第五章 聖なる剣と黒い盾


 戦士の大陸カインザーをめぐる戦闘が最大の局面を迎えようとしている頃、ボストール城でセルダン一行と別れた智慧の峰の巫女スハーラは、カインザー王国のカイラからサルパート王国のマットへ向かう船の上にいる。朝焼けがはやくも薄れて明るくなった水平線の彼方には、すでに智慧の峰の山々が見えはじめていた。この航路は旧シャンダイアの勢力圏なので航路も比較的安全で、あまりの航海のおだやかさに、ザイマンの荒海を恋しがっている自分にスハーラは気づいていた。
 今回の旅の目的は、智慧の峰を北の将の攻撃から守るために、ふくろうの紋章の小瓶に入っていると伝えられているルドニアの霊薬を手に入れる事だった。しかし残念ながらその小瓶は見つける事ができなかった。でもその替わりにスハーラには個人的に見つけたものが一つある。それを思うとスハーラの心の中が少し暖かくなった。
 スハーラはけわしい表情を見せるサルパートの峰々を遠くに眺めた。やがて冬が来る、大切な故郷は雪に覆われるだろう。しかしその白い雪がとけたら、もう一度船に乗ってあの色彩に溢れたにぎやかなザイマンに行こう。運命はなぜ寒いサルパートの高位の巫女と、暑いザイマンの王子を会わせたのだろう。寂しさの心の痛みに、スハーラは静かなサルパートの神エイトリと美しいザイマンの女神エルディのいたずらを少し恨んだ。
 港が近づいてきた。サルパートの人々に報告しなければならないことがたくさんある。本来ならばすぐにでも智慧の峰に登らなければならないのだが、スハーラはマットから馬車に乗って、ソンタール帝国との境界線に近いテイト城へ向かう事に決めていた。もしセルダン王子達が聖剣の奪回に成功するならば、おそらくこの二週間程の間にカインザーの戦況に何らかの変化があらわれるはずだ。テイト城ならばその情報を一番早く知ることができる。それを確かめるまではとても故郷に帰る気にはなれなかった。祖国に無二の忠誠を誓うように育てられた巫女である自分が、そういう考えをしている事がスハーラには驚きだった。
 気がつくと、海鳥の数が増えてきていた。もう港が近い。マットに着いたらすぐにブライスに手紙を書こう、若い巫女はそう思った。(でもいったいどこに送ればいいのだろう)

 朝の白々とした明るさの中、トルソン侯爵率いる七万の軍勢はブアビットの陣の中央にうごめく、とかげ兵ブールの部隊に正面から突入していった。相手の側面にまわり込んで、敵の左翼に布陣している比較的弱い神官兵の部隊に当たるべきだという、一部の家臣の意見は侯爵自身が即座に却下した。カインザー九諸侯の軍勢の中でトルソン軍が倒さなければ、誰がとかげ兵ブールを倒すというのだ。
 トルソン家の色である灰色の鎧に身を固めた戦士達は、長槍部隊を先頭に全員馬を降りて徒歩で押し出して行った。過去に何度か、騎馬でブール軍への突入を試みたことがあったのだが、恐るべき体力の持ち主であるブールは馬による突撃によく耐えた。そのため小回りのきかない馬上でトルソン軍の戦士がバランスを崩している所を、取り囲まれて討ち取られてしまうのだ。
 トルソン侯爵自身は前進する軍勢の中段から、前方に布陣しているとかげ兵ブールの姿を見つめていた。いつもながらに不思議な生き物だと思う。あんなものが自分と同じ世界に生きているということを信じる事すら、トルソンには難しかった。しかしブールなどはまだマシなほうなのだろう。巨竜ドラティなどは怪物と言う他ないし、伝説の大鬼ザークに至っては想像すらできない。
 今まさにトルソン軍の第一陣が、槍を構えてそのブールの先頭の列とぶつかったところだった。身の丈三メートル程の巨大な直立型のとかげは、灰色の上下のつなぎの服に赤い肩当てとベルトをしめ、緑色の分厚い鱗に覆われた顔を鈍く光らせながら、鈍いようにすら見える落ち着きでトルソン軍を迎え撃った。
 トルソン軍の兵達の研ぎ澄まされた槍が次々に壁のようなブール部隊に突き刺されていったが、多くの槍はブールが左手に構える分厚い盾でその切っ先を逸らされてしまった。槍が奪われ、折られて使い物にならなくなると、続くトルソン軍の第二陣がいよいよ剣を持って切りかかった。防備が固い上半身では無く、足をねらい、突き刺すのがブールに対抗する最も有効な手段なのだ。現時点では少なくともトルソン軍のほうが兵数において勝っている、この数と素早さでブールに対して優位に戦いを進めようというのがトルソン侯爵率いるカインザー軍の基本的な作戦だった。
 この局面における戦闘は極めて単純と言ってよい。ようするに正面からの押し合いである。トルソンはここで一気に敵を圧倒できればと思っていた。敵のブール以外の左右の軍は恐ろしくないが、これほど要塞軍が積極的に攻撃に出てきたのは初めてだったので、やはり注意を払うに越した事はない。余計な邪魔が入る前に体勢を決したかった。
 しかしとかげ兵ブールの反撃も凄まじかった。先に刺の付いた鉄球の付いたこん棒を、大地を刻むように振り下ろしてトルソン配下の戦士達の兜に叩き込んでゆく。たまらずトルソンは前線に走った。
「よいか、すばやく動け、足を刺したら飛びのけ、力の続く限りそれを繰り返せ。疲れたら下がれ、前の者が一匹を倒したら次の者が前に出よ」
 そう叫びながら自ら先頭に立ち、鎖に繋がれた鉄球を先に付けた巨大な棒を豪快に振り回して、ブール部隊の一角を切り崩していった。

 そのブールを指揮する要塞第二位の魔法使いブアビットは黒い神官服だけの軽装で軍の最後方に陣取っている。ブールが徐々に押されはじめている。倍の数であるとはいえ、タフなブール部隊をここまで押し込んでしまうトルソン侯爵の軍団はやはり怖るべし。そろそろ左右の部隊に攻撃を指示する時だろう。ブアビットは近くにいた神官にどなった。
「ガッゼンとズグルに攻撃を仕掛けるように伝えろ」

 傭兵隊長ガッゼンの部隊はまだ動いていない。ブアビットの指揮する要塞軍の右翼に布陣している二万五千の兵を指揮するガッゼンは、敵と味方が入り混じって灰色一色になった戦場を見つめている。この傭兵隊長はその風変わりな格好で数多くの戦場に名を刻んでいた。背はそれ程高くはないが、鍛え抜かれた筋肉質の体にぼろぼろの服をまとい、その上に戦場で拾った敵の鎧を繋ぎ合わせた奇妙な鎧を付けている。他の傭兵隊長達はこの出立ちを、ガッゼンの卑しい素性からくるものと嘲ったが、ガッゼンにとってみれば自分の体に最も合ったものを選んでいるだけであり、また傭兵隊長としての戦跡のあかしともなっていた。
 ガッゼンは、馬の鞍に束ねて置いてある自慢の二股の鞭を掴んで、濁った目で冷静に戦場をながめている。戦況は六四でややトルソンが押しぎみと言ったところか。体格と力ではブールが上だが、トルソン侯爵の重戦士部隊は団結力と動きの素早さでこれに対抗していた。そして何より数においてトルソン軍はブール部隊の倍もいるのだ。
 ガッゼンはこの作戦の総指揮官ブアビットを密かに部下に見張らせている。あの魔法使いがどこまでこのブールを操れるかで勝敗が決まるだろう。いまのところブアビットはよくやっている、部下からの報告でもブアビットが冷静さを失っていないと伝えてきていた。ガッゼンの側で配下の傭兵が待ちきれないといった感じで声をあげた。
「まだ動かないんですかい」
「まだだ。トルソン軍のケツが見えてくるまで待て。そこまでトルソンが軍を投入してから襲いかかるんだ。」
「しかし放っとくとブールが負けちまいそうな気もしますが」
「その前にズグルが動くさ。魔法使いもとかげも少し数が多すぎる。トルソンにもう少しがんばってもらおう」
 そう言ってガッゼンは配下の傭兵達にニヤリと笑いかけた。ガッゼンを取り巻く猛者達の間に笑いが広がった。

 その頃、ベロフ男爵とロッティ子爵は轡を並べて猛スピードで戦場に向かっていた。トルソン侯爵の説得に失敗したベロフは、最初はそのまま戦陣に留まって戦うつもりでいた。しかし、次々に伝えられる敵の様子を聞いているうちに、要塞軍が本気で攻撃に出て来ていることがわかってきた。このままではさすがのトルソン軍も苦戦は必至だろう。
 ベロフは、どうしてもロッティの軍を投入しなければならないと判断した。そのため、夜を日に継いでボストール城に駆けつけ、ロッティ子爵とその軽騎馬軍団をかりたてるようにして戦場に向かっているのだ。しかしロッティ軍は緊急の出動のため、約二万騎しかここに引き連れて来ていない。
 その軽騎馬軍団が小休止を取っている時に、盛り上がった土の塚に腰掛けているベロフにロッティが聞いた。
「ベロフ、トルソンが戦場で負けたのを見た事があるか」
「いや、無い」
「ふむ。今回負けるとしたら初めての負けになるわけだ」
 ベロフは不思議そうにロッティを見た。
「何が言いたいんだ」
「ショックだろうと思うのさ。自信家だけにね」
「その時は酒でも、ぶっかけてやるさ。まずはその体を無事に救い出さねばならん」
「その通りだな」
 二人は立ち上がってひらりと馬に飛び乗ると、軍勢を率いてまた戦場へと急いだ。

 トルソンとブアビットの軍の戦闘が始まって、やがて一時間程が過ぎようとしていた。トルソン軍の猛攻でブアビット配下のブール部隊はジリジリと後退を始めているが、驚異的な体力で踏みこたえていた。トルソン軍も、これに後方から新しい兵を繰り出すことで戦力を維持して戦い続けている。そのため戦況はいまだに大きく動いてはいない。しかし戦闘を休むためにトルソン軍の後部にまわった戦士達には、傷付き疲れている者が増え始めていた。徐々に戦力が低下してきたと言ってよい。
 ここで要塞第三位の魔法使いズグルの部隊がまず動いた。ズグル部隊の動きは、トルソンがいままで知っていた神官戦士部隊の動きとは、あきらかに殺気が違っていた。ブアビットと共に黒い盾の魔法使いゾノボートを裏切ると決めた時点で、後には引くことができなくなっているズグルとしては、何としてでもこの戦いに勝たなければならなかった。いままであまり目立つ事の無かった中肉中背のいかめしい顔をした魔法使いは、部下の神官をひたすら叱咤しながらトルソン軍の右腹に突入していった。
 二万人の黒の神官達が歌う不気味な戦歌が流れ出すと、戦場の気温が一気に下がったような錯覚がトルソン軍の戦士達を襲った。その張り詰めた空気の中、十人一組となった神官達はまるで一体の生物のように動き、風を支配して砂礫を巻き上げ、自分達のまわりに筒型の壁をつくって長虫のように襲いかかった。砂礫にトルソン軍の戦士達の目標ははずされ、その壁の中から針のように突き出される細身の剣が、戦士達の顔に突き刺さった。
 戦況が要塞軍に有利に傾きかけたのを見届けた所で、傭兵隊長ガッゼンは部下に指示を出した。
「敵の後方にまわれ、弱った戦士達がいる部分から突き崩せ」
 弱い所から徹底的に攻撃する。野獣のような傭兵部隊の左後方からの攻撃を受けるにおよんで、トルソン侯爵軍は完全に包囲されてしまった。ここで戦況は要塞軍の圧倒的な優勢に変わった。

 日が昇って数時間が経つ頃、ベロフとロッティはようやく戦場を見下ろせる高台に駆け上った。すでにしばらく前から戦いの音が聞こえている。眼下では灰色の鎧のトルソン軍が要塞軍に完全に包囲された形で戦い続けていた。ロッティやその率いる軽騎馬部隊に騎乗技術でかなわないベロフは息をきらしながら吐き出すように言った。
「なんとか間に合ったか」
 自らの軍勢を率いているロッティ子爵は冷静に戦場を眺めた。
「かなりあぶないな。だがトルソンはどうやら生きているようだ。そうでなければ軍勢がここまで持ちこたえてはいないだろう」
 ロッティは部下の将校達に指示した。
「向かって右側に展開している、黒い服の神官達を狙え。駆けつけて速度をゆるめないまま切り倒すのだ。ブールには近づくな。神官軍を崩してトルソンの軍の逃げ道を確保しろ」
 指示を受けた将校は、全軍の約半数を率いてアッという間に戦場にたどり着くと、神官軍の一角を切り崩していった。神官の巻き上げる砂じんも走り抜ける軽騎馬隊の突進を止めることはできなかった。ロッティ軍がつくった退路を通って、ようやくトルソン軍が後退し始めた。呼吸を整え終わったベロフは、トルソン侯爵の居場所を戦場に探した。
「トルソンはどこだ」
 目のいいロッティが答えた。
「おそらく向かって左寄りの装備の不揃いな部隊と戦っているのだろう」
「傭兵部隊か」
「ソンタールの名だたる傭兵隊長の中で、現在カインザーに来ているのはガッゼンだそうだ」
「聞いたことが無いな。よし、俺はトルソンを助けに行く。騎馬小隊を貸してくれ」
「まかせた。傭兵部隊はおそらく最後に戦闘に参加したのだろう。まだ疲れていないらしくて動きが速い。ガッゼンとはそういう駆け引きが上図な男だと聞いている。チグハグな鎧を身に着けた男を見たら気を付けろ」
 ベロフはちょっと傷付いたようにロッティを見た。
「気を付けるだと、俺が傭兵隊長にか」
「お主の剣技のするどさは認める。ただ傭兵隊長ともなればまともな戦い方以外に敵を倒す方法はいくらでも知っているはずだ。まずはトルソンを救い出してきてくれ、その後、暇があって二股の鞭との戦い方を知っていたら。ガッゼンを倒してきてくれ」
「心得た」
 ベロフは騎馬小隊数十騎を引き連れて戦場に飛び込んでいった。ロッティはすぐさま援護作戦に出た。先に送り出した部隊が敵の神官兵を翻弄しているのを見届けた後、自ら明るい茶色のマントをひるがえして湾曲した剣を高くかかげると、今度はロッティの側から見た敵の最先端、トルソン軍の後方にまわっている傭兵部隊に襲いかかっていった。

 ベロフは傭兵部隊を相手に血みどろの戦闘を繰り広げているトルソン軍に向かって、敵を切り伏せながら突き進んでいった。セルダン王子に約束したトルソンの説得に失敗し、今また命を粗末にするなという言葉にも逆らっている。しかしここでトルソンを失うことは、カインザー全軍の崩壊を招きかねない。剣技においてカインザーでオルドン王に比肩すると言われるベロフの突撃には、さしもの傭兵達も立ちふさがるすべがなかった。カインザー王子の剣術師範は縦横に暴れまわった末、やっと血みどろになって奮戦しているトルソン侯爵を見つけた。ベロフは大声で呼びかけた。
「トルソン、引き上げ時だ」
 侯爵は睨み付けるようにベロフを見て答えた。
「まだ終わってはおらん。我が軍はまだ軍としての形を整えているぞ」
「その間に退却するんだ。大勢は決した、これ以上は無駄な戦死者を増やすだけだ。陣容を整えて巻き返そう」
「しかし」
 トルソンはくいさがる傭兵の頭を一撃して、なおも反論しようとした。
「いいかげんにするんだ。貴様も九諸侯の一人だろう。カインザー全軍のことを考えるんだ」
 そうベロフはそう一喝してトルソンの元に駆け寄ると、侯爵の巨体を引きずるようにして戦場を離れようとした。その時、つぎはぎだらけの鎧を着た奇妙な戦士が二人の前に立ちふさがった。その戦士は二股の鞭を一閃させて、ベロフの横にいたロッティの部下を馬上から叩き落とした後、しわがれた大声で叫んだ。
「俺が懸命に育てた部隊をさんざんに減らしてくれたな。そこのデカブツがトルソン侯爵か、憎んでも余りあるやつだが、おまえはまあよくやった。しかしそっちのしみったれた髭の将軍は誰だ。尻尾を巻いて逃げるしか脳の無いカインザーの腰抜け貴族か」
 ベロフは相手の狂乱したような戦じたくを一瞥した後、これが傭兵隊長のガッゼンである事を確信した。ガッゼンの手には血に濡れた二股の鞭が握られている。
「貴様がガッゼンか。その縄跳びの縄を拭いておけ。このばか者を後方に運んだら、戻ってくる。そのつぎはぎだらけの鎧を元のぼろ切れにもどしてくれるわ」
 これに対抗してさんざん罵りの言葉を叫び出したガッゼンを背にして、ベロフは一目散に戦場を離脱した。

 ブアビットはようやく軍を停止させた。野心に燃えた若い魔法使いは指揮を取っていた馬上で半狂乱状態になって叫び続けた。
「勝ったぞ、勝利だ、勝利だ、圧勝だ。トルソンめの軍勢を木っ端微塵にしてやったわ。これでカインザーは滅びる。俺の勝利だ」
 事実、戦闘は要塞軍の圧倒的勝利に終わっていた。しかし要塞軍の弱点であるスピードの無さがブアビットに追撃をあきらめさせた。各所で続いていた戦闘も徐々に収束に向かっていた。陽はまだ中天を過ぎたばかりである。両軍が全力を尽くした死闘は半日足らずで決着が着こうとしていた。

 血だるまのトルソン侯爵を後方に待機しているロッティ子爵の陣に届けたベロフは、側にいる兵士に命じて袋に入った水を一つ持ってこさせると、兵士の持ってきた水を馬上で一気に飲み干した。それから手に滴った水で髭と髪の毛を丁寧に撫で付けて首を左右に振り、呼吸を整えて再び要塞軍に向かって出撃しようとした。この姿に近くにいたロッティ軍の将校達はあわてた。
「ベロフ男爵、どちらに向かわれるのですか、ロッティ様からは兵をまとめて退却の指示が出ています」
「あのつぎはぎだらけの鎧の傭兵隊長はガッゼンだな」
「そうです。ソンタールの傭兵隊長としては有名な男です」
「そやつの首を持ってくる」
「しかしすでに我が軍は撤収に入っています。とてもガッゼンには近寄れません」
「俺一人で十分だ」
 ベロフはそう言うと止める将校達をかき分けるようにして馬を進めようとした。そこに騒ぎを聞きつけたロッティがあわてて駆けつけた。
「どうしたんだベロフ」
「俺の髭を侮辱した命知らずがいる。生かしてはおけない」
 ロッティはしばらく唖然としていたが、あきれたように大声でどなった。
「おまえまでが何を馬鹿な事を言っているんだ。巻き返す時が必ずある、ここは一旦引くんだ。セルダン王子の言葉を思い出せ」
 ベロフはしばらくロッティを睨んでいたが、ようやくあきらめた。
「今後、ガッゼンという男が戦場に現れたという情報があったら、かならず俺に連絡をくれ。絶対に許さない」
 ブアビットの要塞軍と、ロッティ子爵の指揮下に入ったカインザー軍は結局約半日の距離まで離れて、その日は対陣する形で夜を迎えた。

 ブアビットとズグルが勝利を確信して祝盃をあげている頃。もう一人の要塞付きの魔法使いキゾーニも成果をあげようとしていた。
 カインザーのオルドン王が西の将マコーキンと対峙しているレンドー城は、外見から見ると小高い丘の上にある。しかしその広い中庭は中央に向かって段になって土地が低くなっており、その最下層部にある建物の地下には地上と同じ高さで水源となる池があった。この池まではケマール川の上流から何度も迂回をして功名に隠された地下水路が続いている。
 トルソン侯爵の軍が大敗を喫した戦いがあった日の深夜だった。誰もいないその池の中央付近に、いくつかの生き物の頭部のような丸い影が浮かび上がった。やがて影は水汲み場の階段まで静かに近づくと、ゆっくりと濡れた体が岸に這い上がった。
 水から上がった魔法使いキゾーニは下帯一つの筋肉質の体から水をしたたらせながら、薄い緑色の瞳に邪悪な色を浮かべて微笑んだ。昼間にブアビットが狂ったように放った勝利の念波が今も思い出される。いい気になっているのも今のうちだ。ブアビットやズグルがいかに北の戦線で功績を上げようと、最大の敵であるカインザー王はここ、レンドー城にいるのだ。その城を俺の手で落城させてやる。
 明後日、西の将マコーキンの総攻撃が始まる。それまでに俺が率いてきたすべてのブールをこの池に入れる。マコーキンの城攻めが始まると同時に中庭に押し出して、水路の最も近くの城門を占拠してその門を開けるのだ。それでカインザー王の命運も尽きる。
 キゾーニは傲慢で自信家のブアビットの顔を思い浮かべた。
(愚か者よ、ブアビットが操っているブールはゾノボートからの借り物ではないか、ゾノボートがいなければ何の役にも立たない。しかし俺のブールはすでの俺の意志で動くようになっている。その事が次の黒い盾の魔法使いを決める時に決定的な違いとなるのだ。しかも俺なら西の将ともうまくやっていける)
 キゾーニは率いてきたブールにその池で待機するように指示すると、ケマール川への水路を戻り始めた。マコーキンの宿舎からこっそりくすねてきた酒を早く飲みたい。全くあの将軍はいい酒の趣味をしている。

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 その頃、西の将の要塞の地下にある薄暗い地下牢の粗末なベッドの上で、一人の少年が空腹に耐えながら浅い眠りについていた。ここに連れて来られてどのくらいの日数が経ったのか、もうわからない。しかし子供に特有の強烈なイメージに溢れた夢の中で、少年は何度もあの日の出来事を体験していた。
 実際にはもう半年以上も前の事になる。少年はアルラス山脈の最北端にある巨竜ドラティの大洞窟に一人で侵入した。そこまでの旅は孤独で辛いものだったが、少年の育ての親である女は、生きるための知恵と体力を少年の身にしっかりと付けさせていた。物心ついた頃から聞かされてきた様々な知識に従って、少年は何かに憑かれたように一心に竜のねぐらを探した。そしてやっと見つけた洞窟は、意外にも比較的地上に近い場所にあった。おそらく竜は自分の洞窟に侵入する者がいるなどとは、考えたことも無かったのだろう。
 少年は腰の短剣を確かめると、注意深く洞窟に足を踏み入れて行った。竜が八百年近くにわたって作った洞窟は堅牢で、中には竜が気紛れに集めてきた貴金属が散乱している。少年は空気の動きで洞窟の広さを探り、影のように岩陰を歩き、ちょうど洞窟の中央で眠っている巨大な竜に近づいていった。少年は竜そのものには恐れは感じなかった。しかしその巨大さに途方に暮れた。この位置からでは育ての親に指示された通りに、竜に短剣を刺すことはできない。しばらく考えた後、少年は器用に洞窟の壁をよじ登ると、竜の真上の岩棚に乗った。
 竜の鱗に覆われた背中が少年のちょうど真下に見えている。ねらいは竜の腰のあたりにある逆さに生えた鱗。そこだけが急所だと、育ててくれた女は教えてくれていた。短剣もその女がくれた。それがアイシム神の聖なるバザの短剣である事など、少年には知るよしも無かった。少年は生まれてから十数年のこの歳月を、この時だけのために生きてきたと言ってもよいかもしれない。深い洞窟の中に、竜が飛び立つために開けた天井の穴からの光が射し込んでいる。その薄明かりの中に、巨大な獣がゆったりとうずくまっているのが見えた。やがて少年は、自分の民族の神として崇めるように教えられた激情の神バリオラに祈り、短剣を手に勢い良く竜の上に飛び降りた。
 少年の記憶はここから混乱する、夢中で竜の腰に短剣を突き立てたことは憶えている。しかし竜が急に動き出し、放り出されて床に叩き付けられてからしばらくは記憶が無い。次に思い出せるのは、はるか空から見下ろした地面だった。最初のうち少年は自分の目に見えているのが何なのか理解できなかった。しかし身を切るような激しい風と、宙ぶらりんの足を意識しているうちに、竜の鍵爪に体を捕まれて空を飛んでいる事に気が付いた。
 やがて巨大な灰色の建物が見え、その中庭に放り出された。少年は体を打った痛みに動けないまま、目だけで周りの状況を見ていた。しばらくして黒い鎧の男がやってきて竜と何かを話しているように見えた。でも声は聞こえなかった。やがて黒い服の男達がやってきて少年を抱えあげると、大きな建物の中の下り坂をどんどん下って、この牢に放り込んだ。
 実はドラティがこの少年を連れて来た時、マコーキンもゾノボートもその処置に困った。ドラティがバザの短剣のことを話さなかったため、この少年の素性が全くわからなかったのである。しかし古き獣ドラティが無意味な事をするとも思えなかったので、一時的に牢に入れておくつもりが、マコーキンの出陣のために忘れられた格好になってしまっていた。そのため、とりあえず西の将が帰還するまでは、誰もさわらずといった形でここに放置されている事を、無論少年は知らない。そして少年は自分をこれから待つ運命についても知らず、その夜も夢にうなされながら眠っていた。

 西の将の要塞の、他所者の逗留地の中に密かに造られていたバルトール宿の地下室から、しっかりとした木枠と石で固められた抜け道を通って、セルダン達は逗留地のそばにある林の中に出た。全員、黒の神官の服に身をつつんでいる。深夜なのに市内はまだ明るく火がたかれていた。この日の昼間にセルダン達は悪い知らせを耳にしていた。トルソン侯爵の軍がブアビットという魔法使いが率いる要塞軍に完敗したらしいのだ。ブアビットが勝利の興奮にかられて放った念波の内容は、ゾノボートの口から要塞の神官達に伝えられ、すぐに要塞都市中に広がった。いままで攻められる一方だった要塞軍が神官の指揮の元で勝利した事に、要塞都市に残っていた黒の神官達の喜びようは大きかった。そのために深夜まで町中には人々が出て、勝利の祝杯をあげていたのだ。黒の神官達もかなりの数が市内に繰り出しているようで、時々セルダン達は道で黒い服の男達とすれ違った。セルダン達一行の先頭には、マスターロトフの副官フスツが立っていた。ロトフは背が低すぎて神官としてはやや不自然に見えるため、集団の中に入ってまわりの仲間を壁にして歩くようにしていたのだ。そのロトフがセルダンにいたずらっぽい目を向けて言った。
「幸か不幸か、これで我々も動きやすくなりました」
 セルダンは憤慨して言った。
「幸運なもんか、カインザーの危機じゃないか。これはバルトールの危機でもあるんだぞ」
「そうでしょうか、カンゼルの剣を奪回しなければカインザー側はいずれは負けます。結果的に要塞への潜入が容易になったのなら、それを事態の前進と取るべきではないでしょうか」
 この言葉に反論しようとしたセルダンに、後ろを歩いていたマルヴェスターが小声でささやいた。
「セルダン、バルトール人の考え方も学んでおくんだ。これからもこのような逆境に数多く出会う事になるだろうからな」
 セルダンは魔術師に不満そうな顔を向けたが、思い返してロトフの言葉を心の中で繰り返してみた。どうあってもこの事態を好転させなければならないのは間違い無いのだ。バルトール流のタフな思考法も学んでおいて損は無い。
 一行は時々道行く人々とすれ違ったが、いくら祝いの夜とはいえ、黒の神官の服を着た一団に積極的に声をかける者はいなかった。ロトフがマルヴェスターに小声で説明した。
「首尾良く聖剣を奪回できて要塞から脱出したら、まっすぐに北の門を目指してください。ここまでお共した馬車の御者達が途中に待機しております。向こうから気づいて見つけるはずです」
 セルダンはこの言葉をうつろに聞いていた、そこまで到達できるのだろうか。祝杯にわく市内をようやく通り抜け、一行は巨大な要塞の門の前に来た。セルダンの横に並んだ大柄なブライスの、さらに倍の高さがあるしっかりした門の前に数人の守備兵が並んでいた。その中の一人がセルダン達に声をかけた。
「バルテラ神に栄えあれ、黒の神官の方々。要塞にお住まいの方ならば、その証拠である手形をお見せいただきたい」
 フスツが何処から入手したのか、黒い炎の形をした板を要塞の守備兵に見せた。守備兵は一行を見回して、その奇妙な取り合わせに気が付いた。
「どうも子供や老人が混じっているようだが、要塞の神官ではないな」
 フスツがつっけんどんな口調で答えた。
「ブアビットの強引な戦いで、数多くの同胞が亡くなってしまった。ゾノボート様に亡くなった神官の友人達が伝えたいことがあるそうだ」
 兵士は、また神官同士の悪口の言い合いか、といったようなうんざりした表情を見せた。だがまだ不振そうな顔をしている。その時、セルダンの後ろにいたロトフが前に進み出た。
「見張りの方々は、祝宴の夜なのにお勤めご苦労様です。これでもお飲みください」
 そう言って、年齢不祥の子供のような体格のロトフは、手に持った酒の入った瓶を差し出した。守備兵の顔が一瞬にしてゆるんだ。
「いや、ありがたい。ここまで届けてくれる市民もいなくて困っていたんだ」
 兵士は一刻も早く酒にありつきたいといった感じで瓶をひったくった。ロトフは残りの兵士の一人に近づいて、懐からもう一本瓶を取り出して手渡すと、他の兵士にも微笑みかけた。兵士達はそそくさと通用口の扉を開けて、さっそく瓶を回し飲みし始めた。セルダン達は大きな門の横に小さく開いた入り口を通ってようやく要塞に入った。
 月明かりの下、城壁の厚みを抜けて中庭に入った時に、セルダンはその大きさにあらためて国力の違いを思い知らされた。セルダンはここにマコーキンの兵が整列している姿を想像してみた。何という豪勢な将軍なんだろう。カインザーでは、王ですらこんな立派な場所で兵を見ることができない。ロトフが小さな手でセルダンの手に触れた。
「気を強くお持ちなさい、次期カインザー王よ。マコーキンは現実家です。この広場も兵の訓練や、出陣の際の整列にしか使われていない。だからこの程度のつくりになっています。しかし、ソンタールの首都グラン・エルバ・ソンタールにある皇帝の王宮の広大さ、壮麗さはここ等とは比較になりませんよ」
 セルダンは息をのんでマルヴェスターを見た。老魔術師も黙ってうなずいた。そのセルダンに、ロトフ配下の大柄なカインザー人の一人が、無言で城壁の崩れた部分を指差した。おそらく過去のカインザー軍との戦いで崩れたのだろう。大柄な男は大きな顔にわずかに微笑みを浮かべてうなづいた。セルダンは少し心が落ち着くのを感じた。
 巨大な石畳の中庭を、先導役のフスツはためらうこと無く速足で横切った。そして一行は中央の建物沿いにつくられた回廊に入って行った。ここでロトフが先頭に立つと、大きな戦士用の扉の横にある赤い小さな扉の前に一行を導いた。そしてどこからか小さな鍵を取り出して、扉をゆっくりと開いた。中を覗き込んだセルダンは、壁に赤い色が塗られた石造りの通路が続いているのを確認した。中に踏み込むと、そこから上下に通路が分かれていたが、床に階段は無くてなだらかな坂になっている。どことなく生物の体内のような雰囲気があるが、どうやらこれがこの要塞の神官用通路の特徴らしい。ロトフが説明した。
「この赤い壁の曲がりくねった道は、かつて黒の神官達が使っていたものです。マコーキンが赴任した後、ゾノボートと神官達は地下の区域にもぐりました。マコーキンはこれを取り壊す予定だったらしいのですが、戦に追われてまだ手をつけていないようです。ここから我々は二手にわかれましょう」
 それまで大きな体を隠すようにずっとおとなしくしていたブライスが言った。
「一緒にいたほうが安全じゃないか。相手は黒の神官だ、常人の手に余る場合もあるだろう」
「いいえ、さすがにここまで来るとこの人数は多過ぎます。それに私共は一刻も早く地下牢に囚われている少年に会わなければならないのです」
 ロトフは三人の大柄な男に手を振って呼ぶと、セルダンの前に押し出すようにして言った。
「しかしこの三人はカインザー人です。セルダン王子がお連れください」
 セルダンはこの無口な男達が、一緒に旅をするようになって以来気に入っていた。
「名前は何と言うんだ」
 いつも話をしている中央の男が言った。
「私がアタルス、後ろの二人がポルタス、タスカル。私の弟達でございます殿下」
 ロトフとフスツが体のどこからか、小さな松明を取り出した。全くバルトール人の抜け目無さには驚くほか無い。セルダンは松明を受け取ってブライスとうなずきあった。こうしてセルダン、ブライス、マルヴェスターとアタルス達兄弟は上へ、ロトフと六人の部下は地下への通路を取って、要塞の深部に潜入していった。
 階上に向かう一団はセルダンが先頭に立った。カンゼルの剣が自分を呼んでいるような気がする程、その存在感がセルダンの心に伝わってきていた。セルダンの後ろにブライス、マルヴェスター、三兄弟と続いている。小さな石を漆喰で塗り固めたような壁と床は、複雑に曲がりくねっていたが、幾つもの道が交差しているのでとにかく上を目指して歩いて行けば、最上階のマコーキンの部屋の近くに出るはずだった。
 通路の中に全く警備がなされていないのは、どうやらマコーキンすらこの道を完全に把握していなかったらしい。もっともマコーキンは、歴代の西の将の中で要塞にいる時間が最も少ない将であるはずだった。むしろ、要塞の警護等には最初から興味が無かったのかもしれない。セルダン達は誰にも会うこと無く要塞の上部へと昇って行った。ずいぶん歩いたと思われる頃、マルヴェスターがつぶやいた。
「どうにも妙な気分だ。このあたりにバステラ神の神気の流れを感じるぞ。地下から通路伝いに上に向かっている、おそらくカンゼルの剣に届いているのだろう。ゾノボートめ罠をかけおったな」
 ブライスが振り向いた。
「どんな罠です」
「まだよくわからん、とりあえず剣が置いてある部屋まで行ってみよう」
 セルダン達は通路の最も高い位置と思われる場所にある扉から、戦士用の廊下に出た。戦士が使用している廊下は床が平らで幅広く、天井も高かった。これなら重装備をして武器を持っても十分に動きが取れるだろう。戦士の子であるセルダンはなんとなくほっとして息をはいた。マルヴェスターがあたりをうかがって小声で言った。
「わしが知る限り、この要塞の支配者の部屋はもう近いはずだ。思ったより護衛の兵が少ないのは、西の将が留守だからだろう」
 今セルダン達がいる場所は四角形の狭い広場を見下ろす回廊だった。そして広場をはさんでセルダン達のちょうど正面。月光をまともに受ける位置に大きな扉が見え、護衛の兵が左右に三人ずつ立っていた。その左右にも扉があったが、セルダンには向かって左側の扉から剣の呼ぶ声が聞こえてくるような気がした。ブライスが聞いた。
「あそこだな、正面か、それとも左右のどちらかだ」
「向かって左だ」
 セルダンはちゅうちょ無く言った。ブライスはちょっと驚いた顔をした。
「どちらにしても護衛は倒さなきゃならないな」
 セルダンは三人の兄弟にうなずいた。
「マルヴェスター様、ブライス、ちょっと待っていてくれ」
 そう言った次の瞬間に、セルダンと三人の兄弟は四角い回廊を二人ずつに別れて走りだしていた。黒い神官服は強い月光の下で回廊のひさしがつくった闇にまぎれた。神官の柔らかい靴は音をたてず、あっという間にセルダン達は左右から護衛兵に襲いかかると、靴にしのばせていた短剣で六人を始末した。ブライスはその間、あっけにとられて見つめていたが、何事も無かったかのように歩きだしたマルヴェスターについて扉の前までやってきた。そして短剣を靴にしまっているセルダンに話しかけた。
「俺が子供の頃に受けた授業で、この世で恐れなきゃならない者というのがあったが、一にバルトールの暗殺者、二にカインザーの戦士、三に黒の神官となっていた」
「バルトールの暗殺者は知らないけれど、それはだいたい正しいと思う」
 セルダンはそう言うと、倒れた兵士からアタルスが取り上げた鍵の束を受け取って、左側の部屋の扉を開けた。部屋の中央にはテーブルが置いてあり、その向こうの正面に大きな石の椅子がある。その椅子に銀色の鎖で剣が縛りつけられていた。セルダンは呼ばれるように部屋に入って行った。
「セルダンちょっと待て。ゾノボートの罠がわかった」
 マルヴェスターがセルダンを呼び止めた。
「この剣をバステラ神の薄い神気が取り巻いている。バステラ神そのものはこの世に現れる事はできないが、もし剣をこの椅子から取ればかなり強いバステラ神の神気が剣の持ち主を襲うことになるはずだ。生身の人間は一瞬にして消滅してしまうだろう。おそらくゾノボートは黒い盾を門にして神界とこの剣とを繋いだらしい。あの臆病者にして成しえる、いかにも用心深い罠だ」
 ブライスが寒けを感じたようにブルッと身を震わせた。
「どうしたら良いのですか」
 マルヴェスターは椅子の後側に回り込んで言った。
「剣の替わりの気をこの椅子に収める。わしがやるしかあるまい。まずわしが椅子の上に立つ。セルダン、おまえはゆっくりと剣を手にして椅子から離れるのだ、鎖などは関係ない。わしは少しずつ剣の気を真似た気でこの椅子を覆う」
 セルダンは不安そうに言った。
「そんなごまかしが利くのでしょうか」
「長くはもたんだろう。おまえたちが要塞を脱出するまでだ」
「マルヴェスター様はどうなさるのですか。バステラ神の気から逃れられるのでしょうか、それにじきにこの部屋の護衛の交代が来てこの出来事全体に気が付くでしょう」
 マルヴェスターは鼻で笑った。
「バステラ神の神気とわしの力が流れている空間に、普通の人間は近づけん」
 そう言った後、セルダンを覗き込むようにして言った。
「だが、わしが逃れられるかどうかはさっぱりわからん。さてどうする。まず地下にもぐってわしがゾノボートを倒してから出直すか」
 セルダンは自分が試されている事に気がついた。最初からマルヴェスターはこの罠を知っていたのかもしれない。ここで自分の命を危険にさらしてまで、セルダンにさせようとしている事は一つだ。セルダンは一呼吸おいて、はっきりと言った。
「僕がゾノボートを倒しましょう」
 ブライスがあわてて何か言おうとしたが、セルダンは振り向いて目で制した。
「要塞は今、ほとんど空になっている。これ程の機会は二度と無いだろう。ここで僕がカンゼルの剣を手にしてゾノボートを倒せなければ、この先も倒すことは出来ない」
「しかし、危険過ぎる」
 セルダンはブライスに笑いかけた。
「僕は剣の守護者なんだ。それに冠の守護者もそばにいてくれるんだろう」
 ブライスも腹をすえて答えた。
「もちろんだ。しかしもしセルダンがゾノボートを倒したとして、マルヴェスター、あなたはどうやってここから脱出しますか」
「わしは翼の神の弟子なのだよ。ここは要塞の最上階だ」
 マルヴェスターはそう言ってウインクした後、普段の物腰からは考えられないくらいに軽々と飛び上がって、石の椅子の背に降り立った。セルダンは恐る恐る椅子に縛り付けられている剣の柄に手をかけた。少しピリピリした感触がある。
「ゆっくりとだ」
 マルヴェスターの声にうながされて、セルダンはゆっくりと剣を手に後ずさった。鎖は引きちぎれるでも無く、崩れるでも無く何の抵抗も無しに解けていった。マルベスターは椅子の上に足を下ろすと静かにそこに座った。その体がかすかに発光している。
「急げセルダン。この罠をゾノボートが仕掛けたとなると、わしらが来ることは予想が付いていた事になる。ロトフ達があぶないかもしれない。地下まで駆け下りてまずロトフと少年を救え。いざとなったらそのまま逃げろ、わしはここで何年でもおまえを待つ事が出来るのだから」
「ご心配無くマルヴェスター様。必ずロトフと少年を救って、ゾノボートを倒してきます」
 セルダンはそう言うと、ブライスと三人の兄弟を引き連れて部屋を出た。月の光がやけに明るい夜だ。五人は顔を見合わせて意志を確認した後、急いで神官通路を伝って地下へと向かって行った。

 その頃、ロトフと手下達は地下にある戦士用の通路の中を歩いていた。ちょうど神官達が出払っていたので、そこまでは誰にも出会わなかった。しかしその時、前方の曲がり角からひょっこり黒の神官が姿を見せた。この神官は酔っていなかった。おそらくゾノボートに直々に仕える者だろう、ブアビットの成功を素直に喜んでいない神官達もいるのだ。
「アルク、サス、ロイ、パタム」
 神官が何か呼びかけた。ロトフはフスツに目配せした、フスツは一瞬にして神官に駆け寄るとその喉を切り裂いた。
「急ごう。ブアビットの成功を喜んでいるものばかりでは無かった」
 ロトフ達は足を速めた。牢の位置は数日間要塞に滞在している間に確認してある。やがてたどり着いた牢の入り口にはやはり守衛の神官がいたが、こちらは少々酒が入っているらしく、ロトフの手下達の手によってあっさりと始末された。
 鍵を使って牢の扉を開けたロトフは、小柄な少年が粗末なベッドの上で疲れきって眠っているのを見た。その寝顔は明らかにバルトール人だ。この少年がバザの短剣を扱っていたのならば、王家の血筋に違いない。ロトフは少年の握られた右のこぶしを開いてみた。赤く焼き付けられたような模様が見える、それは間違いなくバザの短剣の柄の後だった。ロトフの目から涙があふれ出た。少年は何かに揺り起こされたような顔で目を覚まし、ロトフと六人の部下を見た。ロトフはうやうやしく跪いて声をかけた。
「私はカインザーのバルトールマスター、ロトフと申します」
 少年はしばらくキョトンとしていたが、思い出すように言った。
「おいらの名前はベリック。ロトフって名前は聞いた事がある。おいらを育ててくれた叔母さんが。バルトールの指導者の一人だって言っていた」
 ロトフは衝撃に目を見開いた。ベリックとは初代のバルトール王の名ではないか。
「お聞きしたい。その叔母さんとはどのような女性でしたか」
 ベリックは事態が飲み込めないといった感じで、目の前の子供のような大人を見つめていたが、やがて小さな声で質問に答えた。
「おいらをずっと育ててくれた。でも母さんじゃないって。額に宝石が埋まっていた。そしておいらに短剣をくれた。名前はその人が付けてくれたんだ」
 ロトフの配下の者達がざわめいた。
「額に宝石が埋まった女性。間違いなくマスター・メソルでしょう。ザイマンのバルトールマスターだ。彼女にはここを脱出した後でゆっくりと話を聞かねばならない。あなたは今より私たちの王です」
 外が騒がしくなってきた。先ほど通路で始末した神官の死体が見つかったのだろう。ロトフは少年の手を引くようにして牢の外に出た。そして配下の者達に言った。
「何としても逃げ延びるぞ。王が見つかったのだ、必ずバルトールの民のもとに帰還させなければならない」
 少年を加えた八人は神官の足音を避けて要塞の地下道を下って行った。その頃には、戦士用の地下道でも神官達が警戒体制に入っており、ロトフ達は出会う神官達を斬り伏せながら脱出口を探していった。しかし徐々に神官の数が増えてきて、斬り合ううちにいつのまにか六人の配下のうち三人が倒れさていた。やがて逃げるロトフ達の前方に複雑な装飾が施された扉がみえてきた。後ろからは神官達の足音が聞こえてくる。ロトフが扉に手をかけると、鍵はかかっておらず、その先には床も天井も呪文のような文字で埋め尽くされた通路があった。ロトフは少年とフスツの二人を扉の向こうに押しやると一礼して言った。
「ここは私たちが防ぎます。フスツ、なんとしてもセルダン王子とマルヴェスター様の元にベリック王を届けるのだ」
 そう言うと後ろ手に扉を閉めた。振り向くと、目前まで神官達が迫っている。ロトフは生き残った配下の二人に布で口と鼻を覆うように指示すると、自らもそうした。そして押し寄せてくる神官に向かって、懐からつかみ出した白い粉を叩き付けた。モッホの粉の作用で神官達の動きが急に緩慢になった。ロトフ達三人はその神官達にとどめを刺すと、さらにその向こうにいる神官達にむかって斬りかかって行った。
 こうして、二千五百年ぶりに帰還したバルトール王の最初の家臣ロトフとその配下の五人の者達は、ソンタールの西の将の要塞の地下道に散った。
 ロトフに王をまかされて扉を背にしていたフスツは、扉の向こうの騒音が止んだのを知った。やがて頬に傷のあるバルトールの男は、決意を新たに少年を掻き抱くようにしながら奇妙な廊下を進んで行った。

 マルヴェスターは聖剣が置かれていた椅子に座って、ゆっくりとキセルを取り出しで煙草を詰めた。一度剣の気の流れをなぞってしまえば、後の維持は難しくない。マルヴェスターのまわりは光と闇のまだらなゆらめきが覆っている。老魔術師は、そこに白い煙の輪を加えた。どうやら地下では騒ぎがはじまったらしい。マルヴェスターがいる部屋にも要塞の兵士達が駆けつけて来たが、この不思議な老人の周りを包む、不気味な力の壁に遮られて手を出す事は出来無かった。

−−−−−−

 セルダン達が要塞に潜入した日の昼間の事。要塞からはるかに南に下った場所にあるカインザー王国の王の城、マイスター城のあたりではすでに秋も半ばを過ぎてそろそろ冬の気配がただよいはじめていた。白い髪の不思議な少女アーヤ・シャン・フーイは、そのマイスター城の一番日当たりがいい部屋に、冬物の服をいっぱいにちらかして衣替えの準備をしているところだった。カインザーは全体的に湿度が低くて暑い大陸だが、マイスター城は海から遠い内陸部にあるため冬の寒さはけっこうきびしい。今日もアーヤのお相手はアシュアン伯爵夫人レイナだった。アーヤはベッドの上に広げた白い襞のついたドレスに、深紅のリボンを飾り付けながら伯爵夫人に話かけた。
「ねえ、セルダン達はもうカンゼルの剣を取り返したのかしら」
 レイナ夫人は戦況がかんばしくないことを思い出して眉を寄せた。
「どうかしら、まだだと思うわ。王子様が剣を取り返していたら、前線の状況がもっと好転していいはずですもの」
 アーヤは手にしていたドレスを放り出して地団太を踏んだ。
「もお、セルダンったらのんびりしてるのね。おじいさまもついているのに何をしているの。もしかして、あの大きなブライスがお荷物になってるって事はないかしら」
「アーヤ。ブライス様はザイマンの王子様ですよ。言葉をつつしみなさい」
 レイナ夫人はやさしくたしなめた。アーヤはやわらかい髪をクシャクシャとかきあげた後、急にシュンとなって窓に駆け寄った。
「はーい。でも寂しくてつまんないんだもん」
 アーヤは窓から北の空を眺めて、ぼんやりとつぶやいた。
「本当に戦いが始まるとつまんない。はやく終わればいいのに。そうしたら私はセントーンの宮廷に行ってみたいなあ」
 赤く色づいた木の葉がアーヤの目の前を舞いながら落ちた。見上げたアーヤの目にとまった黄色い葉は、自分も落ちようかどうかちょっと迷っているようだった。

 ロトフと別れたバルトール人のフスツは、幼いベリック王の手を引きながら呪文に囲まれた通路を用心深くたどっていった。なぜか後方から追手がやってこない。どうやらこの先には特別なものがあるようだ。やがて正面に扉が見えた。フスツの左頬の深い傷がひきつった。百戦錬磨の地下商人の手下は、わきで小さくなって震えている将来の国王をだきしめた。どうするべきだろう、追手が来ないのならばここでしばらく待ってみようか。いつもは向こう見ずなくらいのフスツだが、今回は慎重だった。セルダン王子と魔術師マルヴェスターが剣を奪回して地下に降りてきてくれれば、よりベリック王を救い出す可能性が高まる。そう判断したフスツは少年を抱いて座り込むと、懐から甘いパンを小さくこねたお菓子を取り出して少年に与えた。どうあっても、バルトールの民のもとにこの子を届けなければならないのだ。
 闇の中で二人がしばらく息を整えているうち、フスツはふと空気が動く気配を感じた。やがて座り込んでいる二人の前の床に、薄い光の筋が差した。フスツが見上げると、目の前の扉がゆっくりと上に上がって行った。そしてその向こうに、剃りあげた頭に複雑な呪文を書き込んだ小柄な神官が立っていた。フスツはそれが、黒い盾の魔法使いゾノボートである事に気がついて息を呑んだ。ゾノボートはゆっくりと微笑むと、二人にむかって招くように手をあげた。

 セルダン達は薄暗い神官用通路の中を、できる限りのスピードで地下へ向かって下って行った。目指す先はゾノボートの祭壇の間だ。聖なる剣を手にしたセルダンは、まるで剣に導かれるように迷うことなく道を選んでいった。時々、行く手にマコーキン配下の要塞の守備兵が立ちふさがったが、新しい守護者の手に握られたカンゼルの剣の敵ではなかった。もしクライドン神の力が万全ならば、どれ程の力をこの剣は秘めているのだろうか。セルダン自身ですら、剣を振るいながら少し恐ろしくなった。
 しばらく下ると通路の幅が所々で広がり、床や壁の手入れがよくなってきた。おそらく地下の神官達が生活している空間に入ってきたのだろう。しばらく進むと、通路の先から騒然とした騒ぎが聞こえてきた。ブライスが手に持った燃えさしを捨てて、ちかくの壁に掛けられているたいまつをひったくった。
「どうやらロトフ達も騒ぎを起こしたらしいな、今度はここの神官達が戦士用の通路にもなだれ込んでいくかもしれないぜ」
「ならばそれも好都合だ。神官用通路に敵が減った事を良いほうに考えて、このままゾノボートの部屋まで突っ走ろう」
 これがバルトール流の考え方。セルダンはバルトールに仕えているアタルス達カインザー人の三兄弟にニヤリと笑いかけて答えた。やがて前方で、神官達が集まって議論をしているのが目に入った。セルダンの持つ剣は、その先に敵がいると告げていた。セルダンは仲間に目で合図を送ると、剣を構えて神官達の中に飛び込んで行った。神官達は一瞬ギョッとしたようになったが、そのすきにセルダン、ブライス、三兄弟は神官達を手際よく切り伏せて追い払った。一息ついたセルダンの隣で三兄弟の長男アタルスが、悲しげなうめき声をあげた。見ると床には、マスターロトフのズタズタ切りつけられた体が転がっていた。
「ロトフ」
 セルダンはあわてて床に跪き、抱きかかえて叫んだ。カインザーのバルトールマスターにはまだかすかに息があった。しかしロトフと共に神官に立ち向かった他の二人の男はすでに息絶えている。
「ここにスハーラがいればなあ」
 ブライスが嘆いた。
「セルダン王子」
 薄く目を開いてロトフがささやくような声で言った。
「地下牢にいた少年は我らがバルトールの王に間違いありません。名前はベリック、初代バルトール王と同じ名前です。すべての謎はザイマンにいるバルトールマスターが知っているでしょう」
 力が抜けきったロトフの小さな体を抱きながら、セルダンは泣くように言った。
「しっかりするんだロトフ。おまえとその少年を助けるってマルヴェスター様に約束したんだ」
 ロトフは口元にほほ笑みを浮かべた。もう目を見開く力も残っていない。
「王の帰還を見届けられたのですよ、私は幸せです。バルトールの王とその民をよろしくお願いいたします」
 そう言うと、少年のような体格をしたバルトールの実力者、マスター・ロトフはセルダンの腕の中で息を引き取った。セルダンはゆっくりとロトフのからだを横たえると、怒りに駆られて前方の扉に目をむけた。アタルスが扉を開くと、目の前に壁にも床にも天井にすらも呪文が書き込まれた通路が続いていた。セルダンは躊躇せずにそこに足を踏み入れた。
 ほどなくして目の前に重そうな扉が現れたが、扉はその下が薄く開いていた。三兄弟が手を入れて持ち上げると、扉はほとんど抵抗なく上に上がった。セルダンはカンゼルの剣を体の前に掲げると、薄暗い部屋に慎重に入って行った。ブライスと三兄弟がゆっくりと後に続く。
 最初に部屋に踏み込んだセルダンの目に入ってきたのは、部屋の中央に置いてある六角形の黒光りのする祭壇のような物と、その上に浮かんでいる不気味な黒い盾だった。盾の中央からは黒い霧のようなものが伸びて、部屋の上部に消えている。その先は、先程まで剣が置かれていた椅子に繋がっているのだろう。
 そしてその盾の向こうにやせこけた老人がたたずんでこちらを見つめていた。この男こそ、まぎれもなく黒い盾の魔法使いゾノボートだろうとセルダンは確信した。そしてその魔法使いの足元に、フスツと少年が倒れていた。セルダンは一瞬ギョッとしたが、フスツが軽くうめいたので、二人ともまだ息があることがわかった。セルダンはほっと胸をなでおろした。
「ついにやって来たか聖剣の守護者。だからカンゼルの剣などというやっかいなものは、さっさとグラン・エルバ・ソンタールに送ってしまえとマコーキンに言ったのだ。しかし今さら仕方が無いだろう。かまわん、ここでわしがもう一度貴様から奪い取ってやるわ」
 魔法使いは聞き取りにくい声でそう言うと、祭壇に向かって両手を振った。今まで黒い霧を吐き出す暗い穴のように見えた盾は、黒い霧のかわりに赤黒いまだらの妖気を身にまとった。六角型の祭壇のかどの上で揺れていた他の秘法の形をした影が消え、妖気にまとわりつかれた盾が祭壇の中央に降りてきた。やがてセルダンとブライスの見る前で盾は分身するように六つに分かれて縦に円を描くように広がり、ゆっくりと回転を始めた。円の中央にあいたすき間の向こうで、ゾノボートが不気味な笑いを浮かべた。
 セルダンはカンゼルの剣を持って盾に打ちかかったが、鈍い衝撃とともに受け止められてはじきかえされた。背の低いゾノボートがさらに体をかがめて盾の向こう側からセルダンに向けて指先を振った。その指先から発せられた小さな針が、盾のすき間を縫ってセルダンの腕に突き刺さった。うめきをあげて後退するセルダンをアタルスが受け止めた。魔法使いは嘲るように笑った。
「マルヴェスターかオルドンがやって来るかと思っていたら、子供だったか。いささか拍子抜けしたわい。だが遠慮無くらやらせてもらうぞ」

 その頃最上階の聖剣が置かれていた部屋の椅子に座って、剣の気を真似ていたマルヴェスターは、バステラ神の神気が引いていくのを感じた。どうやらセルダンとゾノボートの対決が始まったらしい。マルヴェスターは引いていくバステラ神の神気の後を追いかけて、ちょっとした魔法を放った。バステラ神の力が及んでいる以上無理な魔法はかけられないが、ゾノボートを驚かすくらいはできるだろう。
「愚かなりゾノボート」
 マルヴェスターはそうつぶやいて、キセルの杯を床に落とした。そして周りを取り囲んでいる兵士達を見回した。
「さてと、おまえたちをどうしたものか。やはり眠ってもらうのが一番かのう」

 ゾノボートは盾を間にはさんでセルダンと向き合っていた。セルダンは何とか盾をくぐってゾノボートに剣を届かせようとしたが、その度に回転する盾にはね返された。ゾノボートが少し何かを念じると、剃りあげられた頭の呪文が浮き上がって輪になり、セルダンをからめ捕ろうと襲いかかった。それを見たブライスが、セルダンの前に身を投げ出した。ブライスの頭にはめた銀の輪がきらめいて、その呪文を吸い取るようにして消し去ったが、ブライスは短くうめくと全身をこわばらせてドオッと倒れた。ゾノボートが舌打ちしてブライスに向けて指を振ろうとしたが、銀の輪が輝いて魔法使いは一瞬ひるんだ。その隙に、わきから様子を眺めていたポルタスとタスカルの兄弟がフスツと少年に飛びつくと、ひったくるようにして後ろに下がった。セルダンは叫んだ。
「部屋から出ろ」
 三兄弟は開いたままのゾノボートの部屋の扉にから、ベリック王とフスツを抱えて転げ出るように外に逃れた。部屋にはセルダンと倒れているブライスが残った。セルダンはちらりとブライスを見て声をかけた。
「冠の守護者、おきてくれ」
 ブライスは気が付いて、よろよろと立ち上がった。
「わかってるさ、でも今のはちょっいときつかったぜ。しっかしセルダン、おまえは戦闘になると人が変わるなあ」
 セルダンはブライスを見てニヤリと笑った。
 その二人を見たゾノボートは、小刻みに体を揺らし始めた。その体から粉のような妖気が溢れ出て、霧のようなに部屋に広がった。セルダンとブライスの視界がせまくなり、部屋がゆがむような錯覚を二人は持った。ブライスがあきれたようにあえいだ。
「化け物だな、高位の黒の神官ってのは。まさしくこいつは化け物だ」
 その時、突然に回転している盾の上の何も無い空間から厳しい声が響いた。
「始めてその顔を見るぞゾノボート。なんとも醜いものよ。しかしどうやら実際に会う事無く終わってしまいそうだな」
 ギョっとしたゾノボートは、脅えるような目で楯の上の空間を見た。そこにはマルヴェスターの笑い顔の幻が一瞬浮かんで、そして消えた。ゾノボートの顔が恐怖にゆがんみ、無意識の内に背後の壁にある飾りに手をかけた。その飾りの下の壁が落ちてそこに小さな穴があらわれた。おそらく脱出口なのだろう。防御専門の魔法使いの本性がこんな所にもあらわれた。
 ゾノボートが混乱している隙に、ブライスは近くにあった燭台をゾノボートに投げつけた。ゾノボートの注意が盾とセルダンから完全にそれた。
 それを見たセルダンは、勢い良く剣を振りかぶると回転している盾の上部に叩きつけた。盾は懸命の抵抗を試みたが、セルダンは祭壇に足をかけ、渾身の力を振り絞って盾の妖気に剣を押しつけた。六つに分かれていた盾は回転を止め、やがて一つになった。セルダンは盾を押し斬らんばかりの勢いで、祭壇の上に立ち、そのまま盾ごと剣をゾノボートに押つけた。盾がゾノボートの体に覆い被さるようになり、やがて盾のまわりの妖気がセルダンに向かって包み込むように沸き上がった。しかしすかさず歩み寄ったブライスが、銀の輪を手に掲げてこの妖気を吸い取った。妖気を失った黒い盾の表面にカンゼルの剣が触れた時、空間が裂けるような激しい音が聞こえ、二つの神の宝の衝突の衝撃で、ゾオボートとセルダンは双方ともはじきとばされて、部屋の両側の壁に叩きつけられた。
 セルダンはうめいて一瞬気を失ったが、この衝撃で黒い盾の魔法使いゾノボートはついに絶命した。しかしカンゼルの剣の致命的な一撃を、直接体に受けずに済んだのはさすがに黒い盾の力だったろう。ゾノボートの肉体は滅びたがその使命は終わっていなかった。黒いゆらめきがひからびたような体から離れると、盾にまつわりついて吸い込まれるように祭壇の中央に消えた。後にはゾノボートの抜け殻が残った。ブライスが祭壇に駆け寄った。頭をふりながらセルダンが声をあげた。
「逃げたのか」
 ブライスが無念そうに言った。
「いや、魔法使いの死体はここにある。だがどうやら盾を逃した」
 セルダンは先ほどの衝撃で散乱している部屋の中に立ち、近くに転がっている瓦礫を蹴りつけた。
「そう言えば過去二回の要塞攻略の時にも盾を逃したんだ。どうしても盾を破壊できないんだ」
 ブライスはセルダンの細い体を見て、急にこの剣の守護者がまだ大人になりきっていない事に気が付いた。
「セルダン。神のお創りになった秘宝なんだ、完全な破壊は出来ない物なのかもしれないぜ。それより早く逃げよう。要塞中がそのうち大混乱になるぞ」
 扉の影で様子を見ていたフスツとベリック、カインザー人の三兄弟も部屋に入ってきた。目ざといベリック少年は、ゾノボートが無意識に開けた脱出口らしきものを指さした。
「あそこから風がくる」
 フスツが穴に近づいての中を探るように覗き込んだ。
「外の匂いがします。入ってみますか」
「行こう。要塞の中に戻るよりいいだろう」
 セルダンはそう決断を下すと、真っ先にその穴に入っていった。穴は地下室からさらに下って、要塞の地下の深い所にある通路に続いていた。こういった所でカンが働くフスツを先頭にして進んで行ったセルダン達は、やがて要塞の外に建っている小さな小屋にたどり着いた。地上に出ると、都市は大混乱に陥っていた。ようやく祝宴もはねて、眠りについた人々の元に、警戒体制の知らせが届いたのだ。しかし、要塞は事実上の指揮官を欠いていたため、その警戒警報はいたずらに人々や兵士、神官達を混乱させるだけだった。
 セルダン、ブライス、ベリックの三人の聖宝の守護者と、フスツ、アタルス、ポルタス、タスカルの七人は、都市を囲む城壁の北の出口に向かって懸命に走った。ほどなくして馬車が一台追いついてきた。御者台には、セルダン達と共にロッティ子爵のボストール城からここまで旅をしてきたロトフの部下が座っている。セルダンはまずフスツとベリックと、巨漢のブライスを馬車にあげた。やがてもう一台の馬車と、太った体を馬上で弾ませるようにして乗りこなしている、バルトール宿の主人がやってきた。
「脱出には今が絶好の機会です。都市は大騒ぎになっています」
 セルダンは三兄弟を馬車に乗せ、自分は宿の主人が乗ってきた馬に乗った。宿の主人は馬車の御者台にとび乗ると、馬に鞭をあてて北の門に走らせた。門の周辺には兵士が数人混乱した様子で立っていたが、アタルス達が馬車から飛び降りてあっという間に始末した。宿の主人はそれを見届けると、すぐさま城壁に駆け登って都市の門を開こうとした。城壁伝いに守備兵が駆け寄ってくる。あっという間に主人は兵に取り囲まれた。
「ここは引き受けました、早く脱出を。私の故郷カインザーの王子と第二の祖国バルトールの王のためならば、私もこの命を捧げましょう」
 櫓の上から宿の主人は笑って叫んだ。その声にかぶせるように兵士達の剣がきらめいた。しかし都市の北の門はゆっくりと開き始めた。セルダン達はわずかに開いた門から要塞都市を脱出した。馬を走らせながらセルダンは月光に頬をぬらした。何と多くの人を死なせてしまったのだろう。自分は、あの主人の名前すら聞いていなかったのに。
 この旅は、聖なる剣の奪還と引き換えに、若い王子に思いがけない代価を要求したのだった。
 やがて、馬を止めて要塞都市の様子を彼方からうかがったセルダン達の元に、上空から白い鷲が舞い降りてきた。巨大な鷲はセルダン達の前に降り立つと、やわらかい光につつまれ、気が付くと魔術師マルヴェスターがそこに立っていた。マルヴェスターは何も言わずにベリックの乗っている馬車に近づくと、馬車の中で眠っている少年の顔を見て驚きの声をあげた。
「おお、まさしくバルトールの王家の顔だ。本当に生きていたんだ。しかし今までどこにおったのだろう」
 セルダンは馬を寄せてロトフの最後の言葉をマルヴェスターに伝えた。マルヴェスターは不思議そうな顔をして少年の顔を見つめた。
「何としてもザイマンのバルトールマスターに会わなければならないな。しかし今はまずカインザーだ。ここから急いでクライドン神の神殿まで戻る。残された時間は少ないぞ」
 ブライスが馬車の中から声をかけた。
「このまま東に進んで海に向かいましょう。ザイマンの高速艇の速さに驚かないでくださいね。特にマルヴェスター、あなたは覚悟してくださいよ。もっとも、いつぞや俺が馬で尻を痛めていた時に、鳥になれるかどうか質問した答は出ましたね。白い鷲に変身できるって事が判明しましたから、飛んでいってくれてもいいですよ」
 ベリックの馬車の御者台に上ろうとしていたマルヴェスターは、波に揉まれる船の姿を思い浮かべて、急にけわしい顔になった。
「鳥に変身はできても距離がもたんのだ。しかしわしが行く必要は無いだろう、セルダンさえ神殿にたどり着けばよいのだから」
 セルダンは許さなかった。
「父から正式に譲られるまで、僕はまだ剣をあずかっているだけの身です。シャンダイアの相談役の知恵が必要なんです。よろしくお願いします」
 よっしゃと叫んでブライスが手を叩いた。セルダン達一行は猛スピードで東の海岸を目指した。

 魂になったゾノボートは黒い盾をかかえると、一気にソンタール帝国の首都、グラン・エルバ・ソンタールにあるガザヴォックの部屋に向けて影の空間を逃走した。同じ頃黒い秘法の魔法使いの総帥、ガザヴォックは遥か彼方で黒い盾の力が急激に弱まったのを感じていた。青い影がゆらめく広大な部屋の中で、ガザヴォックは弟子の帰還を待った。やがてガザヴォックの前に黒い盾が浮かぶようにあらわれた。続いて盾の後ろにおぼろげなゾノボートの姿が浮かび、うつろな声でささやいた。
「師よ、我が命、尽きましてございます」
 ガザヴォックは哀れむような目でゾノボートの魂を見つめた。
「失策じゃのう。だがまあ仕方あるまい、カインザーはしばらく入り口を封じておけばよいわ。セントーンを落としてからゆっくりと片づける」
 そう言うと盾とゾノボートの魂に背を向けた。ゾノボートの魂はすがるような目でガザヴォックの後ろ姿を見つめていたが、やがてグラン・エルバ・ソンタールを囲む六つの塔の一つである盾の塔に戻った。
 魂だけになってしまったが、ゾノボートがここに戻ってくるのは数百年ぶりの事だった。魂は塔の最上階のがらんとした部屋の中央で盾を手放すと、盾は空中でゆっくり数回転して浮かんだまま止まった。ゾノボートの魂は部屋のはずれにある座布団の上にゆっくりと収まると、盾に向かって残っている己の持つ妖気のすべてを注ぎこみはじめた。
 やがて魂すら尽き、ゾノボートの存在はこの世から消滅するだろう。その時、盾は力を取り戻し、次の魔法使いの手に渡される事になるはずだ。カンゼルの剣で倒されたゾノボートの前任者がこれをしなかった事が、ゾノボートにはいまさらながらに悔やまれた。

−−−−−−

 トルソン侯爵を破って心地よい眠りについていた、要塞第二位の魔法使いブアビットは、深夜に突然湧き起こった騒音に驚いて飛び起きた。天幕の外から異様なざわめきが聞こえてくる。あわてて外に飛び出したブアビットは、とかげ兵ブールが狂ったように走り回っている光景にでくわした。中には四つ足で駆け回っているブールもいる。ブールにかかっていた魔法が解けたのだ。
 ブアビットは懸命に頭を働かせてみた。どう考えてもゾノボートの身に何かが起こったとしか考えられない。いやブールが先祖返りを起こすまでに魔法が消えたのなら、死んだと考えるしか無いだろう。ブアビットは半狂乱になってブールの収集にかかろうとしたが、とかげ兵を操ることはできなかった。ブアビットはすぐれた魔法使いだが、ブールはゾノボートを追放して、盾の力を手に入れて得てから押さえつければいいと思っていたため、自分だけの力で従わせる訓練をしていなかったのだ。
 声をあげない巨大なとかげの足音が大地をゆるがした。ブアビットの陣から四散していく巨大なとかげの群れは、この日の日中までは味方であった神官兵部隊や傭兵部隊の野営地にもなだれ込んで行った。ブアビット指揮する七万の要塞軍は、勝利の夜に突然大混乱に陥った。
 星空の下で傭兵達に混じって寝ていた傭兵隊長ガッゼンは、この騒ぎにすぐに気が付いた。ブアビットを見張っていた部下が駈け込んできて、ブアビットが半狂乱になってブールの収集にかかっている事を知らせた。しかし、その努力はどうやら無駄に終わりそうらしい。ガッゼンは即座にブアビットを見捨てる決意をした。そして自らが指揮する傭兵部隊に、全速力でこの戦陣を離脱する事を指示した。走り回る狂ったとかげに混じって、昼間の戦闘で二万人近い数に減っていた傭兵部隊は、迅速に夜の闇に消えていった。
 
 夜が明けた。敗戦に意気消沈して要塞軍と対陣していたカインザー軍に、ロッティ子爵の偵察部隊の報告が届いた。そして、一夜にして要塞軍の三部隊のうち、ブール部隊と傭兵部隊が消滅している事が知らされた。聡明なロッティ子爵は、昨夜巨大なとかげが数十匹程狂ったように自陣に走り込んできた時点で、ある程度のこの事態は察していた。そしてすぐにトルソン侯爵とベロフ男爵を呼んだ。
「どうやらセルダン王子が黒い盾の魔法使いゾノボートを倒したらしい。とかげ兵ブールが先祖返りをおこして、ただのとかげに戻った。敵軍は崩壊した、今残っているのは二万足らずの神官兵だけだ」
 昨夜飲んだ酒の匂いをプンプンさせている豪傑トルソン侯爵は、いまいましげに包帯だらけの腕をふりまわした。
「ブールが消えたのか。それなら俺の出番では無いわい。ロッティ、神官ごときさっさと蹴散らしてしまえ」
 ベロフも機嫌が悪かった。
「ガッゼンはどうした。あの継ぎはぎだらけの傭兵隊長を逃がしてはいかん。今からでも追いかければ間に合うだろう、ロッティすぐに馬をかしてくれ」
 しばらく二人の友人を見つめていたロッティ子爵は、黙って馬を二頭引いてこさせた。
「一頭ずつやる。静かに俺の戦いを見物して頭を冷やせ」
 そう言うとすでに準備を整えていた二万の軽騎馬兵に出撃を命じた。ソンタール軍との距離は半日だったが、ロッティ子爵の軽騎馬軍団はそれを数時間に縮めた。そしてカインザー最速の攻撃部隊は、撤退最中の神官兵の部隊に背後から猛然と襲いかかった。
 そこから先はカインザー側の一方的な殺戮になった。神官兵達は巻き起こす砂塵を盾に懸命の抵抗を試みたが、ロッティ軍はその風をけ散らして神官達を血祭りにあげていった。しかし、馬のスタミナにも限界があるため、要塞軍はかろうじてその半数を失った形で安全圏に逃れられそうな形勢だった。その時、ロッティは要塞軍の最後尾で指揮をしているリーダーらしき神官の姿を認めた。
「あっぱれ。自軍を逃がすために指揮官自らしんがりをつとめているとは。神官にしておくにはもったいないぞ」
 呼びかけられた神官は振り向いて答えた。
「ゾノボート様が死に、ブアビットめは先頭に立って逃げておるわ。情けなや、バステラ神の威信を守るのはどうやら俺一人らしい。そこな貴様はロッティ子爵とみた。西の将の要塞、第三位の魔法使いズグルがお相手いたす」
 ズグルが両腕を上げると、腕にまつわりつくように砂が巻き上がった。その長い砂の鞭を振り回して、ズグルはロッティの馬に駆け寄ってきた。砂の鞭の一撃は馬の胴をとらえ、ロッティの馬はおびえて後ろ足で立ち上がった。さすがの馬術の名人ロッティもこれにはもんどり打って地面に転げ落ちた。そこをズグルの二撃目が襲った。落馬した時の訓練も積んでいるロッティは素早く飛びのくと、なんとかズグルとの間合いを詰めようとしたが、伸縮する砂の鞭がそれを許さなかった。
 ズグルの鞭が伸びてロッティを捕らえようとしたその時、鞭を粉砕するように、大きな盾を横に構えたベロフの乗った馬が二人の間を駆け抜けた。ロッティはこの隙を逃さずにズグルの間合いに飛び込むと半月刀を魔法使いの脇腹に突き立てた。魔法使いは静かに笑って息を止めた。こうして西の将の要塞の北面軍は壊滅した。ブアビットはわずかに一万の神官兵のみをひきいて空き家同然の要塞へ逃げ帰った。

 ゾノボートの死は生き残ったブアビットによって、レンドー城を囲んでいるマコーキン軍に従軍している、第四位の魔法使いキゾーニにも伝えられた。この事を知らされたマコーキンはすぐさま参謀バーン、バルツコワ将軍、魔法使いキゾーニを集めて作戦会議を開いた。マコーキンの幕営の中は異様な緊張に満ちていた。その空気を押し分けるように、バーンがまず口を開いた。
「マコーキン様。すぐに作戦を中断させて要塞に帰還するべきです。ブアビット殿が無事要塞にたどり着いたとしても、一万五千の神官が立てこもる要塞など、トルソン、ロッティの連合軍の前にすぐに落ちるでしょう。そうなれば我軍はここで挟み打ちにされてしまいます」
 赤い顔のバルツコワが机を叩いてこれに反論した。
「それはオルドン王の軍が健在ならではの話だ。ここで我々がオルドン王を討ち取ってしまえば、その先にいる兵など物の数では無い。今度はこちらがケマール川を楯にしてトルソン軍と戦えばいい」
 しかしバーンも引かなかった。長い戦場暮らしでようやく見つけた、マコーキンという宝石のような逸材を死なすわけにはいかないのだ。
「まだマイスター城の兵とクライバー男爵が残っている。カインザーの底力を甘く見てはいけない」
「クライバーはテイリンのゾック共と追いかけっこをしているそうではないか。あの頼りなげな魔法使いもけっこう役に立っているわい」
 マコーキンはバーンに聞いた。
「カンゼルの剣を取り返したとすればそれは王家の者だ。オルドンの息子に違いないが、まだ若いはずだな」
「王子の名は確かセルダンと言います。おそらくまだ十代でしょう。しかし翼の神の弟子マルヴェスターがついております。我々がオルドンを倒しても、トルソンはセルダンを王として軍勢を集めるでしょう」
 バーンは一番気になっている事をキゾーニい聞いた。
「とかげ兵ブールはどうです。ブアビット殿が北の戦場で率いていたブール部隊は、ゾノボート様の死と共に先祖返りしたそうですが」
 それまで黙って軍議を聞いていたキゾーニは、ここで満足げにニヤリと笑った。
「ブアビットはゾノボート様のブールを借りて威張っていたに過ぎません。私は自らの力でブールを支配しています。この軍に参戦しているブールは問題なく戦闘に参加できます」
 マコーキンがバーンに確認した。
「サルバンの野のキアニスはどうしている」
「見事に占領地域を確保しています。オルドン王を討つにしても、退却するにしてもキアニスにサルバンの野で戦闘を行う準備をさせましょう」
 マコーキンはこの答えを聞いて決断した。
「よし、オルドンを攻める。過去の西の将と同じ道を歩む必要は無いだろう。ここまできたのだ、前に出て戦場で結果を出そうではないか」
 この言葉にバルツコワとキゾーニは同時に賛同の声をあげた。バーンはしばらく考えていたが、キゾーニに向かって聞いた。
「貴殿のブール部隊の、レンドー城内の池への侵入が完了するのはいつぐらいになるのでしょう」
「今晩には完了します」
 バーンはマコーキンに進言した。
「現在レンドー城はバイルン子爵の軍を加えて兵数において攻める我々をはるかに上回っています。攻めて来ないのは、野戦では不利だという判断からでしょうが、すぐにゾノボート様の死を知るでしょう。攻めるとすれば明朝。攻撃は一か所に集中して一気に城門まで突破するべきです」
「わかった。それでは明朝。レンドー城への総攻撃をかける。万が一のためにキアニスに伝令を送って、軍の進路に沿ってサルバンの野に防衛陣地を築くように伝えておけ」
 マコーキンはそう指示して会議を終了した。

 翌朝、ケマール川特有の濃い霧の中をバルツコワ将軍とバーン参謀が率いる先鋒隊がレンドー城へ殺到した。カインザー軍は兵数こそ多かったが、主を失ったばかりのベーレンス軍に覇気が無く、バイルン子爵の軍も城の守備戦には不慣れだったため、いたずらに層を厚くして布陣していた。その層がバーン率いる弓兵と砲兵部隊の攻撃と、バルツコワの重騎馬軍団の突撃でまたたく間に圧倒された。カインザー軍が崩れたのを見計らって、マコーキンの主力部隊が城の前庭ともいえる平地を制圧した。
 カインザー軍はレンドー城と、それを囲む山々に布陣して守りの体制に入った。カインザー側の目的はマコーキンをここに釘付けにしておく事であり、この形でにらみあっていれば、そう簡単にマコーキン軍がレンドー城から先に進めるはずは無いのだ。
 しかし、ソンタール軍は思いがけない所からレンドー城の切り崩しにかかった。レンドー城の中庭にある池から這い上がったブール部隊は、またたく間に中庭に展開した、そしてかねてから打ち合わせておいたレンドー城の西側、マコーキン軍が攻め寄せている側の城門に向かって城の内部から攻撃にかかった。
 内側からの予期せぬ襲撃にカインザー軍は混乱した。頑丈なブールは守備兵を次々となぎ倒し、兵が持っていた剣を奪い取ってあっという間に城門を内側から開いた。開いた門から赤い鎧のバルツコワ将軍が待ちかねたといった勢いで城内に突入した。こうして、城全体を舞台にした乱戦が始まった。
 レンドー城の本丸を囲む城壁の上には碧眼のバイルン子爵が剛弓を引き絞って奮戦していた。本来、カインザーで唯一の海戦や輸送の指揮官として才能を発揮していたバイルンだったが、個人としての戦闘能力は、さすがにカインザーの九諸侯の一人らしく極めて高かった。その剛弓と、オルドン王の精鋭部隊によって、本丸はなんとか持ちこたえていた。高い位置から戦況を見渡したバイルンは、司令室のオルドン王の元に一旦城を捨てる案を持たせて伝令を走らせた。しかし、オルドン王はこの考えには見向きもしなかった。すでに二回。マコーキンに完敗しているのだ。三度敗れればオルドンは王として、戦士の大陸に君臨することができなくなる。
 ついにオルドン王は自ら剣を振るって三度戦場に立った。王を中心とした精鋭部隊の死にもの狂いの反撃に、マコーキン軍は城門をあけながらも、なかなか城内に本体を突入させることができなかった。中庭では孤軍となったブール部隊がじりじりと池に追いつめられていた。
 オルドン王の戦いぶりを、ブールの後方で眺めていたキゾーニは、その戦闘力の凄まじさを目の当たりにして舌を巻いた。最初に中庭に忍び込んだ夜に、暗殺の機会をうかがわなかったのはうかつだった。黒の神官らしくも無く、まともに戦いを挑んだのが間違いだったかもしれない。
(どうやらこの俺とした事が、マコーキンの潔さに影響されてしまっていたらしい)
 キゾーニは苦笑しながらブールに退却を命じた。せっかく自分のものになったブールを、これ以上減らしたくなかったのだ。ブール達は中庭の池から城外へ脱出して行った。
 城門をめぐる戦いも、次第に城軍が数の優位さを活かして押し返し始めていた。バーンは戦いの流れを読みながら、勝負はあったと思った。見ると前方でバルツコワ将軍が血みどろになりながら奮闘している。
「バルツコワ。退却だ、どうやら潮時らしい」
 バルツコワは槍を振り回しながら答えた。
「それは西の将のお言葉か」
 バーンは舌打ちして、マコーキンに伝令を走らせた。マコーキンも退却を承知し、ついにソンタール軍は門外に退いた。やがて夕焼けに空が燃える頃、マコーキン率いる要塞軍は城から完全に兵を引いた。夕陽に染まる城を見上げながら、マコーキンは悔しさに何年ぶりかの涙を流した。いましばらく、ここで腰を落ち着けて戦えればオルドン王を倒せたのだ。返す返すもゾノボートの死が悔やまれた。
 バーンとバルツコワはマコーキンの心を察するかのように、黙々と自軍の先頭に立って兵を城から遠ざけた。すでにキゾーニはブールを率いてケマール川に消えている。ソンタールまで泳いで戻るつもりなのだろう。マコーキンはその事にホッとしていた。あのブール部隊は今後もソンタール帝国のために戦うことができる。ゾノボートとブールの両方を失ってしまっては、西の将の勢力の回復に時間がかかり過ぎる。
 撤退を決意した以上、要塞軍には時間が残されていなかった。オルドン王はすぐにゾノボートの死を知るだろう。ここで挟み撃ちにあっては全滅してしまう。マコーキン軍はその夜のうちにケマール川を渡った。今度は橋を壊すのがバーンの役目になった。翌朝オルドン王は、凄絶な様相を呈した城を見回っている最中にゾノボート死す、という伝令鳥の知らせを受け取った。オルドン王はすぐにバイルン子爵に命じて、マイスター城のアシュアン侯爵と連携して、西の将の要塞までの補給路を確保する作戦の準備に取りかからせた。
 数日後、オルドン王は自らの直属部隊、戦死したベーレンス家の軍、バイルン軍の三軍を率いて、サルバンの野に兵を進める事になった。補給作戦の責任者はバイルン子爵。不在のクライバー男爵が率いていた三万の兵がその指揮下に入る、クライバーも戻り次第、バイルンの指揮下に入ることになっていた。
 闘争心旺盛なクライバーが要塞攻めに参加できないと知れば、荒れ狂うのは目に見えていたが、オルドン王にしてみればこれも命令違反の罰の一つのつもりだった。カインザー屈指の戦士を要塞攻めに参加させずに済むと思われる程、カインザー軍には余裕が出てきていた。
 出撃の朝、オルドン王はバイルン子爵を呼んだ。青い目の大柄な子爵は、やわらかい布の服であらわれた。
「おそらくこの二週間以内にセルダンがここを通るだろう。よくやったと誉めるとともに剣を頼むと伝えてくれ」
「わかりました。王子に伝えましょう。しかし、もう一人来るかもしれない者がいます。クライバーはどうしますか」
 オルドンはすでに心を決めてあった。
「命令違反は後に厳しく処罰しよう。しかし結果的にあの男のおかげで後方を気にせずに戦えた。亡きマイラスに免じよう。セルダンの護衛にまわるように伝えてくれ」
 そう言い残したオルドン王は、青の王旗とともに堂々と北上の途についた。

(第六章・最終章に続く)


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