| TOP Short Novel Long Novel Review Interview Colummn Cartoon BBS Diary |

Sugar Room Babies

第三章

中条卓

 その年の梅雨は記録的な長雨で、雨はこのまま四十昼夜は降り続きそうな気配だった。レイとタクミは雨の音を聞きながら家にこもっていた。タクミの仕事部屋のつけっぱなしのパソコンには大雨と洪水と崖崩れのインターネットニュースがひっきりなしに配信されてきた。すでに予定日を二週間以上過ぎている。いわゆる過期産のタイムリミットだが、レイは腰を上げようとしなかったし、陣痛が訪れる気配もいっこうになかった。

「中学のときだったかな、芥川龍之介の『河童』を読んだのは」
 ふたりで遅い昼食をとっているときにタクミが切り出した。
「河童……どんな話だったの」
 レイが半分上の空で答えた。横になってばかりいるのに、寝不足のため顔がむくんでいる。
「ストーリーはほとんど忘れちゃったけどね、確か河童のお産のシーンがあるんだ。父親が胎児に生まれたいかどうか聞くと、こどもが生まれたくない、って答える。そんな話だったな」
「生まれて来たくなかったこどもはどうなるの」
「さあ、どうだったか」

 会話はそれきり途切れ、レイはまたしてもほとんど皿に手をつけないまま横になってしまった。食器を片づけて仕事部屋に引っ込んだタクミは『河童』についてインターネット上の情報を検索してみた。芥川龍之介の作品はかなりの部分が電子化されていたが、『河童』の全文は入手できなかった。翌日書店で文庫本を買い求めて『河童』を読み返したタクミは愕然とした。生まれないことを胎児が選択した場合には母親の生殖器に太い硝子の管が突っ込まれ、何か液体を注射すると『今まで大きかった腹は水素瓦斯を抜いた風船のようにへたへたと縮んで』しまうというのだ。レイがこの話を知らなくてよかった。知っていたら暗に堕胎を勧められたと思ってますます落ち込んでしまいかねない。

 あれはちょうど一週間前のことだった。
「生みたくないの。ううん、そうじゃなくて、生まれたくないってお腹のこどもたちが言っているの」
 冗談かと思ったがレイの表情は真剣だった。
「そんなばかな、って思うでしょう。わたしもそう思う。でも、声が聞こえるのよ」

 傘を持たずに出かけたレイを迎えに駅まで行ったのだった。コンビニで買った透明なビニール傘を差し、通販のポイントを貯めて交換したベージュの大判の傘を持って。長身のレイが婦人傘を差すとまるで子供用に見えてしまうので家には男物の傘しか置いていない。ベージュの地に黒いスコッチテリアの模様が入った真新しい傘を広げようとした瞬間、びくっと全身を震わせてレイは傘を取り落としたのだった。

「どうしたの?」

 傘を拾い上げて振り仰いだレイの表情を、タクミは忘れることができなかった。それはこの世ならぬものに出会ったひとの表情、異界に魂を奪われたものの貌だった。

「あ、ごめん、ぼーっとしちゃって」

 足早に帰宅したその夜、破水でもしたのかと思ったよ、と冗談めかしてタクミが言ったのと引き換えに、突然レイは子供を産まないなどと言い出したのだった。

「ぼくたち生まれないことに決めたんだ、ママには悪いけど、って」
 きっとタクミを見据えながら、
「ねえ信じられる? ママには悪いけどって言うのよ、胎児が。そんなばかな話があるわけないじゃない、幻聴よねえ。でも聞こえるの、ううん、ほんとは聞こえてるわけじゃなくて、直接頭の中に入ってくる感じなの。変だよね。ますますおかしいよね」

 いや、とかまあ、とか口ごもりながらタクミはひとまずレイを落ち着かせようとした。無理やりベッドに寝かしつけ、ひたすら髪をなでているうちに泣きじゃくりながらレイは眠ってしまった。それからずっと寝たり起きたりの生活が続いているのだ。

 胎児たちが話しかけてきたというのはもちろん本気にしていなかったが、予定日を過ぎてもまったく生まれてくる気配がなく、少しずつお腹が小さくなってきたような気さえするのは心配だった。ひょっとして胎児たちは子宮の中でとうに死んでしまっていて、レイもそれに気づいていながら認めたくないがゆえに、生まれたがらない胎児などという妄想にしがみついてるんじゃないだろうか。それとも出産に対する強い怖れが陣痛の発来を妨げているのだろうか。不安や怖れはアドレナリンの分泌を促し、お産の進行を妨げるっていうのは「うぶごえ学級」で習ったことじゃないか。いったい何が不安なのだろうと考えているうちに、タクミはふとレイが文献を調べていたサーファクタント欠損症のことを思い出した。

「ねえ、サーファクタント欠損症について文献を調べてたでしょう。あれって今回の妊娠と何か関係があるの」
 その夜、ベッドの中でタクミはおそるおそる切り出した。
サーファクタント……ああ、コピーしてきた文献を見つけたのね」
「文献? いや、実はあなたのパソコンをいじってたら文献を検索した記録が残ってたものだから、つい覗いちゃったんだ、ごめん」
「変ね、サーファクタント欠損症について調べてたのは事実だけど、あたしが使ったのは医学部図書館のパソコンよ。結果をプリントアウトしたらすぐに文献をコピーできるから」
 レイは突然身を起こした。
「あたしのパソコンに残っていた検索結果ってプリントできるの? だったら今すぐ確かめたいことがあるんだけど」
 タクミが文献リストを印刷して戻ると、レイは図書館でコピーした文献をダイニングのテーブルに広げていた。雨に濡れて乾いたあとがしみになっている。コピーした文献は20件以上あったが、それはすべてタクミが印刷したリストと一致していた。
「いったい誰があたしのパソコンを使ってリストアップしたの?」
「そりゃあ……」
「あたしじゃない! 機械を操作していたのは確かにあたしかも知れない、でも読んだのは断じてあたしじゃないのよ。あの子たちだわ。あの子たちが眠っているあたしを操って調べ上げて、あたしよりも先に結論を出したのよ」
「結論って?」
 下手に議論してレイを刺激してはいけない。タクミはとりあえず当り障りのない質問で場を取り繕おうとした。
「生まれてきても外界に適応できないと知って、胎内にとどまることにしたんだわ」
 堰が切れたようにレイはしゃべり始めた。羊水検査で胎児たちにサーファクタント欠損症の疑いがもたれ、堕胎を勧められたことをタクミは初めて知った。

 四十五週目になってようやくタクミはレイを説得して大学病院まで連れ出すことに成功した。産科と精神科を受診させるつもりだった。産科外来の看護婦はレイのカルテを見るなり大慌てで中に引っ込み、診察の途中だったらしい外来担当医を連れて戻ってきた。サトウと名乗ったベテランの産科医は予定日を三週も過ぎてしかも双胎というのが信じがたい様子で、診察もそこそこに自ら超音波装置の前までレイを引っ張っていった。タクミも一緒に検査室に入り、モニターを覗き込んだ。

「よかった、赤ちゃんたちは無事ですよ」
 タクミはほっと安堵の息をついたがレイの表情は変わらない。サトウ医師はカルテをぱらぱらとめくりながら怪訝そうに、
「いや待てよ、そんなことが……」
 と言うなり黙って考え込んでしまった。
「何か具合の悪いことでも?」

 不安に耐えきれずに尋ねたタクミの方は見ようとせず、カルテをにらみながら半ば独り言のようにサトウ医師は話し始めた。

「体重が減っているんです。体重といっても計測値から算出する胎児の推定体重ですが、赤ちゃんたちは明らかに以前よりも小さくなっている。それなのに超音波上はどこにも異常が見られない。新生児は生まれたあと一時的に体重が減るもんですが、ちょうどそんな感じなんです」

 サトウ医師はようやくカルテから顔を上げた。

「とにかくいつお産が始まってもおかしくないんですから、すぐに入院して頂かないと」
「そうですよね」

 タクミはサーファクタント欠損症のことを言うべきか迷ったが、入院してからでも相談はできると思いとどまった。万一生まれてきたこどもたちが呼吸困難に陥ってもNICU(新生児集中治療室)のある大学病院なら当面は対処できるだろう。だがその後となると……

「いったん帰って出直してくるわけには行きませんか? 荷物を置いてきてしまったものですから」

 今まで黙り込んでいたレイが突然口を開いた。入院に必要なものはひとまとめにしてあったのを車に積んで持ってきていた。必要なものがあれば僕が運ぶから、と言いかけてタクミは何かを訴えかけているレイの真剣なまなざしに気づいた。

「家はこのすぐ近くなんで、ひとっ走りして大急ぎで準備したらすぐに戻ってこれますから」

 タクミが何度も請け負ったのでサトウ医師もしぶしぶ了承し、入院予約の指示を出した。

「くれぐれも気をつけてくださいよ。脅かすわけじゃありませんが、いつ胎盤が剥がれ出しても不思議はないんですから」

 産科外来を出るとレイは黙って先に立ちずんずん歩き出した。妊婦がこんなに機敏に歩けるものかと思うほどのスピードで混雑したフロアをすり抜けていく。

「荷物を忘れたなんて嘘だろう」

 ほとんど小走りで後を追いながらタクミが声を掛けた。

「どこに行くんだい」
「決まってるじゃない。家に帰るのよ」

 レイはぴしゃりと言い放った。勢いに押されたままタクミはハンドルを握り、仏頂面で車を走らせた。

「精神科の診察はどうするのさ」
「受けるわよ、そのうちに。でも今日は帰らせて」
「入院は……」
「しません。入院なんてしようもんならベッドに縛りつけられて陣痛誘発剤を点滴されるに決まってるわ。そんなことはさせない」
「産科の医者は胎盤の剥離を心配してたじゃない」
「勝手に心配させておけばいいのよ。全然そんな徴候は見つけられなかったくせに」
 いつもは冷静なレイだったが、一度こうなったら絶対にひとの意見に耳は貸さない。タクミは観念した。
「オーライ。入院は見送りましょ。でも、少しでも異状があったらその時はすぐに受診してよ。約束だよ」

 レイはゆっくりと頷いた。

*                     *

「お帰り、どうだった?」
「お決まりどうりよ。家族歴と発達歴を根掘り葉掘り聞かれて、こっちが何を言ってもうなずきながら聞いてくれて、夜眠れますかって聞かれて、まあまあですっと答えたら眠れないときのために薬を出しておきましょうって言われた」

 タクミの同級生が開業している精神科のクリニックから戻ってきたレイは靴下を脱ぎ捨ててソファに横になった。

「どっこいしょと。ふう、やっぱりまだ半日出歩くと足がむくむわね」
「マッサージしましょうか」
「お願い。でも前よりはずいぶん楽になったのよ」

 確かにそうだ、とタクミは思った。むくみがひどかった頃はふくらはぎの毛穴が目立ってミカンの皮みたいだったもんな。横になってるとあまりお腹も目立たなくなったし。旺盛な食欲が戻ってきたし。でもいったいこの先どうなっちまうんだろう?
 入院をキャンセルして以来、レイは産科には一度も顔を出していない。大学には急きょ里帰り出産することにしたからと偽りの電話を入れてある。多忙な産科医たちはもうレイのことなどすっかり忘れているだろう。あれからもう二カ月になるのだ。

 二カ月!

 タクミはインターネットを使って文献を渉猟し、産科医の集まるフォーラムに顔を出して尋ねたりもしてみたが、一カ月を越える超過期産は報告されていなかったし、経験したことのある医者も見つからなかった。出産予定日を過ぎると胎盤の機能が落ちてきて、妊娠を継続するのは難しくなるはずだった。まれに胎内で死亡した胎児が排出されずに長期間子宮にとどまることがあるという報告はあった。しかし、レイの言葉を信じるかぎり、胎児たちは順調に育っていて(育つだって? 小さくなっているというのに?)今ではレイと会話できるようになったというのだ(出生予定後二カ月で?)。
 レイはすっかり元気を取り戻し、執筆を頼まれていた画像診断学の教科書の原稿を書いたり、長時間の散歩に出かけたり、普段はめったにしない家事に精を出したりしていた。かと思うと胎児の教育用と称してビデオや本を山ほど買い込み、お腹に手を当てながら日がな眺め暮らしている。その姿ははた目にはすこぶる健康でいたってノーマルに見えるので、タクミは精神がまいっているのは自分の方ではないかとさえ思えるのだった。レイには自分が正気だという揺るがぬ確信があるみたいだ。でも、それこそが狂気の証拠じゃなかろうか?

「そりゃあたしだって自問することはあるのよ。出産という一大事を前にしてあたしの脳は一時的な変調を来たしたんじゃないかしら、文字どおり子宮からくるヒステリーなんじゃないかしらって。でもわたしは正気よ。幻聴らしきものが聞こえるし「させられ体験」まであるけれど、わたしは絶対に正気。だって幻聴や異常体験を自覚している未治療の精神病者なんてそうそうはいないわよ。それに、そう、彼らの声は決して電波なんかじゃない。もっとローテクな、例えば糸電話みたいなものだわ。臍帯か、さもなきゃ体液を通して伝わるテレパシーなのよ」

 フモーラル・テレパシーねえ、発想としては面白いんだけどね。神経繊維どうしの連絡だって信号を伝えるのは体液中に放出される神経伝達物質、ニューロトランスミッターだもんな。心臓から送り出された血液は数秒で全身を回るから、胎盤と脳とのコミュニケーションは数秒のサイクルなら可能だろう、でもそれじゃまるで……

「手旗信号なみだよ、それじゃあ。それにたとえうんと凝縮した情報を血液に乗せて送ったとしてもだよ、あなたの脳にそれを翻訳するシステムがなけりゃあ解読しようがないじゃない」
「またそうやって小難しい理屈をこねる。とにかく子どもたちの考えはあたしにはよくわかるの。以心伝心ってやつよ」

 日を追うごとにふたごの言葉はますますはっきりとレイに伝わるようになった。彼らの知能は恐ろしく高くて、理解力の点ではレイやタクミを凌駕しそうだったが、そんな彼らにしてもレイとのコミュニケーションを自由に取れるようになるまでには時間が必要だったらしい。彼らの人格ははっきりと独立していて、今話しかけてきているのが誰なのかはレイには明らかだった。といっても話しかけてくるのはもっぱら男の子の方で、女の子はめったに自分からはしゃべらず、レイが質問すると「うん」か「ううん」で答えるくらいではあったが。

「ねえ、あんたたち、頭がいいんだから考えてちょうだいよ。あんたたちがこうやってあたしと意思を通じ合っているんだってこと、どうやったらパパにわかってもらえるかしら」
『パパってタクミのこと? いいじゃない、無理に理解してもらわなくたって。ぼくたちにはママだけでじゅうぶんさ』
「生意気言うんじゃないの。ママひとりじゃあなたたちを守りきれないかも知れないじゃない。味方は多ければ多いほどいいのよ」
『あのねえ、ママ?』
 珍しく女の子の方からコンタクトがあった。
「あら、なあに?」
『前にキック・ゲームってやったでしょう? あれを使えばいいんじゃないかしら』
「キック・ゲーム?」
『ほら、あのモールス信号みたいなの』

 あくる日の午後、読影の仕事を終えて部屋から出てきたタクミをつかまえてソファに座らせ、レイは自分もその隣に並んで腰を下ろした。

「『ジョニーは戦場へ行った』っていう映画を見たことがある?」
「出し抜けに何だい、ビデオでも借りてきたの。見たことはないけど、話には聞いてるよ。戦争で目も耳もやられて口もきけなくなって、えーと手足もなくしたんだっけ、そんな青年の話でしょ」
「そう。包帯でぐるぐる巻きになってなす術もなくベッドに転がっていたジョニーはずっと悪夢を見続けていたの。放っておいたら発狂してしまったかも知れない。でも、ある看護婦がジョニーに話しかけることに成功するのよ」
「どうやって?」
「こうするの、ほら」レイはタクミの両手を自分の下腹部に導いた。
「いい? イエスならきみの右手、ノーなら左手が胎動を感じるわよ。あなたたち、準備はいい?」
 タクミの右手に軽い衝撃が伝わってきた。おや、という表情を浮かべてレイを見る。レイはにっこり微笑んでみせた。
「ほら、パパは驚いてるわ。ところであなたたち、今日は水曜日だったかしら?」
 今度は左手に衝撃があった。久しく忘れていた感触だった。
「まさか、まぐれだろ?」
「じゃあ今度はきみが質問してみて。大丈夫、少し大きな声でゆっくり話せば聞こえるから」
 ばかばかしいとは思ったが何度もレイがすすめるので仕方なしにつきあうことにした。ちょっと考えてから、意地悪くイエスかノーでは答えられない質問をすることにした。
「えーとね、じゃあ、一たす三は?」
 規則正しく四回、右手がキックされた。馬鹿にするなとでも言わんばかりに、最後は思いきり強く。
「いたたたた、だめよそんなに強く蹴っちゃ」
 レイが顔をしかめた。
 なんてこった。いくぶん青ざめながらもタクミは忙しく頭を働かせた。あせるな慌てるな、これはたぶん条件反射を利用したトリックだ。学者馬みたいなもんさ。連中はレイの気分に反応しているだけだ、そうに決まっている。ならばレイでさえ正解を知らない質問をしてやればいいのだ。いや、それでも不十分かな。おれの声の調子で正解がわかってしまうかも知れない。質問者さえ正解を知らない質問でなければ……タクミは夢遊病状態のレイがブラウザで眺めていたページを思い出した。よし、これはどうだ。タクミは電話の横からメモとボールペンを取って戻ってきた。
「モールス信号は知ってるかい? 知ってたら一回、知らなかったら二回キックしてごらん」
 とん、と衝撃があった。(そんなもん、おれだって知らないぞ)
 タクミは大きく息を吸ってから質問を吐き出した。
「ボリビアの首都は?」(知っててたまるか)

 右側に三回、リズミカルな衝撃があった。それから左右の衝撃が入り交じりながらしばらく続き、最後に右手が一回キックされて静かになった。

 タクミはもちろんモールス信号など知らなかったが、海難救助信号のSOSがトントントン、ツーツーツー、トントントンであることだけは何かで読んで知っていた。ならば、最初の右3回はSを意味しているのだろう。紙に写し取った信号を照会しに部屋へ戻りながら、タクミはすでにその答えが正解であることを確信していた。

 ここまで証拠を突きつけられたらタクミも胎児たちの能力を認めない訳には行かなかった。もちろん説明をこじつけようとすればできないことはない。たとえ夢遊病状態とはいえレイは自分の目であの大量のページを見ていたはずだから、モールス信号から世界中の国々の首都と人口から円周率一万ケタに至るまで無意識のうちに記憶しているのかも知れない。あるいはレイの期待に応えてやろうという心理が働いて、タクミ自身よく知っているはずの事柄を質問してしまったのかも、あるいは……だが、こうした仮定をいくつも重ねるよりは、胎児たちが実際に恐ろしいほどの知能と知識を有していて、しかもレイと自由に交信できるという仮説を素直に受け入れるべきだろう。

「参ったよ。ぼくの負けだ。あなたのお腹の中で何か途方もないことが進行中だと認めます」
「大げさねえ。え? なに?」レイは目をつぶってちょっと首を傾げた。
「チューリングテスト合格だね、ですって。何のこと?」

 ある晩、ふたごのことを話し合っていたレイとタクミは、お互いがふたごのことを「あの子たち」「連中」と呼び習わしているのに気づき、ようやく彼らの名前がまだ決まっていないことを思い出した。
「あなたたちに名前をつけてあげなくちゃあね」レイは自分のお腹に声をかけた。口に出さなくてもレイの考えていることは胎児たちに伝わるのだが、ついそうしてしまう。
「え?」
 レイはこころもち首を傾げ、眉間にしわを寄せた。
「そうなの。うん、わかった」タクミを振り返る。
「あの子たち、もう名前を考えてあるんですって」

 ルイとルミ…それが胎児たちが自ら名乗った名前だった。

「ルイとルミだって? ルルとミミの間違いじゃないの」
 タクミが憮然とした面持ちで繰り返す。
「何それ、ペットの名前みたい」
「萩尾望都のデビュー作のタイトルさ。ふたごの姉妹の話だ」
「あらそうなの。でも悪くない名前だと思わない。ちゃんと男の子と女の子の名前でセットになってるし」
「頭韻を踏んでるってのかい。連中の住み家はまったくの治外法権だからぁ、まあ勝手にやらせておくさ。それにしてもどこから拾ってきたんだか」
「拾ってきたなんて。ルイはこの名前はきみの好きな『ジャングル大帝』からヒントをもらったって言ってるのよ。どういうことなのかあたしにはさっぱりわからないけど」
「『ジャングル大帝』だってぇ? そんな名前が出てきたかな。レオでしょ、父親がパンジャで奥さんがライザだったよな、確か…… ああ、レオのふたごの子供か。なんかイタリア風の、そう、ルネとルッキオっていうんだった」
「どっちも「ル」ではじまるのね」

 その夜タクミはDVD―ROMの手塚治虫全集で『ジャングル大帝』をざっと読み返して見た。ルネとルッキオという名前はレオの相談役であるオウムのココがつけたのだが、なんとその語源は「寝る」と「起きる」を反対にしたものなのだった。アフリカのジャングルで生まれたライオンの名前がどうして日本語なんだと突っ込みたくもなったが、レオは日本人であるひげおやじこと伴俊作とも親しいから日本語がわかっても不思議はないのだな、とタクミは妙な納得の仕方をする。さて、ふたごが同じ方法で自ら命名したのだとすれば、彼らの名前、ルイとルミは「いる」と「みる」から来ているということになる。「いる」には要る、入る、居る、射る、鋳る、炒る、煎る、さらに英語なら「病気の」を意味する"ill"までさまざまな単語を当てはめることができるが、あいつは何のつもりだったのだろう。たぶん「居る」のつもりではないかとタクミは見当をつけた。「居る」、それは生きてそこにあることを意味しているのだろう。居続けることを宣言しているようでもある。(ボクハ・ココニ・イルヨ)ふむ、言われてみれば連中の存在の本質を突いた言葉のような気もする。そしてもうひとりは「みる」だ。見る、観る、診る、看る、試る、あるいは"mill"… これもたぶん「見る」なんだろうけど、いったい子宮の中にずっともぐりこんだまま、何をどうやって見るつもりなのだろうとタクミはいぶかしむのだった。

 『死ぬ瞬間』の著者ロス博士によれば、人間は避けられない死に直面してから最終的にそれを受け入れるまでに五つの段階を経るという……すなわち、否定・怒り・取り引き・抑鬱・受容である。別に誰かが死んだわけでもないのだが、人生の一大事ということに変わりはあるまい。タクミは我が身を振り返って、すでに否認と怒りの段階は過ぎたと判断した。「生まれないことを選択した天才児たち」というショッキングな存在に対して、最初は頭から否定して取り合うまいとしたが、そうもいかなくなるとなぜ自分だけがこんな目に遭うのかという怒りが込み上げてきて、その怒りは泰然としてすべてを受け入れているかのようなレイにも向けられたのだった。そして今は第三の段階だ。生まれたくないという胎児たちの決意を何とかして翻せないものか、あの手この手を繰り出してみようというのである。卵の殻は破られなければならないし、胎児はいつか子宮から出なければならない。それが自然の掟というものであるはずだ。それが証拠に母親の体内で成長し続けた動物の記録なんてどこにも残っていないではないか。タクミは図書館をインターネットを渉猟して説得の材料を探した。以下はふたごのうちの理論家であるルイとの一問一答である。

妊娠はいつまでも継続できるものではない
―どうして?
胎盤は40週以降に急速に老化して胎児への栄養補給を続けられなくなるからだ
―それならば大丈夫、ぼくたちはノルンのように交代で胎盤の面倒をみているもの
新生児はガン細胞よりも早く大きくなるものだ、子宮はすぐに手狭になる
―ぼくたちは大きくならないよ、姿かたちは変わるけどね
そんなことができるもんか
―できるさ。ぼくたちは生まれないことと引き換えに力を手に入れたんだもの
胎盤を介する血液のやりとりだけではエネルギー収支がやがて破綻するぞ
―だから、大きくならなければいいんだってば。それを言うならバイオスフェアで生活し続けている人たちはどうなの?
(くそっ、理屈で大人にかなうと思っているのか?)
そもそもどうして外にでたがらないんだ
―今ここがベストだからさ、わざわざ楽園から出て行くなんてオロカモノのすることさ
(よし今度は餌でつりだしてやる)
外の世界だってまんざら捨てたもんでもないんだぜ
―眺めてるぶんにはね
この世に生を享けたからには果たさなくちゃいけない義務があるんじゃないか?
―忘れたの、ぼくたちは生まれてさえいないんだよ
(ええい、こうなりゃ泣き落としだ)
なあ頼むよ、おれたちだって親らしい気分を味わいたいんだよ
―悪いけどぼくたちには子どもらしくしてる暇なんかないんだ
ママにばっかり負担をかけて済まないとは思わんのか
―それはあなたの知ったことじゃない。ご自分が地球に対してしてきたことを考えてみたら?

 タクミは取り引きを断念した。突然、第二段階の「怒り」と第四段階の「抑鬱」が順番を無視して襲いかかってきたのだ。これらの問答は実際にはレイを仲立ちにして行われたのだが、がっくり肩を落としてしまったタクミに対して、レイには掛ける言葉が見つからなかった。

「ルミがね」
「ああ?」
 タクミが顔を上げた。
「ルミが言ってるわ。『ゆるして』って」
 レイの目には涙が光っていた。声も震えている。
「許すも許さないもないじゃない。ねえ、タクちゃん、考えてもみて。この子たち、どんなに頭が良くっていくら生意気だろうと自分たちだけじゃ生きていけないのよ。ある意味じゃ生まれたての赤ん坊よりもっとはかない存在なんじゃないかしら。この子たちはあたしたりより長生きすることは絶対にないのよ」
 タクミは無言でレイの手を取った。

 二カ月を過ぎ、どうやらそう簡単には胎盤が剥がれることもなさそうだと見極めがついた頃から、レイとタクミは連れだって外出するようになった。空調の効いたマンションに閉じこもっていたふたりは、季節に取り残されてしまったことにようやく気づいた。一歩外に出ると夏はとうに盛りを過ぎていて、くたびれた残暑の景色が放心したように広がっているばかりだった。公園のプールも営業を終えて白っぽい底を日にさらしている。今年は一度も泳がずじまいだったな、いや、これから先泳ぎに出かける機会なんてあるんだろうか。
 公園のベンチに並んで腰掛けて空を仰ぎ見たとき、タクミはレイの表情がぱっと輝くのを見た。

「どうしたの」
「子どもたちがね、『ああ、これが空なんだね』って」
「そうか、実物を見るのは初めてなのか。って、どうやって見てるんだい?」
「あたしが見たり聞いたりすることはそのままダイレクトに伝わるんですって」
「そりゃ便利だ。超精密な仮想現実端末ってわけだ」

 タクミはもう一度空を仰いだ。吸い込まれそうな青さだ。そうだな、確かに空の青さは他のどんな青とも違っている。ものの表面にあるのでもなく、自ら光るのでもなく、色ガラスを透過してくるのとも違う。この感じはとても他の何かでは表せないものな。

『空は今日、無限の青』
 レイがぽつりと呟いた。
「え? 何だって」
「わからない。ふたごのどっちかが言ったの」

 どこかで聞いたようなフレーズだなとタクミは思ったが、どこで聞いたのかは思い出せなかった。

 日焼け対策をすっかり忘れていたので、家に帰りつく頃にはふたりとも首筋が赤く焼けていた。
「ううー、しみになっちゃうよ」
 レイはどこからかローションを引っ張り出してぱたぱたと二の腕に塗っている。タクミもおこぼれをちょうだいして塗ってみたが、いざベッドに入ると手足が火照ってなかなか寝つかれなかった。目をつぶると空の青さがまぶたの裏に蘇る。やがてあっと声を上げてタクミは起き出し、自分の部屋に駆け込んだ。記憶が間違っていなければ……本棚の一番下から学生時代に使っていたノートを取り出す。雑多な感想や文章、詩などを書き綴っていたノートだった。あった! 「さいごに君と」と題された短い詩だった。真ん中へんになぐり書きされた詩句にタクミの目は釘付けになった。

    空は今日、無限の青

 タクミ自身ですら忘れていたこの詩の存在をふたごたちはどうやって知ったのだろうか。インターネットはおろか、同人誌にだって公表しなかったものなのに。タクミは自らの心に受容の五段階には当てはまらない感情がわき上がってくるのを覚えた。それは得体の知れない、化け物じみた自分の子どもたちに対する恐怖だった。

*                      *


 産休中は貯金でやりくりする予定だったが、レイが産休からいつ脱出できるか皆目見当がつかない今となっては、レイが稼いでいた分をタクミがカバーする必要があったし、この先どこで金が必要になるかわからない。レイが次第に元気を取り戻して炊事や洗濯など今までタクミが担当していた家事をこなせるようになったのを幸い、タクミは読影の仕事を増やすことにした。といっても人づきあいの苦手なタクミがいきなり新しい病院との契約を開拓できるはずもなく、遠隔読影センターに集まってくる症例からいくつかを回してもらう他はなかった。回ってくる仕事といえば他に読み手がいないめんどうな症例か、相変わらずちっとも緊迫感のない自称緊急読影ばかりで、タクミはいささか腐りぎみであった。だから午前中に三度目の電話を取ったとき、タクミがひどく無愛想だったのも無理からぬことではあったのだ。
「はい」
 タクミは短い返事に暴発しそうな不機嫌さを思いっ切り込めて応えた。
「ああ小林センセ、麻生ですけれども」
 うわぁ、声にならない声を上げてタクミは椅子からずり落ちた。最悪。よりによってレイの母親からの電話を取ってしまうなんて。しかもあいにくレイは散歩に出かけていて留守と来ている。いったいどうやってこの場を取り繕ったらいいんだ?
「お久しぶりです。レイは元気にしてますやろか。確か予定日は七月や言うてましたのに全然連絡がないもんで心配になりまして」
「ええとあのその」
 不意を突かれてタクミはしどろもどろになってしまった。しまった、こういう事態は十分予測できたはずなのに、すっかり忘れていたぞ。下手な嘘をついてもいずればれるものなあ。ここはもう正直にありのままをぶちまけるしかないだろう。
「実はその、どういうわけかいまだに出てきてないんですよ。前例のない事態だそうで、産科のお医者さんも困ってるみたいなんですが、でもまあお腹の中のこどもがふたりとも元気なのは間違いのないところでして」
「まあ何てことでしょ。予定日を二カ月も過ぎているのに生まれてないなんて、そんな話聞いたこともありませんわ」
「ですから私たちも困っているところなんですよ。いえ、母児ともに至って元気ですからご心配には及びませんが」
「やはり一度様子を伺いに上がろうかしら」
「いえそれはあの、あまり刺激しない方が」
「だって今さっき元気だっておっしゃったやないですか」
 タクミは冷や汗をかいていた。臨月の頃に比べるとずいぶん小さくなったお腹に向かって話しかけるレイを見たら母親は大騒ぎするに決まっている。
「身体の方は問題ないんですが、ちょっと精神状態が不安定なもんですから、落ち着くまでは安静を保った方がいいとお医者も言ってますので……」
 思いつく限りの口実を並べ立てて来訪を断り、受話器を置いたときにはタクミはすっかり疲れ果てていた。

 こどもたち、特にルイとのコミュニケーションもストレスの種だった。タクミが仕事に追われ、誰とも口をきかず一日中部屋にこもってCRTを眺めキーボードを叩いているというのに、レイと胎児たちは愚にもつかないおしゃべりにうつつを抜かしているのだから腹が立つ。楽しかるべき食後の団欒にレイときたらこんな話を始めるのだ。
「今日はみんなで萩尾望都さんの『スター・レッド』っていうマンガを読んだのよね。ルイが言うにはね、ラストが特に面白かったんだって」
「火星で生まれた超能力少女がヒロインのマンガだろ、ぼくも読んだことがあるけど、ラストって、サンシャインがセイ・ジュニアに火星のことを話して聞かせるくだり?」
「呆れた。きみってほんとにオタクだね。あの子たちが興味を持ったのはその少し前のところで、セイともうひとりの火星人、ヨダカがどうやって自分たちの精神が囚われていた虚空間から脱出したか、その方法なのよ」
「……妊娠ってこと?」
 レイはゆっくりかぶりを振った。
「そう、そのときヨダカの身体は地球にあって彼ひとりなら元に戻れるんだけど、セイの身体はもう無くなっちゃってるのよね。そこでヨダカは、もともとは男なんだけど、自分で自分の体をつくりかえて女に性転換して、それも妊娠した女性になってね、胎内にうんと小さくなった主人公を収めた状態で脱出するわけ」
「ああそうだった。でもヨダカはどうやってセイの遺伝情報を手に入れたんだろうね」
 また始まった、という表情でレイは首を傾げた。
「『外部のデータベースからだよ』ですって、ルイが」
「外部?」
「『"out there"、この世界にとっての外部。身体をつくりかえる方法も、かつて存在したものも存在しなかったものも含めたすべてのDNAの塩基配列が記録されたデータベースがそこにあるんだ』」
「なんだいそりゃ。どこかの新興宗教の教典みたいだな」
 タクミは食卓から食器を片づけてキッチンで洗い始めた。
「何を飲む?」
「そば茶がいいな」
「ラジャー」

 スポンジよりも汚れが落ちるというアクリルウール製の食器拭きに廃油から作ったペースト状の石鹸をつけて手早く食器を洗っていく。油汚れは落ちにくいが石鹸は手が荒れなくてよろしい。ダイニングからはルイと議論しているらしいレイの呟きがかすかに聞こえてくる。(外部だって? 生意気なやつめ)何とかしてルイをへこましてやることはできないものか、タクミは頭を絞った。(そもそも物質だろうが情報だろうが、この世の外にあるものなんてこの世の人間の手が届くものじゃないだろう)食卓に戻り、そば茶をすすりながら攻撃を開始する。

「普通の人間の手が届かないところに一切の情報がしまわれていて、修行を積んだ者や特殊な能力に恵まれた者だけがそこにアクセスできるっていうのは古今東西の神秘思想家が言ってることさ、だがね、世界の外っていうのはそもそもこの世界に住む者が絶対に到達できないところなんじゃないの、事象の地平線の向こう側さ。だから、そこについてはどんなことだって言えるけど、確かめるすべはない」
 レイもまたそば茶を音立ててすすりながら答える。
「なになに、『語り得ぬことについては沈黙しなくてはならないってことね』だって、何のこと?」
「ウィトゲンシュタインだな」
「『語り得ぬことは示され得ることである』……難しいなあ、禅問答みたいよ、あ、ルイがまた何か言ってる。同時通訳するね」
 レイは姿勢を正し、目をつぶってしゃべり出した。(巫女のご託宣だな)タクミはひとりごちつつ耳を傾けた。
「ウィトゲンシュタインはこうも言ってるよね、『自然法則が存在する』って。たしかにあなたがたの世界には物理や化学のいろんな法則があって、なぜだか誰にも理由はわからないけど、その法則はいつでもどこでも成り立つ、そんなふうに世界はできてるんでしょ。そしてあなたがたは自分達が住む世界から決して抜け出せない。でもね、そんなのって、所詮あなたがたの世界を作った奴が勝手に決めたことなんだ。僕らはあなたがたの世界には住んでいないんだもの、そんな法則なんかに縛られるもんか」
「ああ言えばこういう、口の減らないやつだなあ」
「ほんとにねえ」いつのまにかレイが目を開けている。
「いったいあなたはどっちの味方のわけ?」
「どっちって言われても……うひゃあ、これって夫と息子の板挟みってやつ? なんかドラマチックだねえ」
 すっかり毒気を抜かれてタクミは黙り込んだ。

 書きかけの論文作成にどうしても必要な資料を取りに、レイは久しぶりに医局を訪れた。月曜の昼近くという医局員の誰もが多忙な時間を選び、携帯から電話して誰も出ないことを確認してからそっと忍び込んだ。医局は相変わらず雑然としていて、コーヒーとコピー用紙とレントゲンフィルムの現像液の匂いがこもっていた。産休に入る前にきれいに片づけたレイの机の上にはその後の医局会などで配られた資料が積み上げられ、隣の机に山と積まれたカルテが雪崩の一歩手前でかろうじて踏みこたえている。感慨にふける間もなく資料をかき集め、紙袋に詰めて出ていこうとしたところで、郵便局から戻ってきた医局秘書のオオノさんにばったり出くわしてしまった。
「あらお珍しい」
「どうもー、お久しぶりです」
「お産は無事に済んだんでしょ、お祝いを贈りたいってあちこちから問い合わせて来てるんだからちゃんと連絡してくれないと、で、やっぱり男の子と女の子? 何グラムだったの、ふたごってひとりひとりは小さいのよねぇ、でも大変だったでしょ初産だし時間がかかったんじゃないの、お乳の出はどうなの」
 上から下までレイの姿を点検しながらオオノさんは矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。宮崎駿のアニメに登場する肝っ玉母さんみたいに頼りになる人なのだが、こちらのエネルギーレベルが落ちているときに相手をするのは少々しんどい。はあ、とか、まあ、とかレイはお茶を濁していたが結局真実は告げられず、ふたりとも未熟児で保育器からは出たもののまだまだ気が抜けないので今はちょっとお祝いなんて考える気にならないのだ、などと心にもない嘘をついてオオノさんの同情と励ましを買ってしまったのだった。

 帰りのニュートラムの席でため息をついていると隣に腰かけたおばあちゃんが声を掛けてきた。
「おや、あんたこないだのバレー選手だろ、赤ん坊は元気かね、今日はお母さんにでも預けてお出かけかい?」
 いいひとたちってどうしてこう残酷なんだろうと思いつつ、無理やり笑顔を作って答える。
「ええおかげさまで。おばあちゃんもお元気そうで何よりですね」
「元気だなんてとんでもないよ。あたしゃ毎日病院のハシゴだよ。糖尿と血圧と高脂血症、痛風の気もあるってさ、病気のバラエテーショップだって嫁が言うんだよ」
「まあ」
「とにかくあんたも健康が一番だよ、まああんたは体力ありそうだけど」
「なんてったって元実業団のチャッカーですから」
「おやそうかい、あたしゃてっきりエレベーターかと思ってた。とにかくがんばんなさいよ、あああたしゃここで降りるんだった」
 エレベーターって何のことだろうと思いながらこの前の失敗は繰り返すまいとあわてて降りたところがふたつも手前の駅で、とっとと階段を下りていくおばあちゃんの後姿を見送りながらレイは「やられた」と呟いたのだった。

 マンションの入口で郵便受けを開けると、ベビーピンクやらサックスの封筒に入ったカタログがいくつもこぼれ出た。新生児用の衣類、寝具におもちゃ、内祝い好適品、0才児のための音楽、ビデオ、パソコンソフトまで、いったいどこから情報が漏れてるのかしら、きっとアンケート好きなだんながインターネットに記入しまくったせいね、まったく。不要なダイレクトメールやチラシを捨てるために置いてある段ボール箱にまとめて投げ入れてやろうと一歩踏み出したところで、何ものかにスカートのすそを引っ張られてレイは振り返った。
「ママンマンマア」
 よちよち歩きの小さな女の子(推定)がよだれまみれの手でしっかりとレイのスカートをつかみ、ママともマンマともつかない声を上げながらまっすぐこちらを見ている。女の子の手を取ってしゃがみこみ、そのまま見つめあっていると、
「ごめんなさい、ママと間違えちゃったのね」
 立ち話に興じていた若い母親が飛んできて女の子を抱き上げた。レイがさっと手を引っ込めると母親は軽く会釈して立ち去ってしまい、レイの掌にはふっくらとした小さな指の感触だけが残った。重い足取りで階段を上るうち、不覚にも涙が込み上げてきた。お腹のふたごたちは眠っているのか、こういう時に限ってぴくりともしない。
 レイの部屋の隅には出産準備用品が大きな紙袋に入ったままほこりをかぶっていたのだが、玄関からずかずかと突進してきたレイはその紙袋を逆さにして中身を床にぶちまけた。入院申込書、健康保険証に母子健康手帳といった書類、腹帯、生理帯、前開きのネグリジェにタオル、洗面用具、湯のみ、箸、スリッパに秒針付きの目覚まし時計(「陣痛の間隔を計るのに便利です」)、筆記用具……おしまいに退院時にベビーに着せる衣類とおむつ、おむつカバーが2組ずつ。レイは自分でもどこから湧いてくるのかわからない激しい衝動にかられ、声もなく涙を流しながらそれらの品々を破壊していった。書類を破き、あるいはくしゃくしゃにして放り投げ、固いものは壁に投げつけ、衣類は力まかせに引きちぎった。紙袋の隣には新生児用の衣類やおむつ、お尻拭きなどを詰めた段ボール箱が置いてあったがレイはこれもひっくり返して中身を投げ捨てた。レイの中で何かがはじけ、押し殺していた怒りが突然噴き出してきたのだった。むだになったすべてのものを壊してしまわないかぎり、怒りはおさまりそうになかった。いつしかレイは赤いプラスチックの柄のついた大型のカッターナイフを手にして、スヌーピーの絵柄のおむつを、ピンクと水色のおそろいのおむつカバーを乳児用肌着をおくるみを、片っ端から切り裂いていた。噛み締めた奥歯の隙間から獣じみたうなり声が漏れる。
 荒い息を吐きながらすべてを切り裂きつくしたころ、ふと背中になにものかの視線を感じたレイは阿修羅の形相で振り返った。そこにはふたつの人影が浮かんでいた。互いに寄り添いながら瞬きもせずまっすぐこちらを凝視している裸の子どもたち。思わず目を伏せてカッターナイフを後ろに隠したレイがふたたび目を上げた時には、ふたつの影はかき消すように見えなくなっていた。

(ルイ? ルミ? あなたたちなの?)

 声にならない叫びに反応してレイの子宮がぴくりと動いた。

*                      *

「そもそも連中の発言とあなたの発言を区別できないのが問題なんだよ。声色を使い分けるとかなんとかできんのかね」
 いつものようにふたごのセリフを代弁するレイにタクミがこう持ちかけたが、レイは肩をすくめるだけだった。
「幼稚園のころからお芝居は苦手なのよねえ」
「じゃあこうしよう、チャットを使うんだ」
「チャット?」
「コンピュータを使った筆談さ。ルイなら知ってるだろ」
「『うん』だって」
 タクミは自室に引っ込んでパソコンに向かい、しばらくキーボードを叩いていたが、やがてノート型のパソコンを持って戻ってきた。パソコンの後ろから水色のLANケーブルが延びている。
「きみはこのコンピュータを使ってルイの言う通りにキイを叩いてくれ。ぼくは向こうの部屋でコンピュータを操作するから。これならあなたの声に惑わされずにルイと対決できるってわけさ」
タク〉準備はできたかね?
 点滅するカーソルのあとにメッセージを打ち込むと即座に返事が戻ってきた。

ルイ〉オーケー、タクミ

タク〉お父さんとかパパとか呼んでくれないのか?

ルイ〉今のところあなたはぼくたちの遺伝情報の半分を提供しただけなんだから、ぼくとしてはあなたをそんなふうに呼ぶ気にはなれないな

タク〉おれはきみと遊ぶのを楽しみにしてたんだがね
(おれですって、レイはひとりごちた。かっこつけちゃって)

タク〉ほら、よく言うだろ、男親ってのは男の子が生まれたとなりゃいつか酒を酌み交わす日が来るのを楽しみに育てるって……

ルイ〉あなたお酒はほとんど飲めないでしょ。野球とかサッカーとか、男の子が好きそうな話題にだって興味なんかないくせに

レイ〉あなたそれは言いすぎよ、お父さんにあやまんなさい
 レイが割り込んできた。

ルイ〉そうだね、まったく無関係ってことはないか。あなたの精神状態はママにも影響を与え、ひいてはぼくたちの世界に微妙な影響を及ぼすものね。ごめん。

ルイ〉でもさ、だいたいあなたがぼくたちに向かってあなたの世界の魅力を語るなんておかしいよ。あなたいつも言ってるじゃない、なんて時代、なんて世の中だ、おれは今の日本が大嫌いだ、って

タク〉それはその……

タク〉だがな、試してもみないでどうしてわかるんだ?

ルイ〉試す? 先人の経験から学ぶことができるってのがあなたがた人類の知的特権でしょ。出産の苦痛や恐怖って人間が最初に経験する、ひょっとしたら人生最大の試練なんだってね。そのあとにも数知れない通過儀礼が控えてるんでしょ。試験なんてのもそうだよね。あなた、つい昨日も試験の夢を見てうなされてたじゃない。

 それは事実だった。タクミはあらためてルイの能力に驚嘆した。ずばぬけた情報収集能力と感応力。タクミはふと、こちらが思っていることを何でも次々に言い当ててしまう妖怪「サトリ」の話を思い出した。

ルイ〉ようやく全部の試験を通過し終えるころにはすっかりくたびれてへとへとになって、夢なんてものを語る余裕もなくなってる。あなただって小さいころはそれこそ神童って呼ばれた口でしょ。

タク〉神童なんて呼ばれたこたぁないさ。ただの早熟なガキだったよ。

ルイ〉神童、早熟の天才、プロディジー、まあなんだっていいけど、ほら、子どもは誰でも何かの天才だ、なんて言うんじゃない? そのとおりだよ。人生のスタート時点で人間にはほとんど無限の可能性が与えられてるのさ。それなのにその後の人生ときたら、その可能性をわざわざ削ってやせ細らせるばかり、先へ行けば行くほど道は狭くなるんだ

タク〉それはそうかも知れない。でも、狭くなるに従って深まるという面もあるし、ある道を究めた達人の極意は他の道にも通じるって言うじゃないか
 自分でも抽象的で説得力のない意見だなと思いながらもタクミは必死で続ける。

タク〉ともかく自分で試してみなくちゃなんだってわかりゃしないだろ? 先人なんてくそくらえだなぜ挑戦してみないんだ?

 我が意を得たりとばかりに、信じられないほどのスピードでディスプレイに文字列が並んだ。

ルイ〉まさにその通り。ぼくたちは人類史上初めて自ら生まれないことを選択したんだ。ぼくたちはこう見えてもチャレンジ・スピリットあふれる冒険家なんだよ

タク〉ママの胎内というゆりかごに入ったまま世界一周でもするつもりか

ルイ〉ああ、それも悪くないね

タク〉寄生虫め(ひゃあ、それって言い過ぎ! とレイが打ち込んできた)

ルイ〉それを言うなら、人類ぜんたいが地球に巣食った寄生虫か癌みたいなもんでしょ。ぼくたちは直接には地球を汚したりしないもの、あなたがたよりはまだましなんじゃないかな

タク〉口の減らない奴だ

ルイ〉遺伝でしょ

 タクミはレイの飲み残しのビールをぐいっとあおいだ。ぬるくて苦くて息がつまりそうだ。

タク〉それじゃあ君たちはこれから先の一生をどうやって過ごすつもりなのか聞かせて欲しいな。ひたすら知識だけを食らって妄想を肥大化させるのか、さっきからずっと黙ってるもう一方のかたわれはひたすら夢を見続けるつもりなのか…

ルイ〉それはまだわからない。ただ、ぼくたちも何らかの形であなたがたの世界と関わらないわけにはいかないだろうし、けっこう忙しくなりそうな気はしてるんだ。与えられた時間は無限じゃない。意外と短いかも知れないよ。さて、ママがだいぶお疲れのようだから、今日はこれぐらいにしようよ。楽しかったよ。またね(^^)

 文末に現われたニコニコマークを眺めているうちに怒りが込み上げてきた。向こうの部屋のパソコンの電源を切ってレイが現われる。

「ああ疲れた。よくしゃべる子ねえ。あら、あなた泣いてるの?」

それには答えず、飲めないビールをもう一口流し込みながらタクミは毒づいた。

「くそっ。子宮収縮剤でも帝王切開でもなんでもいいから、あいつらをここから引っ張り出してやりたいよ。連中は疫病神だ」
「あらあ。でもその疫病神の半分はあなた由来なんだもの、責任はふたりで取らなくっちゃね」

 その晩、出産予定日を過ぎてからはじめてレイの方からモーションを掛けてきた。
「だいじょうぶ、あの子たち出かけてるみたいだから」
 タクミのパジャマの前をはだけながらレイがささやいた。
「出かけてるって? 眠ってるってこと?」
 子どもたちに一部始終を観察されるのではと気が気ではないものの、タクミの身体の一部は勝手に暴走を始めている。
「それが不思議なことにねえ、どうもあの子たちは眠らないみたいなの」
 今さら不思議なことなんてあるものかと思いながらも少しばかり興奮が鎮まってしまう。
「眠らないかわりにふたりしてどこかに行っちゃうみたいなのよね。ま、元気だこと」
 あたたかいものに包まれるのを感じながらタクミは尋ねた。
「行っちゃうって……あ、もうイっちゃうかも」
「だめよぉ、もう少しがんばって」
 息をはずませながらレイは話を続けたが、強烈なピンクの光に彩られたタクミの脳にはもはや切れ切れな単語しかインプットされない。
「ああ……気配がなくなるの……そう、その感……動かなくなるし……だめ、止めないで……どこか遠くに行ってるみたい……あ、あ、イっちゃうぅ」
 いつの間にかベッドの足元にはぼんやりとふたごの影が現れていたのだが、久しぶりの爆発に身を任せつつあったタクミとレイはまったくそれに気づいていなかった。

「ねえ、ファイバースコープ用の光源って借りられないかしらね」
 余韻を楽しんでいるのか目をつぶったままレイが言った。
「どうするんだい、そんなもの」
「お腹に光を当てるの。ほら、あれってものすごく強い光じゃない」
「そりゃそうだけど。胃内視鏡なんて患者の腹を透かしてスコープの位置がわかるくらいだもんね」
「それよ、それ。逆に外から光を当ててやったら、子宮の中が照らされるでしょう?」
「そりゃまた連中の希望かい」
「ご明察。あの子たち、お互いの顔を見たいんですって」
「見てどうなるってのさ」
「あら、自分を知るのは世界を知るための重要な第一歩よ」
「世界ったってなあ」
「ルイが言うには、自分たちは一卵性双生児だから同じ顔をしてるはずだって。ここには鏡がないからお互いの顔でがまんするんだって」
「兄妹だから似てはいるだろうけど、男の子と女の子だぜ? 一卵性ってことはないでしょう」
「私もそう言ったんだけど、ルイはそれこそ僕たちの秘密なんだって笑うのよ」
「笑う」
「そんな気がするの」
「君の頭のスクリーンにニコニコマークがずらっと並ぶってわけ?」
「そんなんじゃないけど、わかるのよ。それに、笑うのだけはあの子たち、同時なのよ。ルイは大きな口を開けてあっはっは、ていう感じだし。ルミは口を閉じたままくすくすって…」
「あーはいはい。そうだなあ、研修で一緒に放科を回ったニイヤマ近所で耳鼻科をやってるはずだから聞いてみるよ……それにしてもさ」
「なに?」
「ぼくたちはいったいいつになったら連中の顔を見れるのかねえ」

*                       *

(つづく)

トップ読切短編連載長編コラム
ブックレビュー著者インタビュー連載マンガBBS編集部日記
著作権プライバシーポリシーサイトマップ