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アルバトロスの夜

長嶋有

 いつかのイメージを久しぶりに思い出している。グリップを握りしめ、上半身を回転させる。止まってしまうと打点がぶれる気がして、考えずに一気に振り抜いた。

カシーン!!

 ヘッドの中心でとらえた感触。ボールは思った以上に飛んだ。
 等間隔に建てられたナイターのライトが刈り込まれた芝生を照らしている。ライトの周囲を森がかこんでいる。遠くに小さな池がみえる。わざとらしい、作ったような池だ。
「ドッグレッグ、だって」ミサトがいった。いつの間にか手にパンフレットをもっている。
「入口にあったの」そういえば昔少しだけ付き合った女も映画館で観もしないチラシをかき集めるようにもらっていた。
「それで、どうするの」
「歩くんだよ。打ったところまで」ミサトはルールを全然知らない。貸せよといって、ミサトの手からパンフレットを取り上げた。
 紙質が悪い。がさがさしている。埃がついているみたいだ。
 ・・・玉野島カントリークラブは国内で初めて完全な夜間プレーを可能にしたゴルフ場です。1950年の創業以来、玉野島オープンなどであまたの名勝負の舞台となってきました。自然の起伏を最大限に生かしたコース設計には、マスターズの設計に携わったA・マッケンジー氏が加わり、他に類を見ない個性的なコースとなりました。ルートにより、やまびこ、ライラックなど8つのコースでプレーしていただくことが出来ます。・・・
 ページをめくると第1ホールには確かに「ドッグレッグ」とある。コース全景が俯瞰で描かれているが、特に個性的とも思えない。

第1ホール par4 ドッグレッグ
 車で遠くからみたときは、バッティングセンターかと思った。大きなネットがはられていたからだ。車を停めて入口に近づいただけで、つぶれている気配がした。
 中に入ろうといったのはミサトだ。地方都市から地方都市を渡り歩く旅は、どの道も似た景色で退屈していたのだ。
 ロビーは狭く無人だった。少し前のラブホテルみたいだった。
 ミサトは「これがいい」といって壁のボタンを押してしまった。ミサトはこの旅が始まってからというもの、よく考えて行動するということをやめてしまった。俺が性格を把握していなかっただけで、元からそうだったのかもしれないが。
 蛍光灯のちかっと点灯する音がして、壁際にグリーンの写真が浮かび上がった。下に「やまびこコース」と書かれている。近ごろは米の自動販売機なんてのもあるし、驚くことではないのかもしれないが、なんだか落ち着かない。
「やってみせてよ」ミサトは簡単にいう。
「お父さん、ゴルファーだったんでしょう」
 観光地によくあるミニゴルフの類だろうと思った。だから、自動的に開いた奥の扉をくぐり、第1ホールのティーグラウンドに立ったときは、その規模の大きさにひるんだ。いつのまにか背後にキャディが立っていたのにも驚いた。

 俺と、強引に腕をからませてきたミサトの歩く後ろをゴルフバッグをかついでキャディが付いてくる。キャディはサンバイザーに日除けのタオルを巻くようにしていて顔がみえない(夜なのに日除け?)。
 キャディは無言で歩く。ミサトは、このへんにホテルってある? とか、ここって時給いくら? などと尋ねたが、キャディは自分に聞かれていると思っていないかのようだった。無視かよ、とミサトは怒声をあげて唐突に走った。
 ボールはフェアウェイのど真ん中にあった。ガッツポーズでもするところなのだろうが、なんだか恥ずかしい。フェアウェイなどとという言葉がそもそも恥ずかしいではないか。
 コースは(犬の足のように)ゆるく折れ曲がり、ティーグラウンドからはみえなかったグリーンがここからはみえる。
「やっぱり男はゴルフが好きなんだねえ」ミサトは諦めたような、馬鹿にしたような声音でいった。ゴルフ好きの父親と、その仲間を思い出したのだろう。
「そんなんじゃないよ、俺は」
 俺はボールの手前に立ってグリーンを見すえた。クラブのヘッドをボールの手前にあてがってみて、気づいた。これでは飛び過ぎる。
 キャディが無言でアイアンをバッグから取り出してすっと差し出す。俺は旗を指して尋ねた。
「ここからだとどれくらい?」
「96ヤードです」キャディがはっきり言い切ったので少し驚いた。しかもそれは俺の読みと1ヤードしか違わない。キャディの口調は自信に満ちている。どうやら俺の目もさほど鈍ってはいないらしい。
 ミサトは刈り込まれたフェアウェイに大の字になっていたが、目だけキャディの方に動かして「喋れるんだ」といった。
 俺はたった今の自分の言葉を思い出した。ここからだとどれくらい? そう尋ねたのだ。父もかつてキャディに同じことをよく聞いていた。あれだけゴルフを嫌っていた俺も、コースに出てみれば尋ねることは同じか。
 まあいいか。ここに父はいないし、これはただの遊びだ。俺はキャディの見立てを信じることにした。何人殴り殺しても大丈夫そうなメタルヘッドのドライバーを返してアイアンを受け取った。
 ゆるやかな登り坂の向こうに旗がみえる。手前にくりぬいたようにバンカー。ボールの手前にヘッドをあわせ、クラブのグリップを握り直す。足の間隔を調節するが、定まらない。踏ん張ると、ぬるぬる滑っていきそうだ。やはりスパイクのついたゴルフシューズでないと駄目か。俺はボールをみたままミサトにむかって
「小さいころね。父さんにたたき込まれたんだ」といった。ふうん、ねえみて。体やわらかいんだよ、私。ミサトは寝転がってストレッチみたいなことを始めた。
「くつろぎすぎだよ」
「だって、ここの芝生、寝心地いいんだもん」ちょっと堅いぐらいが一番健康にいいんだよ。ミサトはなんの受け売りをいっているのだろう。
 俺は再び第二打に集中しようとしたが、それらしいポーズでボールを打とうとしている自分が急に恥ずかしく思えた。足も滑るし、邪念が入ったせいか、インパクトの瞬間の感触はよくなかった。
 第二打は高く上がった。ゆっくりバンカーに落ちた。ミサトにも失敗したことは分かったらしい。
「あーあ」といって立ち上がった。ミサトは体を手ではらうようにしたが、芝は綺麗に刈り込まれているようで、ほとんど草はついていない。首筋に一本だけ張りついているのが色っぽい。ライトに照らされてミサトの体は肉感的にみえる。二人ともゴルフというより海にいくような格好だ。黒のタンクトップと細めのジーンズ。小さなサングラスを襟元にさげている。俺もSTUSSYのTシャツとスパッツ。汚れたバスケットシューズは脱いで裸足になった。靴紐をのばして背負うように持つ。
 ミサトは第二打を振り抜いたときにめくれて散った芝生のかけらを拾い上げた。土のむきだしになっている箇所に戻そうとして、うまくいかなくて、捨ててしまった。
 グリーン手前のバンカーまでいくと、背後でガクンと大きな音がした。振り向くとフェアウェイを照らしていた照明がすべて消えている。
「節約のため、支障のない範囲で照明を落とさせていただきます」キャディがいった。
「長い言葉をしゃべった」とミサトが小声でいった。
 入口のさびれた気配からして貸し切り状態というところか。俺は納得したようなしないような気持ちでもう一度振り向いた。照明が消えただけで、森も、歩いてきた道も、ティーグラウンドも、すべてが消滅してしまったような気持ちになった。
 キャディは素早くサンドウェッヂを取り出した。アイアンと交換して、深くえぐられたすり鉢状のバンカーの中心まで大股で降りていくと、ミサトは縁からしゃがんでのぞき込むようにした。
「バンカーショットっていうんだよ」ここから、あの旗のところにボールがいけば成功。
「うわ。なんかゴルファーって感じ。日曜日のテレビ東京だ」ミサトは笑っている。
「こんなTシャツ着たゴルファーはいません」
「すね毛も出てるしね」
 恋人がバンカーの縁から顔だけをのぞかせている。その上に月。たぶん満月。旗はもちろんみえない。俺は旗をイメージしてクラブを強く振った。
 少し手前を叩いて砂が派手に散ったが、ボールはイメージした通り、高く強く上がった。
 よしっ。
 意気揚々とバンカーをかけあがるとミサトが笑って、今、ガッツポーズしたでしょう、と意地悪そうにいった。
 俺は足の砂をはらってグリーンに立った。グリーンは固く、ひんやりしている。キャディにサンドウェッヂを手渡すと、素早くしまって、さっとパターを取り出してくれた。
 どうも、といったが、相変わらずキャディの顔はよくみえない。
「ピンまで3メートルです」斜めにゆるやかな傾斜があるようだ。
「きもち、スライスかな」
「スライスラインです」キャディはそういうと、ピンまで歩いて旗を抜いた。ミサトは俺がキャディと二人でしか通じない会話を交わしたので「ん」という顔をした。
 俺はもう自分がどんな格好しているかを気にしないことにした。目の前のボールと、グリーンの芝だけに集中した。弱くならないように。思っているよりも少し強めに。ためらわずに。
 打つとき俺は眼を閉じていた。ボールが芝と擦れ合いながら転がるかすかな音も俺には聞こえてきた。

 カッコーン

「きゃー!」ミサトが大声で叫ぶと背後の森から鳥が何羽かあわただしく闇の中に飛び去る音がした。
 ねえ、もう一度聴かせて。ミサトは俺の腕に自分の腕をからませて頬に唇を押しあてた。
 もう一度カッコーンっていうの聴かせて。俺はミサトの手を離すと、カップに手を突っ込みボールを取り出した。そして、もう一度穴の中に落とした。涼しげな音が響く。
「そうじゃなくて!」遠くから打って、転がしてカッコーンっていうのがいいんじゃないの!
 じゃあ、次のホールでな。俺が歩くとキャディが続いた。華奢な体でバッグを抱えるが、まったく重そうにみせない。何度か父のキャディをしたことがあるが、重労働だった。父は一打ごとに「ピンまで何ヤードだ」とクイズを出した。間違えると大きな手で、軽くこづく。痛くはなかったが楽しくもなかった。正解しても「そうだ」というだけでなんの褒美もなかったからだ。
 ミサトは慌てて後を追ってきた。
「待ってよー」背後にミサトの叫ぶような声を聞きながら俺は笑った。夏の夜風が気持ち良かった。スロープを三人で歩くうちに背後でまたガコン、と照明の消える音がした。ミサトは振り向いて
「なんだか、通り過ぎた世界がどんどん消えていくみたいだ」と、俺がさっき感じたのと同じことをいった。

第2ホール par3 池越え
 巨大な湖に出た。湖の真ん中に小島がある。
「あれがグリーン?」俺は少し呆れてパンフレットを再びめくった。「第二ホールは池越えのショートホールです。風に注意」とある。
 ティーグラウンドの草をむしって放った。父はこれをやるのはマナー違反だといっていたが、森林をばっさり切り開いて作ったゴルフ場で草をむしったぐらいがなんだと子供の時から思っていた。
「なに。いまの。なにやったの?」ミサトは自分も草を乱暴にむしって、目の前の湖に投げつけた。
「風向きをみたの」なんだつまんない。
 一発でグリーンに乗せないとウォーターハザードだ。俺がティーの上にボールを置くと、ミサトが近づいてきた。キャディの方を一瞬うかがうようにすると、耳元まで顔を近づけた。
「ねえ、あの、穴の時さ」
「穴の時? パッティングのときのこと?」
「旗を抜くのは私にやらせてよね」ミサトは小声でいった。なにかエッチなことをいわれているような感じ。
 心持ち左側に打ったのだが、上空の風は強かったようで、ボールは思った以上に右に流された。ゆっくりとボールは暗い湖面にすいこまれた。
「ウォーターハザードだ」
「ラフです」キャディは例の素早さでそういうと、先導するように歩きだした。ちゃぷ、と水面に入り込んで、そのまま歩く。
「・・・遠浅なんだね」ミサトはいった。遠浅だなんてミサトにしては難しい熟語を知っていると思った。
「ほんとだ」キャディはまるで水面を歩いているようだった。キャディが歩く度に波紋が出来て水面が揺らぐのが分かる。もうずいぶん先にいっている。
 すごーい。突然ミサトは低い声でいうと、湖に向かって歩きだした。水に足が入ったところで、ミュールを脱いで素足になった。
「冷たい」ミサトは甲高い声で叫ぶ。俺も後につづいた。二人、靴をもって水面を歩く。
「ゴルフってすごいね。面白いね」歩きながらミサトの声は震えている。
「いや、普通のゴルフはこうじゃないんじゃないか」俺もよく知らないんだけど。
 足はほんの少ししか沈まない。間違いなく水の感触だ。思ったほど冷たくない。ここにはナイターの照明がないのに明るいのは月の光を湖面が反射するからだろうか。お互いの足が波紋を生み出すのを二人、みおろしながら歩き続けた。
 塩湖と呼ばれる湖を思い出していた。バイカル湖じゃないし、カスピ海じゃないし、なんという名だったか。ミサトの横顔をみた。多分、知らないだろうな。
 湖の中ほどまで来て、振り向いてみた。ティーグラウンドの照明は落とされている。ガコンという音も今度は聞こえなかった。ミサトも振り向いて自分たちのいた場所をみていたが、俺の手をとって握りしめた。
「怖くないよ」ミサトはいった。
「あんなふうに、全部消えていけばいいのに」
 我々は駆け落ちしてきたのだ。うまくまいたとは思うが、追っ手もいる。今時、命をかけて何かするなんて、と自分でも呆れている。東京を出て、県を二つぐらい越えたあたりで、自暴自棄な気持ちが恐怖を麻痺させてしまっていた。車内でもホテルでも、俺たちは常に笑ってばかりいた。徹夜明けの頭みたいに、下らないことばかり思い浮かび、それがいちいちおかしい。そんな感じだった。

 ボールは間違いなく水の上にあった。ピンポン玉みたいだ。かすかに上下してみえるのは波のせいだ。俺があがるとほんの少しボールが下がる。ボールが上がると俺が少し沈む。足が冷えるから早くしてね。ミサトがいう。悩まずに俺は第二打を打った。水しぶきがあがる。ボールはまっすぐに上がり、小島に落ちていった。
「ねえみて。魚」ミサトは足元を指した。暗い湖面を緑色に輝く魚影が、一瞬ゆらぐようにみえた。すると背後からしゃっしゃっしゃっと水をはじく音が聞こえてきた。
 湖の淵から素早くやってきたのは猫だ。猫はしぶきをまき散らしながら水面を駆けてきて、魚影を追いかけ始めた。水の中に何度も前足を突っ込もうとするが、深くもぐられてしまったらしい。
「最近、多くて困っています」キャディが猫を一瞥していった。
 我々はぱしゃぱしゃ音をたてて小走りで上陸したが、小さく設けられたバンカーにも、茂みにも、青々としたグリーンのどこにもボールはない。自分の打球の行方に自信がもてなくなってきた。
 だがキャディは、確信に満ちた足取りでグリーンの真ん中まで歩いた。
「カップインしてます」あ、待ってよ、私が抜くんだから、とミサトは慌ててキャディの方に走っていった。そしてキャディが掴みかけた旗を奪うようにして勢いよく抜いた。それから穴をのぞき込んだ。
「すごーい手品みたい」ミサトは飛び上がった。俺も思わずよしっと声をあげてしまった。
「ナイスバーディ」キャディがいった。
「なにそれ」ミサトは少しむっとしたようだ。俺はゴルフのスコアについてミサトに説明した。すべてのホールには、距離に応じて打数があらかじめ規定されていることを。
「規定より一つ少ない打数でカップインすればバーディ」ここは、三打でいれる規定だから、そこを二打でいれたからバーディ。
「Birdie」ミサトは夜のグリーンの真ん中で正しい発音を披露した。
「Birdieつまり、小鳥ちゃんだね」ミサトは小鳥ちゃーん、といいながら俺の頭を撫でた。そして穴から取り出したボールを手渡しで返してくれた。
「カッコーンが聴けなかったのは、残念だけど」
 湖上で猫が鳴いている。

第5ホール par5 モノリス越え
 これまでパー、バーディ、ボギー、ダブルボギーときている。よかったのは初めだけだが、そもそも初めての実戦でこれでも上出来過ぎだ。
 父はツアーで一勝もしたことのないプロゴルファーだった。木曜か金曜のスポーツニュースで、上位五名のテロップに名前が出たのが一度あるかないか。土日のテレビ中継で父をみたことはなかった。
 練習場でのレッスンが主な収入源だった。はじめるのが五年遅かったせいだ、と自分の親を恨んでいた。とばっちりを俺が受けた。裏庭に貼られたネットが擦り切れるまで、毎日へとへとになるまで練習させられた。気持ちはどんどんふてくされて俺は笑わない子供になった。プロテストを受けるまで、コースには出さないといったが、出たいなんて思っていなかった。テストを受ける規定の十八歳になる前に父は死んだ。せいせいしたが、暗い性格は直らなかった。

 ミサトは「ダブルボギーの方が男らしくてかっこいいじゃん」といった。
「パーなんて」ミサトは眉間にしわを寄せた。男は常にダブルボギーでなきゃ。
 ともあれ、生まれて初めて俺はゴルフを楽しんでいる。ミサトのおかげだ。悲壮な決意などとは希薄な、なんとなく引っ張られた手を振りほどけないままついていったような、そんな駆け落ちだったが、はじまりがいい加減でも今は目の前の女に愛しさを感じている。サーキットに水着の女がいるのに、ゴルフ場にミュールの女がいて悪いという法はない。
 ティーグラウンドで何度か構えなおしているうちに、ミサトは歌をうたった。聴いたことのない歌だった。

  遠くのゴミ箱に 放った紙屑の
  入ったためしがない

(嫌な歌詞だな)俺はもう一度構え直した。

  遠くの桜を わざわざ観に出かけたら
  まだ咲いてなかった

  毎日いつでも
  僕が舌打ちするのを
  君が笑ってみてる

  近くの公園に 並んだひまわりを
  ずいぶん自慢してみせる

(まだ終わらないのか)俺は大きく振りかぶった。

  近づくと逃げる 犬にあげる餌の
  置き方を思案している

  毎日いつでも
  君がふりむくときには
  笑顔でありますよう

 歌い終わる寸前に俺は振り抜いた。キャディが拍手したのは歌に対してだろうか。ミサトはしかし不機嫌そうに「お腹空いてきた」といった。
「9ホールを終えたらレストハウスがあるよ」
「今、何ホール?」
「5」うえぇ。ミサトは情けない声をあげた。
「もう分かった。ゴルフは分かった」だから帰ろう、ミサトは俺の腕を引っ張るようにしたが、俺は前に歩きつづけた。今から戻っても同じくらい歩くことになるのだ。
「もう少しやらせて」テイーショットはラフに入り込んでいたが、浅そうだ。ボールまで辿り着くと、遠くのグリーンを見すえた。思い切り叩けば2オンも出来る距離ではないか。
「モノリスに気をつけてください」キャディが珍しく自ら口を開いた。俺はミサトが嫉妬の目を向けていないかと振り向いたが、遠くの木の根元に腰掛けている。遠くにいても唇が不満そうにとがっているのが分かる。俺はしばらく木の下の恋人をみつめた。
「あのあたり空間が不安定です」キャディは空中を差していった。キャディの服の袖は指先がかろうじてみえるぐらいに長い。その指先も白い手袋で隠されている。
「OBの可能性があります」
「OBの」キャディはうなずいた。
「ここでのBはブラックホールですから。気をつけてください」
「じゃあ、迂回します」調子に乗って初ゴルフでイーグル狙いなどと考えていたが、キャディのアドバイスに従うことにした。これまでも、このキャディの判断は完璧だった。間違いのない飛距離のクラブを選んでくれたし、グリーンの芝目も正確によんだ。
 第二打をグリーン右手前に向けて振り抜いてから、じゃあOは何の略なんだろうと一瞬思った。
 フェアウェイ脇の巨大な照明を見上げるとたくさんの虫が盛んにぶつかりあっている。だんだん夜が深まってきた。ミサトはまだ休んでいるだろうか。
「あ、モノリスに気をつけてください」キャディがいつになく強い声をかけてきて、思わず立ち止まった。足元に白い四角形の石がいくつか置かれている。
「これがモノリス?」小さいね、といった。トンボのMONO消しゴムみたいだ。
「映画などに出てくる大きいのは、あれは偽物ですから」相変わらずサンバイザーと頭巾で顔は隠れている。
 第三打をうまくグリーンのそばに寄せたとき、遠くからミサトの声がした。
「置いてかないでよー」泣きそうな顔で走ってくる。
「よければカートを取ってきましょうか」キャディがいう。
「あるんですか」じゃあ、お願いします。キャディは素早く背後の茂みの中に入っていった。
 ミサトははあはあ息を切らせながら間近までやってきた。そこ、モノリスだから踏むなよ、というのが少し遅かった。
「え。なに」ミサトはモノリスを踏んでしまった。
 すると、幾本か立っていた照明のそれぞれに群がっていたすべての虫たちが、一斉に羽音をたてて上空に集まりはじめた。
 やだ、怖い。ミサトの声は羽音の集合のせいでほとんど聞こえなくなった。ミサトは耳を塞いで寄り添ってきたが、俺にもどうしようもなかった。照明から離れて虫たちは夜空の中のさらに濃い闇の塊となった。
 だが、俺たちが身を竦ませている間に、羽音も、虫の集合で出来た闇も、みるみる小さくしぼんでいった。
「なに? なんなの?」一分か二分か、それくらいの間の出来事だった。
「OBだよ」俺はつぶやいた。虫がいなくなると、フクロウが鳴き始めた。
 その後、俺は散々で渦巻きのグリーンでは四打も叩いた。

第9ホール par5 ロングレンジ
 ミサトは幌のついた四角いカートをあてがわれてすっかり機嫌がよくなっている。右や左に蛇行や回転を繰り返しながら、私やっぱり免許とることにしたー、と何度もいった。ミサトが俺を駆け落ちに誘った最初の台詞が「ねえ、車の免許って持ってる?」だった。ミサトは机に向かっていて、俺はその背後に立っていた。
 俺はハーフの9ホールも回れば十分だろうと思いはじめていた。夜もかなり遅くなっている。
 キャディは「本当に触れてないですか」と不安そうに聞いた。俺とミサトは示し合わせてモノリスには触れていないと嘘を通すことに決めていた。なにか弁償などといって請求されたら困るからだ。
「一番よくないことが起こるかもしれません」
「落雷とか?」
「触れた人にとって一番よくないものが呼び寄せられることがあります」不安になったが、口を割らせようとしての引っかけかもしれない。俺は黙った。そして最後のホールに集中することにした。
 第9ホールは一面の砂漠だった。砂それ自体が光をたたえているかのようだ。照明がないのに、グリーンまで明るく見通すことが出来た。グリーンの周囲だけ小高い丘になっていて、古代の墳墓のようだった。ところどころにある巨大な木は、あれはサボテンだろう。
「レストハウスにカクテルってある? 私カクテル飲みたい」ミサトは気を散らせるようなことをいう。ドッグレッグとか、ダブルボギーとか、全部カクテルの名前みたいなんだもん。飲みたくなるじゃない。
「みて。地平線」ミサトはもうカクテルを何杯も飲んでるみたいにはしゃいでいる。
 第一打はサボテンの横のバンカーに(といっても一面バンカーなのだが)落ちた。足がだるくなってきている。歩きながら、そういえばなんで地平線がみえるんだろうと俺も思った。裸足だと熱いので、俺はまた靴をはいて歩いた。
 俺の隣をミサトはカートで併走した。キャディは俺の少し前方を歩く。水面を歩いたときよりも疲れる。カートは少しも音がしない。キャディは重いバッグをかついでいるのに、その足跡はとても薄く小さい。
 ボールは砂に半分埋まっていた。グリーンまで距離も高さも結構あるし、相当強く叩かないと駄目だ。
 ねえ。ミサトはカートを降りていた。前髪をかきあげながら
「タイヤの跡と足跡」そういって、今歩いてきたところをみた。俺もタイヤの轍とバスケットシューズの足形を目で追った。キャディの足跡はほとんど残っていない。
「なんか、月にいるみたいだ」ミサトは寂しそうに遠くをみていう。風がふいた。砂塵が舞い上がるとミサトは目を細めて、しかしまだ足跡をみつめていた。俺はグリーンをみた。風にゆれる旗をみると、やはり月に残されているというアメリカの国旗が思い出されてきた。
「さっさと終わらせるから、レストハウスにいこうよ」慰めるように声をかけて、俺はボールを打った。砂だけを豪快にまき散らせて、ボールはほとんど飛ばなかった。

カッコーン

 やっと最後のロングパットを沈め、涼しい音が鳴るとミサトは旗を手にしたまま笑った。
「ナーイス」といった後で指をおってから「ダブルボギー!」と大声で叫んだ。それから両膝をついてボールを取り出した。親指と人差し指で持ったボールを空に透かせるようにして、これも月みたいといった。
「優勝したら、ギャラリーに向かってウイニングボールを投げるんだよ」と教えると
「こう?」といって、野球のように振りかぶって投げた。ボールは砂漠の、さらに先に飛んだ。
「それじゃ、ギャラリーが怪我する」俺は笑った。さっきまで気づかなかったが遠くにオアシスがみえる。キャディに尋ねなくてもあれがレストハウスだ、となんとなく分かった。

 地平線の、ちょうどボールを投げた方向から砂煙とともになにかがやってきた。
「黒塗りのベンツです。ナンバーは4642」グリーンまでの距離を教えるような口調でキャディがいった。
「パパの車?」でも、まさか。ミサトは驚いて手を胸にあててみせた。ミサトの父親は関東一の規模を誇る暴力団の幹部だ。自分の出自にコンプレックスがあるらしく、娘のミサトに英才教育を施そうとやっきになっていた。ミサトの心はとっくに離れている。俺はミサトの家庭教師だった。二週間だけ。
 近づいてくるのは間違いなく黒塗りのベンツだ。ベンツは間近まで来なかった。かなり遠くのサボテンのあたりで停車した。助手席から一人、黒ずくめの男が出てきた。ミサトの父の護衛の一人だ。男は不審そうにサボテンの一つに近づいて、手で叩いたりしている。
 モノリスだ。
 すぐにかがんで隠れればよかった。向こうはいきなり砂漠に来て、訳も分からないでいるのだろうから。ぼんやりしているうちに、黒づくめの男は俺とミサトに気づいてしまった。向こうも我々をみつけて戸惑っているようだ。
 逃げなくては。このままではミサトは連れ戻される。そして間違いなく俺は殺される。「パパは何人も海に投げ込んできたから」毎晩、ベッドの中でミサトが話して聞かせるのは父親の残酷なエピソードばかりだった。それでも私と逃げつづけるか、と覚悟を問われているようで、俺はわざとそっけなく聞き流していた。
 だが今、俺はグリーンにへたりこんでいた。ミサトを連れて逃げ出した夜は平然としていたのに。真夜中に広い庭で、追っ手となるであろうベンツのタイヤに穴をあけていたときは素早く動けたのに。足の力が抜けたのが自分でも情けない。気持ちだけが妙に落ち着いていた。丸腰の我々に勝ち目はない。
「ミサト。やばいかも」俺と同じ光景をみながら、ミサトは静かに泣いていた。もう結末まで分かってしまったような、さばさばした表情。多分俺も同じ顔をしているのではないか。
「ごめんね」
「いいよ」俺は笑おうとした。間もなく俺は蜂の巣にされるだろう。死体となり、折り曲げられてトランクに押し込められ、走り出したベンツの助手席でミサトは押し黙りながら、だがもうそのときには徐々に俺を忘れ始めるのではないだろうかという気がした。それでもいいと思えた。
 俺は立ち上がるとキャディにパターを返した。するとキャディが今までにない低い声で
「あなたのお父さんを知っています」といった。
「あなたのお父さんは素晴らしい人でした」キャディはパターをバッグに収めると、素早く新しいのを取り出した。
 反射的に受け取った、それはゴルフクラブではない、ずっしりと重いライフル銃だった。
「ボンネットを狙ってください」
「!」
 ライフルは俺の手の中で黒く光っている。砂漠の向こうでは、男が運転席に慌てて戻っていた。車が再び動き出そうとしている。砂にタイヤをとられて、前輪が空回りしている。キャディの声は俺の気持ちを少しだけ落ち着かせた。
「距離は300ヤードです」
 のぞき込んだスコープの中は緑色にみえる。
「弾は五発です」
 引き金をひく。音もなく、光の筋のようなものが矢のように飛んでいった。一発目は手前過ぎた。想像していたほど反動がない。普通の銃ではないみたいだ。
 俺はまたスコープを覗いた。手に汗をべっとりと感じる。あと四発で当てる自信はない。貸して。ミサトが銃を横から掴んだ。ミサトは細い腕で大きな銃を構えた。
「昔、パパにたたきこまれたの」照準をあわせるや、ためらわずにミサトは撃った。
 ボンネットが跳ね上がった。火が吹き上がる。
「いい銃だね」ミサトはキャディに銃を投げた。
「ナイス、アルバトロス」受け取ってキャディがいった。俺とミサトはグリーンから砂の斜面を、まさにアホウドリの助走のように駆け降りた。椰子の木に囲まれたレストハウスに向かって、笑いながら振り向かずに走った。

(了)

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