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蟻の王

前編

中条卓

1

 世界の没落とはおよそ縁のなさそうな平凡な午後、あなたの妻があなた宛の手紙をポストに見出す。ありふれた白い封筒にやや見慣れないフォントで印刷された宛名。差出人の名前はない。あなたも妻もはじめはそれが週に何通となく届くダイレクトメールのひとつだろうと考える。

「でも」と妻が首をかしげる。差出人が書いてないのは変よねえ、これじゃクズ籠に放り込んでくださいって書いてあるようなものだわ。
「かえってそこが狙いなのかも知れないよ」
「なんだか気味が悪いわ」
「爆弾でも入っていると?」
「タンソキンとか」

 あるいはその両方の性質を備えた何か…例えば爆発的に増殖するウィルスが仕込まれているのかも知れないよ、と言おうとして、あなたはウィルスの増殖には生きた細胞が必要なことを思い出す。あなたも妻も医師の資格を持っているのでふたりの間では医学的な冗談が交わされる機会が多いのだが、あなた自身は実際の診療を離れて久しく、自分の医学知識が日に日にぼやけていくことを自覚している。

 手紙はそのまま食卓の隅に放置され、電話代の請求書や同窓会の案内といった雑多な郵便物とともに次の休日の午後まで開封されない。休日の日課になっている郵便物整理を始めたあなたは何気なくその封筒に手を伸ばす。軽く振ると中身が封筒の端まで移動するのがわかる。ダイレクトメールではなさそうだ。ハサミで端を切り、おそるおそる上から覗き込んだあなたはいくぶん安堵したように声を出す。

「なんだ、写真だよ」
 すべり出る数葉の写真。キッチンからコーヒーを運んで来た妻が拾い上げ点検する。「何これ? 宴会の余興かなにか?」

 一枚目の写真には目隠しをしてアップライトピアノに向かうあなたが写っている。絞首刑にでも使いそうな黒い目隠し。

「ええ? 全然覚えがないよ。だいいちおれが目隠ししてピアノなんか弾けるわけがないじゃないか、ギターならともかく」
 妻から手渡された写真を点検したあなたは右下隅に記された日付に気づく。
「なんだこれ、今年の12月28日の日付になってるぜ。3ヶ月も先じゃないか」
 なにかの冗談かなあと言いかけたあなたの目の前に妻が2枚目の写真を突き出す。
「誰、これ?ずいぶん親しそうじゃない」

 妻の言葉はわずかに険を含んでおり、脱色された柔らかい髪のふちが電気を帯びているかのようだ。妻が差し出した2枚目の写真には革張りのソファに深く腰掛けてくつろぐあなたが写っている。酒が入っているのだろう、あなたの顔は赤らみ、禿げ上がった額がてらてらとフラッシュを反射している。あなたの隣にはチュニックとでも呼ぶのだろうか、ゆったりとした古代風のドレスに身を包んだ若い女性が座り、熱心にあなたの言葉に耳を傾けている様子だ。彼女の両手は何かを捧げ持つように、あるいはあなたから何かを受け取ろうとしているかのようにあなたに向かって差し出されている。

「いやこんな女性は…」
 知らないと言おうとしてあなたはしばし口ごもる。その顔には確かに見覚えがあるのだが、一方で実際にこんな場面に出くわすような機会が自分にあろうとはとても思えない。「見たことも会ったこともないよ」
「じゃあこの写真は何なのよ」
「わからん。でもこの写真も未来の日付だぜ」

 3枚目の写真はあなたの顔の一部を大写しにしたものだった。何かに見入るように大きく開かれた両目が画面を占めていて、特徴のある目じりのほくろがなかったら誰の顔かわからなかったかも知れない。

「あなたの顔ね。なんだってこんなにクローズアップしたのかしら。悪趣味ね」
「おれが撮ったわけじゃない」
「ねえ、目の中に何か写ってるんじゃない?」

 言われてみればなるほど、写真の中のあなたの瞳にはあなた自身の顔が写っているのだった。角膜の表面で歪曲されたその姿はどこか滑稽でさびしげだ。

「こりゃあやっぱり合成写真だよ」

 あなたは断定する。普通のカメラではこんな写真は絶対に撮れない。マジックミラーを使えば、あるいは撮れるのかも知れないが、またしてもそんな状況は身におぼえがなかった。あなたは写真を裏返す、とそこには封筒の宛名と同じフォントでたった4文字、"FYEO"と記されているばかり。

「ねえやっぱり薄気味わるいわ、そんな写真捨てちゃいなさいよ」
 ねえほんとにおぼえがないのあなた私に隠れて何か悪いことしてるんじゃないのねえこれって何かの脅迫なんじゃないのかしら…次第に妄想じみてくる妻の連想を断ち切り(彼女の専門は精神科なのだから、差出人の心理を推測することなんかお手のものだろう?)、あなたはこれら3枚の写真をまた元の封筒にしまう。
「もう少し調べてみるよ、合成写真だとしたらその証拠が見つかるかも知れないし」
 あなたたちは沈黙し、コーヒーがすっかり冷めてしまったことに気づく。

 気がかりな夢から覚めて眠れなくなったあなたは寝床を抜け出してキッチンに向かい、汲み置き型の浄水器からコップに水を注ぐと自分の仕事場の扉を開ける。そこではまるで部屋自体がスクリーンセイバーの画面でもあるかのように、数台のパソコンと同数のモニタ、電話機あるいは外付けディスクドライブといった周辺機器の色とりどりの発光ダイオードがそれぞれ固有のリズムで点滅している。マウスを2、3回素早く動かすとプライベートな用途に使っているマッキントッシュが眠りから覚め、スクリーンが明るくなる。緑がかった画面の色合いが元に戻るまで数秒待ったあと、あなたは画像解析用のソフトを立ち上げ、フラットベッドスキャナの最高解像度で3枚の写真をパソコンに読み込む。1ギガバイトという、一般人が使うには不釣合いな大容量のメモリを搭載したマシンでもこれだけ巨大な画像を扱うにはいささか時間がかかる。あなたはコップの水を半分ほど一気に飲み干す。

 古典的な、あるいはアナログな手段によって合成された写真であれば合成の証拠をあばくのはかえって難しいかも知れない。しかしあなたはこれらの画像がデジタル画像であることをほぼ確信している。

 画像を合成した証拠はわりと簡単に見つかる。一枚目の写真のあなたの顔とピアノを弾く男の手とは肌の色合いが違っているし、男の手はあなたよりもずっと毛深い。さらに決定的な証拠は画像を拡大していくにつれて明らかになる。すべてのデジタル画像はピクセルと呼ばれる単位から成り立っていて、どんなデジタル画像でも拡大を繰り返せばひとつひとつのピクセルが見えるようになり、やがては全画面がたったひとつの色に占められてしまうのだが、一枚目の写真のあなたの顔とそれ以外の部分とではこのピクセルの大きさが、言い換えれば画像の解像度が少し違っているのだ。顔の部分はもっと大きな画像から切り取り、縮小してから写真の他の部分に貼り付けられたものらしい。

 さてと、2枚目の写真に写る若い女性の姿にあなたは見入る。表情もしぐさも自然で、コラージュによるものとは思えない。決して美人とは言えないがどこか惹きつけられる。肌はむしろ浅黒い方だろう。長いまつげに飾られた奥二重の大きな目はなかなか魅力的だが少し離れすぎている。唇は薄く、口は大きい。鼻は高いが裾野もまた広くてやや日本人離れしている。どこかで確かに見たことのある顔なのだが、それと同時にどこにも存在しない顔だという奇妙な確信がある。そんなことってあり得るだろうか…細い首筋、華奢な肩と不釣合いに大きな乳房…首から下は若いころの妻に似ているといえなくもない。

 そして3枚目。これは確かに最近撮影されたものだ。証拠はこれ、眉に混じった長くて太い数本の毛だ。ほんの数ヶ月前に気づいていささかショックを受けたものだ。年を取るとそんな眉毛が生えてくることは知っていたが、まさか自分がそんな年になっていたとは知らなかった。こんな毛がぼうぼうと生えてしまったら、まるで能面の翁のようではないか。それはともかく、この写真こそ合成以外の何物でもない。だってそうだろう、瞳の中に何かが映るとしたら、それはこの写真を撮ったカメラ以外ありえないじゃないか。マジックミラーを使ったものでもない。なぜなら、瞳の中に映るもうひとつの顔は最初の顔と同じ向き、つまり左右が逆転していないから、鏡に映ったものではありえないのだ。画像を拡大したあなたは、瞳の中の小さな顔の、その瞳の中にもうひとつ小さな顔が隠されていることに気づき慄然とする。ここには何か執念じみたもの、偏執的な細部へのこだわりが現れている。いったい誰が何のためにこんな小細工を弄したのか見当もつかないが、その目的があなたを不安にさせることだとしたら、すでにその目的は十分に達せられている。

 封筒の宛名と3枚目の写真の裏に記された謎の4文字〜FYEO〜のフォントが自分のパソコンにもインストールされているのを知ってあなたは軽い驚きを感じる。VT100という名前から察するに、これは初期のUNIXマシンの画面で使われていたフォントを模したもののようだ。仕事に使っているWindowsマシン、それからサーバ用のLinuxマシンを次々に立ち上げ、あなたはそれぞれにインストールされているフォントを調べてみる。件のフォントはマッキントッシュにしか載っていないようだ。ということはつまり、この手紙の送り主は少なくとも1台のマッキントッシュを所有しているということなのだろうか?

 これらの画像の送り主はいったいどこからあなたの画像を入手したのだろう。アマチュアのオンライン作家でもあるあなたは自分の顔写真をインターネット上に公開してはいる。だが、これらの画像のどれもが公開された画像とは異なっている。めったに外出しないあなたの姿を盗撮するのは難しいことだろう。だから例えば何かの集まりに出席したあなたの写真がインターネット上のどこかに〜たとえそれが公開されていなくても〜存在する可能性の方がずっと高そうだ。あなたはつい最近入手した画像検索用ソフトを使ってみようと思いたつ。

 インテリジェントかつファジイな検索を売り物にしているらしいそのソフトは試用版を無料でインターネットからダウンロードしてきたものだ。あなたは自分の顔写真を検索用のウィンドウに貼り付け、「厳密」検索を指定して検索開始のボタンをクリックする。あとはこのソフトがあなたの顔の特徴を抽出し、その特徴を備えた人物のポートレートを拾い上げてくれるだろう。インターネット上にはいったいどれほどの画像ファイルが置かれているのだろう? おそらく何万といったオーダーではおさまるまい。億単位? それを片っ端から検索しようというのは無謀なんじゃないだろうか。結果は順次表示されるとはいえ、そもそもこんな検索に終わりがあるのだろうか…

 長時間の作業を予想して一息いれようと椅子から立ちあがり、あなたは飲み物を作りにいく。アイリッシュウィスキーのお湯割りを満たしたマグカップを手に仕事部屋に戻ったあなたは検索完了を示す旗が画面上に立っているのに気づいてちょっと驚き、やがて苦笑する。ウェブ上のデータを検索する代わりにあなたはローカルのハードディスク、今あなたが使っているまさにそのマシン内のデータを検索してしまったのだ。どうやらソフトの設定を間違えたらしい。やれやれ、と呟きながら検索結果に目をやったあなたは今度はあっと声を上げる。そこには送られてきた写真そのままのあなたの顔写真が小さく表示されているではないか… 画像を拡大してみる。間違いない。送られてきたものとまったく同じもので、ただ瞳の中にあなた自身の像が映っていないだけだ。いったいいつ撮影したものなのだろう、まったく覚えがないがと思いながらあなたはその画像ファイルの作成日を調べてみる。半ば予想していた通り、その日付は送られてきた写真と同じ未来のものだ。ファイルが置かれていたフォルダを調べたあなたは、そこに合成写真の要素をすべて見出す。白人のピアニストがアップライトピアノを弾いている写真、パソコンに向かうあなたの横顔、どこかのパブかなにかで撮影されたらしいスナップ、妻の若いころの顔写真… あなたはようやく、2枚目の写真に写っていた女性の正体を理解する。この顔はあなた自身の顔と妻の顔とを合成したものだ。だからこそ見覚えがあると同時に見たことのない顔だったのだ。だが、とあなたはマグカップからごくりと酒を飲み、舌をやけどしそうになる。一体だれがどうやってこんなファイルをおれのパソコンに仕込んだんだ?

 妻はメールのやりとりとウェブページを覗き見るくらいにしかパソコンを使わず、画像を加工するなどといったスキルは持っていない。ここはあなたの仕事場で他には誰もこのパソコンを使う者はない。外部からネットワーク経由で侵入してファイルを置いていった奴がいるのか? いったい何のために? そもそもそんなことができるのなら何だってわざわざ合成写真をプリントして送りつける必要があるんだ? あなたはマグカップの中身を半分ほど一気に飲み干し、画像が置かれていたフォルダの名前を凝視する。

"DominaFormicae"

ドミナ・フォルミカエ。ラテン語だろうと見当はつくが、意味はわからない。あなたは眠れないままインターネットを漂流し始める。

10

 仕事中にふと思いついたあなたはフォルダの名前に使われていた単語をオンライン辞書で引いてみる。やはりラテン語だ。domina は英語なら lord、日本語なら主(しゅ)といったところ。あなたはフォーレのレクイエムの歌詞を唐突に思い出す。リベラ・メ・ドミネだったろうか、主よ憐れみたまえ? 違ったかしら。ラテン語は苦手だ。解剖学実習を思い出してしまう。formica はなんと蟻という意味らしい。formic acid=蟻酸。フォルマリン。ホルムアルデヒド。なるほど。ならばドミナ・フォルミカエはさしずめ「蟻の王」だろうか。蟻の社会には女王しか存在しないのだから「蟻の女王」が正しいのかも知れない。蟻の王とはなにやら滑稽で悲しげだ。蛇の王=バジリスクや蝿の王=ベルゼブブの方がよっぽどましではないか。

 やがてあなたのもとに Domina Formicae と名乗る団体からのメールが届きはじめる。それはどこか狂信的な匂いのする新興宗教団体であるらしい。私のところに写真を送って寄越したのはあなたがたですか? 礼儀正しくあなたは尋ねてみるが相手はそれには答えず、あなたに対する場違いな感謝の辞を連ねるばかり。いわく、最初にして最後の予言者であるあなたにわれわれは衷心から感謝の意を表します…われらの主を戒めより解き放ったあなた…あなたは主を見出し、主はあなたを見出したのです… 予言? 予言って何です? 私には何のことなのかさっぱりわからない。それよりも私が知りたいのは画像ファイルを仕掛け、合成写真を送りつけ、今またこうしてばかげたメールを送ってくるあなたがたの意図です。いったいぜんたいあんたたちは何をたくらんでいるんだ? お忘れになったのですか? あなたは以前に参加されていた同人誌でわたしどもの教団についてお書きになったではありませんか… 教団から今度は多色刷りの豪華なパンフレットが郵送されてくる。そこにはまたしてもあなたの顔写真が転載されており、「予言者のプロフィール」と題されたページには件の同人誌から引用されたらしい短い文章が載っている。ようやくあなたは思い出す。何年も前に書いた短い小説の中で、あなたはインターネットを神とあがめる宗教団体を登場させたことがある。ディックの描いたVALIS: Vast Active Living Information System とはインターネットそのものだというわけだ。だが、たかだか数百部しか印刷されず、さらにその大半が売れ残るようなおよそマイナーな同人誌に載った架空の団体が現実に存在するなんて、ばかげた話じゃないか。クルムヘトロジャンじゃあるまいに。これは悪質な冗談か、さもなければ偏執狂のしわざに違いない。そもそも Domina Formicae なる団体が実在するという証拠はどこにある? メールアドレスなんてあてにならないし、パンフレットだってパソコンとプリンタで作れないことはあるまい。このパンフレットには教団本部の所在地が書かれていないじゃないか。

 あなたの執拗な追及に耐え切れず、教団は少しずつ人間の貌を見せ始める。電子メールからFAX、電話そして生身の人間とのやり取りへ。

 晩秋のある日、あなたは指定された喫茶店で自称教団幹部の若い男と対峙する。何の特徴もない男。中肉中背、髪は長からず短からず、声は高からず低からず、アクセントは標準的で服装は没個性的。平均的日本人男性というものを合成したらこんな男になるのではないか。誰とも似ているようで誰にも似ていない。あなたはようやくつかんだはずの教団の尻尾がトイレットペーパーの切れ端にすぎなかったような気分になる。どこからかあなた自身の声が聞こえる。

「ぼくはてっきり同人の誰かのいたずらだと思ってたんだけどね」
「ですから何度も申し上げたように、われらの主があなたの予言を見出されたのです」「例の同人誌のこと?」
「それだけではありません。秘匿された経典のことをお聞きになったことはありませんか」
「いや全然」

 あなたはわざとぞんざいな口をきいて男を挑発しようとするが、特徴のない男はいっこうに動じない。

「チベットの高僧たちは後の世のためにしたためた経典を寺院のどこかに隠しておくのです。それは誰の目にもふれることなく長い間眠り続け、それが必要とされる時に奇跡のように見出される」
「ぼくがそんなものを書いたと?」

 男は自分が注文したコーヒーに口をつけようともしない。まるで唾液という証拠を残さないよう用心しているかのようだ。

「あなた自身が理解しているあなたではないかも知れません。予言者としてのあなたは現身のあなたとは別の時相にあるのです」
「またわけのわからんことを… 写真を送ってきたのはあんたらなんだろ?」
「それはわたしの口からは申し上げられませんが、いずれ明らかになることです」
「いずれいずれって、さっきからそればっかりじゃないか。そもそも何だってわざわざ未来の日付をつけて寄越したんだ?」

 そのことでしたら、と男は謎めいた微笑を浮かべる。アルカイック・スマイルってやつだ。全感情の中間地点。男の表情がその時仏像そっくりになる。半眼半口。上まぶたに隠れた半分の目は彼岸を見ているのだろう。

「わたしどもは独自の暦を用いているのです。あなたがたの世界からはちょうど100日離れている計算になりますか」
「するとあんたは未来からの使者ってわけだ」
「そういうことになりますね」

 男は悪びれずに即答する。あなたは意地悪く尋ねてみる。

「100日後の世界がわかるとは便利だね。投機もギャンブルも怖いものなしだ」
「さよう、教団の資産運用に大いに役立っております」

(じゃあここ3ヶ月の間に高騰する株の銘柄を教えてくれないか)と言いかけてあなたは思い直し、
「100日後のぼくはどうしてます?」と質問する。

 なぜそんなことを訊く気になったのかは自分でもわからないが、それは男の動揺を誘うパスワードであったらしい。男は一瞬ためらって人間の顔に戻り、さも言いにくそうに眉をひそめながら小声で呟く。かすれたその声があなたにはどこか別世界から聞こえるような気がする。

「まことに申し上げにくいことですが、その時あなたはもうこの世にはおられないのです」

11

(予言者だって? おれが?)

 男と別れたあなたは繰り返し自問する。予言者はむしろあの男の方じゃないか。予言、というよりも予告された死があなたの気分を重く沈ませる。偏執狂の妄想さ、とうそぶいてみてもあなたの気分は晴れない。余命3ヶ月か、せめて1年ぐらいは残してもらわないと予定の立てようがないじゃないか。少々肥満ぎみで酒を飲みすぎているかも知れないが、健康には自信がある。突然ぽっくり逝くような病気とは無縁なはずだ。ならば事故だろうか、それともあいつがわざわざおれを殺しにやってくるとか? いや、そんな大それたことをしでかしそうな奴じゃなかった。 あいつは、と言いかけたあなたはもはやその顔を思い出せないことに気づく。あいつはメガネをかけていたろうか? ヒゲは生やしてなかったか? はげてはいなかった? いやそもそも男だと決めてかかったのが間違いかも知れない。記憶があまりにあやふやで吐き気を催しそうだ。そもそもこれは脅迫ということにならんのだろうか…

 妻が勤務する病院の忘年会に招かれたあなたは話相手もないままひとりで杯を重ね、酔ったので先に帰ると言いおいて席を立つ。あなたはあてもなく繁華街をさまよい、酔いを覚ますのに適当な場所を探す。ふと目についた「蟻の王」という看板に惹かれてあなたは狭いビルの階段を手すりを頼りに下りていく。

(まさかここが教団本部です、なんていうんじゃないだろうな)

 扉を開けるとなんの変哲もないスナックで、隅の席に案内されたあなたは冷たいウーロン茶を注文する。やけに静かな店だな、あなたは店内を見渡してみるが、ボックス席に座っている客たちの顔は見えず、ささやき声とグラスに氷がぶつかる音しか聞こえてこない。BGMさえ流していないようだ。女の子が運んできた盆にはウーロン茶のグラスと大きなアイマスクみたいなものが載っている。

「これ、試してみませんか?」
「目隠し?」
「いいえ、その反対。別の世界が見えるもの、ほら」

 言いながら女の子があなたの目の前に差し出したマスクはなるほど半透明で、それを通すと天井の明かりがシャンデリアか何かのように煌いて見える。

「ヒーリングって言うんですか、疲れを取る効果があるんですって」

 いくら?と聞こうとしたのに先回りして
「今ならお試し期間で無料です。みなさんお付けになってるんですよ、ほら」

 女の子が振り返る方を見ると、いくつかのボックス席から黒いマスクを掛けた顔があなたを見ている。異様な雰囲気に呑まれてあなたはマスクを顔に当てる。目と耳をすっぽり覆われたとたんに世界が一変する。

 最初のうちあなたは自分に何が起きたのか理解できない。光と色の洪水のただなかに放り込まれ、大きな波に翻弄されているような感じ。自分の身体がどこにあるのかわからない。手探りでさっきまで腰掛けていた革張りのソファを探し、腰を下ろしてみるがそのソファも生き物のように脈打っている。さっきまで静かだった店内に今は音があふれている。澄んだ打楽器の音。少しずつリズムをずらしながら繰り返し演奏される単調なメロディー。気分は悪くないが、これではまるでドラッグでも服んだみたいじゃないか。あなたはマスクを外そうとするが手が届かない。自分の顔が恐ろしく遠くにあるのだ。さっき飲んだウーロン茶に何か混じっていたのだろうか?

 女の子を詰問しようと振り向いたあなたは、送られてきた写真と寸分たがわぬ顔をそこに見出す。妻とあなたの顔をモーフィングした顔。未だ生まれていない娘の顔だ。いつの間に着替えたのだろう、チュニックとでも言うのか、ゆったりとした絹のドレスを着てにこやかに微笑んでいる。気がつくと店じゅうの客が身体を乗り出してこちらを見ているではないか。みんなマスクを取り去っていて、誰もが幸福そうに微笑んでいる。あなたの心から疑念が消え、代わりにとてつもない幸福感が沸きあがってくる。あなたは哄笑する。あなたの笑いに共鳴して打楽器のテンポが速まる。

「おかえりなさい」

 誰かが声を掛ける。そうだ、おれは今こそ帰ってきたのだ、長い長い遍歴の果てに。壁には真紅のドレープがめぐらされ、そこには金糸で縫い取りがしてある。忘れていた神の名前。あなたは導かれるままにピアノに向かって腰掛ける。そうだ、あの写真は合成などではなかったのだ。フラッシュが焚かれ、あなたは即興曲を奏でる。ピアノなど一度も習ったことがないが、すべてを思い出した今のあなたならパソコンのキイを叩くように楽々と弾くことができる。写真にうつっていたのは目隠しなどではなく、このアイマスクだったわけだ。

 ふと鍵盤を叩く両手を見たあなたは恐怖に凍りつく。これはおれの手じゃない。鍵盤を叩き続ける両手は見る見るうちに長い毛に覆われ、まるで猿か狼男の手のようになる。誰かこの音楽を止めてくれ。おれは気が狂いそうだ。

「おれは…」
「お客様、すみません、そろそろ閉店の時間なんですが」

 あなたはあわてて口元からよだれをぬぐい、女の子に笑いかけようとする。

「お取りしますね」

 外されたのをみるとただのアイマスクにすぎないように見える。

「ぐっすりお寝みになってましたよ」
「いびきをかいてた?」
「少しだけ」

 微笑む女の子の顔がほんの少しだけ幻の娘に似ている気がする。勘定を済ませたあなたは店からのお土産です、と一枚のフロッピーディスクを手渡される。きれいに彩色されて店の名前と電話番号が記してある。

「コースターなんです。いらないフロッピーを使ったマスターの手作り」
「何かデータが入ってるの?」
「かも知れません。でも開けない方がいいと思いますよ、マスターって悪趣味だから」

(ウィルスが仕込まれてるんです。それも人間に伝染るやつ)

「え?」

 女の子が一瞬目を伏せて呟いたような気がするが、気のせいだったのかも知れない。あなたは妙に晴れ晴れした気分で店を出て、タクシーを拾って家路につく。

 (つづく)

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