| TOP Short Novel Long Novel Review Interview Colummn Cartoon BBS Diary |

ダークマター

3/3

高本淳

 満場の評議委員たちが見守るなかでエリオットは娘の肩を抱きながら議壇に立っていた。
「……それで、彼女の名前は?」
 背後から声が尋ねる。
「まだ決めてはおりません」
 彼は答え、周囲の人々の顔を見わたした。懐かしい顔もあり、またエリオットの知らない顔もある。そしてなぜか最前列の人々のなかにフレドリカが座っていた。時折、見せる不思議な微笑を浮かべて……。その表情からはいつものとおり彼女が何を考え感じているのか読み取ることはできない。
「十二歳になれば凍結を解かれクレイドル市民としての権利と義務が与えられる。君は自分の子供を名づけなければならないのだ」
 議長が言う。
「そしてそれは正式に記録され関係機関に通達される」
「今、ここで?」
 全員が儀式の身振りのように重々しくうなずいた。
「異存はありません。それが委員会の意向なら……」
 エリオットはかねて用意してきた名を言おうとする。しかし思い出せない。彼はあわてて上着を探りメモを捜す。
「どうしたのかね?」
「……もう少し、お待ちください」
 しかし娘の名を書きつけてきたはずの紙片はどこにも見つからなかった。
「グローヴナーくん、クレイドル評議委員会は多忙だ。君にはあまり時間が与えられていない。いますぐ娘の名前を決めてもらう必要がある」
 エリオットは迷った。用意してきた名は思いだせそうもない。他に……彼女にふさわしい名前は確かにある。だが……。
「さあ……」議長が問う。
「……娘の名は」彼が言う。
「……名前は……?」議員たちが唱う。
 彼は息を吸い、そして彼にとって唯一のものであるその名を口にした。
「『グレタ』」
 突然、彼の腕の下で若々しい身体がはかなく崩れ落ちた。……驚愕し、戦慄つつ、エリオットは議壇の床に仰臥する娘を見る。黒く長い髪が乱れまといつくその横顔は蒼白、その瞳は空ろだ。
 ゆっくりとリッキィが演壇にあがり、妹の横にひざまづいた。
「……死んだわ」
 幾度か唾を飲み込んだすえに、ようやく呟くようにエリオットは問うた。
「……おまえはなぜここにいる?」
 彼女は父親の顔を見上げ、そして言った。
「あなたを裁くためよ……。パパ」

 エリオットは目覚めた。
 額に触れるとびっしょりと汗をかいている。口のなかが粘つき身体を動かすと節々が痛む。……微熱があるのだろう。悪夢だった。娘が死んだ夢だ……彼はその手で顔を覆い、それから本当にマイアがもう生きてはいないことを思い出した。
 身を起こし一瞬脅えたように周囲を見回すとエリオットはやがて背後の金属の壁にぐったりと上体をあずけた。――自分自身がまだマイアたちの死を受けとめきれないということか? こうして目覚めのたびに娘を失う痛みを新たに体験するのではたまらない……。エリオットは目頭を拭い、そして狭い気密ロッカーのなかを見渡してリッキィがいないことを知った。疲労の感覚を圧し殺すようにして立ち上がり、ガラス越しに暗い居住区画を眺める。そこにも彼女の姿はない。
 彼は宇宙服を身につけヘルメットを被るとドアのバルブを開いた。透明シートの簡易エアロックが広がってぴんと張り詰める。フェイスプレートを下ろし扉の外にでるとシートの空気を抜いて気密ファスナーを開ける。
 ヘルメットのライトをつけると四つの冬眠ポッドが長い影をひいた。彼は引き寄せられるようにマイアのポッドに近づき、顔を寄せて覗き込んだ。……そうしているうちに徐々にふたりの女性の笑顔が、それぞれの暖かい思い出とともに脳裏に蘇える。エリオットはじっと佇んだまま、その記憶とともに永久に心を凍結することができたらと考えた。

「……『マイア』はパパの好きな小説の主人公の名ね」
 声が聞こえて我にかえった。ずいぶん長い間そうしていたらしい。エリオットは振り向き、リッキィのヘルメットのはなつ照明にまぶしげに目を細めた。
「でも、わ……わたしはただの『フレドリカ』」
 機械がきしるような不自然な声だった。
「……どこにいたんだ?」
 リッキィは無表情な顔で言った。
「サンプルを見ていた……」
「何か変化が?」
 彼女は首をふった。
「不安だったから」
「イルスターとの最接近を無事切り抜けたばかりだというのに、また心配かね。あれは人間が初めて手に入れたストレンジクォーク物質だ。ひょっとしたら元素転換の秘密をわれわれにもたらすことができるかも知れない。簡単に宇宙空間に捨てるわけにもいくまい?」
「――それでマイアも……そ……そのままにしているの?」
 唐突な質問にエリオットはたじろいだ。
「……なんのことだ」
「パパはマイアを手ばなせないんだ、わ。……し……死体になっても」
「……なにを馬鹿なことを。準光速で宇宙空間に遺棄してふたりの身体をずたずたにしたくはないだけだ。すぐ後ろについているあいつの融合プラズマに捕えられてしまう恐れもある」
「そうなの? わ、わ、わたしはパパがクローニング再生のためにクレイドルに持ちかえるつもりでいるのかと思ったわ。むかし……マ、ママにそうしたように」
 夢の記憶が一瞬ひらめき、彼は答えようとしてあえいだ。
「そんなことは……」
 リッキィはどこか歪んだ微笑を見せた。
「いいのよ、そ、それでも……。ふたりで新しい『グレタ』を育てましょうよ。クレイドルは……ご……五年間のバザルリ半島での育児休暇をくれるわ……」
「やめないか」
 エリオットは苛立たしげに手をふった。
「お前は自分の家庭を持つべきだ――」
「……新しい惑星が……は……発見されて? わたしのせ……遺伝的素質が問題にならないような新世界が、い、いまこの瞬間にも見つかっているかも知れないって言うの?
 ……そ、そうね。その可能性はたしかにゼロじゃない。だ、だけど……」
 リッキィは反論しようとする父親を遮って言った。
「わ、わ、わたしがその星系へ移住するころには、と、とっくに人生の盛りは過ぎてお、老いさらばえているのだわ」
「そんなことはない。お前はすべてを悪いほうへ考えようとしたいだけだ……それにわたしにはいつもお前が自分の遺伝的な弱点を言い分けにしているように感じられてならないんだ。いつまでも母親になりたくない、というのが実はおまえの本音ではないのか?」
 彼女は険しい表情で首をふり、父の言葉を否定した。
「――ち、違うわ。パパは、い、何時でも……そんなことを言って……わ……わ……わたしに、ひ、卑劣な罠をかけようとするのね……」
 エリオットは大きく息をすった。明らかにリッキィは発病の一歩手前だ……。
「おお……リッキィ。なぜお前は……?」
 彼女の目に獣のような狂おしい光が現われたのを見て、彼はこれ以上娘を追い詰めることの危険を感じた。
「……安心しなさい。いずれにせよ、わたしはもうマイアを再生するつもりはない」
「な、なぜ……?」
 言葉を唇の間から絞りだすようにしてリッキィは尋ねた。
「なぜ、こ、今度もそうしないの?」
 エリオットはためらい。娘の視線から目をそむけてマイアの『棺』を見下ろした。
「……死んだ母親を娘として生き返らせた決断を正しかったと確信しているわけではないよ。いま思えばどうやらそれはお前の心をひどく傷つける結果になってしまったようだ」
 リッキィの低い声が答えた。
「……でもパパはそうした」
「グレタは『踊り手』として不世出の身体と直感力とを持っていたんだ。クレイドル委員会はそれを惜しみ、そして、わたしも……」
 エリオットの脳裏にその遠い夕暮れが蘇った。テーブルのうえの家族の写真。窓の外の雨上がりの夕焼け。そして彼の腕に置かれた小さな手……。
「……そのクローンにパパは……マ……マイアと名付けた。パパの心のなかの理想の女性として……そ……育てあげるつもりだった」
 エリオットは不意に顔を上げた。
「たしかにそうだったかも知れない。だが……そう言うお前の名だってグレタのお気に入りの小説の登場人物の名前だったんだよ」
 目に見えてリッキィは動揺した。
「……わ、わたしの名が? う、う、嘘だわ! マ、ママはわたしが自分に似ずに不細工なのを心底嫌っていたのだものっ!」
「なにを馬鹿なことを言う? ……信じなさい。これは本当の話だ」
「だ、騙すつもりなんだわ。そして影で嘲笑するんだ。マ、マイアやヘンリーと同じに!」
 エリオットは溜め息をついた。怖れていたとおり根拠のない被害妄想が娘の心をとことんむしばんでしまっているようだ。
「なぜ信じようとしない……わたしたちは父と娘ではないのか? ……どうやら、もう少しお互いに……」
 そのとき、突然の強烈なショックがクルーザーを揺り動かし、彼らを床にたたきつけた。ヘルメットの中でコンピューターからの警報が鳴り響く。
「今になって攻撃?」
 エリオットは混乱した。
「――そんなことはあり得ないはずだ!」
 彼は立ち上がろうとして脇腹の激痛にうめいた。どうやら今のショックでふたたび痛めたらしい。
「外部展望!」
 彼は身体を引きずるようにしてコンソールにたどり着いた。クルーザーには妙な具合に加速度がかかっている。
「船体が回転している?!」
 ――爆発の反動だ。ミサイルか? だがコンピューターは何も探知していなかった。彼は外部カメラをつぎつぎと切替えながら周囲の空間を探り、やがて呆然としてモニターのひとつに見入った。暗黒のなかの銀白色の円盤が画面を一瞬横切って消える。星虹をバックにそれほど幾何学的に完全な図形が唐突に存在するということ自体、ひどく現実味を欠いた光景だった。円盤は『ファインガール』の回転にしたがってつぎつぎに別の画面に現われながらゆっくりと小さくなっていく。……エリオットは歯をくいしばった。
「イルスター! ……そうか! この手があったか……。わたしの油断だ。お前の警告をもっと真面目に考えるべきだった。反動噴射を使わずに弾頭を送り込む方法が確かにもうひとつあったのだ!」
 リッキィを横目で見たエリオットは、思わず呪詛の言葉をつぶやいた。……彼女はその場に凍りついたまま完全に無表情でモニター・スクリーンを見つめている。カタトニー――緊張症状?
 ビープ!
 再び警報が鳴り響いた。――噴射光確認!
 モニター画面に光点の位置を示す矢印と二組の数値がスーパーインポーズされる。さらに二機のミサイルが急速に迫りつつあった。
 この危機に及んで娘の若く機敏な操船能力にたよれないとは……? モニターを見つめながらエリオットは絶望的な気持ちになった。
 ……防御システムのためにエンジンを止めている時間はとてもない。回頭して噴射プラズマで防ぐしかないが、爆発によって与えられた回転のために姿勢制御はきかないはずだ。まず『ファインガール』のスピンを止めなければならない。恐らくミサイルのひとつを防ぐだけで精一杯、別のひとつが確実に着弾するだろう。
 こんな緊急事態で制御ジェットの噴射タイミングは到底計算できるものではない。全長二十キロの巨体のスピンを相殺し、かつすみやかに回頭させるには長い経験によって鍛えられた反射神経を要する。それでもエリオットは最善をつくし、数分の奮闘の後スクリーンに明るい閃光を残してミサイルのひとつは消えた。しかしもうひとつの輝きはプラズマを回避して接近しつづけている。
「……だめか!」
 無念の叫びを上げるのと同時にふたたび猛烈なショックがあった。エリオットは娘の身体をかばうようにして床に伏せたが、船体が軋む音とともクルーザーに不規則な加速度が加わり、そのままもつれあうようにして居住区画の反対側まですべっていった。激しく壁にぶつかり脇腹の苦痛にうめきながら、それでも緩衝材のためにふたりとも大きな怪我はなかった。しかし不気味な振れが納まったあとエリオットは心臓が凍りつきそうになった。あの馴染みぶかい振動がない。……融合エンジンが動いていないのだ!
 シャフトがやられた?
 もしも電磁場が一挙に崩壊したのだとしたら『ファインガール』の心臓部分である融合シャフトは残留する数千万度のプラズマによって瞬間的に破壊されてしまっただろう。
 ――これでおしまいか!
 エリオットは硬直した娘の身体を背後からしっかりと抱えた。だが彼女の完全に空ろな表情を見て彼は気を取り直した。……ここで自分が挫けるわけにはいかない。
 半数以上のモニターが死に、ほとんどの表示がレッドへと変わってしまったコンソールを彼は祈るように見つめた。冷静にならなければ……制御噴射はまだ使える。防御システムもたぶん生きている。さらなるミサイル攻撃にそなえて『グレタ』を守らなければならない……融合エンジンを失っても予備システムさえ無事なら最悪でも冬眠しながら救援を待つことはできる!

「欲望も目的意識もなく自己複製を命じるプログラムがその行動を支配している。そうした『機械』ではありながら確かにあの『女』は愚かじゃない」
 ガラス瓶のなかの水をレーザーで加熱した乏しい湯での洗髪の後、娘の髪を乾かしながらエリオットは自嘲の口ぶりで言った。あれ以来、リッキィは食事や自分の身体の清潔さについてまったく無頓着になってしまっていた。――空腹や苦痛の感覚はちゃんと感じているにもかかわらず、それらが自分自身とどう関係しているのかが理解できなくなっているのだ。
「むしろ愚かなのは人間であるわたしのほうだ。お前の言う通り見過ごしていたポイントがあった。わたしは反動で推進されるミサイルは噴射光を探知できるし、またレーザーはどんなに高出力でもあの距離からわれわれに照準を絞ることは不可能だから、いずれにしても脅威とはなり得ないとひとりぎめしていた。しかしあいつはそれらを組み合わせることで見事にわたしを出し抜き『ファインガール』を仕とめる手だてをあみだした……。
 そう……、レーザー帆だ。ごく薄いセールをレーザーの光圧で推進する。……大面積だから数百万キロの距離からでもレーザーで照射できるし、帆自体は極めて軽く薄い材質で出来ているからいくら星間物質で穴を開けられてもほとんど影響がない。そして表側を黒く塗っておけば間近に接近してもわれわれからは見えない。『ファインガール』に追いついたところでセールを切り離してエンジンに点火したわけだ……」
 子供のように両足を投げ出し、上半身裸で床に座ったまま虚空を見つめている娘に彼は言い聞かせるように語りかけた。
「シャフトをみごとに破壊されてしまったよ。もはや『機械』の自己再生能力にも期待はできない。いまのところはわれわれのほうがまだ速いから互いの距離は開きつつある。しかしいつまでもそうはいくまい。相手がエンジンの修理に成功したらあっという間に追いつかれるだろう」
 エリオットは娘の乾いた長い髪を何とかまとめ上げようと苦心していたが、やがてあきらめた。……当分ヘルメットを被ることもないだろう。
「そうなれば『ファインガール』を放棄しなければならない……残念だが」
 アンダーシャツを着せようとすると、ぴくりとリッキィの身体が反応した。彼女の左腕がゆっくり上がると肩に置かれた彼の右手を探りそこに重ねられる。その二の腕にはすでに癒えた古い傷跡とともに新たに彼女自身によって創られた幾筋かのナイフの傷があった。
 ――気づいてさえやっていれば……それらを見るたびに彼の心は深い罪悪感で満たされた。
「……リッキィ?」
 エリオットは淡い期待を込めて背後から彼女の顔を覗き込む。父の声に彼女はかすかにうなずいたようだったが、その瞳はいまだ何もとらえてはいなかった。
 ……可哀想に。長い航海のすえにイルスターとの戦いのストレスがもともと不安定な娘の心をとことん崩壊させてしまったのだ。向精神薬剤も絶え間ない不安と恐怖からくる彼女の精神の消耗を防ぐことはできなかった。娘がいつかもとのように心の健康を取りもどすことがあるにせよ、それはまだずっと先のことになるだろう。
 リッキィの唇が動き、ほとんど聞こえない呟きが発せられた。
「……埋メラレル……埋メラレル……埋メラレル……」
 無意味な文節の繰り返しと主語の混乱とがいまの彼女の言葉の特徴だった。
「リッキィ? 誰もお前を埋めたりはしないよ」
「……埋メラレ……深イ地層ゴト氷河ハ……侵食シヨウトスル」
「なんだって?」
「高圧ニ帯電シタ……増殖スル針状結晶体タチ……あーく放電……」
 エリオットは溜め息をつく。リッキィの言葉は脈絡なく続いた。
「あーく放電……暴虐ナ速度……速度……衰退シテイク……多様性……多様性ト……運命ノ女神タチノ三位一体……錯乱スル……錯乱スル……属州カラ滴リ落チル……落チル……埋メラレル……埋メラレル……トテモ寒クテ……暗イ……暗イ」
 父は肩を抱き、娘のこめかみにそっとキスした。

 エリオットはクルーザーの動力系統をあらためて綿密に調査した。融合エンジンは動かない。しかし姿勢制御用のイオン・ジェットと船体の回転を利用して『ファインガール』から離脱することはできる。燃料電池の予備電力で数年のあいだは人工冬眠システムを維持していけそうだった。ふたりでなくひとりだけならさらに長く……、恐らくは十年ほど……、ポッド内の人間の生命を保ち続けられるはずだ。
 エンジンの使えないクルーザーには減速も軌道修正も不可能だが、現在の速度と方向が保たれれば『グレタ』はクレイドルから数光年以内を通過する。……救難信号を発しながら超高速で飛来する電波発信源がその空域に集まっているシーカーたちの注意を引くことは間違いない。なかにはうまく軌道修正して『グレタ』とランデヴーすることができる『機械』もあるだろう。相対論的時間短縮効果を計算に入れればぎりぎりのタイミングでの救助を期待していいはずだ。
 そうしてエリオットは、制御システムの一部を『ファインガール』本体に移し始めた。もともと星系内でクルーザーを切り離した後『機械』は自動的に軌道を保ち、あらかじめ設定された時間の後にクレイドルへ向かって帰還するようにプログラムされている。――シーカーが未知の星系で危険に遭遇し、自力でそれを切り抜けられなかったとしても人類が所有するイシュタル機械を失わないための配慮だ。しかし悪意をもって攻撃してくる他の『機械』に対して十分な防衛行動をとることまではその命令には含まれていない。
 架台内部の人ひとりやっと入れる小さなスペースに予備の酸素ボンベを運び込み、エリオットは『グレタ』を送り出した後の孤独な戦いの準備をすすめた。FELで相手と刺し違えられればよし、たとえ駄目でも彼が反撃することで少しでもよけいに連星へと向かう長い軌道の終点近くまで相手を誘き寄せることができるだろう。

「……正直に言おう。わたしはお前にすべてを語ってはいなかった。確かに近接連星には宇宙船を瞬間的に加速できる重力カタパルト効果がある。しかし同時にそれはしばしばそれに近づく者を破滅させる禁断の罠でもある」
 彼は制御卓の上の小さなカメラを見つめながらゆっくりと喋った。恐らくこの暗さではヘルメットの中の自分の表情はほとんどわかるまい……。もしも娘が無事救出され、その精神的な麻痺状態から回復したとき、彼女はこの父親のメッセージをどんな気持ちで聞くだろうか?
「GSN―18202a/bのスペクトル表示は『A5=M2V』――つまり赤色矮星と白色矮星の近接連星だ。そして『新矮星』と呼ばれるこの種の連星は数年以下の短い周期で爆発を繰り返す。……赤色矮星からロッシュ・ローブを越えて流れ出る恒星物質によって白色矮星の周囲に作られる降着円盤がときおり急激に重力崩壊することによって生じるこの爆発は通常の新星爆発の千分の一の規模にすぎないものの、間近でその高温の衝撃波を浴びればたとえイシュタル機械といえどひとたまりもない。
 ――そして現在の軌道と速度なら恐らく『ファインガール』は最接近ポイントでその瞬間に立ち会うことになる」
 エリオットは沈黙した。あるいはリッキィは最後まで自分を欺いていた父親を許そうとはしないかもしれない……。
「ぎりぎりですり抜けられることを期待していたのだが、エンジンを破壊されたことでそれはもう避けようがなくなった……結果としてお前を騙していたことになったかも知れない。だが最後まで余計な心配をかけたくなかったのだ。
 こうなった以上選択の余地はない。イルスターを自由にしておけば遅かれ早かれ別のシーカーが被害をうけるだろう。彼女らの増殖を防ぎ、可能なら破壊するためにベストをつくすべきだと思うのだ。わたしは『ファインガール』に残ってぎりぎりまで抵抗し、時間を稼ぐつもりだ。
 果たしてイルスターが一八二〇二星系の危険の性質について理解しているかどうかはわからない。だが星系に十分近く接近してしまえば、奴が罠に気づいて軌道を修正しようとしてもすでに間に合わない。あるいはたとえ知っていたとしても、少なくとも『ファインガール』を解体してその素材を利用することは諦めるだろう。そうすれば将来人間にとって脅威となる存在が新たに増えるの防ぐことができるわけだ。
 ――この年齢で宇宙へ出る以上は再びクレイドルへ戻る日があるとは思ってはいない。くわえてこうすることでお前の生存のチャンスを増やし、さらに他のシーカーの航行の安全にささやかながら貢献できるのだからこれは決して無駄死にではない。それ故わたしの死を必要以上になげくこともない……ただ、お前が自分がわたしから愛されていないと今も考えているだろうことがわずかに心残りだ。わたしが妹のマイアをより愛しているかのようにお前が感じているとしたらそれはまったくの誤解だ。もっともそれは自分の心をお前に十分に伝えなかったわたしの責任でもあるのだろう……。
 これだけは信じてほしい。わたしはマイアを幸福にしたいと望むのと少しも変わらずにずっとお前を思ってきた。――言うまでもないことではないか? お前のママにとってお前は最愛の娘だったのであり、グレタにとって大切なものはわたしにとってもまた同様に大切なものなのだから……。
 最後にこれだけは言っておきたかったのだ。お前は自分ひとりを被害者と感じているようだが、しかしわたしの罪は実はお前たちふたりに対してのものだ。――もしお前の心がもう少しだけ強く妹の気持ちを汲み取るだけの余裕があったなら、母親の代理として生み出された彼女の人生が姉以上に不幸なものであることが想像できたはずだ。わたしはマイアをお前以上に愛していたというわけではない。ただより深い罪の意識を感じていたのだ……」

 『バルーン』に入れたリッキィを抱えるようにして彼は気密ロッカーを出た。船体の回転で生じる二分の一Gでさえ足がもつれる。緊張症状の患者はまるで人形同然に素直に強いられた姿勢を取り続け、その人型をした透明な袋に彼女を詰め込み真空の中を移動するのに大した障害はない。しかし冬眠ポッドの与圧テントに入り、娘の身体を『バルーン』から引き出すころにはエリオットは精も根もつき果てたような気がしていた。そろそろ今までの無理の積み重ねがこたえはじめている。
 肩で息をしながらヘルメットと手袋を脱ぎ捨てるようにして、彼は下着姿のリッキィに各種の代謝センサーを取りつけた。彼女はオイル循環式のマットレスに座ったまま皮膚に貼りつけられていく電極にもまったく反応をしめさない。しかし彼が彼女をその狭いポッドのなかに横たえ、そしていよいよ最後に厚い蓋をゆっくりと閉めようとしたとき、リッキィの心の奥底に潜む何かが急に意識の表面に現われてきたらしい。
「……い、いや!」
 リッキィは完全な受動性から瞬間的にエネルギッシュな興奮状態に移行して、あわてて身体を押えつけようとする彼の腕に激しくあらがった。
「心配ない。――リッキィ。落ち着きなさい」
 しかしその目は恐怖に見開かれ、悲鳴をあげて彼女は抵抗した。
「あ、あ、あ、圧搾する……頭蓋骨を粉砕して……」
「そうじゃない、リッキィ。これは冬眠ポッド。ただ眠るだけ――」
「……カ、カインの罪人め! それがお前の……ば……罰だ。……埋葬されて……お、恐ろしい静寂と孤独のうちに……。か、彼は彼女たちのところへ……去ってしまう!」
 エリオットの額に冷や汗が流れた。……脇腹の痛みのためではなく、狂った娘の悲痛な叫び声が不意に彼の胸をついたのだ――こうした心の病の患者が時折見せる神秘的な洞察力。
 確かにお前の言う通り、わたしはお前を見捨ててグレタとマイアたちのもとへ行こうとしている。イルスターの脅威を除くためという一見合理的な言い訳の裏に――じつはすべての軛を投げ出して最愛の人とただ安らかに眠りたいという利己的な欺瞞が潜んでいることを正しく娘は指摘したのだ。リッキィを救うつもりの彼の自己犠牲的な決断が彼女から見れば自分を見捨てて父親が母と妹のもとに去って行く最大の裏切りにほかならないということを……。
 迷う心で力が抜け、彼は何かにつかれたようなリッキィの腕力に突き飛ばされて床に転倒し脇腹の激痛に悲鳴をあげた。涙でかすんだ目のなかに身体中に張り巡らされたコードを引きずりながらポッドを抜け出し、シールの継ぎ目を夢中で引き剥がそうとするリッキィの姿が見える。苦痛をこらえて跳ね起きるとエリオットは彼女を背後から抱き締めた。――この耐圧性の継ぎ目は引き剥がそうとする力にはひどく弱いのだ。いまシールが破れるようなことがあればふたりとも生命はない。
 しかし小柄な娘は尋常でない力で抵抗し、彼はその背で為すすべもなく振り回されるばかり――リッキィは完全に恐慌にとらわれてしまっている。もはや彼の言葉はまったく届かない。エリオットは長い髪をつかんで上体をのけぞらし渾身の力を振り絞ってリッキィをテントの透明な内壁から引き離すと正気に戻すべくその身体を手荒く揺り動かした。今や娘も父親も共に絶叫していた。彼の腕をふりほどこうとしてリッキィの膝が脚といわず腹といわず目茶苦茶にけり上げてくる。目に突き立てられようとした爪をかわした彼の頬が引き裂かれ、暖かい血がほとばしるのがわかった。思わず数歩引き下がり、身体の底から込み上げてくる悲しみと怒りにまかせて拳を握り締めると彼は娘の顎を力任せに殴りつけた。
 急にぐったりとなった彼女をエリオットは抱きとめ、そっと床に横たえた。脇腹の痛みは耐え難くがっくりと膝をつくと父は娘の傍らに倒れ込んだ。
 ――まるでふたりの間柄を象徴するようだ。あえぎ苦痛にもだえながらエリオットは考えた。心では娘のことを思いながらも逆にまるで憎しみに満ちた有様で彼女を打ち据えた……。彼は歯を食いしばって身を起こし、昏倒した娘の脈を調べた。――どうしてあんなに激しく殴ったりしたのだろう?
 リッキィは青白い顔をして死んだように横たわっていた。苦痛をこらえ、切ない思いでその上体を抱き起こす。頬の傷から一筋血がしたたり落ち、娘のはだけた白い胸もとを赤く汚した。
 そしてエリオットはいつのまにかコンソールの警告灯がすべて真っ赤に点灯していることに気づいた。

 モニター画面に噴射光を認知したことを意味するコンピューターからの警告……。どうやらアラートを聞き損ねたらしい。
 いったい何時から? ふたたびミサイル攻撃か? それとも……。
 苦痛をこらえ、意識のないリッキィの身体をポッド内のマットレスに乗せて蓋をロックすると、エリオットはエア・テントをよろめき出た。
 モニターの中央に巨大な輝きがある……。こんなに早くあいつはエンジン修復に成功したのか? もしもそうならすでに彼らの命運はつきたも同然だった。加速能力を取りもどした相手は瞬くうちにFELの有効範囲に迫ってくるだろう。
 残された時間を知るためにコンピューターの自動測定の数値を呼び出したエリオットは、しかしそれを見て首をひねった。……あまりに加速が大き過ぎる。長波長帯域でのドップラー・レーダーの測定は必ずしも正確とは言えない。だが同時に行なったスペクトル解析の結果も信じられぬものだった。――彼はもう一度、各輝線の紫方向へのシフトの比率をコンピューターに計算させ、相手の加速度を割り出そうとした。だがその結論を示すモニターの数値は前と変わらず、彼はしばらく我が目を疑ったままそれに眺め入った。
「……『二コンマ九G』?!」
 ――とうてい考えられない加速度だ。どれほど改良されていようと核融合エンジンの出力には物理的な上限がある。ティプラー・フォンノイマン機械の巨体にそれほどの大きさの加速を与えることができるはずはない。そもそもそんな力が加われば船体構造そのものがもたないだろう。
 彼は混乱しながら画面をぎりぎりまで拡大して詳細にその光を観察した。
 ……ラム・スクープの融合光がない。そしてその噴射光はシンメトリーなものでなく、しかも大きく時間変動している。どうやら相手の推進プラズマは正常なラム・ジェット燃焼によるものではないらしい。いったい何が起こったというのだろう?
 エリオットは思いがけない事態の変化に戸惑い、コンソールの前に立ちつくした。
 三G近い加速度? 考えられる可能性はひとつしかないが……。
 彼は脇腹の痛みを忘れていた。ほんとうにそうなのだろうか? エリオットはその結論に飛び突きたい自分自身を諌めた。あと五時間以内に彼がいま想像したことが正しかったかどうかがわかる。それまでは根拠のない希望にすがるべきではあるまい……。

 エリオットは息をつめモニターに流れる数字を見つめた。すでにたがいの距離は三十万キロを切っている。彼はクルーザーの電磁的な固定装置以外のロックをすべて外し、スイッチひとつでいつでも『グレタ』を切り離せるようにしてイルスターの接近を待った。……イルスターとの距離が五十万キロを下まわってからずっと、彼はこのスイッチを押すべきかどうか迷っていた。一度『ファインガール』を離れればもはや『グレタ』は無力に漂うだけだ。できるならそれがクレイドルに確実に向かうよう『機械』の速度ベクトルを確認するための時間がほしい。しかしいっぽうで切り離しのタイミングを逸せば永久にチャンスは失われてしまうかも知れない。
 ほんらいならすでに幾度かFELの攻撃があってもいいはずなのに相手はただただ猛烈な速度でこちらに向かって突進してくるだけだった。このままでいけば後わずかで『ファインガール』を追い越してしまう。――とはいえ、もしも彼女がふたたびレーザー帆のような奇策を使ってくるつもりだとしたら……。
 エリオットは生き残った僅かなテレビカメラで相手の姿をあらゆる波長で捉えられるようセットし、妙な動きを見逃さないよう全身の神経を張り詰めて見まもった。

 けっきょく最後まで『ファインガール』への攻撃は行なわれなかった。エリオットがモニターを見つめるうちにイルスターの巨大な船体はますます大きくなり、恐ろしい速度で迫り、やがてまばゆいプラズマを閃かせて画面からかき消えた。ふたつの『機械』は毎秒五百キロ以上の相対速度と百キロ以下の距離ですれ違ったのだ。
 エリオットはしばらくの間、姿勢を崩すことができなかった。十秒ほどもたってからようやく硬直した身体をほぐすように大きく息を吸う。わずかに百キロ……。相手のスクープ・フィールドが働いていなかったことを彼は銀河中のマシンに感謝した。もしもその強大な電磁の翼が一触したら、苛烈な磁場変動にともなう抵抗熱によって『グレタ』は中身もろともこんがりとローストされていたはずなのだ。
 震える指ももどかしく彼はモニター画像をスロー再生した。
 ……イルスターは燃えていた。
 その炭素結晶の船体に穿たれた無数の穴から青白いプラズマを吹き出し、船体の後半分は吹き飛んでほとんど形を成していない。――あの異常な加速も当然だった。自らの内から燃えあがる地獄の業火に焼かれながら、その呪われた星は狂おしい加速度で破滅への軌道をまっしぐらに驀進していたのだ。
 明らかにシャフトのなかの重水素融合反応がコントロールを失い暴走したのだ。連鎖的な核融合爆発を繰り返しながら、それは太陽になろうとしていた。
 ……だが、なぜ?
 すべてのカメラの捉えた画像を丹念に調べあげたあげく、エリオットはあるひとつの映像が疑問に答えてくれているのを知った。そこにはイルスターから振り落とされ、半ば燃えながら分解していこうとする数匹の蜘蛛たちが写っていた。静止した奇妙なポーズで触手を拡げたその機械たちの解像度限界近くまで拡大した表面に、エリオットはあの見慣れた金属質のあばたを見つけだしたのだ。
 ――ストレンジレット!
 あれは取りつき、そして増殖していたのだ。いったい何時イルスターはそれを自らのスクープ・フィールドに拾い上げたのか? エリオットは当惑した。ストレンジ・クォークを含む物質は弱いプラスの電荷を帯びているから水素イオンに反応するよう設計された電磁スクープによってラム・ジェットの内部に引き込まれることはありうる。しかしそれは磁界のなかではどんな反応にも加わることなく、最終的に噴射プラズマとともに宇宙空間へと排出されるはずなのだが……。
 恐らく何かの奇跡的な偶然で一次反応の後に生成される重水素と一緒に予備燃料回収システムがそれをたまたま捕えてしまったのだ。ストレンジレットの粒子は核燃料貯蔵タンクに取り込まれて隔壁に付着し、彼女を次第に侵食していったのだろう。やがてさらにその外側の制御システム自身をも蝕み、ついにはメンテナンスに従事する蜘蛛たちにまで感染した……。そうして制御装置のほとんどを破壊された融合シャフトは暴走を始め、すべての重水素を一度に燃やし始めたのだ。
 それはあらゆる物質に伝染しながら、まるでウイルスそのもののようにあのイルスターの船体を蝕んでいった……。もしも気がつくのが遅れて外装パネルの汚染をあのままにしておいたら……。彼はいまさらのようにぞっとした。

「どうやら、われわれはついているらしい。……リッキィ、きっとお前も救いだされるに違いない」
 エリオットは鎮静剤を投与され冬眠ポッドのなかで眠っている娘を振り向いて、安堵とともに深い疲労を含んだ声で語りかけた。
「――わたしもお前と一緒に行くことにしたよ。この幸運がこの先もわたしたちとともにあるなら生き延びることもきっとできるだろう。そして無事クレイドルに戻ったなら……約束しよう、わたしに残された時間を今度こそずっとお前のそばで過ごすことを」

 代謝センサーの各数値と時間変動を示すモニターグラフをエリオットは見つめていた。人間を冬眠状態で保存するためには幾つもの化学物質を必要とする。血漿凍結防止タンパク、細胞膜安定剤、代謝抑制物質……。人工冬眠に入るプロセスは目覚めるときのそれよりはるかに複雑であり、予想外の致命的トラブルが生じる可能性もまた高い。多量の複雑な高分子化合物が脳を含む全身に行き渡る結果、娘の心の病が取り返しのつかない影響を被る可能性は否定できない。最初に発見された降圧剤レセルピンが鬱病患者の自殺率を増加させた例もあるのだ。
 しかしリッキィの頭に接続されたスクイドセンサーが異常を告げることはなく、見守るうちにその眉根に刻まれた険しい皺も次第に解かれ、眠りが深まるにつれて彼女の内面の苦悩もまたゆっくりと癒されていくようだった。
 体温は順調に下り続け、やがて氷点下二・五度℃で安定する。脈拍は三十分間に一回、呼吸は九十分間に一回、そして脳波はゆったりとした微弱なデルター波……これから数年間、彼女は死にも似た過冷却状態に守られたまま静かに眠り続けることだろう。

 ――今はただ眠りなさい。フレドリカ。そして明日すこやかな娘となって目ざめたなら……どうかわたしを許し、わたしにキスをしておくれ……。

 彼女のポッドが正常に作動していることを最終的に確認するとエリオットはテントの外に出て、今度はマイアたちのそれに歩み寄った。それからまるでふたりが正常な人工冬眠状態にあるかのように正規の手順で明かりの消えた表示パネルをチェックし、そしてその無意味な身振りのあとで死者たちの顔に彼はじっと眺めいった。

 数十分ののち自分の冬眠ポッドの周囲に張られたエア・テントの前でエリオットは緩慢な、しかし習慣となった無意識の動作で生命維持装置を点検していた。……いまや底知れない疲労が自分のうえに覆いかぶさっていて冬眠状態に入ったら再び目覚めるときがこないような予感さえある。体力も気力も、あまりにも無理に無理を重ねていた。
 だがたとえ二度と必要とすることがなかろうと自分の宇宙服の状態は完全にしておきたかった。……酸素の残量が少ない。自らに鞭打ってボンベの交換のために彼は備品室に入った。
 疲労のためか指が滑り彼はボンベを取り落とした。それは船体の回転から生じる二分の一Gの重力に引かれて床に弾み、暗がりへ転がっていった。ため息をつくとエリオットはそれを捜すために部屋の奥へと進み屈みこんだ。
 不意に眩暈が襲いバランスを崩して彼はその場に倒れ込んだ。ゆっくりとした転倒だったが脇腹の激痛に息が止まった。涙で霞む目を瞬きながら身を起こしエリオットは奥の壁にもたれてひと息つく。そのとき――。

「ギャーァァアアア……ッ!!」

 全身の血液が凍りついた。……数分のあいだ身動きひとつできないほど茫然自失としたのち、ようやく彼は麻痺した手足を励まして身を起こした。恐る恐るあたりを窺う。いまだ動悸は納まらず、こめかみを一筋冷たい汗が流れた。誰ひとり何一つ動くことのない沈黙のなかで、その恐ろしい突然の絶叫は彼の衰弱した神経をぐさりと貫いたのだ。
 ……いったい?
 ゆっくりと立ち上がり背後を振り向く。――目の前には壁。脇には非常用エアロックがあった。彼はヘルメットの明りをそこへと向けた。黄色く塗られた幅の狭い扉の上部に小さな窓があり、その中で厚い霜がきらめいていた。エリオットは扉に近づき、その小窓をつくづくと見つめた。船室の空気が抜けてすでに数ケ月。真空のなかで霜はそんなに長くは存在できないはずだった。……この小さな空間はまだ与圧されているのだ。
 彼は両手を壁につきヘルメットをためらいがちにそっと扉の表面に触れさせた。

「ギャーァァァ……ァァァ……ォウォッ!」

 ……それは鳴き続けていたのだ。恐らく人間たちの動く気配を振動で感じて何ケ月も前から。しかし彼のヘルメットがたまたまその壁に接触するまで、助けを呼ぶその枯れ果てた声を真空が完全に遮断していたのだ。
「……ダークマター!」
 呆然として彼は呟いた。夢中で厚い霜で縁取られた窓ガラスをのぞく。動揺した彼のヘルメットのちらつく明りのなかにプラスチックのケースの散乱した床が見え、針金のように痩せこけた影がおぼろげに動いた。
「四ケ月以上も……」
 食物の匂いのしみたプラスチック・ケースの底まで齧りとり、たぶん窓の霜で渇きを癒しながら、それは暗闇のなかで生きていたのだ。
 思わず目頭が熱くなり、気がつくと彼はドアの取っ手を握り締めて渾身の力で開こうとしていた。……もちろん内部から圧力がかかっているかぎりオート・ロックされたドアは開くはずもない。
 ――しかし、なぜ?
 思いもよらない出来ごとに混乱する心のなかで彼は自らに問いかけた。
 ……マイアと一緒ではなかったのか?
 全身の真っ黒な毛並みのために『ダークマター』と名づけられたその雄猫をなぜかリッキィは嫌っていた。ダークマター自身もあきらかにそれを察していたのだろう。決して姉になつこうとはしなかった。そしてリッキィがナビゲーションの当番につくときにはそれは何時でもマイアとともに冬眠カプセルでの眠りにつくことをエリオットは知っていた。当然彼女と運命をともにしたものと今の今まで思い込んでいたのだが……。
 ――それとも。
 そこまで考えて恐ろしい可能性にエリオットは思いいたった。
 ――つまりマイアは起きていたのだ。……あの隕石群が『ファインガール』を襲ったとき、急速に低下する気圧のなかで猫を予備エアロックに放り込み非常用食料とともに扉の内側に閉じ込めた人物。――それはマイア以外の誰でもありえない。そして生命維持システムのダメージによる夫ヘンリーの死を確認した後、マイアはまず最初に父親ではなく自分の姉を目覚めさせたのだ……。
 エリオットは青ざめた顔でゆっくりと振り向いた。
 簡易エアロックを与圧する時間さえも果てしなく長く感じる。……あわただしく気密ロッカーに飛び込んだエリオットはしかしマイアの真紅の宇宙服の前で一瞬ためらい、それから震える手でそれを探った。
 やがて彼は半ば予期し、半ば恐れていたものを見つけた。――細いパイプの接続個所に塗られた黄色いペイントの表面のごく小さな亀裂……。バルブが動かされた証拠だった。その酸素供給バルブを締めたまま宇宙服を着用することは致命的行動であり、気圧ゼロの場所へと踏み出すべくふたりの人間がお互いの装備をチェックするときそうした異常を見落とすことはまずありえない。
 そしていまや誰の手が密かにレンチを握り、はっきりと殺意をもってそれを固く締め付けたのか……彼には明らかだった。

 いつのまにかエリオットはリッキィの冬眠ポッドの傍らにいた。蒼白の顔で穏やかな寝顔に見入る。……まるであどけない少女が微笑むように彼女は眠っていた。その満ち足りた表情は父親である彼でさえ初めて見るものかも知れなかった。
 ――リッキィ! リッキィ! それほどまでにお前は……?!
 誰のためとも知れない不意にわきあがってきた憐愍にフェイスプレートに涙が滴った。彼の指は娘の顔を覆う断熱ガラスの表面をさ迷いやがてそれはポッドの制御パネルに行き当たった。……フェイルセーフを解除し小さなスイッチを切って酸素の供給を断てばリッキィは眠りながら死ぬ。――何の苦痛もなく。
 惑いと絶望とに顔を歪め、彼はつぶやいた。
 ――わたしに知られることはないと確信していたのか? そうだろう……。お前はダークマターがヘンリーのポッドの中だと思っていたのだから!
 人間よりもずっと短いその寿命を少しでも延ばすために、しばしばマイアは自分の当直のあいだもそれを夫とともに冬眠させていた。おまえは妹にあえて尋ねなかったのに違いない。ダークマターもまたヘンリーとともに死んだのかとは……。そしてマイアもまた、やむなく咄嗟の機転でエアロックにそれを閉じ込めてあることを最後までお前に言いそびれたのだ。
 だがそれは生きていた。マイアの死体がポッドに入れられ凍結されて事故の偽装が完成し、そしてわたしが目覚めてからもずっと……。数ケ月にわたる『イルスター』との戦いの間、備品室の壁の後ろでその恐ろしい犯罪を告発するしゃがれた鳴き声を上げながら――。
 『安全装置→解除』。
 パネルの文字がいつのまにか変わっていた。……わたしがやったのか? すでにそれさえわからなかった。ぼやける目で表示を確かめる。酸素は――いまだ『ON』。しかし軽い接触で『OFF』になるはずだ。
 彼の指が激しい内心の葛藤のために痙攣した。
 ――しかしわたしにこのスイッチを切る資格があるのか? お前をそこまで追い詰め、その殺意を産み出すことになったそもそも最初の決定を下したのは、ほかならぬ自分ではなかったのか? その一生のほとんどを妹であり同時に母であるものに父親を奪われる恐れとともに過ごしてきたお前。それが誰にも知られずにその存在を除く絶好の機会を偶然与えられたと知ったとき、はたして別の選択をする余地があっただろうか?
 あるいはお前は誰にも知られぬまま静かに狂気に蝕まれていたのかもしれないのだ。宇宙空間のもたらす危険への絶え間ない緊張がお前の精神のバランスを、こうした事件が起こるずっとまえにすでに崩していたのだとしたら……。
 ――だが。
 彼の心にふたたび冷たい疑惑が忍びこむ。あるいはそれさえもお前の思惑の一部かも知れない。あまりにもお前の寝顔は穏やかだ。ひょっとしたらお前はわたしの前で心の病を装っているだけではないのか?
 わたしは覚えている。幼いお前は自分にとって邪魔な妹を陥れようとして幾度か子供じみた奸計を仕掛けたことがあった。そしてわたしはそれらを見破るたびに厳しくお前を叱咤しなければならなかった。
 ――いまとなってはっきりわかる。わたしは密かに恐れていたのかも知れない。娘のなかに母から譲り受けた神秘的で力強い素質を見るかわりに、錯綜した邪悪さ――他ならぬわたし自身の影に出会うことを……。明るく輝く星々の間にあってその運命を支配しながらもそれ自身は目には見えない暗い存在を見ることを――。
 ……万が一にも自分の行ないを知られたときのために、狂気のうえでの殺人が罪にはならないことを計算したうえで彼女が自分に対してそれを装ったのではないかという疑いを、それゆえわたしは今捨てることができなくなってしまっている……。
 しかしそれでも――リッキィの寝顔は何一つ罪を知らない童女のように見え、エリオットの脳裏にはふたたび遠い昔のあの小さな手の感触が蘇っていた……。

 気がつくと彼は冬眠ポッドの間の床に横たわっていた。
 ――自分はあのスイッチを押してしまったのだろうか?
 記憶は空白であり底知れない疲労が夜の闇となって彼の明瞭な意識を閉ざそうとしていた。
 ……酸素の残量は? 果たしてわたしはボンベを交換したのだったろうか?
 そしてダークマターは?
 真空状態のなか宇宙服のままで一人眠るのは死につながる愚行だった。しかし眠りはエリオットの四肢に鉛のように重く取りつき、もはや彼は手足を動かすことすらできなかった。
 ――あまりにも自分は疲れ切り弱っている。ほんの少しだけ眠ろう。時間はいくらでもあるのだから。ともかく今は……。
 そう、ともかく今は……これ以上の力は……

 最早ない
                                                                            了

トップ読切短編連載長編コラム
ブックレビュー著者インタビュー連載マンガBBS編集部日記
著作権プライバシーポリシーサイトマップ