| TOP Short Novel Long Novel Review Interview Colummn Cartoon BBS Diary |

ソル・オ・テラ/ヤーヴェイ

20・DAMON

Vincent Ohmor / 白田英雄訳

 船外服に身を包んだエルノク・イアムは、幾重にも重なる鉄骨にそって移動した。すぐそばでは作業ロボットが新たな建材を鉄骨のひとつに溶接している。エルノクはそれをやり過ごして、さらに『外』へ向けて移動した。やがて、鉄骨の隙間から、辺境の星アララト星系第三惑星マラジェーツの照り返しが目に入ってきた。エルノクはなおも進み続けて、ついに鉄骨の端のところまで来てしまった。彼は腰につけていた安全索を取りはずして手近な鉄骨に止めると、そのまま命綱を目一杯のばしていって、建造物のかなりの部分が見えるような位置まで漂っていった。
新たに交易ステーションとして改装中のロンギウスクルスは、もはやもとの形態をとどめていなかった。
 もっとも、改装とはいっても、実はもとのロンギウスクルスを核にして、そのまわりに新たにステーションを作っているだけなのだが。もとのロンギウスクルスはステーションの表面近くにあるから、万が一のときは容易に外にだすことができるようになっていた。
 エルノクがロンギウスクルスを改装するときに意識したヤレーのヤーヴェイも、これと同じような方法で建造されたという。ヤーヴェイの方はブリッジブロックのほとんどがオリジナルの宇宙船だったのだそうだ。細長い形をしたロンギウスクルスの構造上、ヤーヴェイと同じにすることはできない。そこでエルノクは、ロンギウスクルスのエンジンと重力転換を、ステーションの動力のひとつとして使うことにしたのであった。このふたつをエルノクはいつもできるだけ最新のものを使うようにしてきたので、ヤーヴェイの使っているタイプより小型でかつ強力なものとなっていた。当面はこれだけででステーションの重力調整をまかなえてしまうはずである。
 いま、エルノクが眺めているのは、直径二十ミーリア、長さは約三十ミーリアのずんぐりとした円筒であった。ここは最終的にはステーションの中心近くになる予定で、これから前後にのばしていき、最後には両端がすぼまった葉巻型の、全長百ミーリアある超巨大ステーションになるはずである。

 オルミティア・マリアはあの二十年ほど前の会見以来エルノクの捜査を中止させた。しかし、彼女の後を継いで即位したサキアス--シャルク3世は彼を執拗に追跡した。エルノクがまだ若いとき、彼の弟分であったサキアスとともに『家出』を企てたが、エルノクだけが貴族社会からの脱出に成功し、サキアスは王家に連れ戻されてしまった。以来、サキアスはエルノクが彼のことを裏切ったと思い込んでいたのだ。あれは事故に過ぎなかったのに……
 そのサキアスも今はもういない。
 何年か前に、両文明の間から姿をかくして名を変え、エルノク・カミマ・ヒノモトゥスとして長老のひとりに数えられて以来、いまでは最も大長老に近い長老としてあまり自由な行動ができなくなっているうえに、ついに自由商第二の交易ステーションの長として、不自由な自由商となってしまったエルノクにとって、こうしてステーションの外に出て無重力に浸るときが一番気の休まるときになっていた。エルノクは虚空へと目を転じた。小さいころ彼を自由商に誘った星たちが今も変わらず輝いている。
「エル、そこにいたのか。」
 休息はここまでとなったようだ。ステーションを見下ろすと、誰かが彼を追って上ってくるところだった。
「ユウ、いつ来たんだ?」
 ユウはエルノクのそばまで来てヘルメットから顔を覗き込んだ。
「のんびりしているところじゃないんだよ。おまえの奥さんの件で話がある。」
「奥さん?」
「ともかくここじゃ話しづらい。中に戻ろう。」
 エルノクは名残惜しそうに星の海を眺めたが、あきらめてユウのあとにつづいた。
 エルノクの部屋の前にキャットが待っていた。キャットは無邪気に彼の腕に抱きついてきたが、これから大事な話があるからとエルノクにさとされるととふくれた顔をしていってしまった。キャットはユウがエルノクを訪ねるときはいつもこんな具合だった。エルノクのユウへの感情を何となく嗅ぎとって嫉妬しているのかもしれない。
「それで?」
 ユウはしばらく言いだしにくそうにしていた。ユウにしてはめずらしいことだ。
「実は、例の事件はあれで終わったわけではなかったようなんだ。」
「しかし、どうして? 呪いの中心だったベンヨアン女史は、つまりキャットはもう事件のことは覚えていないんだぜ。」
「当時のキャットをそそのかした人物がいたとしたら?」
「確実なことじゃないんだろ。」
「エル、あんたはキャットの部屋にあったミイラ死体のことは覚えているか?」
 エルノクは、突然話の筋から外れたような気がして戸惑ったが、すぐにあのおぞましい経験を思い出した。キャットの部屋に踏み込んだときのあの体験は一生忘れられそうになかった。
「あのあと調べたんだが、あのアパートに該当する死体は見つからなかった。」
「該当する?」
 ユウはうなずいてみせた。
「あのアパートにあの時いた人間はすべて死に絶えていたんだけど、キャットの部屋からは死体は発見されなかった。なにものかが運びだしたのか、それとも自ら……」
「すると、可能性としては、ベンヨアン女史が事の中心人物ではなかったことも考えられるわけだ。」
「ああ。しかも、エアがあの時の魔法攻撃の時の状況を記録しておいてくれたんだが、それを解析した結果、『悪魔』は完全に消滅したわけではないことがわかったんだ。」
「悪魔? それがまたよくわからないんだが。」
「オレにもよくわからない。」
 エルノクは眉をひそめた。
(ユー)は魔法空間で浄化の呪文を使った。通常の空間ではこれはもともと邪気を亜空間に閉じこめる呪文なんだが、以前やってみせたように、これは一種のウォープとしても機能するんだ。」
「すると……」
「おそらく、悪魔はどこかへ移動しただけで、また同じような事件が起こる可能性が残っている。」
 ユウはエルノクに今のことばがしみわたるのをしばし待った。
「キャットは一度悪魔と接触したことがあるわけだから、感受性が高まっているはずなんだ。気をつけたほうがいい。」
「わかった。」
 エルノクはそっとドアのほうへ移動すると、さっとそれを開いた。ドアに耳を付けて中をうかがっていたキャットは、バランスを崩して床のうえにへたりこんでしまった。
「キャット、大事な話があるから自分の部屋に帰ってろって言っただろ。」
 キャットはこたえた様子もなく、エルノクを見上げて無邪気にいった。
「え? なんのこと? それよりよく聞こえなかったんだけど。悪魔がどうしたんだって。おもしろそうじゃない?」
 エルノクは腰に手を当ててキャットを見下ろした。
「こどもの聞く話じゃない! 部屋に帰ってろ。」
 キャットはふてくされてなにか言い返そうとしたが、エルノクの毅然とした態度に渋々廊下を去っていった。
 ユウはくすくす笑った。
「まるで子供に対するような言い方だな。」
「子供だからな。」
「まだ結婚していなかったのか、もしかして。」
 ユウは呆れた声をだした。
「あの娘はまだ成人していない。それまでは俺が保護者の代わりになるつもりだ。そうするうちに、こんなおじさんよりもっと素敵な伴侶を見付けるようになるさ。」
「キャットもあんたも、いま良き伴侶が必要なんだよ。」
 エルノクは肩をすくめてみせた。
「俺の気持ちがどうだろうと、俺はまだ成年にも達していない幼い子供をめとる気はないぞ。」
「よく言うよ。元大盗賊が。」
 ユウはエルノクのサングラスの奥に隠された目をにらみ付けたが、ふと表情を崩して続けた。
「あんたの言うところの成年の基準ってなんだ? キャットが生まれた地方での成年は十三、四だぜ。平均寿命がそれだけ短いんだ。いま結婚しないことは逆に彼女を侮辱することになるってこと知ってたか? キャットにして見れば、オレだって売れ残りに見えるのさ。だからオレがあんたのところにくるとキャットは警戒するんだ。」
「ユーはどうなんだ。」
(ユー)魔術師マギストラだからな。聖職者や魔術師はたいていの場合結婚しないものだろ。冗談はともかく、キャットを守るためにも早く結婚するんだ。常に近くにいてやらないと危険なんだ。」
「考えておくよ。」
 しかし、事はユウやエルノクが考えていたよりも早く進行していた。
 キャットはまだ公式にはエルノクの妻でないだけでなく養子の手続きもされていなかったので、このステーションでは客扱いになっていた。それでも、昔からのロンギウスクルスのクルーで今のステーションのスタッフにとっては、二人の関係は公然の秘密であり、キャットは部屋から出てかなり自由にステーション内を移動することができた。いまも、エルノクに追い返されふくれていたキャットは、工事区画ぎりぎりのところまで気晴らしにきていた。
 そこは工事もほとんど終わっていて、内装だけが残されていた。気密服もいらないことから、キャットはよくひとりでこの区画まできて、ロボットや人夫たちの仕事を見たりしていた。いまはちょうど休憩時間にあたったらしく、ロボットたちを作業に残したまま人夫たちは座り込んで休んでいた。キャットはロボットたちの作業の邪魔にならないように、その動きに見いった。
 後から肩をたたかれ、キャットははっとしてふり返った。それは作業服を着たにこにこ顔の男だった。
「お嬢さんもしかしてカタリナさんかい?」
 キャットはおずおずとうなずいた。
「そりゃいい。お嬢さんに伝えたいことがあってな。」
 なおもにこにこしつづける男にキャットは気を許して、男の腰をおろした隣に座り込んだ。
「お嬢さん、最近ヒノモトゥスの旦那、冷たくはないかな?」
 キャットはついさっきのことを思い出し、口をとがらせてうなずいた。
「実はな、旦那とあのユウ・テルライという雌狐はな、お嬢さんにかくしごとをしているんだよ。ううん、もちろん、ヒノモトゥスの旦那はあのいやらしい雌狐めにだまされているだけなんだよ。ああ、かわいそうなヒノモトゥスの旦那。いやもっとかわいそうなのはお嬢さんの方だ。」
 男は顔をうえに向けて嘆いて見せながら、横目でキャットの様子をうかがった。キャットがいまや身を乗り出して話を聞いていることを確認した男は、キャットに見えないほうの口の端をもちあげてにやっとした。
「お嬢さん、確かもとはベンヨアン・キャット・エルファといったな。」
 キャットは熱心にうなずいた。
「ところで、最近、お嬢さんとまったく同じ名前をした人が、行方不明になったんだよ。」
「え? じゃその人ってあたしのこと?」
「さあて。ただね、その人は五十数才だったからねぇ。ところで、お嬢さん。あなたいくつだね?」
「十四よ。」
「いやいや、生まれてから今年で何年目になるかな。」
 キャットは指を折って数え始めた。
「ええっと、五十七年かしら。」
「そうだよね、ローダ・マリが去年亡くなったときは五十六だったんだから。その人とお嬢さんは大体同じ頃にうまれているんだ。」
 キャットは男が普通の人夫が知っていそうもないことを次々言うことに、なぜか疑問を感じていなかった。
「でも、同じ名前の別の人だろうねやっぱり。だってその人はユーロード校を出たんだもの。」
「そんな、あたしはユーロード校に通っていたわ。」
「それはおかしいな。おじさんはそのころのユーロード校の名簿を見たことあるんだけどね、ベンヨアン・キャット・エルファという名前の人はひとりしかいなかったよ。でもつい二、三日前にエルファ議員の死亡が発表されたけど……」
 そのことばがキャットの小さな胸にしみ込むのに少し時間がかかった。キャットはだんだん青ざめていった。男はその瞬間を逃さなかった。
「お嬢さんはだまされていたんだ、あのユウ・テルライという雌狐に! おまえはベンヨアン・キャット・エルファだ。ユウの奴は悪い魔法でおまえの記憶と経験を奪ったのだ。あいつは汚らわしい悪魔の裔だ。あの糞ったれはおまえを血の儀式のいけにえに使うつもりなのだ。」
 ゆっくりと、そしてだんだんと早くなる抑揚のある声に、キャットの目はだんだんとろんとしてきていた。男はキャットの手に鋭いぎざぎざの付いたナイフを握らせた。
「さあ、ゆくのだ。殺される前に殺せ!」
 無表情にキャットはうなずいて、エルノクの部屋へ引き返していった。
 あとに残された男は、立ち上がってキャットを見送りながら耳までさけるようにしてにやっと笑った。
 キャットがエルノクの部屋のところまで来たとき、ユウはちょうど帰るところだった。エルノクがまずキャットをみつけた。
「こら、部屋に帰ってろって言ったはずだろ。ああ、そうか。もうユウも帰ることだし、迎えにきてくれたのか。」
 そういってからエルノクはキャットの表情がこわばっていることに気付いた。エルノクが次のことばを発する前に、キャットはいきなりユウに飛びかかってその心臓にナイフを突き立てた。
 ユウの胸から血が勢いよく流れ出し、ナイフをつたってキャットの手にかかった。生温かいユウの血がキャットの手から床にしたたり落ち、キャットは不意に正気に返った。まじまじとキャットはユウの胸に突き立てられたナイフをみた。そしてようやっと自分のしたことに気付いた彼女が痙攣的にナイフを離し、かぼそい悲鳴をあげて崩れ落ちた。エルノクはさっと飛び出し彼女をささえた。
 ユウは胸にナイフを立てたまま膝をつき、半分つまった呼吸を止めてゆっくりとナイフを抜き去った。ナイフの突起が肉を引き千切って鈍い音をたて抜けると同時に、ユウの胸から真っ赤な血が噴水のようにほとばしった。ナイフは床に転がり、ユウは手を床について、何度か激しく咳き込んだ。ユウのもつなんらかの不思議な方法ですぐに出血を止めたようであったが、それでもユウが咳き込むたびに傷口から血が吹き出した。エルノクはそれをみてのどの奥からこみあげてくるものがあったが、それを無理矢理飲み込み、たしかに心臓にナイフが突き立てられたはずだという考えを退けようとした。
「横になるんだ。その方が体への負担が少ない。」
 エルノクは手近な電話で救護班を呼んだあとユウにいった。しかし彼女は傷口を右手で押さえ、壁に寄り掛かりながら立ち上がってナイフをキャットが来た方角の曲がり角に向かって投げた。エルノクはその方角に人影がさっと隠れるのが見えた。
「エル、賊だ。すまないが肩を貸してくれ。」
「その体じゃ無理だ! あとは俺達にまかせるんだ。」
 ユウはエルノクを見上げて口元の血を拭いながらにやっと笑った。
「おまえらのなかに、悪魔払いのできる奴がいるとでも言うのか? あいつをいま逃したら次はどんな手でくるかわからないぞ。」
 エルノクが迷ったのは一瞬だけだった。追うならすぐ行動しなければ。
 救護隊と一緒に、エルノクの副官のゲオルゴスがやってきたので、賊を追い詰めるように命じた。ゲオルゴスはユウに手を貸そうとしたが、エルノクが先にユウに肩を貸した。二人は緊急用のシャフトで工事区画へ移動した。賊はやがてそこに追い込まれてくるはずだ。
 順調に追い込みが行なわれているという報告に、ユウは眉をひそめた。
「おかしい。あいつが、本当に悪魔なら、そう簡単に、追い込まれるはずはないんだが。」
 エルノクは少しの間でもユウを横にしようとしたが、ユウはそれを拒絶した。
「いま横になったら、しばらくは立ち上がれなくなる。そうなったら、あいつと対決することは、できなくなる。それより、早く船外服を着るんだ。オレはいい。声が届かなくなると困る。それと、……」
 ユウは苦痛と貧血によるめまいに目を閉じた。
「……それとこの区画を、賊が来たら切り離すよう指示するんだ。」
 エルノクが通信機で指示をだしている間、ユウは目をつむったまましばらく精神を集中した。
 賊があらわれた。
 いままで冷静に行動していたユウはその顔を見たとたんパニックを起こしかけた。男は背がエルノクと同じくらいで髪がぼさぼさとしていた。
「ばかな……、あれはオレだ。」
「ユウ?」
「あいつはオレの本当の姿をしているんだ!」
 エルノクはユウの肩をぎゅっと抱き締めた。その痛みにユウは我に返った。
「切り離しは?」
「OKだ。」
 ユウはエルノクから離れてふらふらとしながら賊の前に立ちはだかった。男はユウににやっとしてみせたが、もはやユウは動じなかった。
 ユウはユーの心を半分解き放ち、究極の呪文を賊にぶつけた。
!」
 男は恐怖の表情すら浮かべずに平然と呪文を受け入れた。
(エルノクは賊が笑っているような気がした。)
 次の瞬間、賊の体は分解しはじめた。胸の真ん中にぽっかりと穴が開いて少しずつ分子や原子のレベルまで分解され始めたのだ。ユウは歯を食いしばって気を失わないように努めたが、そこまで来てついに意識を保ち続けることができなくなってしまった。
 そのとたん、男の体は瞬間的に蒸発し、その向こうの壁も音もなく消え失せ眼下の惑星マラジェーツが視界に入った。
 エルノクは恐怖に目を見開いた。マラジェーツの真ん中に巨大な穴が開いていき、その向こうの星空が目に飛び込んできた。そして、見る間に穴は広がり、この世から惑星マラジェーツと呼ばれた天体の痕跡は跡形もなく消え去ってしまったのだった。
 エルノクはそこまできてようやっとユウのことを思い出した。彼女は重力転換の切れたこの区画の真ん中にゆっくりと漂っていた。その顔からは血の気が失せ土色をしていた。
「ゲオルゴス! ゲオールゴス!!」
 二人はまもなくステーションに収容された。

 ステーションの医師が到着したとき、ユウはすでに息を引き取っていた。それでも、ベッドに寝かされる寸前まで息があったと聞いて、医師は驚いていた。
 正気に戻ったキャットは、エルノクに寄り掛かって声を上げて泣いた。ロンギウスクルスにいたユウに縁のあるものがすべて彼女の死を悼んでいた。
 体内の血液の大半を失い真空にさらされた彼女は、それでもぞっとするような美しさをただよわせていた。
 最初に気付いたのはキャットだった。医師が目を離しているときだった。
「ね、ねえ、エル。ユウの手が……」
 エルノクもキャットの指差すほうを見た。たった今息を引き取ったはずのユウの指先が、ぴくんぴくんと動いている! その頃には部屋に集まっていたみんながそれに気付いていた。
 ユウの指がゆっくりとこぶしを作ると同時に、空気を吸いこむすぅっという音とともにユウの胸がもちあがり、呼吸が再開され始めた。医師があわててユウの手を取って脈をはかり始めた。
「奇跡だ。いや、信じられない! 心臓が動いていないのに血の流れがある!」
「それで、ユウは助かるのですか?」
 医師は困った顔をして首を振った。
「なぜ息を吹き返したのかもわからんのです。いつ止まるかもしれない。もし止まらなくても、危険な状態なのには変わりありません。この人はもう何十分も窒息状態だったのですし、彼女の体内には普通の人の致死量以下の血液しか残っていないのです。第一彼女は事実上まだ心停止状態なんだ! とにかくすぐに患者の血液型を調べなくては。」
「その必要はないわよ。」
 いつのまにあらわれたのか、エアが医師のそばから声を掛けた。
「ユウには守護天使がついているんだもの。そう簡単には死なないわよ。」
 エアは真っ赤な液体の入ったビンを医師に渡した。
「患者の血液型とまったく同じ型の輸液よ。」
「しかし、適合性を調べてからでないと……」
「四の五の言ってるとはったおすよ! 一刻を争うんでしょ。」
 医師があわてて仕事にかかると、エアはエルノクの手を引いて廊下に連れ出した。
「あのね、なんで最初にあたしを呼ばなかったの?」
 エルノクは緊張から解放され、廊下のベンチに崩れるように腰掛けた。
「すっかり忘れてた。」
 エアは肩をすくめてみせた。
「だと思ったわ。あんた、あと少し遅れていたらユウは本当に死んでたのよ。」
「普通だったら、最初に心臓をずぶりの段階で死んでたさ。そのあとどのくらいもつかなんて俺にはわからなかった。」
 エアは腰に手を当ててエルノクをにらみ付けたがすぐに表情を崩した。
「ま、いいわ。取り合えず助かるんだから。しばらくは動かせないけどね。」
「ところで、今度こそ悪魔は完全にやっつけられたのかい?」
 エアはエルノクの隣に腰を下ろして頬杖をついた。
「そうだ、っていいたいんだけどね。」
「それじゃあ、また悪魔が逃げおおせたとでも?」
「ううん。あの悪魔は消滅したわ、完全に。でもね、まだ次の悪魔が生まれないという保証がないのよ。」
「生まれるっていう保証もないんだろ。」
「そう簡単にはいかないの。放っておけば必ずつぎの悪魔はあらわれる。今回のデータを解析したらね、意外なことがわかったのよ。」
「意外なこと?」
 エアはエルノクにうなずいた。
「ユウが自分のことを認めないかぎりは、悪魔が現われ得るっていうね。」
 エルノクはエアに向きなおって聞いた。
「ひとつだけいいか? 悪魔ってなんだ。」
「負の意識の集合体とでもいうべきかしら。心の隙間をつくのが巧みでその心を破壊し尽くすまで止まらない……。ベンヨアンは自由商に恨みがあった。ユウは自己のアイデンティティに悩んで障害物を消し去ろうとした……。
 それが具体的形をとって現われたのが悪魔よ。無意識のうちに抑圧された負の意識が、魔法で引き出されたのね。だから、ユウが自分のアイデンティティに疑問をもつかぎり、どんな拍子で悪魔が現われるかわからない。」
 ユウはユーの体に宿る魂でしかなかった。本来は男性であったユウは、女性のユーの体内に宿ることでいやでも女性の内分泌系に支配されていた。魂しか残されていないユウにとって、その本体はあくまでユーである。それで自分のあやふやな存在と戦い続けることでユウはユウであり続けようとしていた。
「なんでユーがあなたにキャットと結婚するようにすすめたかわかる? あんたが自分に気があるのを知っていたユウは、内分泌系からくる欲求と、自己のアイデンティティの間の板挟みになっちゃったのね。それで、あんたの気を別の女性の方にそらすことで、このジレンマから脱出しようとしたのよ。ユウとユーは無意識の根源レベルではひとりの人間でしかないから、ユウの潜在的な考えがユーにも影響を及ぼしてしまうことがあるの。今回のこれも、ユーがユウの意識に妨害されて、悪魔を完全に消し去れないようにしたのが原因だと思うわ。」
「俺は何をすればいい?」
 エアはベンチから立ち上がりふりかえった。
「早くキャットと結婚してユウを安心させてやって。」
 にこっと笑ってエアは船に戻っていった。
 ユウの回復ぶりは医者が驚くほどのものであった。一週間でもうベッドのうえで起き上がれるまでに回復したのだ。ただ、衰弱が激しく、まだしばらくはここに足止めを食らわされそうだった。
「最近キャットがよく見舞いにきてくれるようになったんだ。どういう風の吹き回しなんだ?」
 エルノクは笑ってこたえた。
「あいつにおまえの正体をばらしたからな。」
「正体?」
 ユウがきっとエルノクをにらんだ。
「こらこら、冗談だよ。おまえが本当はとんでもない老人で適齢期なんかとっくにすぎてるんだって言ったら、えらく同情してな。」
 ユウは恨みがましい目で見返した。
「まったく!」
「それはそうと、最近ユーの方が現われないようだが。」
「ちょっとショックを受けてるんだよ。オレが禁呪を使ったからな。」
 エルノクはベッドの隣の椅子に腰掛けた。
「あの時唱えたことばのことかい?」
 ユウはうなずいて正面の壁をにらんだ。
「あれは、イプシロン神話でのユー神の本当の名前で、『
』はその女性形なんだ。あんな体力の限界みたいなところで使ったもんだから、制御しきれなかった。ユー神は宇宙全体と同じくらい偉大な存在だから、限界というものが無いんだそうだ。でなく、ソル・オ・テラだからこそ使えたのさ。」
 エルノクはあのあと惑星マラジェーツの跡を調査させたのだが、チリひとつ発見することはできなかった。それどころか、マラジェーツがかつてあった空域に星間物質が流れこもうとする動きすら観測された。つまり、ユウの呪文は物質の質量を完全に消滅させてしまっていたのだった。もちろん物理的にはまったく説明を付けることはできなかった。
「それにしばらくは
をおこすわけにはいかないよ。体に傷を付けちゃったんだ。あいつに申し訳が立たない。」
「そういえば傷跡がくっきりと残ってしまったそうだな。俺がもっとしっかりしてれば良かったのだが……」
「いいんだよ。あれは半分はオレの責任だ。本当のところ言えば、エアならこの傷跡を完全に消すことができるんだ。ただあいつは、これは今後の戒めのためにとっとくんだというんだ。何の戒めのこったか。」
 エルノクはエアのことばを思い出して苦笑した。
「ところで、例のことはもう耳に入ったか?」
「ヤレーのことか?」
 エルノクはうなずいた。
「ペートに聞いたよ。」
 ユウは一週間前、悪魔を退治することになる寸前に、悪魔の次の行動があることを予告していたが、はからずもそれは現実となってしまっていた。いや、今となってははたして本当に悪魔の仕業だったのかを実証することはできないが、自由商組合長ヤレー・メニドクは、ヤーヴェイへの移動中船のエンジンの事故に巻き込まれて死亡していた。ヤレーの死亡はロンギウスクルスの同時線からみて、ユウが胸を刺された時刻に対応していた。もっとも、広大な宇宙空間で同時などという概念は意味を失うが……
「ユウ、あんたなら次の組合長が務まると思うんだが。」
 ユウはベッドに横になってこたえた。
「オレは駄目なんだ。理由はわかるだろ。ひとりの人間が何百年も組織の長を務める訳にはいかないから。ただね、次の組合長を決める権限を評議会から委任されているんだ。オレはあんたを次の組合長に任命する。」
 エルノクは急に自分が指名されたことにあわてて立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待てよ。それこそまずいんじゃないのか。俺は元盗賊出身だぞ。」
 ユウは笑みを浮かべてエルノクの目を見た。
「あんたが次の組合長に見合った器量があると判断したからこそ、ヤレーは親類としてでなく自由商としてあんたに近付いたんだぜ。それに、あんたは見事に組合の期待にこたえる働きをしてきたじゃないか。オレは今のところ他に適任者を見付けられないね。」
 エルノクはあわてて反論しようとした。
「だって、ジョシュアは? エルモやコクマーはどうなんだ?」
ジョーシャジョシュアは年を取りすぎている。ペーチャペートヤキムーシカヨアキムは組合長の器ではない。」
「じゃ、シロエ女史は?」
「同じだ。若けりゃいいってもんじゃない。」
 エルノクはなおも戸惑った視線でユウを見下ろした。
「実のことを言うとね、評議会の決定はもうでているんだ。オレからの結婚祝いだと思って受け取ってくれ。」
 そういってユウはウインクしてみせた。エルノクはなにか言い返そうとしたが、椅子にどっかと腰掛け笑った。
「わかったよ。まけたよ。」
 そして自由商組合は新しい組合長を迎えた。

トップ読切短編連載長編コラム
ブックレビュー著者インタビュー連載マンガBBS編集部日記
著作権プライバシーポリシーサイトマップ