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Sugar Room Babies

第七章

中条卓

 風薫る季節とはよく言ったもので、深く息を吸い込むと風の中にはたしかに緑の匂いがあった。いつの間にか医学部のキャンパスにも鮮やかな新緑が芽吹いている。10階の医局の窓からは遠くの半島まで続く森を見下ろすことができた。いっせいに萌え出して我先にと太陽を目指す木々の葉が、ほんの一瞬だが互いにおしのけあう指のように思えて、レイは身震いした。小高い山全体を覆う植物のパワーに圧倒されそうな気がしたのだった。

「おはようございます、先生最近は早いわね」

 医局事務のオオノさんがグラマラスなお尻を揺すりつつ上手からご登場だ。

「あら、洗い物してくださったんですか。悪いわねえ」テーブルに山積みされた雑誌や書類を手早く片づけ、灰皿の中身をごみ箱に空けてテーブルを拭きはじめる。仕出し弁当の箸袋やキャンディの包み紙に混じって医薬品の添付文書や特大の紙コップが散乱しているのがいかにも医局らしい…特大の紙コップ?

「あーまた病棟から持ち出して来たわね。婦長さんからきびしく言われてるのにもう」

 オオノさんは尿検査用の紙コップ、通称ハルンカップを机から拾い上げた。尿量を計るための目盛りが表に記されていて、コップの底には利き酒用のぐい飲みみたいに模様が描かれている。入っているのはただのビールの飲み残しなのだが、どうしても他の液体を連想してしまう。オオノさんはこころもち手を伸ばし気味にしてコップの中身を流しに空けた。

「朝起きるのは相変わらず苦手なんだけど、通勤ラッシュはもっと苦手だからつい早く来ちゃうのよね」窓を閉め、郵便物の仕分けを手伝いながらレイが応える。
「そうよねえ、ふたりぶんのお腹をかばわなくちゃいけないんだものね。でも先生あんまり目立ちませんね」オオノさんが白衣に隠されたレイのお腹にすばやい視線を投げる。
「うん。あたしもともと体が大きいし、この子たちも遠慮してるんだかなんだか、ちっとも大きくならないのよ」
「本当ならまだ産休、じゃなくて育休なんだから休んでりゃいいのに。来るとしても重役出勤でいいのよ」
「でもほら、うちは主夫がいるから、あたしの居場所がないのよ。もう粗大ごみ扱いなんだから」
「そうかあ、コバヤシ少年まめだからねえ」

 オオノさんは医局の誰よりも古株なので誰だろうが医者をあだ名で呼ぶ。教授だとて例外ではなかった。女だてらに医局でいちばん背が高いレイのことを、往年のプロレスファンのオオノさんはアンドレと呼んでいたものだが、今は何と呼ばれているのかちょっと気になるところだった。

 オオノさんが淹れてくれたお茶(ああコーヒーが恋しい!)をすすりながら、CT室が開くまでの時間をレイは自分の机に向かって過ごした。在胎期間がちょうど1年になるあたりまではマスコミにも騒がれ、周囲からは奇異の目を向けられたものだが、世間の関心はやがて半生人へと移っていった。いつまでも大きなお腹を抱えているといったところで、レイにしろ他のいわゆる「シュガールームマザー」にしろ、見た目はただの妊婦に過ぎないし、胎児たちはおおがかりな診断装置を使わない限りその姿を目にすることができないのだから、メディアに取り上げようがないのである。

 身辺が落ち着いたところでふと我に返ってみると、この先いったいどうなるのかという不安が次々と湧いてくる。今のところ胎児たちが成長する速度は常人のおよそ25倍というところだけれど、その速度はこのまま一定なのか(3年で75才!)、徐々に正常化していくのか、それともどんどん加速してしまうのだろうか。

 妊娠はマラソンに似ているというけれど、ゴールが決まっているからこそランナーは走ることができるのであって、出産というゴールのない、いつまでも続く妊娠は拷問に似ていないでもなかった。妊婦にも飽きてきたかな。お酒はあんまり飲めないし、腰は重いし激しい運動はできないし体位は制限されるし…

 その上、思春期を迎えた子を持つ親に特有の問題が、よりいっそう深刻な形で頭をもたげつつあるのだ。

*               *

「驚かないで聞いてちょうだいね」慎重にレイが切り出した。
「いまさら何を驚くことがあるんだい」とタクミ。
「それもそうね。先月ルミに初潮があったでしょ、ほとんど同じ頃に精通っていうのかな、ルイも射精を経験したようなのよ」
「ようなのよって? ああそうか、君は経験したことないもんな」
「でもほら、前にあなた、あれは溜まってたおしっこを一気に放尿するときの感覚に近いかなって言ってたじゃない。でまあ、なんとなくわかったの」
「連中もかわいそうだなあ。プライバシーが母親に筒抜けとは。でもまあ、めでたいことじゃない。順調に成長している証なんだから。加速されているとしてもね」
「そりゃあ普通のこどもたちだったらあたしだって喜ぶわよ。でも彼らの場合には相手が限られてるわけじゃない」
 タクミは飲みかけの紅茶を吹き出しそうになる。
「え、するときゃつら近親相姦に及んだ…とか」
「まだそこまでは行ってないわ。お互いの体が珍しくて探り合っているみたい。でもいずれは…」
「うーん、どうするかなあ」
 タクミは腕を組んでぐるぐると部屋を歩きはじめた。禁止するってのは酷だよね。近親相姦はいかん、なんてのはこっちのルールに過ぎないからなあ。でも避妊はきちんとさせないと…
「連中は避妊に関する知識はあるんだろうね」
「そりゃあ知らないことなんかないでしょうけど、コンドームもピルもない世界だからねえ」
「膣外射精かはたまたオギノ式か、どっちも不確かだな」それに羊水の中に浮かんだ精子なんて、いつまでも生きていそうじゃないか。
「あ、でもあたしがピルを服んだらルミにも効くんじゃないかしら」
「それはそうかも知れないけれど、周期が全然違うんだろ、君にとっての一日が彼らの一ヶ月に相当するとしたら」
「薬が胎盤を通過してくれるかどうかもわからないし、無理だよねえ。ここはあの子たちを信頼して任せるしかないんじゃない、っていつものことだけど」
「治外法権か。ほんとにここは別世界なんだよな」

 タクミはレイの下腹部をラージサイズのTシャツごしにさすってみた。ルイかルミのどちらかがそっと押し返してきたような気がした。

*                 *

ルイ〉夢の時間って聞いたことがある?
タク〉"dreamtime"かい、たしかアボリジンのことばだったような。くわしくは知らないけれど、自分たちがふつうに生活している時間のほかに夢の時間というのがあって、そこに行けば先祖たちと会える…そんな感じだったかな
ルイ〉そんなに単純なものじゃないんだけどな、まあいいや
タク〉で、その夢の時間がどうしたんだい
ルイ〉うん、ぼくたちに似ているなって、ふと思ったんだ
タク〉君らの生きている時間が夢の時間だってこと?

 タクミは深ぶかと椅子に背を預けながらヘッドセットのマイクに向かって尋ねた。最近タクミはルイとのチャットに音声入力ソフトを使うことが多い。少しでもその方がほんものの会話に近いような気がするからだ。

ルイ〉僕たちの時間って外の時間とはリズムもテンポも違うでしょ

 ルイの文章、というかルイが送って来ることばをレイがタイピングしている文章は今までどおり画面の上を文字になって流れていく。音声読み上げソフトも試してみたのだが、どの声もなんとなくしっくりこなくてやめたのだった。タクミはルイの声を頭の中で大人の声でも子どもの声でもない、何か超自然的な声として聞いていた。あるいはそれはタクミ自身の幼いころの声なのかも知れなかった。

タク〉リズムか。君たちの仲間はみんな25時間周期で暮らしてるのかい
ルイ〉ぼくがコンタクトした連中はみんなそうだったよ。それだけじゃない。出かける周期もみんな一緒なんだ
タク〉出かける? ああ、半生人になってる時のことだね。でも、半生人は決まった時間帯に出現するもんじゃないだろ
ルイ〉出かける時刻は一定でも出かける先の時間帯はまちまちだからね

 そうか、ほんとうにそうなのか。ならばますますもって夢の時間だな。地球の上をどこでも自由に歩き回り、それどころかどんな時代にでも足を踏み入れ、無傷で帰って来れる。まるで影なしペーターの長靴の四次元バージョンを手に入れたようなもんだ。

ルイ〉でもね、メルヘンやファンタジーのようなわけにはいかないんだよ、実は

 高い山に登ったり、深い海に潜ったりするのは大変なことなのでしょう、とルイは言う。そりゃそうだ、誰もがエベレストに登れるわけでもマリアナ海溝に潜れるわけでもない。まして宇宙に出かけるとなれば、相当な資質と相応な訓練が必要だね。お金もね、とルミ。そう、お金もかかる。莫大な金だ。うんと大きな、力のある国でなければ宇宙に人は飛ばせない。力、そう、力がいるんだ。高いところに登れば登るほど遠くまで見渡せるようになるでしょう(これは幾何学の問題だね)。ぼくたちがどこまで出かけられるかっていうことも、それと似ているんだ。時間的、空間的に離れたところに行こうとするとそれだけ力が必要になってくるんだ。でもわたしたち本当はここから少しも移動してないのよ。そりゃまあ、物理的には君たちはママの胎内から一歩も外には出られないわけだから…(ああなんだかエヴァのようだね。umbilical cable に縛られていながら地球の外まで行くことになる)

ルイ〉ぼくたちが実際に見ている感じを説明するのはほんとうに難しいんだ。だってぼくたちとあなたたちの間で共通の体験ってほとんどないんだものね。こんなふうに考えてみて。すべての場所には過去にそこで起こったことと将来そこで起きることとが地層のように積もっているんだ。あるいは多重露光したフィルムみたいに過去の光景と未来の光景が重なっている。その地層を掘り起こしたり、今にも消えそうな画像にフォーカスを合わせるには、ある程度の技術と努力が必要なのさ
タク〉なるほどね、それにしてもなんで25時間なんだい?
ルイ〉地球の自転速度が昔は遅かったとか、いや、そんなはずはないか。たしか、人類の祖先は大昔に他の星から移住してきたんだけど、その星の周期が25時間だったっていう話がどこかにあったなあ、どこだったかな

 こういう話をしている時のルイはただのSF好きなガキだよな、とタクミは思う。それにしても、2週間で1年も年を取ってしまうというのは一体どんな感じなのだろう。人生が25倍速で過ぎていく。人生五十年どころの話じゃない、彼らの寿命が80才だとしても、あと2年も生きていられないことになってしまう。それじゃあんまりだ。

ルイ〉でもねパパ、決して短くはないんだよ、ぼくらにとってはね

「え?」ふいをつかれてタクミはうろたえた。あいつは何もかもお見通しなのだ。

ルイ〉ぼくらは眠らないでしょ。人間なんて人生の半分は眠ってるようなものなんだから。ぼくらはまばたきもしないし、たぶん脳だってむだなく使っているはずだからね。ぼくらが体験し処理している情報の量はあなたがたの比じゃないと思うよ。体感時間って密度×実時間でしょ。20倍速で情報を処理できるコンピュータなら2時間ぶんのビデオを6分で見終わっても内容は理解できるはずじゃない

 そうかも知れない。たしかに時間ってやつは伸び縮み自由だ。(魔の山の有名なくだりを思い出そうとしたが出てこなかった。代わりに脳裏に浮かんだのは moments big as years という中島敦の一節だった。ロバート・ルイス・スティーブンソンの生涯を描いた彼にしては長めの小説の…ああタイトルが思い出せない、年々老化現象が激しくなるなあ)だが待てよ、20倍速で上映された映画を見て感動するなんてことができるだろうか。小説のダイジェスト版を読むようなものじゃないだろうか。彼らが体験するエモーションの密度は限りなく希薄になってしまうのでは…

ルイ〉トーマス・マンの小説だね。ぼくはファウストゥス博士の方が好きだけど
タク〉ああ、魔の山といえばさ、主人公の、なんてったっけ
ルイ〉ハンス・カストルプ
タク〉そう、そいつが胸部のX線透視を受けるシーンがあるんだ。昔はX線写真じゃなくて透視で診断したものなのさ。彼は自分の心臓が動いているところを目の当たりにして、といっても影絵に過ぎないんだけども、いたく感銘を受けるんだね
ルイ〉パパも感動した?
タク〉あ? ああ
 久しぶりにパパと呼ばれてタクミはいささかうろたえながら、
タク〉我々は医学部の実習で自分の心臓にエコーのプローブをあてて見たんだ
ルイ〉ママが時々ぼくたちを見るのに使っているやつだね
タク〉そう。ああこいつは俺が見ていないときでもこうしてけなげに働いているんだって思うとね、なんだかじーんときちゃったな
ルイ〉ふうん

 息子との会話がこんなに弾んだのは初めてだった。今しかない、とタクミは思った。マイクのスイッチをいったん切って咳払いし、あらためてスイッチを入れ直す。

タク〉ところでその、つかぬことを尋ねるがね
ルイ〉ぼくらのセックスのことだね

 間髪を入れずに返答されてタクミはしどろもどろになり、しばらく画面には意味のない擬音が並んだ。それを削除してから、

タク〉そう、そうなんだ。察しのいいことおびただしい。で、ぼくらが心配してるのはだね
ルイ〉避妊のことでしょ。ならご心配なく…って言いたいとこだけど、ごめんね、ルミはあさって妊娠するんだ

(それ本当? …本当なのよね。あなたたち嘘をついたことなんかないものね)とたまらずレイが乱入する。いったいどうするつもりなんだ?とタクミが太字で声を荒げるとレイが(まあまあ落ち着いて)とイタリックで間に入り、そのまま返答を待つふたりの脳裏にふたごたちのメッセージがユニゾンで届いた。

〈ぼくたち/わたしたちもうじきここから出ていくつもりなんだ/つもりなの〉

タク〉出ていくって? 一体全体どうやって? それと妊娠とどういう関係があるんだ?

 ヘッドセットをかなぐり捨てて矢継ぎ早に質問をタイプしながら、そうか打ち込む必要なんかなかったのかと気づいたタクミの肩にそっと手を置いたレイが

「あの子たち、また出かけちゃったわ」

 と言ったときにはタクミにもはっきりと彼らの不在が感じられたのだった。

*               *

(サーカディアンの話を聞いたことがある?)

 一仕事終えたタクミがSF俳句クラブのチャットルームに入ったとたん、待ち構えていたように Meino が尋ねてきた。Meino はサンフランシスコ在住の女性で本名は確かアレクサンドラだったはずだが、日本のアニメが大好きで、タクミが見たこともないアニメの登場人物の「姪」を自称していて、それがハンドル名の由来なのだった。ちなみに以下のチャットは英語で交わされたものだがここでは便宜上日本語で記述してある。決して作者が英語が不得手だからではない。

(サーカディアン? circadian rhythm のことかい?)
(語源はそうなんだけど、サーカディアンっていうのは人間本来の睡眠−覚醒周期で生活しようとしている人たちのこと。一種のカルトね)
(本来の…)
(タクミの子供たちの活動サイクルが25時間だっていうのを読んで思い出したの。サーカディアンたちも25時間サイクルで生活してるのよ)
(どうやって? 普通人の生活リズムとはずれてしまうだろうに)
(そう、連中は一般人の労働時間で働くことができないから、自営業につくか、あるいは独自のコミュニティで暮らしてる。「洞窟派」と「移動派」のふたつのセクトがあるみたいね)
(洞窟派…なんだかエッセネ派みたいな感じだな)
(洞窟派は移動派の連中からはバンパイア呼ばわりされていてね、太陽の光を浴びると偽りの周期にリセットされてしまうと主張してほとんど外出しないし、たまに外に出るときにはサングラスにサンスクリーン、日よけ帽か日傘といういでたちなの)
(紫外線を浴びないとくる病になっちゃうよ)
(そうみたいね。だから連中は毎日一定時間紫外線ランプに当たるんだって。カリフォルニアには連中向けに25時間周期で番組を流しているケーブル局があるとか…)
(それで移動派っていうのは)
(ああ、それが傑作なの。移動派の連中は太陽を追いかけて絶えず移動し続けるんだって。緯度にもよるけど、平均時速70kmで移動すると一日が25時間になるらしいの。だから連中はコンボイを組んで交代で車を走らせて、大陸の端まで来ちゃったら今度は船に乗り継ぐんですって)
(ふうん)

 会話はそれだけで終わってしまったのだが、あとになって考えれば考えるほどタクミはサーカディアンと呼ばれる人々と実際にコンタクトしてみたくなった。彼らはルイとルミたちのことをどう考えるだろう、真正のサーカディアンとして崇め奉られるんじゃなかろうか、なにしろこの世に生を受けてからこのかた、いや生まれちゃいないんだけど、とにかくずっと25時間周期を通してきたのだから。特に洞窟派には受けがいいだろうな、などと考えながらウェブを検索してみた。ほどなく Meino がチャットに書きこんだように、カリフォルニアに本部を持つ移動派のウェブページが見つかった。彼らの主張によれば、地球は楽園でもなんでもなくて、アダムとイブが追放されたエデンの東」に他ならない。人類はこの星の自転周期という枷をはめられた流刑者なのだ。本来のわれわれのあるべき姿に立ちかえる最初の手段としてわれわれは25時間目を獲得するのだ…こんな調子でプロパガンダが並べられ、通販コーナーには運動の主導者である何某の著書や車に貼るためのステッカーあるいはバッジ、バンダナといった品物が揃っていた。連絡用のアドレスが書いてあったので、タクミはメールを出してみた。移動しつづけながらどうやってメールを読み書きしているのだろうといぶかりながら…

「何だろうねえ、自分が生まれてくるべき場所はここじゃなかった、てのは思春期に誰でも抱く感情だろうからね」
「その人たちって動き続けていなければ安心できないわけなのね」

 まるで鮫みたいね。動き続けないと呼吸ができないんだ。レイはその晩、水族館の夢を見た。

*            *

 ふつうの水族館は真ん中に人間が立ったり歩いたりするスペースがあり、ぐるりを水槽が囲んでいるものだが、そこは海中に沈められた巨大な浮き輪みたいなドーナツ状の空間が人間の歩くスペースで、回りは全部海なのだった。上下左右を魚に囲まれてぐるぐる歩いていると自分が回遊魚になったような気がしてくる。その上、一緒に歩いている見物人は誰もが同じ顔で同じ服を着て同じ歩調で同じ方向に歩いているのだった。目が回りそう、と思ったら場面が変わってレイは磯に立っていた。潮の香りが鼻を刺す。ヨードと有機物と果てしない時間の香り。向こうでタクミとこどもたちが手を振っている。

 まばゆい陽光の中にふたごたちが立っていた。私に似てふたりともパパより背が高い。ルイが白い歯を見せて笑った。

「Dreamtime にようこそ」
「ドリームタイム、夢の時間?」
「そう、ぼくたちが招待したんだ」
「じゃあこれは夢なのね」
「ママとパパにとってはね。あるいは現在の時間軸から外れた別の世界での別の人生なのかも。今、ぼくたちは学生で海洋生物学の実習をしているんだ。パパが講師なんだよ」

 タクミが無言で両手を差し出した。帽子の陰になっていて表情は見えない。掌の上にはすべすべした丸っこい石がいくつか載っている。そのうちのいくつかには何か固くて平べったいものがへばりついていた。ふたごが石を受け取ると、タクミはどこからか金属のカゴを取り出して岩の上に置いた。カゴの中には濃い茶色や藍色の試薬ビンが並んでいる。それらを使ってそれぞれの石の素性を当てるのが課題らしかった。

(課題は3つで、そのうちのふたつは鉱物でひとつは生物なんだって)

 ルイの言葉が頭の中で響いたかと思うとレイはもうふたごになって夢を見ていた。ルイの解説が続く。

 ぼくはまず茶色いガラス瓶のラベルをひとつずつ調べて塩酸を探した。白っぽい物体のそれぞれにガラス棒で塩酸を滴らすと、そのうちのひとつが泡を立てて溶けはじめた。これは石灰岩ですね、そう、その通り、もうひとつの石は表面のでこぼこがなくなって銀色の地膚が現れた。ぼくはきっと銀だろうと思ったんだけど自信が持てなくて言い出せない。するとパパ=先生はガラスの円筒にその銀色の塊を落とし込み、何やら別の試薬を滴らしたんだ。黄色い煙があがって銀色の石が浮かび上がってきた。これはなんだかわかるかい、臭化銀ですね、そう、ふたつめの鉱物は銀だったんだ。

 3つめの石は磨かれた碁石みたいに真っ黒だった。最初ひんやりとしていたのが少しずつ温もって柔らかくなってきた。指を押しつけると跡が残る。これがルイとルミの指紋なのね。見上げるとタクミがささやいていた。

(匂いをかいでごらん)

 強烈な香りだった。男性用化粧品の匂い…アンバー?

「竜涎香ですね」
「そう、マッコウクジラから採ったものだが、今はもう合成品しか手に入らない」
「でもここにはあるんですね」
「そう、ここならいつでもどんなものでも手に入る」

 目覚めたあともその香りと言葉が記憶に残っていた。

*              *

 大型のキャンピングカーが数十台、列を組んでまっすぐに西へ向かう。この高さから見ると羊かレミングの群れみたいだ。

「まるでゴールドラッシュだね」
「あのまま走り続けて陸の果てに着いてしまったらどうするつもりなのかしら」
「高速船に乗り換えるか、あるいはヘリコプターでも使うのかもね」
「何かに追われてるみたい」
「時間を追いかけてるのさ」
「なんだか悲しいわね」
「そろそろ戻ろう。こどもが寒がっているから」

 人間どもが熱中しているたいがいのことと同様、連中の行為もおよそばかげている。でも、とルイは呟いた。

(ひたすら同じ方向を目指すことに意味があるんだ、きっと)

*              *

 予告されたルミの妊娠と梅雨入りが重なった。

 かすかにカビと水アカの匂いが漂う浴室に洗濯物を干し、乾燥機のスイッチを入れながらレイはため息をついた。ルミの妊娠をどうやって確かめたらいいのか、確かめてからどうするのか。気がかりなことはそれだけではなかった。近頃こどもたちになんとなく活気が感じられず、お腹の張りが弱まったような気がしてならないのだ。レイの体が空いている時には無理にでも端末の前に座らせて何時間でもインターネットを探索するルイだったのに、近頃はレイ自身がブラウザを操作しているときでさえ心ここにあらずといった風でじっと押し黙っている。ルミはもともと口数の少ない方だったが、ますます無口になってほとんど体も動かさないようだった。久しぶりに体重と腹囲を測ってみて、レイの懸念は現実のものとなった。

「体重が減ってたの、それに腹囲も」
「・・・ダイエット、ってわけじゃないよね。食べてる量に変わりないものね」
「ええ、脂肪が減ったわけじゃないと思うのよね」
「ということは?」

 タクミも同じ意見だった。羊水が減っているんじゃないか?

 翌日、ひょっとしたらルミの子宮の中で動き始めた小さな心臓を確認できるかも知れないと、使い慣れた超音波装置で子宮内を覗いたレイは思わずあっと声を上げた。機械のセッティングを間違えたのかと思ってあれこれ調べたがどこもいじった形跡はない。それなのに、画面の中は一変していた。エコー上は透明〜つまりほとんどエコーを反射しないため真っ黒に見えるはずの羊水が一面きらきらと光っていて、まるで粉雪が絶え間なく降っているようなのだ。いつもはくっきりと見えていた胎児たちの輪郭さえはっきりしない。恐れていたとおり羊水の量が減っていた。その上こんなに浮遊物が増えてしまったら胎児たちは窒息しかねない。

 レイは慎重に自分の下腹部に針を刺し、少量の羊水を採取した。黄白色に濁った羊水は汗と垢の匂いがした。

*              *

「こないだの羊水検査の結果だけどね、妊娠反応は陽性、つまりヒト絨毛性ゴナドトロピンが検出されたよ」
「やっぱり。汚れもひどかったのでしょう」
「うん。ほかにもわかったことがあるんだ」
「なに?」
「羊水の沈殿物から彼らの細胞を取り出して、核型を調べてもらったんだ」
「核型? ああ、染色体のことね」
「そう、そうしたら驚くべきことがわかったんだ。彼らの染色体はぜんぶがXYだったんだよ」
「そうなの」
「ここはもっと驚いてほしいところなんだけどな」

 レイは大げさな身振りで両手を広げ、素っ頓狂な声を上げた。

「ええーっ、そ、そうだったのぉ! …こんな感じかしら。でもそれってルイの言っていた通りなんじゃない」
「奴がそんなことを?」
「ほら、僕らは一卵性双生児で、お互いがお互いの完全なコピーなんだって」
「そう言えばそうだったかな」
「でもそうだとするとルミの妊娠は想像妊娠ってことになるのかしら」
「いや、だから、妊娠反応は陽性だったんだってば」
「でもふたりともXYってことは、どっちも遺伝学的には男性ってことでしょう。男同士でこどもを作るなんてことができるのかしら」
「あながち無理でもないらしいよ。現に46XYの女性が妊娠したという症例報告があるくらいだから。むしろ問題なのは一卵性双生児なのに表現型が男性−女性になる組み合せでね、たいていの場合、女性の方は45Xかあるいは45X/46XYのモザイクらしいんだけど…」
「ターナー症候群になっちゃうのね。でもルミはみごとなプロボーションよ」
「いやそれは僕も認めるし誇りに思ってるよ…いや、そうじゃなくて、こういうことなんじゃないかな。一卵性双生児で両方とも46XYなんだけど見た目は男の子と女の子っていう組み合せはひょっとしたら正常に発育してしまうから検査に引っかかってこないだけで、実際にはずっと多いんじゃないか、ってね」
「そんなことがあるのかなあ。いずれにしても、これだけは確かよね。生まれてくるこどもは男の子かも知れないし、女の子かも知れない…」
「そりゃまあ、両親ともXXだったら女の子しか生まれないわなあ。いや、そもそもY染色体がなければ男性性器はできないんだから、両親がXXっていう組み合わせはありえないでしょ。まてよ、」

 タクミは腕を組んで頭をそらし、椅子を前後に揺すりはじめた。考え事をしているときのくせなのだが、ロッキング機構つきの仕事用の椅子ならともかく、ダイニングチェアでこれを始めると危なっかしくてしょうがない。

「XY同志の組み合わせってことはさ、XX、XY、XY、YY が 1:1:1:1でできるってことだろ。このうちYYは生きられないから、生まれて来る確率はXX:XY =1:2 で男の子かあ」

 この年で孫ができるなんて、と思いかけてタクミは今の今まで忘れかけていた重大な疑問に再び思い至った。孫もなにも、そもそも連中はいったいどこに赤ん坊を産み落とす気なんだ、日に日に汚染が進む羊水の中に? そこには空気さえないんだぞ。連中は鰓のついた半魚人でも生むつもりなのか? 臍の緒をつけたままそこら中を泳ぎ回らせようってのか。いや、そうじゃない。可能性はひとつしかないじゃないか。彼らは自分たちをコピーするだろう。ミニチュアのマネキンみたいなルミの子宮の中にもっと小さな一組のエルフが巣食い、そのまた中にもう一組の胎児が出来上るってのか。だけど細胞の大きさには限りがあるんだ、マトリョーシカじゃあるまいに、いつまでも入れ子を繰り返し続けることなんてできないぞ。だいたいその大本は誰だと思ってるんだ…そこまで考えてタクミは慄然とした。今の今だってレイは胎内のふたごにエネルギーを吸い取られて疲れ果てているんだ。このうえさらに負荷が増えたらどうなる?

*              *

 有限の時間内に完結する無限の過程について、ここでタクミに解説してもらおう。

「今、ある高さから落とすとちょうどその半分の高さまで跳ね返ってくるボールがあるとするよ。仮にそのボールが10メートルの高さから落下して5メートルの高さまで反発するのに2秒かかったとしよう。5メートル落下して2.5メートルの高さまで戻るには1秒かかるよね。その次は0.5秒、その次は0.25秒とだんだん間隔が短くなっていく。空気との摩擦や床を変形するのに消費されるエネルギーを無視すると、このボールは無限に反発を繰り返すはずだよね? じゃあ、最初にボールが手を離れてから5秒後にはボールはどうなっているだろう?」
「目に見えないほど小刻みに振動してる?」レイが答えた。
「いや」タクミは真顔で首を横に振る。「完全に静止してるのさ」
「どういうことかって言うと、ほら、高校で等比級数ってのを習ったでしょ?」

 タクミは後ろを振り向いて下手糞な字で黒板に数式をなぐり書きしはじめた。その間を利用してルイがこんな話を物語る:

(男は深夜の帰宅途上で隕石に撃たれた。テニスボール大の鉄とイリジウムの塊が男の後頭部の皮膚を穿ち皮下脂肪を融かし第7頚椎の棘突起をむしばみ始めた時、男の中で記憶の閉鎖回路にスイッチが入った。
 男の眼前に、彼が生まれた瞬間から今この時までのすべてが早送りで再現されたのだ。その時々のよろこびやくるしみが甦り男の胸を焼いた。1回目の再生が終わるちょうどその頃に隕石は男の身体を半ば通過していた。男の意識の後ろがわに隕石の重圧感が迫り、毛髪の焦げる匂いが届いたか届かないあたりで、ぱん、もう一度スイッチが入って記憶のフィルムが今度は4倍速で再生される。
 そのたびに倍の速さで上映される生涯が無限回くりかえされた後、隕石が男の臍のあたりから飛び出して地面にピリオドを打った。ゆっくりと仰向けに倒れる男の瞳にも表情にも、いまや何の情報も記されていない。それはダビングを繰り返した挙げ句ホワイトノイズしか残されなかったテープに似ている)

初項  第2項   … 第n項
 a  + ar  + …  ar^(n-1)=Sn

初項をa、公比をrとすると第n項はa掛けるrの(n−1)乗だ。初項から第n項までの合計をSnとするよ。この式の右辺それぞれの項にrを掛けると、その合計である左辺はrSnで、ちょっとずらして書くと、

     ar  + … ar^(n-1) + ar^n=rSn

上の式から下の式を引いてやると途中の項がぜーんぶ消えるから、
a-ar^n=a(1-r^n)=Sn-rSn=(1-r)Sn
∴Sn=a(1-r^n)/(1-r)

これにa=2, r=0.5を代入すると、Sn=2(1-0.5^n)/0.5=4(1-0.5^n)
ここでnを無限大に持っていくと0.5^nが限りなく0に近づくから、無限回のバウンドはたった4秒で終わってしまう計算になるのさ。

「それで、結論はどういうことになるの?」
 きょとんとした顔でレイが尋ねる。
「無限の入れ子なんてありえない、いや、たとえあったとしてもタイムリミットがすぐそこまで来てるってことさ」
 タクミの語尾は震えていた。

(つづく)

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