癖は本能時にあり しょの6

軽茶一かるちゃいち 成助なりすけ

Dday 当日である まさに今 いちごぱんつ6月21日午前四時 旧暦では天正10年6月2日寅の刻


木星の子(ねずみ) 光秀にとって

決定年人気月ゼロ日ゼロ時刻ゼロ方位

人気とゼロの組み合わせが火花を飛ばす


未明 桂川に到達すると 光秀は触をだして馬の沓を切り捨てさせ 徒歩の足軽に新しく足半(あしなか)の草鞋に替えるように命じ 火縄を一尺五寸に切って火をつけ五本ずつ火先を下にして掲げるように指示した これは戦闘準備を意味した


ここで有名なあの言葉を唱えた(江戸時代中期の明智軍記の中にある記述で裏付けには乏しい 頼山陽創作説もあるがここではやはりそう叫んだとするのがロマンである)


それまで家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていたともゆわれている

桂川を越えた辺りで夜が明けた 先鋒はいわくの斎藤利三

午前4時頃寅の刻 光秀木星のゼロ(種)時刻 明智勢は本能寺を完全に包囲し終えた

蘭丸が物見して「明智が者と見え申し候」と信長に伝えると

これも有名な言葉「是非に及ばず」と答えたのは 光秀の性格と能力から脱出は不可能と悟ったからである

既に御殿には火がかけられ観念した信長が自害するのは卯の刻あたりと思われる 木星の精算時刻 討ち入り終了は午前8時頃辰の刻なので 信長にとって寅の刻から辰の刻までは秋 結実~熟~落果 光秀にとっては冬 種~凍~芽


しかし信長の遺体は見つからなかった


あれだけの木造建築物が丸焼けになれば当時の調査力では特定の人物遺体を捜すことは無理である

このため生存説を否定できず 諸国の武将達は光秀に従うことができなかった

そこでさまざまな異説がある

極めつけは黒人奴隷弥助とともに逃げ延びてアフリカに渡ったとゆうもの(現地にそれらしき東洋人が来たとの言い伝えがある) 義経が大陸に逃れチンギス・カンになった(時代が違うが)とか 秀頼が九州まで逃れ息子が天草四郎とかゆうようなものだ


でわ同じく遺体の見つからない光秀は?


そして光秀はなぜ別心したのか しょの2


ぼくの推論は


信長(火王星の午※ゼロ)光秀(木星の子)の性格や相性から見てふたりの性格の不一致はない

多少のパワハラくらいでは木星の性格にいてもちゃれとゆうほどの逆心はない


しかしゼロ王星はときに暴走する台風の目である

また火行は 粘り強くて思慮深い知性派(ここは最近の信長像の見直しである) クールに見えても強い意志と情熱を秘めている 勝負師として名を残す 頑固で協調性を欠き 正しさを主張する態度に他人はついて来れない またプライドを傷つけられるのを嫌うので 途中で挫折したときのもろさもある


だからこれを何とかしたいとは思っていた 木星の

「優柔不断」を後押しした要素がどこかにあるはずだ


もうひとり生年月日も没年もわからない人物がいる


それは 帰蝶(濃姫)である


いちおう1535年生まれ(信長のひとつ下)だけはわかっていて未年だ

もし彼女も火王星ならゼロであり フィクサーもあり得る

組織の一員よりフリーの仕事において男性以上に能力を発揮するのだ

今回の大河で新たに描かれた帰蝶像はご存じだろう


信長とは背信相性(良かれと思ったことが裏目にも出やすい相性)


帰蝶と光秀とはお互いに健康相性(トラブルを乗り越えていく事で絆が深まる相性)


五行説では「相生」「相剋」「比和」「相乗」「相侮」の相関関係があり

木生火 火生土 木剋土 火剋金 そして 水生木 水剋火

である(※秀吉は水=黒幕か?)

同じ気が比和するとますます良いかますます悪くなる

相乗は 相剋が度を過ぎたもの

また相侮は 相剋ではなく反剋(逆転)となる


本来 木は火を討ち滅ぼさない 逆である 木は火を産む

これでは説明はつかない

しかし 木は燃えて火を産むが燃え続ければ火は衰える 水は木を産むが溢れ続ければ木は腐る

森羅万象には相生・相剋の二面があって穏当な循環が得られるが 何かがそれを乱したのだ だから三日天下なのである

信長と帰蝶が火行のゼロであること さらに陽(午)と陰(未) そして【男】と【女】の間があることを前提にすれば

本来フツーのシトである木行の光秀がこの二人に挟まれて 【夜】と【朝】の間にどんな夢を見たのか


 解は本能にあった


再開する大河はオチをどうするつもりなのか楽しみである


ぼくのオチがわからないって?

この推論を検証したらNHKに投書するので大河の結末を見なさい^^


ちなみにぼくが

いちごぱんつではなくにんじんぱんつを隠し武器に裸踊りをしていたことは 業界内外に知るシトぞ知る 地元飲み屋街アロチの史実である

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