(以下、アンダーラインの箇所は、ポップアップで簡単な解説が出ます)
昨年の12月に開催された「雲魂参拾四」に参加させてもらったら、お隣の広島県のファングルーブ「イマジニアンの会」代表の宮本様にお目にかかれたので、これ幸いとインタビューを申し込み、快諾して頂きました。
隣の岡山県なのに今までご無沙汰していて申しわけありませんでした(汗;)
「イマジニアンの会」の設立等についてうかがわせて下さい。
私が広島地方のSFファンと連絡を取り合って、話し合いの場を設けるようになった発端は、呉市の技術系サラリーマンである村野浩史(ひろふみ)氏と会った1964(昭和三十九)年4月からであった。
ここらあたりは、文通による交流である。
村野氏との接点は 『宇宙塵』 『宇宙塵』は柴野拓美氏が主宰のSF同人誌であり、当時はSFファンダムの中心ともいえる活発な活動を行っていた。ここからは多くのプロ作家が誕生している。 である。当時、村野氏は既に同誌の会員であり、葉賀良二のペンネームで、評論において活躍中であった。ちなみに、私が『宇宙塵』(正確には科学創作クラブ)に入会したのは1964年4月で満38歳、村野氏は私より2、3歳若かったと思う。
1964年というと、私がSFマガジンの定期購読を始めた年です。もうそのころから中国地方でSFファン活動の萌芽が始まっていたのですね。
その翌年、1965年9月に、岡山県の津田道夫氏のご来駕を受けた。私が津田氏のご自宅を訪れたほうが、早かったかもしれない。
いずれにしてもこの縁が生じたのは、早川書房の SFコンテスト
第三回SFコンテスト
SFマガジン1964年5月号で発表
審査員:安部公房、星新一、円谷英二、田中友幸、藤本真澄(東宝常務取締役)
●入選 該当作なし
●佳作(三篇)
第一席(賞金三万円)「太陽連合」吉原忠男
第二席(賞金二万円)「プログラムどおり」松崎真治
第三席(賞金一万円)「黒潮」永田実
●努力賞(賞金五千円)「金色の蟻」岩武都、「昆虫都市」二瓶寛、「宇宙艇307」西崎恭、「海底より永遠に」小川俊一
●奨励賞(賞金二千五百円)「復活」津田道夫、「望郷の国」吉帆里麻、「太陽系の子ら」栗山豪、「孵化」丹土真紀、「幻想肢」渡辺晋、「黒い花」武藤絋幸、「化石」美留町明、「植物戦争」今保川登志夫 で、奨励賞を頂いたのを契機に文通・面談とすすんだのだ。津田氏は純文学も書いていたせいか柴野さんとは合わないらしく、新しい同人雑誌を求めていた。
この頃すでに広島と岡山の繋がりが生まれていたとは。
ファングループ結成への胎動は、1966年に起こった。四国高松の才媛・阿部桂子さん(『テラ』主宰)の容姿に接したのは、3月の 「ヌルコン」 筒井康隆氏が「NULL」というSF同人誌を出されていた。それに関連したイベントかと思われる。 の時、10月には山口県防府市の中学生、小石光氏の来訪があった。その後の小石氏が示したSFへの情熱には、頭のさがる思いがする。私たちが出発した蔭には、この若いエネルギーが支えになっていたのだ。そして12月には岡山で、大学の小林正利氏や『テラ』の阿部さんと話し合い、瀬戸内グループへの構想が熟してきた。
小林さまは、最新の17号にも「SFは二度おいしい」を寄稿されてますね。
そして67年1月、呉の十河宏氏が参加。4月16日瀬戸内海SF同好会がスタートをきった。
当時はSF同好会というのはファンジンと呼ばれる同人誌を発行するものという認識があり、瀬戸内海SF同好会も渡辺晋が編集者となりファンジンの発行に向けて動き出す。
さあ、いよいよファンジンの発行だ。誌名の決定がまだである。『宇宙塵』の柴野さんからは、たえずご激励を頂いたものだ。誌名が『イマジニア』と決まったのは4月末だった。5月5日には柴野さんから「祝辞」が届く。
祝辞 ご健闘を!
柴野拓美
「イマジニア」……いい名前ですね。 こういう名前のイメージに、私は、ひどく惹きつけられるものを感じます。それは、あるいは私が、理科系生えぬきの人間だからかもしれませんが……。
お便りによると、メンバーに理科系出身が多いので、かたよらないように気をつけてゆきたいとのことですが、そんな気づかいはヌキにして、どんどん特徴を出してほしい……正直のところ、そう思います。
理科系と文科系を識別する傾向は、日本のような後進社会の悪弊だ、といった意見をきいたこともありますが、はたしてそうでしょうか?実際にはどうも、世界のどこに行こうと、そこに文化があるかぎり、両者の発想法のちがいは、かなり歴然としているのが現状の世なのです。まず単純化して分析にかかる理科マンと、歴史観的な綜合判断から出発する文科マンと……ちかごろでは電子計算機やORORは組織体の機能を有効に発揮させるために、状況を分析し、数学的な処理をして具体的な方策を立てる研究。
▷ operations research の略などの登場で、その関係が錯綜してきたとはいえ、両者のちょうど中間的な発想などというものは、ありえないのではないでしょうか?しかし、いうまでもなくSFファン(プロも含めて)は、この文理同道のたしなみを要求される立場になります。ただ、両者の中間ではいけないので、むしろ、まずどちらかの発想をしっかり身につけた上で、他方への理解を深めるように努力してゆくのが本当だろうと、私は考えています。
……どうも、話が脱線したようですが、この四月に東海地方の「ルーナティック」が発足し、つづいて「イマジニア」の誕生をむかえ、どうやらこれで日本ファンダムは、新幹線よりひと足お先に、東京から九州まで、ずっとグループがつながったことになります。これを空間的な成果だとすれば、時間的には、約二年前からのファンジン・ラッシュが今や一段落し、なんとなく息切れぎみの日本ファンダムにとって、この有力な新グループの発進の与える効果は、きわめて大きいことでしょう。
着実な前進をとか、足もとをしっかり固めて云々とか、きいたふうなことは、何も言いたくありません。とにかく、これはファン活動なんですからね。
……「イマジニア」の名の示すとおり、想像力のおもむくままに、それを具象化するいきおいで、がんばってください。
ご健闘を、心から祈りあげます。(「宇宙塵」編集長)
6月1日、ついに発行。余るほどの原稿が集まったのは、なによりも有難かった。一部は<高校特集>として第2号に掲載させて頂いたものがあったほどだ。そこで創作はヴェテラン中から、津田道夫氏の「抜け道」と、村野浩史氏の「遺書」を掲載させて頂いた。評論・随筆では、バブコック日立の若い社員・十合(そごう)ヒロシ(宏)氏の「『未来学』の未来像素描」が、短文ながら要点をおさえている。わたなべ・しんはSFマクロバイオティクス――生物と時の流れ――を載せていた。
その他、雑文若干で、わたなべの「SFマクロバイオティクス」と十合の「『未来学』の未来像素描」は第2号(67年11月発行)に続く。十合が未来を梅棹忠夫の未来論に従い、10のベキ数で表したのは貴重である。すなわち、現未来(10年)、近未来(100年)、中未来(1000年)、遠未来(10000年)の4つである。
瀬戸内海SF同好会には穂井田直美さん・小林正利氏より少し遅れて入会された方に、巽孝之先生、波津博明先生、美苑ふうさんがおられる。
美苑ふう(本名・朝香冨久子)は華族・朝香家のお嬢様で、上皇明仁(あきひと)即ち平成天皇が独身の頃、結婚相手の妃選びが起こった際、第二候補となった人だ。のち、家族の話では、通常の常識と逆の感覚だったという。
巽孝之氏の入会に関しては、氏よりコメントをいただいている。
当時の私は東京に住む中学生です。渡辺普氏から村野さんへ編集長が交代した頃に瀬戸内海S F同好会に入会しています。中学生ながら幼稚な手紙を送っていたら、毎回対応してくださっていたのが村野さんでした。
私が最初にSFファンダムに入ったのは中学の二年先輩だった難波弘之氏が代表をやっていた「全日本青少年SFターミナルだったのですが、1968年、中一の秋に入会したら、翌年には潰れてしまい「新創作集団」に改組したので、「科学創作クラブ」つまり「宇宙塵」に入会したわけです。
そうしたら、当時月刊で出ていた同誌には「FANZINE REVIEW」欄があって、全国のファンジンが住所付きで紹介されていたので、当時創作志望だった私は、作品を掲載してもらえそうなところに軒並み入会しました。
サイレントスター(サイレントスター・クラブ)、レア(中部SF同好会)、てんたくるず(九州SFクラブ)、それにイマジニアといったところですね。
このうち、最初の三誌は拙作を掲載してくれたのですが、イマジニアは村野さんになってから、確か6号か7号で中断してしまいました(以後、柴野拓美さんに会うと「村野さんはイマジニア潰しちゃったでしょ」と回想しておられました)。
そうした経緯もあって、これはもう自分で出すしかないな、ということで1970年1月の「科学魔界」創刊になるわけです。中二の後半ですから、14歳でした。
当時の瀬戸内海SF同好会のメンバーとしては副会誌「イマジニア・モニター」編集長の十合宏、実務は一ッ子(ひとつね)淑恵(現・沼田淑恵)が主体で、佐伯和江(現・太田黒和江)と穂井田直美さんが手伝っていました。発送の一部は村野氏が手伝っていたという。
「瀬戸内海SF同好会」の創設者である渡辺晋は、当時「マツダ病院」に勤務する医者であったが、マツダ(当時は東洋工業が社名)が世界初のロータリーエンジン搭載車「コスモスポーツ」を5月に発売し注目を集めており、本業も忙しかったと思われる。
「瀬戸内海SF同好会」のメンバーだった小林正利氏によると「当時は山口、高松、岡山、広島とそれぞれに、芽は出ていたのですが、育てていく方法が見つけられていなかった気がします(それぞれの方は、他のファングループに入りながら、個別に活動しようとしていました)。それを、「瀬戸内」という括りでまとめ、広島にコアを作れたことが大きい。」と渡辺さんの活動を評価されています。
当時は渡辺さんの自宅に集まって活動をされていたようです。
中国地方のSFファン活動において、渡辺さまの功績は多大なものがあったのですね。
その後、休止状態だった「イマジニアンの会」は、2013年に復活しましたが。
東京の大学のSF研で活動していたが、1990年、私は広島へリターンした。この時期東京ではSFファン活動が下火になっていた。
しかしネットワークによるSFファン活動という新しい流れが生まれていた。
まだインターネットは一般的ではなく、パソコン通信の掲示板が活動の中心だった。
私もちょうどその頃にパソコン通信をつうじて、遅めのSFファン活動を始めたんですよ(汗;)
第52回日本SF大会は、広島で開催ということで、久方ぶりに参加させていただいたんですよ。
その節は大変お世話になりました。
宮本さま、これからもファン活動を通して、広島(中国地方)のSFシーンを盛り上げて下さいませ。