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Sugar Room Babies

第三章(承前)

中条卓

(ぼくたちはものすごく幸運だったのかも知れないな)
 ルイのつぶやきを耳にしたレイは洗い物の手を休めた。週一回の血管造影のバイトにタクミが早朝から出かけていった水曜の昼下がりのことである。
「ん? どうしてそう思うの」
(ああ、ママ、聞いてたんだ。ひとりごとのつもりだったんだけど)
「あらごめんね。あなたたちのことばって全部聞こえるっていうか、頭の中に響いちゃうのよね」
(いいんだ。あのね、こんなふうにママの身体の中にずっといようとした子どもって、ぼくたちが最初じゃないんだよ。今までにもたくさんいたし、今この瞬間にも世界中に何組もいるはずなんだ)
「何組も?」
(うん。ぼくらみたいな子どもはね、必ずふたり一組で生まれるんだ)
「どうしてそんなことがわかるの」
(それはその…なんとなくそんなふうに感じるんだ)
 嘘ね。レイは直感した。
(ときどきね、ぼくら以外のこうした子どもたちの思念っていうのかな、考えたり感じたりしていることがふっとわかることがあるんだ。彼らはみんなおびえているか、さもなきゃすっかりあきらめてる。たいがい両親に忌み嫌われてるし、他の親族ときたら口にするのもはばかって厄介者扱いさ。悪魔の子なんて言われてね)
「そうなんだ。それはかわいそうだね」
(それだけじゃなくて、無理やり外に引っ張り出されて死んでしまう仲間も多いんだ。ひどい時には父親が母親のお腹を蹴ったり棒で殴ったりするんだ。母親もろとも殺してしまおうとするの)
 レイは言葉を失った。いったいどこの話なのだろう。日本のことではなさそうだけど、そもそもどうやってこの子たちはこんな情報を仕入れるのかしら。
(ねえママ、その子たちに私たちのことを伝えられないかしら。それとも、その子たちのお母さんやお父さんに、あなたたちはひとりぼっちじゃないんだよって教えてあげられないかしらねえ)
 珍しくルミが話し掛けてきた。ガラスのシロホンみたいに透き通ってよく響くルイの声とは少し違って、ルミの声はハモニカか草笛のようだ。うっかりすると聞き過ごしてしまう。
「そうねえ。パパとも話しあってみるわ。何かいい方法を考えてくれるかも知れない」

「ただいま」
 半日で三件の検査をこなしたタクミが、立ちっぱなしで棒のようになった足を引きずりながら帰ってきた。
「ああ疲れた。今日はどういうわけだか頭に変調を来した若者をやたら目撃した日だったなあ」タクミは人込みに出ると決まって不機嫌になる。
「電車のドアの脇に立って駅員のアナウンスをぶつぶつくり返している男の子とか、横断歩道を渡りながら四十五度ずつ首を回してあたりを警戒してる女の子とかね。帰りの電車じゃ養護学校の生徒らしい女の子たちの集団に会っちゃった。ほほえましい話題ではあるんだけどね、エッチしたとかどうとか大声で騒ぐのにはまいったな」
 タクミの饒舌をさえぎったレイは、ルイとルミ以外にも子宮内に留まることを選んだこどもたちがいるらしいという話を伝えた。
「ああそりゃいい兆しだよ。連中にも社会性が芽生えてきたっちゅう証拠じゃないの」メガネをはずし、顔を洗いながらタクミが答えた。タクミは一日に何度も顔を洗う。潔癖症なのか、脂ぎってきた自分の顔が嫌いなのか、あるいは単にカエルのように顔が乾くと具合が悪いのかも知れない。濡れたままの顔にメガネを掛け直しながら、
「しかしですよ、連中の言ってることが本当で、この日本にも同じような母子がいるとしても、どうやって連絡を取ったらいいのかね。全国の産婦人科医に照会してみるかい?」
「うーん、たとえ心当たりのあるお医者さんがいたとしても、患者のプライバシーは明かせないでしょう。やっぱりそういう人たちに直接訴えかける手段じゃないと」
「不特定少数が相手か。そうだなあ… 意見広告でも出すかい?」
「あ、それいいかも」
「マジ? でもさあ、莫大な金がかかるぜ」
「そうねえ」
 この時タクミのメガネが洗顔直後の水分のおかげで曇っていなかったら、レイの目に浮かんだいたずらっぽい表情を見逃さなかったであろうが、曇りがようやく消えたときには食卓に並んだごちそうに気を取られてしまい、この話題は立ち消えになってしまった。

 デジタルカメラとパソコン、フォトレタッチソフト。道具立ては揃ってるわね。タクミの部屋から持ち出した機材を点検しながらレイはひとりごちた。これだけあれば理論的には十分なはずだった。しかし、ビデオカメラが普及して誰でも手軽にビデオ撮影できるようになったからといって優れた映像作家が街に溢れだしはしなかったように、あるいはインターネットが普及して誰もが文学作品をネット上に公開できるようになったからといって文芸のルネッサンス、新人作家の百花繚乱とはならなかったように、道具だけ揃えてやればひとりでに傑作が生まれるというものではない。優れた素材、扱う道具に対する深い理解、そして何より右脳に由来するセンスやインスピレーションといったものがなければブタに小判、ネコに真珠、馬の耳に賛美歌というわけだ。でもレイには自信があった。職業柄デジカメの扱いにも、撮った画像の加工にも慣れているし、グラフィックデザインには昔から興味がある。学生時代、写真展に入賞したことだってあるのだ。日曜の朝、ここのところ多摩川べりのサイクリングに熱中しているタクミが愛車流星号で出かけたチャンスを逃さず、鼻歌まじりにダイニングのテーブルを移動し広い空間を作る。採光を計算して三脚を据え、ファインダを覗いてアングルを決める。背景は画像の切り抜きと合成がしやすいように単色にしよう。そうだ、あれは使えないかしら… タクミの部屋から持ち出して来たのはコンピュータ一式のダストカバーにと通販で買ったブルーの合繊の布。十七インチモニタ三台を覆える大きなものだ。四隅をピンで留めて壁に張り付ければブルー・マットの出来上がりだ。洗面所でネグリジェを脱ぎ捨てる。。痕が残らぬよう、ゆうべは下着をつけずに寝たのだ。鏡の前で裸を点検し、ついでに乳ガンの自己検診もやってみる。少し乳輪が大きくなったみたいだ。お腹はだいぶ膨らんでいるが、大丈夫、妊娠線は出ていない。さあ血行を良くするためにお風呂に入って、撮影開始だ。

 ヌード写真の方はなんとかタクミに知られずに撮ることができたが、ふたごの写真となるとレイひとりの手には負えなかった。外から強い光を当ててやれば、なるほどふたごたちは互いの顔を見ることができるかも知れないが、胎内にカメラを持ち込むことができない(待てよ、羊水穿刺用の針とガイドワイヤーを使って徐々に穴を広げてやったら、細い内視鏡ぐらいなら入るかも…ううん、そんな危険なまねはできないわ)以上、ふつうの写真を撮ることはできない。CTは放射線被曝の問題があるから使いたくない…となると、残る手段は超音波とMRIだった。レイは研修医時代に一緒に放射線科を回り、今は他大学の産婦人科で講師をしているウメキ医師に相談を持ちかけてみた。研修医時代には毎晩のように連れ立って安い居酒屋を飲み歩いた仲だが、今では胎児超音波診断の研究者として内外で有名だった。研究室に電話をしたところ、即座に超音波機器メーカーに連絡して最新鋭の装置を使えるよう手配してくれた。持つべきものは良き飲み友達である。
「ありがとう、なんてお礼を言ったらいいか」
「ああ、お礼なんてどうでもいいからさあ」
 昔と変わらない口調。レイは愛想のいい丸顔を思い浮かべて口元をゆるめた。
「今度の超音波学会の時にでもまた飲もうよ。だんなも一緒にさ」

 メーカーの研究所は中央線のはずれにあった。特別快速で北上していくに従って秋の気配が深まり、沿線の雑木林はもう色づき始めている。
「操作方法はおわかりですか」
「ええ、たぶん。前の機種とそう変わらないんでしょう」
「基本的なところは同じです。もしおわかりにならないことがありましたら、画面のヘルプボタンに軽く触れていただければ音声とアニメーションの操作説明が出ますので」
 技術者は丁重だった。
「ではごゆっくり」
 技術者がいなくなったところで早速検査台に上がり、スカートを下ろしてゼリーを下腹部に塗りたくる。
「しばらくの間動かないでいてね」
(大丈夫よママ、わたしたちじっとしていられるから)
 最初はルミの顔を映してあげよう。何度か輪郭をなぞるようにプローブを動かしているうち、霧の中から浮かび上がってくるように、まっすぐにこちらを向いた少女の顔がモニタ上に現われてきた。少し離れぎみの大きな瞳、薄いくちびる、形の良い耳が次々と明らかになる。思っていたとおり、ルミはあたしの小さい頃にそっくりだわ。

 半日がかりで収集した膨大な画像データを光磁気ディスクに入れて持ち帰ったレイは久しぶりに大学病院を訪れた。今度はMRIを撮影し、超音波の画像データと一緒にワークステーションで合成して、胎児たちの姿をできるだけ鮮明に映し出そうというのだ。今日はMRIの点検日で検査の予約が入っていない。点検は昼過ぎには終わる予定だというので、それまで読影室で時間をつぶすことにした。
「あらレイ先生」
「ミソノさんお久しぶり」
「今日はどうしたんですか」
「ちょっとMRIのデータを取りにね」
「まあ産休なのにお仕事ですか、大変ですね」
「ほんとは半分息抜きなのよ、ベビーはだんなが見てくれてるから」
 あれこれ尋ねられる前に先手を打っておくに越したことはない。ぐるりを見回すと相変わらず読影前のレントゲン写真が山積みになっている。
「だいぶ仕事が溜まってるみたいね」
「そうなんですよ、マカイ先生が担当なんですけどね」
 マカイ君か。仕事が遅いわけじゃないけどペースにむらがあるからなあ。
「ちょっとだけ読んでいこうかな」
「本当ですか、助かります」
 ミソノさんはぱっと顔を輝かせてマイクロカセットを手渡した。読影所見をテープに吹き込んで渡すとミソノさんがきれいにタイプしてくれるのである。レイはシャウカステンの前に陣取り、椅子の高さを調節した。思ったほどお腹はきつくない。
「十月十六日の単純写真、読影者は麻生です」
 型どおりにレポートを吹き込みながら、レイは子どもたちの姿に思いをはせていた。今ごろはレイが持ち帰ったデータをもとに、MRI室の画像ワークステーションがせっせとあの子たちの顔かたちを立体画像に仕立てているはずだった。超音波断層撮影はふつうは「断層」という言葉が示しているように人体の断面を表示するものなのだが、ウメキ医師のコネで使わせてもらった機械は羊水と皮膚との音響インピーダンスの違いを利用して胎児の体表のようすを画像化してくれるのだ。通常はせいぜい粘土の模型をピンぼけのカメラで写したような絵が表示されるにすぎないのだが、検査に十分時間をかけて大量のデータを採取したので(あの子たちが身じろぎもせずにいてくれたおかげだわ…感謝!)相当に精密な画像ができてくるはずだった。レイは睫毛の一本いっぽんまで綿密に描き込まれた中世のミニアチュールを思い浮かべた。まつげねえ、まつげ、ええと、まつげと言えば睫毛反射よね、あら、この人ったらヘアー・ラインが左側にもあるわ、左肺の過剰分葉かしら…
"A thin horizontal line, suggestive of accessory fissure, is noted in the left mid lung field."
 予定の検査が早めに終わったからとMRI室のサカキバラ技師から呼び出しがあったのは読影の仕事が一段落ついたティータイムだった。好きだったコーヒーから妊娠を機に切り替えたウーロン茶の残りを一気に飲み干し、足早に地下のMRI室に向かう。
「本当にこんなに細かく撮るんですか、ベビーが動いちゃうんじゃないですか」検査のパラメータを手早く入力しながらサカキバラ技師が尋ねる。
「今は眠ってるみたいだから大丈夫。あたしと一緒で寝相がいいのよ、この子たち」
「嘘っぽいなあ」

 銅張りの重々しいドアを開けて検査室に入る。窓がなくて天井の低い部屋。かすかに流れるBGMの底を液体窒素のコンプレッサが掻き回している。決して眠らない機械の中を流れる冷たい血液。産休に入る前には日に何度も出入りしていたし、検査台に横たわるのだって今日が初めてというわけではないのだが、いつまでたってもこの部屋の重苦しさには慣れることができない。それはたぶん、地磁気の千倍もの強烈な磁場を体のどこかで感じとっているせいなのかも知れない。この地上に生を受けたものがいまだかつて経験したことのない高い密度で空間に張り巡らされた無数の磁力線が音もなくレイの身体を貫き、目にみえないゴム糸のように動きを妨げるのだ。検査着をつけて横たわるとさすがに下腹部のふくらみが目立って恥ずかしかったが、ナースのホリさんがすばやくバスタオルで被ってくれた。少し息苦しい。そう言えばあおむけになるのは久しぶりだ…仰向けに寝ると死んでしまうのはエレファント・マン、そう言えばあれはなぜだったのだろう、気道がふさがってしまうからかしら、それとも単にひどい心不全だったのかしら…
「じゃあ始めます。ちょっとうるさくなりますよ」
 ファラデーの法則に従ってねじ曲げられるコイルがかんかんと骨に響く音を立て始めるのを聞きながら、レイは取りとめのない夢想にふけった。

*              *

 その写真はたしかにセンセーショナルだった。ゆたかに波打つ黒髪に半ば胸を被われた抜けるように白い肌の女性が、ふくらんだお腹に両手をあてがいつつ結跏趺坐している。半ば閉じたまぶたから覗く瞳は無限遠を見つめているようだ。その腹部には超音波とMRIの三次元画像が二重映しになっていて、子宮の中で互いに手を取り合ったふたりの胎児が、やはりこちらをじっと見つめている。キャプションは「わたしたちは、家族です」。画面の真ん中に毛筆書体でくっきりと書かれた文字列の上下には、アラビア語、中国語、韓国語、ヒンディー語、英語ドイツ語フランス語イタリア語ロシア語スペイン語ポルトガル語スワヒリ語…二十ヶ国語訳が並んでいる。
 レイのヌードは充分魅力的だったが、それにも増して目を引くのは子宮内で手を取り合っているルイとルミの姿だった。彼らは胎内にありながら、もはや胎児の姿をしていなかった。それは思春期前の少年と少女のミニチュアだった。中性的でありながら、すでにはっきりとした性別がそこには現れている。

「ルイとルミ、在胎期間四百日の胎児。彼らはすでに両親とコミュニケートするすべを身につけているが、彼らの存在はこの社会ではまったく認められていない。彼らは子宮内にとどまることを選択した胎児なのだ。彼らのような子供たちが世界中にいるはずだ、と彼らの両親は信じている…」

 個人ホームページにひそかに掲載されたその画像は好事家たちの目にとまり、転載自由をうたっていたこともあって、あっという間に世界中に広がった。タクミがいくつかのメーリングリスト経由で流れてきた情報でその存在を知ったのは、レイが画像をポストしたきっかり十七時間後のことだった。
「やってくれましたね」
 タクミは大型モニタの前で嘆声を上げ、早速その画像をデスクトップに指定した。二十四時間後には真偽を問い合わせるメールが殺到してレイのメールボックスがパンクしてしまい、アドレスを変更しなければならなくなった。二日後には米国のテレビ局がニュースを紹介し、日本の民放がそれを取り上げたのは三日後の昼だった。その知らせは電話で舞い込んできた。
「はい、麻生です」
「ああ、レイ先生、今先生の写真、ホームページっていうの、あれがテレビに出てるわよ。○チャンネル。今すぐつけてごらんなさいな」

 目顔でレイが合図しタクミがテレビをつけるとふたごたちが歓声を上げた。
(ママの写真だね)
(ママ、きれい!)
「赤ちゃんたちまだ生まれてなかったんですって? あたしもびっくりしたけど、もう医局は大騒ぎよ」
 ここでオオノさんは急に声のトーンをぐぐっと落とした。
「教授はいつもの調子だから気にしてないけど、助教授がね、一度説明してもらわんと、なんて息巻いちゃってるから厄介ね。先生、ほとぼりが冷めるまでしばらく出てこない方がいいわよ」

 ほとぼりは冷めるどころの騒ぎではなかった。

 このところゴシップに飢えていたマスコミが例によって興味本位で一斉に飛びついてきたのだった。写真週刊誌がレイの実名と所属をすっぱ抜いたため大学病院に問い合わせの電話が殺到した。医局秘書のオオノさんが水際で防いでくれたおかげで自宅の電話番号まで漏れることはなかったが、それも時間の問題とあって電話番号を変えたのもつかの間、やがてストーカーまがいの物見高い連中がマンションの近辺をうろつき始めたため、夜逃げ同然で引っ越すはめになった。続々と舞い込むメール、手紙、電話のほとんどは興味本位の反応や問い合わせだったが、中には似たようなふたごのことを知っているというものもちらほら混じっていた。タクミとレイはそういった情報を拾い上げては確認していったが、ほとんどはでっち上げかからかい半分、また聞きのそのまたまた聞きあるいはまったくの誤解で、死んだひいばあさんからそんな話を聞いたことがあるとか、難産の末に死んでしまったふたごから今でも便りが届くというオカルトめいた話、何をどう間違ったのかふたごのお産で困ったらこれこれの薬草がいいというアドバイスなどもあり、出版社経由で安産のお守りが山ほど届いたりもした。インターネットならではの反応というのもあった。
「見てごらんよ、これ」
 タクミがインターネットの検索結果を見せてくれた。レイたちの写真を載せたもともとのページへのリンクはすでに三十カ国四百ページを越え、同じ画像を転載したページがその倍くらいあり、パロディーとして合成したヌード写真を載せたページの数となると実体は把握しようもなかった。いつの間にかルイとルミは "Sugar Room Babies" と呼ばれるようになっていた。正確な出典はわからないが、砂糖菓子でできた魔女の家に迷い込んで出られなくなった子供たちの民話から来ているらしかった。アダルトチルドレンに倣ったのか、あるいはコインロッカー・ベイビーズからの連想なのか、自らシュガー・ルーム・ベイビーズと名乗る若者たちのメーリングリスト、ニュースグループ、メールマガジンが出現し、ルイとルミが主人公のRPGが通信対戦可能なウェブ上のゲームとして登場したようだった。
「昔、ヴァリスっていう小説があったのさ。VALIS: Vast Active Living Information System… 巨大で活発な生きている情報システム、かな。一九七〇年代にアメリカのフィリップ・K・ディックというSF作家が発表したんだけど、今ならさしずめインターネットをなぞらえたくなるよね。でも彼がその小説を書いた時には誰も今日のインターネットを想像してもいなかった。いや、インターネットを構想した学者たちだって、自分たちの作り上げたシステムがいつか独り立ちし自己増殖と進化をくり返して巨大化するとは思ってなかっただろうね」
「あたしもまさかこんなに反響があるとは思わなかったわ」
「それでその後どう、似たようなふたごの情報は入ってきた?」
「今のところひとつだけ気になるメールがあるのよ。明日、電話で確かめてみるつもりなんだけど」
「そう。それにしてもこの先どんなものが引き寄せられてくるのか、ぼくには想像もつかないよ」

 引き寄せられてくるものはごみばかりではなく、また無害なものばかりではなかった。「ルミ」という名は光を意味してもいたはずだが、邪悪なる闇の勢力もまた光あるところには集まってくるのだった。

 その中に「雨男」がいた。

 雨男についてはこんな話が伝えられている。彼は裕福な商家に生まれ幸福な幼年時代を過ごした。繊細で頭の良い子であり、すぐ下に身体の弱い弟がいた。彼の生まれた年に街に大きな工場ができた。肥料を作るための化学工場という触れ込みだったが、実際には大量殺戮用の猛毒ガスを作っていた。ある日彼が家路を急いでいると突然、今までに聞いたことのない警報が鳴り響き、どこからともなく現われた軍服姿の目の鋭い男たちが、住民を地下のシェルターに誘導し始めた。シェルターは街を見下ろす丘の中腹に極秘裏に作られていたらしかった。シェルターの定員は住民全体の五%に過ぎず、定員を収容し終えた時、シェルターの扉は自動的に閉ざされた。
 彼は懸命にシェルター内を捜したが、父と母そして弟の姿はそこになかった。大人たちが食い入るように壁のモニタを眺めているのに気づいた彼は振り向き、そして見た。
 遅れて来た住民たちが必死の形相で頑丈なシェルターの鋼板を叩いている。最前列に彼の父親、その後ろに母と弟の姿がはっきり映っていた。彼らの背後から鮮やかな黄緑色のガスが襲い掛かり、一瞬ののち逃げ遅れた人々の身体は血膿を含んだ水泡で被われた。のどを掻きむしりながら人々がのた打ち回り、露出した皮膚がずるずると剥げ落ち、やがて全身の穴という穴から血を流して死んでいくのを彼はまざまざと見続けた。彼は泣かなかった。二度と泣かなかった。その時、閉め切ったシェルターのむき出しの天井から静かに雨が降り始め、彼の身体を濡らした。

 生き延びてしまった彼は生き延びる資格のない者を狩る雨男になった。

 その男はディック・トレーシーさながらのソフトにトレンチコートといういでたちで現われた。
「あんたか」
 編集長は顔をしかめた。「ここはAV業界じゃないんだぜ。アポもなしに来られちゃ迷惑だ」
「どうしました?」
 スタッフが尋ねた。
「濡れ場は御法度ってこと。奴を見てみろ、秋晴れのいい天気だってのにずぶ濡れだ」
 なるほど男のコートも帽子も濡れて色が変わり、帽子の縁からはまだしずくが垂れていた。男は帽子を取ろうとせず、無表情なまま口を開いた。頬がこけ、くぼんだ眼窩の奥でエナメルを塗ったような目が光っている。
「先週号のインタビューに載った女の情報が欲しい」
 男の帽子からまたしずくが一滴垂れ、タイル張りの床に落ちたかと見る間に消えた。
「おたくもあのヌードで興奮したくちか。山ほど問い合わせが来てるが、雑誌に載せた以上の情報を教えるわけにゃいかん。顧客のプライバシーは守らんとな」
 (そのプライバシーを売り物にしてるのはどこのどいつだ?)
 男の口の端がほんの少しゆがんだが、それきり無言でデスクライトの緑色のシェードを軽くなでている。
「な、なんか急に部屋が暗くなったんじゃないすか? それになんだか…」
 言いかけたスタッフが男を見てあわてて後ずさった。
「うわ、なんだこれ?」
 男の頭上から細い銀色の雨が降り注いでいた。雨漏りではない。男の頭と天井との間の空間から忽然と雨は現われ、男の頭と肩を濡らしているのだった。男の帽子からもコートからもぽたぽたと水が滴るのだが、しずくは床に届く前に消えてしまう。
「こいつは雨男さ。情報のハイエナみたいな奴だ」
 異変に気づいたスタッフがそろそろと男のまわりに近づいてきたのに気づくと男はさっと向きを変えて出ていってしまった。雨はますます強くなり、男の後ろ姿は煙っていた。
「ああ驚いた。なんなんです、あの人。手品師かなんかですか?」
「いや、おれもよくは知らないんだが、何の仕掛けもないみたいだぜ。集団催眠なのかも知れん。あるいは前世の因縁ってやつかな。とにかくあの男は一日二十四時間、一年三百六十五日ずっと雨に降られ続けているらしい。寝るときにはあの帽子を鼻と口の上に置いとくのさ。さもないと溺れ死んじまう。あの雨はあの男しか濡らさない。あいつとやる女は大変だな。濡れるは男ばかりなりってな」
 何がなんだかわからないままスタッフ一同があいまいに笑い、やがてめいめいのデスクに戻っていった。編集長はジャケットの内ポケットから分厚い手帳を取りだし、番号を確認しながら電話を掛けた。インタビューの打ち合わせの際に決めたとおり三回コールしていったん電話を切り、二回コールしてまた切り、三度めにようやく相手が出た。
「もしもし、麻生先生?」
 編集長は首を傾げて電話を固定したままタバコを取り出し、火をつけた。
「イブニングのムラカミです。先日はどうも、いやもうすごい反響ですよ。ええ、ええ。ところで今日お電話差し上げたのはですね、あなたの素性を知りたいっていう情報屋が現われたもんで、念のためお知らせしておこうかと思いまして。いわゆるストーカーみたいな奴です。もちろんこちらから情報を漏らすようなことはしませんが、どこから嗅ぎ付けるかわかりませんから。ええ、そうですね。しばらく外を歩かれるときはご面倒でも変装した方が。いえいえどうも、こちらこそ。では御免ください」
 一ブロック先の喫茶店で雨男はイアホンを耳から外した。デスクライトのシェードに貼り付けておいた同じ色の隠しマイクはあと数時間は作動できるはずだが、もう用はない。雨男は発信機から暗号を送った。マイクの中でリレーが作動し、急速な腐食が始まる。剥がれ落ちたマイクは緑色の色紙の屑にしか見えないはずだった。プッシュホンのダイヤルトーンから電話番号が割れる。名前と電話番号さえわかれば住所まではほんの数ステップに過ぎない。雨が小降りになった。雨男は冷めたコーヒーを一気に飲み干した。

*              *

「このまま子宮内で育ち続けると、彼らは体外では生活できなくなってしまいますよ」
 どうあっても診察させろと教授を通して圧力をかけてきた産婦人科と小児科の面子を立てるため訪れた大学病院の分院で、糊のきいた白衣に身を包んだ産科医は口を切った。
「今すぐにでも取り出すべきです。今だってもう遅すぎるかも知れない。もう経膣分娩は無理でしょうから、帝切になってしまいますがねえ」
 かすかにサディズムを匂わせて笑う。
「それは逆でしょう、体外で生活できないからこそ彼らは子宮の中に籠ってるんです」
 やんわりとレイが指摘した。
「彼らの肩幅が妙に狭くて胸が小さいことに気づいていますか」
 グリーンのくたびれた術衣をまとったNICU担当の小児科医が口を挟んだ。
「そういえばそうですね。狭いところで暮らしてるせいかしら」
「それもあるかも知れませんが、とにかく重大なのは、彼らの肺が一度も空気を吸い込んでいないということです。肺が発達しないまま身体の他の部分だけが大きくなってしまっている。出てきたらすぐに人工呼吸を開始してサーファクタントを補給する必要があるでしょう」
「当面は補給するとして、その後はどうするんです? それに、彼らは自分の意志で生まれないことを選んだんですよ」
 まだそんなことを言っているのかといわんばかりにふたりの医師は顔を見合わせる。
(胎児の意志だって?)
「そんなことはありえない」
「現実に私と夫はここにいるふたりと毎日対話を続けているんです。説得してみようとも思いましたが彼らの意志はとても堅くて」
(そうだよママ。連中に言ってやってよ、むりやりぼくたちを引きずりだそうとしたら、臍の緒で首をくくってやるからね!って)
「そんな…」ばかな、と言いかけてあわてて言い直す。
「…症例は見たことがありませんね」
 白衣と緑衣の男たちはうなずき合う。
「報告例もありません。そもそも理論的に不可能ですよ」
(こいつら、ぼくたちを解剖したがってるよ、ママ)
「そのようね」
「え? 何かおっしゃいました?」
「いえ何でもありません。いずれにしてもわたしたちは、あくまでも自然の経過に任せてみようと思うんです」
「自然もなにも、今現在この状態がもう、とてつもなく不自然なんですよっ!」
 婦人科医が声を荒げた。まあまあ、となだめる小児科医を横目で見ながら。
「病気の場合でもナチュラルコースに任せることってありますでしょう。いよいよ胎児たちの身に危険が迫っているとか、今すぐなんらかの処置を講じなければならないとか、そんな時がくるまで慎重に見守ってやってくださいな」
 そそくさと診察室を出る。

(…ったくもう、失礼な連中だと思わない?)
(無理もないよ。教科書に書いてないことは起きるはずがないって思ってるんでしょ、あの人たち)
(そうねえ)
 胎児になだめられる母親なんて、そうめったにいるもんじゃないだろうなあなどと思いながら、人影もまばらな総合外来を足早に通り過ぎようとしたところで
(あ、パパだよ)「やあ、どうだった」ルイとタクミが同時に声を発した。
「てんで平行線。むこうはどうあっても帝切に持ち込みたがってるし、こっちは出てこないものをむりやり引っ張りだそうとは思いません、って繰り返すばっかり。でも、依頼人の意志に反して医療行為を強制することはできないものね」
「医療行為か…治療という名の暴力、だよねえ。よかったらそのへんをぶらぶらしてみない。明かりがきれいだよ」

 ふたごの騒ぎに気を取られてすっかり忘れていたが、商店街はクリスマス商戦たけなわで、アーケードにはありとあらゆるアレンジのクリスマス・ソングが流れていた。ここは高度成長時代ぐらいまではこの街の中心的な繁華街だったのだが、駅周辺の地下街が整備され、大型デパートが相次いで駅前に進出してからは客足が遠のき、店舗も老朽化してさびれているようだった。特にこのあたりは場末で、地方の商店街となんら変るところはなかった。でもタクミは戦後からずっと細々と営業し続けている金物屋や和菓子屋、家具店、飲食店が並ぶこの商店街を眺め歩くのが好きだった。いもりの黒焼きやハブ酒を扱う「へびや」の店先には相変わらず白い線が引いてあって、見物人は店の中までは入れないようになっている。三丁目まで歩いたところで空が急に暗くなり、妙に生暖かい風が吹き出した。
「雨になりそうだね」
 気圧が下がり、空中の荷電粒子の密度がじわじわと上昇しているような、ちりちりと毛先が刺激される感覚がある。レイの豊かに波打った黒髪が虹色に光りそうな予感がした時、
「あっ」
 ショーウィンドウを指差してレイが短く叫んだ。
 レイの髪から肩そして袖にかけて、オーロラのようにかすかに波打つ青白い光が揺れていた。何かの反射かと後ろを振り返っても何もない。タクミに知らせようと伸ばした指の先にも小さな光が点り、ひときわ強く輝いて消えた。
「見た?」
「うん、ほんの一瞬だったけど」
 胎動を感じてレイはおなかに手を当てた。
(今のはたぶん)
「なあに?」
(セントエルモの火じゃないのかなあ)
 長い通りの端から端まで、次々と街灯が点り、電圧が下がったせいなのか、流れ続けていたクリスマスソングの音量が一瞬小さくなったような気がした。

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