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Sugar Room Babies

第四章

中条卓

 子宮内は無菌的環境である(経胎盤感染という例外的状況をのぞけば)。そこには腐敗も醗酵もない。ぼくたちの汗も垢も微生物に分解されることはなく、ゆえにぼくたち胎児は路上生活者の異臭とは無縁だ。胎児は羊水を飲み下し尿として排泄するが、それは子宮内の水を循環させているに過ぎない。胎児の腸内には剥がれ落ちて死んだ細胞が堆積していくが、胎便と呼ばれるその物質は通常、出産の後まで排出されない。

 新生児においてこの胎便が固まって出なくなり、腸閉塞の原因となることがある。胎便イレウスと呼ばれるこの状態は腸管の破裂、ひいては汎発性腹膜炎を引き起こして新生児を危険な状態に陥れる。

 羊水(amniotic fluid)という奇妙な名前は羊膜(amnion)に由来し、amnion の原義はいけにえの羊(amnos)の血を容れる鉢のことなのだという。amnion になみなみと満たされた液体の中でぼくたちは目覚めながら夢を見ている。羊水の成分はまた原始の海水にも似ているという。ぼくたちは原始の海に遊ぶ犠牲の子羊、屠られる瞬間を待ちながらじゃれあう子羊なのだ。

 ぼくたちはやがて明暗を区別できるようになり、光に応じて目を開けるようになった。等張液の中ではいつまでも目を開けていることができる。緊張した腹壁を透過してくる光線は血の色をしていた。ぼくたちはぼんやりとしたお互いの姿を飽かず眺めた。といってもぼくたちの目はまだ小さすぎてひどい遠視だったのではあるが。

 ぼくたちはほとんど何も食べなかった。お互いの体にへばりついた胎脂や垢を舐め取るくらいのものだった。しかしそれでも、毛づくろいしすぎる猫の胃の中に毛玉ができてやがて石になるように、嚥下され水分を取り除かれた食物は腸管内に蓄積されつづけ、いつか許容量を越えつつあった。どんな物質だって摂りすぎれば毒になる。神話を見たまえ、神でさえ排泄するのだ。ぼくたちは日毎に膨らんでいく腹を抱えながら、究極の選択を迫られていた。溜りに溜まった胎便を放出して羊水を混濁させるか、極限まで引き伸ばされた腸管壁が破綻して胎便がぼくたちの腹腔を汚すのを待つか。どっちにしても排泄することに変わりはない。胎内か体内かの違いがあるだけだ。

 でもぼくたちはまたしても外界を/大人たちを出し抜いてやった。居住空間が狭すぎるなら成長しなければいい(ぼくたちは閉ざされた宇宙ステーションの中で増えすぎた人間たちが次第に矮小化していくのを観察した)。いや、大人たちだって本当は気づいているのだ。ゴミはリサイクルへ。早い話が尿を飲み、糞便を食らえばいいだけの話だ。そちらでは/大人たちの間では糞尿譚は禁忌らしいが、こちらは無菌的環境であることを思い出してもらいたい。それにだいいち、ぼくたちの腎臓は尿を濃縮する必要がなく、ぼくたちの腸管は養分を吸収する必要がないのだ。どちらも胎盤が、そしてママの腎臓と消化器が代行してくれる。つまりぼくたちは口から羊水を飲んではそのまま尿道から出し、胎便を食らっては肛門から出しているだけのこと。ガルガンチュワ的状況とでもなんとでも呼ぶがいい。

 ぼくたちは眠らないが夢を見る。ぼくたちの概日周期は朝の光でリセットされることがないから、ぼくたちは月の満ち欠けを基準にした独自のリズムで生活している。食事は一日二回。風呂には入ったことがないが、いつも互いの身体を舐めあっているからきれいなものだし、裸で羊水の中にいるのだから四六時中入浴しているようなものだ。

 ぼくとルミは一日に何度も連れ立って散歩に出かける。ぼくたちは自由に時間と空間を行き来するけど、それはぼくたちが本当に動いているのか、ぼくたちがアクセスしている情報が変化しているだけなのか、ぼくたちにはわからない。ぼくたちに出会ったという人が外の世界では増え続けているらしいが、それだってぼくたちと彼らが共有しているスクリーンのようなものにぼんやりと映る影に過ぎないかも知れない。

 伸び続ける髪と爪はやっかいな代物だった。ぼくたちは自分の体に裏切られたと感じた。髪と爪は絶えずぼくたちの身体からはみ出してモノに変わるからだ。呪術の小道具。魔薬の原料。最初のうちは放っておいたが、狭いこの世界の中では伸びすぎた爪は凶器に変わってしまう。夢飛行から戻った時、知らず知らずのうちにルミの背中に爪痕をつけていたことに気づいたぼくは爪の処理方法を考え出す必要に迫られた。ぼくたちが持っている爪よりも硬い道具、それは歯だ。試しにぼくはルミの爪を齧ってみた。羊水でいつもふやけている爪は意外とやわらかくて簡単に噛み取ることができた。

 そう、ぼくたちにも歯があったのだ! 何よりも硬く、すべすべで、ぎざぎざで、ここではただひとつ白いもの。ぼくたちの歯は一本も損なわれることのないまま脱落し、後にはより大きくて凶器じみた永久歯が生えそろった。その強度を試すためにぼくはルミのふくらみかけた乳房を噛んだ。傷口からは少ししょっぱくて鉄の味のする液体があふれ出た。むさぼるようにその液体を飲みながら、ぼくははじめて射精した。ルミはぼくの唇をもぎ離してくるりと向きを変え、尿道口から糸を引いて浮かんでいたぼくの精液を飲んだ。それからルミは射精したばかりでほとんど痛くなっていたぼくの性器をくわえ、歯を立てた。痛みと快感に身を貫かれ、もう一度ながながと射精しながらぼくは気を失った…

 ぼくたちが齧歯類でなかったことを感謝すべきだろう。歯をすり減らすことができるような硬いものが何ひとつない環境下で永久に伸び続ける歯を持っていたならそれこそ悲劇だ。ぼくたちは物を食べないし音声としてことばを発することもないのだから、伸び続ける歯のために口を閉じることができなくなってもさほどの不具合はない、それはそのとおり。だが齧歯類のように突出したあごを持たないぼくたちの門歯が伸び続けたなら、下あごの歯は口蓋を抜けて鼻腔に達し、やがては脳にまで食い込んでしまう。自分の歯で自分の脳に穴を開けて死ぬとは、いやはや…

 それにしても道具というものを使えない環境はたしかに不便ではある。ぼくたちの手足は互いの体をまさぐる他に使いみちがない。これではまるでガラパゴスの鰭肢人類じゃないか。それともぼくたちはイルカなのだ。高い知能に恵まれながら、水中というあまりにも快適な世界に棲みついたがために文明を発達させることがなかった優雅な生き物。

 永久歯…なんと素敵なひびきだろう。急速に老化するぼくたちがママよりも先にこの世を去り、ぼくたちの体が融けてなくなり羊水が涸れ果てた後にも、ママの子宮にはぼくたちの歯が残る。ふたりぶんの乳歯と永久歯、ぜんぶで百四本の小さな歯が一本も歯の妖精なんかに掠め取られることなく残るのだ。そしてママの子宮に吹きガラスのようにパパが息を吹き込めば、ぼくたちの歯は鈴のように、いや、レインメーカーのようにさらさらと音を立てるだろう。

 ぼくたちが扱うことのできる素材はぼくたちの体に由来するもの以外になかった。だからぼくはふたりの垢をこね合わせて形を作り、胎便を塗り固めて補強した。出来上った人形をぼくたちの爪で飾り立て、髪を植え込んでやるとそれは素敵なゴーレムになった。ゴーレムの目はぼくたちの臼歯だ。ゴーレムには鼻も口も臍も肛門もない。一体のゴーレムには体の真ん中から飛び出した角があり、もう一体のゴーレムにはそれをはめ込むくぼみがある。二体のゴーレムを戦わせて遊んだあと、ぼくはふたつを潰して地球の模型を作った。

*                    *

 夜明けから日没までに歩いただけの土地をやろうと悪魔に持ちかけられた欲張りな農夫の話を記したのはトルストイだったろうか。その昔、日没までに行って帰ることのできない土地はすなわち異界だった。

 住み慣れた土地の周辺には社会から押し出されたものたちが住んでいた。死にかけているもの、死んでしまったもの、異形のもの… 彼らはまた恐怖に満ちた外部を垣間見ることのできる選ばれたものたちでもあった。

 やがて人間たちの集団は膨張し始め、勢いのある集団は周囲の小さな集団を飲み込んでさらに大きくなった。集団のテリトリーは次第に拡大し、ついに互いに重なり合うようになる。

 はじめて肌色の異なるにんげんに出会ったときの驚きはいかばかりだったろうか。しかし、ことばの通じない異人に会ったときの驚きはそれを上回ってはいなかっただろうか。

 お前は何者かという問いに対する答の変遷を知ること。

 世界はあまりに大きく複雑なのでモデルを介してしか理解しえない。世界に関する情報が増大するにつれてモデルはより精密になったが、それでも世界そのものを知ることができないという状況は変わらない。

 知覚を変容させることによって世界に直に触れようとする別の試みも古くからあった。いわゆる幻覚剤や麻薬を使った実験はつまるところ知覚のフィルタを外そうとする試みだった。

 だが知覚のフィルタを外してしまった者はもはや人間、すなわち人の間で生きる者ではなくなってしまう…

*                    *

 環境汚染の歴史は農作とともにはじまる。焼き畑は土地を疲弊させ、張り巡らされていた根を失った表土は雨とともに海に流れ去った。恐らくはヒトが火を使いはじめた時、ヒトは楽園から追放され、ガイアの敵となったのだ。

 化石燃料の火そして原子の火…より大きな火を手に入れるたびにヒトの「殺す力」は大きくなった。同胞を殺し、数限りない種を殺し、大地を水を空気をヒトは殺し続けた。

 果たしてヒトは生き残れるのだろうか? ヒトの殻の中から超人が生まれでない限り、つまりはヒトがヒトであることを止めない限り、それは難しいことのように思える。

 ヒトは地球を見捨てるだろうか。地球はヒトを見限るだろうか。宿主と寄生虫の闘いはあまりにもむなしい。

 地球の大きさを、と同時に宇宙空間におけるそのはかなさを目の当たりにし実感できたものだけが地球人としての自覚を持つことができる。地球外に出ることのできない意識こそが人類の限界なのではなかろうか。

*                    *

 あたしは輪郭を信じない。指先がそこで終わっているように見えるからといって、指先が触れることの終端ではないもの。成長を止めたあともあたしの指は伸び続ける。爪が伸び続けるみたいに、あるいは木々の先端が伸び続けるみたいに。あたしの指は世界の果てを突き抜けて真空の冷たさにふれる。あたしの掌は太陽のかけらを掬い取る。あたしの爪は月の面を引っかいてみみずばれを残す。

 想像の中でアクロバットを演じてごらんなさい。夢の中でなんども走る練習をするの。そうすればあなたは完璧な身体を手に入れることができる。つややかに輝いていてしわひとつなく、余分なあぶらをこそげ落とした身体。思いのまま鋼のように固くなり、それでいてどんなふうにも曲げられる、強化プラスチックの皮膚。あたしは樹とアメーバを同時に表象する。あたしは球状の世界の中心から表面のすみずみまで枝を張り、同時に世界をあたし自身の中に取り込む。

 骨と筋肉と皮膚のかわりに光、振動、流体を。羊水に浮かんでいたあなたは自分の体をどんなふうに意識していたか、それを思い出してごらんなさい。

 すべてはあらかじめ与えられている。でも同時にすべては見出されなくてはならない。インドで会ったシャカ族の王子は相対性原理を知っていたけれど、それを記述する言葉を持っていなかった。あるいは記述の体系が異なっていた。あるいは彼にはそんなことにかかずらわっている暇はなかったのかも。

 あたしたちには今しか与えられていないにも関わらず、あたしたちは今にとどまることができない。時間は空中に静止した矢。矢を取り去ってしまえばあとに何も残らない。

 世界中に据え付けられたビデオカメラがあなたの姿をはじめから終わりまで絶えず記録している。あなたは生まれ、成長し、老いて死んでいくまで運動と移動を止めない。そしてまたあなたは生まれ、成長し、老いて死んでそしてまた生まれる。世界を埋め尽くすあなたのすがた。あなたはやがて気づくかしら、この記録こそがあなたであり同時に世界であることに。

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