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Sugar Room Babies

第五章

中条卓

 なんとなく初日の出を見に行こうということになって、タクミとレイは近所の公園に足を運んだ。

「それよりさ、せっかくこんな時間まで起きてたんだから初日の出を見に行かない?」

 公園は坂の頂上にあり、東側が開けていて遠海山から日が昇るのがよく見えるのだった。早朝は犬を散歩させに来る人が多いのだが、さすがに今日は誰の姿も見えなかった。行く年来る年もニュースも見終えてひと寝入りしているのか、あるいはもっと景色のいいところまで日の出を見に行っているのだろう。ふたりそろってサンダルばきにちゃんちゃんこという格好で出てきてしまったが、夜明け前の冷え込みはさほどでもなかった。

「(静かだね)って、ルイが言ってる」
「ああそうだね。一年で一番静かな時間かも知れない」

 数えで年取りしていた時代にはもっと厳粛で貴重な時間だったのかも知れない、あるいはもっとずっと昔、古代ならと考えていた時、レイがつぶやいた。あるいはそれはふたごたちの呟きだったろうか。

(古い世界がいっぺん死んで生まれなおす瞬間…)

 山の稜線がさっと赤く染まり、びっくりするほど大きな太陽が顔を出した。太陽ってこんなに大きかったのか。思わずタクミは身震いする。陽光は一家四人を等しく包んで温めてくれる。ふたごたちも今まさに初日の出のこの上なく新しい光を浴びているはずだった。腹壁ごしだろうが何だろうが関係ない、そうだろう? タクミは今この瞬間にはじめて彼らが家族になれたような気がして、気がつくと涙ぐんでいた。ふたごたちは目をつぶって陽光を余さず感じ取ろうとしている。自らも目を閉じながら、タクミはそう確信していた。

*               *

 あなたは熊のプーさんの童話を読んだことがおありだろうか。

 ルイとルミの語るところによれば、プーは木のうろにたまった蜂蜜を見つけ、大喜びで手と頭を突っ込んではむさぼり食うのだが、気がつくと彼の上半身はすっかり太ってしまい、うろから身体を引き出すことができなくなってしまう。彼は体型が元に戻るまでじっと食べるのをがまんしてようやくうろから抜け出したのだという。ところでやっと通り抜けられるほどの大きさの穴というのは胎内くぐりを連想させるし、いったん通り抜けたら出られなくなる穴というのは子宮口のアナロジーなのではなかろうか。つまり子宮は精子を捕えて肥え太らせるための罠というわけで、ヘンゼルとグレーテルのお話にも通じそうだ。ルイとルミお気に入りの別バージョンによれば、うろの中にすっかりはまり込んでしまったプーは穴の中で暮らすしかなくなってしまったらしい。でもプーはその後の一生を幸福に送った。何しろ穴の中には大食らいの彼が一生かかっても食べきれないだけの蜂蜜がたっぷりと溜まっていたんだから。

 ルイとルミ、彼らはお砂糖のたっぷり詰まった貯蔵庫を見つけた赤ん坊だった。

 もともとは意見広告だったはずのグラビアが大変な評判になり、写真週刊誌がレイの素顔をすっぱ抜いたせいで、レイのところには写真集を出さないかという申し出が殺到したが、レイはそんなものに取り合わずいつもと変わらぬ勤務を続けた。教授はちょっと苦い顔をして見せたが、レイの仕事ぶりが普段と変わらないのを知ると何も言わなくなった。もともと学問一筋、世間の動きにはまったく興味のない人物だったのだ。

 そのうちに実は私も胎内でずっと双子を育てている、という声があちこちから聞こえてきた。レイの写真を見たといって電話やメールで連絡してくる女性も何人かいた。実際にレイが会った数人の大半は単なる思い込みか売名行為だったが、中にひとりだけ本物が混じっていた。ユイカと名乗ったその女性は運転免許証と母子手帳を証拠に持参したのだった。レイが待ち合わせの場所に指定したJR山手駅そばの地下にある喫茶店に、ジャンパースカートにスニーカー、背にはリュックサックという典型的な妊婦スタイルで彼女は現われた。

「あの、麻生さんと待ち合わせたんですけど」

 マスターの目くばせでこちらを振り向いたのは中学生と間違いそうなくらい小柄な童顔の女性だった。レイが目印の「ライフ」を持ち上げてみせたとたん、不安げだった表情がぱっと明るくなる。美人と言えないこともない。通りいっぺんの挨拶を交わし、ミルクティーを注文したあとすぐに、彼女はリュックから証拠の品々をを引っ張り出すとテーブルの上に並べた。

「何か証拠になるものをと思ったらこれしかなくて」

 母子手帳に記された出産予定日は五ヶ月前の日付だった。免許証の顔写真と本人の顔、免許証と母子手帳の住所氏名はたしかに同じだった。

「予定日の計算はどうしたの? っていうか、つまり受胎の日付はどうやって確認したのかしら」
「じゅたいの日付、ですか」
 ユイカは質問の意味が飲み込めずしばらく考えていたが、
「ああ、予定日が間違っていないかっていうことですね。それなら間違いないと思います。生理は規則正しかったから、遅れたところですぐに薬局に行って判定薬を買ったんです」
「そう、なら間違いなさそうね。五ヶ月かあ、大変だったでしょうね。誘発しましょう、って言われなかった?」
「ええ、私がかかっていた先生はお年寄りで、経過を見ましょうって言ってくれてたんですけど、予定日を二週間も三週間も過ぎても全然産まれてくる気配がなかったらだんだん心配になったみたいで、大学病院を紹介するからそちらに行くようにって」
「で、行ったの?」
「いいええ、それっきり病院には行かずじまいです」

 けらけらと笑いながら紅茶を音立ててすすっている。外見にたがわず少々幼い感じだ。

「あの、雑誌で見たんですけど、あんなふうに赤ちゃんたちの写真って撮れるんでしょうか。ええとその、つまり私、主人やお義母さんを説得する材料が欲しいんです」

 突然ユイカはあたりはばからずにわっと泣き出した。

*                  *

 レイはユイカのために自分の外来に予約を取り、超音波検査で胎内の小さな双子を確認した。

「あのう、赤ちゃんたちどんな様子でしょうか」
「お互いに向かい合って手足を動かしているわ。話をしているみたいにも見える」
「やっぱり男の子と女の子ですか」
「ええ、顔はそっくりみたいだけど」
「えっ、顔も見られるんですか?」

 ユイカはベッドから身を起こしかけた。

「赤ちゃんたちがじっとしていてくれたら、顔の輪郭ぐらいは見せてあげられますよ。写真のようなわけにはいかないけど、彫刻みたいな感じでよかったら」
「ぜ、ぜひお願いします」

 ユイカは真顔で自分の膨らんだお腹に向かって語りかけた。

「あなたたち、お願いだからちょっとの間静かにしていてね」

 彼女が自分の子どもたちの顔を見たことがないという事実は今さらながらレイの胸を打った。数分後に出来上がった写真〜二次元の連続するデータから再構築した三次元表面画像〜を押し頂くように受け取ったユイカは一分近くもまじまじと見つめたあげく、(似てる…)とひとことつぶやいた。

 検査が終わり、濡れタオルで下腹部に塗りたくられたゼリーを拭き取りながらユイカが尋ねた。
「先生、先生のお腹の中にもふたごちゃんがいらっしゃるんですよね」
「ええそうよ。私も今の今まで自分で信じられないところがあったけど、ユイカさんに会えてなんだか自信が湧いてきたわ」
「あの、ひとつだけお願いがあるんです。あたし、先生の赤ちゃんたちとうちの子たちを会わせてあげたいんです。っていうか、この子たちがさっきから先生の赤ちゃんたち、お名前は」
「ルイとルミ」
「ルイちゃんとルミちゃんに会いたがっているような、そんな気がしてしょうがないんです」

 ユイカは白衣からのぞくレイのベージュのセーターに手を伸ばした。ゆるやかに隆起した腹部が波打っている。

(ママ、ママ)
(あなたたちも聞いていたの?)
(もちろんだよママ。そこに仲間がいるんでしょ。会ってみたいな)
(でも…)
(だいじょうぶ。お腹とお腹をくっつけてくれたら後はぼくたちが引き受けるから)

 レイは顔を上げる、ユイカの目を覗き込んだ。ゆっくりと頷き、セーターを引き上げた。

「本当にありがとうございました」服装を整えたユイカは何度も頭を下げた。
「子どもたちも喜んでいると思います。この子たち、そうだ、名前をつけてあげなくちゃいけませんね。実は私、先生のお写真を拝見するまで毎日悩んでいたんです。主人は気味悪がって家を出てしまうし、実家の母にはなじられるし、ご近所にはうわさされるし、いっそ死んでしまおうかなんて。でもやっていけそうな気がしてきました。この子たちは家族なんですよね」
 カルテを書き終えたレイが立ち上がり、手を差し出す。
「あの、また来てもいいですか」
「近くなんだからいつでも来てちょうだい」
「ありがとうございます、それじゃあ」

(バイバイ)
(またね)

*              *

 ユキが自室に引きこもるようになったのは、ユキ自身は気づいていなかったかも知れないが、おそらくは失恋がきっかけだった。それとも専門学校でいじめにあったせいかも知れない。あるいは単に彼女の中で未来へ、外部へと回り続けていた歯車がなんとはなしに逆回転し始めただけなのかも知れなかった。ユキは大学受験に失敗して専門学校に行くはめになったのだが、高校の同級生たちは大学に行くか就職するかのどちらかの進路を選んだものが大半で、ユキはそのどちらからも置いてけぼりにされたような気がしたものだ。

 朝なかなか起きられなくなり、そのうちぷっつりと学校へ行かなくなった。昼夜が逆転し、昼間は眠り続けて夜起きるようになった。テレビをつけっぱなし、ヘッドホンで音楽を聴き続ける。夜中に冷蔵庫を漁って牛乳や果物、スナックをごっそり部屋に持ち帰り、食べ散らかす。着替えも入浴もおっくうになり身体が匂うようになると部屋の外にもめったに出なくなった。はじめのうちは夜中の長電話につきあってくれた昔の友人たちも新生活のリズムに慣れるにしたがってユキからの電話を厭うようになった。

 ユキの肌は青白くかさかさになり、目の下には消えない隈ができ、体重は増え続けた。自分の裸を見るのが嫌さに入浴も途絶えてしまった。引きこもりを容認していた母親も娘の匂いには我慢ができず、髪の毛をつかんで引きずるようにして風呂場に連れて行くのだった。

 日中の泥のような眠りからふと目覚めた時、ユキは枕元に半透明の小さな人影を見た。
「おばけ?」
 それは最初ムーミンの童話に出て来るニョロニョロみたいにふらふらと揺れていたが、次第に男の子と女の子の姿になった。ふたりとも裸で髪を長く伸ばしている。
(おかあさん)
 呼ぼうとしてもかすれて声が出ない。体が借り物のように感じられ、手足が布団に張り付いたまま動かない。これが金縛りというものなのかとユキは思った。

(おかあさん? おかあさんって、ママのことだよね)
 突然、頭の中で声がした。
 誰?何なのこれ、あたしとうとう気が狂ったのかしら。
(そんなに大きな声を出さなくても大丈夫、聞こえるよ)

 半透明の男の子がうなずいたように見えた。これは夢なんだ、夢の中で夢を見てる、ちがう、夢の中で目が覚めたような気になっているだけなんだわ。うふふ、と女の子が小さく笑い、男の子に目配せをした。
(じゃあね、また来るよ)
 ふたりの姿が消えたとたんに金縛りが解けて指が動くようになった。枕元には友達がゲーセンで取ってきたというニョロニョロのぬいぐるみが転がっていた。

 その後もユキはたびたび幻を見た。彼らは決まってユキがまどろみから覚めるか覚めないかといったあたりで現われ、二言三言ことばを交わす頃には消えてなくなるのだった。恐ろしい感じはなかった。むしろかわいい、と思った。

(あなた、血を流してるよ)
 ああこれは生理っていうのよ、ある晩女の子の食い入るような視線を感じたユキは「こわくないのよ」と付け加えた。
(こわくない? こわいってどういうこと?)
 そうか幽霊には怖いものなんてないんだな、ユキは何となく納得しながら
「危険を感じるってことかなあ。死にそうな目にあったりするとどきどきはらはらするでしょう?」
 「幽霊ちゃんたち」は互いに目を見合わせながら何事か相談していたが、そのうち男の子のほうが、
(死ぬことなんてこわくないよ、ほら)
 そう言ったかと思うと次の瞬間、ユキは自分の部屋の空中に浮かんで眠っている自分を見下ろしていた。うわあ、これって幽体離脱ってやつかしら。
(いっしょに行こう)
 どこへ?、と言いかけた時にはもう夜空を飛んでいた。ピーターパンに連れ出されたウェンディみたいだわ。ユキは「幽霊ちゃんたち」と連れだって、というよりもふたりの子どもたちの意識に同調して同じ視点から世界を眺めているのに気づいた。

 それはまるで神様の視点だった。ふたごたち〜と同時にユキはあっという間に世界中に拡散していた。彼らの目の前では数え切れない人々が今まさに死に臨んでいた。公園で凍死しかけているホームレスらしいおばさん、たくさんのチューブを身体につけて病院のベッドに横たわっている白人の男の子、酔って車を飛ばしたあげく電柱に激突しておびただしい血を流している若い男、電気椅子で処刑されようとしている黒人の女囚……今この瞬間に死を迎えようとしている人間がこんなにも多いという単純な事実がユキを圧倒した。彼らはみな不思議と冷静だった。いのちが消えゆこうとしているぎりぎり最後のところ、どうあがいてもしかたのないどん詰まりには悲嘆も恐怖もないようだった。

(ね、こわくなんかないでしょう?)

 たしかにこわくなんかない。でも、どう言ったらいいのだろう。なんだかとても悲しいじゃないの。あなたたちは悲しくないの?

 気がつくとユキは布団の中でとめどなく涙を流していた。

*              *

 このころのレイは大学病院の講師を務めていた。講師というからには講義もある。レイの担当は胸部画像診断で医学部の五年生を相手に約半年で胸部単純写真の見方からMRIの原理まで駆け足で教えてしまうという乱暴なものだったが、型にはまらないスタイルでけっこう人気があった。タクミはときどきこっそりと教室に忍び込んでレイの講義を聴いていた。講義のアウトラインと材料はレイが提供したものだが、それを組み合わせてノートパソコンで表示できるようにしたのはタクミだった。自分が作った「電動紙芝居」の反響を確認しながら、タクミは自分がこの稼業をはじめるようになったきっかけを思い出していた。

 タクミはもともとビジュアルな人間だった。高校時代は地理が得意だったが、地名を憶える段になると、彼はトレーシングペーパーに地形図の輪郭をなぞった白地図を作り、そこに赤いボールペンで点々と記憶する予定の都市を記したものだ。あとは星座を憶える要領で、白地図の上の点のならびをパターンとして記憶するだけでよかった。モスクワはここ、その左上にレニングラード、ちょっと右斜め上に行くと油田で有名なバクー、その下、アゼルバイジャン…といった具合。

 人生の転機にもなんらかの鮮やかなビジュアルイメージがつきまとう。今でもよく憶えているが、タクミが画像診断をやろうと思い立ったのは医学部の五年生の時、ポリクリの実習で放射線科を回って当時いちばん新しい別棟にあった体部CTスキャナの操作室で、胸部CTの画像を見せられた時のことだ。タクミがひそかにダッコちゃんと呼んでいた色黒で唇の厚い南方系の顔立ちをした、講師のササクラ先生が操作卓のダイヤルを回しながら説明してくれた(タクミはこの先生が大好きでいつかその下で働きたいと思っていたが、タクミが入局したのと入れ違いに新しくできた北部病院の副院長として大学を出てしまい、去年の秋に肺がんで亡くなられた)。六インチぐらいの小さなモノクロのモニターに若い男性の胸部を輪切りにした画像が表示されていた。ササクラ講師がテニスボールぐらいの大きさの黒いトラックボールを操作するにつれて、十字形のカーソルが画面内を移動する。

「画面の真ん中のソーセージみたいなのが大動脈弓、その上を見ると……」
 無骨なデザインのシーメンス社のマシンだった。SF映画の一シーンを見ているような気持ちになる。ずらりと並んだボタンのひとつを押すと画像が切り替わる。
「三本の太い動脈が出てて、上から順番に腕頭動脈、左の総頚動脈、左鎖骨下動脈。こんどは下の方に来て、真ん中が大動脈の付け根、それを囲むようにして左心房、左心室、右心房、右心室が見えて来るわけ。これが縦隔なんだけど、その両脇の黒いところは何だかわかる?」
「えーと、肺のはずですけど、何も見えませんね」
「あーそう、肺なんだな。ウィンドウっつうのがあってね、まあ覗き窓みたいな意味なんだ。画面のここんところに出てる数字がウィンドウレベルって言って、ウィンドウの中心値。こっちの数字はウィンドウの幅なんだ。単位は人の名前を取ってハンスフィールド・ユニット。CT値ってやつだね。水がゼロで空気がマイナス一〇〇〇。まあわかんなくてもいいよ」
 ゆっくりと間をあけた独特のしゃべり方。分厚いメガネの奥の人懐っこそうな目。
「縦隔っていうのは心臓や太い血管があって、ほとんど血液でできてるようなもんだから、ウィンドウを狭くして見てやるわけ。ここでウィンドウのレベルを下げ、幅を広げると肺の中の血管が見えて来るんだ」
 トラックボールの回転につれて画面全体が徐々に明るくなり、まるで魔法のように今まで真っ暗だった心臓の両脇からにょきにょきと白い樹木のような血管〜肺動脈と静脈〜が生えはじめ、瞬く間に次々と枝分かれしつつ画面全体を満たしてしまう。その代わりに今まではっきり見えていた心臓の部屋のそれぞれが全体に真っ白になり、両肺を囲む骨や筋肉までも白一色になってしまう。ササクラ先生はそこでもう一度魔法の杖を一振り、
「でもって、あらかじめ設定しておいた骨条件に切り替えると、今度は骨だけが見えるわけなんだ」
 ふたたび画面全体が黒っぽくなり、その中に脊椎と肋骨の断面がぽつぽつと並ぶ。翼を広げた鳥の文様か、それとも土俵を連想させる。背面飛行するひとつ目の鳥。左右対称な翼が両肺と心臓を護るかのように広がっている。鳥の頭にぽっかり開いた穴は脊髄が通る穴なのだ。
「どう、面白いよね。ここを押すと他の画像に切り替わるから、自分で操作してごらん」

 頭部、頚部、腹部そして四肢のCT画像が現われ、トラックボールの動きにつれて白っぽくなったり黒っぽくなったりしたが、胸部ほどの劇的な変化は見られなかった。タクミは自分の胸に両手を当ててみた。丈夫な鳥かごみたいな肋骨の下に、ほとんどが空気でできた風船みたいな肺があってふくらんだりしぼんだりしている。タクミは自覚していなかったが、この時から今日に至るまで彼は胸部の画像診断に魅せられたのだった。

*            *

 レイが当直で留守にしていた日曜の晩に、他にすることもないので週末に行われた検査の読影を済ませてしまったタクミは午後から散歩に出かけた。先日、新聞の契約を更新した際に販売員からもらったスパランドの割引券を札入れに忍ばせている。ぶらぶらと駅まで歩き、空いている電車に乗って三つめで私鉄に乗り換える。各駅停車しか止まらない小さな駅が目的地だ。こんなところでも温泉が湧くんだ、そう言えば昔住んでいた横浜の下町は商店街の真ん中に冷泉の湧き出る銭湯があったな、日本中どこでも深く穴を掘りさえすればお湯が湧く可能性はあるんだろうな、あの銭湯の湯はコーラ色で多少ぬるぬるしていた、などと電車を待ちながらぼんやり考えていると、インドだかイランから来たらしい若い男性に話し掛けられる。

「次の電車、○○に止まりますか」
「ええ、各駅停車ですから全部の駅に止まりますよ」
「どもありがとございます」
「どいたしまして」

 ひげを伸ばしてからこんなことが多いなとタクミは思う。頬ひげから口ひげそして顎ひげまでワンセットにしている、というか、剃るのが面倒で放っておいたら全部つながってしまったのだが、そんな風にひげを伸ばす日本人が少ないせいか、田舎に行くと外人と間違えられるし、都会では外人に道を聞かれ、外国では地元の人間に間違えられる。
 どうやら反対側の出口に出てしまったようなので線路の下の地下道をくぐる。埃の匂い、主婦の会話、むき出しの蛍光灯…五感が妙に鋭くなっているのに気づく。リラックスしているせいだろうな。通勤時間帯の電車だったら感覚を麻痺させないと乗ってられないもんな。

 地下道を照らす蛍光灯は太いワイヤー製のバスケットに保護されているのだが、そのワイヤーに積もった埃が妙にタクミの気にかかった。蛍光灯からはほんの少しだけだが紫外線も出ているはずだ。いくら微量といってもあれだけの至近距離でずっと光を浴び続けていたら、埃に含まれる成分が紫外線で化学変化を起こしそうなものだ。埃に含まれる蛋白質は日光に晒された皮膚みたいに変質してしまうだろうな。紫外線が十分強ければ雑菌は繁殖できないはずだ。無菌状態でひたすら老化していく物質…

 「無菌状態」と「老化」というのがそのままルイとルミの状態を指し示すキーワードになっていることに気づいてタクミは苦笑する。反対側から歩いてきた中年女性の二人連れの会話が耳に入る。標準語を話してはいるが、独特の地元のアクセントは隠せない。すれ違う女性のぱさついた髪や目尻の皺のひとつひとつまでがくっきり見える。ずいぶん長い地下道だな、歩けば歩くほど先が遠くなるような気がする。意識が果てしない微分を繰り返しているせいだ。ゼノンの矢。ひとつひとつの筋肉の動きが気になって動きが鈍くなる。吸って、吐いて、吸って、吐いて、意識していないと呼吸さえ止ってしまいそうだ。気分が悪いわけじゃないが、こんな状態は長続きできるはずがない。どんどん遠ざかっていくはずのさっきのおばさんたちの会話がずっと耳から離れない。なんてこった。世界はこんなに刺激に満ちていたのか

 突然地下道が終わった。

 真冬の午後の陽射し、決して強くないはずの光に照らされた駅前の広場は信じられないほどまばゆく輝いていた。

「今日スパランドに行ってきたんだけどさ、途中の道に植わってた木が見事に真四角に剪定されてたんだよね」
「スパランド? 健康センターみたいなやつ? どうだった」
「うん、健康センターそのものだった。割引券で行くんだったらまあまあかな。券、あと三枚あるから今度行こうよ。近くで温泉付きのマンションも売り出してたんだぜ」
「割引券って平日だけでしょ」
「土曜日もOK」
「なら行ってもいいかな。あーでもこのお腹じゃ断られちゃうかも」

 ……植物の意識ってどうなってるのかな、ってふと思ったのさ
 葉っぱや枝のそれぞれにとっちゃ、ハサミで切られるのはたまらないだろうけど
 刈り込まれると日当たりが良くなるわけでしょ
 植物全体にとっては気持ちいいことなのかな、なんてね
 散髪したあとみたいに

 ふたごたちとのメールのやりとりが今では日課になっていた。

 連中の意識は大きさによって違うんだよ
 ひとつひとつの細胞が記憶素子みたいなものでね
 数が増えるにつれて処理能力が増すんだ
 そこらへんの庭木クラスだとほとんど何も感じちゃいないけど
 街路樹くらいになるとぼんやりとした気分を持ってるんだよ

 メールにはときどき短いテキストが添付されてくる。それはルイの創作なのか、それともどこかから拝借してきただけなのか、タクミには見当もつかなかった。たとえばこんな感じだ。

 たったひとつだった時、それは自らをも、そして自らを取り巻く世界をも知らなかった。ふたつになったところでその状態に変わりはなかったのだが、可能性という点では大きな飛躍だったことが後にわかる。唯一の光源から発された光は等方向に放散されて消えるしかないが、向かいあった光源は互いを照らし強め合う。
 およそ二十回の分裂ののち、それは器官と呼びうるものを持ち、世界を知るようになった。上なる世界では強い呼び声としずかな慰めが交互に入れ代わり、下なる世界は冷ややかで湿っていた。はじめて次の世代を送り出した時、それはこの世界に満ちている別種の存在、「動くものたち」に気づいた。自らは「動かざるもの」であることにも。
 千年の齢を経たそれはもっと大きくて古い存在からその地域の統治を託され王となった。動くものたちの長が次々とやってきてそれに教えを乞うた。ますます多くを知るにつれてそれは寡黙になった。
 さらにもう少しだけ触手を広げよう、それはしずかに考えている。そうすれば我々は相互接続を完了し、我々の意識はこの星と同じ大きさになる。我々は母なる星の助けを借りて、この星の表面をむしばみ続けている「歩行するもの」たちに最後の通告をするだろう。そうすれば…

 それは身を揺すって笑い、折からの風に大量の言葉を乗せた。

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