植物とひとつになる」

「植え替えないということ」

アイリンの顔がぱっと輝いた。

「そう、彼らは本当に根を張るの。そのケースではもはやイネ科である必要もない。除去を前提としなければどんな植物とでも共生はできる。あるいは植物以外でも」

ミナクはエサラの手を握った。汗ばんでいる。それはまぐわいの時ですら感じたことのなかった生身の男の手だった。彼らの言っていることが理解できたわけではない。一人で生きていき、いずれ苗床となって死ぬことが美しい人生のゴールだと信じていた。でも、あの晩味わった背中の痛みが生涯付きまとうのだとしたら、そして彼らのいうことに一縷いちるの真理があるなら、この汗ばんだ手を信じてみたい。変化を見すましたようにアイリンが声をかけた。

「来て。博士に会って。最終的な答えはそれからでいい」

「マジかよ!」とイヌビエが吠えた。「こいつを博士に会わせるのか」

ミナクはエサラの手を握ったまま立ち上がった。アイリンとともに温室へと向かう。イヌビエの口笛が背後から聞こえる。ジュズダマがイヌビエにささやいた言葉をエサラはまだ知らない。


温室はシェアハウスのロフト部分に設置されていた。ピッタリと閉ざされたドアを開けると、ひんやりした空気が三人を迎えた。イネ科だけではない、様々な種類の植物たちが生き生きと暮らしている。エサラは懐かしさを覚えた。街中はすでに人間に覆い尽くされ、住居に庭を作る余裕のある家はない。幼い頃、夏を過ごした高原の別荘地を思い出した。アイリンが前を歩き、ミナクがエサラの手をとってついていく。ミナクの手はさらに汗ばんでいるようだった。温室全体を支えるように大きな樹が生えていた。アイリンはその前で立ち止まった。

老王芳ラオワンファン

アイリンが呼びかけているのは樹の根元にうずくまっている「何か」だった。何か茶色い塊。その塊は埃のように動くと言葉を発した。それは異国の言葉だったが、たとえ日本語だったとしてもエサラは理解できなかっただろう。アイリンが代わって伝えた。

「王博士はあなたを歓迎する、と言ってます」

口から飛び出しそうになる悲鳴をミナクの繊細な手が止めた。

「この人は……なぜ?」

それ以上続けることができなかった。何を、どう尋ねたらいいのか。アイリンが頷いて引き取る。

「博士は菌糸類、キノコと共生する実験を十年に渡り続けています。光合成ができなくても生きていける可能性を見出すため、自らを被験体として。あまりの先鋭さに本国アメリカで理解はされず、私がこの国に連れてきました。カラスムギはこのビルの持ち主でスポンサーです。彼がこのロフトに温室を作り、密かに仲間を集めています。私が博士に従って実験計画を進め、ミナクはその技術で計画を助ける。イヌビエはネットワーク担当……主にハッキングね」

「……」

キノコがホコリを吐いた。それが言葉だと理解できないまま、エサラはミナクの腕の中で意識を失った。


気がついた時にはソファに寝かされていた。ジュズダマがすぐ近くに座っているのはなぜだろう。ミナクが水を持ってきて飲ませてくれる。水は冷たくて美味しかった。

「わかってほしい」と彼はつぶやいた。

「さもないと……」

ジュズダマの役割を聞いていなかったことに気づいた。

「わたしを殺すの?」

「殺さないわ。そんなことはしない」とアイリンは言った。

「でも、私に植えつけるんでしょう。なにか得体の知れないものを」

「あなたの望まないものは植えない。王博士は自ら望んでああなった。光合成ができる人間ができればそれでよし。でもそれ以上悪いことが起こった時に生命をつなぐために」

「あれが人間と言えるのかしら」

「人間ではないかもしれないわね。でも生きている。周囲と栄養という名の情報を交換し続けている。今や博士はあの温室全体をコントロールしている。考えてみて。苗床になった人間はただ刈り取られるだけ。人間が人間を搾取するやり方を変えるために、私たちは」

ジュズダマソウの実が青く揺れている。

代理母うみのおやと画面越しに話をしたのは、年が変わる前の夜。新しい入院患者が多くて、と呟く夜勤明けの姿に初めてその人の年齢を意識した。

「看護師をね、辞めようかと思うの」

エサラは頷いた。

「よく似合ってる」

頭髪に揺れるヒメコバンソウを見てその人は言った。もう稲は植えていないというと驚き、エサラが見たことのない表情を浮かべた。

「自分の食べる分くらい、なんとかする」

「私も負けられないわね」とその人は笑った。

「今度また会って話をしたい。私を産んだ時のことを聞きたいし、色々と話があるのよ、お母さん」

画面が一瞬フリーズしたように思えた。古い家族関係を指すもう使われていない言葉。昔の人はみんな使っていたとアイリンから聞いた。次の瞬間、その人はくしゃくしゃの笑顔を浮かべ、消え入りそうにうなずいた。


緋寒桜ひかんざくらが早すぎる春を告げている。エサラは小さな港に佇んでいた。猫がたくさんいて、嗅いだこともない匂いがする。仕事を辞めたあの人に誘われて短い旅に出る。わずかな記憶のほかはずっと都会で暮らしてきた。生まれた島に帰る。三十年ぶりかしらとその人は言い、船の往復チケットをプレゼントしてくれた。

「小さな島よ。火山がひとつあって、たまに噴火する」

「噴火」という言葉をこんなに気軽に使う人を初めて知った。なぜそんな不便な、危険なところに? 問いは口から出てこようとしたが、潮風がそれを払った。

「大地が暖かいの。だからなんでもよく育つ。植物も、人も」

行き先をミナクに告げた時、微笑んでいた。君はたくさんのものを見聞きして、それから決めればいい。遠い未来のために。ヒメコバンソウに紛れてタグがついている。見聞きしたことの代償はそれだけ。受け入れないことはミナクとの終わりを意味した。彼らがその気になれば、口を封じることなどたやすいだろう。

旅をともにするには、あの人からの条件もあった。

「古い言葉はもう使わないで。その代わり名前で呼んでいいから」

タラップを上るその人の頬は少し上気して、少女のようだった。島の熱がもう移ったのかしら、と微笑む。生きていくことの輪郭が浮かび上がってくるような笑みだった。船が出る。街では見かけたこともない白い鳥たちが、振り絞るような声で追いすがってくる。わたしはこの鳥のようだ、とエサラは思った。呆れるほどちっぽけで、なにも知らない。けれど、それが始まりには違いない。

わたしはいつか選ぶだろう。でも今は追いかけてゆく、この人を、彼らを。わたしはまだ選べるのだから。