第7回 ドクター・コール


 見舞い客を装って海軍病院に潜入したヒカルはまっすぐに産婦人科外来の端にある男子トイレに向かった。妊婦に付き添ってやってきた男性ぐらいしか利用しないそこは院内で最も利用頻度の低いトイレのはずだった。ひとつしかない個室はふさがっていた。合図のノックを3回叩くと中から爪で扉をひっかく音が3回聞こえ、そこでもう3回ノックすると扉が開いた。
「やあ」
「お疲れさま」
 便座のふたに腰掛けていた掃除夫が手を差し伸べてきた。
「座ったままで失礼するよ、狭いからね」
 ふたりは無言で服を脱ぎ始めた。
「収穫は?」脱ぎ終えた服を無造作に掃除夫に渡しながらヒカルが聞いた。
「専門のクリーニング業者が徹底的にきれいにしていったあとでね、病室からはルミノール反応さえも出なかったよ。だけど、ここに出入りしてる医療廃棄物処理会社のバイトのにーちゃんから興味深い情報が拾えた」
 見舞い客の服に着替えた掃除夫が汗じみのできた薄緑のユニフォームを紙袋に詰め、ドアの内側の鈎に吊るしながら答えた。
「ほう?」ヒカルはいつのまにか白衣に着替えている。
「そいつは暴走したシムが破壊された病室からマットレスを運び出したんだが、裏までべっとり染みてて軍手が汚れたそうだ。オイルではなく血がね」
「殺されたオペレータの血じゃなかったのか?」
「それを調べるのが君の役目だろ」
「ああ、そうだったな」

 見舞い客に扮したグリーンアースのメンバーが無事に病院の敷地から外へ抜け出したころ、ヒカルは個室を出てぶらぶらと廊下を歩き始めた。パジャマがわりのよれよれのグリーンの術衣にサンダル履き、ゆがんだディスポのキャップと上半分だけ紐を締めたマスク、ボタンを外した白衣のポケットからだらしなくはみ出た聴診器…典型的な麻酔医の格好だ。胸には発信機を兼ねたネームプレートをつけているが、ネームプレートには何も書かれていない。常勤の麻酔医がひとりしかいないこの病院には防衛大学病院からしょっちゅう若い医者が手伝いに来るので、見慣れない顔が麻酔医の格好でうろついていても見咎められる心配はない。それに、麻酔医なら手術室へもどこの病棟へもフリーパスのはずだった。院内の地理は頭に叩き込んであるし、麻酔医らしい身のこなしについては特訓を受けた。

 さあスパイ大作戦のはじまりだ。

 大昔のテレビ番組のテーマを低く口笛で吹きながら職員用のエレベータで2階に向かう。発信機をつけていない人間が乗り込もうとすると警報が鳴って保安員が飛んでくるはずだが、相棒が盗み出したこの発信機さえあれば大丈夫。
 惨劇のあった個室からは猿島がよく見えた。窓ガラスは張りかえられたばかりで曇りひとつなく、砲撃のあとはどこにも残っていなかったが、海に面した壁だけが妙にまっさらで想像力を刺激する。ヒカルたちが集めた情報によれば、暴走した禄号機が侵入してから停止するまでの短い間にこの部屋は一面朱に染まったはずだった。ひょっとしたら天井までも。軽く身震いして血が滴ってくるような幻想を振り払い、ナースルームに向かう。無言で会釈して室内に入り、ホワイトボードに手書きされた手術予定を一瞥、カルテを閲覧するふりをしながら、ヒカルは個室に収容されていたオペレータのカルテを探した。死亡退院した患者のカルテは病歴室に送られることになっていたが、病理解剖の結果が戻ってくるまでは病棟に残されているはずだった。(あった!)入院カルテが雑然と並んだ木棚の一番端にそれは置かれていた。患者氏名が黒く塗りつぶされ、ごていねいにマル秘のスタンプをでかでかと捺されたカルテには赤字で死亡日時が記されている。カルテ棚の横に設置された洗面台で手を洗うふりをしながら、鏡で室内の様子を確かめる。婦長は勤務表のチェックに没頭しているし、日勤の看護婦は看護記録をつけている最中でこちらにはなんの注意も払っていない。さりげなく目指すカルテを棚から抜き取って席につく。ヘルニアの手術が明後日に予定されている自衛隊職員の入院カルテを広げて机に置き、いつでも隠せるように重ねながらページを繰る。混迷状態にて搬送入院…理学所見、血液検査は異常なし…無言無動にて呼名に応答せず…中心静脈確保、膀胱内カテーテル留置…入院直後の処置をのぞくとカルテにはほとんど何も書かれていなかった。白紙のページが数枚続いたあと、突然カルテの字体が変わっていた。当直医のコメントらしかった。たった一行、

「要請にて死亡確認。死因は頚部絞扼による窒息死」とあった。

 オペレータがどういう状況で死んだのか、そもそもこの記載では自殺か他殺かさえ判然としないが、死因が窒息であるならばベッドが血まみれだったという情報には合わない。今までに得られた情報を総合するとこうなる:発狂した禄号機のオペレータはここの個室に収容され、そこになぜか暴走した禄号機が現れ、病室内で破壊された。軍の記録によれば禄号機を破壊したのはシム部隊の一兵士で、彼は反撃を受けることなく無傷だったらしい。となると、導き出される結論はひとつだ。ヒカルは動悸が早まるのを感じた。

(大量の血はシムから流れ出たものだった…)

 そのとき突然、カルテ棚の上のスピーカーから院内放送が流れたのでヒカルは飛びあがりそうになった。
「ハリー先生、ハリー先生、大至急A3病棟までいらしてください。繰り返します。ハリー先生…」
 視線を感じて振り向くと婦長がけげんそうな顔でこちらを伺っている。何かミスをしでかしたのだろうか。婦長が口を開いた。

「先生? 麻酔科の先生ですよね。コールをお聞きになりませんでした?」
 コール? 今の院内放送のことだろうか? なんて言ってたっけ、A3病棟とか…
「ああ、A3病棟でしたっけ?」声が震えないようにするのが精一杯だ。なぜだか知らないが疑われているらしい。とにかくここからは退散した方がよさそうだ。あわてて立った拍子にマル秘印のカルテを落としてしまう。ちくしょう、なんて馬鹿でかいスタンプなんだ。婦長の目がぎらりと光った。
「まあ、そのカルテは…」「失礼!」
 立ち上がってこちらに来かけた婦長を突き飛ばしながらヒカルはナースルームから走り出た。「誰か、保安部に連絡よ!」婦長の金切り声が背後から追いかけてきた。階段を3段飛ばしで駆け下り、産婦人科外来に向かう。あのトイレに隠してきた掃除夫のユニフォームに着替えるんだ。無人の長い廊下にけたたましく警報が鳴り響き、行く手にシャッターが下りた。背後からは重い軍靴で走ってくる足音。ヒカルはシャッターの取っ手にかじりついて回そうとしたがびくともしなかった。発信機の信号がキャンセルされたらしい。ヒカルが振り向くのと保安員がブラックジャックを振り上げるのが同時だった。

「GEのスパイかな」
「たぶん」
「麻酔医に化けるとは考えたな」
「たまたまハリーコールがなかったら見つけられなかったよ」
「何だい、ハリーコールってのは」
「Hurry, doctors ってね。医者なら誰でもいいから来てくれっていう暗号なのさ。救急に強い麻酔医なら当然まっさきに駆け出さなきゃならん」
 薄れて行く意識の中でヒカルは保安員のやりとりを聞いていた。苦笑しようとしたができなかった。

          *                     *

(っかしいなあ…)カオル君はキイを叩きながらつぶやいた。ヒカルが所属しているという組織、グリーンアースについてウェブ上で検索しようとしているのだが、何度やってもグリーンマースという名の火星緑地化計画だのグリーンピースのゆで方だの、果ては不倫ナースというえっちサイトだの(思わず寄り道しちゃったじゃないか)、まったく無関係な情報しか引っかかって来ないのだ。Green Earth と横文字にしても同じこと。名前を聞き違えたかとも思ったがどうも納得いかない。ならば時事ネタに強そうなネット上の友人にメールで問い合わせてみようとして、カオル君は自分の目を疑った。「グリーンアースについて」とキイを叩いたつもりの標題が文字化けしているのだ。いったんメーラーを終了してワープロに切り替えても同じだった。つまり、「グリーンアース」という文字列そのものがパソコンから拒否されてしまうのだった。そこで初めてカオル君は通称ウェブ倫と呼ばれる検閲プログラムのことを思い出した。国内で販売されているすべてのパソコンのすべてのOSにあらかじめ組み込まれていて、有害な情報をシャットアウトしてくれるというソフト。インターネットから常に最新の情報をダウンロードして自らを書き換えるだけでなく、有害な情報にアクセスしようとしたユーザの情報を情報省に流しているという噂のソフトだ。OSそのものにがっちり根づいていて、外すことはできない。まさかこんな形でそいつに出会うとは思わなかった。ワープロで変換できない単語があるのは知っていたけど、入力することさえできない文字列だなんてすごいな、まるでどこかの神様の名前みたいだ、などとひとしきり感心していたカオル君だが、それっきりグリーンアースのことはきれいさっぱり忘れてしまった。

 今日は非番だ。久しぶりにパルコにでも会ってみるかな。ダウンジャケットを羽織って外に出るとむき出しの頭部電極に吹きつける風がひどく冷たい。クリスマスプレゼントは手編みの帽子で決まりだな、などと考えながらホテルに入り、いざ事におよぼうとしたカオル君だったが、パルコちゃんの「あれぇ、カオちゃんたら太ったんじゃない?」の声にいささかショックを受けた。オペレータとして週5日激しい運動を続けてきたおかげですっかり逞しく変身したつもりでいたのに何ということ、しかしそう言われて見ると最近少々身体が重いとは感じていた。天井の鏡を見上げると、なんとなくあごとお腹の線がだぶついていないでもない。こりゃ危険信号だ。太りすぎるとシムの操縦にも差し支えるぞ。いつもよりも念入りに腰を動かして、腕立て伏せに駅弁スタイルなんかもしちゃって大いにカロリーを消費しパルコちゃんを悦ばせたあとでカオル君はひとり物思いにふけった。パルコちゃんは隣で軽くいびきをかいている。
(…配給される食事のカロリーは変わってないし、間食なんかしてないぞ。そもそも運動量に応じて自動的にカロリーが計算されるんだから、やせたり太ったりするはずはないんだがなあ。急に栄養の吸収がよくなるなんてこと、あり得ないもんなあ。ひょっとして今までお腹に飼っていた寄生虫が老衰で死んじゃったとか…まさかなあ)

 とにかく運動量とカロリーの計算が合わないんだから、カロリー摂取率が変わってないとすれば、運動量の問題なんだ、と考えたところで思い当たることがひとつだけあった。最近、シムの操作が妙に楽なのだ。例えば敵に向かって何かを投げつけたり、肉弾戦でパンチやキックを浴びせているとき。今までならシムの動作と全く同じ動作をスーツを着たままでしなくちゃならないから、汗だくになって息が切れたものだ。それが最近になって、時々動作を省略できるようになった。実際に腕を伸ばさなくても、腕を伸ばすところをイメージしただけでシムが動いてくれる、そんなことが、そうしょっちゅうではないけれど起きているのだった。例えばそう、夢の中でひどく暴れているみたいなもんだ。そりゃあ布団をはねのけたり寝返りをうったりはするだろうけど、飛んだり跳ねたりはしないだろ、あんな感じ。楽ができるのはいいんだけど、配給食のカロリーはシムの運動量に比例するからなあ。
 比例配分を変えてもらおうという気にはなぜかなれなかった。なんとなくだが、イメージしただけでシムを動かせるようになったのが軍に知られたらまずいという気がしてならないのだった。それなら明日からダイエットだ。食事の量を減らして、腹筋と腕立て伏せと背筋と自転車こぎと縄跳びとそれから…

「ぐわっ」

 ダイエットメニューを考えながら眠ってしまったカオル君が突然跳ね起きたのでパルコちゃんはベッドから転げ落ちそうになった。カオル君はぐっしょり汗をかいて息をはずませている。
「どうしたのよお」パルコちゃんがもそもそと枕元をまさぐり、ようやくコントローラを探し当ててベッドランプの照度を上げた。
「あらきれい」カオル君の頭に埋め込まれたプラチナ電極がベッドランプを反射し、それが天井の鏡に映ってきらきらと輝いている。
「ごめんよ。なんだかすごく怖い夢を見たんだ」
「あらまあ、子供みたい」母性本能をくすぐられたパルコちゃんがてかてか光るカオル君の頭に手を伸ばしてそっとなでてくれた。「どんな夢?」
「よく覚えてない。もうひとりのぼくがいて、そいつが首を切られるんだ。いや、そうじゃない」ベッドサイドの飲み残しのワインを一口飲んでカオル君は強く首を振った。
「レーザーメスで頭を切られるんだ。ここから上を」指で眉毛の上をなぞる。「すっぱり切られて脳みそを取り出される夢だった。肉がこげる匂いまでした」
「いやあねえ。焼肉が食べたかっただけなんじゃないの?」
 カオル君は答えず、ただ首を横に振るばかり。しかたなくパルコちゃんは、ステンレスのざるをなでたらこんな感じがするかな、などと思いながらいつまでもカオル君の頭をなでるのだった。

            *                    *

 カオル君とパルコちゃんが夜明けにもう一戦交えて再びぐっすり眠っているころ、朝いちばんのメールをチェックしていたカオル君の母親タチバナ・ミカ(42)は「訃報」という標題のメールを見つけて胸騒ぎを覚えた。差出人はもう何年も音信不通だったOL時代の友人タケモト・ユキからだったが、ミカはそれが誰だったか思い出すのに苦労した。標題をクリックして表われた本文にはたった一行、

 ヒカルが死にました

 と書かれていた。

(第8回に続く)


「在宅戦闘員」のTopページへ