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Sugar Room Babies

終章

中条卓

 ある晩ついにタクミの怒りが爆発した。
「ねえ一体連中はどういうつもりなんだ?」
 ばん、とキーボードを叩いて立ち上がり、腕を振り回しながら部屋中をぐるぐる歩き回る。
「どういうって?」
 わかりやすい人だなあ、と思いながらもレイは素知らぬ顔で尋ねてみた。
「長逗留を決め込んだ上に子どもまでこしらえるなんてさ、おれは立ち退きを要求したい気分だよ」
 タクミが自分のことをおれと呼ぶのは珍しい。
「あら家主はあたしなのよ。心配しないで。あの子たちはばかじゃないわ。これ以上あたしに負担をかけないように何とかするって言ってるわ。ヒルコは外に…二重の意味で外に生まれ落ちるだろうってルイは言うのよ」
「ヒルコ?」ぎょっとしてタクミは動きを止めた。
「胎児の仮の名前ですって」
「縁起でもない」

 イザナギとイザナミの最初の子供だろう? 葦舟に乗せて流されてとかいう…連中は創造神を気取ってるわけか? そりゃ納得できないこともないけどさ。

『生まれないはずのものが生まれる時、空間がねじれクラインの管が生じるだろう』
 レイが神託を告げる巫女みたいな口調でつぶやいたのをタクミは聞き逃さなかった。
「クラインの管だって?」
「そこを通ってぼくたち3人は出て行くんだ、って」
「3人? 3人って言ったんだね。てことはやっぱり胎児は双子じゃなくてひとりだってことか。いや、そんなことは問題じゃない。クラインの管だって? クラインの管を通る?」
 タクミはスーパーの折り込み広告のすみにいそいそと下手くそな絵を描いてみせた。
「クラインの管っていったらこんなんだぜ。実際にはこの3次元の世界じゃ作れないものだけどね。この口から入ったものはぐるっと回って同じところから出てしまう。クラインの管には内側がないんだよ。そんなものの中をどうやって通るっていうんだ」
「ルイに聞いてみたら?」
「…ああ、そうするよ」
 すっかり毒気を抜かれてタクミは答えた。

*                *

ルイ〉パパはメビウスの輪のことは知ってるよね
タク〉ああ、小学校のときに自分で作って遊んだもんさ
ルイ〉遊んだって?
タク〉テープで輪っかを作るときに両端をひとひねりしてからくっつけるとメビウスの輪になる。その真ん中をハサミで切っていくと、2倍の円周を持ったひとつの大きな輪になるんだ
ルイ〉知ってるよ

 ほんっとに可愛くないガキだなと思いながらタクミは話を続ける。

タク〉そこでだ。ふたひねりしておくとどうなると思う?
ルイ〉ああそれは知らないや。だいいちここにはテープもハサミもないしね
タク〉同じ大きさのメビウスの輪がふたつ、鎖のようにつながるんだ
ルイ〉へえ、面白いね
タク〉だろ。3回ひねったらどうなるか、4回だったら…って色々試してみたものさ
ルイ〉ふうん。じゃあパパはメビウスの輪に裏も表もないことを知ってるよね
タク〉もちろんさ。鉛筆でメビウスの輪をたどるとテープの両側の面をたどってもとに戻るからな
ルイ〉そうなんだ。そしてね、これもよく使われるたとえなんだけど、2次元の世界に人が住んでたら、ある平面の裏と表に住んでいる人たちはお互いに決して出会うことがないよね。でも、3次元の世界に住むぼくたちが、彼らの平面をねじってメビウスの輪にしてやれば、ふたつの世界の住人は互いに行き来できるようになる。それと同じことがクラインの管についても言えるんじゃないかな
タク〉4次元の世界の住人なら、この世界をひねってクラインの管にすることができる、ってことかい
ルイ〉そう。パパの住んでいる世界とぼくたちの世界とはいくつもの壁で隔てられていて、つながりがない。ぼくたちの世界とヒルコの世界もおんなじだ。でも、鎖みたいにつながった輪っかどうしが、お互いに何の連絡もなくても、もうひとつ上の次元から見ればしっかりつながっているように、4次元から見ればパパの世界、ぼくらの世界、ヒルコの世界はみんなひとつながりなんだ
タク〉さっきから4次元、4次元っていうけど、いったい4次元に住む誰がおまえたちを助けてくれるっていうんだ?

 しばらく間があり、タクミはルイが笑っているにちがいないという感じを抱いた。

ルイ〉ねえパパ、忘れちゃったの? 半生人のときのぼくたちは時間と空間を自由に移動できるんだよ

 あっとタクミは息をのんだ。そう言われてみればそうかも知れない。だが百歩ゆずってルイたちが4次元世界の住人だとしても、それだけで彼らが自由にこの世界を捻じ曲げられるということにはならないはずだ…

ルイ〉そう、ぼくたちだってどんなところへも自由に行けるわけじゃないんだ
 タクミは心のうちを見透かされてぎくっとする。
ルイ〉でも、お産の瞬間っていうのは、それまで閉じていた世界が外に向かって開くんだよね。そうすると、外部がものすごい勢いで殺到してくるんだ。その勢いを使ってぼくたちはまた別の世界にジャンプするし、入れ代わりにヒルコがあなたたちの世界に侵入する…
タク〉そううまくいくものかな
ルイ〉わからない。でもやらなくちゃ、でないとぼくたちもママもパパもいなくなってしまうもの

*                *

 チャットを終えた後、しばらくタクミは呆然とルイの言葉を反芻していた。ルミの胎内に宿った生命、彼らがヒルコと呼んでいるものが、ここすなわちタクミたちの住む世界に出てくるのと入れ替わりに彼らは別の世界へ行くのだという。だが、母親の胎内でしか生きられない彼らにとって、どんな別世界があるというのだろう。それこそ「あの世」しかないのではなかろうか。
 ルイの最後の言葉の意味もまた量りかねた。「ぼくたちもママもパパもいなくなってしまう」とはどういう意味だ? 連中の存在と我々の存在の間にまるで呪術めいたつながりがあるみたいな言い方だ。連中は別の世界に投影されたわれわれ自身の影に過ぎないとでもいうみたいに。
 ともあれ、彼らが自力で今の状況から脱出しようとしていることだけは確かだ。大したものだな、タクミはこの期に及んではじめてルイとルミ、とりわけ息子のことを誇らしく思った。何かしてやりたい、彼らに何かしてやれることはないだろうか。彼らがまっとうに生きられるような世界をおれたちで用意してやることはできないのだろうか…

*                *

 タクミが不安を口に出すとレイはやつれの目立つ顔でにっこり笑うのだった。
「大丈夫よ。あたしはあの子たちを信じてる」
 そんなこと言ったって、と言いかけるタクミを制して
「生まれて来ないなんていう前代未聞のことをやり遂げちゃった子供たちよ。どこかよそに移住することなんか朝飯前よ」
「じゃああなたは何もしないでただ見守ってろっていうわけ?」
「あなたには考えることができるじゃない。あたしは苦手だけど」
 けげんそうに眉を寄せたタクミに向かって乗り出し、手をとりながらレイは言った。
「ルイはあなたにそっくりよ。とことん自分で考え抜こうとする。あの子は何も言わないけど、あなたの意見やアドバイスを欲しがっているの。あなたがしゃべったり書いたりしていることすべてをあの子は必死になって吸収してるんだわ」
 だからあなたも考えて、とレイは諭すのだった。

*                *

 考えろって言われてもなあ、空気の中で生きられないこどもを生かすには人工心肺を使うしかないじゃないか。と、この場合心臓は問題ないわけだから、人工肺か、血液を酸素化してやればいいんだものな。あるいはいっそエラ呼吸に切り替えるとか…ああ、そういえばハロゲン化合物を使った液体換気っていうのがあったっけ。あれは実用化されてるんだろうか。いや、たとえ実用化されてたって、そこから一生出られないとしたらあんまりだ。今と大して変わらないどころか、実験室から一歩も出られなくなっちまう。

 気がつくとタクミは夢の中で自分を相手に議論していた。もうひとりの自分は姿が見えないが確かにその場にいて、しかもそれがルイでもあるというのがタクミにはわかっていた。

「それにしても彼らの染色体がどちらもXYだったというのは意外だったね。Y染色体がなければ男にはならないわけだけど、Y染色体っていうのは実はX染色体の出来損ないっていうか、一部がちょん切られたようなものだっていう話があるよね」
「うん、まるで去勢コンプレックスの裏返しだね。ああそれとも、男はY染色体なんていう根本的な欠陥があることを直感していて、去勢に関する神話を反動形成したのかもね」
「ところが旧約ではイブはアダムの肋骨から作られたことになってるでしょ。素材と製品の関係が逆なんだよね」
「でも考えてごらんよ、XXとXXの組み合わせからは何度繰り返してもXXしか生まれない。つまり同性の単為生殖しかありえないのに対し、XXとXYの組み合わせからはXX:XY=1:1で必ず男と女が同数ずつ生まれてくるってわけ。Y染色体を持ったアダムがいてはじめて両性生殖が可能になるのさ」
「そうかあ? それって詭弁なんじゃ…」

 夢の語り手はいつの間にかレイにすり替わっていた。おまけに夢の中にはルイ/ルミまでが登場している。また夢の時間に迷い込んだみたいだ、とタクミ/レイは思った。

「今朝方こんな夢を見たわ。図書館で画像診断のすばらしい教科書を見つけるの。原著はドイツ語で1800年代からずっと改訂され続けているんだけど、日本語版は何年も前に古めかしい訳のが一度出たきりなのね。そこであたしはインターネット経由でドイツ語の最新版を手に入れて、自分で少しずつ翻訳してみようかと思い立つ」
(ママ、ドイツ語なんて博士号取るときにちょっと勉強しなおしたきりでしょ)
「そうよ、でもあんたたちの手を借りれば何とでもなるじゃない? とにかくね、注文した本がようやく届くんだけど、それを配達してきた車がばかでかいトレーラーでね、しかもあたしが注文するときに本のサイズを指定しなかったもんだから、配達員のおにいさんが車から2種類の本を持って降りてきてどっちにします、なんて聞いてるうちに家の前は大渋滞なのよ」
(ふうん、なんだか意味深だね)
「場面が変わるとあたしはその本のコピーを手に持ってドイツ語の教授の後を歩きながら訳を教わっていた。1800年代の序文なんてとても読めたもんじゃないからね。あたしの訳は桃尻語訳枕草子みたいなひらがなばっかりの文章なんだけど、教授は誉めてくれたよ。そのうちに教授はあるページに印刷されていた歌を歌いだした」
(うた?)
「なぜか歌なのよ。その本の最初の著者が創った病院だかなんだかのテーマソングみたいなの」
(あたし知ってる)ルミがドイツ語の歌詞を口ずさんだ。
「ああそう、そんなメロディーだったわ。でもどういう意味だったのかしら」
(あたしにもわからない。ルイが調べてくれるって)
「ありがとう、こんど教えてちょうだいね。そう、それでね、教授が一生けんめい教えてくれるんだけどさ、あたし、ほら楽譜が読めないからうまく歌えないの。ここは下を歌えばいいんですね、なんて尋ねると教授が、本当は4声だと実にきれいなんですがね、なんてね。そのうちに後ろから女の子たちのきれいな4部合唱が聞こえてきた。振り返ると小学校の同級生だったトキタさんにハカマダさん、クニコちゃんにミホちゃんが並んで歩いてて、わたしたち合唱部だったんです、なんて答えるのよね。あたしはちょっと恥ずかしくなって、私のいた頃には合唱部なんてなかったわ、なんてもごもご言ってるの」
(ずいぶん長い夢だね)
「まだ続きがあるのよ。そこから突然道がなくなって、下の方へ降りて行かなくちゃいけないんだけど、そのためのハシゴが妙な形でね、基本的には直径1メートルぐらいの鉄の輪が繰り返しになっているんだけど、途中で太くなったり細くなったりするし、輪の中に奇妙な格子が組んであったりするところだと、輪の中がくぐれなくて外側を伝っていかなくちゃならない。下を見ると黄色っぽい砂地で、自分がいる高さはそうねえ、高層の団地ぐらいあるのよ。片手にコピーを持ったままだから降りにくくってしょうがない。紙はだんだんくしゃくしゃになるし汗で濡れて来るし」
(飛べなかったの? いつもは飛ぶ夢なんでしょ)
「その夢では飛べなかったなあ。ようやく一番下まで来るとそこはパラボラ型の大きな傘みたいになってるの。ペンキの剥げかけた児童公園の遊具みたいな鉄のパイプを伝って地上に降りて、全体を見上げたところで、まるでマツタケのワイヤーモデルをひっくり返したみたい、なんて思ったな。…これでおしまい」

 もはや誰のものともわからない夢の中でタクミがずっこけた。

「マツタケねえ。やっぱりここにはエロチックなメッセージが込められてるんでしょうか」
(ぼくはねえママ、そのマツタケみたいな鉄梯子って卵管だと思うな)
「なるほど、卵管ねえ。でもそれだと君は卵管采の方へ移動していったわけだから、精子に感情移入してたってわけかね」
(でもママは降りていったんだよね。天下ったんだ。歌を伝えるために)

 歌?

 レイとタクミは同時に目ざめて顔を見合わせ、同じメロディーを口ずさんだ。威勢のよい軍歌のようで、どことなくもの悲しいメロディー。ふたりはいつまでもそれを覚えていて、そのうち歌詞をつけてみようと話し合った。

*                *

 そして今、ルイの頭の中にそのメロディーが鳴り響いていた。

 もしも宇宙が無限であり、そのすべての星を訪ねることができたなら、彼らが不自由なく暮らせるような惑星もきっと見つかるはずだった。もうひとりの自分に出会う確率だってゼロではないだろう。時間さえ十分にあれば、起こり得る事象は必ず起きるのだ。ルイはタクミが子供のころ好きだったというマンガの話を思い出した。主人公の少年はふとしたはずみで四次元世界に足を踏み入れてしまい、それ以来時間を止められるようになる。あるとき放火魔の嫌疑を掛けられた少年は時間を止めたまま日本中を歩き回って真犯人を捜すのだ。何年もかけて… 何年経っても少年は年を取らない。その代わりひどく汚れて垢だらけになるというのが可笑しかった。

 だが与えられた時間は無限ではない。その気になれば宇宙のどこにでも行けるとしても、それがイコール宇宙をくまなく見て回れるということにはならない。目的地を指し示す手がかりなしに行き当たりばったりに探してもエネルギーの無駄というものだろう。ルイはじっと手がかりを待っていた。

 その手がかりはルイとルミ、タクミとレイの4人が共有した夢の時間に示されていたはずだった。陣痛の始まったルミをあとに残してきたルイは梅雨空の上空に浮かんだまま意識を過去と未来に解き放ち、数万年のスケールで星座の動きを追ってみた。レイが、そしてその目を通して彼らが見たワイヤーモデルはへびつかい座の方角に見つかった。あとは星々の描くらせんの中をどこまでも遡ればいい。ルイは医神アスクレピオスの身体とされている多角形の中心に向かって自らを放った。

 夢の中でレイがたどったコースを、まったく逆方向にルイは進んだ。自分が時間―空間の中をどう動いているのか、もはや見当がつかなかったが、進むべき方向だけはわかっていた。星の輪をくぐり、流星雨を迂回してルイは飛んでいた。あのメロディーを聞きながら。いや、ルイ自身は静止していて、彼の回りをものすごい勢いで星が流れていくのかも知れない。息苦しかった。背中はプラズマとなって蒸発しそうなくらいに熱く、お腹は原子がばらばらになりそうに冷たかった。これが苦痛というものなのだろうか。生まれるための苦しみを味わわなかったせいで今ぼくはこんなにひどい目に遭っているし、ルミは生みの苦しみってやつを味わわされているんだろうか。だとしたら、こと苦痛に関するかぎり神様ってけっこう公平なんだな…

 今にも気が遠くなる、と思った次の瞬間ふっと身体が楽になっていた。

 ルイは鮮やかな緑色の海を泳いでいた。

*                *

「急いでお湯を沸かして、きれいなタオルをたくさん用意してちょうだい、急いで!」

 あえぎながらレイが叫んだ。本格的な陣痛が始まったのは午前3時ごろで、それからまだ30分も経っていなかったが、ルミにしてみれば半日もの間続いていたことになる。その間ずっとレイは同じ苦しみを味わっていたのだった。ふだんから痛みには強い方だと言っていたもののその形相はものすごく、タクミは鎮痛剤を盗みに病院へ走ろうかと思ったほどだった。

「いったい何が起きるっていうんだい?」
「お産よ」
「そりゃわかってるけど、連中が出て来るってのかい、今ごろになって?」
「ちがうわ。ルミの赤ちゃんがこっちに来るの。とにかく急いで!」

 レイの目は吊り上がっていた。どこから? どうやって? などと尋ねる間もなくタクミはあたふたと駆け出し、バスルームで、次に台所で大きな音を立てた。

「…たたタオルを持ってきたよ。お湯はありったけの鍋とやかんに沸かしてる。タオルをどうしたらいいんだい」
「どうしたらいいの? ええ、そう、ソファの上、ソファの上でいいのね」

 ひとりごとのように呟き、我に返ってタクミに命じる。

「ソファの上に何枚か広げてちょうだい。屋根裏にベビーバスがあるはずなの。持ってきてくださる?」
「はいはい]
「がんばっていきんで…そう、もう力を抜いていいわ。もう一度、ぐーっといきんでいきんで…もうすぐよ」

 自分がお産するかのように両手を握りしめ、汗だくになっていたレイがふっと力を抜いてソファの方を見やった。タクミもつられて同じ方向を見る。
 そこには奇妙なものが現れていた。ソファの上の空間がかげろうのように揺らぎ、やがて小さな竜巻のような渦が見えてきた。

*                *

 同じ渦をルイとルミもそれぞれ別の側から見つめていた。世界中に散らばる sugar room babies たちも一緒に。

 たっぷりと酸素を溶かし込んでいて、そのまま肺に吸い込んでもむせたりしない不思議な液体に地表を覆われ、豊かな海藻の森には大型の捕食者ひとつ棲んでいない緑色のパラダイスのような星から大急ぎで戻って来たルイは渦巻く空間に向かって手を差し伸べた。

「ただいま。さあ出かけよう。みんなも一緒だよ」

 渦の向こうから差し伸べられた手を取り、苦しい息の中からルミが答えた。

「おかえり」そしてさようなら。夢の時間でまた会いましょう。

 タクミとレイが見守る中、ゆっくりと回転する渦巻きを何かが降りてきた。やがてびしゃっという音とともに黄色みがかった液体が渦の下端から吹き出し、汗と垢の匂いが部屋を満たした。

 …小さな赤ん坊がそこにいた。顔をくしゃくしゃにして懸命に息を吸い込み、高らかに産声を上げる。レイが慣れない手つきで恐る恐る抱き上げ、産湯を使った。女の子だった。民話のかぐや姫かうりこ姫のように小さいが、完全に育った立派な赤ん坊だった。

*                *

 その晩、世界中の sugar room babies が一斉に旅立った。

*                      *

 さてこれでこの長い物語もようやく終わりに近づいてきた。わたしの父であり遺伝学的にはクローンでもあるルイがかつて語ったように、物語の終わりが始まりに回帰するのだとして、何度語り直そうとも物語は有限の時間内に語り尽くされてしまう。物語の終わりとはその外側にある無限を際立たせるだけの意味しかないのかも知れない。もうみなさんもお分かりだろう。わたしはヒルコ、この物語の語り手であり、今生まれ落ちたところだ。

 ルイとルミはどこへ行ったのか? ほんの一瞬前までわたしはその答えを知っていたはずなのだが、今やわたしの頭脳は白紙に戻ろうとしているのでそれを伝えることができない。かすかに脳裏に浮かぶイメージでは、そこは静かで暖かく、地表のほとんどを海に覆われていたようだ。あたり一面が緑色だった。それは地球によく似た別の星なのか、現生人類が滅び去ったあとに息を吹き返した地球なのか、あるいはこことは時間軸を共有していないパラレルワールドなのか。

 いずれにせよひとつだけ確かなことがある。わたしはレイとタクミの子として育てられ、いつか自分で自分の物語を紡ぎはじめるだろうということ。世界中に残されたルイとルミの足跡をたどりながら、なおもまったく新しいひとつの物語をわたしは語るだろう。

*                      *

「人類は今ようやく進化の第3段階に入ろうとしているところなんだとさ」

 長く暑い夏の終わり、ようやく過ごしやすくなったベランダで星空を見上げながらタクミが言った。

「第3段階っていうと、路上教習?」
 タクミは軽くずっこけた。
「いやその、第1段階は人間が環境に適応してきた時代、第2段階は人間が環境を変えてきた時代で、第3段階っていうのは環境がもう行き止まりになって、人間が自分自身を変えるようになるっていうか、変えざるを得なくなる時代らしい」
「どういうこと?」
「たとえばますます稠密になる世界に適応するために身体を小さくするとか、葉緑素を体内に取り込んで光合成できるようになるとか、あるいは自分で自分を再生産できるように雌雄同体になるとか…」
「そんなことができるのかなあ」

 すっかり元の体型に戻ったレイが2本目のワインのコルクを開けながら呟いた。女ってすごいな、なんてったって可塑性に富んでるよなあ、ほんの少しグラスに注いでもらいながらタクミは思っていた。

「遺伝子の組換え技術が進めば夢物語ではなくなるんじゃない? 品種改良という形ではすでに実用化されている技術なんだし」
「うーんちょっと怖い話ね」
「まあそうなんだけど、でも彼らはそれを先取りしていたんじゃないのかなあ。もうひとつ先の段階に進むための準備というか、公開実験をやってみせたんじゃないか、そんな気がするんだよね」

 レイはワイングラスを光に透かして色を確かめ、中身をぐるぐる回しながら香りを鼻腔いっぱいに吸い込み、ひとくち口に含んで舌と口蓋とのどで味わい、ゆっくりと飲み下した。ぴんと伸ばしたレイの喉元が上下するのを見ながら、毎度のことではあるけれど、この女はなんてうまそうに酒を呑むのだろうとタクミは感心した。自分の手元に持っている液体ではなくて、今彼女の体内に入っていたまさにその酒が飲みたいと思わせるんだよなあ。タクミもレイを真似てワインの香りをいっぱいに吸い込んでみた。

「いい香りだね、なんて言うんだろ、森の香りみたいだ。フィトンチッドてのかね」
「そうね、ルイとルミが最後に送ってよこしたイメージが森みたいだったわ。深くて果てしない海底の森。世界を覆い尽くす…」
「ミドリノホシ、か。フッ素だかホウ素と炭素の化合物がふんだんにあって、空気の代わりに液体を吸ったり吐いたりしながら暮らせる世界。大型の動物がいないという点では原始地球のようなところかも知れないね。ロストワールドよりももっと昔の」
「コナン=ドイル?」
「手塚治虫さ」
「そろそろおしめを替えてあげなくちゃ」

 さっと席を立ったレイを見送りながら、ずいぶん身軽になったものだとタクミは感心した。3人分の目方が一気に減ったわけだし、結局お産はものすごく楽に済ませてしまったんだものな、回復が早いわけだ。それにしてもテレポート出産とはね、まるで「ドアの中のわたしのむすこ」じゃないか。タクミは密かにため息をついた。あの赤ん坊はルイとルミのクローンみたいなものだってのに、サーファクタントを持っていたというのも謎だ。連中はいったいどこからどうやって遺伝子を手に入れたのだろう…

「タクちゃんちょっと来て、この子何か手に握ってるみたい」
 レイが慌ててタクミを呼んだ。
「なんだい、銀のスプーンでも持ってたのかい」
 見ると確かに赤ん坊の握りしめたこぶしの大きさが違っていて、右手に何かを持っているようなのだ。そっと指をほどくようにして開かせた手のひらからは鮮やかな色模様の何か軽いものがこぼれ出た。花びら? 紙ふぶき?
「これ、ジグソーのピースだよ!」

 それは見つからなかったクリムトのジグソーパズルの最後の1ピースだった。赤ん坊の手のぬくもりを伝えてはいるが、少しも汚れておらず、湿ってもいなかった。


エピローグ:

 幼い頃私は守護天使の存在を信じていた。彼らはふたり一組で、いつも私の肩越しに私と私の世界を見守っている。彼らは交代で私が言ったり考えたり行ったことを、より大きな存在に報告しに行く。私は時には彼らと話すこともできた。彼らは何でも知っていて、私のことを、彼らしか使わない独特の名前で呼ぶのだった。

(パパ、ママ、ほら、あそこにあの子たちがいるわ。ふたりして手を振っている。ねえ、あの子たち、なんだかパパとママに似てるね)

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