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蟻の王

後編

中条卓

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 軽い頭痛をおぼえながらあなたは目をさます。妻はもう出勤したようだ。パジャマのまま起きだしたあなたはスナック「蟻の王」の女の子から手土産に渡されたフロッピーディスクをノートパソコンのドライブに放り込み、中身を覗いてみようとする。中には見慣れない拡張子を付されたファイルがひとつ入っているだけで、ファイルのアイコンは冠を被った蟻を模している。蟻の王というわけだ。ファイルサイズは140TB。うっかり見過ごしそうになったあなたはその単位に目をみはる。テラバイトだって? キロバイトじゃなくて? DOSフォーマットされた両面倍密度フロッピーディスクの容量は約1.4メガバイト。ハードディスクの単位として今では一般的になったギガバイトというのはメガバイトの1000倍、テラバイトはさらにその1000倍だから、このファイルはなんと入れ物の容量の1億倍の大きさを持っていることになる。そんなばかな。何かのトリックなのだろうが、どういう仕掛けなのか、あなたには見当がつかない。ファイルをダブルクリックしてみると、クリエーターすなわちこのファイルを作成したソフトが見当たらないという返事の代わりに、メモリが足りないというアラートが返ってくる。あなたが趣味のCG製作や作曲に使っているノートPCはそれなりに大きなメモリを積んでいるのだが、それでも処理しきれないほどのデータがたった一枚のフロッピーに詰まっているとでもいうのだろうか。

 フロッピーディスクからマシンのハードディスクにファイルをコピーしようとしても同じ結果になる。あなたはドライブからフロッピーをもう一度取り出してしげしげと眺めてみる。表面のサイケデリックな迷彩を除けばなんの変哲もないただのノーブランド品だ。どこかで秘密裏に開発された超高密度のフロッピーなどではない。いや、例えそんなものがあったとしても普通のパソコンのドライブで読み取れるはずはないし、そもそもフロッピー自体の容量はふつうに1.4MBと表示されるのだ。

 ふと思いついてあなたはそのフロッピーを仕事に使っているデスクトップPCのドライブに放り込んでみる。マシンとの相性といった他愛もない問題にすぎないのかも知れないからだ。ファイルサイズはやはり140テラバイトと表示される。ばかげていると思いつつもあなたはそのファイルをダブルクリックしてみる。すると意外にもフロッピーディスクドライブがかちかちと音を立てながら動き始め、そのままいつまでも読み取りを続ける。オレンジのLEDが忙しく点滅しているから、フロッピーへの物理的なアクセスは続いているらしい。だが、それにしてもこれでは埒が開かない。コンピュータの動きを危うくするウィルスでも仕込まれていたのだろうか?

 あなたがパソコンを強制終了させようとしたちょうどその時、見覚えのある画像がCRTいっぱいに映し出される。送られてきた3枚目の写真と同じ、まっすぐこちらを見つめるあなた自身の顔。その目に浮かぶ表情が実は恐怖とあきらめであったことにあなたは気づく。顔は次第に大きくなって画面からはみ出し、今度はその瞳の中にあった小さなあなたの像が拡大され始める。そしてまたその瞳の中の顔が。無限の入れ子になったあなた自身の顔が恐怖に目を見開きながら次々と近づいては去っていく。どこまでも拡大可能な画像… そんなはずはない。そんなものがあったとしたらそのファイルサイズは無限大になってしまう。これは簡単なトリック、一連の画像を繰り返しループバックしながら表示させているだけなのだろう。だが、よりによってなぜあなた自身の顔なのだ?

 単に作成された日付の一番新しい画像が選ばれただけだろう、あなたは自分にそう言い聞かせる。とにかくこの永劫回帰は神経にさわる。実行中のプログラムを止めようとあなたがキーボードに手を伸ばすのを察したかのように、画像の動きが一段と早まり、ついには肉眼では識別できないくらいのスピードに達する。めまぐるしく変わり続ける画面から、やがてある恒常的なパターンが現れる。何かが画面の中でうごめいている。あなたはその動きから目をそらすことができない。いつの間にか画面はせわしなく動き続ける無数の蟻によって埋め尽くされている。でたらめに動き回り、ぶつかり合い、互いを食い合う無数の蟻蟻蟻蟻蟻蟻蟻、そのおびただしい数! そのうちに画面を構成するドット数よりもはるかに多そうな(そんなばかな!)蟻たちが、ひとつひとつはランダムに動いているように見えながら、全体としてあるパターンを示していることにあなたは気づく。それは笑いだ。具体的な誰かの笑顔というのではなく、かといってニコニコマークのように様式化されたものでもない、原型としての笑い。それも苦痛を伴うような痙攣的なものだ。画面から立ちのぼる哄笑はすべてを呑み尽くして何も生み出さない空疎な笑いそのものなのだ。ふつう混沌と訳されるギリシア語のカオスは、あくびをするという意味の動詞から来ているのだという、あなたはそんなことを唐突に思い出す。ぽかんとあけた口、宇宙の始まりの虚無…そして、始まったときと同じように突然、蟻の群れが画面から消えうせ、あとには真っ白なスクリーンだけが残る。

 それきり何も起こらない。パソコンを再起動すると何もなかったかのようにいつものデスクトップが表示される。フロッピーディスクの中身を確認しても中には何もなく空っぽになっている。あなたはこのパソコンがインターネットに接続されていたことを思い出す。あなたは何か禍々しい存在をネットに解き放ってしまったのではないだろうか。世界を呑み尽くしてやろうと待ち構える魔物が閉じ込められていた瓶のふたを開けてしまったのは誰だったろうか。


101

 ある日、ウィルス駆除ソフトの定義ファイルをアップデートしようとしたあなたはコード名Pandoraという新たなウィルスの情報を見出す。感染力は抜群でネットワークを行き来するどんなパケットにも容易に取り付いて広がっていくそのウィルスはOSを選ばないのだという。しかも感染した直後に自分自身を複製してばらまいた後ではレトロウィルスのようにOSのソースコードに紛れ込んで見分けがつかなくなるというのだ。その一方、奇妙なことにウィルス感染による直接の被害は報告されていない。ワクチンの開発は困難を極めているようだ。このウィルスはまるでエイズやインフルエンザのウィルスのようにひんぱんに突然変異を起こして駆除に抵抗するのだという。あなたはこのウィルスの行方に興味を抱いて情報を収集する。これこそあなたがネットに解き放った魔物、パンドラの函に閉じ込められていたプログラムではないだろうか?

 インドのとある工科大学の講師がパンドラに感染したと思われるネットワークの作業効率が大幅に改善されたという報告を発表し、「有益なコンピュータ・ウィルス出現?!」という見出しがニュースサイトを飾るが、追試の結果はまちまちで、ついにはパンドラなるウィルスの存在自体が手の込んだジョークに過ぎないという論説が出現し、以後このウィルスに関する情報は潮が引くようにネットから消えてしまう。関連する記事をもう一度読もうとしたあなたはその記事がニュースサイトからもローカルのハードディスクからも消えていることに気づいて愕然とする。いや、そもそもあなたは何を探そうとしていたのだったか、いまとなってはそれすらも思い出せない。プリントアウトしたはずの記事もいつの間にか捨ててしまったようだ。あなたはもはやパンドラという名前さえ思い浮かべることができない。

 世間とあなたがパンドラの存在を忘れたころ、無名の疫学者が「パンドラは人間に感染するウィルスだ」という珍奇な説を唱えるがほとんど黙殺されてしまう。もちろん人間の身体の中でコンピュータウィルスが増殖できるわけではない、だが、と彼は力説する。ウィルスに感染したコンピュータが人間社会に影響力を及ぼすことは可能なのだ。どのような方法によって? 方法はいくらでもある。例えば子供が反社会的なあるいは性を売り物にしたウェブページにアクセスできないようブラウザの動作を制限するソフトがあるだろう、ああいうふうにブラウザの動きを監視し、アクセスできるページにあるバイアスを掛けることは容易だ。たとえば誰かが原子力発電所や巨大なダム建設といった物議をかもす話題についてインターネットを調べようとした時に、推進派を擁護するような情報だけが表示されたらどうだろう。反対派の人間を説得することはできないかも知れないが、どっちつかずで立場を決めかねている人間をある方向に振り向けることは可能だろう。それがほんの一部であったとしても、何万人、何億人が手にする情報を少しずつ操作すれば、あるいは世界の動きを左右する事だって不可能ではあるまい。閾域下知覚による、いわゆるサブリミナルメッセージを使うという手も考えられる。スクリーンセイバーに割り込んで、数十ミリ秒ごとにある行動を訴えるメッセージを表示するソフト。「○○社に投資しよう」「気にくわない隣人は抹殺せよ」といった直接的なものでもいいし、あるいはある特定の視覚パターンと情緒的な映像を交互に繰り返し見せるだけでいいかも知れない。腐乱死体の目をそむけたくなるような画像とある特徴的な色とを交互に見せられた人間はその色を目にするたびになぜか不快になるかも知れない。あるいは… パンドラが蔓延して以来、世界各地の自治体首長選で意外な候補者が続々と当選しているという事実を、彼はウィルスの影響の一例として挙げてみせる。

 やがて業界最大手のゲーム機メーカーとソフトウェア会社がタイアップしたモバイル仮想現実ギアが発売され、爆発的な流行を見せる。FORMICAと名づけられたその端末は全視野を覆う大型のサングラスに似た半透過型液晶スクリーンとサラウンドスピーカシステムが一体となったもので、仮想現実空間内のシミュレーションゲームに使えるほか、時計、テレビ電話、ナビゲーションシステムなどさまざまな機能を搭載している。米国には同名の合成樹脂塗料メーカーが存在していたが、巨額の権利金と引き換えに商標を譲渡するに至る。フォーマイカとはラテン語で蟻を意味している。その端末は正面から見ると一切光を反射しない暗黒がそれを装着している者の顔面に張り付いているように見えるのだが、やや斜めからだと無数のピンの頭が黒光りしているようにも見え、いわば昆虫の複眼そっくりなのだった。フォーマイカは単なるコンピュータ・ディスプレイではなく、人間の視覚を増強するものだというのがメーカーの言い分で、フォーマイカを通して見る世界は肉眼で見るよりもはるかに美しく好ましいと愛用者は語るのだった。知覚を惑乱するドラッグ類似の作用がささやかれ、乱用を案じる声も聞かれたが、そんな声はたちまちかき消されてしまう。国民的アイドルグループが、スポーツ選手が政治家がいち早く愛用しはじめたからだ。新しいものには目のないあなたもサングラス代わりにフォーマイカを掛けて外出するようになる。何よりも驚くべきことは、このシステムはそれを装用している者同士の間ではほとんど目立たないという事実だ。フォーマイカを装着して街に出たあなたは、向こうから歩いてくる女の子がフォーマイカを掛けていることを彼女の両目と両耳のまわりが微細な宝石でもばらまいたようにきらきらと輝いていることから察することができる。だがあなたは同時に彼女のまなざしを普通よりもはっきりと見て取ることができるのだ。濡れたような瞳の色が素敵だな、とあなたは思う。もしもあなたが今ここでフォーマイカを外したら、彼女の顔面を半ば以上覆った黒いついたてを目にすることだろう。だが、誰が好んでそんなものを見たがるというのだ?

110

 あなたが例のスナックで試したサングラスはまさにこのフォーマイカのプロトタイプだったに違いない。だが、仮にも名のある企業連合がそんなゲリラ的な方法で試作機のデータを集めたりするものだろうか? あのフロッピーに仕込まれていた妙なプログラムとフォーマイカとは無関係なのか? あなたはフロッピーに記されていた電話番号を何度かプッシュしてみるが、留守電につながるばかりで誰も応答しない。業を煮やしたあなたは記憶を頼りにスナックを訪ね歩き、ついにあの晩の建物を見出すが、階段の降り口に看板はなく、階段を下りた突き当たりには塗り込めたような白い壁しか見つからない。

 ここ一連の出来事はいったい何を指し示しているのだろう。日に日にあなたの不安は募り、あなたは眠れなくなる。妻に頼んで処方してもらった睡眠導入剤は常用量ではほとんど効果がなく、あなたはひそかに同じ薬を手に入れて毎晩倍量を服用する。大量を長期連用すると幻覚や妄想を伴う急性精神病に似た状態が引き起こされる可能性があることをあなたは知っているが、すでにあなたは薬を止めることができなくなっている。あなたの不調を察しているはずの妻は、まじかに迫った精神保険衛生法指定医の審査に提出する症例報告をまとめるのに忙しく、それを斟酌する暇がない。

 スナック「蟻の王」でフォーマイカ(の試作機?)があなたに見せた幻覚が、例の写真と寸分違わぬものだったという事実は別に不思議でもなんでもない。写真が最初にあり、その意味を解釈しようとしたあなたの無意識が奇妙な夢を見せたのだから。問題は写真に記されていた日付けとあなたがスナックを訪れた日付けが一致していた〜あなたはなんどもスケジューラで確かめた〜ことだ。だがこれとて偶然の一致と言えないことはないし、例の教団が100日先を見通していることの証拠にはなり得ない。(だとすればあなたの寿命はあとひと月足らずで尽きてしまう。)やはり本当に問題なのは、合成写真の素材がすべてあなた自身のパソコンで見出されたことなのだ。すべてを説明しうる仮説がひとつだけあることにあなたは気づいている。考えてもみろ、あなたは呟く。一連の事件の物理的証拠として何が残されているか。3葉の写真とフロッピーが一枚、それだけではないか。残るすべてはおまえの妄想にすぎないと言われても、おまえには反論するすべがあるまい。

 あなたは思い余って中学時代からの旧友に電話で相談をもちかける。

「…やあ久しぶり。ほら、昔おれの部屋で徹夜で百物語をやったことがあったろう、あのときにお前が話してくれた怪談のひとつが気になってさ。ああ。いや、そうじゃなくて、ちょっと話のタネに使えないかと思ってさ。うん。雪山でロケ中に気にくわない俳優だかなんだかをスタッフ全員で殺して埋めたっていう話。覚えてないかなあ、埋めたはずの死体が翌朝ロッジの外に転がってたっていう…そうそう、何度埋めても戻ってくるんだ。それで、何が起きてるのか調べるために一晩中カメラを回しっぱなしにしてたら、夜中にそいつを殺した連中が全員ふらふら起き出してきて、埋めた死体をまた掘り返すのが映ってたっていうオチのさ。そうそう。つまり、罪悪感からというか自分たちを罰するためなんだか、自分で掘り返しておきながらそれを忘れて怖がってたっていう話なんだな。そんなことって実際にあるものなんだろうか。だってお前、心理学専攻だっただろう? 神経症ではあり得るって? 何、手塚治虫のマンガ? 知らんなあ。呪いのワラ人形を自分で作って自分の部屋のドアに掛けて大騒ぎする主人公ねえ…ああ、ありがとう、参考になったよ。じゃあまた、たまには遊びに来いよ」

 女房も会いたがってるから、と言いかけたとき、あなたはふいに携帯電話が重くなりだしたことに気づく。まるで鉛でできているかのように重く、冷たく、毒を含んでいるかのようにくすんだ光を放ちだしたそれをやっとの思いで耳に近づけると相手がまだ何かしゃべり続けている。だがその声は生気を失い、相手の声の特徴をすべて備えていながら何か別のものに変質してしまっている。まるで音素をばらばらにしてからでたらめにつなぎ合わせたかのようだ。あなたは彼の言うことばがもはや理解できない。

「箱を開けろ…ネットワークに解き放て…死と再生の箱を…」

 あなたの手から携帯電話がすべり落ち、ゆっくりと落下して床にめり込む。

111

 教団からはその後なんの連絡もなく、送られてきたパンフレットに記されていたURLにはアクセスできない。残された手がかりは、と考えたあなたは教団の言う予言なるものがどこかに隠されているのではないかと思いたつ。男が語った埋蔵経のように、あなた自身がずっと昔に書いたものがどこかにあるかも知れないではないか。別に抑圧だとか解離性記憶障害なんぞ持ち出すまでもない。単に書いたことを忘れただけだ。だがどこに? 10年ほど前からあなたは自分が過去に書いたものをすべてデジタル化してバックアップを取り、紙に書いた原稿は焼き捨ててきた。探すべき場所は電脳世界以外にない。あなたは自分がインターネットに載せる原稿を打っているノートパソコン内のファイルを片っ端から覗いてみる。書き留めたことさえ忘れていたさまざまな覚書、FAX送付状、手紙のたぐいが次々と出てくるが、予言書めいた文章はどこにも見当たらない。もちろんあなたは自分の書いた小説や詩が掲載されているオンライン雑誌をくまなく検索してもみるが、結果は変わらない。

 ブラウザを終了しようとして、ふとあなたはブラウザの「お気に入り」フォルダを調べてみる気になる。几帳面なあなたの性格を反映して整然と分類されたフォルダ内のURLにアクセスしていくうち、あなたは「アーカイブ」と題された見慣れないフォルダ内にたったひとつ、"DominaFormicae" へのリンクを発見する。ある期待を抱いてブックマークをクリックしたあなたは、サイトの入り口でパスワードを要求される。英文の説明によると、そこはインターネット上に置かれた仮想金庫であり、顧客はどんなファイルでも無期限に預けておくことができるらしい。ユーザ名の欄にはあなたのペンネームがあらかじめ表示されており、パスワードの入力をうながすカーソルがその下の欄で点滅している。試みにあなたは使い慣れたいくつかのパスワードを打ち込んでみるが、どれも登録されたパスワードとは違っているという警告が返ってくるばかり。あなたはパスワードを忘れた顧客のふりをしてパスワードを取り寄せようと使用規約のページにジャンプしてみるが、そこには一度入力されたパスワードはいかなる理由があっても照会することはできないという説明が大文字で強調されている。あなたは捜し求める予言がこの金庫に保管されていることを確信するが、金庫を開ける鍵は自分で見つけなければならないようだ。パスワードは英字と数字の組み合わせでなければならず、10文字以上14文字以内という決まりになっている。あなたは送られてきた写真の裏に記されていた "FYEO" という4文字を思い出すが、これではもちろん字数が足りない。そもそもこれはどういう意味なのだろう。何かの略語だろうという見当はつくが、果たして何の略なのか… その時あなたはずっと以前、学生時代に当時付き合っていた彼女と見た映画のことを思い出す。彼女が好きだった映画、007シリーズの1作はたしか「ユア・アイズ・オンリー」というタイトルで、その中で極秘を意味する言い回しとして "for your eyes only" というのが出てきたはずだ。これを略せば FYEO になるではないか! だが、このままでは字数が多すぎる。ForYourEyesOnly とインターネット風に縮めても15文字あって字数制限を越えてしまう。では、これならどうだろう。あなたはパスワードの欄に "4YourIsOnly" という11文字を打ち込む。

 金庫はあっさりと扉を開ける。マンガめいた金庫の扉が開くアニメーションが擬音とともに再生され、あなたは苦笑を漏らす。金庫の中には何の変哲もないテキストファイルがひとつ保管されているばかり。使用料だってばかにならないだろうに、とつぶやいたあなたは他ならぬ自分の口座から料金が引き落とされていることを思い出して憮然とする。こんなたちの悪い冗談を仕掛けているのはいったいだれなのか… テキストを開いたあなたはさらに困惑する。これは一体何だろう。まるで酔っ払いのたわごとを口述筆記したみたいじゃないか。あなたは沈黙を表すらしい空白や「えーと」「あー」「うーん」といった意味のない間投詞を省き、繰り返しの多い文章を要約しようとするが、その文章ときたら支離滅裂でほとんど意味をなさない。なんとか読み取れるフレーズといえば「インターネット・ガイアの誕生」「ひとつのコンピュータがひとつの脳細胞となる」「コンピュータ・ウィルスが人間に感染する可能性は?」といった意味不明のもので、このどこが予言なのかとあなたはいぶかしむ。「神は因果律を超越している。だが、神は人間に発明されなければ存在しえない」…単なる出来損ないの警句じゃないか。これは巧妙な暗号文なのだろうか? それともこれはやたら大掛かりなだけで意味のない冗談なのだろうか?

 あなたが予言の書を解読しようとやっきになっているちょうどその時、妻の職場にあなたの友人が電話を掛けてよこす。仕事中に申し訳ないと断りながら、その声はあなたについてどうしても知らせておかなくちゃいけないことがあると告げる。

「あいつ、最近どこか具合の悪いとこはありませんか? いや、この前あいつから電話があったんだけど、ちょっと疲れてる様子だったから」

 ここで声は一段と低くなり、あなた自身の知らないあなたに関する事実を妻に語りはじめる。

「実はここだけの話、あいつ、学生時代に一度変調を来たしたことがあるんだ。いや、大したことじゃなくて、うちの教室でカウンセリングを受けたらすぐによくなったんだけど、ちょっとした妄想めいた考えに取り付かれたみたいで。そう、ちょっと頭が良すぎてさ。でも、よくなった後はそんなことがあったことさえ忘れてるみたいだから、変に刺激しないほうが。ま、なにかあったら連絡してよ。いつでも相談に乗るから。じゃあ」


1000

「やったあ!」

 妻の部屋から歓声が響いてくる。このところ何やらふさぎがちだった妻が久しぶりに晴れ晴れとした笑顔をたたえて部屋から出てきたのであなたは心なしほっとする。

「指定医の合格通知がメールで来たの。よかった、てっきり再提出かと思ってたんだけど」
「そいつはおめでとう。そんな通知もメールで来るんだ」
「そうよ、正式な認定証はもちろん郵送だけどね」

 ああそれにしても本当に良かった、といいながら妻はソファに腰を下ろす。実は論文審査を担当したことがある先輩に提出した症例報告を見てもらったところ、いくつかの点で致命的なミスがあって、これでは通らないだろうと言われていたのだと妻は打ち明ける。そうかそれでふさいでいたわけね。そうよ、だって再提出なんてことになったらまた研修先の病院まで足を運んで病歴の調べ直しだもの、妻は両足をぶらぶらさせながら歌うように答える。で、資格が取れるとどんなことができるんだっけ? あら資格を取らなきゃ精神科医なんて何もできないのよ。何も?

「そう、この資格があれば本人の同意がなくたって患者を精神病院に収容することができますのよ」
「誰でも?」
 もちろん、妻は少し胸をそらし、おどけたようにあなたを指さす。
「あなたでもね」

 久しぶりのセックスに疲れたあなたがたは翌朝そろって寝坊する。メールをチェックする間もなく出かけた妻は電車の中で携帯電話のフリップを開く。同業者のメーリングリストや友人からのメールにまじって「まりあへ」というタイトルを見つけ、妻は軽い胸騒ぎをおぼえる。発信者は夫だが、夫はこんなふうにいきなり名前で呼びかけてくることは、たとえメールであってもしない人間なのだ。メールを開き、画面をスクロールする妻の顔は目に見えて青ざめていく。

件名:まりあへ

 このメールが見慣れない文体で記されているからといって
 発信者がぼくであることを疑ったりしないで欲しい

 ぼく、とはもちろん君の配偶者で同居人である×××のことだが
 しかしぼくは君がよく知っているぼくとは異なっている
 あえて言えばぼくはもうひとりのぼくなのだ

 こう書けば精神保険衛生法指定医(congratulations!!)の君なら
 もうわかるだろう
 そう、ぼくは×××の別人格
 ふだん君が見慣れたあいつとは違うもうひとつ別のパーソナリティーなのだ

 ぼくがどうやってあいつから分離してきたか
 君には興味あるところだろうが、長く書いているひまはない
 あいつが心身ともに疲れきって熟睡している今しか
 ぼくにはこうやってメールを打つチャンスがないからだ

 ここまで読んで妻は昨夜の自分の乱れぶりを思い出し、かすかに頬を赤らめる。それからそっとあたりを見回し、また携帯の画面に見入る。病院のある駅まではあと15分だ。

 あいつの挙動がこのところ変なのに君は気づいているだろう
 実を言うとあいつはいささか精神に変調を来たし始めている
 強大な宗教団体に迫害され命を狙われているという
 妄想に取りつかれているんだ

 去年郵送されてきた奇妙な写真をおぼえているだろうか?
 あいつは教団が自分を脅迫するために送ってよこしたと思っているのだが
 あれはあいつ自身が合成して送りつけたものだ
 あるいはぼくの知らない第3の人格が脅迫を行っているのかも知れないが
 いずれにしてもこのままではあいつの神経は参ってしまう
 そうなったらこのぼくも共倒れなので
 なんとか手を打てないかと思ってメールしたところなんだ

 単刀直入に言う
 どうかぼくたち〜ぼくとあいつともしかしたら他にもいるかも知れない〜
 全部の人格の入れ物である身体を病院に入れて
 薬物でも電撃でもなんでもいいから治療を施して欲しい
 あいつは抵抗するかも知れないが
 これはぼくからのお願いであり
 ぼくたちみんなのために必要な措置なのだ


1001

 予言者たるあなたが精神病院に収容されたという知らせは瞬く間に信者たちに伝わる。彼らはある日時とURLを知らされ、その時間にそのサイトに接続することを要求される。殉教ということばがどこからともなく立ち上り、ネットに拡散していく。

 入院後のあなたは治療の一環として毎日決まった時間にフォーマイカを装着され、ある治療環境にいざなわれる。エデンと呼ばれるそこは楽園の名とはうらはらな荒涼とした砂漠で、そこであなたは何一つ動くもののないその風景を眺めているよう命じられる。そこには音がない。ただほんの時おり、風が岩山の間を吹き抜け、猛禽が頭上をすぎるかすかな気配が感じられるだけだ。しかし、ささくれだった神経にはこんな景色の方がふさわしいのかも知れないとあなたは思う。だが、せめて明け方か黄昏の景色にしてもらえないものだろうか。ここでは太陽はいつも真上から照りつけてくる。もちろん空調の効いた病室は暑くはないのだが…

 …突然フォーマイカの画面が切り替わったのであなたは驚いてベッドから起き上がろうとし、その時はじめて自分がシートベルトのように強靭な抑制帯で固定されていることを見出す。制御装置の故障だろうか、あなたの視野にはぶれた画像がいくつも重なって投影され、しかもそれが不規則に動くのであなたはめまいをおぼえる。あなたはフォーマイカを外そうとするが手を動かすことができない。やがてあなたは気づく。これは10人かそこらの集団が病院の廊下を歩いて移動していく、その視野がいちどに投影されたものなのだ。そういえば今日は教授回診の予定だったかも知れない。これもひょっとすると治療プログラムの一部なのだろうか。抵抗をあきらめたあなたは回診の一行と同化して廊下を歩いていく。一行はあなたの病室の前で立ち止まり、あなたの部屋のドアノブを凝視する。

 ひとりが鍵を開け、残りの9人はそれを見ている。やがて一行はあなたのベッドをぐるりと取り囲み、それぞれの位置からあなたを見下ろす。10の異なる角度から俯瞰されるあなたの身体はひどく痩せて頼りない。彼らは完全な円を描きつつ無言であなたのベッドを回りはじめる。回転する万華鏡。10等分されるパイ。これは何かの儀式なのだろうか? あなたが平衡感覚を失いベッドから浮遊しはじめた頃、突然回転が止み、一行は目を上げて互いを見交わす。その時あなたはようやく気づく。こいつらが掛けているのはフォーマイカではない。なぜなら、フォーマイカ同士は素通しになるはずなのに、連中の目は黒い複眼に覆われたままで表情を読むことができないから。しかし、だとしたらどうしてあなた自身の表情が彼らに見えているのだろうか? 見交わしている顔の中に担当医らしい長身のごま塩頭を見つけてあなたは声を掛ける。

(○○先生、○○先生でしょう? これはいったいどういうことなんです?)

 発したはずのあなたの声はあなたの耳に返ってこない。それは彼らの頭部を覆うよろいに跳ね返されて空中に消えてしまうようだ。もしかしたらこれこそが、この蟻の頭こそが彼らの本来の姿なのではないか? ふだんの彼らは白衣をまとうように人間の仮面をつけていただけなんじゃないか? 妄想じみた疑問が生唾のように湧いてくる。そして蟻の頭をかぶっていないのはおれだけなのだ。目無しの国では片目の男が王になると言う。蟻の国では蟻の頭をしていないものが王なのではないだろうか。

 円の中から長いまっすぐな刃物を持った男がふたり進み出る。その刃物はメスやナイフというよりも槍の穂先に似ている。背格好も髪型も肌の色も変わらない双生児のようなふたりはあなたの両脇に左右対称に立ち、あなたに一礼するとその刃物を奇妙な格好で構えてあなたににじり寄る。

 唐突にあなたは審判」の一節〜おそらくは主人公の最後の言葉〜を思い出す。

(犬のように殺される!)

 処刑人たちの視野はやがてひとつに交じり合い、その中央であなた自身の目が恐怖とあきらめをたたえながらまっすぐにこちらを注視している。あなたはあなた自身の瞳の中を覗き込む。 両脇に激痛を感じながら、あなたは最後の瞬間まで目を開けていようと努める。

 かすみかけた意識の底であなたは、ラテン語で記された神の名前を思い浮かべる。しかしあなたは彼の助けを求めようとはしない。

1010

 だがそれにも関わらず、いやむしろそれゆえにこそ、私はあなたを迎えに行くだろう。

 (了)

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