『私の菜』

児島 康子

 ある日突然、お米が研げなくなった。
 今まで意識もせずにこなして来た作業が、突然私の頭からぽっかり抜け落ちた。必死になってあのリズムを思い起こそうとするが、白いお米は手の中でぐずぐずと崩れて行くようで、その感触に耐えかねて、仕方なくその日は泡立て機でお米を研いだ。
「なんか今日の御飯、変だぞ。粒がつぶれちゃってるじゃないか」
 遅くに帰って来た夫が、食事をしながら不服そうに言う。
 文句を言いたいのはこっちだ。今夜の御飯がまずいのはあなたのせいでしょ。私がお米を研ぐこともできないくらい混乱しているのは、今日、夫の会社の同僚からかかって来た一本の電話のせいなのだ。
「ねぇ、松村かおりって知ってる?」
「ああ、同じ部署の女の子だよ。どうして曜子が松村のこと知ってるんだ」
「さっき、彼女から電話があったのよ」
「え、うちにか。仕事のことなら携帯電話にかければ良いのにな」
「いったいどういう子なの」
「どういうって?」
「あの子、失礼ったらないわ。私が電話に出たらいきなり、『雅彦さん、いますか』よ。意味もなく、くすくす笑っちゃって」
「ああ、あいつ、まだ二十歳(はたち)そこそこだよ。短大を卒業したばかりで、まだちょっと学生気分が抜けてないんだ。それぐらいの歳の女の子って、ちょっとしたイタズラだとか秘密作ったりするの好きだろう」
「何だか知らないけど、私すごく不愉快だったわ」
「ほっとけよ。十歳も年下のガキ相手に真剣に怒るのはバカバカしいぞ」
 なぁ、プチ。夫は足下に座っているペットのチワワを抱き上げると、新しいビールをとりに席を立った。
 違う。そういうのじゃない。
 松村かおりと名乗ったその若い女性は夜七時過ぎに電話をかけて来て、夫は帰っているかと訊ねた。まだだと私が答えると、彼女はくすっと受話器の向こうで笑って、そして言ったのだ。
「奥さんのつくる卵焼って、甘くないんですね」
 それきり切れた電話の受話器を、しばらく私は置くことができなかった。
 なぜ松村かおりはそんなことを知っているのだろう。私とは何の面識もないのに。そして、なぜわざわざ私にそれを話すのだろう。いったい私にどう思わせたいのだろうか。
「おい、何考え込んでるんだよ」
 夫がビール瓶をテーブルに置いて、背後から私の肩に両腕を回した。今これ以上、夫に文句を言っても無様なだけな気がして、私は夫の腕に頭を預けて、ただ「別に何も」とだけ答えた。

 翌朝、『今日も遅くなるから』と言いおいて、夫は勤めに出かけて行った。結婚以来、夫の帰りが早い日など数えるほどしかなかったから、今ではもう慣れっこになってしまった。
 中堅商社のエリート営業マンとして働く同い年の夫と、友人の紹介で知り合い結婚して四年が過ぎた。子供にはまだ恵まれないが、仲の良いモダンな若夫婦として、ご近所や友人の評判は良かった。私自身も、ニッターとしてプロのニットデザイナーから作品の製作を請け負い、仕事はすこぶる順調だった。可愛いペットのプチもいる。白い長毛種の雌のチワワで、表現豊かな賢い犬だ。
 けれどここに来て、私の中で何かが急速に熱を失いつつあるのを、私は感じていた。

 その日の午後、近所に住む増井さんがうちにやって来た。増井さんは、このあたりでは唯一の歳の近い友人である。
「お米なんて研げなくても問題ないわよ。最近、研がなくて良いお米って売ってるじゃない」
 そう言って、増井さんは大声で笑った。長身で小麦色の肌に大きな目。南洋系とも言える容貌をした彼女は性格も大らかで、私は彼女の明るさにいつも救われていた。増井さんも夫と二人暮らしだったが、旦那様は彼女より恐らく三十歳は年上と思われた。不思議なことに、彼女は決して自分の年齢を明かそうとしない。
 以前、増井さんに年齢を訊ねたことがある。私の質問に、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
「私? 六十八よ」
「もぉ、嫌だ! 冗談ばっかり言って」
 私が半ば本気で怒ると、増井さんは楽しそうに大声で笑った。ふっくらとした赤い唇。頭を揺らすたびにふわりと舞い上がる豊かな髪。どう考えても、三十歳以上には見えない。六十八歳だなんて、自分の美しさを知っているからこそ口にできる冗談だ。
「ごめんごめん、でも夫は間違いなく六十八歳よ」
「そうなの、旦那様ももっとお若く見えるわ」
 これは本心からだ。繁華街のビルの一画で小さな貿易会社を経営している増井氏は、体格が良く髪も豊かで、とてもダンディで若々しく見えた。私には増井夫妻こそが、地に足のついた『理想のカップル』に見えた。人生に成功した夫と奔放に見えて知的なその若妻。年齢差すらもお互いの個性として、尊重しあっているように私には思える。私はあらためて、この華やかな友に羨望を感じた。
「曜子さん、どうしたの。考え込んじゃって」
 増井さんの声で、私は物思いから引き戻された。
「お米が急に研げなくなるなんて、何か心配事でもあるんじゃないの。私で良かったら相談にのるわよ」
 増井さんが、純粋な親切心から相談相手を申し出てくれているのは分かる。たぶん彼女に、昨日の松村かおりの電話の話を聞いてもらえば、少なくとも私の気持は晴れるはず。でも私には言い出せない。今の穏やかな生活の危うさを、自分自身で口にするのが恐かった。
「ううん、大丈夫。なんでもないのよ」
 私はそう言って笑顔を作ってみせた。それを見た増井さんは、不服そうに下唇を突き出した。
「何よ、心配して言ってるのに。あなたの悪い癖よ、自分の考えを表に出さないのって」
「そんなことないわよ」
「そんなふうに何でも自分の中に溜め込んでると、今にお腹の中でガチガチに固まっちゃうわよ」
 ねぇーっと、増井さんは足下を通りかかったプチを抱き上げて、同意を求めるように、その鼻先に自分の鼻を擦りつけるふりをした。
「あら、失礼。電話だわ」
 いきなり鳴り始めた電話に驚いたプチが、増井さんの膝から飛び下りる。私はリビングと間続きのダイニングルームにある電話をとった。
「もしもし」
 プチが玄関の方まで走って行ってしまうのに気をとられて、受話器の向こうの相手が何も答えないことにしばらく気がつかなかった。
「もしもし」
 もう一度話しかけると、受話器から女性の吐息が聞こえて来た。
「どなたですか」
 私の声にいらだちが混じり込んだのかも知れない。電話の相手はくすくすと耳障りな笑い声をもらすと、そのまま電話を切った。
「あ、ねぇ!」
「どうしたの。イタズラ電話?」
 リビングから増井さんが訊ねる。
「ええ、嫌ね。私が出たら何もいわずに切っちゃったわ」
「何か猥褻なこと言われるよりはマシよ」
 増井さんの極端な見解に笑おうとした瞬間、ずきっと射し込むように胃が痛んだ。痛みを我慢できずに顔をしかめると、それを見ていた増井さんが黙って私の髪を撫でた。
 
 増井さんが帰ったあと、私はやりかけの仕事を取り出して、自分専用の椅子に腰を落ち着けた。編み物のペースが安定して来ると、手を動かしながら、意識は別のところへと飛んで行く。
 いったいさっきの電話は何だったのだろう。ただの間違い電話だと思ってしまえば、気が楽だ。それができないのは、受話器の向こうに聞こえた、あのくすくす笑う声。昨日聞いた松村かおりの声によく似ていた。だいたい何だってあの娘、あんなふうに笑うのだろう。人を小馬鹿にしたみたいに……。
 夫の帰らない夜の時間を、私はひたすら編み棒を動かせて紛らわせた。このペースなら、納品予定日よりも少し早くに仕上がるかも知れない。編み物に熱中する私の頭の上を、テレビの音声が滑るように流れて行く。どうせ画面は見ないのだから、仕事中はラジオを聞けば良いだが、目の前で明滅する光の様子が心地良くて、いつもテレビのスイッチを入れたままにしてあるのだ。女性タレントの空々しい笑い声が、かおりのくすくす笑いに聞こえて、私の胃の辺りがきゅっと絞まる。痛い。それでも編む手は休めない。
 キャン!
 プチの鳴く声がした。見ると、プチが足下にちょこんとしゃがんで、不安げな顔で私を見上げている。
「ごめんね、心配してくれたのね」
 頭を撫でてやると、プチは気持良さそうに大きな目を細めた。

 「ねぇ、雅彦さん。今日のお弁当の照焼き、どうだった?」
 会社から帰って来て着替えをしていた夫が、私の問いかけに一瞬口籠る。
「あ、ああ。まぁまぁだったよ」
「どういう意味? まぁまぁって」
 私はちょっと冗談めかして、夫の顔をにらみつけた。
「お弁当箱、出しておいてね。早く洗わないと、食べかすが腐っちゃう」
 また夫が一拍、間をおいた。
「あ、俺、洗って来たよ」
「え、どうして?」
「どうしてって、そりゃ……」
 不自然な間があくのを、私は笑顔で受け流す。こんなにばつの悪そうな顔をしては、嘘をつこうとしているのが、一目瞭然だ。
「なんだか気持悪いって思っちゃったんだよ。汚れた弁当箱を夜まで鞄の中に入れておくのがさ」
「ふうん、雅彦さんにしちゃ、いやに神経質なんだ。家じゃ流しにお茶碗が汚れたまま置いてあっても、全然平気なくせに」
「何からんでるんだよ。大したことじゃないだろう」
 夫は奮然と私を睨むと、大袈裟にテレビの野球中継の方に向き直って、話を打ち切ろうとする。 
「なんだか挙動不振よね。会社の女の子からしょっちゅう電話はかかって来るし」
 私はわざと茶化すように続けた。
 本当だった。あの夜から松村かおりは、何かと理由をつけては、何度も家に電話をかけて来るようになっていた。そのたびに胃がじくじくと痛むのを、私は努めて夫に気取られぬようにした。そのせいか、夫もあまり私に気を使わずにかおりの電話に応えた。私に後ろめたく感じることは何もないというのか。私には夫の本心を量りかねていた。
「くだらない勘ぐりするなよ。そんなふうに言うなら、もう弁当なんかいらない!」
 いつもなら私の小言を笑って受け流す夫がいきなり声を荒げたので、私ははっと息を飲んだ。その様子に夫は我に返ると、慌ててその場を取り繕おうとした。
「ウソウソ、弁当はありがたいよ。俺の今の小遣いじゃ毎日外食なんかしてたら、月一回のゴルフに行けなくなるじゃないか。本当に何も意味はないんだって。俺が弁当箱を洗って帰って来た方が、曜子だって助かるだろう?」
 そう言われて、私は渋々うなづく。夫に松村かおりとのことを問いただすなら今しかないと思いながら、なぜか力が出ない。
 そもそも、雅彦とかおりは私が考えているような、つまり男女の関係にあるのだろうか。男性社員が、気の合う若い女性社員を特別扱いするのは、どこの職場でもよくあることだ。もし夫の場合も同じケースなら、いちいち目くじらをたてたって仕方がない。
 けれどその一方で、職場で自分に優しい男性社員のことを、自分に気があると思い込む女性は多いだろう。熱心に恋を探している若い無邪気な女子社員ならなおさらだ。結婚前の私の短い会社生活の中でも、そういう同僚はいた。四六時中、口を開けば結婚退職への憧れを口にしているタイプ……。松村かおりがそんな女性でないとは、決して言えないのだ。

 夫が弁当箱を会社で洗って帰って来る謎は、ほどなくして解けた。
 その日、夜遅くに疲れて帰って来た夫は、鞄を置くのもそこそこに、シャワーを使いに行ってしまった。
「しょうがないわね」
 私は夫の鞄を拾い上げ、弁当箱だけを抜き取って、寝室に置きに行った。台所に戻って包みを開くと、布の間から小さな紙切れがひらりと床に落ちた。拾い上げるとそれは、パステルカラーの花模様が一面に描かれた名刺大のメモだった。手書きのメッセージの横には、若い女性のプリクラ写真が貼られている。メッセージを読んで、私の胸はずきんと鳴った。
『奥さんのより、私のつくった卵焼きの方がおいしいでしょ』
 松村かおりだ。なぜ彼女のメッセージがこんなところに入っているのだろう。
 一瞬混乱した頭の中が、少しずつクリアになって来る。夫がかおりのつくった卵焼きを食べたのだとしたら、この弁当は別の人間が、たぶん松村かおりが食べたのだろう。そして量が多くて食べ切れない分は捨てて、弁当箱を洗って返していたのだ。これが一番筋の通った説明ではないか。おそらく夫が弁当箱を洗って帰るようになった頃からずっと、私のつくった弁当とかおりの手製の弁当とを交換していたのだろう。
 いきなり胃の中を突き刺すような痛みが走った。その激しさに私はその場に座り込んだ。しばらくの間、床に両手をついたまま、動くこともできずにいた。夫がバスルームから出て来る物音がした。私は立てないながらも、何とか片腕を延ばしてカードを流し台の引き出しに滑り込ませた。ほどなくして、ダイニングのドアが開く。
「おい、どうしたんだ」
 胃を押さえて床に倒れ込んでいる私を見つけて、夫が駆け寄って来た。私は隣にしゃがみ込んだ夫の腕をつかむ。
「苦しいのか」 
 心配そうに私を覗き込む夫の顔がたまらなく憎らしくて、私は夫の腕をつかんだ手に力を込める。
「おい、大丈夫か」
 私の力に驚いた夫が大声で聞いた。
「大丈夫よ、もう治まるから。近頃よくあるの」
「医者に行かなきゃ。そんなに痛いなんて、胃潰瘍か何かじゃないのか」
 しだいに薄らいでいく胃の痛みに安堵しながら、私は増井さんが言葉を思い出していた。
『そんなふうに何でも自分の中に溜め込んでると、今にお腹の中でガチガチに固まっちゃうわよ』

 翌日も、その翌日も夫の持ち帰った弁当包みの中には、かおりからのメッセージが包み込まれてあった。
 メッセージの内容は、どれもその日のおかずに関することだった。甘えるように『私のつくるものの方がおいしいでしょう』という内容の言葉を書き綴るかおりのメモからは、女性特有の子どもじみた競争心がうかがえて、やり切れない気分になった。
 かおりが一方的に言い寄って来るのを、優柔不断な雅彦が拒絶しかねているのだろうか。妻の立場としては、そう考えたい。でももし、雅彦もかおりのことを真剣に考えているのなら……。そのうち雅彦が、かおりのために私を捨てることもあるのだろうか。
 思えばここ一〜二ヶ月、夫の行動に不自然な点があるのに気づきながら、私は強い態度で夫に事を問いただすことをしなかった。
 私たちの結婚は、もともと熱にうかされるような恋ではなく、お互いに現実や将来をよく見据えた上で納得し成立したものだ。結婚生活に慣れると、それまでわからなかった夫の嫌な部分がいくつも見えて来たが、あきらめはあっても失望はなかった。そのうえでなお雅彦を人生のパートナーとして生きることに折り合いをつける課程で、私のもっとも女性的な部分での夫への執着は失われていた。
 私は愛する男性を失うのを恐れるのでなく、今の穏やかな生活を失うことだけを恐れていたのだ。私は自分自身が思い至ったこの結論に愕然とした。我ながらなんて嫌な女なんだろう。

 昼間には、毎日のように無言電話がかかって来た。私が受話器をとると、相手はくすくす笑いを残して通話を切ってしまう。好きな男の妻が憎くてしていることか、それとも自分のものになった男の妻を嘲笑っているのか、どちらにしても私には苦い気分が残った。
 一度はうちに遊びに来ていた増井さんが電話をとった。
「呪われてしまいなさい!」
 無言電話に憤慨した増井さんは、受話器に向かって吠えるように言い放つと、電話を乱暴に切ってしまった。電話の向こうで、かおりはさぞかしびっくりしたことだろう。
 私に増井さんのような態度がとれれば、少しは気が晴れるのかしら。なぜ私は冷静で思慮深い妻を演じているのかしら。本当は夫にもかおりにも思いきり毒づいてやりたいのに。でも本当にそうしてしまえば、一番傷つくのはこの自分だ。私がかおりの所行に煩わされているとは、絶対に彼女に感じ取られたくなかった。

 そんなある夜、八時頃に雅彦から電話が入った。今日中に片付ける必要のあるクレーム処理の仕事ができたから、今夜は会社に泊まり込むという。
“残業なんて本当かしら”
 胸の隙間にひょっこりと顔を出す疑念を気取られぬよう、手短かにねぎらいの言葉をかけて、私は電話を切った。これまで帰りが遅いことはしょっちゅうでも、徹夜作業で帰れなくなることはなかった。
 さすがに気持が重くなる。こんなことなら、もっと夫婦の結びつきを固める努力をしておくのだった。これまで二人ともまだ若いからと、子どもを持つことを先に延ばして来たのだ。もし私たちに子どもがいて、夫婦というユニットの莢としての家族という形態が確立していれば、今感じているような虚無感に苛まれることもなかったかも知れない。
 その夜は、うっかり仕事をしながら椅子の上で寝入ってしまった。その眠りの中で、私は夢を見ていた。
 夢の中で、私は妊娠していた。大きなお腹を抱えて、生まれでて来るものへの期待に胸を膨らませている私。ゆったりとした産着にくるまれた赤ちゃんを抱いている私。なぜだか私の隣には、やはり赤ちゃんを抱いた松村かおりが立っている。不安になって、産着の中の子どもの顔を覗き込むと、そこには赤ちゃんの代わりに黒い大きな塊が入っている……。
 はっとして飛び起きる。なんて夢を見たのだろう。きっと胃が重い感じがずっと続いているからだわ。そのとき、急に電話が鳴ったので、私はもう一度びくっと体を震わせた。午前二時。雅彦からだろうか。
「もしもし」 受話器をとったが、相手の反応がない。
「かおりさん……?」
 私はそっと聞いてみた。話しかければ負けだとは漠然とわかっていても、聞かずにはいられなかった。さっきの夢の後では、私は自分で考える以上に動揺していた。もしかしたら、いや、実は憶測していたとおり、雅彦はかおりと今一緒にいるのか。
 受話器の向こうからくすくす笑いが漏れて来る。それを聞いて、恥ずかしさと悔しさがどっと込み上げて来た。
「いい加減にして。いったい何が欲しいの。私をどうしたいの!」
 私は受話器に向かって怒鳴り声をあげていた。受話器の向こうのくすくす笑いが、高笑いに変わる。そのまま通話が切れた。
 思考はちりぢりになり、体中が沸騰している。気がつくと私は肩で息をしていた。
 もうたくさんよ。そんなに雅彦がほしいなら、くれてやるわ。こんなに仕事しか能のない男だとは、結婚前には思いもしなかったの。三十歳そこそこで、唯一の趣味がゴルフですって。あの人の“社会”はけっきょく会社の中だけ。『優しい男性』だなんて、笑わせないで。外面が良くて優柔不断なだけなのよ。あなたみたいに寄りかかることしかできない女性を支える技量なんてあるもんですか。
 ただね、私が結婚生活に費やした四年間を、あなたごときの横槍のせいで終わらせるのは、我慢できないわ。四年間に築いた二人のささやかな財産、この小さな一戸建ての家、社会的な信用、夫の両親から得た信頼……。全部、私が努力して手に入れて来たのよ。あなたなんかのために棒に振ってなんかやるもんですか。絶対に嫌だわ!
 またいつもの感覚にとらわれ始めた。黒い、何かじくじくしたものが胸から腹の内部にしみ出す感じ……。
 突然、胃のあたりにぐっと突き上げるような感覚があった。続いて、身を貫くような痛みが胃から全身に走った。
 尋常のものではない痛みに、胃を押さえたまま私は床に倒れ込んだ。二つ折りになって床に横たわる私の胃から喉元に向かって、何かがぐいぐいとせり上がってくる。痛さと苦しさに胸元をかきむしるが、その何かが動きを止める気配はない。私の胃から上のすべての器官を押しつぶすように進むその物体は、喉のあたりまで来て、さらにぐりぐりとうごめき始めた。恐怖のあまり叫ぼうとするが、喉が詰まった状態では声を発することもできない。
 いきなり、ずっぽりとその物体が私の喉から口の中に飛び出して来た。私はそれを一気に吐き出した。それのあまりの大きさに唇の両端が裂けたが、それでもその物体は私の口から床の上にごろんと転がり落ちた。私の涙と唾液も一緒にボタボタと床の上に落ちる。
「助かった……」 ぼんやりと私は考えた。
 ようやく落ち着いた私は、床の上に胃液や唾液にまみれて転がっているその物体を呆然と眺めた。
 黒い大きな桃の種のような形をしたものが、そこにあった。こわごわ手を触れて持ち上げようとすると、それはぽっかりと割れて、中からさらに小さな花の種のようなものがあたりに散らばった。
 これが何であるのか、私は瞬時に理解した。
 私が心の中に溜め込んだ不安や恐れや憎しみや嫉妬、それに怒りは、今こうして私の体を離れた。

 翌朝、私は自分の体から出て来た種をプランターに蒔いた。これが本当に何か植物の種なら、どんなものが育つのか見てみたかった。
 素焼きのプランター二つに種を蒔き、玄関ドアの両サイドに飾る。モダンなイメージを意識した玄関の装飾が一段と引き立つ気がして、できばえにしごく満足する。けれど私を探して玄関先に飛び出して来たプチは、プランターの匂いを嗅ぐと、怯えたようにくんくん鳴きながら私の足下に隠れた。
 二日ぶりに家に帰った夫は、見たことのないワイシャツを着て、徹夜明けだというのに、こざっぱりとして見えた。
「俺は営業マンだぞ。徹夜したからって、ヨレヨレの姿でクライアントに会いに行けないだろう」
とは、夫の言である。
「おい、玄関のプランター、あれどうしたんだ?」
 夫が着替えをしながら、私に訊ねた。
「素敵でしょ。お花の種いただいたから植えてみたの」
「ふーん」
 案の定、夫は興味なさげにつぶやくと、私に脱いだワイシャツを手渡した。私はそれを何気ない顔で洗面所の洗濯カゴに運ぶ。ひき裂きたい衝動にかられながら。買ったものなんかじゃない。きっとあの松村かおりからもらったのだ。
 夫の無関心のおかげで、プランターについてはそれきり何も質問されなかった。私は大いにほっとした。いったい何が生えて来るものか、今のところ私には想像もつかないから、これ以上質問されても答に困るところだったのだ。

 三日目、小さな緑色の双葉が、びっしりとプランターを覆った。見た目にはハーブか草花の双葉に見える。私は芽が育ち易いように、半分程度まで双葉を間引いた。
 玄関先で私がその作業に没頭していると、美しく装った増井さんがうちの前を通りかかった。
「旦那のお供で、クライアントと商談のためのランチに行くのよ。どう、似合ってる?」
 増井さんはそう言って、私の前でくるりと回ってみせた。長身に、細いシルエットのスーツがよく似合う。肩にかけた大判のスカーフが、ふわりと襟元に舞い上がった。もしも夫の浮気の相手が増井さんのような女性なら、私よりも明らかに女性としてのレベルが高いと納得できる人なら、私もあるいはもう少し心穏やかでいられたかも知れない。
「あら、何植えたの?」
 増井さんは、今頃プランターの双葉に気づいたようだ。
「さぁ、人にもらった種だから、何が生えて来るか知らないの」
「きれいな色の葉っぱじゃない。ハーブに見えるわね。それって食べられるの」
「どうして食べるしか考えないの、増井さんたら」
 私がそう言うと、増井さんは失礼ねと豪快に笑いながら歩き去った。
 けれど私は、増井さんのこの『食べられるだろうか』という言葉がいやに気になった。
 思い立って、抜き取った双葉を洗って茹でてみた。ひとくち口に入れると、双葉はえぐみも苦さもなく美味だった。ただ、たくさん口に入れるのは、害がある気がしてはばかられた。もちろんそれは、この種の成り立ちを知っている私の、単なる思い込みかも知れない。
 私は残りを冷蔵庫に保存して、翌日の弁当に入れた。実験のつもりだった。

 私が種を吐き出した夜以来、松村かおりからの電話は途絶えていた。きっとあの深夜の電話で、雅彦との関係は自分に歩があると確信したに違いない。そうなればもう、嫌がらせの無言電話などかける必要はないのだろう。
 けれど、夫はあの夜以来、外泊をすることは今のところない。いつものように夜遅く帰宅しては、プチと一緒にテレビを見ている。幾度か話をもちかけようとして、やめた。今さらかおりと夫の仲がどこまで進んでいるかなど、知りたくもなかった。
 表向きには何の変化もない日が続く。あいかわらず私は家事をして、その合間に請け負ったニットを製作した。
 唯一変化したことといえば、あの種の一件以来、私の心に平穏が戻って来たことだった。種を吐き出してからは、以前のように胃が痛むことはもうなくなっていた。お米を研ぐリズムが少しずつ私の中に戻りつつあるのは、私の精神の安定を意味していた。
 私から生まれ出た種の芽はすくすく伸びて行く。たとえどんなものであろうと、自分から生じたものはいとおしい。ましてや美しい緑草とあっては、なおさらだ。私はその草を“私の菜(な)”と、名づけた。

 “私の菜”を育むことで、私の中にも何か期待にも似た感情が育って行くのがわかった。“私の菜”が決してみた目どおりの繊細ではかないものでないことは、プチが頑なにプランターを避ける様子からもよくわかった。そしてそれが私の残酷な希望を、より強いものにした。
 その頃のことである。嘴の間から、“私の菜”をのぞかせた烏を見かけたのは。烏はうちの玄関の真上の電線にとまり、気持悪そうに何度も頭をよじって草を嘴からはずそうとしているようだが、それは無駄な努力のように見えた。のびかけの草を根元からちぎったのか、それとも漏れこぼれた種をついばんだものが烏の体内でのびたのか。そのうち烏が飛んで行ってしまったので、答はついに分からず終いだった。
 また、ある朝は裏庭に野良猫が一匹迷い込んで来た。以前にもやって来て、自分よりも体の小さいプチを苛めた猫だ。見ると猫の背中から一本、ひょろりと“私の菜”が生えていた。私は不意打ちして猫を押さえ込むと、背中の草を引っ張ってみた。ずぶりという感触とともに草は猫の背中から抜け、同時に猫のぎゃあという悲鳴が上がった。私も草の抜けた感触のあまりの気味悪さに大声で叫んでしまう。抜けた草の長く伸びた根っこには猫の血がついていたが、一目散に走って逃げたから、猫はたぶん大丈夫だったのだろう。私は猫が戻って来た時に飲めるよう、ミルクを入れた皿を裏庭に置いた。

 “私の種”の芽はほぼ十日で三十センチほどに育ち、それぞれの先に小さな紫色の花をつけた。私は花を摘んでおひたしに、固い葉はオリーブ油で炒めて、茎の部分は塩漬けにし……、“私の菜”を様々に料理しては、夫の弁当に入れた。
 さあ、きれいでしょう。食べてみてちょうだい。私の中から生まれた野菜なの。味だって良いのよ。
 いつしか私は、かおりに語りかけるようにお弁当を作るようになっていた。私の不安や怒りや悲しみから創り出された“私の菜”は、かおりの中で咀嚼され、消化され、吸収され、彼女の体内をめぐり、そして。私から分離した“想い”は、彼女の若い体の隅々にまで取り込まれ、彼女と同化する。沸き上がる甘やかな感覚は、私を陶然とさせた。ほとんどこれは、かおりに対する思慕の感情といっても良かった。
『今日のおひたし、変わってたね。紫の花なんて』
 ある日、かおりのメモにこんな一文を見つけて、私は小躍りした。
 もうすぐよ。もうすぐ何かが変わる。だって彼女は“私の菜”を食べ続けているのだから。この根拠のない確信は、私におびただしい平穏を与えた。岩の中に閉じ込められているようないらだちは今は消え、何かを待ちわびる期待は、いよいよ心の中で大きく膨らんで行った。

 一週間めのことだった。
 夜、例によって夫は残業で帰って来ない。ソファの上でプチが心地良さそうに眠っている。電話が鳴った時、私は請け負ったセーターの複雑な編み込み模様と格闘しているところだった。 
「もしもし」
 受話器の向こうからの返事は何もない。もう一度呼びかけてみたが、やはり一言も答はなかった。だが、いつものくすくす笑いも今日は聞こえて来ない。
 私は黙って、そのまま電話を切った。
 その頃から夫の帰りが少し早くなった。訊ねてみると、ずっと手がけていたプロジェクトがひとつ、自分達の手を離れたという。
「やっぱり我が家が一番、ってね」
 ソファに座って、ビールを片手にテレビの野球中継を見ている夫はご機嫌だ。
「松村かおりさんって元気?」
 食卓を片づけながら、私は努めてさり気なく夫に聞いてみた。
「なんでそんなこと聞くんだよ」
 夫が、思わず身構える。
「別に深い意味はないわよ。最近、退社後の電話がかかって来ないと思っただけ」
「松村なら二日前から会社を休んでるよ」
「どうして?」
 半ば予想通りの答に、私の胸は高鳴った。
「なんでも風邪をこじらせたって、親御さんから連絡があったみたいだよ」
「あら、お気の毒に」
 しつこくならないよう、私はそれきり流し台に向き直って、話を打ち切った。
「おい、プチ。なんでこっちに来ないんだよ。おつまみやるから来いよ」
「あ、だめよ、プチにさきいかなんか食べさせちゃ」
 私が止めるのも聞かず、そろそろと寄って来たプチに小片をくわえさせた夫は、プチがそれを噛み切ろうと悪戦苦闘している様子に、屈託なく大声で笑った。
 かおりが病気なのに、心配していないのだろうか。私は少し困惑した。
 そのとき、夫の髪に目が止まった。夫の頭頂部の髪の中から小さな双葉がのぞいている。私は夫に近寄ると、夫の髪をかき分けてみた。双葉は夫の頭皮から生えていた。私はそれを指でそっとつまんだ。
「いったいなんだよ」
「だめ、じっとしてて」
 先日の猫のことが頭をかすめたが、私は思いきって双葉を摘む指に力を入れた。双葉は細い根っこごと、頭皮からすっぽりと抜けた。
「痛い!」 夫が悲鳴をあげる。
 私は双葉を急いで流しまで持って行き、水で流した。
「何だったんだよ」 夫が不服そうな声をもらす。
「白髪よ。雅彦さん、もう立派なおやじね」
 私の言葉に憤慨したらしく、夫はふん!と鼻を鳴らした。その夫をなぐさめようとしたのか、プチが彼の膝の上に飛び乗った。

 次の日、私はプランターから“私の菜”をすべて抜き去って、裏庭で燃やした。
 私の目的は果たした。そう実感していた。沸き上がる達成感で、私の心は満ち足りていた。もう“私の菜”は、その役目を終えたのだ。
 玄関のベルが鳴る。増井さんだ。
 私は増井さんをリビングに通し、お茶を煎れるためにキッチンに入った。
「どうしたの。何を裏庭で燃やしたの」
「玄関のプランターの草が枯れちゃったの。プチが匂いを嫌ってるから、裏庭に置いておけなくて燃やしちゃったの」
「煙モクモクじゃない。お隣のうるさいおばさんから文句来ちゃうわよ」
 増井さんに気にしていることを指摘されて、いささかムッとした。
「大丈夫よ、あの人だってゴミ燃やしてるもの。あのおばさんなんか、そのうちお姑さんとか裏庭で燃やしちゃいそうだわ」
 私の反論を聞いて、増井さんがぶっと吹き出す。私も一緒になって笑ってしまう。
 その時、二人の笑い声にかぶさるように、玄関のチャイムが鳴った。
「はい、どなたですか」
 言い切らないうちに、玄関のドアが開く大きな音がした。とたんにプチが火がついたように吠えながら、玄関先に向かって走り出した。
「プチ、だめよ!」 私は急いで後を追った。
「嫌! 何なのよ、この犬」
 玄関に立つ若い女性は、自分めがけて吠えかかって来た犬に向かってハンドバッグを振り回し、何とか追い払おうと、必死の形相で睨んでいる。
「プチに乱暴しないで!」
 私は暴れるプチを抱き上げると、女性に向き直った。瞬間、女性の険しい表情が目に飛び込んで来た。女性は、プチの毛嫌いする“私の菜”の匂いを体中から発散させていた。
「あなた、雅彦さんの奥さんでしょ!」
「あなたは、松村かおりさん……?」
 私が以前、夫へのメモに貼ってあったプリクラで見たのと同じ顔だから、見間違えることはなかった。ただ、プリクラの写真よりもずっと大人びて見えることに、私は少し驚きを覚えた。かおりは薄いクリーム色のブラウスに、黒いゆったりとしたパンツをはいていた。彼女は燃えるような険しいまなざしで、私をぎりりと見据えている。
「あなた、いったい私に何をしたのよ」
 いきなりかおりが、金切り声で叫んだ。今にも私に飛びかかりそうな風情だ。怒りに、茶色く染めた長い髪が逆立っている。
「何をって……。あなたにお会いするのは、今日が初めてよね」
 私は努めて穏やかな口調で答えた。ここでこちらの恐怖心や怒りを見せては、彼女の興奮を一層あおるだけだと考えた。だが、それが返ってかおりの神経を逆なでしたようだ。
「ごまかされないわよ。いったい雅彦さんのお弁当に何を入れたのよ。きっとあなたが何かしたんだわ」
「何のことを言ってるの」
 私がそう言い終わらぬうちに、かおりはもどかしそうに玄関に片足をあげて、パンツの裾を一気にたくしあげた。私はあらわになった彼女の向こうずねを見て、思わず大声で悲鳴をあげた。
 かおりの脚には、毛穴と言う毛穴からびっしりと小さな双葉が生えていたのだ。
 彼女の剣幕よりも、目の前にある光景に私は怯えた。だが目が離せない。この双葉は、私がプランターに蒔いた種から生えて来たものと同じ……。
「あなた、やっぱりずっと私のつくったお弁当を食べていたのね」
 私は思わずそう呟いた。
「やっぱり、あなたね。私と雅彦さんが仲が良いからってひどいわ!」
 かおりは玄関の土間から身を乗り出すと、私の胸ぐらをつかもうと腕を延ばした。急なことに私が怯んだ一瞬に、プチが私の腕から飛び出した。
 プチは再び激しく吠えながら、かおりの足下に飛びかかった。
「プチ!」 私の声と、犬のギャンという悲鳴が同時にあがった。かおりがパンツの裾に噛みついたプチの体を、そのまま足を払って玄関のドアに叩き付けたのだ。
「なんてことするの!」
 私はかおりを突き飛ばすと、急いで土間に倒れているプチを助け起こそうとした。だがかおりはその私の両肩をつかむと、別の方の壁に叩き付けて、私の首に両手を回した。その両手に一気に力を入れようとする。
「やめて!」
 私はかおりの手をふりほどこうと、彼女の腕を自分の手でつかんだ。そしてその感触に驚いた。双葉は腕にも生えている。握ると、ブラウスの下で何かがずるっと滑った。私が握っているブラウスの袖が、内側から緑色の草汁とかおりの血でじわりと汚れて来る。
「いやぁぁ!」
 私が恐怖に叫ぶと、かおりがいよいよ逆上して、私の首を絞める手に力を込めた。抵抗もできずに気が遠くなる。
そのとき、私たちにいきなり水が浴びせられた。かおりの手が一瞬ゆるむ。その間をついて増井さんが飛び出して来ると、私を抱きかかえながら、かおりを力まかせに突き飛ばした。さらにかおりが体制を立て直す前に、増井さんはかおりの頬を激しく平手で打った。
「あなた、いきなり入って来ていったい何なの!」
 私をかばうように間に立ち塞がった増井さんが、かおりに向かって怒鳴る。打たれた頬を真っ赤に腫らしたかおりが、増井さんを睨みすえた。
「性悪女! あなたがそんなになったのは、自業自得でしょ」
 増井さんからは、凄まじい殺気のようなものが立ちのぼっており、その彼女に睨み返されたかおりはすくみ上がってしまった様子だ。
「おまえなんか死んじまえ!」
 悔し紛れの暴言を吐いて、かおりはバッグを拾い上げると急いで走り去った。
「死んじまうのはあなたでしょう」
 増井さんがあきれたように、かおりが飛び出して行ったドアを閉めようとする。
「プチ!」 まだ立ち上がらないプチを抱き上げてみると、あらぬ方向に首が曲がった。
「だめよ、死んでるわ」 増井さんが呆然とする私からプチを抱き取る。
 そのとき警官が二人やって来た。女性が玄関先で激しく言い争っていると近所から通報があったという。警官たちは増井さんから状況を聞き、すぐに帰って行った。

「おまわりさんが旦那様に連絡してくれたから、きっとすぐに帰って来ると思うわ」
 キッチンでコーヒーを煎れていた増井さんは、リビングに入って来ると、手に持ったマグカップをひとつ私に手渡した。立ち上る湯気の優しい香りに、私はふっと泣きそうになる。
「莫迦ね。旦那様が帰るまで私がここにいるわよ、安心して」
 増井さんはそう言いながらソファの私の隣に座ると、自分のカップに唇をつけた。増井さんからさっきの鋭い殺気はすっかり消え、いつもの晴れやかな彼女に戻っていた。
 私といえば、まだ先ほどからの震えが治まっていなかった。松村かおりの脚に生えた双葉、腕をつかんだときの感触……。
「一番何が怖い?」
 増井さんの突然の問いかけに、私は思わず顔をあげた。彼女が何を言おうとしているのか、よくわからない。
「あなたが一番怯えていることは何なの。さっきの女の子の脚のこと、それともプチが死んでしまったこと?」
そこで増井さんは少し間を置いた。
「それともあなた自身がしたことの結果を恐れているのかしら」
 私はぎくりとした。
「私のしたことって、増井さん、いったい何のことを言ってるの」
 腕に力が入り、また震えが止まらなくなる。増井さんは私の肩にそっと腕を回すと、耳元で囁いた。
「たとえば私ね、今から四十年も前にうっかり夫の浮気相手を呪ってしまったのよ。そしたらそれから歳をとらなくなっちゃって」
 背筋がぞっと寒くなる。増井さんから離れようと私が彼女の腕の中で小さくもがくと、彼女は寂しそうな表情で微笑んだ。
「言ったわよね、私、六十八歳だって。あれ、嘘じゃないのよ」
 そう言えば、なぜさっき増井さんはかおりに『自業自得』だと言ったのだろう。私は彼女に一言も、私とかおりとの確執を話したことはなかった。私は恐るおそる呟いた。
「私があの子にかけた呪いも、増井さんのしわざなの。増井さんが私の中にあの種をつくったの」
「まさか。私にそんな力はないわ。あなたが何か黒々としたものを心に抱いているのは、感じていたけど。私の口から何気なく出た言葉に、あなたが答を見い出しただけなの」
 こわばる私の肩に頭を預けて、増井さんはふっとため息をついた。幽かな香水の香りが私の鼻をかすめる。小さな頃憧れた、大人の女性の薫りだ。
「お米を研ぐリズムなんて練習しないわよね。見て聞いて知っているのを、ただ自分でやってみるだけ。誰かを呪うのだって同じよ。『憎い』という感情を持った時点で、あなたはもうその相手を呪っている」
 私を抱いた腕をほどいて、増井さんはコーヒーテーブルの上の煙草に手をのばした。
「決して特別なことじゃないわ。夫の浮気相手を殺したいくらい憎んでいる女なんて、星の数ほどいるもの。けれど彼女たち一人ひとりが抱えているのは、とてつもない負のパワーだわ」
 増井さんは、悲し気な表情で天井を眺めた。
「プチちゃんは本当に可哀想ね。人の気持が分かる良い犬だったのに」
 ふうっと、煙草の煙を吐き出す。増井さんは柔らかなまなざしを私に向けると、長い指で私の顔にかかった髪をかきあげた。そっと私の瞳を覗き込む。
「他人の夫を欲しがるような女は、けっきょく自分のことしか考えられないのよ。だからあなたが罪悪感を持つ必要はないわ。あなたは自分の身を守っただけだもの」
 そう言い残すと、増井さんはコーヒーのお代りを煎れに、キッチンに戻って行った。

 帰って来た夫は、冷たくなったプチの亡骸を見て、言葉を失った。考えてみれば、彼の方が私の何倍もプチを可愛がっていた。そのプチをかおりに殺されて、夫は一気に現実に引き戻された様子だった。
「あなたのせいよ」
 私は静かに言った。夫はまだプチを見つめたまま、呆然とうなづいた。
「松村がそんなふうに思いつめてるなんて、知らなかったんだ。既婚者の僕に無邪気に甘えてくるから、ただ『恋愛ごっこ』がしたいんだと思ってた」
 そう言いながら、夫は涙ぐんでいた。私はその夫を、冷ややかな感情で見守った。
 あなたさえ毅然としていれば、プチもかおりも、そして私も不幸にならなくてすんだ。あなたがかおりの渇望に生半可な手を差し伸べて、私に彼女を呪わせ、そしてプチが死ぬ原因をつくったの。あなたさえもう少し真剣に現実に目を向けていれば……。
「曜子に怪我はなかったのか」
 私は否定のしるしに、ゆっくりと首を振った。でも、怪我はなかったけれど、私の本質はすっかり変わってしまった。やがて私は、心に上った言葉をゆっくりと口にした。
「それでいったいあなたは何をしたの。そして何をしなかったの」
 私にも罪はある。もっと早く夫とこの話をすべきだった。少なくとも現在形で問いかけられる時期に。

 松村かおりはその後失踪したと、両親から会社と警察に届け出があったそうだ。後で夫が会社の女性社員たちから聞いた噂によれば、かおりがいなくなった朝、彼女の部屋には枯れた草や花びら、それに花の種のようなものが大量に積もっており、家族の者がドアを開けたとたんに部屋から噴き出すように飛び散って行ったという。
 私が望んだとおり、“私の菜”はかおりの中で芽吹き、花開き、そして実を結んだ。もう松村かおりはどこにもいない。ただ種子だけが、風に乗って遠くへ飛ばされて行った。
 かおりへの罪悪感は、私は感じていなかった。ただかおりの若いがゆえの愚かさが、痛々しくて悲しかった。

 私の生活はまた元に戻った。何の波風も立たない穏やかな日々。夫は私を以前よりも気遣うようになり、増井さんは何ごともなかったように、あいかわらずケーキや紅茶葉を手みやげに我が家を訪れる。新しく我が家にやって来た雄のコーギー犬は、吾がもの顔で家の中を走り回っている。
 だがすべてが元どおりにおさまるはずなど決してない。私はたまに、増井さんとそのことについて話し合う。互いに恨みから自らを魔女に変えた女として、今は共犯者のような連帯が二人の間に流れていた。
「私も増井さんみたいに歳をとらなくなれば良いのに」
 ある日、私は増井さんにそう言ってみた。
「莫迦ね」
 増井さんはふっと笑うと、赤い唇から煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
 私たちの秘めやかな会話を、ただコーギー犬だけが訳知り顔で聞いていた。

(了)


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