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レゾナンス

(2)

中条卓

柔らかいスポンジですっぽりと頭をくるまれ、検査のあいだ頭が動かないよう固定する幅広のストラップを額に掛けられたナミコを載せた検査用の寝台は、膨大な重量感で周囲を威圧するMRスキャナーの中心部へ、ゆっくりと滑り込んだ。装置の内部は窮屈だったが、目の前には自動車のバックミラーに似た広角の鏡が据えられていて、検査室の内部が見わたせるようになっている。室内にはまがい物ではあったが観葉植物の鉢植えが置かれ、壁紙は緑の中を流れる渓流の写真を実寸大に拡大したものだった。

(被験者に不安を与えないように工夫されているんだわ)

ナミコはほっと息をつくと目を閉じた。かすかに風が流れ込んで来る。音楽を聴きながらこうして横たわっていると、リラクセーション用の睡眠槽にでも入っているようで、とてもこれから頭をスライスされて中身を調べられるという実感は湧かなかった。

「気分はどうですか。中にマイクが設置してありますから、何か変わった事があったら遠慮なく声に出して言ってください。」

突然イアホーンからキクチの声が響いた。

「それでは、まず機械のチューニングをします。少々うるさくなりますが我慢してください。」

まもなく硬質プラスチックの板を連打するような音が聞こえはじめた。イアホーンから流れる音楽のせいで、音自体はさほど気にはならなかったが、腰骨に直接響いて来るようなその振動はかなり異様で、何かしら背筋が寒くなった。振動は一旦はおさまったが、その後も何度かの休止を挟んでは様々なリズムで繰り返された。いつの間にか間遠になった振動を心臓の鼓動のようだと思って聞きながら、ナミコは眠りに落ちていった。

…男には顔がなかった。新聞に顔写真が載ったし、面通しだってしたのに、ナミコは今でもその男の顔をはっきりと思い描くことができなかった。男の顔は暗い鏡のように、刻々と変化するぼんやりとした何かを写すことはあっても、はっきりとした輪郭を持つことはないようだった。今、男の顔は気弱で臆病な性格と下卑たなれなれしさを同時に表していた。

「あんた中国人だろ。」

無視して通り過ぎようとするナミコに向かって、なおも男は声を掛けてきた。

「俺、中国に行った事があるんだぜ。」

懐かしさから声を掛けてきたのかも知れないと思い直して、ナミコは歩みを緩めると男の方を振り返った。西洋人にしては小柄な、といってもナミコよりは頭ふたつ分ほど背の高い、痩せた赤毛の男だった。

「私、日本人です。」
「じゃあトウキョウから来たんだ。そうだろ。」

男はナミコに追いつくと、ポケットに手を突っ込んだまま、ナミコの2歩ほど斜め後ろを歩き出した。

「ええ、まあ。」

ナミコは大学の研究室に置き忘れてきた、今夜中に仕上げなくてはならないレポートを取りに戻るところだった。朝晩通り抜ける公園だったが、こんな遅い時分に歩くのは初めてだった。時折通り過ぎるジョガーを除くと、人通りが極端に少ない。ここから先は噴水のある広場まで並木道が続く。ナミコはまた足を速めた。

男は別に急ぐ様子もなく、それ以上声を掛けてはこなかった。並木道にナミコの足音だけが響く。だが、植え込みの角を回ったところで、細い脇道からさっきの男が再び現れた。

「へへへ」

男の顔からは先刻の気弱さが消え、半分眠ったようなとろんとした表情が浮かんでいる。突然、唇の片端を奇妙にねじ曲げると、熱に浮かされたようなぎらぎらとした光を見せながら、男は言った。

「さあ、兎ちゃんよ、逃げてみな。」

ナミコは男の視線に背中を貫かれながら走りだした。

「よーい、どん!」

男はおどけた調子で怒鳴ると、楽々と大股で追いすがって来た。ナミコの周りだけ空気が急に粘っこくなり、身体を動かすのも息を吸い込むのにも大変な努力が必要だった。冷汗が流れ、男の荒い息が耳元に迫ってきた。

いつの間にかナミコは公園の隅に追いつめられていた。濃い緑の影を映して小さな大理石の噴水が空中に糸を吐き出し続けている。「顔のない男」はもはや急いではいなかった。後ろから男に殴りつけられた右のこめかみがずきずきと痛んだ。男は明らかに獲物が生きていようと死んでしまおうと構わずに捕食するつもりらしく、その殴打には全く手加減が感じられなかった。ナミコは間近に追った死の恐怖にすくんでしまい、男がベンチの上にナミコを横たえ、慣れた手つきで下着を下ろすのを感じながら抵抗もできずにいた。男はないはずの顔に冷たい笑みを浮かべていた。男の身体の重みを感じながら、ナミコの意識の片隅の醒めた部分は、この情景全体が忘れようと努めてきた3年前の記憶の執拗なほど正確な再現なのだと気づいていた。悪夢は物音や色彩の細部に至るまで鮮明だったが、何かが以前とは違っていた。何か小さな、けれど決定的な違い…男の顔の中の闇が急速に広がってナミコを呑み込もうとする。無我夢中で払いのけようとしたが、両腕は金縛りにあったように動かすことができない…

もがきながら浮かび上がろうとする意識の底で、ナミコは誰かが自分の名を呼ぶ声を聞いた。

「ミモリさん、大丈夫ですか、ミモリさん。検査は終わりましたよ。」

目を開けると心配そうにのぞき込むキクチの顔があった。

「ごめんなさい。私、すっかりいい気持ちで寝込んでしまって。」

「いえ、いい夢だったら構わないんですが、なんだかうなされているように見えたものですから。」

キクチはナミコの身体に回していた固定用のストラップを慣れた手つきで外しながら応えた。クリーム色のストラップはベルクロテープが剥がれる時の耳障りな音を立てた。

キクチはいつもに似ず口数が少なく、何やら沈痛な面もちで診断用コンソールに向かっていた。最初にCRTに出てきた画像は頭をまん中で、いわば真っ向唐竹割りにしたもので、奇妙な果実のような格好をした脳は、頸椎の中に納まった驚くほどか細い脊髄の上に危なっかしく乗っていた。次いで一連の輪切りの画像が現れた。

「MRIのこの撮像方法では、頭蓋骨は黒く、水が白く映ってきます。」

キクチは操作盤の上に素早く指を走らせながら簡単な解説を加えた。

「ひとつ質問してもいいですか?」

ふと浮かんだ疑問をナミコは尋ねてみた。

「かまいませんよ」

「この機械は研究用ということですけど、例えば大学病院なんかに置いてあるものと、どこが違うんですか?」

「よくぞ聞いてくれました」

キクチの口調はすでに普段のものだった。

「こいつのセールスポイントはふたつあります。ひとつは通常のスキャナよりもはるかに高い静磁場強度を出せること。超高磁場強度では、例えば心臓の動きをリアルタイムに観察したり、脳の高次機能を画像化したりといった芸当が可能になります」

「もうひとつは?」

「磁場強度を自由に変えられるってことです。超高磁場強度のスキャナはたとえてみれば電子顕微鏡みたいなもので、特殊な症例の検査には欠かせませんが、一般向きじゃない。そこで、普段は比較的低い磁場強度で一般的な検査をこなし、特殊な症例にぶち当たったら精密検査用に磁場強度を高くしてやるんです。いわばオールマイティなスキャナですね。で、今日は低磁場でふつうの画像データを取らせてもらいました」

うながされてナミコはモニタに見入った。初めて見る自分の頭の断面は均整のとれた卵形で、その中心部にはリンゴの芯に似た白い腔がきれいなシンメトリーを見せて並んでいた。ナミコは自分の頭がいびつな格好ではなかったことに少なからず安堵した。

最上部の画像では脳室という名の白い腔が消え、左右ふたつの大脳半球はクルミに似た複雑な皺を見せている。

ページをめくるように次々に画像を呼び出していたキクチの手がふと止まった。思わずナミコが画面をのぞき込むと、さっき見た脳室の周囲に、ぱらぱらと点在する白い斑点がいくつかあるのに気づいた。ナミコは斑点を指さして尋ねた。

「この白い点はなんですか。何か悪いところでしょうか。」

「いや、磁場の乱れによって生じた偽像だと思います。問題はないですよ。」

しかしナミコはキクチの声の調子に含まれたかすかなためらいを聴き逃さなかった。その後もキクチは考え込んでいる様子で、ナミコの質問にも上の空だった。

その晩、研究所全体が寝静まった時刻に、キクチはひとりで画像診断用のコンソールに向い、昼間撮像したナミコの頭部の画像を呼び出していた。数えてみると、ナミコの脳の中に散らばる白い点は全部で5個あり、いずれも小さなものだったが、偽像として片付けてしまうには数が多すぎた。キクチはコンソールを離れ、コーヒーメーカーに残っていた冷え切ったコーヒーを、机に置きっぱなしになっていた汚いカップに注ぎ、それを手にしたまましばらく部屋の中をぐるぐると歩き回っていた。

(両側大脳半球および小脳の白質を冒す病気? 無症状で?)

再び机に向かうと、積み上げられた雑多なファイルやテキストの一番底の方から読みかけの医学雑誌を取り出し、ページをめくり始めた。

(これだ。両側性、多発性の白質病変の鑑別・・・多発性硬化症、進行性多巣性白質脳症・・・)

英語の論文には聞き慣れない病名が羅列してあった。キクチは昔の記憶をたぐり寄せながら読み進んだ。

(老人性変化、のはずはなし・・こいつは男だけの病気だし・・健忘と痴呆を主徴とする、か。彼女、頭は切れるからな。でも性格は悪くない。それになかなかの美人だ)

相変わらず歩き続けながら、キクチは机からオーディオ機器のリモコンを拾い上げ、スイッチを入れた。スピーカーからは毎晩のように繰り返し聴いているビートルズが流れ出す。小さく口笛を吹き、曲に歩調を合わせながら彼は読み続けた。ナミコが病気なのかどうか、病気だとしたらどんな病気なのか、どうあっても知りたかった。なぜなのかは自分でもわからなかったが、病名を知ることがナミコにとってのみならず、自分にとっても重要な、恐らく互いの人生に関わるような重要な問題だという気がしてならなかった。

(これは予知だろうか? 俺にはまた新たな能力が芽生えているのだろうか?)

無症状で偶然発見されることがある病気を調べているうちに、キクチの口笛が止まった。

(これか? これなのか?)

「まさか…」

口から漏れた言葉とは裏腹に、キクチには求めていたものに行き当たったという確信があった。後天性免疫不全症候群(AIDS)。“Let it be”のイントロのピアノを聞きながら、キクチはじっと立ち尽くし、その不吉な4文字語を見つめていた。

翌日、研究室スタッフの心理テストについて了解を得るためナミコは検査室に足を運んだが、キクチはひどく疲れた様子で、なぜかナミコと目を合わせるのを避けているようだった。

「ちょうど今磁場強度を上げるテストが始まったところなんですよ。ちょっと待ってて貰えますか」

ナミコは所在なげに操作室の隅の椅子に腰を下ろした。マイクを通じて流れてくるのは例のプラスチック板を叩くような単調な音で、ボリュームを絞ったその音は人を催眠状態に陥れる作用があるようだった。ナミコはぼんやりと磁気シールド入りのガラス窓越しに検査室内を眺めながらうとうとしかけていたが、ふと胸騒ぎを感じてキクチの方を見やった。既に撮像が終わり、診断用コンソールに折れ線グラフのような図形が表示され始めていた。キクチはじっと画面を見つめていたが、そのまま筆記用具を探して操作盤に手を伸ばした。その時、奇妙な現象が起こったのだった。最初、ナミコは手品を見せられているような気がしたが、目の前で起きていることの意味に気づくと、息をつめて大きな目をさらに見開いた。キクチの指先から数センチ離れた所に置いてあったボールペンが、しばらくためらうように揺れていたかと思うと、指の先に仕込んだ磁石に引かれたかのように転がっていったのだった。

(PK!)

キクチは異常に気づいた様子もなく、ボールペンを掴むと検査用紙に何やら書きなぐっている。やがてペンを置くと、ひとつ大きな伸びをして振り向いた。

「どうもお待たせしました。…どうしたんです? 僕の顔に何かついてますか」

ナミコは慌てて首を横に振ると、気を取り直して検査の日程について相談を始めた。話しながらナミコは、心理テストの中に、超能力検出用のいわゆるESPテストを含めようと秘かに決心していた。

テストの結果は本来なら驚くべきものだったが、ナミコはこうなる事をあらかじめ予想していたような気がした。テストはテレパシーと透視能力を検出するためのもので、5種類のESPカードを用いる古典的なものだったが、研究所のスタッフは一人を除いて全員が平均以上の高得点を示していた。データの数が少ないため、統計学的に有意な結果とは言えなかったが、ナミコ自身もまたかなりの得点を上げていた。

(超高磁場が人間の潜在能力に与える影響―確かにこれはもっと詳しく調査する必要がありそうね)

しかし、たった一人だけ平均そこそこの得点を示したスタッフの名前を確認した時、ナミコは思わず声をあげた。

「キクチさん?」

予想では、他のスタッフはともかく、キクチだけはこのテストで明らかな超能力の証拠を示すはずだった。

(あの人が見せたのは間違いなくサイコキネシスだった)

高磁場の影響で発達する能力の種類に個人差があるのかも知れなかった。しかし、そうだとすると他のスタッフ全員が透視と読心の両方で高い点を取っているのとは合わなくなる。

ナミコはキクチのテストの応答を記録した用紙をもう一度詳しく調べてみた。ESPカードは星形や波模様などの単純な5種類のパターンを厚紙に印刷したものだ。例えば透視のテストでは、裏返しにテーブルに置いたカードを被験者が数秒間見つめ、心に浮かんだ図形を予め与えられた5種類のカードから選んで検者に提示する。検者はテーブルに置かれたカードの順番と被験者のそれに対する応答を別々に記録しておくのだ。応答の正否だけでなく、その順番まで記録しておくのには意味がある。不思議なことに、被験者の中には、現在テーブルの上に載っているカードではなく、常に1枚先のカードを「予知して」答えるものがあることが知られているのだ。こうした場合、単純に正答率を計算すると、この予知能力者の点数は平均よりも「異常に」低い値となる。なぜなら、同じカードが続けて出た場合以外、彼の答はことごとく外れてしまうからだ。ナミコはキクチの答をコンピュータに入力し、1枚先、2枚先、3枚先・・のカードとの対応を調べてみたが、有意な相関は得られなかった。

こうなると、考えられる可能性はふたつにひとつだった。キクチには全く超能力がないのか、あるいは全てのカードを正確に読み取るほどの能力を故意に隠しているのか―

(あたしが自分の能力を隠そうとしたら、どうするだろう。まるっきりでたらめに答える? それはかえって危険だわ。回答は平均を上回っても、下回ってもいけないのだから)

ナミコは考え続けた。

(あたしだったら、5回に1回の割合で正しい答を提示して、残りの4回はわざと間違えるだろう)

ナミコはキクチの回答をプリンターから打ち出し、正解に丸印を付けてみた。丸印は一見不規則に並んでいるようだったが、回答を最初から5つずつの組に区切ると、各組の中に必ずひとつの丸印が含まれていた。言い換えると、キクチの回答は5回のうち4回は必ず間違っており、1回は必ず合っていた。これは偶然には起こり得ない。ナミコはついにキクチの尻尾を掴んだのだ。

*          *

昼食後、ナミコは自室のベッドに腹這いになって、無線LAN経由でノートパソコンから米国医学図書館の文献データベースにアクセスし、超高磁場が人間の精神に与える影響についての報告を漁ってみた。

1920年代にはイギリスのW・E・ボイド博士が高周波電流によりテレパシー能力を高めるエマノメーターなる機械を発明し、一時は英国政府がこの研究に資金援助をしていた。1970年代の超心理学会誌には、高周波機器を用いて仕事をしていると時折テレパシー能力を得ることがあるというワシントンの電子工学技師の談話が掲載されていた。
1980年代には高圧電流の周囲に生じる磁場が付近の住民に与える影響についての疫学的研究が発表されていた。カリフォルニアで行われた研究では妊婦が週に20時間以上コンピュータの端末を操作した場合には流産のリスクが倍になる事が判明した。ボランティアによる実験では、正常人が電磁場に曝された場合に心拍数が減少し、脳波のパターンが変化することが判明している。

(面白いことは面白いわね。とりとめがないけど…)

画面を次々とスクロールし、必要な部分はプリントアウトしながらナミコは読み進んだ。

こうした事例のうち最も有名なのは、映画化されたこともある、いわゆるフィラデルフィア実験だった。この大がかりな実験は米海軍が行ったという事情もあってその実体は全く謎に包まれており、事実関係の詳細は全く不明だったが、成書に記載されているその内容は1943年10月、米海軍がフィラデルフィアのドックに停泊した駆逐艦上に「途方もなく強力な」磁場を築いたところ、駆逐艦は次第に透明になって姿を消し、次いでもうひとつの定期ドックであるヴァージニア州ノーフォークに出現したというショッキングなもので、乗組員の半数がその際に精神に異状を来した、というおまけ付きだった。しかしながら、超伝導磁石が実用化されていなかった時代にそんなに強力な磁場を作ることができたはずがないというのは、物理に弱いナミコでもすぐに気づく疑問だった。消えたのは駆逐艦ではなく潜水艦であり、問題の艦は巨大なメビウスの帯の形に巻かれたコイルに沿って海中を航行したとする異聞に至っては噴飯ものだった。

(ろくな記事がないわね)

検索の最後の方に出てきたのは学術書ではなく、一般向けの教養書からの引用で、不正確な記事が多くなった。ナミコはタバコに火をつけるとプリンターのスイッチを切ろうとしたが、誤って最後の文献を印刷してしまった。吐き出された紙を破り捨てようとしたが、思いとどまって机に放り投げる。ナミコはタバコをふかしながら天井を眺めて物思いにふけった。

夕立の音にはっと我に返ると、部屋は既に薄暗くなっていた。床に置いた灰皿にはほんの2、3回ふかしただけでもみ消された吸殻が山になっている。喉がいがらっぽかった。机の引き出しからキャンディーの缶を取り出し、ひとつぶ口に放り込んだ。ふと机の上を見ると、さっき誤ってプリントアウトした文献が目に入った。それはレスブリッジという英国の考古学者(!)が生前に刊行した最後の著書からの引用だった。

「…この機器には、実験者の周囲に力場を生み出す発電機が必要だが、これは円形の枠の中に収納されるだろう。生体電子工学的な力場を現実の肉体から第二の渦巻の波動に変換すれば、実験者は無時間帯の中に入り込み、時間の中を自由に動きまわれるようになるだろう…」

引用文の後半は無意味なたわごととしか思えなかったが、「円形の枠」という言葉が気にかかった。それは硬質プラスチックの覆いを取り外してキクチが見せてくれた、制作途中のMRスキャナーの内部を思い出させた。むき出しのコイルが複雑に錯綜する電流の迷路を眺めていると、その中ではどんな事が起きても不思議でないような気がしてくるのだった。ナミコは椅子に腰掛けて足を組み、2箱めのタバコの封を切った。

(あの人にはいったいどれだけの能力があるのかしら)

ナミコは再びキクチの検査成績について思いを巡らしていた。透視だけでなく、テレパシーの検査でもキクチは正確に20%の正答率を示していた。それは、彼が自分の並外れた能力を自覚していて、しかもそれをナミコから隠そうとしている事を意味していた。

キクチはナミコが彼の正体を見抜いたことを感じているだろうか? ナミコはテレパシーについて多くを知らなかったが、対象に注意を集中しない限り心の中を覗くことはできないだろうと思われた。普通の人間ならテレパスとわかっている相手との接触を避けたがるところだが、ナミコは臨床家らしく、むしろ珍しい症例に遭遇したときの興奮を覚えていた。残り少ない調査期間内にどれだけのデータを集められるか、それはキクチを相手どったゲームのように感じられた。

「今日も超能力の勉強ですか」

談話室に文献を持ち込んで読みふけっていると、いつの間にか後ろに立っていたキクチが声を掛けてきた。最近ナミコは、自分の部屋で仕事をするのに飽きると職員用の談話室に文献やノートパソコンを持ち込むことにしていたが、休憩したくなると、決まってキクチがコーヒーを飲みに現れるのだった。それは単なる偶然かもしれないし、あるいはキクチがそのテレパシー能力を使ってナミコを牽制しているのかもしれなかったが、ナミコは好んでキクチを議論に引き入れようとした。

(相手に心を読まれないように注意しながら秘かに観察すること)

ナミコは内心このゲームが気に入っていた。

「ええ、大学で昔単位は取ったんですが、パラサイコロジーなんて日本ではゲテモノ扱いでしょう。もうすっかり忘れてしまいました」

氷水のコップとコーヒーカップを載せたトレイをテーブルに置き、キクチはナミコの向かいに陣取った。

「超能力と言うと、テレパシーとかサイコキネシス、テレポーテーション、あとどんなのがありましたっけ」

「ずいぶんと種類があるんですのよ。分類法にもよりますけど。巡行透視、物品取り寄せ、予知能力、サイコメトリー…」

「ああ、それはテレビでやってましたね。ライターとかマフラーにさわっただけで持ち主の素性を当ててしまうというやつでしょう。医者にとっては便利だな。黙ってさわればピタリと当たる。そうそう、昔の映画で『時を駆ける少女』なんてのがありましたっけ。あの主演の女の子は可愛かったな」

頭の回転が速い人間の常で、キクチの話題はすぐに横滑りして主題から離れていく。話題をコントロールして議論を進めるのはナミコの役目だった。

「タイムトラベラーですか。あれはSFの中だけのお話でしょう。現実にはありえない事ですわ」

「タイムパラドックスですか」

キクチはナミコの口調をまねて答えた。

「タイムマシンは決して作ることができない、なぜならば未来のどこかある時点でマシンが制作され、過去への旅行が行われたならば、そのマシンは既に人類史上に現れているはずだから、というわけですね」

(どうやら今日のテーマは「時間旅行の可能性」になりそうだわ)

「親殺しのパラドックスというのも有名ですわ。とにかく過去への旅行というのは無理があるみたい」

「過去に限らないですよ。もしも現在以外の時点から自分を連れて来ることができれば、理論的には自分を無限に増殖させることができる。たったひとりの人口爆発だ。昔は結構SF好きでしてね。タイムマシンの可能性を理論的に考察するのなんか大好きでした。パラレルワールドというのをご存じでしょう」

キクチは政治や経済といった方面にはほとんど興味を示さなかったが、自然科学関係の話題となるとすぐに飛びつき、呆れるほどの該博な知識を披露するのだった。

「瞬間毎に無限に分岐した世界が平行した時間軸に沿って無数に存在するという理論でしょう」

「そうです。例えば時間旅行者が過去に行って過去の世界をいじくると、そこからまた世界が分岐して別の時間軸に沿った世界が出現するわけだけれど、彼がもといた世界は実際には影響を受けない。こういうのはどうです」

「結局世界を変える事はできないという悲観的な結論になりそうですね」

キクチはしばらく考え込んでいたが、急にいたずらっぽく目を光らせた。

「あるいは時間旅行者というのはありふれた存在なのかも知れませんよ。この世界は実際には彼らの手によって不断に改変されているのだけれど、普通の人間にとってはそれを知る手だてがない・・・ナミコさんは過去を変えられたらいいと思ったことがありませんか」

テレパシーの触手に撫でられたような気がして、一瞬ナミコは身をすくめた。

(カレニアノコトヲシラレテハイケナイ)

時間を稼ぐためにタバコに火をつけながら、ナミコは努めて平静な口調を保って答えた。

「それはしょっちゅうですわ」

キクチはナミコの様子には構わず、半ば自分自身に言い聞かせるような口調で、掌の中の冷めたコーヒーカップを見つめながらゆっくりと話し始めた。

「こんなふうに考えたらどうでしょう。既に起きた事でも、それが事実として記録されるまでは未確定であり、またそのような事実だけが変更可能である。いわばマクロスコピックな不確定性原理です。例えばJ・F・ケネディが1963年11月22日にダラスで暗殺されたという事実は変えようがないでしょう。あまりにも膨大な記録、あるいは記憶によって補強されているからです」

「でも…」

ナミコが口を挟もうとするのをさえぎって、キクチは話し続けた。

「でも、例えばこんな話はどうです。ある億万長者が死んで遺言を残したが、彼はそれをひとりで金庫にしまい込んで、10年後に公開するように命じたとします。金庫は厳重に見張られていて、遺言を盗みだして書き換えることはできそうにない。でも遺言の内容は誰も知らない」

キクチは顔をしかめながらコーヒーの最後の一口をごくりと飲み下した。

「まずいコーヒーだ… 僕がもし遺産の相続を狙ってて、しかも、自分自身が時間旅行者だったとしたら、こんなチャンスは見逃しませんね。億万長者が遺言を書く前に遡って、遺言の内容が自分に有利になるように全力を尽くします。遺言の内容だけが、この場合僕がいじくることのできるすべてだからです。生前に譲渡を受けたりするわけにはいかない。彼が死んで、その財産を遺言に託したというのは変えられない事実だからです。でも、誰もその内容を知らない遺言の文面は確定されていない」

「なんだかおかしいわ。そう、時間旅行者が時間を遡って遺言を書き換えさせたというまさにその事実はどうなるんですの?」

「まさにその事実が記録されなければいいんです。だから言ったでしょう。僕自身が時間旅行者だったら、って」

議論というよりはキクチの独壇場になりそうだった。

「世界は私が目を開いている間にしか存在しない。なぜなら、私が目を閉じた途端、世界は私の前から消滅するから」

「そんなの詭弁ですわ」

「かも知れません。でも私が目を閉じている間もこの世界は変わらずにいるかどうか、私は検証することができない、つまり、こういった問題は論理学の枠に入らないんです。因果律と同じだ。だからウィトゲンシュタインだって『自然法則が存在する』としか言わなかった。明日も日が昇るだろうというのは誰もが受け入れている仮定だけれど、決して自明の真理ではない。そうそう、この間面白い見解を読みましたよ。因果律が存在するかどうかは決定できないけれど、因果律が概ね成り立つような世界だからこそ人間という知的生物が出現して、こういった問題に頭を悩ませるようになった、というんです」

キクチはようやく論告を終え、頭の後ろに両手を組むと椅子の背に寄りかかった。ナミコは思わずため息をついた。

「あ、それはどこかで読んだことがあります。人間原理っていうのかな。さっぱりちんぷんかんぷんでしたけど。それにしてもずいぶん物知りなんですね。キクチさんって、まるで知識のコレクターだわ。でも、サイエンスにしか興味がないみたいですね」

「そういうわけではありませんよ。でも、人間相手の商売は苦手です。だから医者をやめてしまった」

怪訝そうなナミコの表情に気づいて、キクチは言い添えた。

「前に言いませんでしたっけ。僕は昔、といってもほんの数年前まで大学病院の勤務医だったんですよ。」

言いながらキクチはナミコをじっと値踏みするように見つめていた。そう言われてみれば、彼がこんな時に見せる冷たいまでの凝視は、医師が患者を診察する時のそれのようでもあった。ふたりはしばらく無言で互いの表情の意味を探っていた。

*          *

夢の中でキクチはナミコの部屋を訪れていた。窓際のベッドにはナミコが横たわり、安らかな寝息を立てていた。部屋は常夜灯のぼんやりとした明かりに照らされているだけだったが、キクチの目には全てが白昼の明白さで映じていた。殺風景だった部屋の中はほんの短い間に女性の部屋らしい、こぎれいで穏やかな感じに変わっていた。それは壁に飾られた絵葉書やレースのテーブルクロスが醸し出す雰囲気のようだった。

ナミコはきちんと首の所まで薄い夏用の毛布をかぶっていたが、キクチが目を凝らすと、その下の花柄のパジャマが透けて見えた。小さめだが形のよい胸にうっすらと汗をかいているところまで見えてくると、キクチは慌ててベッドから目をそらした。わずかに開いた窓から吹き込む風に乗って、何か花の香りが漂ってきた。窓際のサイドテーブルにはキクチが今まで見たことのない薄紫の可憐な花が白磁の花瓶に活けられていた。近寄って見ると、その花は竜肝にいくらか似ていたが、もっとほっそりとしていて、花弁にピンクの縁取りがあるのだった。

(随分リアルな夢だな)

手に取ってよく見ようとした時、気配を感じて振り返るとナミコがうっすらと目を開けてこちらを見ているようだった。

「キクチさん?」

ナミコの声を背中に聞きながら、キクチは急いでドアを開けて外へ出ようとした。廊下に誰もいないことが、彼にはわかっていた。キクチの身体は半透明になってするりとドアを通り抜け、まだ夢うつつのナミコの前から姿を消した。次の瞬間には、キクチは自分の部屋に戻っていた。ドアを開けた記憶も、廊下を通り抜けた感触もなかったが、途中、ほんの一瞬、奇妙なめまいを感じたのを憶えていた。まだ鼓動が速かった。

(こんなに何でもできる夢なら慌てる必要はなかったな。彼女の目を閉じてまた眠らせてやることだってできたかも知れない)

ナミコの寝顔をよく見られなかったことがいささか残念だった。

(?)

ふと気がつくと彼の身体は自分のベッドの足元の天井に近い所に浮かび、眠っている自分を見おろしているのだった。眠っている自分はぴくりとも動かず、呼吸さえひどく間遠だった。

(おい、起きろよ)

声を掛けようとしたが、空中にいる方の自分には発声器官が備わっていないのか、声は出せなかった。それでも呼び掛けは通じたらしく、ベッドの中の自分はかすかに身じろぐと、うっすらと目を開けた。すると、キクチの目前にもうひとつの視野が開けて、イメージが二重写しになった。彼は空中に浮かんでベッドを見おろしていると同時にベッドの中から空中の自分を見上げていた。ふたりのキクチは共に当惑の表情を浮かべていた。

(自己増殖)

昼間ナミコに喋った言葉の断片が同時にふたりの脳裏をかすめた。互いに手を伸ばそうとした刹那、空中にあった自分が爪先から裏返しになると、あっという間にベッドの自分の中に吸い込まれてしまった。

天井にはもう何も見えなかった。さっきまで動かせなかった手足にもようやく感覚が戻ってきた。腕を伸ばして枕元の目覚まし時計を掴むと、キクチは蛍光を発しながら回転するドラムの数字を読んだ 4:00 AM このまま起きてしまうには早すぎる時刻だった。キクチはナミコの部屋のある方角に意識を集中してみた。今度は部屋の中の様子まではわからなかったが、ナミコもまた目覚めているような気がした。ナミコの意識はぐっすりと眠った後の穏やかな満足感を放射しているようだった。キクチはなぜか安心し、再び眠りに落ちた。

その朝、キクチが職員用の食堂で遅い朝食を取っていると、庭に続く入口からナミコが現れた。

「おはようございます。今日はゆっくりなんですね」

「ええ。午前中はフリーなんです。コーヒーはいかがですか」

言うが早いかキクチは席を立ち、カップをふたつ取ると、部屋の隅に置いてあるコーヒーメーカーからナミコと自分の分を注いだ。席に戻るとナミコがテーブルの上の一輪挿しに花を活けているところだった。

「今朝はうんと早く目が醒めてしまって、守衛さんの所で新聞が来るのを待っていました。それから庭を散歩して、見たことのないきれいな花を見つけたので少し摘んで来ました。物知りのキクチさんに聞けば名前がわかると思って」

「リンネは苦手ですね。ホモ・モンストローズス位ならわかりますが…」

小さな花瓶に活けられた花を見て、キクチは息を呑んだ。それは今朝夢の中で見たのと同じ花だった。動揺を隠すためナミコの顔を見ないようにしながら、キクチは花をじっくりと眺めた。微かな香りさえ夢で嗅いだものと全く同じだった。

「いや、僕も初めて見る花です。どこで見つけたんですか」
「MR棟のそば、明かり取りのスロープがあるところ」

ナミコは歌うように答えた。ナミコが手にしているもうひとつの花束に目をやりながら、キクチは尋ねた。

「その花束はどうするんです。誰かにプレゼントするんですか」

「いいえ、部屋に飾っておきます。ドライフラワーにでもしようかな」

「花瓶なんて研究所には置いてないですよ」

キクチはかまをかけてみた。
 
「実はちゃんと持ってきてあるんです。まだ荷物の中にしまったままだけど」

(白磁の花瓶…)

「えっ、何かおっしゃいました?」

キクチの声にならない呟きが聞こえたかのように、ナミコは聞き返してきた。

「いや、何も」

「母の形見なんですけど、滞在型の旅行をする時にはいつも大事に持ち歩いているの」

(とするとあれは予知夢だったのか? それとも幽体離脱?)

呆けたように花束を見ているキクチに気づいて、ナミコはかすかに頬を染めながら言った。

「おかしいですか。子供じみてますよね。でも、高校生の時からの習慣なんです。大学生の時も」

(、留学した時も・・)

キクチの脳裏に、ナミコが言いかけて止めた言葉がこだまのように響いていた。

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