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Author Interview

インタビュアー:[雀部]&[栄村]

魚舟・獣舟
『魚舟・獣舟』
> 上田早夕里著/山本里士カバーイラスト
> ISBN 978-4-334-74530-1
> 光文社文庫
> 590円
> 2009.1.20発行
収録作:
「魚舟・獣舟」「くさびらの道」「饗応」「真朱の街」以上4作品は、井上雅彦編集《異形コレクション》初出
「ブルーグラス」小松左京マガジン掲載
「小鳥の墓」文庫書き下ろし。『火星ダーク・バラード』の前日譚。

『ラ・パティスリー』
> 上田早夕里著/金子恵装画
> ISBN 4-7584-1057-7
> 角川春樹事務所
> 1600円
> 2005.11.8発行
粗筋:
 森沢夏織は、中規模のフランス菓子店〈ロワゾ・ドール〉の新米菓子職人(パティシエ)。店のシャッターを開けて厨房のオーブンに火を入れるのは夏織の仕事だった。しかしある朝、彼女より早く厨房に入り飴細工をこしらえていた男が……。
 突然現れた謎の菓子職人・恭也と、新米パティシエ・夏織。2人の交流を通じて描く洋菓子店の日常と、そこに集う恋人・親子・夫婦たちの人間模様――。甘くほろ苦いパティシエ小説誕生。
ラ・パティスリー

ショコラティエの勲章
『ショコラティエの勲章』
> 上田早夕里著/岩郷重力BOOK DESIGN
> ISBN 978-4-488-01750-7
> 東京創元社
> 1500円
> 2008.3.25発行

粗筋:
 絢部あかりが勤めている老舗の和菓子店“福桜堂”。その二軒先に店をかまえる人気ショコラトリー“ショコラ・ド・ルイ”で、不可解な万引き事件が起きた。その事件がきっかけで、あかりはルイのシェフ・長峰と出会う。ボンボン・ショコラ、ガレット・デ・ロワ、新作和菓子、アイスクリーム、低カロリーチョコレート、クリスマスケーキ―さまざまなお菓子をめぐる人間模様と、菓子職人の矜持を描く。


『美月の残香』
> 上田早夕里著/坂野公一カバーデザイン
> ISBN 978-4-334-74407-6
> 光文社文庫
> 476円
> 2008.4.20発行
 遥花と美月は一卵性の双子としてこの世に生を受けた。子供の時から常に比べられていた二人。遥花は美月と同じに見られるのを嫌がり、美月は遥花と同じなのを楽しんでいた。大学を卒業し別々の道を歩み始めた二人だが、美月が結婚相手として選んだのは、ふたごの兄弟の片割れ真也だった。
 紆余曲折の後、遥花もおなじ双子の兄弟雄也とつきあい始めていた。しかし新婚間もない美月が、突然、謎の失踪を遂げたのだ。後に一人残された真也は、満たされぬ心の平安を求め、かつて美月がつけていた香水に救いを求めるのだが……。
美月の残香

前号の続き)
栄村 >  この映画には、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(66年公開)という続編があって、フランケンシュタインの肉片の一部が海へと流れ込み、深海で人間体として再生、その後ガイラと名づけられ、陸上に上がって豊富な蛋白質として人間を捕食し始めるという話なのですが……。このシリーズの映画の出発点には、人間の不信と互いへの恐怖から暴走を始めて戦争に突入し、混乱の中で非常に危険なテクノロジーが失われ、何十年後かにとんでもない形でわが身に降りかかってくるというプロットがあります。
 金融システムの停止からはじまった20世紀の大恐慌や、それが遠因となって引き起こされた第二次世界大戦など、人間の暴走を実際にその目で見て、酷い経験してきた世代の人たちが作っているせいか、ガイラの顔の造形を見ていると何やらヒトの奥に潜むとらえようのない怪しい一面、人間の心が持つおそろしさを見ているような思いもします。

 「魚舟・獣舟」でも、陸地の大半が水没するという災厄に見舞われる中、生き残るために環境の変化に速やかに反応し、活発に進化と退化をくりかえすバイオ・テクノロジーを人間の体に応用した結果、ヒトの中から予想外の方向へ変異したヒトが出てきた。しかも、それは生存のために従来の人間を襲いはじめるのですが、一方、人間の側も
「魚舟を生まない陸上民から見れば、魚舟などただの魚類にすぎない。居住殻がなく、人が棲んでいなければ、何のためらいもなく天然資源として食うだろう。いや、飢えていれば、海上民から奪ってでも食うかもしれない」
 という凄みを帯びた言葉が「私」のモノローグというかたちで出てきますね。これを読んだときは少しおどろきましたが。
上田 >  価値観が違うと、どんなものでも食糧になってしまうと思うのです。
 陸上民から見ると、魚舟や獣舟はすでに〈得体の知れないもの〉になっているので、恐ろしい存在を克服するための反応として「食べてしまう」という価値判断はあり得るような気がします。食べ物だと思えば、怖くなくなるというか。
栄村 >  それはちょっと……(笑)。<朋>も人の、それも母親の胎内から生まれてくるものですからねえ。それに冒頭の回想で、七歳の頃の「私」がはじめてみた魚舟のはなしを父親にしたところ、「あれはおまえの伯母さんだ」とうれしそうに話す場面がありましたし……。

 文明や社会が存続できないほど苛酷で荒々しい状況下、命をおびやかすほどの激しい飢餓にあったとか、陸上民と海上民の生物学的な外見が別のものとも言えるほどことなり、その心のありようもまったく異なるというのなら多分ありえるでしょう。
雀部 >  食い物と言えば、設定がちょっと似ている『HOTEL』(Boichi著)所載のマンガ「全てはマグロのためだった」は、地球上から消え去ったマグロを復活させるために身を捧げた男の物語なんですが、新しい生命体を創り出そうとすると、なんか変な生命体が出来てしまうし、あまつさえそいつは進化して更に得体の知れないものになってしまうというのは共通認識なんですかねぇ(笑)
上田 >  『HOTEL』では「全てはマグロ〜」が一番好きです(笑)
 真面目に新生物を作ろうとしたらそれが変なものになってしまった、という状況は、人間の憧れでもあるんでしょうね。生命をコントロールしたい、でも、完全にコントロールされた生命というのもつまらない……というアンビバレントな感情が人間にはあって、それをうまく掬い上げているのがSFというジャンルですね。
栄村 >  あのマンガは、洗濯バサミで鼻をつまみながら読まなきゃいけないところがあるので、ちょっと困りますけど(笑)
 人と一緒に出産される<朋>を見ていて、ふと思ったのですが、美緒や「私」をふくめて、この海上民の種族の人々すべてが、いつか、ひょっとして自分が自分自身でなくなる、ヒトであることをやめる日が来るかもしれないという、かすかな不安を心の底に秘めているような気がするのですが……。
上田 >  出産形態が陸上民とは違うという時点で、海上民は自分たちの特異性を強く意識していると思います。産む側の女性だけでなく、受精させる側の男性も同じく。自分たちの精子が、<朋>を孕ませるのですから。

 人間以外の生物が多様に闊歩する海の環境は、人間に意識の変容を強くうながすだろうと思います。それに適応しようとすればするほど、生物としての形態だけでなく、意識の変容も迫られる。「自分たちもまた変化する生き物である」「変化こそが生命の本質である」ということを、海上民は陸上民よりも、身体感覚を含めて実感しているはずです。そこに不安は確かにあるでしょうが、長い時間をかけて、それを少しずつ受け入れていってしまうのが、海上民のような気がしますね。
栄村 >  大変動から時がたつにつれて、海上民の中から独自の自然観が生まれてきた――
「その先にあるのは幾万もの魚舟・獣舟が回遊する壮大な外海、いまなお生物が変化し続ける可変の園である」
 という「私」の内面の声も、その底には「生も死も含め、変化こそが生命の本質である」という彼らの生命観があるわけですね。
雀部 >  そこのところは全くその通りだと思います。
 生まれて死んでを繰り返し、そして変化していく――精神的な変化も含みますが。
 それにしても、まだスパンは短いですが、人間ってどうしようもなくアホなのは昔から変わってないような気がします(笑)
栄村 >  人間性の話にもどりますけれど、生物的な面とはまた別に、人が人でありうるためのひとつの大きな条件として、社会性や家庭というものがありますね。スタニスワフ・レムの『ソラリス』の中には、「人々の間で育てられなかったような人間は、人間にはなりえないからだ(沼野充義訳)」という言葉が出てきます。『サンダ対ガイラ』に出てくる二体のフランケンシュタインは、親でもなく子でもない、兄弟でもなく分身みたいな関係なのですが、片方はひどく歪められ損なわれているにしても、人間性というものがまだ残されている。じつは、研究所で保護されているとき、女性の研究員が保護者代りになる場面があり、このとき、彼は自分でも知らぬうちに人間の集団のルールを教え込まれていたのですけれど……。しかし、暗い深海の中で、肉片から人間体の形状に再生してきたガイラは、長い間、孤独の中、激しい生存競争と飢餓状態にさらされてきた。この事が運命を大きく変えてしまうのですが。

 この小説の中でも、人と社会を形成する「魚舟」、そして人との関係が切れ、生存本能に従って動く「獣舟」――従来のヒトの集団との関係が失われたことが、後の悲劇につながっていきます。
 「獣舟」が「魚舟」から分化し、生物として別の進化の道を歩み始めた――その群れが、この後、どのような独自の集団をつくって変化していくのか。物語はこれから「人」と「獣舟」のあいだで生存をめぐる激しいせめぎあいが起こる予感を残して終りますが、獣舟の上陸阻止のため、複数の自走砲と暗視装置まで動員し、それとなく厳重な警備が敷かれているところをみると、この話の裏では「私」の知らないところでなにか異様で深刻な事態が進行しているようにも感じます。
 美緒自身も何か恐れを抱いていたことを考えると、まだ「私」には話していないことがあったのかもしれませんね。
上田 >  これは短編作品ですし、個人の視点から見た物語なので、表に出ていない部分がたくさんあります。

 新しい価値観と恐怖は、セットになりやすいものです。新しいものは、世界の枠組み自体を壊し、変えてしまいますから。しかし、破壊や動揺からしか生まれないものもあるわけで、そういうときこそが、人間の知性が試される瞬間なのかもしれませんね。
栄村 >  大変動に襲われたとき、以前『ゼウスの檻』の中である登場人物が語っていたように――ヒトの体を全面的に改造可能なものとしてみる考えがひろまったものの、新しい環境に適応するように徹底的に人間に改造を加えてしまった場合、どこまでを“人間”と呼ぶべきなのか、どこで止めればまだ“人間”であり得るのか――という議論が起こったことでしょう。

 物語の中でも、主人公である私は、人間に似せて作られた「人工知性体」を見て「ヒトにとってヒトの定義とは何なのだろう? 形態なのか、ゲノムなのか。それすらも個人の価値観によって違ってしまうのだろうか。」と、ふと疑問を抱く場面があります。

 生物としてのヒトは、生き延びるために<朋>とそれを産む人間という二つの種族を作り出し、どちらか一方に未来を託したようにもみえます。<朋>や<魚舟>が生み出された背景には、どのような設定があったのでしょうか。
上田 >  昨年のSF大会(DAICON7)でも話したのですが、この作品は、元は長編として構想されたものです。こちらに少しだけ事情を書いています。

 詳しい設定は、この長編版が出たときに読んで頂ければと思います。『SFが読みたい! 2009年版』(早川書房)で、Jコレクション刊行予定リストに挙がっている作品がこれです。タイトルは仮題ですが。
栄村 >  『華竜の宮』(仮題)ですね。たのしみです。まだまだいろんな魅力的な登場人物や変った生物が現われそうですし。少しだけ、さしつかえのないところで話していただけるところがありましたら、お願いしたいのですが。それから、この短編は長編版において序章に相当するエピソードなのでしょうか?
 また、長編版の方は少し設定を変えたお話になるのでしょうか?
上田 >  短編のほうは、完全に独立した「番外編」的な位置づけです。長編のエピソードには影響しません。両者は、同一の世界観で成り立っていますが、登場人物もストーリーも完全に異なります。〈魚舟シリーズ〉とも呼ぶべき一連の作品が、今後、生まれてくるのだと思って頂ければ幸いです。
 「短編がリメイクされて長編になる」「短編は長編の習作として書かれた作品だ」という情報がネット上に流れているようですが、それは間違いです。

 ごく個人的な、局所的なエピソードとして書かれたのがこの短編。
 俯瞰的に、世界全体に目配りしながら展開していくのが長編です。
 長編では、個人と国家の関係がもっとはっきりと描かれます。海上民と陸上民の葛藤が全面に出てきます。そこに、進化した獣舟のその後や、海面上昇後に再び訪れる地球規模の大異変が絡んでくる構成になります。
雀部 >  それは壮大な。楽しみにしておきます。
 現在発売中のSFマガジン('09/4)巻頭の「My Favorite SF」で、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア女史の「愛はさだめ、さだめは死」をあげていらっしゃいますね。長編版が、“魚舟や獣舟”の一人称で書かれているとうれしいです。
上田 >  その形式は長編では使いませんが、新たに短編の依頼があったら、ぜひやりたいですね。
 実は長編のほうは、最初、「人間ではないものの視点」(一人称表記)で書くつもりでした。しかし、プロットを組んでみたら、それではものすごく難しいことがわかって断念しました(笑) ただ、「普通の人間ではないものから見た視点」というのは、何らかの形で作中に残す予定です。
栄村 >  ここですこし上田さんの創作作業についてお聞きしたいのですが。
 今回の短編集『魚舟・獣舟』でも、資料集めや考証の段階で、いろいろ超えなければならないハードルがあったと思います。執筆も大変ですが、事前のリサーチや勉強の方も大変でしたでしょう。図書館に行っても、なかなか書く内容とぴたっと一致する資料が見あたらないし、本だと出版されるまでに時間がかかるので、どうしても科学の最新情報とのタイム・ラグが出てしまい、場合によっては書いてあることが違うこともあります。デビュー作の『火星ダーク・バラード』を読んだとき、上田さんが文科系出身だと知ってびっくりしたのですが。『火星ダーク・バラード』もそうですが、今回の短編集も下準備の段階でずいぶん苦労されたでしょうねえ。
上田 >  資料は普段から少しずつ集めるようにしています。異形コレクションは原稿依頼から締め切りまでの期間が短いので、すべてを泥縄式にやっていると、とても間に合わないのです。
 異形コレクションは「お題」がありますから、それに合わせて、小説としてのアイデアと、すでに収集済みの資料をまず組み合わせる。その際に、資料の最新版にあらためてあたる――という感じです。

 私はハードSF系の作家ではないので、このあたりは結構ゆるゆるです。奇想と科学を結びつけるという手法なので。
栄村 >  『火星ダーク・バラード』によせられた感想の中には、フォボスと軌道エレベーターが衝突するシーンが見たかったというのがありましたけれど、もし、実際に書くとしたら、地球の0.38倍という重力環境下、エレベーターがどんな崩壊の仕方をするのか、破片がどのくらいの規模で降り注ぎ、都市全体にどのような被害が出るのか、倒壊の影響で火星環境がどのよう変化するのか、といった山ほどある細かい事柄を描かなければいけないのですが、これらは調べようにも調べようがない。思い当たるのはキム・スタンリー・ロビンスンの『レッド・マーズ』くらいですが、参考にしたらしたで、今度はそれ以上のことは書けない、わからないわけでして……。アイデアを思い付いたとしても、近くに詳しいその道の専門家がいないと如何ともしがたい。描写自体も科学的に見て正しいのかどうかもわからない。上田さんが同人誌「ソリトン」で書かれていた頃、堀晃先生から何かこのことについて具体的なアドバイスはありましたか。
上田 >  堀先生から、科学考証のコツについて伝授して頂いたことは一度もありません(^_^;

 「ソリトン」時代、私はいまのような作風ではありませんでした。ファンタジー小説の書き手でした。ファンタジーと言っても、〈異世界モノ〉ではなく、〈奇妙な話〉の類ですが。同人内での認識も「上田=ファンタジー作家」で、堀先生も、同じように考えておられたと思います。ですから、科学考証の話が話題にのぼる機会はありませんでした。

 もし、執筆の際に、どうしても資料がそろわない部分が発生したら……。私の場合は、一点の間違いもない厳密な科学考証よりも、「読者としての自分が見たい光景やイメージ」のほうを優先するでしょうね。ハードSFの書き手がそれでは困るでしょうが、私はハード系ではないので。

 ただ、『華竜の宮』に関しては、初めて、アドバイザーの方に入って頂きました。地球科学関係の処理が、私ひとりでは手に負えなかったので。研究職と接点を持つ方に、SFのアイデア部分を検討して頂きました。
 いま、本格的に海洋SFを書こうとすると、海について調べるだけでは足りず、地球の内部構造や気象なども含めた〈地球科学〉という学問に踏み込まざるを得ません。お願いして正解だったと思います。
雀部 >  海洋学と一言に入っても、海洋地質学・海洋物理学・海洋化学・海洋生物学・海洋気象学・海洋環境科学などと多岐にわたっていますからねぇ。「海は言うなれば地球のインナースペース」(C)藤崎慎吾
栄村 >  以前、小松左京先生にもSFにおける科学上の設定や取材についてお聞きしたことがありましたけど、そのとき『さよならジュピター』を構想されていた頃――というと70年代の終わりの頃ですけど――の話をされまして、石原藤夫先生に頼んで当時のトップクラスの大型コンピューターを使って、木星の質量でブラック・ホールを飛ばせるか、飛ばせるとしたらブラック・ホールはどのくらいの大きさのものか、他に複雑な軌道計算などを出してもらったことなどを話されていました。また『日本沈没』を書いていたとき――これも60年代の話になりますけど――日本の総資産、田地山林など全部合わせていくらくらいになるかを役所に聞きに行ったところ、あちこちいろんな課にまわされた揚句、最後に応対に出てきたおじさんからケッタイな顔されたことも、いまだにボヤキながら話してくださいました(笑)。
 そして、ふだんから人間同士の信頼関係やおつきあいというものを大切にしなさいということを言われていました。

 小松先生は20代の頃、業界紙の記者をされていたこともあって、あるテーマについて調べようとしたとき、どこそこの公的機関や施設にはどんな資料があるか、どこに行けばどういうものがあるか、よく知っておかなければいけない、頭に入れておかなければいけないという話もされていましたが、そういう詳しい地図は、報道関係や出版関係などの業界にいないと、一般の私たちにはなかなかつかみにくい事柄なのですが……。
 今回の短編集では生物学、遺伝子工学をはじめ、医療分野にもその守備範囲を広げておられますが、取材で苦労されたことはありましたか。
上田 >  異形コレクションの原稿を書き始めたあたり(2006年)から、プライベートな事情で、自宅から外へ出るのが大変難しくなりました。ですから、ここ最近の作品は、取材可能だった頃の蓄積でやっています。取材の苦労という点では、SFよりも、主流文学のほうがきついですね。融通がきかない事柄が多いし、些細なことが作品の瑕になりやすいので。
栄村 >  創作作業は、仕込んでは書き、仕込んでは書きのくりかえしで、ためこんだものを使うとなるとすぐなくなってしまう、と小松先生は言われていました。自宅から外へ出るのが難しくなったというのは苦しいですね。

 ところで、上田さんの創作法はどのようなものでしょうか。
 たとえば、ふだんからひとつ言葉、短い文章を書き連ねたメモがあり、それが育ってやがて大きな作品となって結実していくような……。小松先生は「小説というものは、すぐに書けるものではない。ふだんから心がけて、アイデアや知識が何年もかけて自然に頭にたまってくるようにしなければいけない」とおっしゃっていたことが心に残っているのですが。
上田 >  時間的な制約があると、なかなかいいアイデアが浮かびません。普段から断片的なイメージを書き留めておくと、何かの拍子に、それが別のものと結びついて新しい貌を見せる……。その瞬間が作品の誕生につながります。

 小松先生の言葉は、まったくその通りです。小説を書くのが好きな人は――プロであってもアマチュアであっても――四六時中、脳の創作系の部分が働いているのではないかと思います。
栄村 >  イメージとイメージ、アイデアとアイデア、異質なものがあるとき急に一本の線でつながり、新しい話が生まれてくるという具合ですね。
上田 >  そうですね。似た色同士よりも、違う色を並べたほうが、お互いの色味が引き立つのと同じでしょうね。
栄村 >  昔からお芝居にずいぶん興味を持たれて、チェーホフの作品など台詞を憶えるほどまで読み込まれたということを聞きましたけど、暗記するにつれ登場人物の内面性や実存性への理解というものが深まり、それが今度、創作のときに生かされ高い評価を得るようになったんでしょうねえ。
 一冊の本を一度ざっと読んでも、あとから思い出すのは、ぼんやりとした断片で、細かいあらすじや細部の描写、登場人物のセリフやその心の軌跡はきれいに残ってくれません。今度、イスラエルでエルサレム賞を受賞した村上春樹氏も、小説を書くには、小説を暗記するほど読みこめということを言われています。
上田 >  私は「丸暗記」が非常に苦手で、たとえば学生時代の勉強で「語呂合わせでも何でも、とにかく暗記しておけばいいんだ」という類の事柄がまったく覚えられない人間でした。これはいまでもそうです。
 ところが、ストーリーや台詞なら覚えられるのです。子供の頃からそうでした。たぶん、脳の働き方が、ものすごく偏っているのでしょう。

 ですから「暗記によって登場人物の内面性や実存性が理解できるようになる」というのは、ちょっと違うような気がします。私の場合、もともとそういうものに興味があって、だから本を読むとき、特定の要素が印象に残りやすい。印象に残ると自分の中に蓄積され、筋道が通っていく……というだけではないかと思います。
栄村 >  そういえば、上田さんの大好きな『櫻の園』の中で、女地主のラネーフスカヤが
「あなたは、大事な問題を片っ端から解いた気でいる。でもひょっとしたら、それはあなたがまだ未熟で、自分のことで本当に苦しんだ経験が無いからじゃない? あなたは、勇敢に前だけを見ている。でもそれはあなたの若い目に人生がまだ隠されていて、恐ろしいことは見えないだけじゃない? そりゃあなたは私たちより勇敢で、誠実で、賢いでしょう。でも、よく考えてみて……」
(『桜の園』小野理子訳 岩波書店 本文88P)

 と、大学生のトロフィーモフに疑問を投げかける場面がありましたけれど、『火星ダーク・バラード』で、年配のゲラシモフが、年下のグレアムに言ってもおかしくない言葉ですね(笑)
上田 >  これは懐かしいですね。このちょっとした言い回しというか言葉づかいに、舞台劇特有の色合いを感じます。小説の会話文とは全然違いますね。

 面白いことに――これは、物語の展開上「自分自身も現実が見えていない」ラネーフスカヤの台詞なのです。これは彼女の無意識が、彼女自身に破滅(没落貴族の破産)が近いことを警告している――とも読めます。「恐ろしいことは見えていない」のはラネーフスカヤ自身も同じなのです。チェーホフは、そんな彼女に、わざと他人への批判を語らせている。これによって、トロフィーモフを批判すると同時に、彼女自身の弱さ・愚かさ、人間という存在の情けなさを、容赦なく喜劇的に表現しているのです。

 ある特定の台詞を、作中の誰に言わせるかという選択は、とても重要なことです。同じ言葉でも、どの登場人物に喋らせるかという違いだけで、微妙に意味合いが変化します。こういうふうに重層的に配置しておくと、終局へ向けて物語に深みが増します。チェーホフの作家としての技量がわかる部分ですね。しかも、こういう暗い部分があるからこそ、第三幕最後の、哀しいまでに美しいアーニャの台詞が効いてくるのです。しかも、そのアーニャの台詞すら、チェーホフは絶対的な価値としては扱いません。ですから、ますます芝居の最後に虚無感が漂う――。ユーモアを含んだ悲哀というのは、まさにこういうことかと実感します。

 チェーホフの戯曲は「舞台の上では何も起こらない」(※終わったところから本当の物語が始まる、という意味)と言われることがありますが、こういう部分がとてもドラマチックです。台詞に、まだ起きていないことを想像させる力があります。
栄村 >  『火星ダーク・バラード』のときは、何通りかの結末を考え、その中でいちばんテーマに沿ったものを選んだと書いておられましたけど、上田さんは小説のストーリィを考えるとき、ドラマの脚本術を頭において話をつくってゆくという方法をとられているのでしょうか。また、書きだす前に、小説の構想をもとにした工程表みたいなものを作ってから、執筆に取りかかるのでしょうか。

 こうして、いろいろ下準備をしていざ気負いこんで書きはじめても、釣りと同じで、途中で獲物に逃げられたり、釣り上げた魚はあとから見ると小物だったり、また途中でモチベーションが低下してしまい、急に何も出てこなくなったということもありますけど。
上田 >  ストーリーを考えるとき、私は、ひとつの音楽をイメージします。その曲(=作品)には、どんなイントロがあって、どんなメロディーが続いて、どこが一番盛り上がる部分で、それをどれぐらい聴かせて、どんな印象のエンディングに持っていくか……。具体的に何かの曲を連想するのではなく、ストーリー全体の「うねり」を、「音楽としか呼びようのない何か」としてイメージするのです。

 ですから、釣りの例えは、ちょっとイメージがうまくつかめません。ものを書くときに対象物を追いかけるという感覚はなく、水の流れに乗っていくようなイメージのほうが強いのです。
 私は、釣り人よりも、魚になりたい人間なのだろうと思います。
雀部 >  音楽は、何がお好きなのでしょうか。
 ジャズかなぁという気もしますが?
上田 >  何でも聴きますが、基本はクラシックです。
 ジャズは、好きな曲があることはありますが、それほどでも。ジャズよりは、ロックのほうが好みです。
雀部 >  そうなんですか。ひょっとして、ジャズの即興演奏のように書かれるのかと思ったんで。
栄村 >  「くさびらの道」はオーリ症という感染症の恐怖を描いた作品ですが、すでに九州は壊滅的被害を受けているばかりか、近畿地方にも汚染が広がり神戸の東灘区はゴーストタウンと化している。感染症の正体はキクラゲに似たゼリー状の寄生茸で、菌糸は口や肺、腸まで容赦なく侵入して根を下ろし、4、5日というきわめて短い時間で人を死に至らしめる。しかし、それ以上に不気味なのは、オーリ症で亡くなったはずの者が、非感染者の目の前に亡霊のように現れる現象が各地で目撃されはじめたということで……。
 九州で区外退去を求められた住民たちが避難する時、夕暮れの中で、燃え立つ陽炎のように、透明な人影が空を漂い、死者の声が聞こえてくるという非常に気味の悪い場面が出てきますね。
上田 >  これは異形コレクションの『心霊理論』に掲載された作品で、このとき執筆者全員に提示されたコンセプトが、幽霊を論理的に考察して下さいというものでした。幽霊という存在を、肯定しても否定してもいい。ただし、論理性を重視すること。

 夕暮れの幽霊の場面は、作品を構想したときに、まっさきに脳裏に浮かんだ光景です。このイメージを核に、物語を構成していきました。
栄村 >  オーリ症という名前はキクラゲの学名(Auricularia auricula (Hook.) Underw.)を英語読みしたときの頭三文字から付けられたそうですが、これは耳殻という意味ですね。物語の中で寄生茸を表現するとき「人間の耳に似たゆがんだ形」という形容が出てきますけれど。
上田 >  漢字では「木耳」と書くんですよね、キクラゲは。私は茸が大嫌いなので、もう、この字面だけで怖いという感じです。
雀部 >  そうだ、上田さんはキノコ類が大の苦手だったんですよね(笑)
栄村 >  製薬会社に勤める主人公は、感染対策本部の人間といっしょに防護服を着て封鎖区域内にある実家へ、両親と妹の安否をたしかめに行きますが、その途中、大阪と神戸を結ぶ43号線や国道2号線を横断するという具体的な記述が出てきます。駅前の描写がありますけど、これは阪神御影駅ですね。
上田 >  そうです。阪神御影駅を間に挟む形で、二度、国道を横断し、少しずつ山の手(阪急御影駅方面)へ向かって歩いています。このあたりは土地勘があるのと、少し前に別件で出かけていたので、記憶が鮮明なうちにと思ってモデルにしました。
栄村 >  こういったリアルな設定がいっそう物語に緊迫感を与えています。御影というとすぐ裏には広大な六甲山系があり、丹波山地とともに大阪平野の西と北限を覆うように広がっています。もし寄生茸の胞子が人気のない山林で自生をはじめたら、鳥や獣が感染するうえに、胞子が蟲に付着して、有馬、三田、明石、芦屋、西宮、宝塚、大阪平野全体まで汚染が拡大していくだろうと想像し、ちょっと不気味でした。5年前には京都府丹波町の養鶏場で、鶏13万羽が鳥インフルエンザで死亡し、汚染が外にも拡散してたいへんなさわぎになったことがありましたけれど、この話を考えているとき、事件のことは脳裏にありましたか。
上田 >  鳥インフルはもちろん、小松さんの『復活の日』、篠田節子さんの『夏の災厄』も念頭にありました。私の世代だと、この2作は絶対にはずせません。篠田さんの作品は、役所の対応が後手後手になっていくところが、とてもリアルで……。やはり、内側で仕事をなさっていた方は着眼的が違うなと感じました。
栄村 >  寄生茸は感染者が死亡してから24時間後に空中に大量の化学物質を放出し、人はその時「煮詰めた飴の鍋に、薄荷のエッセンスをひと垂らししたような匂い」を嗅ぐという設定がありますけど、なかなか効果的に使われていましたね。
上田 >  作家には、匂いの描写に拘る方と、そうでない方がいるそうです。ブラッドベリは拘るタイプだそうで、私も前者です。他の作家さんの作品を読んでいるときも、匂いの描写が出てくると、強烈に現実の手触りを感じます。ですから、自分でもつい書いてしまうのですが、今回は普通に書くよりも設定と絡めたら面白そうだなと思ってやってみました。
栄村 >  「亡霊」の正体は、寄生茸の発する揮発性の化学物質が脳の各部分に刺激を与えて見せる幻影だという説明がされますけど、登場人物全員がその仮説に納得しているわけではなく、なにかそれ以上のことが本当は起こっているのではないかという気がします。
 この話では、人の記憶が重要なテーマになっていますね。
 寄生茸がたてる清涼感を含んだ甘い飴の匂いという設定も、子どもの頃の思い出を連想します。じつは「匂い」がこの小説の重要な部分をそれとなく象徴しているように思えてきます。
上田 >  記憶を情報として利用する、という話ですね。茸の立場から見ると。脳の認識が、記憶という要素で強化される。そして、寄生された人間の脳自体も、実は、菌糸を神経ネットワークに組み込んでいるんじゃないかという……。
 飴の匂いを使ったのは仰る通りです。何かこう、駄菓子屋や夜店の屋台の懐かしさを想起させるイメージが欲しいと思い、これにしました。

 この作品が掲載された『心霊理論』(異形コレクション・第38巻)には、脳の認識機能から〈幽霊〉に言及したものが、私の作品以外にも複数あります。それらがことごとく、SF系の作家さんの手による作品であることは、とても興味深いですね。興味のある方は、『心霊理論』そのものも、ぜひ読んで頂きたいと思います。
栄村 >  すると、両者は融合して別の生き物に変貌していたわけですか。動物とは違う何らかの意思に似たものを持つ植物が、人間の体を分解しながら揮発性の化学物質を合成し、それが人間の脳に作用して幻覚を見せていたのか、あるいは、人が意識を持ちながら別のものに変容していったのか疑問に思っていたのですが。この寄生茸は実験室で培養される分には、幽霊も出現させないし、飴と薄荷のような匂いもたてません。人間と寄生茸がであったとき、はじめて別の存在が生まれるわけですね。
上田 >  SFとしては、そう読んで頂いたほうが面白いと思います。ただ、そこまで考えなくても、茸の生存戦略として読むだけでも筋が通るようにしてあります。このあたりは、読者さんまかせという感じです。
栄村 >  どこか映画化してくれないか、と実は期待しているのですが……(笑)。
上田 >  『感染列島』が出てしまったので難しいですね。あちらと違って、こちらは全然ヒューマンではありませんし、怖いし、気持ち悪いだけですし(笑)
栄村 >  いや、愛する女性を思う気持ちは十分伝わってきます。家族を思うあまり暴れださずにはいられない主人公のはげしい心の痛みも。
 この作品には強い情感と力があるので、映像化したいと思う人はかならず出てくると思いますよ。
雀部 >  実はこの短編集の中で一番好きなのが「くさびらの道」なんです。
 茸の放出する気体は、自然の中だと獣たちには嗅覚を通じて獲物を想起させる効果があるんでしょうね。獲物(食べ物)がいると近づいてくる獣に、胞子がとりついて養分とする。たまたま相手が人間だと、強く思う家族とか恋人が見えてしまう――茸にとっては何が見えようと知ったことじゃないけど(笑)
 記憶に基づいて想起されたイメージに操られ感情的な行動に走る人間の弱さを描いた上で、幽霊は人間の精神が見せている幻にすぎないとする科学的な論理性を追求した読み応えのある短篇だと思います。
 実はこの短篇、「魚舟・獣舟」で感じたのとは逆に、そういう人間の弱さを論理的に淡々と書いているところがかえって凄味を出してるなぁと……
 持ち味は全く違うんですが、系列的には《ネアンデルタール・パララックス》とか『BRAIN VALLEY』と通ずる科学性を感じました。
上田 >  動物には獲物(食べ物)というのは、まさにその通りです。あと、交尾相手への誘惑――フェロモンとして働くという機能もありだと思います。

 「くさびらの道」は、異形コレクションに載ったときには、私のところへはほとんど反響がありませんでした。ところが、短編集に入れたら、面白かったと言って下さる方が多くて驚きました。やはり、個人短編集の形にならないと、読者の声は作家のところまで届かないのか――と思うと複雑な気持ちになります。
雀部 >  上田さんの読者と《異形コレクション》の読者層の重なり方が少ないとか。
 まあ雑誌に載っただけの作品は〈店晒し〉とか言われて、作者は個人短編集に入れたいものだというのは昔から言われてますから。
栄村 >  「饗応」は、社用でJR駅近くのビジネスホテルにチェック・インしたところ、通された部屋は……というわずか7ページほどの長さの話です。題名はもてなしの酒盛という意味ですが、読むうちにじわじわと感じてくるのは、現実がぐにゃりと変形し溶解していくような、たしかなものが何一つとしてない不安定さです。そこで見るもの、ふれるものは、現実には存在しない幻影なのか。

 さっきの「くさびらの道」の中には、
「自分の内面が外側に反転する瞬間、私はそれに耐えられるだろうか」
 という主人公の迷いや
「見えるもの聞こえるもの、全部自分の内側から湧いてくるものだ。外側から呼んでいるんじゃない!」
 というせりふが出てきますけれど、この「響応」でも自分の内面が外側に反転したような、現実と心の中が入れ替わったような異様さがあります。
 やがてその不確かさは、主人公の、いったい自分は何者なのかというところまで及んでくる。物語は貴幸と名乗る者の視点から語られるのですが、彼はほんとうにその名の人物なのか。別人なのではないか。いや、そればかりか、彼はほんとうに生きているのか。じつは死んでいるのではないか。読んでいて、それさえもわからなくなってきます。

 すべての鍵を握るのは、地の底から遠雷のように彼に呼びかけ、助けを求めてくる声の主なのですが……。
上田 >  これは本当に変な話ですね。何かこう、日常的に感じている不安のようなものが前面に出たような。

 いま、世の中というのは危機的な状況が山ほどあって、私たちはそれに対して、ずっと急き立てられ続けている……。戦わないとゲームオーバーになるぞ、世界が滅びるぞ、と。そういう脅迫的な社会構造がちょっと嫌になっている部分があって、それに抵抗して書いたのだと思います。しかし、読めば読むほど変な話ですね。
栄村 >  「真朱の街」は異形コレクションの『未来妖怪』が初出ですね。
 真朱街(しんしゅがい)とよばれる妖怪と人間が共生する街。幼い女の子を連れてこの街にやってきた邦雄は、一ツ輪という名の妖怪に子供をさらわれてしまう。彼は百目という(探し屋)をたずね、一ツ輪のあとを追うのだが……。
 この話を読んだ友人がせつなくなるけど、主人公も、誘拐された女の子も、居場所を見つけられてよかったと言っていました。これはぜひ連作長篇にしてほしいですね(笑)
上田 >  これは、載った直後から「連作にして欲しい」という感想を、たびたび頂きました。発表の場さえあれば書きたいと思っていますが、現状では場がありません。
 百目が出てくるので、「目(eye)」に引っかけて、私立探偵もの(private eye)の形式を踏んでいます。百目を探偵、邦雄を助手という設定にすれば、うまくシリーズを転がせると思います。

 邦雄は居場所はできましたが、たぶん、この街での生活でトラブルに巻き込まれるたびに、百目に頼ることになると思うのです。そのつど百目に、「解決料」ということで寿命を吸い取られていくという……(笑) この作品の最後で、百目が、にやっと笑って「ようこそ」と言っているのは、それを見越してのことです。
栄村 >  お書きになったとき、編集部から提示されたコンセプトはどのようなものだったのでしょう?
上田 >  「未来」と「妖怪」というふたつのコンセプトの共鳴――これは、異形コレクションでは以前にもあった形式です。『時間怪談』や『心霊理論』がそうです。SF的な発想(=未来)と怪奇幻想(=妖怪)という異質なものを組み合わせることで、新しいものを作ろうという試みですね。
 ただし、読者が抱いている「妖怪」のイメージから外れないでくれ、という条件がありました。これはたとえば「妖怪の正体は実は未来人でした」みたいなオチはやめてくれ、という意味なんですが。
栄村 >  話のモチーフとなったのは、近世の日本であった片輪車という妖怪が出てくる怪談ですね。
 片輪車は炎に包まれた牛車の片輪に乗った女の妖怪で、「真朱の街」のなかでは一ツ輪とよばれていました。よく輪入道と混同されますけど。輪入道は牛車の車輪の中央に男の顔がはりついています。話の舞台も、いろいろ異説があり、滋賀県や長野県、京都の東洞院通りであったという話が伝わっています。

 京都に伝わるのは怖い話で、牛舎の車輪の真ん中に浮かんでいるのは女の顔ではなく、人の足をくわえたすさまじい形相の男だったそうです。結末も母親が子供のところへ行くと、股から足がもがれており、片輪車が口にしていたのは、子供の足だった――昔からつたわる怪談話というのは、どれもそうですけど、その底には人間のおそろしい情念というか心の動きが描かれていますね。
上田 >  栄村さんがご紹介下さった京都・東洞院通りの「男妖怪版・片輪車」は『諸国百物語』に出てきます。「我見るよりも我が子を見よ」という妖怪の台詞も、このバージョンにすでにあります。これが『諸国里人談』では舞台が滋賀県に移って「女妖怪版・片輪車」になり、『譚海』では舞台が長野県に変わっています。

 この妖怪は、ふたつとも『今昔画図続百鬼』で鳥山石燕が「絵」にしているのですが、このとき、『諸国百物語』から輪入道、『諸国里人談』から片輪車を作ったらしい――という説があるようです。

 私が使ったのは『諸国里人談』に出てくる片輪車で、妖怪譚なのに妙に叙情性があって、和歌まで出てくるところに興味を持ちました。起承転結がはっきりしていて、ちょっと説話っぽい。自分流にアレンジした部分があるので、「一ツ輪」という呼び名をつけました。
栄村 >  この一ツ輪の姐さん、子供を攫いに行くときは金襴の着物でビシッと決めてサーカスの芸人よろしく車輪にとび乗り、電飾代わりの青白い炎をぎんぎんに光らせ、凄みのある笑いを浮かべて登場するのですが……。いかんせん、あとが続かない(笑)。百目の姉さんとやり合った後は、もうそれこそ心臓にきたらしく、ボロボロになって地面にへたりこんでいました。年のせいですかいな。読んでいると、なんだか気の毒になってきて、ちょっと子供を攫うわけや、身の上話でも聞いてあげようかと(笑)
上田 >  妖怪の理屈に人間の理屈を当てはめてはいけないのですが、作品を書く前に、「片輪車は、なぜ子供を攫うのだろうか……」とか、つい、考えてしまうのです。
 それで、もしかしたら、これは子供を亡くした女の妖怪なのではないか、亡くしているから欲しがるのだけれど、奪われたほうの女の喪失感も同時に理解できるから、呪の歌があると子供を返してしまうんじゃないか――と。
 このあたりは、さきほど出た「情念」の話ともつながるのですが。
栄村 >  愛する者を突然失う悲しみや男女間の愛憎といった感情は、もしそれが人のからだを離れて歩きはじめたとしたら、千年でも二千年でも、この地上をさまようものかもしれない――それほど人間にとって絶ちがたいものなのでしょうね……。
上田 >  それはとても美しいイメージですね。特定の空間に刻まれた〈感情〉という名の情報が、長い年月を越えて繰り返し再生され続ける――というのは、SF的にとても美しい光景だと思います。これだけで短編が一本書けそうです。
栄村 >  もうひとつ大きな魅力を感じたのは「真朱街」そのもののイメージでした――落日の中、燃える炉のような太陽が照らし出す朱色の建物群。街全体をぐるりと取り囲むように立つその壁面には窓がひとつもなく、かわりに一面びっしりと魔除けのお札が貼られている。やがて訪れる夕闇。街の大通りをさまざまなモノが歩きはじめる。

「ウェアラブル・デバイスを装着した半分機械のような人間たちに混じって、角や牙や異様な形の手足を持った黒い影が行き来する」(光文社文庫「魚舟・獣舟」本文86P)
 というところは、OVAの「鴉-KARAS-」に出てくる新宿や、森田修平監督のOVA「カクレンボ」の東南アジア風無国籍都市の風景、フランスの作家メビウスの絵などがざわざわと頭の中に浮かんできて、これはぜひアニメーションで見たいと思いました(笑)
上田 >  自分の作品が「画」になる瞬間というのは、やはり見たいですね。漫画でも実写映画でもアニメでも何でもいいんですが、具体的な動きを「画」として見てみたい。自分で作ると面白くないので、完全に誰かにお任せしたいと思います。

 「鴉-KARAS-」「カクレンボ」は見ていませんが、川尻善昭監督の初期OVAの雰囲気や、菊地秀行さんが書く「都市に魔物が棲みついている」という設定は、とても好きです。メビウスの絵も好きです。
 水木しげるさんの鬼太郎シリーズも、一番最初の『墓場鬼太郎』は大都会と妖怪という組み合わせで、あの無国籍さというのは、ちょっとサイバーパンク的ですね。
栄村 >  もともとここはiPS細胞を使った人工器官など再生医療を研究する実験都市だったんですね。しかし、人間の感覚器官を飛躍的に発達させる方向に研究がシフトしていったあたりから、見えないモノが見えたり、怪しい影が徘徊するのが被験者の目に映るようになっていった。その理由を「鵺(ぬえ)」が語りだすのもおもしろい。テクノロジーの発達は人間の姿を急速に変えはじめ、その能力もわれわれと変わらないものを身につけてしまった。もはや、妖怪と人間との垣根はなくなり、だからわれわれはこの街へ来たという……。
 「鵺」自身の姿もいろんな動物のパーツをくっつけたような、キメラみたいな外見ですから、この街にふさわしい妖怪ですね。
上田 >  妖怪とは、「人間および人間社会が、〈何か〉と接触したときに、その境界線上に生まれるもの」と言える部分があると思います。だから、人間がいる限り、妖怪は滅びない。永遠に存在し続ける――と。
 都市に妖怪がなだれこんてくるという着想は、ここから生まれました。ただ、妖怪を集中的に呼び込むには、何か別の要素も必要だなと思いまして、栄村さんが挙げて下さった要素を入れて、このふたつを結びつけました。
栄村 >  主人公の邦雄が幼い女の子と「真朱街」に来た理由ですけど、彼が大学の研究室で携わっていた脳の認識に関する研究は、異形コレクションの『心霊理論』のときからずっと考えておられたアイデアですか。
上田 >  『心霊理論』を書いた直後に、たまたま友人のSF作家さんと「幽霊が見える仕組み」について話す機会がありました。そのとき、空間の歪みとか波の話になりまして……つまり、幽霊の正体は、こういうものと密接な関係があって、人間側がそれをどう認識するかによって幽霊の「形」や「見え方」が決まるんじゃないかと。このときの話が面白かったので、『未来妖怪』へ差し込みました。
雀部 >  そのSF作家さん、思い当たる人が居るぞ(笑)
栄村 >  「ブルーグラス」は海をテーマにした短編ですけど、上田さんはスキューバダイビングをおやりになるんですね。
上田 >  正確に言いますと「やっていた」です。ちょっと事情があってダイビングができなくなりまして、私が海洋SFを熱心に書き始めたのは、その頃からなのです。現実の海に行けないので、せめて小説の中では行ってみたいと……。
栄村 >  「ブルーグラス」は、昏い海の底、死にゆく珊瑚の森の中で、潮騒のざわめきにまじってときおり陸から聞こえてくる、かすかな誰のものともしれない男女の愛憎の声も、そのからだの中に入れながら成長してきたのだろうか、という想像をしながら読んでいました……。この小説の題となっている「ブルーグラス」は、観葉植物のようなかたちをしたインテリア・オブジェのひとつ。最初、シリンダー状の透明な容器の中は特殊な溶液で満たされ、ナノ・スケールの極細の電極が樹木状にはりめぐらされている。台座に仕組まれた音響センサーが声や物音に敏感に反応して電流を流すことで、溶液中の化学物質が電極へひきよせられ、すきとおった青いガラス色のオブジェへと成長してゆく。「ブルーグラス」は、目に見えない音というものを、かたちあるものへと変えてゆくインテリアなんですね。

 伸雄は、恋人だった麻莉絵との思い出の「ブルーグラス」を、かつて珊瑚礁のある海の底に沈めたのですが、その海も今はよごれ、海水を浄化するために開発されたドームにすっぽりとおおわれようとしている。彼は思い出のオブジェを取りに海の底へと潜ってゆくのですが……。この話も「くさびらの道」とおなじように思い出が重要なテーマになっていますね。
上田 >  「くさびら〜」では少しひねって書いていますが、これはストレートに感傷的な話ですね。受賞後第一作として「小松左京マガジン」に載せる作品を……と依頼されたので、『火星ダーク・バラード』とは正反対の作風を見せるために書きました。こちらの作風のほうが、デビュー前の私の書き方に近いと思います。
栄村 >  麻莉絵は他に好きな人ができて内に秘める激しい情念に焼かれつつ、伸雄のもとを去っていったわけですけど、そのあとどんな人生をたどったのだろうかと思いました。世の苦しみの多くは男女間のもつれから生まれてきますけど、ひょっとしたら、彼女はいまも、だれかを求めて自身の心がつくる闇の中を彷徨っているのかもしれませんけど……。
上田 >  男性の恋は、「恋愛ごとにファイルに別名を付けて保存」だけれど、女性の恋は「元のファイルを上書きして保存」だと言った人がいるそうで(笑) 著者としては、麻莉絵は案外すっきりと生きているような気がします。それもいい生き方だと思います。
栄村 >  伸雄は思い出の品を探しに海の底に潜っていきます。同時にこれは彼自身の心の奥底へ、思い出と向きあうために降りてゆく旅でもある。そして、そこで見つけた「ブルーグラス」――すでにグラスをおおう透明なシリンダー状の容器はきれいになくなり、オブジェだけが海中にさらされている。樹木のような枝には、やわらかいカナリアの羽毛のような姿をした海のいきものにつつまれ、金色に光る小さな木のような姿をしている。だけどそのいきものには毒があり、素手でさわると痛い目にあわされる。思い出は美しくある反面、痛みをともなう残酷さにもつつまれている。ブルーグラスの姿は、伸雄の心の中の麻莉絵の思い出そのものなんですね。
上田 >  この作品は、伸雄の自己完結した内面世界を描いているので、〈外側の世界〉と〈内側の世界〉が、どこかでつながってしまっているような部分がありますね。内は外であり、外は内であるという具合に。
栄村 >  じつは、これを読んでいるとき同じく思い出をテーマとしてあつかった「くさびらの道」の中の

「悲しみや後悔すらも金色の糸で美しく縁どられる。それが嫌だ。死ぬほど嫌だ。痛みは痛みのままでいい。虚飾に彩られた嘘などいらない」(本文62P)

 という高野の悲痛な叫びを思い出しました。
 しかし、この作品では登場人物は苦い思い出に自分の中で一応のくぎりをつけて日常の世界の中へもどってゆく。時間という距離ができることで気持ちが変化していったのでしょう。麻莉絵との別離は、すでに終わったこととして切りとられ、伸雄の心のなかでは時の流れの外におかれている。苦しみや悲しみに現実的な解決がなかったとしても、目に見えない思い出は「ブルーグラス」によって金色の小さな木となって結晶して、じっと見つめられている。やがて、それが懐かしさや痛みとは別なもの―― 一種の荘厳さかもしれませんが――をもたらしていることに気づきはじめたのでしょうか。

 それは、

「ブルーグラスの枝の上で繁殖したヒドロ虫の群れは、彼の思惑など知ったことではないといった風情で、ゆらりゆらりと、ゆるい潮の流れに身をまかせていた。まるで、自分の思い通りにならなかった麻莉絵の姿を見ているようだった。我を張っているときの、冬実の姿を見ているようでもあった。」(本文136P)

 というかたちで彼の心の中に芽生えてくる。そして、心の奥の小部屋の扉に鍵をかけ、現実の日常の生活へと帰っていくとき、

「思い出が遠ざかる。
 ドームの中に、永遠に閉ざされる。
 答えを見いだせないままに、何もかもが消えていく。手の届かない中に封印される。この海を通して知った数々の出来事、触れ合ったものの優美さと残酷さ、それらに対して、ただ、じたばたと足掻いていただけの自分の滑稽さを、伸雄は苦い果実を噛みしめたときのように生々しく感じていた。」(本文142P)

 という啓示にも似た感情をもたらすのですが……。
 不可解で矛盾に満ちたこの世界に生きるものたちすべてに送ることができるメッセージですね。
上田 >  忘れたほうがいいのか、ずっと覚えていたほうがいいのか――微妙なところですね。私自身は、どちらとも決めかねています。
 世の中には、なるべく早く忘れてしまったほうがいいことがある一方で、絶対に忘れてはならない事柄もありますし。一筋縄ではいきませんね。
雀部 >  最後の収録作で一番長い中編「小鳥の墓」なんですが、これは“完全管理された社会の中で閉塞状態に陥っている子供”がどうなるかをシミュレーションした作品ですよね。『火星ダーク・バラード』の前日譚ということで、ラストがどうなるかは既定のことなのですが。
 もし、前日譚として書かれなかったら、別のラストがあり得たような気がしてなりません。
上田 >  そのテーマだと、普通、こういうオチにはなりませんよね。特にSFでは。

 この作品の場合、発想の方向性が普通とは逆です。まず「大人の状態での主人公の性質」が前提としてあり、主人公がそこへ進んでいく過程として一番面白い設定は何だろうと考えると、悪い環境から悪いものが生まれてくるというのではなく、「完璧な善と思われている場所から、最凶最悪のものが生み出される」という展開のほうが、小説としては断然面白い。

 ただ、著者としては、それがなくても、別のラストにはしなかっただろうと断言できます。

 管理社会がさかんに風刺された時代と違って、いまは、管理されることが必ずしも悪ではないという価値観があります。とにかく世の中が酷すぎるので、もっときちんと管理してくれという思いが、世間一般に普通にある。管理が上からもたらされるのではなく、「管理される側が、管理されることを積極的に求めている」時代だと言えるかもしれません。

 ただ、そういう社会になっても、枠からこぼれ落ちてしまう人間は必ずいるはずで――こういうタイプの人間は、管理のない社会に行ったら行ったで、また別の形で社会から外れた生き方をすると思うのです。

 そういう人物は、世間や物事の境界線上を放浪し続けるタイプ――社会からは〈愚か者〉と呼ばれる類の人々なのかもしれません。しかし私は、そういう人間こそを小説の中で描きたいのです。その生き方を正しいと思っているから書くのではなく、それこそが、人間の最も人間的な部分を、さまざまな形と意味で照らし出す効果があると考えるからです。

 これはデビュー作以降、一貫して変わっていない私の価値観です。
 ですからこの作品は、管理社会を批判した作品ではないし、何かのシミュレーションでもありません。

 ジャンル分けが難しい作品なので、どこへ持って行けばいいのか、大変困っていました。本流のSFではないのだけれど、かといってミステリでもないし、一般小説でもないし。
 5年前の『Anima Solaris』の著者インタビューで、「いくら力を入れて描いてもSFにはならないのが悩ましい」とか「ノワール小説として書くことはできるが、書いても、あまり売れないだろう」とか、いろいろ言及しているのが、この作品のことです。
雀部 >  なるほどそうでしたね。→『火星ダーク・バラード』著者インタビュー参照
 SF者が読むと、どうしてもそっち方面に流されちゃう(汗)
 「小鳥の墓」のストーリー展開はノワール小説で、ジョエルのキャラクター設定はある意味ハードボイルドという印象を受けました。そっち方面には疎いのですが、この組み合わせは相性が良いように感じました。
上田 >  ノワールとハードボイルドは、本来は相反する性質を持ったジャンルです。「くたばれ、ハードボイルド!」というのがノワールの信条で――。ただ、世間的には、もうごちゃごちゃになっていますね。ハードボイルドの定義自体が拡散している現状では、仕方がないのですが。

 たぶん、価値観――という面で切り分けると、違いがわかりやすいと思います。
 ノワールはハードボイルドに対して、「いつまでもお上品ぶってないで、さっさと人間としての本性を見せやがれ」と思っている。ハードボイルドはノワールに対して、「世の中の人間すべてが、おまえのように下劣な奴ばかりだと思うなよ」と思っている……。
 読者としての私は、間に立って、両方、楽しませてもらっているわけですが。

 ジョエルがハードボイルドだという解釈は、その通りです。水島とは違う方向性で、間違いなくハードボイルドな人です。だから、あんな生き方しかできなかったのです。
雀部 >  で、「小鳥の墓」を読ませて頂いて、『火星ダーク・バラード』を読んだときは気が付かなかった、水島とジョエルというのは表と裏なんだなぁということに思い当たりました。二人ともハードボイルドでどこか壊れているし。あ、表と裏というのは例えでして、右手と左手でもかまいませんが。(私のような普通の人間から見てですが。私と彼等と、どちらが本来の姿かは神のみぞ知る^^;)
上田 >  ふたりとも、「自分はまだ半分ぐらいは正気だ」と思っているところが怖いですね。社会常識から見たら外れまくっているのに、自分で決めたことを信じて行動に移す。かっこよさや、保護者的なニュアンスからは、ほど遠いところにいる人たちです。とても怖い人たちだと思います。しかし、小説の中で書くに値する人々です。

 水島とジョエルが表裏一体というのは、単行本版のときからそう考えていました。しかし、それを前面に出すとストーリーが複雑になり過ぎるので、単行本版では、それが表に出てこないように、慎重にエピソードを回避しています。

 このあたりの空気感は、文庫版のほうでは少しだけ出しました。文庫版の終盤で、水島が〈ジョエルの銃を持って〉アデリーンを助けに行く場面がありますが、あれは表と裏が同じものになったことを意味している場面です。水島がジョエルの性質を引き継いでしまった、ジョエルの運命を自ら引き受けた――という意味合いです。
雀部 >  そっか、あそこのシーンの意味はそうだったのか……
 SFとは、異常な環境(作者が異常な設定で書いてるわけですが)になったとき、人間がどういう反応を見せるか(立ち向かっていくか)を描いた小説であると思います。そういった環境になったときに人間の隠された一面が出てきたり、価値観の転換が起こる。
 上田さんは、それをキャラクターの性格付けでもやっているように思えます。
 登場人物を極端な性格にすることで人間の本性が見えやすくなると……
上田 >  普通の人間を書いた小説は、世の中にすでにたくさんありますから。いまさら、私が書かなくてもいいだろうと。
 一般小説でも、人間の内面に立ち入った描写をする場合、この種の破調は有効だと思います。パトリシア・ハイスミスなどは、このあたりの手つきが本当に上手ですね。ただ、嫌う人は嫌うので、微妙な手法だとは思います。私自身は好きなので、これからもこういう描き方をしていきますが。
雀部 >  なるほど。パトリシア・ハイスミス女史の作品はクセがありますからねぇ。私は上田さんの作品は大好きですよ(笑)
 同じく“完全管理された社会の中で閉塞状態に陥っている人間”を描いた作品として、同時期にハヤカワSFシリーズ Jコレクションから出た伊藤計劃さんの『ハーモニー』があります。こちらは、『宇宙消失』が“波動関数が収縮しなかったら”をメインアイデアにしたSFだとしたら、“人間に意識や意志が必要ないとしたら”を描いたSFだと思いました。
 非常に尖った作品で、『宇宙消失』が外宇宙バカSFだとしたら、『ハーモニー』は内宇宙バカSFであるとも言えますね――(C)J・G・バラード
 もの凄く褒めているつもりなんですが、普通とはバカSFの定義が違うかも知れない(笑)
 雰囲気とか方向性は全く違うと思いますが、作法的には『魚舟・獣舟』に収録された短篇と同じなのではないかと思いました。
上田 >  短編集の作業を終えた直後に伊藤計劃さんの『ハーモニー』が出まして、あらすじ紹介に目を通しただけでピンと来たので、すぐに読みました。『虐殺器官』は読んでいましたが、自分とはネタのかぶらないタイプの作家さんだと思っていたので、これには本当にびっくりしました。伊藤さんが『ハーモニー』で〈健康〉を題材にやっていることを、私は「小鳥の墓」で〈教育〉を題材にやっていると感じました。

 ただ、方向性は完全に逆です。『ハーモニー』は〈個〉を捨てる話ですが、私の作品は、〈個〉が〈個〉であることを徹底的に貫こうとして〈社会的には狂人〉という方向へ転落していく話です。SF作品としては、伊藤さんのやり方のほうが読者にアピールするのはよくわかりますし、実際『ハーモニー』は素晴らしい作品だと思います。世間での評価がどうなのかは知りませんが、私は好きです。『ハーモニー』は、2009年度の国内ベスト級SFとして、高く評価されても不思議ではない作品だと思います。

 しかし、私は後者――〈個〉が〈個〉であることを徹底的に貫く物語を書きたい作家です。それが書き手としての自分の個性だとも認識しています。「小鳥の墓」で選んだ結末は、この作品にとって最高のものだと思っています。
雀部 >  『ハーモニー』が〈個〉を捨てる話で、「小鳥の墓」が〈個〉が〈個〉であることを追求した作品というのはもまったくその通りだと思います。まあ、伊藤計劃さんも〈個〉を捨てることが〈善〉であるとは結論づけてないですけど。
 従来の王道であるアメリカのSFにおいては、個は個であるべきだし、人間(を含めた生物)の多様性を〈良いこと〉としてきました。その面から言うと、上田さんの作品はまさしくSFの王道を行くものだと思います。『ハーモニー』のほうが異質なんですね。王道から外れてる。というか〈生命〉を守るためには〈個〉は捨てても良いというのは、フェミニズム系女性作家が書きそうな展開ではあります。
上田 >  伊藤さん自身、「SFマガジン」のインタビューで、あのラストが本当に幸せなのかどうかはわかりません――と仰っていますね。読者に判断をゆだねる形で締めくくっているわけで。一種の敗北宣言とも仰っていますが、あれは読者に対する自信や信頼がなければ、もっていけない展開だと思います。

 全体のために個を捨てるというのは、私はフェミニズムというよりも、生物学的な視点のように感じました。蜂とか蟻とか、役割分担や社会性が、ものすごくはっきりしている生物がいるでしょう。人間と社会の関係を、ああいう形で見たんじゃないのかな、と。「種としての人間」が残ればそれでいい――というような。

 「人間」という存在を考えるとき、人文系の学問だけではもう定義しきれない――という考え方があって、そういう思想の最先端というのは、個と社会をワンセットで把握するのだそうです。個が点で社会が網とか、個が内側で社会が外とか、そういう単純なとらえ方をするのではなく、「連動したひとつの機関」として見る。
 端的に言ってしまうと、「人間というのは、実は、真の意味では〈他者〉など求めておらず、社会システムそのものさえあれば、それで充分だと思っているのではないか」という発想すらできてしまうような……。

 こういう思考実験は、科学的・生物学的な視点と、とても馴染みがいいような気がします。現代SFのテーマとして、今後も、いろんな作家さんの手によって書かれていくはずですし、さまざまな角度から、もっと描かれるべきだと思います。
雀部 >  伊藤計劃さんに関していうと、『ハーモニー』も病院で執筆されたみたいで、常に死と向かい合っていらっしゃるから、ああいうアイデアが出てきたという要素はあるんじゃないかなぁ。方向性は上田さんとは違うんだけど、動物としての〈人間〉に目を向けているところは同じですよね。
 「社会システムと人間」は確かにネタの宝庫になりそう(笑)
上田 >  「小鳥の墓」と『火星ダーク・バラード』は、ふたつそろって一本の作品です。社会との関係性の中で、〈個〉が何を選ぶのかという共通項があり、作品自体が裏と表の関係になっています。しかし、どちらの作品を好まれるかは、読者さんの好みによると思います。

 著者としては、この作品(「小鳥の墓」)を世に出せて本当にほっとしました。デビュー以降の5年間、書きたい書きたいと、ずっと思い続けていましたから。
 発表するに適した「場」がなかったのです。SFホラーの短編集というコンセプトがなければ、今回の本に併録するのも難しかったでしょう。

 これが出たおかげで、『火星ダーク・バラード』第一章の冒頭で、なぜジョエルが水島を挑発するだけで積極的に殺そうとしなかったのか、その心情を、やっと明確に見せられました。それと同時に、文庫版の終盤で、彼が、どんな気持ちで最後の選択をしたのかということも。

 ジョエルは、青年期のエピソードが、まだ完全に空白状態です。水島に関しては、文庫版で書ききってしまったのでもう何も出ませんが、ジョエルはまだ書き足りない、いくらでも書き足せる……という感触が私のほうにはあります。
 でも、そんなものを書いても、今度こそ本当に、原稿の引き受け先はないでしょうね(苦笑)
雀部 >  そういえば、「時系列に沿ってジョエルの行動」が上田さんのサイトの「【ネタバレ】「火星ダーク・バラード」「小鳥の墓」」からたどれますね。
 個人的には、ぜひ読みたいですけどね。この短編集とこれから出る『華竜の宮』(仮題)の売れ行き次第ですよね。読者の皆様、お買いあげよろしくお願いします。
上田 >  運と機会があれば、ということなので、あまり期待せずにお待ち頂ければ幸いです。

 古い意味合いではなく、新しい意味合いでの〈ノワール〉を書きたいと、デビュー前からずっと思っていました。でも、ノワールは読む人を選んでしまうので、なかなかストレートには書けません。

 「小鳥の墓」は、広く読者に受け入れてもらうために、〈青春小説〉の枠組みを使いました。でも、いつか遠慮なく、自分の最も書きたい形で――「大人が主人公のノワール」を書く機会があるといいなと思っています。
雀部 >  そういえばこの『魚舟・獣舟』、重版がかかったと聞きましたがおめでとうございます。作家にとって重版は、嫁に出した娘が仕送りしてくれるようなものでしょうか(笑)
上田 >  いえ、茸が胞子をばらまいているような感覚に近いです(笑)

 私のようなマイナーな作家は、重版がかかっても収入は微々たるものです。新作のための資料代にすべて消えます。ですから、それよりも、ひとりでも多くの読者の手元に本が渡る可能性が生まれた――そのこと自体が純粋にうれしいですね。
雀部 >  作家冥利に尽きますね。
 今回は、お忙しいところありがとうございました。
 『華竜の宮』(仮題)、楽しみに待ってます。
栄村 >  また機会があったらよろしくおねがいします。ありがとうございました(笑)


[上田早夕里]
兵庫県生まれ。神戸海星女子学院卒。2003年、『火星ダーク・バラード』で第四回小松左京賞を受賞してデビュー。現在姫路市在住。
公式サイト:http://www.jali.or.jp/club/kanzaki/s/
[栄村]
雀部さんとおなじくコマケン所属。今回の金融危機のおかげで、自宅にいる時間が長くなり、お腹が出てきて困ってます(笑)。
[雀部]
SF系短編集不況の現在、こうやって上田さんの短編集を読むことが出来て幸せです。
まとめて読むと、全体的なトーンってありますよね。音楽で言うと「ダーク・バラード」? それもありかなぁ(笑)

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