神の笑える妄想話

doru

第五章 博物館めぐり

その一 幻想博物館

逃げなければ殺される。 

わたしは森の小道を歩いていると、背中から灰色狼が音を立てて忍びよってくるのがわかった。 灰色狼を刺激しないように森から逃げ出そうと小道から逸れ、森を抜けようとしたのだが、誤って更に奥深くに入っていってしまったのだった。

どれぐらい歩いただろうか。何気なく顔を上げると、古ぼけた案内板が地面に斜めに突き立てられ、消えかかった文字でこう書かれている。

『尋常の人、幻想博物館に入るべからず』

わたしは悩んだ。狼のうなり声がますます近づいてくる。ぐずぐずしている暇はなかった。 わたしは思い切って、案内板の下の青銅の扉を開け、幻想博物館に入って行った。

幻想博物館は、地底に掘られた巨大な建造物だった。長い螺旋階段が地底の奥深くまで伸び、わたしの靴音だけがうら淋しく響いている。

ところどころに置かれている蝋燭の炎を頼りに歩いていると、ガラス張りの小部屋が見えてきた。 中を覗くとうなだれた一組の老夫婦が銀色の浴室の端でひっそり座りこけている。

老夫婦はわたしが来たのがわかるとぎこちなく立ち上がり、意味ありげな薄ら笑いを浮かべて、何かの準備をしはじめた。

老人が椅子を取り出し、老婆が縄を取り出した。そしてにやりと笑った老人が老婆の持っていた縄を天井につるし、椅子に上がり、首をくくった。

老人の身体が振り子のように揺れて、白眼を剥き、長い舌を出した。

ひぃ・・・・・・わたしは数歩後ずさり、小さな悲鳴をあげた。

そんなわたしを見て、老婆は手を叩き、ひゃひゃひゃと甲高い笑い声をあげる。

やめてくれ、わたしはそう叫んだのかわからない。わたしは叫び声をあげる前に『老人』から、逃げ出していたのだ。

螺旋階段は途中で切れていた。いや、正確には螺旋階段は切れていない。今眼の前には青銅の扉があり、 その部屋に入らなければ、前には進めない仕組みになっているのだった。わたしは扉の取っ手を握り、中に入った。

青黒い人間が丸太のように床に転がり、彼らの顔には黒い湿疹ができ、小さく上下する胸でかろうじて彼らが生きているのがわかった。

これは伝染病だ。彼らは死の伝染病にかかっている。わたしは彼らを見てそう直感した。 こんなところにいるとわたしまで彼らの仲間になってしまう。そう考え、元来た道を引き返そうとした。 しかし引き返すことはできなかった。何者かに背中を物凄い力で押され、寝ている一人の病人の上に倒れこんでしまったのだった。

ぐちゅっと鈍い音が身体の下から聞こえてきた。病人の胸が潰れ、口からどす黒い血を吐き、その血はわたしの顔に直接かかってしまったのだった。

胸に鋭い痛みが走った。・・・・・・もう駄目だ。移ってしまった。わたしも病人になってしまった。

わたしは立ち上がると情けなく歩きだし、反対側の青銅の扉を開き、後ろを振り返った。

今のは『病気』だった。


『病気』を体験したわたしは、しくしくとうずく胸と微熱が続く忌々しい身体を引きずるようにして次の青銅の扉を開けた。 そこは、一冊の白い雑誌と長椅子があるだけの殺風景な小部屋だった。隣室からは蜜蜂の羽音にも似た目障りな音が聞こえてくる。 嫌な音だ。わたしは片耳を押え、隣室への青銅の扉を押したが、開けることができなかった。

どうやら準備が終わるまで、この白い雑誌でも読んでいろということか。ここが待合室なら隣室は診察室といったところだろう。

わたしは、準備が終わるまで、長椅子に座り、何も書かれていない白い雑誌を読むことにした。

『神々の記憶は夢であり、夢は神々の記憶である。これはわたしの記憶である』

白い雑誌には意味のわからない美しい文字が現われては、やがては消えていく。この内容は決して記憶には残らないだろう。 そう思って虚しく読んでいると、女の声がわたしの名を読んだ。白い雑誌を手に、隣室の青銅の扉を開けた。

そこは巨大なゲームセンターだった。誰もいないのに、機械は動いていき、すべての画面の中では多くの戦闘機が争っているのが見えた。 一つの争いが終わるたびに、画面中の多くの人間の姿が消えていく。残っていた人間がいても片手が消え、片足が消えている不具者ばかりだった。

くそっ、わたしはうめき声をあげた。これは神々のゲームだ。 要領のいい神々が束の間の退屈を紛らわすために、人間同士を戦わせているのだ。 そして待合室で聞いたあの耳障りな蜜蜂の羽音は神々の喜びの声だったのだ。

こんなくだらないゲームはやめろ、わたしはそう叫び、持っていた白い雑誌を画面に叩きつけた。 今まで写し出されたすべての戦闘機が一斉に燃え上がった。戦闘機が落ち、巻き添いになった多くの人間が赤く燃えて黒い灰となっていく。

蜜蜂の羽音が一斉に高まった。わたしの一撃が何もかも焼き尽くし、神々は喝采をあげて拍手しているのだ。

わたしは、いたたまれなくなり、『暴力』から逃げ出した。


『暴力』の螺旋階段はこれまでのものとは違い赤茶色に焼け焦げている。それが永遠に続いているのだった。 わたしの胸の痛みもこれまで以上に激しくなり、身体中がうずき、熱っぽい、頭がだるくここがどこなのか考えることもできそうもなかった。 身体を冷やすために、わたしは何か冷たいものを欲しているのがわかった。

更に螺旋階段を降りていくと、さまざまな冷菓が所狭しと売られている。 顔のない太った者たちは好きなだけ冷菓を手で直接すくいあげ食べている。 わたしも彼らの真似をし、冷菓を口の中に入れようしたのだが、うまくすくいあげることができなかった。 冷菓をすくいあげるにしても、取り方にコツがあり、多過ぎるとすべて流れ出してしまうのだ。 わたしは、そばで食べていた者に頼み込んで、代わりに取って貰った。

手の上には赤と白の斑の冷菓がのっている。それを口にしようとしたとき、冷菓が一斉に動き出した。 わたしはそれを放り出し、踏み潰した。冷菓と見えたものは幾千匹もの小さな蛇だったのだ。 潰れた蛇たちが鎌首をあげて笑い、太った者たちは口から幾千匹もの蛇を吐き出して笑った。

わたしは、急いで『貪欲』から逃げ出した。


わたしはぎこちない足取りで砂漠の中を歩いている。わたしは餓えて、病気だった。 それでも柵に沿って歩いている意識だけはあった。柵の回りに黄砂が増えていき、目指す場所が近くなっているのがわかっていた。

柵の向こう側に芝生が見えてきた。芝生の中では、少年たちが大きなラグビーボールで遊んでいた。

わたしは眼を細めてまぶしすぎる芝生と少年たちを見た。彼らの仲間に入ればきっと元

気になるはずだ。わたしにはそんな確信があった。

だが、少年たち側の芝生の生命力とわたし側の砂漠の生命力とでは、かなりの差が開いていた。 その落差が柵となってわたしの前に立ち塞がっているのだった。わたしはそれでも、最後の力を振り絞って柵を乗り越えた。 ・・・・・・まだ、乗り越える力は残っていると信じていた。

柵は乗り越えたものの砂漠と芝生の間には隠された大いなる『混沌』があり、わたしはもがけばもがくほど『混沌』の奥へと沈みこんでいった。


『混沌』で溺れた後、わたしは生まれたままの姿となり、幻想博物館の最下部にある氷の寝台の上に横たわっていた。 すべての力を幻想博物館に吸い取られた今、すべての感覚が麻痺し、もはやここから逃げ出そうという気にもなれなかった。

この地底でこのまま誰にも見出されることもなく滅びてしまうのか、そう思うとやるせない哀しみがあった。

幻想博物館よ、すべてのものをわたしから奪い去っても、皮肉なことにこの哀しみだけは残してくれていたのか。幻想博物館、おまえはこれまでに幾人の人生を滅茶苦茶にしていったのだ。


わたしは、幻想博物館に向けて自虐気味につぶやき笑った。


その二 白い博物館

ぼくはとうさんの後について浜辺を歩いている。 浜辺の両脇、右側には黒い海が音もなく浜辺を濡らし、左側には黒い蔦が絡まる無気味な崖が浜辺を眺めている。 黒い海と黒い崖に挟まれた浜辺は痩せ衰え死にかけた老人にも似ていた。

ぼくは浜辺が嫌いだった。靴の中に小さな砂がじゃりじゃり入って足に血まめを作る。 忌々しい太陽が肌をじりじりと焼き焦がしていた。 ぼくは、夜が明けない朝の暗いうちにかあさんの元を離れて、今まで一度として休んだことがなかった。

ぼくは疲れていた。それなのにとうさんは大きな背中を向けて一歩一歩着実に歩き続けている。 ぼくはとうさんに遅れないようについて行った。大人と違って子供の足で歩くのだから本当に辛い。 休まなかったら、どうにかなってしまいそうだ。

そうだ、少し休もう。

海で泳ごう。黒くて気持ち悪い色だけど、こんなに穏やかで静かなんだ。 人間を食べる魚だなんているはずがないじゃないか。冷たくて気持ちいい海が抱きしめてくれるはずだ。

それとも崖の影で昼寝してもいいかな。黒くて気持ち悪い蔦だけど、大丈夫だろう。 寝ている間に蔓が首に巻き付くことなんてないだろう。涼しくて心地いい風がこのどうしようもない疲れを癒してくれるはずだ。

ぼくがそう考え、足を止めたとき、はやぶさが空から突然舞い降りてきた。鋭い嘴が額を割ったのを感じた。 ぼくは情けない悲鳴を上げ、額を手で押えた。そしてはやぶさが去った空を仰ぎ見た。 だけど、はやぶさの姿はどこにも見えない。相変わらず忌々しい太陽と雲一つない青空が広がっていただけだった。

額が血まみれになっていたら小心なぼくは貧血を起こすかもしれないなと恐々手を見ると一滴の血もついていない。 少し安心して、少し不安になった。安心したのは、手が血で汚れていなかったからだ。 不安になったのは、はたして今のはやぶさは存在したのかどうかだった。 よく考えて見ると、はやぶさは野生の鳥だ。 その鳥がどうしてぼくみたいな禄でもない人間に近づいて来たのか? それに足をとめ、寄り道をしようとした途端、 狙いを定めて襲いかかるそんな偶然があるのだろうか? 

血まみれになっていない額と消えたはやぶさ、考えられることは一つだ。 太陽の熱とこのどうしようもない疲れた頭が、いるはずのないはやぶさの幻を創りあげたのだった。

ぼくがどこに行きたかったのか、今までどこに住んでいたかも、わけがわからなくなりかけていた。 ぼくが休もうと考え、歩かなかったから記憶が奪われたのだ。 案内人のとうさんの背中が遠いところに行ってしまったからこんなことになってしまったのだった。

休まない。休むもんか。ぼくは唇を噛んだ。自分を見失わないように、苦しくても辛くても、最後まで歩いていこうと決心したのだった。


やがて、崖がなくなり、黒い海から少し離れた場所に小さな白亜の建物が現われた。 危険が去ったのだ。そう思うと目的の地についた安心感で、身体中の気が抜けていき建物のホールに座り込んでしまった。 どこに行くのかどこに行くべきなのか見当もつかない感覚は終わった。 ぼくが一体誰なのか、あやふやで足場が崩れそうな不安じゃなく、何かを大切なものをやりとげ、やり終えた心地良い疲れだった。

かび臭い古い本、古い家具、何百年も変わらない先人達が残してきた遺産。 それらを見たとたんこの建物が博物館だとわかった。この博物館が何のためにここに建てられたのかわかった。 この博物館はとても大切なものを保存している永遠の記録所だったので、ぼくのようなものにしか見えないように、 あんな危険な黒い海や黒い蔦をわざわざ創り出す必要があったのだ。

なんてことだ。ぼくは昔の記憶がうずくのを感じ頭を押えた。博物館の奥へ奥へと入っていくと忘れていたことを少しずつ思い出すことができた。 ここには昔何度も来たことがあった。幼い頃からとうさんの背中を追って、何度も遊びに来ていたのに、どうして忘れていたのだろう。 それに、いつもぼくを可愛がり遊んでくれた、とても優しいおじいちゃんがその博物館で待っていることもすっかり忘れていたのだ。

とうさんとぼくが博物館に無事着いたのがわかると、おじいちゃんがぼくたちのために椅子を三つ用意してくれた。 おじいちゃんととうさんは椅子に腰掛け引継のために難しい打ち合わせを始めた。 ぼくも椅子に腰掛けた。二人の話を聞いているとどうやらこの博物館を創り替える計画を立てていたようだった。

ぼくはそれを聞くと、とても嫌な気持ちになった。できれば古い物は残しておきたかった。 だけどそれにはどうにもならないのはわかっている。大好きだったおじいちゃんの死を間近に感じてしまうのは、 ぼくには辛かったから、やりきれなくなって、泣きたくなって、おじいちゃんととうさんが相談している場から離れた。

ぼくはしばらく博物館の中を歩きまわった。未来の本棚から、数冊の本を取り出して読んでみる。 見たこともない聞いたこともない題名が並んでいる。ぱらぱらと頁をめくる音が静まり返った博物館の中で響いている。 繊細な文字と胸を打つ言葉が連なっている。これは未来の言葉だ。 一度も見たことのない本、誰もさわったことのない、初めて開けられた未来の本。それはぼくたちのために創られるはずの本だった。

夢中で読んでいると、ぼーん、ぼーん、ぼーん・・・・・・博物館の掛け時計がなった。

身体を強ばらせて、本を閉じた。本を読んでいるうちに閉館の時間になっていたのだ。


ぼくの時間は終わったのだった。未来に創られるはずの本は時計がなると消えていった。 それと一緒に今まで読んだ本の内容もぼくの記憶から消えてなくなっていくのがわかった。

また涙が流れる。涙腺がゆるいのは生まれつきだから仕方がない。古い物も新しい物も失っていくのは何度経験しても、ぼくには哀しすぎるものだった。

ぼくは博物館を出た。案内してくれたとうさんはもういない。とうさんはもう館長になってしまった。

夕日は赤く染まり、海は黒く、博物館は白かった。

ぼくは一人来た道をとぼとぼ歩いて帰る。


その三 ぼくの博物館

ぼくは今日博物館に来た。

博物館の中に入ると今まで流れていた汗が嘘のように引いていくのがよくわかるから幼いときから好きだった。 汗で湿った服もすぐに乾いて、今まで重かった身体がほんの少し軽くなるような気がしていたから暇を見つけては度々遊びに行っていた。 それにここはぼくの弱い身体に合うようで結構気に入っていた。

幼稚園の頃、ぼくは少し身体が弱い程度で同年代の子供と同じように簡単なお遊戯をして同じ教室に通っていた。 ぼくがときどき博物館に遊びに行っていると言うとみんな眉をしかめて、あんな古臭い暗いところのどこがいいのだろうと不思議そうに言った。 そのころのぼくはまだ幼くて他の子と違うことを知らなかったからみんなとぼくの考え方が少し違うのだろうとさほど気を留めなかった。

ぼくはいつも博物館に入ると何もせずにぼんやり眺めているだけでも思い出が込み上げて涙が出てくるぐらい好きだった。 こんなに博物館が好きなのに最近は来ることができない。正確に言うと身体がかなり弱り、夜中の外出すらなかなかできないからだった。

以前まだ比較的元気だった頃は週に一回か、無理をすれば二回ぐらい行けたけど、今は研究員が寄ってたかって、 ぼくを行かせないように注意深く見張り行かせてくれなくなっている。

青い太陽の光にあたると正直に言うとかなり疲れる。ぼくの身体は青い太陽は合わないらしい。 大勢の研究員が休憩時間にぼくのことをうわさしていた。 ぼくはたまたまドアのそばに立っていて、そんなに長く生きられないと言っているのを聞いた。 研究員はぼくの身体について専門家だから、彼らが言ったことは間違いないだろう。 ぼくの残された時間は少ないと思う。だからこそぼくは今を全力で生きる。そして今この瞬間、研究員の隙を見つけて逃げ出して博物館に来ている。

研究員はいつもぼくの身体のことを心配してくれているみたいだけど、実際はぼく自身が特異体質の持ち主で実験の対象だとすでに知っている。 ぼくからみればそれは余計なお世話だ。自分たちがこの星の太陽を改造して、罪悪感なのかぼくを大切に扱っているみたいだけど、 できれば元のぼくたちが住める星に戻して欲しい。 でも過去はタイムマシンがない限り絶対変えられないのは十分わかっているからそれは無理な願いだ。

ぼくが生きている間は誰かなんと言おうと邪魔されず好きなようなことをしたい。 服が汗でべたべたになり、すぐにひっくり返るぐらい疲れてしまっても、 特別製の部屋で長い間いることに比べればここは天国のようなところだ。 ぼくは博物館が好きでたまらないし、研究員がなんと言おうと他の誰かに何かを言われようとも行きたいと思う。 ぼくがぼくであり続ける限り行きたいし、ぼくが博物館に行くのに、この星を滅茶苦茶にした誰も反対する権利なんてないはずだ。

子供の頃は研究員もぼくがこそこそ出かけるのを知っていてわざと見逃していたようだけど、 だんだんぼくの行動を注意しはじめた上に、最近の身体の定期健診の結果かなり悪くなったみたいだから今ではほどんど行かせて貰えない。

でもぼくが行ったのがばれても研究員は殴れないし怒らない。どんなに高い地位にいる研究員でもぼくには何もすることができない。 だって自分たちがごく普通に殴ったらあっけなく倒れてしまうことを彼ら自身が過去なんども同じ失敗をやっているから知っている。


以前ぼくが小学校の頃同級生が気まぐれて苛めて殴ったらぼくは倒れて長期間休むはめになった。

そのころ研究員はぼくをどれぐらいで全身改造すべきか決めかねていたらしい。この時ぼくが倒れたことで決定された。

ぼくはこの星の青い太陽の下で少しでも耐えられる丈夫な身体になるために全身改造された。 最初にこの青い星の住人が効く強力な麻酔薬を背中の脊髄に沿って太い注射器で刺された。 ぼくは激痛で悲鳴をあげたけど、麻酔薬はほとんど効果をあらわさなかった。 外見はほとんど一緒だったけど、遺伝子情報とかいろいろかなり違っていて、どんなに研究しても特別製の麻酔薬だけは見つからなかったのだろう。

ぼくは研究員によって切り刻まれた。大きな箇所には大きなメスで切り刻んだ。 お腹の内臓には中ぐらいメスで切り刻んだ。手や足の筋肉には普通のメスで切り刻んだ。 手や足の指は繊細な場所だから小さなメスで切り刻んだ。この身体全体いろいろな種類、数えきれないほどたくさんのメスで切り刻まれた。

ぼくが大声でやめてと叫んでも研究員は決して手を弛めることはなかった。 それところか激痛で暴れないようにするために全身を分厚い皮で縛りつけられた。その痛みを今思い出しただけでもぞっとする。 いくら丈夫な身体になっても、このぼくがたくさんの研究員に囲まれてメスで切り刻まれて続けて、 長い間激痛に耐え続ける苦しみを理解するのは全身改造をされたものしかわからない。 今のぼくだったら断固拒否する。生きながら地獄の苦しみを長期間続けられるのは二度とごめんだ。

全身改造の後メスで切り刻まれた箇所は縫合され、特殊なフィルムに包まれて、 そのうち傷口が時間がたつごとに消えて、普通なら全身改造の痕跡はまったく残らないはずだった。 だけどぼくだけは違っていた。長い間たってもいつまでも傷は残り、 そのうち消えるだろうと思った研究員はそのまま元の小学校に行くようにぼくに命令した。

ぼくが小学校に行くと以前倒れた原因となった苛めた同級生はどこかに飛ばされていなくなっていた。

他の同級生たちは戻ってきたぼくを遠くから離れて異様な目で見ていた。一人がある単語を言った。 それは非常に的確な表現でぼくの精神を傷つけた。それを合図にしてみんな口ぐちに同じ言葉を言った。 それ以来殴られることはなかったが、小学校の教師の前では一応ぼくは本名で呼ばれたが、影では精神を傷つけるある単語で呼ばれるようになった。

全身改造の結果肉体は少しだけ強くなったが、精神はずたずたになり、そのうち研究員にいろいろな理由をつけて小学校を休むようになり、 そのうち学校に行けなくなった。そして個人的に特別製の部屋で研究員から勉強を教えてもらうようになった。

それ以来、身体だけじゃなく精神的にも軟弱になったぼくを研究員は非常に神経を使って扱うようになった。 だから今この星に住んでいる連中はぼくを殴りたくても殴れないし、怒りたくても怒れないのだ。

それに、ぼくがもし物理的に強い力で何かされたら、それきり逝ってしまうことさえありうるし、 ぼくを殴ったら過去同級生がやられたように飛ばされ、研究員の資格をはく奪された上に、 罰として非常に地位の低い他の職種を見つけないといけないのはわかっているからそんな愚かな行為はしない。

だからぼくは悪いことをしても殴られない。怒られない。これって喜んでいいことなのか、それとも哀しいことなのか、 ぼくに本当のことを教えてくれる人がいなくなっていたからよくわからない。


ぼくは博物館の入り口に立ってズボンのポケットに手を入れて、例の物があることを確かめてから入って行った。

何からの理由でここの博物館の管理人に飛ばされた元研究員のおじいさんが、今日も博物館に誰も来なかったらしく、 青い太陽の光を遮断するために作られた特別製の分厚いカーテンをぼんやり眺めていた。

ぼくがいるのを見つけたら急いで立ち上がり、 無理やり作った笑顔でそれこそ怖いぐらいの笑顔を作って優しく手を振ってこっちにくるように言ったけどぼくは行かなかった。 もし行ったらほこりまみれの棚からぼくのためのお菓子を必ずくれて、それを食べたら急に眠たくなって、 起きたら特別製の部屋のベッドで寝ていたから行かない。

おじいさんはぼくが従わないので狼狽して小さな事務所の机に座って電話をかけ始めた。 電話の相手はたぶんおじいさんの直属の上司だと思う。おじいさんはぼくをどうしたら傷つけることなく捕獲できるか指示を受けているみたいだった。

ぼくは無視して捕まらないようにできるだけ遠くに逃げることにした。

ぼくみたいな者でもいつも優しく扱ってくれていたおじいさんを困らせて悪いことをしたけど、 今日だけはお菓子を食べたくなかった。ぼくは本当は疲れていたし体力もほとんど残っていなかったしお菓子を食べて楽になりたかった。

それにお菓子を食べて拒絶反応を起こし、大好きなぼくの博物館が吐いたもので汚れるとものすごく哀しい。

過去の遺物の博物館を興味本位で一日一人か二人来るぐらいのとても寂れた博物館のおじいさんは ぼくの身体のことよく知らなかったのだろうと思う。今のぼくはかなり弱ってて口から直接お菓子を食べれるような状態じゃなく、 胃に直接チューブを差し込み辛うじて栄養をとって生きながらえていた。

おじいさんに捕まらなかったぼくは、身体に負担にならないようにゆっくり注意深く博物館の上階に登って行った。 ぼくが博物館の上階に登って行くのを見ると、おじいさんはますます狼狽して妙に丁寧な口調で電話で話しているのが下階から微かに聞こえてきた。 今度の相手は今までの研究員より更に上位の研究員だろうと思う。

たぶんおじいさんは、研究員と電話で殺すことなく生きたまま捕獲しようと真面目に話しているのだと思う。 まもなくこんな煩わしいことと関係ない存在になるはずだから、彼らの電話をやりとりがあまりにも愚かでぼくは少し笑った。

今、博物館はぼくの世界。兄さんや姉さんをはじめ、ぼくのとうさんのとうさんのとうさんや、 ぼくのかあさんのかあさんたちが化石になり、使われていた物が遺品となりただ一つを除いてすべて化石となって残っている。 この星の太陽を改造した結果昔のものが化石になったものを保存するために、 ここの空気や重力を特別に調節しているらしい。 ぼくのための特別製の部屋は別にして、二番目に過ごしやすい自由になれる場所だったから好きだった。

でも、反対に今この星に生活する人たちは博物館の中では特殊な服を着なければならない。なんて皮肉なことだろう。

上階に登るほど博物館の状態にあわせ濃度が調整され身体が少し楽になってきた。 下階から登ってぼくを捕まえようとしているおじいさんの身体にはそれが苦しいらしくのろのろ追ってきていた。 おじいさんには悪いけど目的をやり遂げるまでは絶対に捕まらない。

博物館の中ではぼくは王様で、最後の王様だった。家来は一つを除いてみんな化石になっている。 王様のぼくのために隠れる場所を差し出してくれる優しい化石の家来で、博物館はぼくだけの世界だ。


ぼくは以前研究員の不注意で置き忘れたかなり古そうな「文明の夜明け」という題名に惹かれて誰もこなかったので研究室の映像機に入れて見た。

映像はノイズだらけで見づらいものだったけど黄色い太陽の中心に巨大な花火が打ち込まれて しばらくして青い太陽に変わる瞬間はとても綺麗なものだったけど、 それが今までのぼくたちの星の生態系や文明を全部化石にした原因だとわかったとたん急に哀しくなり、 涙が止まらなくなり研究室から急いで出た。そして特別製の部屋に入り、ベッドのシーツを全身にかぶり一週間ずっと泣いていた。 その間一切食事も取らなかった代わりに研究員から強制的に点滴され続けたのを今もなお鮮明に記憶に残っている。

青い太陽に変わった後、思いもよらないことが起こった。 以前の黄色い太陽にいたものたちが少しずつだが着実に化石となりはじめたのだった。 研究員は慌てた。次第に化石になっていくのをどうにか止めようと頑張っていろいろ試してみた結果、 唯一有効だと思われる方法が見つかった。それが肉体改造だった。黄色い太陽にいたものたちはみんな激痛に耐え肉体改造を行われた。 だが無駄だった。ぼく以外の生き物はみんな化石となった。

ぼくが肉体改造の後、まだ元気だった頃、青い太陽なら駄目だけど、 夜ならまだ大丈夫だろうって判断でそんなに暑くない夏の夜にぼくが精神的に弱っていたので気晴らしに何度も花火を見せに連れて行ってくれて、 その花火がとっても綺麗で、それまで大好きでいつも大喜びしていたけど、 「文明の夜明け」を見てから花火を見るのが嫌になって大暴れしたものだから、 研究員が困ってぼくにお菓子をくれた。その記憶まではあるのだけど、 気がついたら特別製の部屋のベッドで寝ていた。たぶんあれは博物館のおじいさんがくれたお菓子と同じものだったのだろう。 それからぼくは二度と夏の夜に花火を見た覚えがない。


ぼくは博物館の古い階段を駆け登って行った。博物館の展示品は下のものほど古いもので、上に行くほど新しいものになっている。 物言わぬ化石がみんな教えてくれた。

ぼくは下の方の化石も好きなんだけど、本当は最上階のまだ化石になっていないもののためだけに登っている。

ぼくが登っていくたびに古い階段の右側の手すりががたがた揺れて、もう片方の左側の手すりがゆらゆら揺らいで、 ふるい落とされそうになるたびに、ぼくは足を引きしめて頑張って登って行った。

博物館の階段を登る途中痛みと共に汗が出た。それが床に落ちるとそれがさらさらの砂に変わっていた。

これは驚くべき展開だった。もともと長くないとは思っていたけど、ぼくがこんなにも早く化石になるとは思わなかった。 たぶんここまで来るまでにかなり身体に負担をかけて無理をしたせいなのだろう。

階段は上階に行くほど急になり、細くなって行った。誰かが閉め忘れたらしい窓が小さく開いていた。 そこからこの星の青い太陽を見た。ぎらぎらとして悪意に満ちた色をしている。

青い太陽に向かってざらざらした口から唾を吐いた。唾はすでに砂に変わっていた。

研究員から昔メスを入れられたところからも小さな石が出てきた。 傷口が開き、またあの激痛が走った。いくらなんでも化石になるのが早すぎる。 もともとぼくが持っている特異体質のせいだろうか。身体が異様に重く、激痛がいつまでも続いていた。 化石にほとんどなりかけている。無事たどりつけるだろうか。一抹の不安がぼくの心によぎった。

それでも歯を食いしばり血を流し登って行った。口から出た血も当然砂だった。

よくやく最上階についた。身体は軽いはずだったが、全身全体に激痛が走りそれどころではなかった。 そこには用心のためにロックがかかっていた。ぼくは迷うことなく入力しドアを開けた。

ぼくは中に入って、唯一化石になっていないものを初めて触ってみた。冷たく固い。 それを前にしてぼくはポケットの中に手を入れた。そこからはほんのり温かみを感じた。

ポケットに入っていたものは一通の手紙だった。


とうさんはとうの昔に化石になっていて唯一遺伝子情報だけが残されていた。 青い太陽のこの世界で使えるのはとうさんのものだけだった。まだ少女だったかあさんは一年ごとにぼくの兄さんと姉さんを生まされた。

ぼくのように幼い頃兄さんと姉さんもここの博物館で遊び、 まだロックのかかっていなかった最上階にあるこの冷たく固いものを偶然発見した。 そしてそれが化石になっていないことがわかって興味を持った。

かあさんは兄さんと姉さんを生まされた後何年たっても三人目の子供はできなかった。 研究員はぼくのとうさんとかあさんの遺伝子情報をかなり特殊な方法で細工した結果、ぼくが生まれた。 ぼくが生まれてすぐかあさんは化石になった。黄色い太陽の世代で生きて化石になっていないのは、 とうさんの遺伝子情報とかあさんとの間に生まれた三人の子供だけだった。 三人の子供は特別製の同じ部屋に入れられた。同じ部屋なら膨大にかかる予算も少しは倹約できると研究員も考えたらしい。 太陽をあんなにしておいた結果がこれだ。青い太陽に下に生活する研究員のしみったれた考えだ。だがそれが幸いした。

兄さんと姉さんは生まれたばかりの赤ん坊のぼくが入ってきて最初困惑したが、それでも親が育ててくれるように愛情を込めてくれたらしい。 手紙にはそう書かれている。

兄さんと姉さんはその後も冷たく固いものに興味を持ち続け解析を続けた。 その結果、青い世界の前の黄色い太陽の時代に作られた花火の起動装置だとわかった。 解析中に研究員に兄さんと姉さんは何回か遺伝子情報をとり出されいつものようにお互いのものを細工され、 結合させられたが姉さんは一度も受胎できなかった。 ぼくのときのようにかなり特殊な方法で細工して受胎させようという案も出たようだが、 それは危険すぎるので却下されたらしい。 おそらく何百世代も続く近親相姦を続けるあまり遺伝子情報が濃すぎて機能するのがもう限界点を超えていたのだろう。 それでもほとんど見たこともない青い太陽の下でごく普通に生活する連中を全員相手にして、 兄さんと姉さんはたった二人だけで必死で戦い、寝る間も惜しんでようやく花火の起動方法を発見した。 だがその時はもう遅かった。そのころ二人とも無理がたたって徐々に化石になっていき特別製の部屋から出られなくなっていた。 二人は完全に化石になる前に相談して、 やがて成長したぼくが見つけることに希望を託して特別製の部屋の監視カメラの死角になる壁と壁の隙間に この手紙を見つからないように巧妙に隠した。

やがてぼくは特別製の部屋の微妙な空気の流れの変化から手紙を見つけた。だがそれも遅すぎた。ぼくが研究員からもう長くないと言われた頃だった。

ぼくは、例の「文明の夜明け」の事件以降、ぼくが何かある度に特別製の部屋のベッドの全身を おおいシーツで隠れるのはいつものことだったので、研究員はシーツに隠れて何百回も手紙を読んでいても ごく普通のことと思っていたらしくまったく気づかれなかった。 ぼくは手紙の内容を完全に全文覚えた。そして研究員に隙が出るのをたえず注意してようやく抜け出した。 ここ最上階の部屋の化石になっていない花火までたどり着いた。黄色い太陽の下のぼくたちの文明の言葉で最終兵器と呼ばれていたものらしい。

ぼくは自分の全身を見た。肉体改造でメスを入れられた傷口は今なお残っている。 苦い思い出が蘇り、自嘲気味に笑った。普通なら十代半ばでみんな化石になるのにぼくは二十歳までなんとか生き延びた。 だがその代償は大きかった。昔同級生たちから言われ続けたとおりぼくは「化け物」だ。 たぶん研究員がとうさんとかあさんの遺伝子情報にかなり特殊な細工した結果、 何らかの変異が起こり、少し長く生きられたが傷口は残りこのような化け物の姿になったのだろう。 その代わり化け物になったぼくは研究員から個人的に英才教育を受け、普通では習えないレベルを超えた学習を施され超天才となった。


ぼくは慎重に最終兵器の入力を始めた。

最終兵器の入力中、大勢の人が階段から登って来る気配を感じた。 たぶんぼくが急に抜け出しこの博物館に来たこととこの最終兵器との関連に気づいてやってきたのだろう。 それに全身が鉄の火鉢をあてたようにたえず激痛が走り、流れ出す汗や傷口から小さな砂から大きな石までさまざまな種類のものが出てきている。

こちらは圧倒的に不利だ。勝てるだろうか。 

ああ、ぼくを愛情込めて育ててくれた兄さん、姉さん、もし化石になっても想いが残っているなら天上から守ってください。ぼくは入力しながら祈った。

そしてこの星を木端微塵にする最終兵器の最後の入力とこの星の太陽を青く変えた侵略者たちが最上階に登り、 銃でぼくを打ち砕くのとほとんど同時だった。

だかぼくの方がほんの一瞬早かった。ぼくたちは賭けに勝った。

復讐は終わり、ぼくは幸せに満ちた完全な化石になった。