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Author Interview

インタビュアー:[雀部]

偽史冒険世界
『偽史冒険世界 カルト本の百年』
> 長山靖夫著/神崎夢現カバーデザイン
> ISBN-13: 978-4480036582
> ちくま文庫
> 700円
> 2001.8.8発行
 なぜ、明治・大正時代に偽史・架空史が続出したのだろうか。その疑問について、豊富な資料と透徹した論理で解き明かした、忘れられた「もうひとつの歴史」。
 義経=ジンギスカン説、日ユ同祖論、ムー大陸etc。だれもが少年時代に一度は胸躍らせて読んだトンデモナイ歴史や奇想天外な冒険の世界を、大人になっても抜け出せない人もいる。それらの人々のバイブルともいうべきカルト本とその背景を日本近代百年のなかにさぐる。
 第10回(1996年)大衆文学研究賞 研究・考証部門 受賞作。

『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』
>長山靖生著/小杉未醒筆装画(押川春浪「鉄車王国」口絵)
>ISBN-13: 978-4309624075
>河出書房新社
>1200円
>2009.12.30発行
 日本SFの誕生から百五十年、“未来”はどのように思い描かれ、“もうひとつの世界”はいかに空想されてきたか―。幕末期の架空史から、明治の未来小説・冒険小説、大正・昭和初期の探偵小説・科学小説、そして戦後の現代SF第一世代まで、近代日本が培ってきたSF的想像力の系譜を、現在につながる生命あるものとして描くと同時に、文学史・社会史のなかにSF的作品を愛を持って位置づけ直す野心作。
日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで

  前号の続き)
雀部> 海外SFの紹介では、慶應4年(1866)に『新未来記』という本がオランダ語から翻訳されているんですね(争乱のため未刊行。明治7年に英語からの重訳により刊行)
 この時代、こういう未来小説は日本を導く書としても受け取られていたんでしょうか。
長山> はっきりと、社会的に有用な小説として注目されていました。なにしろ原本を日本に持ち帰ったのは幕府留学生の肥田浜五郎で「日本に必要なものだ」として近藤真琴に翻訳を依頼しました。近藤は幕府の海軍や洋学といった、新時代に向けての事業に参画していた人物で、明治時代には教育者として活躍します。そして『新未来記』が刊行された際には新政府で太政大臣をしていた三条実美が題字を寄せています。「こんな時代にノンキな」ではなくて「こういう時代の指針として」の出版だったんです。
雀部> 現代から見ると、ちょっと羨ましいような(笑)
 小松左京先生の『日本沈没』あたりは、教養小説という紹介のされ方もあって、一般サラリーマンにも売れたからベストセラーになったという面もあるかも。
 あと、やはり明治時代のブームと言えばジュール・ヴェルヌの作品が次々に翻訳紹介されていて、日本人の好奇心の旺盛さが現れているんですが、これは長らく鎖国していた反動ということもあるんでしょうか。
長山> そうですね。江戸後期になると鎖国は続いていたものの、すでに町人レベルでも海外の珍奇な品物や風俗に対する好奇心はかなり高まっていて、それが歌舞伎や読本にも反映されていました。実は密貿易もかなりあって、清国の高級絹織物が「蝦夷錦」という名前で流通したりもしていました。科学知識への興味も高まっていました。禁止されていると余計に知りたくなるということがありますが、それが二百数十年積み重なっていたわけで、その思いが後の文明開化のエネルギーにつながったと思います。
 ヴェルヌの小説は、進歩した西洋の科学文明を理想化したものとして、驚きと共に憧れをもって読まれたようです。
雀部> そういえば、明治の人たちはヴェルヌの諸作に意外な違和感を抱いていたんですね。
 これには、う〜むと納得しました(笑)
長山> 「すべてを金で解決する話」という点ですね。欧米では現実問題に関しては、何よりも経済的裏付けというか、経済合理性を重んじますから、冒険や科学技術開発についても経済的な裏付けを書き込むと、SF小説にリアルな感じが強まるんですね。そして、まさにそういう「計算の確かさ」が明治初期の人、つまりこの前まで武士として刀をさしていたような人にとっては、違和感があったんでしょう。それに対して日本は精神主義で、まあ「精神主義」にもいい面はありますが、悪く出ると、予算も武器もないのに、「精神力で戦え」みたいな考え方をして、自滅することになります。「もうちょっと冷静に先を見ろよ」といいたくなるような事業計画が、今でもありますね。
雀部> それはこの間の冬季オリンピックを見てもそう思いました(汗)
 当時ヴェルヌの影響もあってか、貫名駿一作の『千万無量 星世界旅行 一名 世界蔵』(明治15年)という宇宙を舞台にした小説も書かれているんですね。しかも、この中の「智力世界」では、人造人間の管理についての、三箇条の大原則が立てられているということですが、『R・U・R』(1920)より、40年も早かったとは。
長山> 『星世界旅行』は、いろいろな社会の可能性を見せるという政治小説のひとつなのですが、そうやって示された世界像はSF的にとても進んでいるものでした。「智力世界」の人造人間は自己増殖能力もあり、智力世界の「人類」は、すべてを「人造人間」に委ねて、自分たちは自然に衰滅してゆこうとも考えて、平和的な主導的人種交替を示唆する部分もあって、なかなか考えさせられる作品です。
雀部> 〈自分たちは自然に衰滅してゆこう〉という発想はすごいですね。アメリカンなSFには無い(笑)
 あと明治初期に出ている『未来之商人』とか『未来繁盛記』とかいう題名の本は、確かに反則ですよね。SF本と間違える、もしくは買ってみないとわからないので買わざるをえない(爆)
長山> 何度かやられました(苦笑)。横田先生も會津さんも、やっぱり一度や二度は引っかかっているらしいです。口惜しいから、明治文化史か何かで、どうにか使ってやろうと思っています。
雀部> やはりみなさん一度や二度は引っかかるんですね(笑)
 憲政の神様と称される尾崎行雄氏が、なんとSF的な『政治小説 新日本』(明治19年)という未完の小説を書いていたんですね。おまけに末広鉄腸作『雪中梅』(明治19年)の序文で、「科学小説」という語を、初めて今日的な意味で使ったとあって、びっくりしました。なんか神様に親しみがわいたなぁ(笑)
長山> 明治初期の人たちは、とてもラジカルですよね。尾崎行雄は教養が高くシャレも分かる人だったようです。民権運動の人たちのなかには、憲法草案を作った人も大勢いますが、そうした私擬憲法のなかには「宇宙の真理」から人権を説き起こしたものや、現在の日本国憲法以上に国民の権利を重んじて官僚の権利を規制しているものもありました。思考の面でも既得権に縛られないで、自由で豊かな発想をし、大胆な主張をしていたのです。末広鉄腸は自由党員でしたが、板垣退助が裏で政府から資金援助を受けて留学することになると、そういた事情を察知して糾弾したりもしています。純粋で本気だったからこそ、いろいろな発想が湧いたんでしょうね。
雀部> 「宇宙の真理」から人権を説き起こした私擬憲法というのは、本当にSF的ですね。今の政治家にも見習って欲しいものです。尾崎行雄が「科学小説」の語を提示した翌年には杉山藤次郎が自作の『豊臣再興記』の〈凡例〉の中で「科学小説」の語を使い、娯楽小説としてのSF的小説が提唱されていたとは。この杉山氏は、ユーモラスな風刺精神を備えた日本SFの先駆者とも言える人物だったんですね。
長山> 杉山藤次郎の『黄金世界』はちょっと読み難いんですが、『豊臣再興記』や『午睡之夢』は面白くて、当時のものとしては読みやすいと思います。『豊臣再興記』の〈凡例〉は坪内逍遙の文学観に対して異議を唱えた、一種のエンターテインメント宣言でもあり、その意味でも貴重だと思います。
雀部> 矢野龍渓作の『浮城物語』(明治23年)には、森鴎外が「報知異聞に題す」という序文を寄せていて、なんとこれが日本最初のSF擁護論ということで、これまた驚きでした。『浮城物語』に批判的だった人たちの論理的背景が、坪内逍遙の『小説神髄』だったということも初めて知りました。高校時代の現代国語で学んだのですが、そういう反SF的なことを書いてあると知っていたら、ちょっとは興味が出たかもしれない(笑)
長山> 当時は、政治や実業に比べて、文学があまりに低く見られていたので、坪内逍遙としては理論武装の必要がありました。だから彼が政治小説を批判し、未来を描いたり笑いに走るようなものを否定して、〈人間の内面を描く〉〈真を写した〉文学を「進化」したものだと唱えたのも分からなくもないのですが、『浮城物語』論争はSF史的には大きな分岐点となる論争でした。ある意味、今日でも同じような批判がSFに向かって発せられているくらいで、困ったものです。それにしても興味深いのは、そのようにして未来小説を否定した坪内逍遙が、実は進化論に影響されていて、文学の進化、それも定方向進化的なモデルを想定して論を進めている点で、「これも、SFか?」という気もします。それくらい科学的言説、進化論の浸透力は大きかったんですね。
雀部> 小説が定方向進化するかどうか、甚だ疑問なんですけど(笑)
 さきほど名前の出た杉山藤次郎氏の『黄金世界新説』は、反社会進化論の演説小説ということなのですが、そうしてみると、当時進化論が世界に与えた影響はものすごいものがあったのですね。
長山> ダーウィンやヘッケルの進化論とスペンサーの社会進化論が、混同して理解されたきらいはありましたが、「進化」という発想はとてもすんなりと受け入れられました。加藤弘之がそれによって「天賦人権説」を妄想と切り捨て「優勝劣敗」「生存競争」こそが社会を進歩発展させると唱えるようになり、矢野龍渓や馬場辰猪が反駁するといった場面もありましたが、それくらい多方面に影響を与え、一般庶民にも速やかに広まりました。杉山も民権論者でしたから、社会進化論に批判的だったのですが、世間では「それが自然の法則なのか」と納得する空気があったようですね。それは幕末維新の騒乱を経験したこと、さらには文明の進んだ欧米に軍事的圧迫を加えられながら開国し、遅れを取り戻そうと足掻いている自分たちの現状からして、事実と感じられたのでしょう。
雀部> その明治の法学者である加藤弘之氏は、「天賦人権説」を広めたものの、その後進化論や社会進化説を受け入れ国家に奉仕したそうですが、なんと著書の中で、代替エネルギーについて考察したり、食糧問題も心配し、さらには太陽系の寿命が尽きるまでに日本人は恒星間移住を目指すべきだと書いていたとは(驚)
長山> 加藤弘之は興味深い人物で、幕府に出仕して戊辰戦争時には江戸城に立て籠もるといったのに、すぐに新政府に出仕したり、明治十四年の政変後に国体論が強まるとそれに合わせたように「転向」しているのですが、「生き残る」ということに関しての本気度は、すごいですね。太陽系滅亡後の人類(特に「吾が同胞」たる日本人)の生き残りを心配しているくらいの人物ですから、多少転向の仕方が露骨でも、「まあ、しょうがないか」と思えてきます。
雀部> SFファンとしては、何回「転向」しようが許しますよ(笑)
 そのころ、インタビューの一回目でも名前の出てきた村井弦斎が活躍していたんですね。「報知新聞」に連載された『日の出島』(長山先生がお好きなエピソード“財界人が料亭で酒を酌み交わしなが「芸者を呼ぶなんてもう古い」といって科学者を呼び、化学実験を見せてもらって盛り上がる”)は、「読売新聞」の尾崎紅葉と人気を二分していたとか。
長山> 当時は連載小説の人気が新聞の売れ行きに大きく影響しました。『日の出島』は長期連載され、その間「報知新聞」は大いに部数を伸ばしました。通して読むと〈ヤオイ〉的にだらだらと長いところもあるのですが、キャラクターが魅力的だし(キャラ立ち?)、全体的に明るくて、未来への希望を与えてくれる小説でした。特に教育者に評判がよかったといわれてますが、それも分かる気がします。『金色夜叉』や『多情多恨』よりも、発明小説の方がずっと教育上よろしい(笑)
雀部> 『五重塔』で有名な幸田露伴も、「読売新聞」に連載された『日ぐらし物語』の中の一篇『ねじくり博士』(明治23年)という、〈宇宙は螺旋くれている〉という宇宙論を展開する偏屈な科学者が登場する話を書いていたとは(笑)。
長山> なにしろ露伴は、電信技師出身の理系作家ですから(笑)。「ねじくり博士」は現代の『SFバカ本』とか『年刊ベスト』に入れても違和感のない快作です。『五重塔』だって、建築技術者たちの「プロジェクトX」としても読める小説で、理系的な作品でもあります。
雀部> え、『五重塔』ってそんな話でしたっけ。忘却の彼方だなぁ(泣)
 明治33年には、『海底軍艦』をひっさげて押川春浪が本格的にデビューするのですが、同じ年に泉鏡花の幻想怪奇小説『高野聖』も発表されているんですね。どちらのほうが評判が良かったのでしょう(笑)
 今ならSFとファンタジーのジャンルに入る作品だと思いますが。
長山> 売れ行きは『海底軍艦』の勝ち、文壇的には『高野聖』が上、というところでしょうか。 ともあれ日本の近代文学史は、そういうSFやファンタジーという視点を持ち込むことで、もっと豊かに書き換えられると思います。実際、作者は純文学とかエンターテイメントという意識で書いていたというよりも、自分が書き得るいい小説を書きたいというモチベーションで創作に取り組んでいたでしょうし、そのようにして書かれた作品の幅は、とても豊かなものでした。『日本SF精神史』では紙数の関係もあって、ファンタジー系の作品やオカルト・心霊小説には、ほとんど触れられませんでしたが、それらについてもいつか書いてみたいと思っています。泉鏡花は江戸の読本戯作的世界観と近代的ファンタジーをつなぐ作家だと思います。また海外作品でも、フラマリオンは、異惑星にいる人類は、死後の人間の魂が転生したものと見做していたり、『メトロポリス』のアンドロイドには魂が宿るという筋になっていたりと、SFとファンタジー・心霊小説にまたがる作品も少なくありません。
雀部> 当時SF文壇があれば、『海底軍艦』の二勝だったかもしれませんね(笑)
 フラマリオン氏といえば、彗星の尾のガスの有毒説を唱えたフランスの天文学者ですよね。小学校時代に『空気の無くなる日』という映画を観た記憶があります(たぶん巡回映画)。明治三十年代には、一般大衆にもそういう宇宙への関心が高まっていたんでしょうね。
長山> そうですね。明治43年(1910)にハレー彗星が来ることはわかっていましたし、それ以外にも十九世紀末にはいくつかの大きい彗星が来ていて、天文ブームがありました。
 それに明治30年代といえば日本では日露戦争の前後で活気があったというか、現実問題で手一杯でしたが、欧米では世紀末ということで終末思想も流行ってました。天文学と心霊主義が結びついたところで書かれたのがフラマリオンの小説で、そういうものを受容する雰囲気が欧米には濃厚だったということだと思います。それらは日本では、世紀末からはやや時期的に遅れて、ハレー彗星の時期に注目される……という流れになるのだと思います。
雀部> 『海底軍艦』は南進論系の冒険小説で、ロシアも舞台になっているということですが「侵略ではない大陸進出」という自己正当化をメインとしたものとは異なるんですよね。
長山> 当時は国家間の競争による国土拡張は当然のことと考えられていましたから、『海底軍艦』シリーズにもそういう時代の雰囲気はあります。ただ、侵略ではなくて防衛戦争の準備という気持ちが、春浪に強かったのは明らかだと思います。そもそも南進論系の冒険小説は、「無人島を発見して日本領にしたり、秘密基地を持つ」というドラマが多く、『海底軍艦』はその典型でした。侵略ではなく「発見」であり、「侵略を防ぐための防衛ライン」なんです。これに対して、北から迫ってくるロシアに備える「北進論」は、大陸に国防のための防衛戦を作ろうという発想で、朝鮮半島や満州への日本側勢力の展開が不可欠になります。春浪は白人による有色人種への差別・侵略行為を憎んでおり、いずれは人種間戦争が起こると考えていましたが、『海底軍艦』シリーズでは、日本軍がそうした地域を侵略するのではなく、有志たちが私的に活動して、ロシアの侵略を挫こうとする姿を描いてます。
雀部> 『海底軍艦』は全部で六作も書かれているところからも、その人気振りがうかがえるのですが、主な読者層はどういったところだったのでしょう。やはり女性はあまり読まなかったのでしょうか。
長山> 男性読者中心だったと思います。今はSFファンのなかにどれくらい女性がいるのか、私にはよくわからないのですが、けっこう長い間SFや冒険小説は男性読者中心だったという印象があります。特に春浪は、村井弦斎に比べても恋愛などはあまり書かれていませんし、女性の登場人物が活躍することも少ないので、女性読者は少なかったのではないかと思います。
雀部> 今も昔も、女性SFファンは貴重な存在だと思います(笑)
 私の知っている女性SFファンは、TVドラマやSF映画からファンになられた方(トレッキーとか)、アニメ・マンガからSFに興味を持つようになった人、またジェンダーSFから入ってこられた方とか、ヤオイ系SFから入られた方、BL(ボーイズラブ)系からSFを読むようになった方が居ます。
 長山先生は一月の著者インタビューの中で、村井弦斎氏を「明治の赤川次郎」と評されましたが、SF界はもっと村井弦斎氏のような作家を育てて、女性ファンを取り込む努力をしたほうが良いとお考えでしょうか?
長山> う〜ん、難しいところですね。男性でも女性でもファンが増えてSFが盛り上がってくれたら嬉しいですが、作家はそれぞれ自分にとっていちばん書きたいものを書けるのがいいことだと思います。赤川次郎も村井弦斎も、たぶんそれぞれ自分の作風が好きでやっていたんだと思います。新井素子さんや栗本薫さんも。赤川さんはオペラやミュージカルが好きだそうで、そういわれると赤川さんの作風がどこから来るのか分かる気がします。
 だから、女性読者も読みやすいSFを書くのが好きな作家が出てくれるのは、いいことです。ライトノベルの書き手には、そうしたタイプの作家も多いかと思います。とはいえ、ライトノベルの読者が、そこからよりハードなSFに手を伸ばしてくれるかどうかが問題だと思います。自分のことを考えると、ライトノベル以外のSFを書いている人や、昔から知っていた人が書いたライトノベルは読んでますが、ぜんぜん知らない人の作品には手が出ないのが現状で、逆に考えると現代のライトノベル読者に、どうやって長期的なSFファンになってもらうかが頑張りどころだと思います。
雀部> 村井弦斎氏の書かれた小説には、おてんばな女性がよく登場したそうですね。現在では、そういう活発な女の子を主人公にしたラノベはたくさんありますが、それを読むのは主として男性読者なんですよね。これは、日本のSF精神史的には、昔も今も変わってないと言うべきなのでしょうか。
長山> 明治時代の小説や江戸後期の読本も、キャラクターが立っていて、キャラ萌え的な読まれ方をしていたようです。また、それらは「女子供が読むもの」というのが建前で、多くの文学史にそう書かれているのですが、現実にはけっこう男性が読んでいたといわれ始めています。私も中学生の頃から、萩尾望都さんや山岸涼子さんなどの少女マンガを読んでいました。そのあたりは、今も昔も大して変わらないというのが真相かと思います。
 それから時々考えてしまうのですが、今も昔も冒険小説・家庭小説や恋愛小説・ハードなSF(科学小説)のそれぞれの愛読者の比率は、4対5対1くらいで、ずっと変わらないんじゃないかとも感じています。
雀部> 明治四十年代になると〈冒険小説〉の全盛期となり、「探検世界」や「冒険世界」「武侠世界」の三大冒険雑誌(三冊同時に出ていたことはないが)がよく読まれていたそうですが、これらももっぱら青少年向けだったのですね。
長山> そうですね。雑誌の内容は、小説は冒険小説を中心に科学小説、探偵小説、怪奇小説など。ほかに野球や角力、ボートなどのスポーツ記事も多く、戦争実話や探検実話などのノンフィクションにもかなりのページが割かれていました。また、高等学校や専門学校の探訪記なども人気があったようですが、それらも男子校なので男子をターゲットにしていたことが分かります。また載っている広告も、中学(男子)の通信教育や剣道の道具、天体望遠鏡などが多かったようです。
雀部> 『偽史冒険世界』によると、明治41年に「冒険世界」を読んで刺激を受けた愛知県の中学生数名が、仲間とボートで冒険旅行に出かける計画を立てたが、親にばれて未遂に終わったエピソードが紹介されてますね。その計画の首謀者が、なんとあの江戸川乱歩(平井太郎少年)だったとは。後年大作家になるわけですが、作風からはそういう大冒険に乗り出そうとした時代があったとは意外な気がします。当時の「冒険世界」をはじめとする冒険雑誌、とりわけ押川春浪氏の影響力は凄いものがあったんですね。
長山> 明治末期から大正初期にかけての春浪は、我々の時代ですと手塚治虫のようにポピュラーな存在で、その時代に少年期を過ごした人は、たとえ思索派タイプでも、やっぱり憧れを掻き立てられたのだと思います。もちろん、海野十三も平田晋策も南洋一郎も、春浪を読んでいました。
雀部> 今も昔もSFの中心読者は、若い男の子(もしくは若い男の子の心を持った男性)だと思います。“SFの黄金時代は12歳だ!”(一説には15歳)という警句もありますし(笑)
 ということは、『日本SF精神史』は、主として日本人男性のSF精神史と考えても良いのでしょうか。
長山> そうですね。だいたい、書いている私自身が「精神年齢12歳の男性」ですから(笑)
 もっとも、あの頃がいちばん感受性豊かで、いろいろな小説が面白く読めたし、想像力もあった気がします。十代、二十代のころは女性作家のSFや少女小説も好きで読んでいました(SF、幻想文学は今でも)。むしろ現代では、ことさら男性のもの女性のものという意識を持たずに読む人も増えているのではないかと感じています。誰が読んでも、いいSFはやっぱりいいと感じられるのだと思います。


[長山靖生]
1962年茨城県生まれ。評論家、歯学博士。鶴見大学歯学部卒業。歯科医の傍ら、文芸評論、社会時評などの執筆活動を展開。96年、『偽史冒険世界』(ちくま文庫)で大衆文学研究賞を受賞。著書に『テロとユートピア』『人はなぜ歴史を偽造するのか』『日露戦争』『日米相互誤解史』『不勉強が身にしみる』『若者はなぜ「決められない」か』など。
[雀部]
1951年岡山県生まれ。アマチュアインタビュアー、歯科医師。東北大学歯学部卒。歯科医の傍ら、SF作家の先生方にメールインタビューする毎日です。


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