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ラブソングふたたび

第五章

高本淳

sasie5

 かつてボートを桟橋に確実に係留するためには三本の舫綱が必要だった。無重力空間で宇宙船を固定しておくのも基本的には同じ。ウィリアムは岩塊の表面三カ所にアンカーを打ち込みそこから延びたロープを船体の係留索止めに結びつけた。桟橋と船体の間の緩衝材の役割はランディングギヤの精巧なサスペンション機構がうけもつ――ただいざとなったら船内から瞬時にロープを切断できるようになっているところは地球の海に浮かべる船とはちがう。宇宙空間での危険ははるかに速いスピードでやってくるだろうからだ。
 それでも『注意!爆裂ボルト』と書かれた警告文字のすぐ上で係留索のテンションを確認しながらウィリアムはこの星に来てはじめて心安らいだ気がした。まがりなりにも地に足をつけるということは人間にとって大きな意味をもつらしい。つまるところいままでは大気圏突入につづく一連のシークエンス――これこそがほんとうの意味での『ランディング』と言えるわけだ。
 慣例ではその時点で天体の命名の儀式が行われる決まりになっている。しかし肝心の命名者は『サガ』をこの岩にランデブーさせるのに精力を使いはたしてしまったらしく、いまは船内のベッドで白河夜船のありさま。しばらくセレモニーは延期するよりないだろう、まあべつに急ぐこともない――と彼は肩をすくめた。
 ママをぐっすり寝かせてあげるためにウィリアムは子供たちを外に連れ出した。今回はやれありがたや、あの重くかさばる気密服はなしだ。生態疫学データに基づいて合成されたIgパッチナノのおかげでようやく全員船内と同じ軽装で外を動き回れるようになったのだった。宇宙での厳しい暮らしに慣れた者にとって素肌で外気に触れられるという状況はまるで天国にいるような気安さだった。まあ、ほんとうに天使のように空の彼方へ飛んでいってしまわないように命綱こそ必要だったけれど――。
 この岩塊は直径が二百メートルほど、ほぼ球形で北の空を向いた部分に直径二十メートルほど円形にくぼんだ部分があった。岩の表面はまさにサマータイムのキャンプ場にふさわしく、芝生……ならぬ苔、が一面覆いつくし、ところどころ丈の低い草花も繁殖していた。たぶん多穴質の表面に染みこんだ雨水が植生を支えているのだろう。ただえぐれたクレーター部分だけは内部の岩に近い成分が露出しているためかまったく植物の形跡はなかった。
 この窪みはごく最近べつの岩塊にぶつかってこすり取られた痕かもしれない。ウィリアムはしっかりしたその表面にペッグを打ち込みながら思った。大気の気まぐれな影響で岩石や水球はしばしば互いにぶつかりあうはずだった。『サガ』のレーダーをオートスキャンモードにしておいたのは正しい判断だったろう――そんなことをとりとめもなく考えていると、突然「ミーちゃん喉かわいた!」と傍らで娘がぐずって袖をひいた。
「わかったわかった。ただ、いま手がはなせないんだ。ユルグ、すまないがミーちゃんに水をあげてくれないか」
 彼はプラットホームユニットの支柱を片手にハンマーをもう一方の手にもったまま息子に声をかけ、そのまま作業をつづけた。
「熱い!」
 とつぜん小さな悲鳴が聞こえ驚いてウィリアムはふりむいた。ユルグが身を縮めて自分のほうを呆然と見つめていた。ミヒョンはそのかたわらで何が起こったのかわけがわからない様子だ。わけがわからないという点では彼もいっしょだった。息子の周囲に熱を発しそうなものはなにもないのだ。
「え? どうした?」
「熱かった――びっくりしたー」
 もういちどじっくり眺めてまだウィリアムには理解できなかった。息子の目の前にふわふわ小さな水玉が浮かんでいる。たぶんミヒョンにあたえようとしてうっかりこぼしてしまった水筒の水だろう。船内の給水器からでてきたもので冷たいことはあっても熱いはずはなかった。
「手を見せてみろユルグ――なにが熱かったって?」
「なんかよくわかんないけどすごく熱かったよ」
 息子の手のひらがすこし赤くなっている。ほんとうに何か熱いものに触れたようだ。
「――いったい何に触ったんだ?」
「何にも触らないよ!」
「じゃあ何をした? もう大きいんだからちゃんと口で説明してくれ」
「だって……ただ手を水で濡らそうとしただけだよ」
 やむなくユニットの取り付けはあとまわしにしてウィリアムは息子の前にただよう小さな水の球を見つめた。ほとんど完全な球に近いそれはわずかに振動しながら日差しのなかできらきらと輝いている――。
「こうやって……」
 ユルグはおそるおそるといった様子で水球に手をのばす真似をした。そうすると掌の上を水玉の明るくぼやけた影が通過した。
「きゅうに熱くなったの」
 しばらく考えているうちに何が起こったかウィリアムにも遅ればせながらわかってきた。そう気がついて岩塊の表面をよく見ると確かにところどころ苔が焦げたように退色している部分があった。
「そうなのか!」父親がとつぜん大声を出したのでユルグはびっくりして手をひっこめた。
「――そうだったんだ。ちょっと考えればわかることを、この……あ、いや」つい悪態をつきそうになってからくも堪え、ひとつ咳払いをしてからウィリアムはつづけた。「おとうさんが悪かったよ。おまえたちに前もって火傷の危険があることを警告してやらなければいけなかったなあ」
 半分反省しつつ半分は思いがけない事実に彼はすくなからず面食らってもいた。
「無重力状態と呼吸可能な大気と野外の強い太陽光線――こんな組み合わせはこの世界でしかありえない。確かに――おとうさんだってうっかりしていたのだから、おまえが予想できないのもまったく無理はないんだ。ふたりともこっちへきて、これからわたしがやることをよく見ていなさい……」
 彼は身をかがめクレーターの縁の苔をひとかたまりちぎりとった。
「これをこうして水玉と地面の間の適当な距離にかざしてみると――さあ、どうなるかな?」
 いい終えて数秒のち、暗緑色の苔の塊からかすかに白い煙がたちのぼった。
「――水分が多いので燃え出すほどじゃない……が、ほら、焦げている」
 ウィリアムは息子たちに苔の表面の褐色に変色した部分を示した。
「乾燥した苔だったら確実に火がつくはずだよ。わかったね――凸レンズとおなじ集光効果だ。この世界では太陽と自分の身体の間に透明な水球を入れちゃいけない。とくにそれを通して太陽を見ては絶対だめだ――これからはそういうふうに漂っている水はよくよく気をつけて近づくようにしなさい」
 言い終え、物入れから取り出したハンドタオルに『危険』な水玉を染みこませながらある事に気づいて一瞬稲妻に撃たれたようにウィリアムは硬直し、それからつぶやくように付け加えた。
「『沼地』と違ってこの土地には生き物たちをそうした危険から守ってくれるあの『ゴキブリ』がいないらしいからね……」

*

 無数の電動ファンが微かな音をたてて空気を吸引している。ユニットはさしわたし約一メートル、ひとつひとつが六角形をしたそれが九個――ウィリアムの手でハニカム状に組みあわされ無重力環境での『プラットホーム』になっていた。吸引力はたいしたことはないが横たわった人間の身体やサンドイッチや飲み物の容器を固定しておくぐらいのことはできる。床面の格子は磁気にも反応するから専用のサンダルを履けばその上を歩き回ることも可能だ。この岩塊とランデブーすると決まったときに食堂の『負圧テーブル』を参考に急遽思いついた即席のアイデアだったが、船載の万能工作機械は彼が描いたラフスケッチを実際にきちんと動く製品にしてくれた。
 このいわば『ピクニックマット』のうえでふたりの子供たちはひなたぼっこをかねて遊んでいる。初めて体験する陽光と風がよほど心地よいのだろう、歓喜に満ちた甲高い笑い声をBGMにウィリアム自身はタープの日陰に退散してデッキチェアに寝そべっていた。ちょうどうまい具合にクレーターの縁が風よけになってほどよいそよ風が肌をわたっていく。目を開けばゆっくり動く綿雲が――水球や苔むした岩とともに――浮かび、深い青色の底には微かに遠い外殻の網目模様が見える。人跡未踏の異世界を探検しているはずなのに、いまはすべてがなんとものどかで安らいでいるように感じられた。
 ……すにっぷ!
 ……すなっぷ!
 ……すたーらむ!
 ……はいどろじぇんらむ!
 ……りぐ!
 子供たちのかけ声にふと薄目を開きそちらを盗み見てみるとどうやらトランプ遊びをはじめたらしい。無重力環境でつかわれる微弱な磁気を帯びたカードを使えば『プラットホーム』の上でもなんの問題もなくカードゲームが可能なのだ。しかしどうもふたりのやっているのは昔ながらのゲームの遊び方をちょっと変形したもののようだった。
 すにっぷ、すなっぷ、すたーらむ……と唱えつつ子供たちはたがいに手札を場に晒している。それぞれ同じスートの札を数字の順に場にだしていくのが正しいやりかたのはずなのだが、横目づかいでここから観察するかぎりではどうやらルールを守っているのは兄だけでミヒョンのほうはめちゃくちゃな順番で手札を切っている。それではユルグのほうはまるで不利だしそもそもゲームとして成立しないはずだ。それでもあえてやめないのはもっぱら妹を退屈させないためにつきあってやっているのにちがいない。事実ミヒョンは熱中して自分の手札がなくなると声を出して喜んでいる。正式な『スニップスナップ』は数字をまだ読めない妹にはまだ無理……ということでユルグが考えついたいわばローカルルールに違いない。たしかにカシルの言うとおり――ユルグはだんだん兄貴としての自覚を持ち始めたようだった。
 にんまり微笑んだままデッキチェアのうえで再びくつろいだ姿勢にもどり彼はひとり満足げなため息をついた。
 ……すにっぷ!
 ……すなっぷ!
 ……すたーらむ!
 ……はいどろじぇんらむ!
 ……りぐ!
 大人には不可解な熱心さで飽きることなく遊びつづけるその声を聞くともなく聞いているうちにウィリアムはいつしか心地よい眠りにひきこまれていた。

*

 青空のなかにリボンのようなものがねじれ浮かんでいる。やれやれ、しっかり結びつけていたはずなのにタープが飛んでしまったようだ。いや――ウィリアムはぼんやり思った。タープとは色も形も違う。だいいち大きすぎる。あの距離でこれほど大きく見えるのだからたぶん全長は数十メートルにもなるだろう……そこまで考えてウィリアムははっと目覚めた。
 虚空を仰ぎ見る姿勢でまどろんでいたのだ。しかし目にうつったものは夢ではなく現実だった。たしかに長大な膜状のものが動いている――風にまかせての動きではない、間違いなく生き物の自律的な規則正しい動きだ。
 飛び起きようとしてシートベルトにはばまれ、少しあわてながら命綱を確認しデッキチェアを抜け出るとウィリアムは眺めのいい場所まで浮き上がった。リスト端末によるとすでに真夜中過ぎ――ベール状の雲のスクリーンが消えて青空がもどりつつある時刻だった。軽い午睡のつもりがすっかり寝込んでしまったのだ。『プラットホーム』の上の子供たちに目をやればやはりふたりとも仲良く並んで大の字に寝入っている。どうやら疲れていたのはカシルひとりではなかったらしい。――いやはや、異星への着陸三日目にして家族全員無防備のまま安心しきってまるまる一晩熟睡していたとは。……こんなことは恥ずかしくてとてもレポートには記載できないな!……赤面しつつウィリアムはまた注意を上空にもどした。
 ところどころに絹雲がただよう紺碧の空間を朝日をあびつつ何か巨大なものがはばたき飛んでいた。色は青みがかった薄い灰色。翼長――あれが翼として――五十メートル近くありそうだ。全体の形はちょうどトランプのダイヤモンドマークを縦に三倍ぐらい引き延ばした感じだろうか。頭と尻尾にあたるようなものは少なくともここからでは見えない。まるで巨大な鳥の翼だけが羽ばたいているような不思議な光景だが、しかしゆったりとしたその波打つような動きはどこか馴染みのあるものだった。記憶を探る努力でかすかに顔をしかめたのちウィリアムはうなずいた。――そう、記録映像で見たことがある、地球の熱帯の海に住むあの生き物――マンタ、すなわちオニイトマキエイのはばたきにそっくりなのだ。ただし翼長は二十倍以上ある……あんなサイズの生物がこの世界にいたとは!
「カシル、カシル――聞こえるか? もし目が覚めているなら電子スコープを持って窓の外を見てみろ。北の空だ」通話装置でそう船内に呼びかけるとすでに目を覚ましていたのだろう、ほとんど間髪をいれずカシルの声が応じた。
「……ええ、見える。あれはいったい何?」
「こちらもいまさっき気づいたところなんだ。遠すぎてよくわからない。しかし間違いなく生き物だな――超特大のマンタみたいだ」そう言いながら彼は熱心に観察をつづけた。「……どうも何かを捕食しているような気がするんだが、電子スコープではそのあたり、見えないか?」
「うん、翼らしいものの付け根あたりに口があるらしいわ。丸い開口部が大きく開いて皮膚が伸びきって血管のようなものが透けて見えている。でも開きっぱなしで何かを咀嚼している気配はないわね」
「ふむ――そもそも何を食べてあんなに大きくなれるのだろう? 確かにあの巨大さとゆったりした動きからして他の飛翔生物を捕獲するのはかなりむずかしそうだ」
「肺呼吸するマンタ――だとしたら、プランクトン?」
「ありえるな――地上最大の動物だったヒゲクジラたちの巨体を維持していたのはプランクトンやオキアミのような微生物だった。あの空飛ぶ怪物の餌も……空中に漂うプランクトンに似た極小の動植物かもしれない」
「でも大気中にそんな高い密度で微生物が生息しているかしら? 飛行中に分析した大気サンプルではせいぜい一立方メートルで数個というオーダーだった――そもそもなぜいままであの手の生き物を一匹も見かけなかったの?」
「そのあたりだな……」しばし沈黙し、考えてからウィリアムは慎重に言った。
「この場所、この時間がカギなんじゃないだろうか。なにかの作用であそこの空間でプランクトンが大量に発生しているとしたら――」
「なにかの作用って?」
「気温と日射と栄養、それらがたまたま好条件で重なることだよ……ちょうど南氷洋みたいにね」
 確かにその想像はあたっているかもしれない。ウィリアムは思った。いま思えば、あの真夜中の壮大なバラ色のスクリーンを作り出しているのは微小な氷の結晶なのだ。
「南氷洋?」
「地球の南極をとりまいていた海だよ。自己閉鎖した循環海流を持つために他の大洋からの暖流が入り込めない。そのために南極大陸はあんなに寒い……」
「関節技きめられたい? もちろんそんなことは知っているわよ。聞きたいのはプランクトンとの関係」
「んと、つまりねえ、植物プランクトンにとってじつは海氷ってのは居心地のいい場所らしいんだ。足場となって太陽光の豊富な海面近くにとどまることができるし海水温が低いぶん光合成につかわれる二酸化炭素濃度も高いためだろうな。南氷洋では氷山の底面にアイスアルジーと呼ばれる植物プランクトンが大量に発生して、それが動物プランクトンを、そしてクジラを頂点とする豊かな生態系を支えているんだ。その植物プランクトンの栄養分――地球の海だったら深層海流と南極大陸間近の湧昇流が運ぶミネラル分――の代わりになるものを、この星では自転による遠心力が作り出す赤道部分からの絶え間ない気流が供給しているとしたら、あの過冷却した氷の微粒子の表面で植物プランクトンが急激かつ大量に増殖していてもおかしくはない」
「――なるほど、ありえるかも」
「もしあのほとんど翼だけの生き物がマンタやヒゲクジラと同じような食生活をしているなら、巨体にもかかわらずわれわれにとって危険な生き物というわけではないと思うな……だが、まてよ」
 ウィリアムは眉をひそめた。遠目にその『マンタ』の周囲になにか素早く動くものがあるのだ。同じように黒い影だが大きさは十分の一程度。一見したところモニター画面のポインター、矢印によく似ている。素早く動くさまもそっくりだ。
 それが幾つもゆったりと羽ばたく巨大な黒い翼の周囲を飛び交っている――まるでシロナガスクジラの周囲をシャチが泳ぎ回っているようなかたちだ……。
「見えるかい? 新手の生き物らしい」

*

 突然、耳元で警報音が鳴った。びっくりしてリスト端末を見るとレーダーシステムが接近してくる何かをとらえている。立て続けに起こる事態の変化に少々浮き足だったウィリアムがあわてて周囲の空間に目を走らせているうちにカシルの緊張した声が通信機から響いた。
「ウィル! 南の方角から何か急速に接近してくるものがあるわ。秒速約二十メートル……ひとつじゃない……反応はふたつ――」
「……了解、正体はわかるか?」命綱をたどりながらウィルアムは尋ねた。この場所からでは岩塊自身が邪魔をして南の空は見えないのだ。
「わからないけど、すくなくとも岩のような浮遊物じゃないわね。動きながら時々方向を変えているから……」
 ――あの『矢印』だ。直感的にそう確信してウィリアムは子供たちのところまでいくとふたりを少し手荒く揺り起こした。
「目を覚ましなさい。ユルグ、いまミーちゃんを船に運んでいくから、その間ここでじっとしているんだぞ」
「ん……なに?」
「心配いらない。すぐにもどってくるからここを動くなよ」
 彼はまだ寝ぼけ眼で瞼をこすっているミヒョンを小脇に抱きかかえると片手でロープをつたわりながらサガへと向かった。
「カシル、エアロックまで来てミヒョンを受け取ってくれないか。子供たちは起きたばかりでぼうっとしていてまともに綱をたどれそうにない」
「わかった。あなた、いそいで! 例のふたつはまっすぐこの岩塊を目指しているわ。一分以内に到着しそうよ」
「ちくしょう、休日の奇襲攻撃ってやつだな!」
 言われるまでもなく可能なかぎり急いで――しかしなおかつ漂い流れてしまわないように慎重にロープを繰りながら――船にたどりつくとウィリアムは出迎えたカシルの腕にミヒョンを押しつけるようにしてあずけ、すぐにとって返した。船体を半ばまわったところで目にした光景にしかし彼は一瞬全身の血が凍りつくような衝撃をうけた。『プラットホーム』の上をかすめるように――ひとつの巨大な影が身体をくねらせるようにして飛びすぎていくのを見たのだ。
 先尾翼式の『鮫』――と一瞬ウィリアムは思った。体長は五〜六メートルほど。とがった先端に半ば開いた巨大な口にはどう猛そうな鋭い歯がびっしりと並んでいる。色は――あたり一面が空、という世界での迷彩として進化してきたのだろう――やはり青みががった薄い灰色。肉食動物然としたがっしりした顎をもつ円錐形の頭部が胴体につながるすこし後ろから五十センチぐらいの三角形のヒレがぴんと水平につきだしている。最大直径一メートルほどの細長い紡錘状の身体の背からそれよりひとまわり大きいやはり三角形の背びれ。そして後端にあるコウモリの翼にも似た伸縮自在の後ヒレはいっぱいに広げると翼長三メートルを越えるかもしれない。全体のイメージはかつて地球の空を飛んでいた先尾翼(カナード)式ジェット戦闘機。いかにも敏捷かつ力みなぎるハンターという印象だ。
 しかしそんな詳細な観察はあとから思いかえしたもの。そのときのウィリアムは野獣の危険からわが子を守ろうと種族維持の本能が個体保存を圧倒したホモ・サピエンス以外のなにものでもなかった。彼は威嚇の叫びをあげながらわが身の危険もかえりみず『プラットホーム』のうえで小さく身をかがめているユルグのもとへと突進した。
 その窮鼠猫を噛むような勢いにさすがに『カナード鮫』も不意をうたれたのだろう。優雅に身をひるがえすと十数メートルほど離れた位置まですばやく後退して浮かびながらこちらを警戒するように睨んだ。その視線に歯をむきだして応えつつもウィリアムのなかの冷静な部分は、この生き物は空気呼吸する鮫の仲間ではない――間違いなくシャチやイルカに似た温血の生物だ、と分析していた。鮫とは違って両眼視に適応して前方に寄った巨大な目がいかにも哺乳動物らしい瞼をもつそれだったからだ。――ということは知能もそれなりにかなり高度なものであるはずだ。
「ユルグ、もうだいじょうぶだ。お父さんにつかまって――そう、命綱のフックを外すからじっとしていろ」
 もしこいつが虎やシャチ同様高い知能を持つ動物だったら初めて出会う見慣れぬ相手をむやみに襲うことはないはずだ。とりあえず好奇心をもって接近観察することはあってもいきなり攻撃をしてはこないだろう。だが怯えて逃げようとすると逆にかえって危険かもしれない――彼は自分自身に言い聞かせた。
「聞きなさい。大丈夫、ゆっくりと動くんだ。ぜったいあわてちゃいけない」聞くかぎりではいかにも自信に満ちた口調で言い聞かせるとウィリアムは内心は心臓が破裂しそうに感じながらもユルグを抱きしめてじりじりと後ずさりをはじめた。
 ガツン!
 突然『プラットホーム』が激しく揺れて、不意をつかれた彼らは宙に投げ出されかけた。あやうく船へのロープを手放しそうになり一瞬肝を冷やしたものの、なんとか体勢を整えて何事かとふりかえって見たウィリアムは再度背筋が凍りつくのを感じた。――いま一匹の『鮫』が数メートルと離れていない位置で『プラットホーム』の下面に強引に巨大な頭を潜り込ませようとしている姿が目に飛び込んできたからだ。まるで腹をたてているかのように『鮫』はこんどは『プラットホーム』の端に噛みつくと巨体をひねってゆすぶりはじめた。
 ――いけない! こんな力がかかることは予想していないから土台を止めているペッグは簡単に抜けてしまう!
 ウィリアムがそうちらりと思ったときふたたび激しい衝撃がきた。二匹の『鮫』たちは力をあわせてしゃにむにクレーターの地表との隙間に頭をつっこんできたのだ。あっと思う間もなく『プラットホーム』全体が持ち上がるように傾き、つぎの瞬間ふたりは今度こそ空中に投げ出されていた。
 離すまいとしっかり握っていたロープがかえって災いとなり、彼は弧を描くようにして一回転したあげく苔むした岩塊の表面にたたきつけられた。視野のなかで天地がぐるりと逆さになり、つぎの瞬間苦痛とともに一瞬目の前がまっくらになった。

 気がつくと目の前にゆるんだロープが漂い浮いている。あわててそれを掴んで、それから周囲をあわただしく見やってウィリアムは愕然とした。ユルグがいない!
「カシル! カシル! たいへんだ……」
 彼の声をうち消すようなカシルの悲鳴にちかい叫びが聞こえた。
「早く船にもどって! 『プラットホーム』といっしょにユルグが流されている!」
 反射的に空をあおぎ、息子の姿を探すがやはり見えない。たぶんサガの向こう側を流されているのだろう。幸い船へのロープはまだ切断されていなかった。彼はロケットのような勢いでそれを辿りエアロックに飛び込んだ。そうしているうちにうっすらと記憶が蘇ってきた。そう、岩に叩きつけられる直前、思わず怪我をさせまいとして本能的に『プラートホーム』めがけ息子を宙に押しやった自分を思いだしたのだった。たしかにあの時点ではそれしか方法がなかった。とはいえそれが果たして結果的に正しかったかどうか――は、これからの経過しだいだった。焦燥に追い立てられるように乱れた気持ちでそう自分に言い聞かせながらエアロックに入る直前、まるで彼の心を反映したかのように一陣の突風が避暑地風のゆったりしたパンツの裾を激しくはためかしていった。じつに間の悪いことに、なぜか風が強くなってきつつあるようだった。

*

「ユルグはどこにいる?」
 キャビンに飛び込むなり彼は尋ねた。無言でカシルが窓の外を指さす。百メートルほど離れた空間を小走りぐらいの速度で『プラットホーム』が遠ざかりつつあった。
「……『鮫』たちは?」
「わからない――怖くて見られない。ああ、どうしよう? 指が震えてうまく動かないわ!」
 ウィリアムは背後から妻の肩をしっかりつかんだ。
「落ち着くんだ。だいじょうぶ……なぜか連中は機材にもユルグにも関心はないみたいだ」
「ほんとに?」
「ああ、さっきの場所にまだいる。時間はあるからいつもどおりにやってくれ」
 カシルはため息をひとつつくとようやく緊急発進のシークエンスをてきぱきと片づけはじめた。パイロットとしてかたづけなければならない複雑な手順が子を気遣う母親のパニックから当面彼女を遠ざけてくれるだろう――ウィリアムは妻の側を離れると舷窓に漂いよって外を眺めた。
 岩塊の表面では二匹の『カナード鮫』がクレーターの底をなめるように繰り返し宙返りをうっていた。タープの紐はすでに切れてすこし前まで休日のキャンプシートに影をおとしていたそれが残った支柱にぼろぼろになった敗軍の旗のようにまとわりついている。少なからずみじめな思いでそうした光景を眺めたもののウィリアムは一方では安堵してもいた。どうやら『鮫』たちの狙いは子供たちを餌にすることではなかったようだ。単に『プラットホーム』とその上の人間が邪魔だっただけらしい――。
「岩の表面を削り取っているように見える……」
「なんで子供たちを襲ったのかしら?」
 ウィリアムの心に野生動物の生態への類推とともに理解がひらめいた。
「岩塩だ! 水分が蒸発した後のミネラルが目当てだったんだろう。たぶんこのクレーターはやつらがもともと長い間に少しづつかじりとって作ったものなんだ」そこまで思いいたった彼は無性に自分が腹立たしくなってクッションの上からコントロールルームの構造材をなぐった。「なんてことだ――そうとわかっていればわざわざあんな場所にキャンプを設営はしなかった……」
「ユルグが流されたのはあなたのせいじゃない。あんな生き物がいたなんて誰にも予想できるわけないもの。いまはなによりユルグを救出することに集中しましょう!」
「そうだな」一転して冷静さを取り戻した妻に逆に諭された形でウィリアムは高ぶった気持ちを落ち着けようと努めた。
「とりあえず『鮫』の危険はない――あとは、やつが気持ちをしっかり持って下手に動いたりしないでいてくれればいいんだが……出航はまだか?」
「いまシステムの自己最終チェックが完了したところ――よし、バーニア始動します。あなたはミヒョンといっしょにシートについて!」
 カシルがスイッチを入れると大気内ならではの鋭い音とともに爆裂ボルトが艫綱を切断した。
「離脱確認――姿勢制御とともにメインエンジン起動開始。起動シークエンス完了後にフルスラスト!」
 やがて背中をどやしつけられるような衝撃が彼らをシートに押しつけた。しかし総重量千トンを越える船体はそれでもいまの彼らにとってじれったいほどゆっくりとしか加速されない。悪いことにいっそう強さを増した風のため船体が細かく揺さぶられてもいた。
「どうにも間がわるいわ。ますます気流が乱れてきた」
「くそ、こんな時にかぎって――」
 窓の外の青い空が急に雲に被われはじめたのを眺めながらウィリアムは毒づいた。
「こんなことはいままでなかった――こんな早さで天気が変わるなんてことは!」
「局地的な渦巻きにたまたま遭遇したのかもしれない。べつの『イレギュラー』が近くにあるのかも……」
「こんな荒れた状態でランデヴーできるか?」
「わからないけどやるしかないわ。これ以上風が強くなるまえに追いつけることを祈りましょう。でもいざとなったらあなたの手を借りなければならないかもしれない……」
 見る見るうちに周囲に雲がうまれていった。やがて空全体は灰色に閉ざされ、明るい銀色から暗灰色までの雲の畝を背景に『プラットホーム』は小さくシルエットになって見えるだけになった。
「完全に気流に乗っているわ。かなりの速度で流されている」
「こちらももっと速度をあげたら?」
「無理――『プラットホーム』と船の質量が違いすぎる。むこうは木の葉みたいに風のきまぐれな動きにもてあそばれてるから、ここで焦って速度をあげるとコントロールを失ってしまう怖れがある。むしろメインエンジンも危険なので停止したほうがいいわね。バーニアで細かく操船しながら風向きがたまたま望む方向に変わるのを待つしかないわ」
 ちょうど風に吹き飛ばされ地面を転がりまわる帽子を拾おうとするような状態だった。帽子ならたとえうっかり踏んづけたとしてもたいした損害ではない。だがユルグのしがみついている『プラットホーム』を船体に激突させることは絶対に避けなければならなかった。
 ふたりがじりじりとしているうちにやがて風向きが変わり『プラットホーム』までの距離がいっきに縮まりはじめた。
「よかった。ユルグはまだしがみついているな」
「うん――このままの風向きが保ってくれたら近くには寄せられるけど……、でもこの状態ではサガの直径以上接近するのは危険だわ……」
「わかった。タイミングを見はからってぼくが外にでよう」
「おねがい。くれぐれも気をつけて」
「ああ、大気圏内で使うのははじめてだけどスラスターを背負っていくよ」
「うん、あっ、あと――骨伝導ヘッドセットを持っていって! たぶん風の音でお互いのしゃべる声は何も聞こえないでしょうから」
「了解! そいつはまさに的確な指示ってやつだ」
 カシルの腕に触れ、それからさすがにお兄ちゃんの危機を感じ取っているのだろう乗船してからもずっと神妙にシートに座ったままのミヒョンの頬をなでるとウィリアムは唇をひきしめ船外作業用エアロックに向かった。

つづく

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