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時代遅れのラブソング

イシュタル機械/『サガ』

高本淳

 3 イシュタル機械

 そのデザインの原型であるタバコモザイク・ウイルスがそうであるように『機械』は十六等分したクリームチーズ・ケーキの一片によく似た構成単位が規則正しく並んだ螺旋構造を持っていた。正確に言えばその構成単位は十六分の一よりは少し大きく、したがってそれらは中心軸のまわりに互いに巻きつき方の異なる二種類の螺旋を作ることになる。……巻きつきかたの浅い螺旋をたどるか、それとも深いほうをたどるか……、ウィリアムの場合それは生と死の違いを意味していた。
 頭で想像するうちはそうした構成単位間の溝をたどるのはたやすいことのように感じられる。しかし、ひとたび『機械』の身体の襞の奥深くもぐり込み、その非人間的な巨大さの本当の意味を理解した者は、このレバイアサンの体内で道を失い途方にくれている自分を見出すだろう。……ほとんど重力のない闇のなかでヘルメットの照明の照らし出すわずかな手がかりをもとに位置や方向の感覚を保つことはどんな人間にも不可能だった。
 ウィリアムは『機械』の表面から下り始めてじきにそれを痛感した。幅三メートルほどの『クレバス』にも似た構成単位の隙間に浮かぶ彼の身体の、前にも後にもあるいは頭上にも、同じように単調な灰白色の壁が光の届く範囲の外へどこまでもひろがっているだけだった。足の下に目をやればわずかに星々が、そして主星の光に照らされて眩しく輝く外壁の一部が見えるものの、それもやがてオーバーハングする曲面に隠れて、周囲のすべては完全な暗闇に沈んでいった。
「しゅーっ、はぁ」
 自分の呼吸音を聞きながら彼はひたすら進んだ。炭素結晶素材にはマグネットもきかず、その表面には人間のための手掛かりになるものは何もない。いましがみついている断熱パイプをうっかり手ばなして空中に漂いだしたなら、その場に浮かんだままどうにも身動きがとれなくなるに違いない。……液体ヘリウムを星系内クルーザーの貯蔵タンクに送っている直径十数センチのこのパイプラインだけが今やただひとつの命綱だった。……『ラブソング』を改装した造船工場の技師がひいた設計図面をウィリアムはもうすっかり忘れてしまったけれど、このパイプラインが――あまり遠回りをせずに――自分を『サガ』へと導いてくれることを彼は心から祈っていた。
 時おり手を休め――分厚い手袋をした手では細いパイプの継ぎ目を手掛かりにすることはできず、彼は両掌でその円管を挟んでは反動をつけて全身を前に投げ出すという非能率な方法で前進するほかなかった。そうした不自然な運動に両肩の筋肉はたちまち音を上げ、冷却液循環システムにもかかわらず宇宙服の下はぐっしょりと汗をかいていた――ウィリアムはあえぎながら酸素残量と経過した時間とを調べた。壁を下り始めてすでに五分近くを費やしていた。……酸素消費量も予定より多い。
 そうしたつかの間の休憩と果てしない苦役とを幾度か繰り返したすえ、ついに彼はパイプラインがそこから直角に曲がる地点に到着した。無益と知りながらウィリアムは前方に続く何キロもの闇を透かし見ようとした。
 ……しゅーっ、はぁ。しゅーっ……
 灰色の壁に挟まれた底無しの峡谷が静寂と暗黒のなかをわずかなカーブを描いてどこまでも続いている。……彼は少し寒気を感じて宇宙服の温度を上げた。生命維持装置の燃料電池はたとえ彼が死んでも数十時間は体温を保つだろう。ヘルメットのランプももう何も見ることもない彼のためにいつまでも闇を照らし続けるはずだ。少なくとも暗闇で死ぬことだけはなさそうだ。
 とはいえこの時点ではウィリアムは酸素の切れる時間内に『サガ』に戻れることを楽観していた。何と言っても彼の行程は『下り』なのだ。……『機械』の質量によって生じる重力加速度はこのあたりではわずか毎秒毎秒十分の一ミリにすぎないが、それでもそれは一分間に数十センチ、一時間では数キロの落下を意味する。最後の三百メートルの垂直の登攀をのぞけばかなり早いペースで進めるはずだと彼は計算していた。
 しかし実際に進みだすとすぐに問題が起こった。構成単位の間のクレバスをパイプが渡る場所――それはだいたい彼が三十メートル進むごとに出会うことになるわけだが――途中に必ず直径一メートル、厚さ三十センチほどのリングがはまっているのだ。……まるでそれはパイプを敷設した技師たちがウィリアムの生命をかけたレースをより興味ぶかく面白いものにするため取りつけた障害物のようだった。彼は身体ごとそれを乗り越えなければならなかったが、身体が漂い離れないようその都度両腕でリングをしっかりと挟んでいる必要があった。もしもその過程でちょっとでもバランスを崩して手をすべらせたなら今度はパイプ自体に手がとどかなくなり、ウィリアムはこのレースを――そして彼自身の生命を――失ってしまうことだろう。
 ……どうやら通信用ケーブルをたどったほうが賢明だったのかも知れない。腕の筋肉は熱をもったようにだるくなり、前を見続けようとする努力で首筋はしこりのように堅くなった。さらにヘルメットのなかを浮遊する大きな汗の玉で目をくらまされ、……彼ははるかな昔からずっとこの苦行を続けているような気がしてきた。暗闇のなかでの激しく、しかし単調な運動の繰り返しのために頭が半分麻痺してきて、都合の良いことに彼は迫りくる窒息という運命への恐怖をしばしの間忘れることができた。
 ……視野のなかで何かが動いた。彼はとっさにはその意味するものを把握できず、そのまま数メートル前進してから急に我にかえり、その場でパイプにしがみついたまま息をひそめた。ちょうど『ねずみ返し』のリングの手前、交差するふたつの峡谷の中間地点に身を守るものひとつなくウィリアムは無防備に浮かんでいた。ふたたびライトの光のなかに数本の巨大な脚がゆっくりと現われて消えた。それは気味が悪いほど生あるものの動きに似ていた。しかしこの金属製の節足動物たちはその住まう世界とおなじく電子回路を持った無機的な存在なのだ。
「……なんで、こんなところに?」 
 ウィリアムは荒い呼吸とともにつぶやいた。それは『機械』の補修作業のための可動ユニットであり、本来ならここから数百メートル『下』、――主軸を取りまく基盤上に生息しているべきものだった。
「しかもこんな時に……」
 たしかに運の悪さを嘆いてもよかった。……長い旅を通じて彼、ウィリアムがこれらのユニットと直接出会うのはこれが初めてだったのだ。通常それらは人間の踏み込むことのない『機械』の身体の奥深くにいて、今となっては誰ひとり理解できない複雑なシステムの不可解な自己修復機能に関係しているのだ。
「わたしたちは自分たちが『機械』を支配していると錯覚しているけれど……」
 脳裏にいつか耳にしたカシルの言葉がよみがえった。
「本当はごく表面的な部分をコントロールしているだけなの。考えてみて……。それはティプラーとフォンノイマンが予言したあの『万能機械』、自己増殖するテラフォーミングマシンなのよ。その基本原理を産み出し、それらを設計し、そして実際に建造した地球時代の技術はすでに失われてしまった。それらの本当の能力をわたしたちはまるで知らないわ。……わたしたちはただこうした太古の『機械』たちの機能停止したシステムのほんの一部を生き返らせ、わたしたちに都合がいいように利用しているだけ……。数万年の時を生きてきたこの人工知能はそんなわたしたちの存在を本当はどう思っているのかしらね。ときどき思うことがあるの。このシステムの無数の論理素子の奥深い迷宮のなかでいったいどんな衝動や思考が密かに進行しているのかなって……。……それを考えると恐ろしくなって夜眠れなくなることもあるわ」
 そしていまウィリアムはそんな話を聞いたことを後悔していた。この古代の静寂に包まれた闇のなかで彼はその遥かな歴史を持つ種族のひとりと向きあっているのだ。そのうえ彼の立場はちょうどキラーT細胞にとっての抗原バクテリアにほかならなかった。『イシュタルの機械』の身体にとって、彼―ウィリアムは機能を阻害する異物でしかなく、当然『免疫システム』はこの異物を排除にかかる。……彼らの『サガ』号とそのバックアップのための装置類は前もってシステムの一部を書き換えることで仮の免疫性を獲得している。しかしそれらを遠く離れ、単独でこんな場所にいる宇宙服の人間を、このユニットがどう判断するか予想することはできなかった。『機械』の正規の部分として、あるいは別の可動ユニットと見なして無視してくれるかも知れない。しかし逆にシステムに危険を及ぼす要素と判断されて排除されるかも知れないのだ。そうなったら行き先は『機械』の物質循環サイクルの行き着く先――分解炉に決まっている。
 ……両手が痺れてきてパイプを持ち直そうとしたその拍子にヘルメットの光が動いてその触覚の先のセンサーをかすめた。彼はそれを知って凍りついたがすでに遅かった。可動ユニットは球形の身体から放射状にはえた無数の脚を動かしてウィリアムのほうに近づいてきた。 暗闇のなかで巨大な異形の怪物が襲いかかってくる……。まさに悪夢だ。圧倒的な恐怖がウィリアムを金縛りにした。見開かれた目の前でさしわたし半メートルはありそうなマニピュレータのグロテスクな挾がヘルメットをわし掴みにするように大きく開くのが見えた。 ……しかしそれは彼の頭の数センチ手前で止まり、強力なその手首が当惑したようにに左右に振られ、そして引っ込められた。
 『節足動物』はまるで心を決めかねて迷っている様子でしばらく身動きしないでいたが、やがてその脚をリズミカルに蠢かし始め、炭素結晶材の壁面をわたる巨大な蜘蛛さながらに闇のなかにその姿を消した。 残された小さな宇宙服姿はしばらく硬直したまま呼吸すら止めていた。やがて身震いをひとつし、酸素ゲージに目をやると、思い出したようにまた尺取り虫のような前進を開始した。
 永遠の時間が流れ、酸素ボンベなどとっくに空になったと思う頃、ウィリアムのたどるパイプは再び直角に折れ曲がった。『上』へと延びるパイプラインを見上げもう彼は酸素ゲージを見ようともしなかった。……それが残量ゼロのすれすれ近くを示していることはもう間違いない。そしてこの『機械』の表面へと延びるパイプの先にもし星系内クルーザーがなければ――そこにはただ圧力を高めるための中継ポンプステーションがあるだけかも…………。
「……いやいや」彼は明白な事実に思いあたり頭を振った。超流動のヘリウムにポンプは必要ない。そんな初歩的なことも忘れているなんて……もう酸素不足が脳に影響を与えはじめているのかも知れない。
 いずれにせよ――これらのパイプがどこをどう通っているか、ウィリアムはいままで気にもとめていなかった――すぐ上にクルーザーがなければ彼は死ぬのだ。『機械』の回転にもかかわらず三百メートルの絶壁は毎秒毎秒数ミリの加速度でそこを登る者を引きずりおろそうとしていた。いままでにもまして必死の努力で彼はパイプラインを手繰りよせ、また手繰りよせた。棒のようになった両腕やヘルメットを満たす汗の液滴ももはや気にならず、ウイリアムは最後の力をふりしぼってひたすら壁面を昇り続けた。

 彼はいつ壁を登り切ったか覚えていなかったし、再び眩しい陽光のもとに出て目の前に『サガ』号を見たときいったい何を思ったかそれも覚えていなかった。ただ生命維持装置の酸素はすでにつき、残りはヘルメットの中の数リットルだけで、しかもそれも急速に汚染されつつあることはわかっていた。ウィリアムは大きくあえぎ、繰り返し繰り返し肺に戻って来る炭酸ガスのためにほとんど失心しそうになりながらも、ただエアロックへの道をよろめき歩いていた。すでに架台から磁気ブーツのかかとを引き剥がすだけの力も残っていなかった。そして彼の目の前に黄やだいだいや紫の斑紋が見えはじめ、やがてすべてが暗闇に沈んで……。

 ……緊急装置のすさまじい轟音と旋風のなかで彼は気づいた。新鮮な酸素を含んだ空気が爆発的に顔面に吹きつけ、彼はあらためてもう一度窒息しそうになって大きくあえいだ。青ざめ恐ろしく緊迫した表情のカシルの顔がそばにあった。その黒髪がエア・ダクトからの強風になびくのを彼はぼんやり見つめた。
「……痛い」彼はそう言い、頬を激しく叩くカシルの腕をつかんだ。
「……なんで殴るんだ?」彼は呟き、それからようやく彼女が夫の脳が無酸素状態でそこなわれなかったかを心配していることを理解した。「……おーけー。カシル、大丈夫だ。前と変わらずに間抜けだよ」
 カシルは唇を噛み締め、顔をくしゃくしゃに歪めて、ほっとしたように身体の力をぬいた。ウィリアムは身を起こし内側のハッチを押し開け、懐かしい船内へと漂い出た。
「もうだめかと思ったわ」
 カシルの蒼白な顔にはっきりとそばかすが浮かんでいるのに彼は気づいた。
「パイプラインの端であなたの腕をつかんだとき全然反応がなかったから……」
「きみがぼくの腕をつかんだって?」
 ウィリアムはぼんやりと繰り返した。彼の記憶ではクルーザーの周囲に人影はなかったし、彼は自分だけの力でエアロックにたどり着いたはずなのだ。……しかし考えてみればカシルがエアロックの外側の扉を開けて……おそらくは宇宙服を着たうえでその外側で……、クロノメーターを見つめながら彼を待っていただろうことは間違いない。縦溝を昇りきる彼の姿を見た瞬間、彼女はニュートリノなみのスピードですっ飛んできたことだろう。あの最後の光景はすでに十分な酸素を補給されなかった彼の脳の見た幻だったに違いなかった。

 ふたりは互いの腰に腕をまわし頬をよせあって空中に浮かんでいた。
「あなたはたまたまビーコンの近くにいたのよ。パイプラインに作業ユニットを近寄らせないためのね」
「ビーコンってあのリングかい? 直径一メートルぐらいの」
「そう」
「ぼくはただの障害物だと思っていた。誰かをパイプラインで遊ばせないための……。それじゃ、あれのおかげで分解炉行きをまぬがれたってわけか?」
「運がよかったわね……。そればかりじゃないわ。あなた宇宙服の温度を上げてたでしょ。知っててやったの?」
「どういう意味だい?」
「ああした緊急の場合、ひとつの方法は生命維持装置を手動解除して酸素の供給量をしぼることだわ。でもそれは十分経験をつんでいないと逆に危険なの。……つまり低圧力状態で激しい運動を長く続けていると急に意識を失ってしまう可能性があるから。一種の高山病ね。それに代わるもうひとつの方法は温度を上げることなのよ」
「へえ……」
「温度が上がれば服の圧力も上がるわ。すると調整弁が自動的に作動して酸素供給量が押えられる……」
「気づかなかった」
「間抜けね……。もちろんごくわずかな量だけれど、引き伸ばすぐらいの効果はあったはずよ。……最後の一分をね」
「寒がりが幸いしたってわけか」
 ウィリアムは妻の背中の腕に力を込め、その髪の匂いをもっとよくかごうとした。しかし彼女は上体をそらし、彼の腕からすりぬけるそぶりをした。
「……?」彼は一転して堅い表情で妻が自分を見ていることに気づいた。
「どうしたの?」
 カシルの腰がウィリアムの下半身を軽くさすりながら半転した……。そして彼女は足をからめた配管を支点に夫を一本背負いでものの見事に投げ飛ばした。
「うわ……!」
「……確かに腕力はあなたが上。でもわたしには『ジュードー』の心得があるのを忘れないで……。そのうえでこれからも危険に飛びこんでいくのがどちらか決めるときに自分勝手が出来るかどうか、どうぞ試してみたらいいんだわ」
「……一体何が言いたいんだ?」
 ウィリアムは緩衝材にいやというほど頭をぶつけて目を白黒させながら尋ねた。カシルは一瞬、胸に息をすいこんだが、やがてゆっくりそれを吐き出した。
「……何が言いたかったか忘れてしまったわ」
 カシルは彼に背を向けた。その肩がかすかに震えていることに気づいてウィリアムは言おうとした言葉を飲みこんだ。
「……通話回線でヒステリックに泣き叫ぶだけの馬鹿なヒロインの役目を押しつけられたのが我慢ならなかったのかも知れないね。……とにかく、最後の一分。あのエアロックの外であなたの姿を見るまでの時間……。あんな経験はもう二度とするつもりはないわ。断じて……!」
 カシルの髪が逆立っているのをウィリアムはあっけにとられて眺めていた。それは必ずしも無重力のためだけではなく、彼はびっくりすると同時にいささか恐れをなした。

 4 『サガ』

「まるで真珠みたいだわ。……百万キロ離れて見た金星はきっとこんなふうよね」
 スイング・バイから二年の後、遷移軌道を自由落下する『サガ』号の展望窓からカシルは惑星を眺めていた。主星は並んで浮かんでいるかれらのほぼ足の下の方向にあり、見上げる天頂近く、『サガ』号に毎秒四分の一πラジアンの回転が与えられているためにその純白の星は漆黒の深みを背景に眩しく輝きながらかすかな円弧を描いていた。
「見たことあるの?」
「金星を? それとも真珠のほう……?」
 話題が思わしくない方向に行きそうな予感がしてウィリアムは首をすくめ、妻の注意をわきにそらすべくモニター画面を指さした。
「探査ロボットの画が届いたから見てごらん」
 カシルは展望窓からモニターへと眼をうつした。拡大された映像はあきらかに滑らかで完全な球体の幻想を裏切っていた。画面の左上半分は不規則に褶曲した複雑な地形で、斜めからの光がくっきりとした陰影をつくっている。対照的に右下半分には明るい単調な白い平原がひろがっていた。
「すごく反射率が高いわね。氷かしら……?」
「……わずかだけれど氷もあるようだ。……両極の汚れた灰白色のところがそうさ。でもあの真っ白な部分は……」
 モニター画像に顔を近づけて細部を調べていたカシルは小さな驚きの声をあげた。
「……まさか?」 ウィリアムはうなづく。
「いまカメラは赤道の少し上にある小さな丘陵の北西端をうつしだしているんだ。暗い部分のほうの地形はあきらかに侵食されている」
 タッチパネルをなぞる指の軌跡がモニターのなかを動いた。
「ここから白い平原まで浅い渓谷が続いているね。……きっと昔は川だったんだと思う。その河口の付近、……ここだ。暗い領域の縁にそって幾本か明暗の筋が見えるだろ?あれは海岸線から海が次第に後退していった跡に違いない。つまり丘陵はかつての島であり、白い平原は干上がった大洋底に蓄積した岩塩の層なんだ」
「……ってことは、昔この星には豊富な水があったってこと?」
「ああ……。しかもそんなに昔のことじゃない。……クレーターがほとんど見えないことから考えて、ごく最近まで大量の海水と、そして大気があったことは確かだ。……恐らくここ千年以内に何かがおこったんだろうね」
「いったい何がおこったっていうの……?」
 ウィリアムの沈黙はそれを知らないと言っていた。しばらく二人は黙ったままモニター画面を流れていく荒れ果てた地表を眺めていた。平坦な海が深い海溝部分を挟んで、大陸棚に、さらに内陸山脈へとかわって行く。曝首を思わせるモノトーンの地形は絶対三度の真空と宇宙線の直撃にさらされ、苛酷な主星の炎にじりじりと焼かれていた。
「火山活動は見られない。全般に地形はなだらかだし……。すでにマントル対流のエネルギーを使いつくしてしまったのかも知れない。こいつは古い惑星なんだよ」
 来るのが少し遅すぎたようだった。恐らくは数千年ほど……。もしも今でもこの惑星が新鮮な大気と豊かな水を持つ星であったなら……。互いの思いは口にださなくともはっきりとわかった。彼らの、そして人類の長い探求の旅はここで終わっていたのかも知れなかったのだ。
「……変ね」暗然とした顔つきで地表を眺めていたカシルは、やがてふいに言った。「あそこを見て」
 彼女はモニターの画面、ひとつの『川』が幾つもの支流に枝別れして『海』にそそぎこんでいる場所を指さした。
「あの赤道上の河口の周囲にうっすらと塩の堆積が見えるでしょ。ほら河岸であるはずの土地の上にまで」
「うん、見える。……昔は潮侵をうける土地だったんだろうね。アマゾン川の河口部分みたいに」
「そう! わたしもそう感じたの。アマゾン河口によく似てるって……」
 彼らのうちのどちらもその惑星の地形の細部にいたるまで目に見るように思い出すことができた。……政府庁舎の前庭に置かれた巨大な地球のホログラムのまえで長い瞑想とともに佇んだ経験のないクレイドル市民などはいない。台座に書かれたあのツィオルコフスキーの言葉とともに、その青い星の映像は彼らの脳裏に刻まれていた。
「それがどうかしたの?」
「何言ってるの。……この星には月はないのよ」
「げ……」ウィリアムはうめいた。
「潮侵が起きるはずないでしょう?」
「うーん。……季節的な水位の変化は?」
「赤道と黄道面は一致しているわ。軌道もほぼ正円だし……」
「……それじゃあ地殻変動で浅い湾が持ち上がったんじゃないかな。そのあとで川の流れが土地を侵食した……」
「ほんとうにそう思うの? あなたこの星はマントル・エネルギーを使いつくした惑星だって言ったばかりじゃない」
 ウィリアムは答えようとして口を開き、そして閉じた。しばらくして彼は言った。
「……何か説明がつくさ。きっと……」

 操縦区画の明りは消され、地球から見た満月の四倍ほどの大きさで輝く白い惑星の光がつややかなコンソールパネルに反射していた。操縦区画のただ中にネットを張って、カシルとウィリアムは青ざめたその光に照らし出され、生まれたままの姿で浮かんでいた。微弱な遠心力が二人の身体を荒いネットの網の目に軽く押しつけ、絡み合わせた互いの腕をゆるやかに解きほぐそうとする。緊張のあとの心地よい弛緩のなか、乳房の横に頬を置いて胸郭の奥深くの鼓動をうっとりと聞いていたウィリアムは、妻の身体の動きを感じて夢うつつの状態から現実にひき戻された。
「どうしたの……」彼の問いを無視して、カシルは半身を起こしたまま頭上を見つめていた。
「確かに見えたわ」しばらくして彼女はつぶやくように言った。
「……なにが?」もう一度忘我の淵へ戻ろうとする努力をあきらめてウィリアムは尋ねた。こうなってはどうせしばらくは眠れそうもない。妻の背中に腕をまわしそのすべすべした感触を楽しみながら彼は共に星を見上げた。
「何をみたんだい?」
「光を……」
「光……って?」
 カシルは腕を指し上げ、なめらかな白い肌とブレスレットが冷たい星明かりにきらめいた。
「あそこに深い谷間があるでしょ。……あの暗い部分、たぶん大陸だったんでしょうけど……。あの縁にそったところで何かが光ったように思うの」
 ウィリアムはちょっとの間その地点を探していた。
「海溝だな。確かかい? 眠っていたんじゃないの?」
 カシルは彼の腕をほどいた。「いいえ……、確かに見たわ。白い、……鋭い光だった」
「反射じゃないかな。何か露出した金属の層があるのかも知れない。海溝部分ならありそうなことだ」
 カシルは首をふった。「いいえ、違うわ」
「なぜわかる?」彼女はウィリアムを振り向いた。影になって表情は見えないが、彼はその瞳が闇のなかで幾度か濡れたように光るのを認めて妻の気持ちのたかぶりを知った。
「どんな金属もあんなに強く光を反射することはないわ。あれは、きっと……」
「あれは、きっと?」
 カシルは声をひそめた。「何かの信号よ」
 ウィリアムはあらためて起き直った。どうやら簡単にかたづく問題ではないらしい。
「……それが人工のものだったって思うの?」
「たぶん」
「信号って……、そいつは規則的に点滅していた?」
「いいえ、一瞬光っただけ。……数秒のあいだかしら」
「色は白?」
「そう言ったでしょ」
「いいかい?」彼はカシルの腕を掴んで振り向かせた。彼女はまだ惑星を目で追っていた。
「おーけー……。仮にあの惑星に知的生命が存在し、そして、きみの見たその光が人工的なものであるとしよう。……でもそれがぼくらへのメッセージであることは、ちょっとありそうもないよ」
「どうして?」
「なぜなら、ぼくたちはまだあの惑星から二十万キロ以上離れている。しかもぼくらは『太陽を背にして』近づいているんだ。つまりあの星から『サガ』号を見ても昼の空に望遠鏡を使ってかすかに見える暗い星でしかない。……一方、探査ロボットのほうは二等星ぐらいの明るさで地表からも肉眼ではっきり見えるし、夜空を急速に移動する天体として、あの世界を周転している人工の衛星であることがすぐにわかる。もしもきみがあの星の住人であり、宇宙からの来訪者に自分たちの存在を知らせたいとしたら、いったいどちらに信号を送る?」
 カシルはためらった。
「……でもあれが単にロボットで、こちらが本体であることを知っているのかも……」
「それならよけいに、それが観測カメラなり何なりの……『本体』に地表の情報を送るための機材を積んでいないはずがない、と推理できるはずさ」
「そうね……」
「にもかかわらず、探査ロボットは一度もその光を観測してない。少なくともいままでのところは……。だから、それが知性に基づいたものであるよりはむしろ自然現象であると考えたほうがいいんじゃないかな」
 カシルは溜め息をついた。「確かにそうね……」
 ウィリアムはふたたび腕を伸ばし彼女も今度はおとなしくそれに抱かれるにまかせた。
「でもほんとうに強烈な光だったわ。まるで全部の波長で輝くレーザーみたいに」
「ふむ。あの星の住人がパルスレーザーでこちらを撃ちおとすために狙っているのでないとすれば……他に考えられる可能性は長焦点のパラボラ鏡で主星の光を反射させていることぐらいかな……?」
 ウィリアムは妻の身体の反応にあわてて言った。
「だが、それならとっくに探査機が見つけてなきゃおかしい。……そんな巨大な反射鏡を良好な状態にメンテナンスするためにどれだけ大規模な設備が必要だと思う?」
しかしそれでもやはりカシルは、寝返りをうつと『ネット』の合わせ目を探ってそれを抜け出し、コンソールのひとつへ漂い降りていった。
「いずれにしてもあの地点を探査ロボットにインプットしておくわ。朝までに詳しい地形のデータを作成しておくように……。ひょっとしたらつぎの発光現象を記録できるかも知れないし……」
 きみの見間違いじゃないのかな。……コリオリの力につかまれて、しどけない姿で半転する妻の裸身を眺めながら、ウィリアムはそう言いたい衝動を押えた。
「……どうやらこれで着陸ポイントは決まったようだね」

 細い金のブレスレットの光る右手が操縦捍に、ごついリスト端末で飾られた左手が噴射制御レバーにのばされていた。無数のモニターやタッチパネルがウォーターベッドに支えられた彼女の身体をぐるりと取り囲み、そのうえ心電を始めとする代謝測定のための各種センサーに身体中絡みつかれて、カシルは機械装置のなかになかば埋もれた格好だった。これから数時間の間、彼女は『サガ』の姿勢制御装置、核融合システム、それらに接続された複雑な噴射機構と格闘しながら、この総重量千トンの着陸船を惑星表面まで降ろさなくてはならないのだ。
「このランディングは銀河系中のどんな惑星への降下よりも難しい仕事であると正しく理解してほしいものね」カシルは言った。
「なにしろ1Gの表面重力のくせして、制動に使う大気が全然ないときてるんだから……」
「……しかも相対速度は秒速七十キロ以上だ。もしも目標地点の千キロ以内に降りられたらご褒美をあげてもいいな」
「その言葉忘れないでよ」
「二言はなし、楽しみにしているんだね。……ありゃ、しまった。クレジットカードを家に忘れてきたかな……」
「また……、ウィル……。おどけてないで。……わたしの腕を信じないの」
「……どうして?」
「あなたがそんな冗談を言うのは何か不安を感じてるときだから……」
「誤解するなよ、きみは百パーセント信頼してるさ。心配なのはこのボロ船のほうだよ」
「まあ、わたしがこの駄々っ子をどう扱うか見ていなさいって」
「やれやれ……改装費用をけちるんじゃなかったな」
「有り金はたいたくせして、何言ってるの……」
 ウィリアムは観念して目を閉じた。カシルはにっこり笑って左手をのばし……。核融合エンジンが3Gの加速度で制動を始めた。

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