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Author Interview

インタビュアー:[雀部]

『グアルディア』
> 仁木稔著/佐伯経多&新間大悟画
> ISBN 4-15-208588-6
> ハヤカワSFシリーズ Jコレクション
> 1900円
> 2004.8.31発行
設定:
 22世紀末に、人類文明は核兵器による汚染と極悪なウィルスによって壊滅した。そして27世紀末、赤道付近に残された都市から、ようやく文明の再興が始まろうとしていた。唯一、古の科学技術を保持していたエスペランサにおいて、知性機械<サンティアゴ>に接続する能力を持つ<生体端末>でもある独裁者アンヘルは、レコンキスタ軍を組織し、不老長生のメトセラにして護衛の少年ホアキンとともに、グヤナ(ベネズエラ)攻略を画策していた。
 一方、民衆たちの間では、サンティアゴを神の降臨と考える参詣団が組織され、サンティアゴが降臨する場所を目指していた。そして、その中心には無敵の守護者<グアルディア>として崇められる美青年JDと、少女カルラの謎めいた親娘の存在があった。彼ら二人を利用しようと、アンヘルは捜索網を広げていたのだが……

気づいてくれる読者がいないだろうことを想定した上での遊びなんですけどね

雀部 >  今月は、昨年の8月にハヤカワSFシリーズ Jコレクションから『グアルディア』を出された仁木稔先生です。仁木先生、よろしくお願いします。
仁木 >  よろしくお願いいたします。すみません、せっかくですが「先生」は無しでお願いします。
雀部 >  はい。ではそうさせていただきます。
 ちょっとお聞きしたいのですが仁木稔というお名前は、ペンネームなのでしょうか?
仁木 >  はい。
雀部 >  稔という名前は、普通に読むと男性の名前と感じるのですが、この名前をつけた理由が、何かございましたらお聞かせください。
仁木 >  男女両方に使える名前にしたいと思い、最初に浮かんだのが「みのる」でした。だから男性名にしようと思ったわけではないのですが。うーん、確かに私も「みのる」が女性名として実際に使われてる例は知らない……(笑)。
 男女両方に使える名前にしたかった理由は、「なんとなく」です。強いて言えば、「女性ならではの感性」云々といった芸のない常套句の予防、といったところでしょうか。
雀部 >  ふむふむそうでしたか。いえね、SFマガジン'04/10月号のインタビューで、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアがお好きとコメントされていたので、もしやと思い(笑)
仁木 >  えっ、いやその、ティプトリー・ジュニアや名前をイニシャルにしてた初期の女性SF作家たちにあやかろうとか、そんな畏れ多いつもりは全然ないですよ(笑)。
雀部 >  それはなんか残念です(爆)
 名前と言えば『グアルディア』という題名は、格好いいですよね。スペイン語で守護者という意味だそうですが、他にも名前に関して仕掛けがありますでしょうか。
仁木 >  たとえば主人公の一人、ホアキン(Joaquin)はイタリア系なので本名は「ジョアッキーノ Gioacchino」です(GioacchinoとJoaquinは同じ名前のイタリア語形とスペイン語形。彼の親族は皆イタリア系の名前です)。本名(Gioacchino Domenico)だと頭文字はG.D.ですが、通称であるホアキンだとJ.D.になりますね。
 これはホアキンがもう一人の主人公であるJDと似て非なるキャラクターであることを示唆しています。だからJDとの違いが明らかになってくる後半では、本名(ジョアッキーノ)で呼ばれたりもするのです。
 また、一方のヒロインであるカルラは金髪碧眼の美少女という、いかにも天使を連想させる容姿で作中でも二度ほど天使にたとえられ、もう一方のヒロインのアンヘルはもちろんAngel「天使」です。気づいてくれる読者がいないだろうことを想定した上での遊びなんですけどね。

「心理面に重点は置いていないけれど、さりげなくきちんと描いている」のが理想です

雀部 >  ありゃ、当然ながら全く気がつきませんでした。アンヘル=天使は、作中でふれられてはいるんですが(汗)
 前述のインタビューのなかで、"ハードSFがわりと好きで"とコメントされていますが、ハードSFのどういうところに心惹かれたのでしょうか。
仁木 >  同インタビューでも述べていますが、私は高校時代で一度SFから離れてしまい、その後Jコレクション刊行をきっかけにSFに回帰するまでの十年余、ほとんどSFを読んでいません。ハードSFが好きと言っても、SF離れ以前に読んだものばかりなので、数量自体が少ないし、記憶が曖昧になっている点も多いです。
 ですからハードSFについて語る資格など何も持たないのですが、どこに心惹かれるかを敢えて述べさせていただけるなら、科学考証重視はもちろんのこと、「心理描写に重点を置いていない点」です。素っ気なさがいい、と言いますか、冷たくされると却って惹かれる、みたいな(笑)。とはいえ、心理描写がおざなりであっては物語に入りこめません。「心理面に重点は置いていないけれど、さりげなくきちんと描いている」のが理想です。なかなかそういう作品には巡り合えないのですが。
雀部 >  じゃ、グレゴリイ・ベンフォード氏のハードSFなんかはどうでしょう。あ、氏の作品は「心理描写にもかなり重点を置いている」からダメか(爆)
 人物が書けてないのは、SFの場合だとあまり欠点とは言えませんしね。
 で、『グアルディア』の場合、「心理面にも重点を置いて」書かれているように読めたのですが(笑)
仁木 >  すみません、これまでSFについて語った経験がほとんどなくて……ちょっと焦点のずれたことを答えてしまうかもしれません。SFを読んでいた時期にも、周囲に同好の士がまったくいなかったんです。偶々巡り合わせが悪かったのかもしれませんが、やはり時代が大きな要因だったのでしょう。高校入学は88年でしたから。
 そんなわけで、SFを語り合った初めての相手は佐藤亜紀先生でした(笑)。
雀部 >  佐藤亜紀先生と語るなら、ファンタジーでしょう(笑)
仁木 >  一口にファンタジーと言ってもいろいろありますが……。 
 前置きが長くなりました。心理描写についてですが、心理描写「にも」重点を置いているのはいいんです。それに重点を置きすぎるあまり、ほかのもっと大事なことがおざなりになっているのが問題だと思うだけで。
 SFに限らず、心理描写に重点を置きすぎている小説は好きではありません。だって物語が展開しないやん、もうええから先進んでくれよ! と思うので。ただし、「重点を置かない」ことと「描けていない」ことは別物でしょう。
 『グアルディア』の場合は、まず世界設定があって、その中でキャラクターたちはどう感じ、考え、動くのかを想定した結果です。彼らの重い心理や人間関係は、まず重い世界があったからああなっただけであって、重い心理を描きたかったから重い世界を設定したわけではありません。

よくあるガジェットや『お約束』を盛り込んでことごとく換骨奪胎することに挑戦した作品

雀部 >  心理面のことは、おいおい聞くことにして……(笑)
 “まず「生体甲冑<アルマドゥラ>」という兵器ありき”だったと後書きにかかれていらっしゃいますよね。そこからその兵器が存在する世界に生きる四人の男女が生まれたと。ここらあたりの時代背景とか主人公たちの設定を摺り合わせていくのは、ハードSFと通ずるところがあるような気がします。仁木さんは、こういう細々した設定を考えるのと、物語を動かすのでは、どちらが楽しかったのでしょうか。それとも全く別物でしょうか?
仁木 >  できた順番から言うと、(1)生体甲冑の設定→(2)そういう兵器が存在するのはどんな世界かを考える→(3)生体工学を中心に発展した文明と、その後の文明崩壊というおおまかな設定→(4)生体端末、メトセラ等の設定→(5)それらの設定を持ったキャラクターの誕生→(6)キャラクターを動かすことによって物語が生まれる→(7)細部の設定が生まれる
 となります。ですから設定と物語が不可分に相互作用して展開していったわけです。その過程全体が、非常に楽しかったですよ。
雀部 >  そうでしょう。SFファンならあの設定とガジェットならワクワクしますもんね。
 ところで、仁木さんは、フィリップ・ホセ・ファーマー氏の作品はお好きでしょうか?
仁木 >  『恋人たち』しか読んでいませんが、『恋人たち』は好きです。
雀部 >  世界的な背景の作り方とか時代設定とかのやり方が、フィリップ・ホセ・ファーマー氏と似てますもんね。特に、子供を出産すると母親が死んでしまうというのは、ファーマー氏の『恋人たち』にも出てきたアイデアですから。
 他にも、生物学的なアイデアを絡めたストーリー展開も似てますし。
仁木 >  『グアルディア』は、「よくあるガジェットや『お約束』をできるだけ盛り込んで、それらをことごとく換骨奪胎する」ことに挑戦した作品です。そもそもストーリーからして、「文明崩壊後の世界で、悪い奴がロストテクノロジーを復活しようとし、主人公がそれに巻き込まれる」というSFにお馴染みのものを選択していますし。その他諸々の大小の要素も、大半は「お約束」、「ありがち」という基準で選択して意図的に盛り込んだものであり、私自身が特定の作品から受けた影響、という要素は少ないのです。もっとも厳密に区分できるものでもありませんが。

 「子供を出産すると母親が死んでしまう」という設定は、確かに『恋人たち』が印象的ですが、「(出産に限らず)生殖=死」は国内外の作品でちらほらと見かけます。ちなみに「一世代につき一人、クローニングで存続する家系」という設定は、大原まり子氏の短編「親殺し」が念頭にありました。

 SFとは関係ない話になって恐縮ですが、古今東西ジャンルを問わず、物語の結末として「男が死んで(もしくは旅立って)、妊娠した女が残される(出産直後のこともあり)」という一つの類型がありますね。これの別バージョンとして数は少ないですが、「女が死んで、生後間もない子供が男の許に残される」というものもあります。
 どちらも「感動の結末」として用意され、受け取られます。生まれる赤ん坊はほぼ例外なく後者では娘であり、前者では息子、もしくは息子であることが暗黙の了解となっています。残された女(母親)は息子に男(父親)を投影し、残された男(父親)は娘に女(母親)を投影します。暗黙の了解どころか、作中であからさまに言及されさえします。「この子を俺(わたし)の代わりと思って……」
 すなわち、残された片親によって子供の人格は黙殺されるわけであり、少々飛躍した解釈をすれば、親子の関係には近親相姦の可能性が内包されるわけです。気持ちの悪い話だと、私は思います。

 ここでようやく「子供が出産すると母親が死んでしまう」設定に戻ります。つまりこれは「女が死んで、男の許には生後間もない娘が残される」パターンなのです。『グアルディア』では、クリストフォロは「残された生後間もない娘」たちに毎回必ず同じ名前を付け、必ず性的関係を結びます。
 そして物語の結末は(ネタバレですので白文字にします)「男が死んで、残された女は息子を身ごもっている」パターンおよび「女が死んで(後略)」パターン――をそれぞれ換骨奪胎したものなのです。

 舞台となる世界の社会制度や文化、歴史に至るまで設定した作品は、私が読んだことのあるものだけでも膨大な数になります。影響を受けた特定の作品はありませんが、最も印象の強かった作品は挙げることができます。『デューン 砂の惑星』です。初めて読んだ時は中学生で、最初の1冊だけであまりに濃すぎる世界に悪酔いしてしまい(笑)、続きを読むことができませんでした。3年ほど前にようやく再読し、今度は読了できましたが、終盤の展開が駆け足で、まあその。
雀部 >  なるほど《デューン》の印象が一番強かったってのは、すごく納得できます。生態系そのものがテーマのようなところとか、その背後で権力のせめぎ合いとか謀略が渦巻いているようなところとか。では、SFだけじゃなくて、神話なんかも換骨奪胎してストーリーが構成されているんですね。それにしても『グアルディア』を読んで、「なんだありきたりのお話じゃないか」と読者が感じるのが、元々計算に入っていたとは(汗)
 実は、生物学的な記述にも感心したんですよ。擬似ウィルスの<アルマドゥラ>から始まって、最後の大ネタまでが生物学的なものなんですが、これはだいぶ資料を漁られたんでしょうね。
仁木 >  もともと生物学に興味があって、資料もそれなりに読んできています。だから自然と、思い付くSF的アイディアも生物学系が中心で、それを補強するためにまた資料を読みます。『グアルディア』の生物学的要素は、そういった積み重ねの上に出来上がったものです。この一作のためだけに新たに読んだ資料は、そう多くはないと思います。

ちょっとした旅行記を読むような感じも受けて、読んでいて楽しかったです

雀部 >  はいはい。それで生物学・医学的な記述に破綻が見られないんですね。ちょっと感心したんですよ。某有名海外作家でも、医学的にみると間違った記述があったりしますから。あれは、どこまで詳しく書くのかが難しいですよね。書きすぎるとボロが出やすいというのもありますし、読者がついてこれなくなる恐れもありますしで(笑)
 では、いちばん書くのに苦労されたのは?
仁木 >  他の分野の資料を山のように読まなくてはいけなくて(特にラテンアメリカ関係。ラテンアメリカを舞台に選んだのはあとがきにもあるとおりの経緯で、元からの知識は16世紀の征服時代止まりでしたから)、とにかく地獄のようだったので、それに比べれば生物学関係はまだしも楽だった、という印象があります(笑)。
雀部 >  色々書き込まれていて、ちょっとした旅行記を読むような感じも受けて、読んでいて楽しかったです。大学では、シルクロードの文化史が専攻で、文化の交流、文化が受け入れられたり変わっていったりというのにご関心があるそうですが、『グアルディア』でもそういうところが活かされてますよね。
仁木 >  そうですね。文化は多様であればあるほど、豊かで魅力のあるものです。ラテンアメリカの文化は、まるでひっくり返ったおもちゃ箱のようで、その印象を少しでも伝えられたらいいと思いながら書きました。
雀部 >  ちょっと突飛な質問かも知れませんが、人類が全然異質な文化、例えば異星生命体と遭遇すると、人類文化にどういう変化が起こるとお思いですか。想像がつかないから全然異質なんでしょうけど(爆) また、そういう小説を書かれる予定はおありでしょうか?
仁木 >  真に異質であれば、交流は一切ありえないと思います。そもそも私は、人間同士であっても「相互理解」は幻想に過ぎないと思っています。とはいえ、人間同士ならばその幻想も共有できますし、或いはわざわざ理解しあわずとも「利害の一致」による平和共存も可能でしょう。しかしまったく異質な存在とは、利害の一致すら成立するかどうか疑問です。その存在が知性や文化を有しているとしても、それに人間の尺度を当てはめるのは、自然現象や機械の機能を擬人化して解釈するようなものでしょう。

 異質な存在との接触があれば、もちろん人類文化は影響を受けるでしょうが、それは自然環境の変化による影響と同じことです。人類が相手を勝手に擬人化して解釈したり、相手が勝手に人類を解釈したりもするということもありうるでしょうが、それらは一方通行であって「交流」ではないですね。
 言い方を変えれば、多少なりとも異質でない部分があるなら、多少なりとも交流は可能だということにもなりますが。

曖昧さこそが彼の悲哀の本質なのだ、ということまで読み取っていただけるなら……

雀部 >  そうですね、確かに一方通行にしかならないかも。『グアルディア』の主要登場人物たちも、かなりその傾向があると思います。まあ普通の人間とはかけ離れてますから(笑)
 完全侵蝕体であるJDは、世界から全く独立した存在でいることができますが、それ故に帰属感が欠如し、それが孤独感と不安感を増大させています。それに輪をかけるのが、自分の記憶の曖昧さだと思いますが、ここらあたりの設定は狙って書かれているんでしょう?
仁木 >  物語の軸となるのは、JDとカルラ、アンヘルとホアキンという二組の男女の対比です。これは「主役ペア」と「悪役ペア」の対比という構図でもあります。

 神話や古典から昨今のコミックやいわゆるライトノベルにいたるまで、ヒーローというのはトリックスター的あるいはアンチヒーロー的である場合を除き、意外に没個性な存在です。「主役ペア」のJDとカルラが「悪役ペア」(笑)に比べて個性が薄いのは、一つにはそのお約束を踏襲しているからです。同時に、その個性の薄さは彼らの人格が擬似的なものに過ぎないかもしれない、という推測への伏線となっています。

 人間であった時の記憶を有しているカルラはまだしも、その記憶すらないJDは一層曖昧なキャラクターです。その曖昧さこそが彼の悲哀の本質なのだ、ということまで読み取っていただけるなら、作者冥利につきるというものです。
雀部 >  ホアキンとアンヘル、クリストフォロの関係もそうなのですが、一番象徴的なのが、ラストで明らかにされるJDとカルラの関係ですよね。どちらもさきほどお話のあった「男が死んで(後略)」パターンおよび「女が死んで(後略)」パターンで括れるんですが、JDとカルラの関係のほうが、さらに本質化されていると思いました。
 また、物語進行上の糸の片方が、JDが自分の失われた記憶を探す旅だと思いましたが、これも何かの象徴なのでしょうか。
仁木 >  言うまでもなく、「記憶喪失の主人公」というのは偉大な典型です(笑)。また先ほども述べましたが、過去を持たないことでJDの個性がより薄くなる、という効果もあります。

 それより何より、最大の目的はホアキンとJDの対比をより鮮明にすることでした。ホアキンは愛する者のために極限まで自己を犠牲にしようとし、JDは己の過去の探求すなわち「自分探し」を愛する者よりも優先します。それぞれの行動が、それぞれの悲劇を生み出すのです。
雀部 >  JDは、「自分探し」のため、易々とアンヘルの手で操られて悲劇を生むわけですが、これは必然ですよね? ここんとこ、巧いなあと思いました。
 私の知識は30年前で止まっているのですが(爆)、社会学的見地(ハーバーマスの『コミュニケイション的行為の理論』)から言うと、
  未開社会(JD−カルラ)  システムと生活社会の一致
  身分制社会(一般人。特に伝道師のホセ・ルイス)  システムと生活世界の分離
  近代社会(エスペランサ)  社会のサブシステムの登場
 と分類できるかと。
 これにシステムを利用して戦略的行為をする、為政者としてのアンヘルが居ます。
 つまり、誰に頼らずとも生きていけるJD−カルラの生活世界は、対外的には社会的なコミュニケイション的行為を必要とせず(というか他人とは、本当の意味でのコミュニケイションは成立していない)内部完結してます。それと、前述の通り完全侵蝕体であるので、身の安全に無頓着です。
 だから、アンヘルを疑うことをしないわけだと読みました。
仁木 >  そうですね。舞台となるラティニダードは、平たく言えば近代的システムと前近代的システムが混在する社会です。そこから完全に逸脱しているのがJD父娘、そしてアンヘルですが、方向性は正反対です。
 JD父娘は自分たちが持つ力の意味や生き方に無自覚ですが、アンヘルは己の力とその限界を正確に把握しているだけでなく、誰よりも巨視的な見方をすることができます。

 それと、ホアキンは当初は特には逸脱していませんが、物語が進むにつれて、どんどん自分で自分を追い込むかたちで逸脱していき(他者とのコミュニケーションを失っていき)、ついには自らの意思で「人ではない存在」になってしまいます。ただしその逸脱の方向は、JD父娘と同じなんですね。だからアンヘルに利用されてしまうわけです。

ダニエルの悩みは、まさに現代人の悩みそのものですよね

雀部 >  ホアキンは、利用されるのが嬉しいんですから(笑)
 あと、ホセ・ルイスが参詣団に対してカリスマ的能力を発揮し、ダニエルが敵わんなぁと思うところなんかも良かったです。論理的な思考能力(近代社会的)の持ち主であるダニエルが、元々宗教という身分制社会において発達してきたシステムに帰属している伝道師に、前近代社会の大衆を扇動する能力で及ばないのは仕方ありませんよね(笑)
仁木 >  ダニエルは階級的には前近代的社会に属しているのに、近代的な思考を身につけてしまっているので、いろいろと気の毒な子です。近代的社会と前近代的社会は、単純に優劣がつけられるものではないので、ダニエルは参詣団の人々を「こいつらみんな馬鹿」と軽蔑しつつも、彼らのパワーに圧倒され、魅了されていることを自覚しています。そして、彼らの一員になれないことに疎外感を抱くのです。
雀部 >  ですねぇ。ダニエルは、その合理的な知識故に、前近代社会からはみ出してしまい帰属意識が得られないまま、喪失感を抱いて彷徨っています。
 『刑事ジョン・ブック』で有名になったアーミッシュがある程度の成功を収めているのも人間が自らの立ち位置を知り、ある集団の揺るぎない一員であるという帰属意識が重要だということを示しています。
 このダニエルの悩みは、まさに現代人の悩みそのものですよね。
仁木 >  ダニエルは、『グアルディア』の中では、思考や感性が最も現代人すなわち私たちに近いキャラクターです。
 『グアルディア』は全編を通して1場面につき視点を1キャラクターに固定しています。ですからある場面で読者に対して何らかの解説が必要になっても、それはその時の視点の担当者の主観に左右されてしまいます。そのキャラクターが偏見に満ちた性格だったら、解説も偏見に満ちたものになってしまうのです。
 第一章〜第六章は、JD父娘のサイドとアンヘル−ホアキンのサイドに話が分かれて進みます。これは舞台となる社会を民衆と支配層の両面から描くためです。
 しかし、「民衆」サイドを誰の視点によって語るかが問題でした。JD父娘は、世界中を旅して回っているので知識もあるし、周囲から距離を置いているので客観性もあります。それにもかかわらず、彼らは自分たちから半径10メートル以内のことにしか関心がありません。では参詣団の人々はというと、彼らの関心の範囲は半径100メートル以内で、しかも知識と客観性はJD父娘より遥かに劣ります。
 そういうわけで、知識も客観性も好奇心もあるダニエルが、このサイドで視点を多く担当することになったのです。彼はアンヘルのサイドともつながりがありますしね。
 また先述のとおり、彼は思考や感性が私たちに近いので、27世紀のラテンアメリカの民衆文化という馴染みのない世界へと、私たちを案内する役割も果してくれています。
雀部 >  よく分かりました。やはりダニエルに感情移入して読むのは正解だったんだ(爆)
 現代の<情報化/消費化社会>は、初めて自己を完成した資本制システムであると言われています。欲望の有限性という、システムにとって外部の前提への依存から脱出し、前提となる欲望を自ら創出する自立するシステムとして完成しました。すなわち、『グアルディア』において大衆の求める神としてのサンティアゴ、またグヤナ大使に仄めかされたクローニングによる不死などがそうですね。ここらあたりは、現代社会に対する痛烈なアイロニーと感じましたが?(笑)
仁木 >  私も、現代社会へ至る過程とは、欲望がどんどん個人化し肥大化していく過程だと思います。サンティアゴの出現は、現代社会とは異なるシステムに生きていた民衆の欲望に一気に火を点けたわけですね。

 グヤナ大使とクローニングは、確かにアイロニーなんですが、現代社会の欲望に対してというよりも(その要素ももちろん含まれていますが)……
 その昔、80年代以前のSF、少なくとも国内作品(小説もマンガも)においては、クローンというのは大概オリジナルの記憶や人格をそっくり引き継いでいましたね(笑)。80年代末にようやく、「クローニングは記憶や人格を再生しない」というのがSFの書き手と読み手の共通認識として定着したように思います。90年代初めには私はSFから遠ざかってしまったので、その後のことはわからないのですが。
 クローン羊が誕生した時、かなりの騒ぎになりましたよね。「人間のコピーも造られてしまうかもしれない!」と。メディアが盛んに、「クローンとオリジナルは別々の人間」と啓蒙特集を組んでいるのを見て、元SFファン(当時)の私は、「あー、一般の人(=SFを読まない人)にとっては、クローニングが記憶や人格を再生しないってのは常識じゃないんだー」と思ったものです。
 こうして、「記憶(の一部)も再生されるクローンたち」という設定が生まれたのでした。それから、クローニングで不老不死を獲得できる、というアンヘルの嘘にあっさり騙されるグヤナ大使も(笑)。
雀部 >  「記憶(の一部)も再生されるクローンたち」で、仁木さんはきっと迷路学習を遂げたプラナリアの神経組織を別のプラナリアに喰わせる実験から連想したのかなとか(笑)
 『グアルディア』のテーマは、愛とアイデンティティだと思うのですが、「愛」のほうの象徴として扱われているのが、オペラ『ラ・トラヴィアータ』(SFマガジンのインタビューで言及されてなかったら気づかなかった^^;) このオペラを作中で使おうと決められていたのは、どういうわけからなのでしょうか?
仁木 >  ……えーと、その、オペラをはじめとするクラシックに造詣が深いわけでもなんでもなくて、ラウルのシーンで映画のBGMのように女声独唱を使いたい、と思ったのがそもそもの始まりです。歌の内容が『グアルディア』の内容に絡められるものだったらいいなあ、くらいな気持ちで。
 それで歌曲を幾つか聴いてみたのですが、いまいちピンとくるものがなかったので、じゃあオペラはどうだろう、と思ったのでした。オペラのほうが歌曲よりも物語性があるし、と。
 オペラに詳しくない人(例えば私のような)でもタイトルと粗筋くらいは知っているメジャーな作品で、できればイタリア語で(ラウルがイタリア系だという設定はすでにできていたので)、『グアルディア』に絡められる内容で、という条件で探した結果、行き着いたのが『ラ・トラヴィアータ』だったわけです。

 『グアルディア』では愛について、「それ自体は無力だが、無意味でも無価値でもない」としています。『ラ・トラヴィアータ』での愛についても、そのように解釈しています。でないと、ヴィオレッタの最期は救いがなさすぎます……。

SFを離れた原因はオースン・スコット・カードとマリオン・ジマー・ブラッドリー

雀部 >  そうですよね、愛ゆえに、ホアキンはアンヘルに利用されても幸せであり、アンヘルは、自分ただ一人を愛して欲しいがために、突き進むわけですから。
 SFマガジンのインタビューで、オースン・スコット・カードが苦手とおっしゃっていられるんですが、これはどういうところが苦手なんでしょうか? 私は、結構好きなんですが(笑)
仁木 >  インタビューでも述べているとおり、『エンダーのゲーム』の途中で何か非常に嫌な気分になり、読むのを中断してそれきりです。何がそんなに嫌だったのか、「少年が戦う」ことについての描写だったのは確かなんですが、詳しいことはよく憶えていません。確認のために再読するのも嫌なので、これ以上何も述べることはできません。
 長編『エンダーのゲーム』の前に読んだ短編集『無伴奏ソナタ』については、かなり憶えているので、SFマガジン11月号の「アンダーのゲーム」はなかなか笑えましたが。
雀部 >  あのスワンウィック氏の人を喰ったショートショートですね(爆)
 じゃ、他に苦手な作家もいらっしゃったりして(笑)
仁木 >  実はインタビューでは、「SFを離れた原因はオースン・スコット・カードとマリオン・ジマー・ブラッドリー」と答えているのですが、なぜか後者のほうはそのまま流されてしまったんですね。
 『ダーコーヴァ年代記』は最初は楽しく読んでいたのですが、途中から「ダーコーヴァ対地球帝国」の構図があまりにも単純なのに疑問を感じるようになったのでした。地球帝国はその名称にもかかわらずどうやら無数の惑星からなる連邦で、決して単一の文化・機構ではないらしいのに、作者はそのことをまったく無視していると、当時の私には感じられました。ダーコーヴァは無数の多様な惑星世界の一つでしかないのに、あたかも唯一無二の個性であって、他の惑星世界は「地球帝国」の名で一括りにされてようやくダーコーヴァと対立しうる程度の重みしかない……そうした描き方に疑問を覚えたのです。
 『ダーコーヴァ年代記』は、それでも十冊以上読んだはずです。したがって、ダメージの衝撃度は『エンダーのゲーム』が上ですが、ダメージの浸透度は『ダーコーヴァ』のほうが遥かに大きいのではないかと……(笑)。
雀部 >  あ、私も『ダーコーヴァ』は途中でめげちゃった口なので、この件に関してはなんとも(汗)
 では最後に、現在執筆中の作品、刊行予定の作品がございましたらお教え下さい。
仁木 >  長編は、『グアルディア』と同じ世界のものを執筆中です。設定はつながっているけど時代も場所も違うので、独立した作品として読めるものです。あと、短編と中編が各一本、SFM編集長お預かりとなっております。
 そういうわけで、いずれそのうち、なんらかのかたちで皆様のお目にかかれることでしょう。
雀部 >  短篇と中編は完成してるんですね。じゃ、SFマガジン掲載に気を付けておきます。
 今回は、お忙しいところありがとうございました。『グアルディア』と兄弟格の長編も楽しみです。ハヤカワSFシリーズ Jコレクションで出るとうれしいな〜。


[仁木稔]
1973年長野県生まれ。龍谷大学大学院文学研究科修士課程卒。本作がデビュー作。
[雀部]
怪しげな理論を振り回すインタビュアー(爆) 昔ちょっとかじった社会学的な考察を試みると、なんと物語の骨格に適合。調子に乗って変な質問を連発しております(笑)

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