続編 癖は本能時にあり しょの11

軽茶一かるちゃいち 成助なりすけ

さて お立ち会い

ときはいよいよ 天正十年六月二日聖金曜日としましょう (ぱしっ

実際は木曜日ですが便宜上 受難日とゆことです


前回の最後のトコが気になりますか?

この次のオチに使うつもりがうっこり先に出してしまったので^^


予定を変更して新たなオチの前にもう一度 

ゼロ学をおさらいしておきましょう


例えば家康の生誕は

天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日、遡及グレゴリオ暦1543年2月10日)


とゆうことで前にも書いたゼロ学データでは

火星のマイナスか月星のマイナスになるのだが

なぜ ぼくの親友故令洋先生は家康を木王星(卯)と見たのか


ところでこのプラスとかマイナスとかは 本来ゼロ学会では陽と陰とゆう

わかりやすいのでぼくもこの表記にしているが

このゆい方はゼロ学出身の細木数子によるものだ

細木は破門されていて ホンマはこのゆい方をすると令洋センセにおこらえる


干支でゆえば 子は+卯は- 午は+未は- であることだ

光秀(子)家康(卯)信長(午)帰蝶(未)


さて家康がもし木王星なら卯はゼロ王星になるが(信長と帰蝶もそうである)

木星のマイナスとは海王星のことで

ぼくと同じ星である 干支は違うのでぼくはゼロ王星ではない


そこで ぼくの性格を当てはめていただければ 知らんシトはなんでと思い 知ってるシトはなるほどと思う点があるはずだ

家康はゼロ王星であることで その反対の性格である金星の要素も併せ持っているとゆうところが違う


木星のマイナス海王星のポイントと軽茶(巳)


余裕と知性 (そやろか

大器晩成である (ほんまか^^

年長者にかわいがられる (これはある

家庭的で仲間を大切にする (これもある^^

責任感があり出しゃばらない (これは違う

優しく紳士的なフェミニスト (これはある^^

慎重なプロセスを経るが結果重視 (これもある

専務理事タイプで 最強のNO2 (これはあたり^^


つまり 石橋を わるまで待とう ほかっとけ である


光秀も同じ木星のこっちは子年のプラスだが ほぼ同じ

ただ海王星よりは融通が利かない


再々出てくる ゼロ王星 とは何か 細木数子でゆうなら霊合星


簡単にゆうと 生まれ年が自分のゼロ期なのである

ゼロの考え方は難しく 単に悪いものとゆうわけではない

ある意味で自分のエッセンスでもある


それぞれの星にゼロの干支がある

水星+ 水王星 子

  ー 氷王星 丑

木星+ 木王星 寅

  ー 海王星 卯 家康?

月星+ 月王星 辰

  ー 魚王星 巳 信玄

火星+ 火王星 午 信長

  ー 冥王星 未 帰蝶?

金星+ 金王星 申

  ー 小王星 酉

土星+ 土王星 戌

  ー 天王星 亥

光秀・木星子 秀吉・水星申 謙信・月星寅 らはゼロではない


ゼロは季節でゆうと 冬である

フツー冬に種を撒いても育たない

春に種を撒き 夏に花が咲いて 秋に実がなり収穫して 冬を迎える


この時の流れを如何に全うするかである

もちろん皆が良い時期に結婚したり 子供を産んだり 家を建てたり 会社を創業したりできるわけでもない

その時期にしなければならない事情もある

今日はこっちの方角に行ってはいけないとゆうこともない

水商売に水星が多いのは水は水星のゼロ要素だからである

木星のゼロ要素は植物でグリーンである


ゼロにはゼロの過ごし方がある 流れに逆らっては良くないだけなのだ


光秀は流れに逆らったのか


1562年(午年)6月(午月)21日(寅日)午前四時(寅の刻)

木星の子(ねずみ) 光秀にとって

決定年決定月ゼロ日ゼロ時刻そしてゼロ方位である


光秀の携帯を鳴らしたのが帰蝶であったのはともかく

読者諸氏には それをどう挙句にするのかお楽しみに


以下次回


ひとつだけ

ぼくの解釈を加えておくと

光秀は

ゼロの信長と ゼロの帰蝶に挟まれて ゼロの家康を救う

とゆう運気を作ったのではないか?


光秀が天海坊になったかどうかはロマンだが

家康が おそらく自分の血であり春日の子でもある家光に 光の字をつけたのも またロマンであろう

家康は同じ木星属として 光秀の意志を継いだのではないか

大陸進出をせず鎖国まですることによって日本の文化も大きく変わるのである


さらに追加すると

家康は光秀の計画を知っていた

伊賀越えに苦労した一件は実は全く逆の話で 信長の伊賀攻めのときに家康に救われた伊賀者が恩義を感じて 家康の脱出を全面協力したので楽勝だったとゆうことだ

安土城放火事件も家康の差し金である 実行犯は伊賀者だ

穴山梅雪の一件も裏がある 一揆に討たれたのではない

そしてもう一人事情を知っていた斎藤利三が口を割らなかったことが 上記の春日の一件に繋がる


本能寺以後の家康の行動は府に落ちない部分が多々あるが そう考えれば全て説明はつく

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