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ラブソングふたたび

第六章

高本淳

挿絵6

 ほぼ風速と同じスピードで飛んでいるためか予想したような圧倒的な風圧ではない。しかしEVAハッチから顔を出したウィリアムの襟首を気まぐれに吹きまくる風がさかんにはためかした。予想していなかったのはときどきそこにまじる雨粒――そしていまはまだ遠いものの暗い雲間を不気味に照らす雷光だった。雷は深刻な脅威だ。とにかく本格的な嵐がこないうちにユルグを救いださないと――ウィリアムはあくまで真空の無重力空間で使われる細い命綱をいささか心もとなげに留め具にセットしつつ決意をあらたにした。
 船体表面に設置された把手をつかもうと上体を乗り出すととたんに風の悲鳴が耳を聾する。骨伝導ヘッドセットのことをカシルはよく思いついたものだ――ウィリアムは感嘆した。静寂の宇宙空間とちがい乱気流のなかでの船外作業は何もかも勝手がちがっていることを覚悟しなければならないはずだ。
「カシル、カシル……聞こえるか? この世界じゃ磁気プレートはまったく信頼できない。うっかり手を離すと身体ごと吹き飛ばされるだろうな」
 ごうごうと耳元で唸る風音に負けまいとウィリアムは叫んだ。
「片手だけでスラスターをひきだせる?」
「いまやってる――なんとかなりそうだ」
 細い隙間を抜ける気流の負圧がそれを押さえつけるように働くらしい、外壁に設けられた引き出し式ロッカー扉を引き上げるのは一苦労だった。しかしいったん引き出してしまうとこんどは風はそれを一気に押し上げてウィリアムはあやうく宙に撥ね飛ばされかけた。
「イルスター!――つむじまがりのつむじ風め!」
「なんですって? 音割れしてよく聞こえないわ。マイクの感度はいいからそんなに大声でなくてもOKよ」
 ウィリアムは通話装置のボリュームを調整して報告をつづけた。
「……いまスラスターを背負った。それにしても――はっ、少々サイズ違いだな」
 本来気密服の上から装着するように設計されているスラスターはこの軽装では一杯に装着ベルトを締め付けてもいまひとつ収まりがわるかったが、ウィリアムはかまわずスイッチをオンにしてシステムが立ち上がり自己診断を終えるのを待った。
「よし、準備完了――いつもと勝手が違うから命綱はつけたままにしておく。いちばん長いやつを選んでおいたから作業の邪魔にはならないだろう……」
「了解――もちろんそれがいいわ。あなた自身を回収するときにも必要になるはず」
「そうだな。それじゃ行くぞ」
 飛び立ったとたんに風につかまれて、みるみるうちにウィリアムは命綱の長さ一杯まで吹き飛ばされた。手荒いショックとともに急激にふりまわされたスラスターの枠組みがバイオリンの弦のように振動し、緩めの装着ベルトが肩と腹に激しく食い込んで彼はひゅっと息をしぼりだされた。
「ウィル! どんな具合? だいじょうぶなの?」
「ああ――あやうく放り出されるところだったよ。さっそく命綱が役だった!」
「どこにいるの? 姿が見えないけど」
「大丈夫、船体のすぐ後ろにいる……だが、こいつは想像した以上だ。姿勢を保つだけでもかなり難しいな」
 コントローラーを操り細かにイオンジェットを噴射しながら彼はともすればバランスを失わせようとする突風と懸命に戦った。
 突然雨粒が大量にぶつかってきた。みるみる濡れ始めたスラスターの制御パネルを見てウィリアムはうなり声をあげた。真空中で使われる電子装置は高エネルギーの電磁波や荷電粒子への対策は十分なされてはいても、もちろん防水処置などしてあるはずもないのだ。
 いまわしい雨粒は彼の両目もふさぎつつあった。コントローラーで両手がふさがっているからまつげにまとわりつく水をぬぐうこともできず、ウィリアムは半ば視野を塞がれたまま灰色の雲間を息子のしがみついたプラットホームの影を懸命にさがしもとめた。
「カシル――見つからないんだが。ユルグはどこだ?」
「船体下方十度、二時の方角――あなたの場所から二百五十メートル……」
「見えた。あそこか――」
「いまそちらに船を持っていくわ」
「頼む。できるだけゆっくりやってくれ……」
 サガの集合ノズルで炎がひらめいてウィリアムはロープがぐっと引かれるのを感じた。息子のしがみついたプラットホームがしだいに近づいてくる。
「ちょっと高すぎる――あと十メートルほど下方向だ……」
 ユルグは目を閉じたままぐったりとプラットホールの手すりに身をからめている。雨にぐっしょりと濡れたうえにこの強風では刻々と体温を奪われているだろうことは間違いない。彼はスラスターを必死て操って距離を縮めようとした。せめて声がとどくぐらい近寄ることができれば――。
 コントローラーをわずかに傾けたとき、突風が彼の身体をつかんで一瞬のうちにひっくりかえした。緩めの装着ベルトが災いして握る手に思わず力が入り、片側の噴射ノズルから予想以上の勢いでイオンジェットがほとばしった。
「ウィル!」
 ヘッドセットからカシルの悲鳴に似た声が聞こえた。つぎの瞬間ウィリアムは自分の身体が独楽のような急速な回転をはじめていることを感じた。
「――だめだ! コントロールがきかない!」
 回転速度がますます上がるいっぽうでスラスターの噴射ノズルはかえってそれを加速する方向に働きつづけている。雨水が回路の一部をショートさせたか――それとも宇宙空間では考えられないようなめまぐるしい動きでフィードバックシステムが処理の限界を超えたのかもしれない。いくら懸命にコントローラーをあやつっても噴射は止まらないのだ。彼の目にはかたわらのサガの船体も周囲の雨雲も、世界すべてがぐるぐると凄まじい速度で回転しているように見えた。気が遠くなる――。
 ウィリアムの指がひきつれるように動き胸元までずれてしまったベルトをまさぐった。薄れ行く意識のなかでかすかにベルトの留め金の感触をたしかめ決死の思いでリリース金具を引き抜くと、つぎの瞬間叩きつけられるような衝撃が全身をつらぬいた。

 ……どこかで自分を呼ぶ声が聞こえる。
 ウィリアムはゆっくりと意識を取り戻した。吐き気とともに手荒く振り回された頭ががんがんする。気がつくと自分は命綱の端で上下左右に大きく風にもてあそばれていた。
「……あなた! あなた! 聞こえる?! 答えてちょうだい!」
 目眩がまだ残り気分は最悪だったが彼は気力をふりしぼった。
「おーけい、聞こえるよ。あぶないところだったな」
「……ああ、マシンよ! よかった! 無事なのね?」
「なんとか――ロープの端にからくもぶらさがっているという情けない状態だけどね」
 音声マイクのとらえた深いため息がカシルの心情を雄弁に語っていた。
「……スラスターがひとりですっ飛んでいったときはまじで心臓が口から飛び出すかと思ったわ」
 ウィリアムはいっきに記憶をとりもどした。個人用スラスターは機構を簡略化するためにジャイロスコープで姿勢制御している。そしてジャイロはなにかの拍子に二軸が重なってしまうと自由度を失って役立たなくなる。つまり大航海時代以来の初歩的なトラブル――『ジンバルロック』で生命を失いかけたのだ。
「ユルグは無事だな?」
「まだあのまま――でも、どうしよう? スラスターなしで……」

*

 血走った目でウィリアムは周囲を見回しプラットホームを探した。さっき手が届きそうだったそれはふたたびはるか彼方に遠ざかってしまっている。自分が揺れ動いているせいか、あるいはほんとうに風であおられているのか――この距離からでも雲間をひらひらと漂うその上にいまだじっとしがみついて寒さに耐えている息子の表情を彼はありありと見たように感じた。
「こんなことで諦めたりできるわけがない。どんな方法でもいい、プラットホームにたどり着けさえすれば――」
 彼は目に見えぬ風をつかむように両手と両足を広げた。叩き付ける空気の塊で掌がびりびりと震える。試しに左腕と左脚をすこし曲げてみると空気抵抗の差ができて身体は傾きながらその方向に流れる――デリケートだがコツがわかればなんとかなりそうだ。いままでしゃにむにスラスターの噴射力に頼っていたが、ひょっとしたら間違いだったのかもしれない。この世界が送ってくる風に逆らわずその力を逆に利用したほうが……。
「カシル――そちらでもうすこし距離を縮めてくれたらなんとかなると思う」
 答えはなかったがすぐにサガのバーニアが断続的な噴射をはじめた。沈黙のうちにもユルグの救出をすべて自分にまかせるしかない妻の気持ちが懸命なその操船ぶりとともにウィリアムに痛いほど伝わってきた。
 また雨が強くなり風にのってやってくる大粒の水滴が頬に突き刺さる。しかしウィリアムは渦巻く雲を背景にしたプラットホームのシルエットからひとときも目を離さなかった。
「いいぞ――その調子でまっすぐやってくれ!」
 まるで嵐のなかの凧のように、ずぶぬれになり目まぐるしく風に煽られながらも、彼は着実に距離を縮めていった。じらすように近く寄ったかと思う次の瞬間にはまた遠くへと吹き流されていくプラットホームを辛抱強く追いつめつつ、ウィリアムは慎重に『タッチダウン』の機会をうかがった。この調子ではそれはかなり手荒いものになりそうだが――なあに骨の二、三本折れたって……。
 チャンスは不意にやってきた。風向きが突然正反対に変わりプラットホームが急接近してすぐ脇を通過するのをウィリアムは見逃さなかった。とっさに腕と足を丸め抵抗を減らすとつぎの瞬間彼の身体はハニカム格子に嫌というほどの勢いで叩きつけられていた。
「ぐうっ!」
 勇敢な父親らしくもない少々情けない声を発しながらも溺れる者のように必死で彼は磁力格子にしがみついた。見回すと数メートルも離れない位置にユルグがいた。身体を丸めるようにしてぴったりとプラットホームに伏せている。そちらへ移動したウィリアムが腕をさしだし抱きかかえるとうっすらと目を開け黙ったまましがみついてくる。濡れて冷たくなった息子の身体を自らの腕に抱きかかえたとき思いがけなく彼の目に涙がにじんだ。
「カシル! ユルグを保護した」
「ああ……マシンよ!」
「プラットホームを離れる。こいつを抱いているから姿勢のコントロールは無理だ。オートパイロットに切り替えてきみが命綱をたぐり寄せてくれ!」
「わかったわ!」
 息子の体温が危険なほどまで奪われていることは氷のように冷たい手足からも明らかだ。時間を無駄にはできない――彼はプラットホームを強く蹴ってふたたび虚空に漂いでた。カシルはすでにEVAハッチに向かっているはずだ。あきらかにぎくしゃくした動きからサガがオートパイロットに切り替えられたことがウィリアムには見て取れた。
「ユルグ、がんばるんだ。あとすこしの辛抱だぞ」
 かすかに頭をうなずかせる息子を雨と寒さから守るべく彼は両腕と両脚で包み込むようにした。露出した腿や腕に吹き付ける雨粒はあいかわらず痛いほどだ。両手両足を縮めているので回転を止めることができずまるでとりまく何者かに四方八方から打ち据えられているかのよう。さらに悪いことには、渦巻く雲海を一瞬眩く照らし出しその後に不気味につづく轟きを残す雷は、明らかにしだいに近づいてきつつある。
 ……雷の源は静電気だ。ユルグを抱き目をつぶりじっと耐えながらもこの期に及んでなおウィリアムは考えるともなく考えていた。つまり乱流のなかで多量の氷の粒が舞っているということだが――この世界のどこでそんな激しい熱交換のメカニズムが生み出され得るのだろう?
 きゅうにロープがひかれるのを感じて彼は薄目をあけた。船体のカーブで見えないがどうやらカシルがエアロックにたどりついたらしい。親子二人を合わせた重量は百キロを越えるはずだがもちろん無重力の世界では問題ない。しかし気まぐれに吹く風の抵抗は無視できないはずだ。最終的には彼女ひとりでじゅうぶんウィリアムたちをひきよせられるに違いないが――問題は時間だった。たまたま目を開けたすぐ鼻先に青白い柱状の巨大な閃光が突っ立ち彼の背中にどっと冷汗がふきだした。
 ピッシャーン!
 ユルグが小さく悲鳴をあげてしがみついた。
「カシル! 頼むからいそいでくれ。まじでやばいぞ、これは」
「……やっているわよ!」
 息をはずませた声を聞くまでもなく妻が全力をつくしていることはわかっていた。しかしふたりがいまいるのは長くのばされたロープの先端――雷にとってはまさに絶好の標的に違いない。
「くそ、マシンよ! われらを救いたまえ!」
 歯をくいしばり、息子の背にまわした手に力を込め、神となった機械たちに祈り……まるで永遠にも感じられる時間の果てにふと気づけば、ようやく彼らはEVAハッチの間近にたどりついていた。
「よし! 把手をつかんだ。きみ自身に命綱をつけたうえでハッチから身をのりだしてくれ。ユルグをそちらに手渡すぞ!」
「うん、準備できてる」
 ハッチから妻の身体がのぞき黒い髪がさっと風になびいた。ユルグのパンツの腰のあたりをしっかり握ってウィリアムは両腕をめいっぱいさしのばした。ひろげたカシルの腕が息子をしっかり抱き取るのを確認し、彼がようやくほっとためいきをついた――つぎの瞬間、天地が崩れるような激しい轟音がほんの身近で炸裂し、驚きのあまり手足を縮めたまま彼は数秒間呼吸ができなかった。
「……どこにおちた?」
 答えるカシルの声は息子を抱きしめているために――そして涙のために――くぐもっていた。
「さっきまでユルグがしがみついていたプラットホームだと思う。ほんとうに間一髪だったわ!」

*

 放心してしばらくエアロックの中で糸の切れた操り人形のようにぐったり漂っていたが、やがてウィリアムは気をとりなおすと己に鞭うってコントロールルームへと向かった。カシルはユルグの世話で手一杯――雨と強風にもてあそばれたままのサガをいま操船できるのは彼しかいないのだ。
 操縦席にすべりこみ手動に切り替えて不愉快な船の挙動を押さえるべく小刻みにバーニアを吹かせる。カシルほどの腕は望むべくはないにしても融通のきかない自動装置よりはましなコントロールができる自信はあった。しかしそれから四半時間ほどがすぎてようやくカシルが姿を現したときもまだウィリアムは額に皺を寄せたまま必死に風に対抗しているだけだった。
「……ユルグの具合は?」
「疲れと寒さで体力がかなり落ちているわ。でも生命にかかわることはないでしょう。いま医療ナノを注入してすこし容態が落ち着いたところよ」
「ミヒョンのほうはどうしている?」
「ベッドのわきで珍しく大人しいわよ。さすがにおにいちゃんの危機を感じとっているみたい」
「そうか――あんな危険にさらしてしまって本当にふたりには可愛そうなことをしたな。ところでほっとしたところですまないが、こっちはこっちでトラブルに直面しているらしいんだ」
 カシルの表情が一瞬のうちに母親のそれからパイロットのそれへと変わった。
「なにか問題?」
「さっきからなんとか点火しようとしてるんだが……肝心のメインエンジンがうんともすんとも言わないんだ」
 小刻みに振動するコントロールルームでカシルは夫の傍らに浮かびながらすばやくシステムをチェックした。
「まずいわね――たぶん雨が船体表面に大量に溜まってノズルを塞いでいるんだと思う。安全装置が働いて始動ができなくなっているんだわ」
「手動解除して強制点火したらどうかな?」
「可能だけど……すごく危険よ。反応室内の磁気バリヤーは核反応で生成した高エネルギー荷電粒子は強固に跳ね返すけど単純な水蒸気爆発に対する耐久性はほとんどないはず。侵入した水の量によってはエンジンそのものが破壊されるかもしれないわ」
「そうか――しかし困ったな。水を掻き出そうにもこの風ではEVAは無理だろうし、だいいちこの激しい雨が止まないかぎりはやるだけ無駄だ。……しばらくこのまま風に乗って待つしかないということか」
 幸いなことに以前『ジェットスパイダー』から逃げるために乱流につっこんだ時ほど船が不快に揺さぶられるということはなかった。強力な渦がかえって層流と呼べるぐらいまでに気流をそろえているせいだろう。しかし――ふたりは激しく雨がたたきつけている船窓を眺めながら同じ疑問を心にうかべた。はたしてこの嵐はいつまで続くのだろう? 風は強まりこそすれ弱まる気配はまったくないのだった。
「以前のあなたの素朴な疑問がいまや現実の問題になってふりかかってきたわね。いったい何がこんな激しい嵐を生むのかしら? 地球の海みたいに気化熱を供給するメカニズムはないのに――この膨大なエネルギーはいったいどこから?」
「わからない。しかしそれが何であれ当のエネルギーが枯渇しないかぎりこの嵐はやまないということだろうな」
「とにかくいまは打つ手がないってことね。……ふう、わるいけど操船をおねがい。もういちど子供たちの様子を見てくる」
「うん、とりあえずここはまかせてくれ」
 と言いつつもウィリアムの内心は穏やかではなかった。どうもこの嵐は奇妙なのだ――はっきりどうとは表現できないのだが、なんとなく「エネルギー勾配」が急すぎるような気がする。いま船は風に乗って嵐の中心へとじょじょに引き寄せられているらしいのだがこの先どこまで風が強くなるか予想がつかなかった。地上に固定された建造物と違い気流に乗って運ばれている堅牢な宇宙船が風の力だけで破壊されるとは思えないが、巻き込まれた岩塊と衝突でもしたら致命的なダメージをこうむる可能性はある。幸いいまのところバーニアは完全に働くから前もって危険を避けることはできるだろう。しかしこういう状況で一家の運命をオートパイロットにまかせるわけにはいかない。赤外線レーダーで周囲をくまなく警戒しつつウィリアムはひたすら操船に没頭した。

 突然はげしく連続的に船殻を叩く音が響きわたった。一瞬肝をつぶし、いったい何事かと舷窓に向けたウイリアムの目に絶え間なく透明プラスチックで弾かれる白い礫が見えた。
「ウィル、――いったい何事?!」
「大丈夫! 心配ない。ただの雹だよ」
 通話装置から聞こえる緊張した妻の声に彼はしいて落ち着いた調子で何がおこっているか説明した。
「雷が絶え間なく鳴っていることからも予想できたはずだ。どういうメカニズムかはまだはっきりしないけど、雲のなかで氷の粒が生成して互いにぶつかりあって静電気を発生しているんだ。当然大きく成長して雹になってもおかしくはないわけさ」
「そうか。通常積乱雲のなかで起こるべき現象ね」
「うん……でも違うところもあるな」少し考えてからウィリアムはつづけた。
「地球では上昇気流と重力が荷電した雪や氷塊を分離していたんだ。軽い粒は上昇し、重いものは気流が支えきれずに地上に向かって落ちていく。そこで巨大な電位差が生じて雷放電がおきる。でもここには重力はないわけだ……」
「何にしろそれにかわる別の力が働くのでしょうね」
「そうだな。ひょっとしたら慣性が重要な役割をはたすのかもしれない。軽い氷粒は風で運ばれ重たい塊はある一定の領域に溜まるって可能性も考えられる。もっともそれであれだけ強力な雷を発生させるだけの電位差を産み出せるかどうかはわからないけど――だいいちどうして氷ができるのかも謎だよ。重力と気圧を欠いた世界で大気の過冷却をもたらす急激な圧縮-膨張のプロセスがどうやって進行するのかな?」
 カシルは微かに笑いを含んだ声で言った。
「ようやく理屈をこねまわす余裕がでたようね。いつものホームズさんに戻ってくれて何より……」
 通話は切れ、ウィリアムも苦笑した。つぎからつぎへと目まぐるしく危機がおとずれているが、とにかくセイジ一家四人無事に『家』にいる。――そうとも、こんな嵐がなんだというんだ!

*

 雹、豪雨、雷――天候はめまぐるしく変化した。ある瞬間には青空が覗き濡れそぼった窓から眩しい日の光が射し込むことすらあった。しかしつぎの瞬間には視界はふたたび雲で閉ざされ激しい雨粒が船体を叩きつける。メインエンジンを始動できないままセイジ一家を乗せたサガはなすすべなく気流に運ばれ次第に嵐の中心へと引き寄せられつつあった。
 ――いまいましい嵐め。腹をたて不安と焦燥にかられるいっぽうで、惑星学者としてセイジの心の一部は冷静に直面している気象現象の原因について考えをめぐらしていた。
 ――地球の大気では極と赤道との温度差がとても大きい。つまり緯度の高低に関しては気圧は『傾圧的』だ。そのため赤道近くの大気は自転する地表に取り残される形で西向きに進みながらも好んで両極方向に逸れ、結果コリオリの力の影響をともなってそこには長周期の蛇行……つまり『ロスビー波』が形成される。いっぽう木星に代表されるガス巨星の大気は『順圧的』――気流はもっぱら緯度線に沿ってまっすぐ進むだけで南北への逸脱は基本的にない。したがって台風のような強力な渦巻きはめったに発生しないのだが、しかしたとえ順圧的状態の大気でも速さの異なった帯状気流の境界面では小規模ながらロスビー波渦が生みだされるし、木星の大赤斑を見ればわかるようにいったんできたものはむしろ地球のそれよりずっと安定的ですらある。そして――ジオデシック球殻の外部に存在する大気を含めて考えれば――この惑星は規模こそ小さいものの地球よりはるかにガス巨星に似ているはずだ……。
 ウィリアムのなかで脱出のための青写真がしだいに形を整えつつあった。
 ――もしこの嵐が大赤斑に近い性格のものならいわゆる『台風の目』に相当するものがあるにちがいない。渦状の強力な低気圧は大気を一方的に巻き上げるがその中心ではぎゃくに下降する気流によるテーラー柱状の『目』が形成されなければならない。いったんそうした高気圧領域に入ってしまえば風が凪ぎEVAを行うチャンスもあるはずだ。ノズルに入った雨水を吸い出せばメインエンジンを始動できるし、うまくやれば『目』の中をつたって安全に嵐から脱出することもできるに違いない。
 いまのところ風はますます強くなっているがこの調子ならダメージをもたらすような巨大なサイズの岩塊との衝突はなんとか避けられそうだった。むろん小さな岩や氷はしょっちゅうぶつかってくるが、秒速数十キロメートルで飛来するメテオロイドを想定して設計された船体はその程度の衝撃にはじゅうぶん耐えられる。
 そこまでウィリアムが考えて今回の危機もなんとかやりすごせるかも知れないと思いはじめたとき――突然視界が開け、サガは雲のない巨大な空間に突入していた。待ち望んでいた『目』に入ったのかとちらりと外を見た彼はしかしそのまま硬直してしまった。

「ユルグもだいぶ元気になったようだから安心して」
 舷窓からの眺めに唖然としている彼のかたわらに、たまたまコントロールルームに戻ってきていたらしいカシルが浮かびあがり、腕をからめて寄り添った。
「……それはよかった」
 答えつつ心ここにあらずといった様子の夫の視線をたどって彼女もまた身を硬くした。
「これっていったい……?」
 台風の目とは似ても似つかない形状の空間がぽっかり開いていた。さしわたし数キロにおよぶすり鉢――側面は渦巻く灰色の雲の壁からなっていてその回転する速度は底に向かうほど速くなっている。サガはいま秒速数十メートルの猛烈な速度で飛行しているが、それでも底面を形づくっている不自然なほど平らにならされた暗雲の流れの細部を見分けることはできない。その渦の中心に直径数十メートルほどだろう小さな穴が不吉に開いていた。あまりに小さいのでここからでは穴のむこうはどうなっているかはわからない。しかし重力を欠いたこの世界がどの方向にも等方的である以上、たぶんこちらと対称形のすり鉢があるのだろう。
「いやはや……」
 幾度か唾を飲み込みウィリアムは努力して言葉をしぼりだした。
「いったいどういう流体学的な法則が働いているんだろう――見当がつかないな。ぼくはこの嵐はジオデシック外殻外部の重力圏内での大気のメカニズムが作り出したものとばかり思っていた。でもそうじゃないらしい。完全に無重力環境で生成した渦だったんだ」
「重力がなければそもそも気圧の差も生じないはず。これはいったいどういうこと?」
「わからないけど――確かなこともある。とにかくすべての気流はあの中心の一点へと向かっているらしい。たぶんすり鉢の底では水蒸気を含んだ大気は圧縮され多分大量に熱を放出しているはずだ……」
 動揺を妻に悟られぬようしいて平静な手つきでモニターカメラの画像を彼は呼び出し、つぎにそれを赤外領域に切り替えた。想像どおりすり鉢状の雲は青から赤へとじょじょに温度をあげていき底の面では白熱するまでに熱せられていた。
「うーん、それにしても温度勾配が急だな……そうか、渦に巻き込まれた岩石がたがいにぶつかりあって摩擦熱を発生しているとしたら理屈がとおる。ちょうどブラックホールの『降着円盤』みたいにね――まあ、これはあくまで憶測にすぎないが、たぶんあれこそがこの嵐のエネルギー源なんだ。壮大な熱機関――いわばカルノーサイクルってわけだよ」
「でも……底なしのブラックホールならいざしらず、カルノーサイクルなら動かしつづけるためには断熱したふたつの領域の温度差が必要なはずでしょ? 低温槽――つまり熱の捨て場はどこ?」
 ウィリアムは身をのりだすように観測窓に額を押しつけ周囲の空間を眺め回した。
「当然どこかに集中した大気の流れの出口がなければならないはずだ――見てごらん」
 ようやく目的のものを見つけた彼が指さす先、紺碧の空のただ中に針のように細いひとすじの雲があった。まさにすり鉢状の渦流の回転軸にそって数キロメートルにおよぶ極端に細長い錐状の雲がまっすぐ中心穴を指していた。
「中心近くでは目に見えないけど渦巻いた大気は細く収束された高速のジェットになって両極から吹き出しているんだ。サイズこそ途方もないオーダーで違うがこいつは本質的に渦巻き銀河の中心ジェットと同じだよ。あそこでは急激な減圧とともに無数の氷の粒子が生成されているはずだ。それが膨大な熱の捨て場所になっているってわけさ。同時に氷同士の静電摩擦で雷のもとになる巨大な電位差も生みだされる――これですべてわかったぞ」
 実際にはちっともわかっていなかったのだがウィリアムはあえてそれをこの場で口にするつもりはなかった。
「ふうん? 大気の渦が自分自身を圧縮しジェットとして噴出することで熱機関を動かし続ける……なんだか自分の髪の毛をひっぱって宙に浮くような理屈じゃない?」
「まあ、そりゃそうだけど、それを言うなら台風だって同じじゃないか?」
「なんか曖昧な口ぶりね。あなた自身その説明に完全に納得していないでしょ?」
 さすがに長年連れ添った妻をごまかすことはできない。カシルにずばり指摘されてウィリアムはあわてて話をきりかえた。
「いやまあ、細部のメカニズムはともかく状況ははっきりした。内心台風の目のような無風地帯を期待していたんだけど……船はどんどんあの中心に引き寄せられていっていずれ中心部分の『降着円盤』にひきずりこまれるだろう。あの高温高速の岩石の渦流にもあるいは船体は耐えられるかもしれないが、中に乗っているわれわれはあんまりありがたくはない……」
「すくなくとも子供たちをそんな危険にあわせるわけにはいかないことは確かだわ」
「うん。なんとしてでもその前に脱出するんだ。さいわい雨はやんで微かに陽射しもある。とりあえずこの位置で時間を稼いでいれば船体表面の雨水が蒸発してメインエンジンが使えるようになるはずだ」
「うん。やってみるしかないわね」
 寸刻を惜しむかのようにカシルは操縦席に飛びつくとすばやく身体を固定した。
「バーニア全開で気流に抵抗してみます。かわりに子供たちをお願い!」

*

 息詰まるような時間が流れた。なんとか姿勢制御エンジンの最大推力が使えるようカシルは操船テクニックの粋をつくして船体の向きをコントロールしつづけた。いっぽうウィリアムは身体中に医療ナノパッドをぺたぺた貼られたユルグとそのお兄ちゃんの珍しい姿を飽きもせず眺めているミヒョンをそれぞれコントロールルームの対Gベッドにくくりつけるべく育児テクニックの手練手管をつかっていた。
「頼むから、ミーちゃん。ちょっとの辛抱だからおとなしくここにいてくれ」
 「いや――おにいちゃんのそばにいたい。それに揺れるからみーちゃんベッドは嫌!」と宣言する娘をウィリアムは説得した。
「おにいちゃんは加減が悪いのだからしばらくそっと寝かしておいてあげなさい。見守るのなら隣のベッドでもできるだろう? とにかくいまは緊急事態なんだからおとうさんの言うとおりにしなさい」
 ミヒョンは憮然とした様子ですこし考えてから言った。
「……アイちゃんといっしょならいいかな」
 ウィリアムはほっとして玩具がごちゃごちゃつまったネットの中からテディベアをつかみだしベッドの固定ベルトにはさみこむと娘の頭をなでつつ言った。
「よし、いい子だ。それじゃしばらくおにいちゃんを頼むぞ」
「まかせて!」

 あの『まかせて』はどうも母親の言い方にそっくりだな――苦笑をうかべつつ操縦席にもどったウィリアムは窓の外を見て再び表情をひきしめた。ちょっとの間に船はかなりすり鉢を滑り落ちていたのだ。
「やはりバーニアだけでは無理か?」
「……推力が決定的に不足しているわね。いっそうまずいことに推進剤の水が底をつきかけている。たぶんもってあと十分――」
 唇を噛みしめつつウィリアムは考えた。
「なあ、このさいメインエンジンを強制点火するしかないんじゃないか?」
「でもエンジンが完全に破壊されるかも……そうなったら二度とこの星から出られなくなるわ」
「わかるけど嵐のほうは目前にせまった脅威だぜ。考えてごらん。渦の中心での風速はどのぐらいになると思う?」
「いまは想像したくもないわね……」
「風にまかせて中心まで巻きこまれたら――最悪十数Gの遠心加速度がかかるかもしれない。しかも抜け出せるまでその状態がつづくんだぞ。子供たちをそんな目にあわせられるかい?」
 ふたつの危険を比較する十数秒間の沈黙ののちカシルは答えた。
「他に道がないなら迷うだけ無駄か。一か八……侵入した雨が水蒸気爆発でエンジンを吹き飛ばすほど多くないことを祈って――強制点火するわ」
「耐Gベッドにもぐり込むから一分間まってくれ。その後はいつでも好きなタイミングで始動してくれていい」
「了解!」
 間髪をいれずカシルはエンジンの強制点火シークエンスにはいった。あえて管制プログラムを停めているため、いつものようなモニター画面の刻々変化する彩りはない。ただ黒地に白く表示されたテーブルを片目にカシルはもくもくと手動でシステムのチェックをすすめていく。その間ユルグとミヒョンの隣で耐Gシートに身体を縛りつけながらウィリアムは自分たちの決定が果たして正しかったかどうか、もういちど内心の不安を噛みしめていた。
 『強制点火(フォースド・イグニション)』――とは言ってもロケットがまだ化学燃料を積んでいたはるか古代からの伝統的言い回しにすぎない。このサガで燃料として使われるのは磁気によって極低温に冷やされ液化された重水素とヘリウム3であり『燃焼』とはそれらが多層に配置された触媒を介しつつ陽子とアルファ粒子を生成する核子レベルの融合反応なのだ。通常は反応後、磁界で整列された混合プラズマはほとんど抵抗なく船尾のノズルから高エネルギービームとなって噴射される。しかしいまそのノズルは大量の雨水でふさがっている。超高温のプラズマに触れた水は瞬間的に気化し――アルファ粒子つまりヘリウム原子核と陽子に叩かれた一部はさらなる融合反応とともに同位元素を生成し他の一部はそのまま単体の酸素と水素に電離するが――大部分は高温の水蒸気となりその体積を爆発的に増大するはずだ。
 確かに惑星探査クルーザーの主エンジンはある程度の衝撃に耐えるよう設計されてはいる。反応室内にとりこまれた探査惑星の大気もやはり融合反応熱により急速に膨張するからだ。しかし今回のように大量の水が一度に水蒸気になる場合はその膨張の割合は桁違い――わずか一リットルの液体が一瞬のうちに千七百リットルの気体に変化するのだ。かつてチェルノブイリで頑丈な原子炉の一次圧力隔壁を吹き飛ばしたことからわかるように水蒸気爆発は想像以上の破壊力をもっている。ノズル方向は開かれているが問題は反応室方向――そこにはミューオン・マトリックスを含む低温触媒反応型核融合エンジンのもっとも重要かつデリケートな中枢部分が集中しているのだ。もしそれが爆発の衝撃に耐えられず破壊されたら……自力での修復はまず不可能だろう。
 ――ほんとうに自分たちの決定は正しかったんだろうか?
 迷いを断ち切り難く気弱にそう考えたとき隣の耐Gベッドに横たわっているユルグのつぶやくような声がウィリアムの耳にとどいた。
「パパ……」
「うん? どうした? 気分がわるいのか?」
「ううん――だいじょうぶ。なおってきたみたい」
「そうか。衝撃で舌を噛むといけないからいましばらく黙っていなさい」
 そう言いきかせてから彼は内心の衝動のままつけくわえた。
「――いつも危ない目にあわせてばかりいてほんとうにすまないな」
「平気だよ。あんなのなんでもない……あと、さっきはありがとう。パパ、助けてくれて」
 不意に喉がつまり咳払いとともに「ああ」とだけ言ったとき、まるで巨大なハンマーで殴られたような衝撃がサガの船体を震わせた。

つづく

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