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Author Interview

インタビュアー:[雀部]&[栄村]

『SFマガジン』2012/05月号
 
第7回日本SF評論賞決定
優秀賞受賞作「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」渡邊利道 掲載
最終選考会採録
 荒巻義雄/小谷真理/新城カズマ/瀬名秀明/SFマガジン編集長

『華竜の宮(上・下)』
> 上田早夕里著/コードデザインスタジオ カバーデザイン
> ISBN-13: 978-4150310851
ISBN-13: 978-4150310868
> ハヤカワ文庫SF
> 各巻740円
> 2012.11.15発行
 ホットプルームの活性化による海底隆起で、多くの陸地が水没した25世紀。人類は、しぶとく生き残り再び繁栄していた。陸上民は残された土地と海上都市で高度な情報社会を維持し、海上民は〈魚舟〉と呼ばれる人間由来の遺伝子を持つ生物船を駆り生活していたが、陸の国家連合と海上社会との確執が次第に深まりつつあった――。
  日本政府の外交官・青澄誠司は、かつて自分の勇み足が原因で人命を失い、自らも獣舟に足を喰いちぎられるという苦い過去を持っていた。その後、外洋公館の外交官として赴任した青澄は、海上民たちの紛争処理に日々追われていた。
 そんな彼に、アジア海域での政府と海上民との対立を解消すべく、海上民の女性長(オサ)・ツキソメと交渉する役目が回ってくる。両者はお互いの立場を理解し合うが、政府官僚同士の諍いや各国家連合の思惑が障壁となり結論を持ち越されることに。
 同じ頃、IERA〈国際環境研究連合〉は地球の大異変により人類滅亡の危機が迫ることを予測し、極秘計画を発案した……

前回の続き)
雀部> あの合唱のシーンで、ふと違和感があったのが
 人間→獣舟→獣舟変異体→人間もどき(獣舟変異体)→人間
という環のなかで、ツキソメとユズリハが感応しあっているように思えた(そういう風に書かれていると思った)ところなんですが。
 “他者の他者性”ということに拘る上田さんなら、お互いに理解し合えないように書かれるんじゃないかなと考えまして。人間の言葉を覚える前には、魚舟(獣舟?)と“歌”を通じてコミュニケーションできていた獣舟変異体が、言葉を覚えて人間とコミュニケーションが取れるようになるとともに、魚舟とはそれが出来なくなる。そしてツキソメは、もはや私は人間なのだと悟る、というふうな展開のほうがよりしっくり来るかと……
渡邊> そうですね。上田作品においては音楽は「理解」というのとは違う「響きあう」ものとしてあるんじゃないかとか思ったりします。違う楽器が響きあうことで一つの音楽が成り立ったりするじゃないですか。そういう意味で、音楽は差異をそのままに「理解」とは違う水準でのコミュニケーションを実現するものなのかなあと。ショーペンハウエルじゃないですが、音楽ってわりと特別なものとして表象されることが多い概念ですし。
雀部> なるほど。音楽、特にクラシックなんかは、数学などと同じく共通言語として扱われることが多いですね。まあ素養がないと本当には楽しめないんですが。私は素養無し(汗;)
 SFにおいても音楽は、異星人相手でも良いものは良いとして書かれることがドク・スミスの昔からありましたね。
渡邊> あと、ツキソメが「言語」によって獲得するのは「人間(性)」であるよりは、「私」という実存の形態なんじゃないでしょうか。マキもそうなんですが、「私」という発話の主体となる言語的存在として、人間とコミュニケーションをとる、理解したり否定したり批判したりといった言語的なコミュニケーションが可能になっているわけなんですが(相手の言っていることを理解しないと否定も批判もできないので)、それはやはりツキソメもマキも、人間の他者として行っているのではないかと思うのです。
 そういう意味で「音楽」と「言語」というコミュニケーションの複数の相があるように思います。
雀部> な〜るほど。さすがに読みが深いですねぇ。
 本当にコミュニケーションが取れたことになるかどうかは疑問無しとは言えないと思うのですが、意味論持ち出すほどでも無いよな。
 あと、あのラストから受けた上田さんのメッセージとしては“遺伝子ではなく、人間の言葉を理解し、他人を助けるために働くとか、自分を犠牲にしてまで他の人につくすというような人間的思考をもった生命体が人間なんだ”。だから、人間の言葉を覚え、思考方法を身につけた獣舟変異体やAIは、充分人間たり得る資格があると感じました。
渡邊> 成程。そこらへんはまったく解釈の自由がある部分だと思うので、雀部さんの解釈も面白いと思います。私はどちらかというと上田さんは「生物」ということに強い関心を有されている方なので、人間と獣舟変異体とAIは「種」として厳然と違っていて、その上である程度の「理解」が可能な地平として「言語」が現れているかなあ、そしてそこに「物語(小説)」の可能性が込められているのかなあ、というふうに考えたりします。さらにいうと、そのような言語的な「理解」を超えて、生命として響きあう何かとして「音楽」がまるで奇跡のように存在している、というイメージでしょうか。基本的にとてもロマンティックなイメージですけども。
雀部> ロマンティックというのは、上田さんが“「小鳥の墓」を書いて暗い作品に対する欲求が一段落した”と言われていたので分かります(笑)
  生物学的な面では、“外敵に襲われたときに犠牲となる独身者のグループ”の概念を物語の骨格にしたり、和歌山県で発見された「ハテナ」という単細胞生物の記事が「魚舟・獣舟」のアイデアの元になっていたりするところなどは、“人間もまたただの「生物」である”との認識に基づくものだと感じました。(分裂時に、片方は葉緑素を持つ植物型に、もう一方は口を持って動き回る動物型になる。動物型の方は、ある特定の藻類を取り込むと植物型に変異し光合成を行うようになる)
渡邊>「人間もただの生物である」という価値転倒の意識はやはりある程度主張として含まれているんでしょうね。SFに慣れている読み手としては単なる人間存在の可能性の拡張として読んでしまうところもあって、生物学の知見から導きだされる生の様式としてわりとナチュラルに受けとめてしまうんですけれども。
雀部> オールドファンとしては、人間の身体改造はサイバーパンクあたりから一般的になったように感じてます。
 世界滅亡系というと、森奈津子さんの「西城秀樹のおかげです」では、異星人のウィルスによって人類のほとんどが死に絶え、二人の変態(笑)男女だけが生き残った世界なんですが、「お詫びとしてなんでも叶えてあげます」(地球文明の再興を含めて)と言う異星人に対して、自らの欲望に忠実な望みだけを叶えてもらい、八十八年後には総ての人間が死に絶えてしまうというあっけらかんとしたラストなんですが、女性は人類の行く末とかはあまり気にしないものでしょうか。あ、もちろん“うへぇ〜っ、よくこういう発想が浮かぶなあ、すげぇ”と感心してるんですが(笑)
 それとも上田さんの破滅に寄せる愛情は、ニューウェーブあたりの影響かなとも思うんですが。
渡邊> どうなんでしょうかねえ。人類の破滅を書きたいものの口実にするような表現は、たとえば筒井康隆さんの『霊長類南へ』がそういうもので、けっこう80年代以降の日本SFではひとつのパターンとしてあるかなあと思います。女性作家では新井素子さんの『ひとめあなたに…』とか、栗本薫さんの「滅びの風」とか、男性作家でも川又千秋さんの『日本黙示録』という作品がありますね。あまり詳しくないのですが、田中啓文さんなど、筒井康隆さんの影響下にある作家さんにはけっこうそういう傾向はあるんじゃないかなあとかぼんやりと思ってるんですけど、どうでしょう?
雀部> 確かにもっともっとありますね。田中啓文さんは、ふざけ倒すんであまり目立たないけど、確かに破滅志向な長編が多いような。筒井康隆先生の影響というと、やはりかんべ先生かなあ。かんべ先生の私小説的ファンタジーは、破滅志向ですよね。
渡邊> かんべむさしさんは小説もエッセイも、相対主義の極北のようなところがあって、怖いですよね。こないだSFマガジンの特集でいろいろ読み返したんですが、『言語破壊官』という短篇などは、相対主義の危険性をある種ノリノリで突き破っちゃおうっていう透明な衝動を感じてゾッとしました。SFの破滅思考には価値に対する極端な透明性がありますよね。
雀部> かんべ先生の出版された本はインタビューの前に全部読んだのですが、明るく壊すか、暗く壊れていくかの違いはあれど(笑) ←サラリーマンものは除く
渡邊> 女性作家の特徴ということで言うと、やはり男性作家と違って際立ってるのは「子供を産む」と言う現象についての距離感と言うか、複雑な立ち位置のようなものを感じることが多いですね。たとえば大原まり子さんの『ハイブリッド・チャイルド』では、母子の対立が宇宙全体の運命を左右したりして、新井素子さんの『チグリスとユーフラテス』のプロットなんかは「産むこと」そのものをある不毛の地平に置き換えちゃいますよね。あれは男性作家にはない厳しさじゃないかなあと思います。男性作家には「子供を産むこと」をそのまま全肯定したい甘っちょろさがありますね。
雀部> ロバート・A・ハインライン御大なんかまさにそれですね(笑)
渡邊> ニューウェーヴについては、直接的な影響というよりはむしろSF的な発想や世界観がごく自然なものとして出発点にあって、ニューウェーヴ的な批評性も当然そのなかから自然に出て来ているのかなあという気もします。これはいわゆるジャンル的な「SF作家」だけじゃなくて、けっこう現在の小説家一般に浸透しているSF性として、たとえば吉村萬壱さんとか、阿部和重さんとか、そういう人たちにもあるんじゃないかなあとか思ったりしますね。
雀部> なるほど、ちと読んでみます。
 ニューウェーブ系だと、J・G・バラードなんか、何度も世界を破滅させているし(笑)
渡邊> そうですね。なんというか、やはり「世界の破滅」があらかじめ「世界」そのものに織り込まれている感覚というのが60年代以降の作家にはありますね。世界大戦と核の実現が幼年期にあったのが大きいのかなあとかいろいろ思いますが。
雀部> 『華竜の宮』の日本SFとしての系譜は渡邊さんの評論で、だいたいのところはつかめたのですが、海外SFを含むSF全体での位置づけはどうなのでしょう。
 破滅系SFは色々ありますが、ここまで壮絶なのは少ないですよね。
 上田さんは、SFとの最初の回向が、サイバーパンクだったそうなので、人体変容が良く登場するのはそのせいかとも思ったりします。
 またマキのようなアシスタント知性体は、『20億の針』('50)の主人公の少年と共生する「捕り手」(新しいところでは《ライラの冒険シリーズ》の「ダイモン」の存在)なんかと同じく、少年少女にとっては憧れですね。また補助頭脳という観点から言うと、『地球の長い午後』('62)のアミガサダケにルーツがあるかもと感じてます。
渡邊> そうですね。『華竜の宮』を読んでて、ちょっと思い出したのは『神鯨』ですね。世界を思いっきり変容させて、いろんな人物を出してものすごい勢いでストーリーが動いていく感じが。海棲哺乳類ものの系譜には、人類以外のものが知性を持っていて、人類とともに(ときに対立さえして)地球の運命を左右する話がけっこうありますよね。
雀部> 『神鯨』ですか、そう言われれば確かに。ちょっとワイドスクリーンバロック的でもあり、個人的にも評価の高い作品です。
渡邊> あと破滅を前にしていろいろする話で言うと、『悪魔のハンマー』とか、『幼年期の終わり』の一部とかも、そういえばネゴシエーションの話ですよね。海外SFにはこういう巨大な事態を前に政治的にどうこうって話はわりとありますね。
雀部> 各国のメンツがかかっていて、無益な対立したり。確かにニーヴン&パーネルあたりは得意そう(笑)
 政治絡みのSF自体も日本より多い気がします。
渡邊> ただ上田さんはノワールと言うか、ジェイムズ・エルロイがとてもお好きで、おそらく現代小説的な部分を非常に持ってらして、SF的な世界の中でシリアスな人間ドラマを進行させるのが非常に巧いですよね。個人の人生と社会の病理を二重写しにする手法が、近年の日本のSF作家の中ではずば抜けて「現代的」だと思います。系譜的にはちょっとわからないですが、現在の英米圏のSFとそういう部分でけっこうリンクする部分があるかなあと。
 アシスタント知性体は本当に憧れですよね。役割的にはなんとなくゲゲゲの鬼太郎の目玉親父みたいな、年寄りの物知りな精霊的存在を連想するんですけど、わりと対等な目線の「相棒」なのが今風と言うか、SF的なのかもしれないですね。そういえばナイトライダーとか、コンピューターと減らず口を叩くというのもひとつのパターンでありそうですね。
アミガサダケというのは成程!です。今度のウェブ連載とかも、ちょっと『グレイベアド』風ですし、お好きなのかもしれないですねえ。
雀部> オールディスあたりに、最後の人間が死んでしまって、でも体内の微生物とか細菌は、その体を養分にして増えていく。地球の生命全体にとって大切なのは、人間じゃなくて海だという短編があったなぁと調べてみたら、ベスターの「イヴのいないアダム」でした(汗;)→ロケット燃料にするFeに核反応を起こさせる触媒が漏れて、地球が壊滅し、ロケットで上空にいた主人公以外の全生命体が絶滅するという話
 『華竜の宮』では、大惨事のあとの地球の描写はされてませんよね。何万年か経てば、また生命が存在できるようになるはずですが、なんかここで終わらせるんだという作者の強い意思を感じました。
渡邊> そうですね。やはり「言語」という問題系があるんじゃないかとか思いますね。伊藤計劃さんが昔、物語は誰かが語っているわけだから、一人称じゃないとしっくりこないとどこかで発言されていたんですが、言語を有する視点がどこかに存在しないと、それを言葉で描くのは躊躇われるという部分があるんじゃないですか。「語る」ということに対する信頼感の問題かもしれないのですが、現代の作家はそこまで「語ること(言葉)」の普遍性を前提に仕切れない部分があるんじゃないかとか思ったりします。
  (次号に続く)


[渡邊利道]
1969年愛知県生まれ。流れ流れて現在は東京在住。
週三回透析治療を受ける病人、専業主夫。
たまに評論や小説を書きます。
[雀部]
1951年岡山県生まれ。
歳を実感する今日この頃(汗;)

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