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イムカヒブ族とともに

高本淳

 長い落下の果てに森があった。枝々をへし折り密生した葉を盛大にまき散らしながらわたしはその奥深くへと落ち込んでいった。幸運にも絡み合う気根が抱き込む岩塊にぶち当たることもなく最終的にわたしの身体は腕ほどの太さの枝にしっかりと抱きとめられ静止した。それ以前に大気との摩擦でだいぶ速度は落ちていたとはいえ、その衝撃は決してなまやさしいものではなく、一瞬呼吸が止まり身体中の臓器がつぶれたかと思うほどの苦痛とともに目の前がふっと暗くなるのを感じた。そうして気がつけばいつのまにか興奮した多数の人声にとりまかれているのだった。

 もちろん到着したときの騒音はこの森中に響き渡ったろうから住民たちがいったい何ごとかと驚き怪しみ集まってくるのはごく当然のことだったが、そんな彼らの近づく気配にまるで気づかなかったのはわたし自身かなり長い間失神していたために違いなかった。そうして苦痛に呻きつつ身を起こしたわたしは手近の枝にしっかりと手足を絡めつつ……もはやこれ以上宙に漂うのはうんざりだった……新しい隣人たちと対面することとなった。

 初めて入れ墨というものを見たときの驚きは生涯忘れられないだろう。全身を覆う模様のためにこの森の人々は裸にもかかわらずまるで身体にぴったりした衣服をつけているように見えた。それらの図案が意味するものがどうにか理解できるようになった今でも彼らの小柄な身体を埋め尽くす青黒いひし形や渦巻きや波のつらなりを眺めていると時々ふと人でない別の生物の皮膚を見ているような気がすることがある。まして墜落の衝撃と九死に一生を得た奇跡にほとんど呆然自失だったその時のわたしにとっては、出迎える彼らが故郷の人々に下空に住まい夜な夜な地上にあらわれると信じられていた悪霊たちにも思えたのも当然だった。
 われ知らず武器を求めて身の周りを手探りしたものの馴染んだ剣はすでに落下の途中で失われていた。むしろそれがないことが幸いしたのかも知れない。そのときは知るよしもなかったが取り囲んだ男たちが胸の前に構えていたのは植物性の猛毒を塗った吹き矢の筒だったのだ。もしも軽率に武器をふりまわしていたら毒針を身体中にあびて必ずや無惨な死に様をさらしたことだろう。

 そうして遠巻きにしたまま油断なく見守る戦士たちの前で、わたしは身に寸鉄も帯びず半死半生といった体で横たわっていた。男たちの腰にはあきらかに山刀のそれとわかる樹皮の鞘が下がっていたし幾人かは鋭い銛さえ手にしていたから、自分の置かれた状況をあらためて考えてみる必要はなかった。わたしは大きく溜め息をひとつつくと残された唯一の手段をとることにした。つまり生命からがらたどりついた遭難者として彼らの慈悲にすがることにしたのだ。
「死にそうに喉が渇いているんだ。水を一杯めぐんでもらえないか?」

 この異文化の衝撃的な出会いを象徴すべき第一声は、しかしまったく相手に理解されなかった。彼らは互いに顔を見合わせ、このわけのわからない言葉をしゃべるちん入者をどうしたものか互いに口角泡を飛ばしつつ協議しはじめた。わたしは身を起こすとほとんど端切れになってしまった服を身の回りに寄せ集めながら懇願した。
「もう長いこと飲まず喰わずで宙に漂っていたんだ。頼むよ、何か飲ませてくれ!」
 昼夜の別なく太陽が見えるこの異境では身体の水分が急速に失われるらしく、わたしはまるで一週間も水を飲んでいないかのように感じていた。必死の面もちで演じた即興のジェスチャーがたぶん功を奏したのだろう、ようやく彼らもわたしの困窮ぶりに気がついたらしかった。リーダーとおぼしき年長者がこちらを指さしながら何ごとか命じると、ひとりの若者が進みでておそるおそる腰の水入れらしいものを手渡してくれた。それは筒状の堅い中空の実で全体の形は国でよく見かける頚長の瓢箪に似ていた。大きさこそ三倍近くあったがたぶんこの環境における近縁の植物だろう。周囲は細い繊維を編んだ紐で包まれていて持ち主の男が腰にまわして結んでいた二本の紐が両脇から伸びていた。受け取ったその表面はひんやりと濡れていて手触りで内部にたっぷりと冷たい水が入っていることがわかった。わたしは狂喜して瓢箪の口にむしゃぶりついた。

 しかしこのとき初めてわたしは新しい環境での独特の問題に直面したのだった。どんなに力をこめて吸っても中の水はわずかづつしか口中に入ってこないのだ。重さというものを一切欠いたこの世界では器を傾けて中身を飲むというごくあたりまえの行為さえもひどくやっかいであることにわたしは気づいた。微かな湿り気を味わったために喉の渇きはますます激しくなり、じれったさのあまりわたしは気が狂いそうになった。
 男たちは渇きと欲求不満とに半狂乱になっているわたしの有り様をしばしあきれたように眺めていたが、やがて誰からともなく一斉に笑い出した。そして、わたしは哄笑されることがむしろほっとさせられる体験であるということを悟った。見知らぬ者を相手にしているという緊張がほぐれ、男たちはおのおの構えていた筒から毒矢を抜き取りはじめた。たしかに単に水を飲むということにすら苦戦している相手を警戒するのは難しいに違いない。ついに見かねた瓢箪の持ち主がわたしの手からそれを奪いとった。わたしは渡すまいとして男につかみかかり……宙に浮いたままどうしようもなくなって、笑いながら飛びかかってきた数人の戦士によってたちまち身動きできぬよう組みしかれてしまった。

 そうして恨めしそうに睨むわたしの前で瓢箪を持った男はにやにや笑いながら水を飲んでみせた。それは明らかに飲み方を教えようという親切心からだったのだろうが、渇きに苦しめられているわたしにとっては意地の悪い拷問のように感じられた。とはいえいざ男が見事な手付きで瓢箪の中の水を飲んでみせるのを見ると、わたしのなかの冷静な部分はその熟練した『技術』に率直に感嘆せざるをえなかった。

 まず彼はその両側から伸びている二本の紐を片手に握ったまま『瓢箪』をその長軸の周りに軽くねじり、つぎにまるで旅芸人が独楽を回すような要領で、こんどは両手で二本の紐をひきながら短軸の周囲にすばやく回転させた。その結果、瓢箪は直交したふたつの軸のまわりに捩じれつつ振り回され、その飲み口からひとくちぶんの巨大な水滴が男の口のなかに飛び込んでいった。
 つまり遠心力に重力の役をさせて正常な重さのある世界でそれを傾けるのと似た状態にもっていけばいいらしい……そう見当をつけて、わたしはふたたび手許に戻ってきた瓢箪を見たとおりにあつかおうと試みた。しかし一見した以上にこの技術は修得が難しいことがすぐにわかった。ただ単に紐の周りに回転しただけではいっとき中の水は水滴となって飲み口から膨らみ出るもののすぐにまた器の中にもどってしまう。かと言って乱暴に揺り動かして水滴を器から取り出すことができたとしてもそれは懸命に追うわたしの口をそれて無益に顔や胸を濡らして終わる。そんなぐあいに何度繰りかえしてもついにわたしは水を一滴も飲むことができなかった。
 自分で言うのもおもはゆいが国では屈強な戦士のひとりとして知られていたし、一対一で剣を交えれば大抵の相手にはひけをとらないつもりだ。しかしいまや飢えと渇きの苦痛に加えて、赤ん坊同様に水を飲むというもっとも簡単な動作もままならない自分がいかにも無力で無能な存在に思えてきて不覚にもわたしの眼から涙があふれた。こんなに身体が渇いているにもかかわらず涙を流せることに驚くわたしの心とは裏腹に、それはいまいましいうっとおしさで目頭や鼻の穴に水滴となってまとわりついた。

 突然、眼の前に何かが差し出され、驚いて見上げるとひとりの青年が一本の小枝のようなものを手にして微笑んでいた。右手に山刀を下げているところを見ると、ついいましがたそれを薮のなかから切り出してきたらしいことがわかる。その蒲の茎に似た形状を見たとたんわたしの心に閃くものがあった。受け取ったわたしはその茎の先端から覗いてみた。果たしてそれは中空の軸だった。礼を言うのももどかしく、わたしはそれを瓢箪の口から差し入れて初めて思う存分中身を吸い出した。しばらく夢中で水を飲みつづけたわたしはようやく底知れぬ渇きを癒し、そうして人心ついたために初めて冷静に周囲を見回す余裕を得た。

 わたしがいまいる場所はかなり大きな森らしい。見渡すかぎり深い緑の葉が周囲の眺めを遮っていた。分厚い葉の重なりに遮られて陽光は曇天の室内ほどに弱められていて、そうした薄暗い環境に適応した広葉の寄生植物が空間を埋め尽くしていた。絶えまなく虫たちの羽音が聞こえ、湿った苔の匂いがあたりにたちこめていた。ところどころ白い花弁を咲かせたランを見ることもできた。ひとり虚空を旅してようやくたどりついた場所がこんな生命に満ちあふれた世界であることにわたしは感謝した。
「ありがとう。助かったよ」
 そう礼を言うと青年は破顔した。底意の感じられないその素朴な笑いは信頼の心を抱かせるものだった。この場で殺されるのではないかという恐怖からわたしはようやく解放されて、ほっと身体の力を抜くことができた。
 しかしすぐにわたしは自らの油断を後悔することになった。さきほどのリーダー格の年長者が鋭い調子で一言二言命ずると、男たちは急に笑いをひっこめて腰に巻きつけた縄を解きながらわたしのまわりを押し包んできたのだ。

 取り巻く男たちがイムカヒブ族の戦士たちであることを後でわたしは知った。彼らはこの森に住む三つの部族のうち最大の人口を持つ村の住民でもあった。イムカヒブの村そのものは森を伝い進んで半日ほど離れた場所にある。食料供給のほとんどを狩猟採集に頼っているためにイムカヒブの社会は広い狩猟のための空間を必要としていた。それゆえ彼らは他の部族の侵入を警戒しつつ獲物を捜して幾つかのグループを組んでこのように終日森のなかを巡回しているのだった。
 わたしと遭遇したこの一隊のリーダーはタウヤヘと言い、わたしのために水抱樹の蔦を捜し出してくれた若者はアイカダという名だった。アイカダは族長サラキの息子であり、すでにおわかりのとおり非常に聡明で気のつく好青年であった。当然ながら彼は村人たちのなかで人望がありつぎの族長の地位にふさわしい人物と目されていた。
 とはいえイムカヒブの指導者は世襲で選ばれるわけではなく族長の意向と人望の他にも、気難しい長老たちと、さらにことあるごとに族長に対立したがる呪術師の卜占をも加味される決りになっていたから事はそう単純ではなかった。ことに前の族長であったワラムが長老のひとりであり、その息子が呪術師ツマヤクの義理の甥ときてはなおさらのことだ。

 とはいえこれらはすべて後になってわたしが村人たちから手にいれた知識であり、その時はまだ彼らはわたしにとって未開の森の蛮族にすぎなかった。いまこの場で殺されることはないにせよ自分がこの野蛮人たちの夕餉の献立にされてしまわないという保証はないのだ。それゆえ戦士たちが狩りの獲物かなにかのように自分を縛ったうえで運ぼうとしていることを知ってわたしは必死で抵抗した。
 確かにわたしはこの原住民たちよりも頭ひとつほど大きく体力も勝っていたが、いかんせん多勢に無勢では勝ち目はなかった。数人をはね飛ばした後は周り中から掴みかかってくる男たちの数に圧倒されて、たちまちのうちに身動きできないように手足を縛り上げられてしまい、そうして男たちは今日の獲物の樹鼠や猿の死骸と一緒に宙に浮かんだわたしを手綱で引きつつ村への帰路についたのだった。

 この無礼なあつかいには十分な理由があることをわたしは後で知らされた。この場所はイムカヒブの領有する狩猟場と隣り合うマサスミ族のそれとの丁度境界付近にあったのだ。わたしが墜落したときの大音響は当然マサスミの戦士たちの耳にも届いているはずだから彼らが何ごとが起ったのかを確かめるべくこの場に現れるであろうことは疑うべくもなかった。一方、あくまでここはイムカヒブ族の領地であり、もしも彼らが異部族のメンバーに遭遇したらタウヤヘたちはただちに攻撃して追い払う義務を族長に対して負っていた。森の戦士たちが互いに毒の吹き針で交戦すれば敵味方に少なからぬ死傷者が出ることは避けられない。それを予想してタウヤヘはすみやかにこの場を離れる判断を下し、その途中いかにも足手まといになるだろうわたしを縛って連れていくことを命じたのだった。確かにリーダーとして的確な判断だったろう。しかしそうした事情を知らぬそのときのわたしは怒り狂い、万一縄がほどけ手足が自由になったあかつきには必ずや眼にもの見せてやろうと復讐を心に誓いつつ、ぶざまな姿で男たちにひかれていった。そんなわけだから縄がほどけなかったのはイムカヒブの戦士たちにとってもわたしにとってもお互い幸運なことだった。

 そうやっていつまでも日が暮れることのない森の中を引き回されているうちに葉の間から覗く青空がいつのまにか雲につつまれやがて雨が降ってきた。雨といってもまるで霧のように細かい水の粒子が風に乗ってまわり中から吹きつけてくるといった体裁のものだ。森の木々は一斉に葉を拡げて微細な命の液体を懸命に貯えようとし、飛び交っていた虫たちはたちまちどこかの物陰に息をひそめてしまった。身体にたかる蚊になやまされていたわたしは最初この雨を喜んでいたのだが、まもなく虫達のほうが正しいことを思い知らされた。重さのない世界でのそれは想像を絶してやっかいなものだったのだ。
 故郷ではただ地面に流れ落ちていく雨水が、ここではまるでまったく別の性質を持つ粘着性の液体となって身体の表面にへばりついてくるのだ。背中や腹に巨大な水滴がぶるぶるふるえている感覚だけでもかなり無気味なのだが、さらに困惑させられるのはそれが顔面にまでしつこくまとわりついて、しばしば鼻や口を塞いでしまおうとすることだった。両手を縛られ雨水を払うことができないわたしにとってこれは現実に生命の危険を意味した。必死で頭をふってなんとか水滴をはねとばそうと試みるのだが、それでも水はみるみる頭全体を押し包んで、しまいにはわたしは雨水の中で溺れかけていた。
 さいわいごぼごぼ咳き込む声に男のひとりが気づいて手のひらで水をぬぐいとり、さらに手近の葉をちぎってわたしの口に丸めてつっ込んでくれた。つまり突き出した葉の筒を通して呼吸すればいいという理屈だ。おかげでようやくわたしは溺死の危機を脱したのだが、手足を縛られ窒息の恐怖と闘いながらそうやって呼吸するのは間違っても快適とはいえなかった。
 のみならずさらに別の問題がわたしを苦しめはじめた。今度はついさきほど渇きを癒すためにあわてて飲んだ水がその原因だった。つまりわたしは水といっしょに大量の空気を飲み込んでしまっていたのだ。その溜まった空気が胃袋を刺激し、わたしはげっぷを吐きたくてたまらなくなってきた。しかし一度試しにそうしてみてすぐにわたしは、重さのない世界では胃の中で水と混じりあった空気だけを選り分けて出すのはほとんど不可能に近いことを痛感した。空気のかわりに食道から大量の水が吹き出してくるのだ。
 口だけでからくも呼吸している状態で逆流してきた生暖かい水が気管に流れ込み、わたしはふたたび激しく咳き込むことになった。

 そんなこんなで身悶え苦しみながら荷物のように運ばれるうちにいつしか雨も小降りになり、ほぼ時を同じくして一行は彼らの村に辿り着いたらしい。あいかわらず周囲は霧にとざされていたが明らかにほっとした様子で男たちは、余所者には目のまわるほどあわただしく感じる枝から枝への飛び移りをやめた。その場に浮かびゆっくり回転しながら談笑をはじめた男たちの手でようやく縄から解かれたわたしは――どうやら食材の運命はまぬがれそうだと安堵しつつ――さきほどの堅い復讐の誓いさえ忘れて手近の樹木の枝にぐったりと手足をからませ息を整えるばかりだった。いっぽうイムカヒブの男たちはなにやら盛んに話し、かつ笑いあいながら、すでにわたしのことなど半ば忘れたかのようにそのまま収穫をひっぱってどんどん先に進み、あっという間に霧の帳のなかに消えていってしまった。
 ひとりとりのこされた形でどうするすべもなくわたしがそこに浮かんでいると、突然タウヤヘが霧のなかからふたたび姿を現していったい何をぐずぐずしているのだと言わんばかりに苛立たしげに手招くのだった。たしかにたとえ先に何が待っていようといまとなっては彼についていく以外選択の余地もなかった。そう覚悟を決めて真っ白ななかを手探りつつ進んでいくと……さきほどから何やら木がきしみあう微かな音が絶え間なく聞こえていることに気づいてはいたのだが……それがしだいに大きくなり、やがて微風が雲をじょじょに吹きはらうにつれ動きつづける一連の大きな白い帆がわたしの目にはっきりと見えてきた。

 話を先にすすめるためにここでイムカヒブ族の居住輪について簡単に説明しておくべきかも知れない。一言で表現するならそれは森の樹々から採れる材料を巧みに組み合わせて作られた巨大な風車である。太さ三握り長さ三十紐ほどのほぼまっすぐな枝二十四本を轂とし外周に丈夫な蔦を編んで作った輪状の床をぐるりとめぐらし、床材は輪木の幅の倍ほど両側に突き出してあって、それと轂の間に張られた帆が風の力で昼夜輪全体をまわしつづける。この回転が居住輪の内部に外側へ向かう遠心力を生み出して重力を欠くこの世界での立ち歩きを可能にする仕組みだ。床の下は縦横に木材で補強され編み目そのものも稠密であるから目まぐるしい回転そのものに慣れさえすれば居住に格別不安はなかった。
 この異世界のこともちろん屋根というものはなく、回転軸のすこし下で轂にしっかり結びつけられた太く短い梁から床材にかけて細長い枝が斜めにわたされ、その外側に故郷ではついぞ見かけない幅広い熱帯性の葉が一面に葺いてあった。イムカヒブの人々がムサと呼ぶこれらの防水性の分厚い葉は、葉柄が支柱をつなぐ蔦に軽く結びつけられているだけなのでいつでも望む方向に簡単に開口部をつくることができた。
 これらの巧みな構造により彼らは煮炊きするに不便のない重さのある環境と直射日光や雨水を防ぎつつも適度な通風が確保された快適な住まいを確保しているのだった。一見奇異に感じられるものの思うにこの重さを欠いた世界で唯一快適に暮らすことのできる巧妙なやりかたには違いない、とわたしは肯首した。
 それにしてもこれだけ巨大な構造物を作りあげ、なおかつ円滑に回転させるためには、いかに重量物の運搬に大がかりな台車や牽引のための家畜を要しないだろうこの世界においても、絶妙なバランスを保って精密にすべてを組み立てる周到な計画と技巧を要するはずであった。瓢箪の水を飲むことにさえ手こずった体験からも、いままでただ無知な蛮人と見なしていた人々の技術の高さにわたしは正直舌をまいた。

 しかし一方でその光景は、彼ら森の民がより高度な技術文明を持つ社会と何らかの関わりをもっているかもしれない、という微かな可能性をわたしに予感させもしたのだ。同時にひょっとしたらこの先死ぬまで空のただ中に孤立したこの森にいつづけなくてもよいのではないか、という希望もわずかながら生まれた――なぜならこれら居住輪の回転を支える軸となるべきまっすぐで緻密な太い木材はこの森の曲がりくねった木々の幹からとられたとはおよそ考えられないものだったからだ。綿密に調べないうちははっきりとは断言できないが、おそらくそれは正常に重力のはたらく環境で数十年かけて育った樹木から加工されたように思えた。

 考えてみれば、そもそも居住輪を駆動する広大な帆、あるいは彼らの帯びる山刀のごとき金属製の武器――もまた鋳鉄や緻密な布を機織る技術の存在を前提としている。まえに言ったとおりイムカヒブ族はほとんど衣服というものをまとわず、当然彼らの社会はそうした布地を製造する必要も技術もないはずだった。まして鋳鉄や鍛冶については、虚空に浮かぶ密林という環境でそれらの材料を得、また技術を高度に発達させるのがいかに困難であるかは想像するまでない。むしろそれらの品物は交易によって外部からもたらされたものと考えるのがよほど自然だ。すなわちそれは何時の日にかわたし自身が、それらの品々をこの地にもたらした交易と輸送の手段によってふたたび故郷に戻れるその日が来るかも知れぬことを意味した。そう思い至るとわたしは自らの胸が急に高鳴り、二度と戻れぬと覚悟した妻子の待つ土地への強い望郷の念がいやますのを感じた。

 そんな思いにひたっていたわたしは、ふたたびタウヤヘに強くうながされて我にかえり目頭に滲んだものを密かにふりはらった。確かにいまは未来を夢想しているときではなかった。わたしはふたたび枝をつかんで反動をつけ自らの運命にむかってわが身をなげだした。

 近づくにつれ居住輪の巨大さにわたしはますます圧倒されていた。正直、故郷でもこれだけの速度と規模で稼動する木造構造物を見た覚えはない。自身幾たびか農民たちの風車の建設を監督した経験から、その場から眺めただけでわたしは彼らの住居の構造と目的をすでに完全に理解することができた。しかし肝心の回転軸の摩擦をどうやって解消しているのかはいささか気になった。この人々が精密な金属の加工技術を持っているようには見えないし、ただ木材を組み合わせただけではいずれ軸受けの部分が熱をもち発火してしまうに違いないからだ。

 その疑問は先を行くタウヤヘが居住輪からそれを支える大枝へと伸びた軸の末端に到着したときに氷解した。予想したように軸木は太い二本の枝を組み合わせ、さらに同様の太さの材木で補強した軸受けにはまっていたのだが、その周囲には厚く黒い油脂状の液体を含んだミズゴケに似た繊維状のものが巻かれていたのだ。タウヤヘは側の枝にくくりつけられた壷からこれまた同様の脂で湿った『ミズゴケ』を巻き付けた短い棒をぬくと丹念に軸受けに塗り付けた。こうして住民の出入りの度に油脂を補給されることで居住輪はその回転のスムーズさを保証されているのだった。いささか心もとない気もしたがこの部分にかかる力が車輪全体の加重ではなく主として風圧による軸のねじれだけであるのなら確かにそれで充分かもしれなかった。

 そうして彼らのやりかたを納得したものの、しかし実際に回転軸に乗り移るのは慣れないわたしにとっては一苦労だった。軸受けに間近く、回転軸からは垂直に腕の長さほどの把手の棒が伸びており、タウヤヘは苦もなくそれを掴むと枝から軸へと乗り移った。真似をしようとしたわたしはしかし遠心力に足をすくわれ、軸を中心に弧を描いて投げ飛ばされそうになり、あわてて把手にしがみついた。どうやらこうした不手際は部族の小さな子供たちにもしばしば見られるものだったらしく、すでに先に行った男たちがもどってきて慣れた様子で把手の先でなすすべなくふりまわされているわたしの身体を捕まえて回転軸にしがみつけるようにしてくれた。
 大いに面目を失ったわたしは、しかし居住輪に入る手前でまた試練に挑まねばならなかった。軸にとうせんぼするかのように小さな木製の円盤がはまっているのだ。後日ネズミ避けであることがわかったその円盤の表面は脂が塗られ手で掴むとまずいことになるのは目に見えていた。なんということもなく腕を伸ばして跨ぎ越す男たちに感心しながら、わたしはふたたび悪戦苦闘することになった。

 けっきょくのところ再度苦笑する男たちの助けを借りてようやくわたしは居住輪の内部に入ることができた。初めて生暖かいその居住空間に身を押し込んだ瞬間、鏃に塗る毒を煮る臭いやなめした皮の臭い、さらに大勢の男たちの体臭がいりまじったものが微かに鼻腔を刺激したが、しかしまもなく何も感じなくなった。たぶん床や壁に敷き詰められた森の木々の葉や樹皮や苔の揮発性の香りがそうした生活臭をあらかた中和してくれているのだろう。外見から想像するよりずっと清潔で心地よさそうな空間がそこにひろがっていた。もっともたとえそうでなくてもそのときのわたしはこの世界のどこよりもそこを快適と感じたに違いなかった。思えばあのとき『大翼』漁の監察官とともにベルコーの吊り籠から投げ出されて以来、地に足をつける感覚をほとんど忘れかけていたのだ。まがりなりにもふたたび物の重さを感じられることにわたしはどれほど感謝しても足りぬ気がした。

 イムカヒブの村にはこうした回転式の住居が四つあり、ほかのふたつの部族よりその数が多いのが彼らの自慢らしかった。いまわたしが入ったのは男たちのための居住輪であり、イムカヒブの少年たちは物心がつくと母親から離れて一人前の男になるための修行をすべくここに移り住む習わしになっているのだった。ここで彼らは狩猟そのほかにかかわるさまざまな技術を先輩たちから学ぶわけで、異邦人であるわたしを仲間に迎え入れるにもまさにふさわしい場所だった。

 さて、わたしが回転軸の近くの梁にしがみついているあいだ男たちははるか下でこちらを見上げつつ声高に延々と議論し合っていた。その時タウヤヘが言葉をかわしている相手はかっぷくのいい見るからに威厳のある初老の男だった。それが族長のサラキであり狩猟隊の責任者たるタウヤヘがわたしを連れ帰るという現場での決定を事後報告していたのだと後日わたしは知った。ときおりアイカダも口をはさみつつ数刻にも及ぶ長い長い交渉のすえついに族長がしぶしぶながらうなずき、それがわたしへの最終的な入国許可となった。ほっとした様子のアイカダが梯子を昇ってきてわたしを手招き輪状の床の一区画に導き座るように指示した。その場所は大人ひとりの背丈四方ほどのわずかな空間だったがそののちは寝起き全般をそこで行う仲間内でのわたしの居場所ときまった。

 四方八方、さらに頭上からすらも注視されるなかそこに所在なくあぐらをかいているとやがて円形の床を踏みならすように渡ってサラキが歩み寄ってきた。族長はしばらくの間この新参者を居心地が悪くなるほどにらみつけ、やがて唐突に口上らしきものを延々述べはじめた。一言も理解できないながらもどうやらそれが彼らの伝統にもとづく一種の加入の儀礼であろうことは強弱の韻律を含むその形式的な語り口からも充分想像がついた。それでわたしはせいぜい神妙な面もちでじっと座り、いささか眠気をさそうその声に我慢しながら聴き入っているふりをした。きいきいときしみながら回転する騒々しい車輪のなかの少々やわらかすぎて心もとない床の上ではあったが、そうしてようやくわたしは果てしなく宙に浮遊することを終え、たとえ一時的であれ自らが属する安住の地を見いだしたのだった。

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