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リング転生

doru

 

 かがり火がたかれている。見ると私は上半身裸で弓矢を打っている。私はどこかの武士になっていた。
 矢を放つ。何本かが当たり、何本かが外れる。汗が流れる。汗がかがり火に照らされて光っている。身体の弱い妻が乾いた手ぬぐいを持ってきている。私は手ぬぐいをとり汗をぬぐう。それを嬉しそうに見ている姑がいる。私は笑う。妻も笑う。姑も笑っている。傍目から見ればごく普通の武士の家族に見えるだろう。
 真夜中、私が一人で書物を読んでいると誰かが障子を開ける音がする。この開け方は妻ではない。姑だった。寝間に身を包んで私にいきなり接吻をし、舌を入れてくる。私は姑の胸に手を入れると乱暴に揉んだ。姑が嬉しげなあえぎ声を出す。いつからこうなってしまったのだろうと疑問に思いながら、姑と身を重ねた。
 私は姑にこんなことはもうやめよう、私は妻を好きなのだと言ったことがある。姑は私の汗をぺろぺろ舐めながら、離れられるのと笑った。それは妖艶で残酷な笑いだった。姑は私も知り得ない何からの手段で病弱な妻の命をこの世につなぎとめているらしい。姑はつなぎとめるには力がいるらしく私自身を触媒にして、妻に薬として毎日飲ませていると言う。そのために私は嫌々ながら姑と毎夜身を重ねるしか方法がないのだった。
 ことが終わった後、私たちがまどろんでいると乱暴に障子が開いた。寝間に大量の血を吐き、夜叉の顔となった妻だった。血を吐いたことで姑が調合した眠るための薬が効かなかったのだろう。寝室に私がいないことで不審に思ったのかそれとも以前から私達の関係を勘づいていたのかもしれない。後者なら妻は今までどんな思いをしていたのだろうか。昼間は仲のいい夫婦のふりをし、夜間は自分の母親と身を重ねる夫を持つ女。私は妻を好きだっただけに心が痛んだ。
 裏切り者! 妻はそう叫び、やせ衰えた身体のどこにそんな力があったのだろうか、あらん限りの力を出して、私を槍で突いた。そして驚く自分の母親の命も奪った。私達を殺した後、私の下半身をずたずたに突き刺したところで、妻は力の元の怒りが消えぬまま体力を消耗したのか大量の血を吐き絶命した。一つの部屋に三人の血まみれの死骸が転がった。

 私がその男に目をとめたのは罪人たちを無間地獄に送りとどける道の途中だった。目を落ち窪ませ青い顔の亡者たちのなかでひとりだけ生命力のようなものを発していた。目の前にはすり鉢のようになった地獄の景色が見える。
 たいていの者はおびえて隙あればあとずさろうとする。しかし男は何かわりきったような感じをただよわせ獄卒の私が鉄棒でうながさなくてもしっかりした足取りで歩きつづけていた。
 地獄の底からの冷たい風がぼろぼろになった衣服を引き剥がすほどはためかしている。男の両足は氷と岩にいためつけられて爪は剥がれ皮は割け血まみれだった。それでも辛さや恐怖を感じていないかのように、かと言ってひらきなおった極悪人のような自棄糞な様でもなく男はたんたんと無間地獄へつづく道をあるきつづけていた。
 私はこの男に興味を持ち、突風がやむまでのわずかの休憩のあいだ男の近くに寄っていった。私は牛頭人身の化け物である。そんな私が近寄っても男は気にとめた風もなく辺りをながめていた。突然亡者たちが悲鳴をあげた。頭上から大粒の水滴がふってくる。

 私は目覚めた。汚いせんべい布団から抜け出すとそこらにある冷や飯をしょぼしょぼ食べる。暖かい味噌汁食べたいなと感じた。私には家族はいない。いや昔いることはいたがみんな死んでしまった。胸にきりきりと激しい痛みが走る。もうあれからずいぶんたつのにまだ心の傷が痛むのか。わたしは娘の仏前に手を合わして少し泣いた。かかあが流行り病で死んだとき、幼い娘を大事に育てていこうと自分を励まし商売をつづけていくことができた。これもみんな娘がいたからこそだ。その娘がこの世からいなくなった今わたしは生きているのか死んでいるのかわからない状態である。

 私は江戸の呉服問屋の主人で娘はお屋敷に奉公させていた。男手ひとつで育てた愛娘を遠く離れたお屋敷へ奉公に出すというのは行儀見習いという理由だけではない。そこの家は男子にめぐまれずほかの家から養子をもらったのだけれど奥様は生まれつき病弱でお世継ぎもままならぬ有り様なのだった。そこでひょっとして娘に若殿様のお手がついて懐妊、男子を産めばそのまま妾の身分におさまれる。そうなればわが家も安泰、という計算もあったのだ。しかしある日花見の帰りに屋形船が沈んで娘は溺れ死んでしまった。計算が狂ってしまい生きる張り合いもなくなり、悲嘆にくれていると妙な噂が耳にはいってきた。どうやら娘は屋敷内である恐ろしい秘密を見聞きしてしまったらしいという。そのために口封じのために事故に見せかけて殺されたのではないか、というのである。
 しかしそのお屋敷は権力者と通じているらしくそんな噂に動きはじめた奉行所の捜査を握りつぶすほどの影響力を持っていた。私は店を売り払い貯えをすべて使って人を雇い噂のでどころを捜させた。その結果はっきりした証拠を得たわけではないが、どうやらそれが根も葉もないデタラメとは言い切れないということがわかった。

 私は目を開けた。そばに倒れて苦し気に手足を動かしていた男もようやく身を起こすと大きくため息をついて前のように遥か遠くで立ち上る水煙を眺めた。
 ――あれは無間地獄の入り口だ。私は説明してやった。地獄とは忘却の海のなかの巨大な渦なのだ。この渦には樽にタガがはめられているようにいくつも氷環がはまっていて、それらは渦とおなじ速度で回転している。輪の数は全部で七つあって、しだいに小さくなっている。そしていちばん小さい環の内側に無間地獄がある。おまえたちは自然に渦の中心にひきよせられていってそのなかに落ち込むのだ。
 そのなかでどんな責め苦を受けるかは獄卒である私にはわからない。私は耳元でどなるようにしてそう男に伝えた。忘却の海の波の音、風の音、氷のきしむ音が地獄全体にすさまじく鳴り響いていた。氷の輪に蟻のようにとりついている亡者たちはみなそこをひとつひとつ渡って最後に黒い水煙に覆われた地獄の中心、無間地獄へと向かわなければならないのだった。
 死出の山、三途の川、十王の裁きというものはなく。地獄とはこうしたものだった。しかし私自身はそれらの話を聞いた娑婆のことを覚えているわけではない。この牛頭の怪物獄卒の姿は自分ほんらいのものではない。生前善行もつまないかわりに人を苦しめもしなかった私は罪人よりは苦しみの少ない牛頭馬頭の姿をあたえられたのだった。そのかわり前世の記憶はまったく失われている。それはありがたいことなのかも知れないが、それでもときどき不意に思い出させられることがある。
 ときどき忘却の海の水が吹き上がり滝のように流れ落ちてくる時がある。その場にいる亡者すべてが逃げまどいぬれまいとするのだが隠れる場所もない氷の山の上でみな全身に水を浴びて濡れねずみになる。そしてとたんその場に倒れて身体を震わせながら生前の悪行を夢みる。
 わたしも水をかぶって前世の夢を見る。しかし牛頭の身体に封じ込められているわたしの魂は目覚めたときにはすべてを忘れてしまう。

 亡者たちはふらふらと立ち上がり、闇のなかを歩きつづけ、やがて一行は渡し場についた。隣り合うふたつの環は絶壁でへだてられていて、そのあいだには忘却の海の水が急流となって流れているが、ここ一カ所だけは岸が低くなっていて泳ぎ渡ることができるのだった。そうはいっても流れはほかと同じように強くて全力をつくしても泳ぎ着くことはできないこともある。氷の環はときどきぶつかりあうのでぐずぐずしていると碾き臼で轢かれるようにすりつぶされてしまう。亡者であってもすりつぶされる苦しみにはかわりなく、死ねばまたふりだしに戻ってここまでの辛い旅をくりかえすことになるのでやはりみんな必死で泳ぐのだった。
 獄卒である私は一段高い場所にわたされたつり橋を気楽にわたっていく。亡者たちにはそれは見えず、まるで私が空中を歩いているように見える。見えないだけでなく亡者には橋に触れることもできない。だから嫌でも激しい流れを泳いで渡るほかないのだった。飛沫になってふりかかる海水に触れてさえ苦しまなければならないのに、忘却の海の水にどっぷりつかってしまうのだからその苦しみはこのうえないものだった。いろいろないとわしい思い出や罪の記憶が手足にまとわりついて泳げなくなり黒い水底に沈んでいっては必死に浮かび上がって、向こう岸にたどりつくまでには息も絶え絶えになっているのだった。
 一足先に向こう岸にわたった私はそうして亡者たちの苦悶を眺めていた。助けてやりたい気持はあってもどうすることもできないのだ。亡者たちを追立てる鉄棒を差し出してもそれに触れれば火膨れができ、かえって彼らを苦しめることになるからだ。
 そうしているととつぜん足下が大きく揺れた。隣り合う氷の環がどこかでぶつかりあったのだった。ちょうど滑りやすい氷の斜面に立っていたためにふんばれず、私はそのまま忘却の海に落ちていった。
 この海は無数の人生の負の側面を吸い込んでいてその水に触れた者はそれらの記憶を自分のもののように体験する。たちまち数限りない恐れや怒りや絶望の夢のなかにとらわれて私は自分自身を忘れてしまった。

 いつのまにか私は水に浮かぶ死骸を恐る恐る十手でつついている。
 ――しっかりしろ、へっぴり腰じゃないか。声に驚いて振り向くと上役の同心が立っていた。
 ――おまえは土左衛門を見るとまるで意気地がないな。へえ、どうも苦手なんです、旦那。このまえだってそうだ。あの屋敷の女中の死骸が川に浮いているのを見てへどをはいていたそうじゃないか? めんぼくありません。わたしが言うと、じれったいな、どれ手をかしてやろうと言って同心は十手を帯に刺し、死骸の着物の裾を持ってくれた。それ、いちにのさん。力をあわせてようやく岸にあげてみると死骸の顔は無惨につぶされていた。ううん、こいつはただの物取りじゃないようだ。見てみろ、背中から一太刀に切られている。侍の仕業だ。顔をつぶしたのは身元を確かめられないようにするためだ。最近行方不明になった者と言えば、花見帰りの船を沈めて女中を死なせた船頭だな。間違いない。口封じだ。難しい顔をして同心は言った。事故にみせかけてはいるが、あの船が沈んだ裏にはお屋敷のごたごたが絡んでいそうだ。おれたち町方にはいささかやっかいな事件だな。

 私は同心の旦那と別れて番屋へ向かう。黄昏れる時刻で路地の暗がりがあの世への入り口のようにあちらこちらにぽっかり開いている。目の隅になにか白いものが動いたように思えて私はどきりとして足をとめた。なんていうことはない。手水を捨てに表に出た長屋の娘だった。年ごろの娘の姿を見ると川に身を投げた自分の娘かと錯覚して一瞬どきりとする。頭をふってため息をつく。いまさら悔いても地獄へ落ちる定めは変えようもない。欲望に負けて娘の身体に手を出した犬畜生のあさましさが日毎に呪わしく思えてくる。かかあに死なれて親ひとり子ひとりで大切に育てたのに、自分でりっぱに咲いたその花を摘み取ってしまった。このごろ毎夜うらめしげに目を開けた娘の死顔にうなされては跳ね起きるようになった。たぶんあの女中の溺死体が年ごろも背格好もうり二つだったせいだろう。十手捕り縄をあずかる自分がそんないまわしい過去を持つことはだれも知りもしない。こうして一生自分ひとりの胸にとじこめて罪の炎に焼かれ続けるのは仕方ない。これも自業自得。そうして苦しんだあげく死ねば間違いなく無間地獄へまっすぐ送り込まれるこの身だ……。

 気がつくと鉄棒をにぎりしめたまま氷の岸辺に横たわっていた。見るとかたわらにあの男が立っている。助けてくれたのか?とたずねると彼はうなづき手をさしだした。牛頭馬頭といえどなんとなく見殺しにはできなかった、と笑う男に礼を言おうとしながらその掌を見て、わたしはぎくりとした。刀の柄をとめる目貫が開かれた掌の肉に埋もれているのだった。
 遺族が告別の思いをこめて棺にいれたのだろう。この男が生前大切にしていつも身につけていたものだ。そうした品物は亡者の身体の一部に食い込んで地獄の底までくっついてくるのだ。男のは自分の尾を食らう蛇の形の目貫だった。

 わたしは自分の胸にはめ込まれた根付に目をやった。男の目貫と同じように蛇をかたどっていた。ふつうの人には嫌われる蟲をあえて身につけるものにもちいるのは、なにやら蛇に因縁があるのだろう。この根付もまた男にゆかりのある品物に違いない。そしてこれは死んだわたしの娘が溺れ死ぬ最後の瞬間に握り締めていたものだった。
 忘却の海に落ちたことで呪縛が解けた。わたしは生前の自分を思い起こしていた。まちがいない。この男こそあのお屋敷の領主――わたしの娘を手にかけた者たちのひとりなのだ。
 不意にこれまでにない怒りと殺意がわきあがった。今まで持っていた親しみも消え、残っているのは怒りだけだった。わたしは後先も考えず手にした鉄棒をふりあげると渾身の力を込めて男にうちかかった。一度死んだものを殺したとて、もうどうすることもないとわかっていても、理性と感情は違う。娘を殺した男に傷の一つでもつけないと気がすまなかった。
 牛頭人身の怪力をもって振り下ろされた鉄棒は男の頭をこなごなに打ち砕いた。男の身体がぴくぴくと痙攣するとそのまま真っ黒い海へ転落していった。
 同時に鉄棒が真っ赤に灼熱した。地獄で罪人を殺めることは最大の罪であった。わたしはぎゃあと叫んで鉄棒をとりおとした。わたしはすでに獄卒としての資格を失ってしまったようだ。全身に激しい苦痛がまきおこった。身体がみしみしときしみながら変形していく。あまりの痛みに、わたしはその場に倒れてもだえ苦しんだ。
 いったいどのぐらい時間がたっただろう。気がつくとわたしは同じ場所に倒れていた。頭をおさえると角が消えている。顔はふたたび人間のものにもどっていた。手で顔をこするとなにかが手の平にある。見るとあの目貫だった。わたしの身体はすでに別の者のそれ……わたしが殺した男のものに変っていた。

 こうしてわたしはあの男の罪と自分自身の罪とをともに背負って無間地獄への旅をはじめたのだった。忘却の海の水を浴びるたびに幾度も幾度も前世の夢のなかでさまざまな形で蘇り死んでいき、殺したり殺されたり何回も何回も数え切れないぐらい経験した。それは怒りと憎しみと哀しみに彩られた果てしない輪廻であった。殺された娘のために――好きな女はできたが、本当に愛していたのは私の娘だけだった。私は娘を愛していたのだ――私の運命を変えたあの男にはどうして何の落ち度もない娘を殺すようなことをしたのか聞きたかった。あの男に憎しみはないと言えば嘘になるが、娘を殺したわけを聞くために、ふたたびめぐりあいたいがために私は自分から忘却の海の水をあびて無数の人々の記憶と同化してそれをさぐった。時にはその夢のなかで船に細工をして町娘を殺したこともあった。縁のある御屋敷の奥方に頼まれてそれをやったのだが、半ば恐れていたとおりわたしは口封じのために待ち伏せされて切殺され顔をつぶされてどぶ河にほうりこまれて死んだのだった。

 そんな悪夢のような繰り返しのはてにとうとう最下位の地獄、無間地獄にわたしは到着していた。ひりひりと肌を刺す水煙でなにも見えず、氷の岸に立ったわたしには真っ黒い渦がごうごうと音をたてて渦巻いている音だけが聞こえた。その中にとびこめば底知れない渦の中心の穴に引き込まれていく。わたしは後を振り向いたが霧のなかからぞくぞくと虚ろな目をした亡者たちがわらわらとわきだしてきていてもう戻ることはできなかった。わたしは亡者たちに押し出されるようにして氷の崖から泡立つ渦のなかに飛び降りた……。

 そうだった。わたしははるか昔にそうして地獄を旅し、無数の前世を体験し、そして無間地獄に落ちたのだった。底知れぬ闇のなかを落下しながらわたしはふいに気づいた。これは目覚めなのだろうか? それとも新しい夢のはじまりなのだろうか?
 無間地獄。それは無限なる夢幻の地獄だった。はたしていつからここにいたのだろう? すでにわたしは自分がいつどこにいてだれであったのかもわからなくなっていた。これが死後の世界なのかあるいは臨終のまぎわの悪夢なのか。あらゆるものが環型の宇宙をくりかえし循環しているのが感じられた。わたしは娘の死を悲しむ父親であり、母親といまわしい関係をもつ領主であり、いやいやながら船に細工する渡守であり、やとわれて町人を切る殺し屋であり、夫に裏切られた妻であり、息子に欲情する母親であり……すべての罪とすべての苦痛が自分自身から発していた。しかしそれなら、だれがその外側でわたしを罰しているのだろう?
 あるいはわたしを罰しているのはわたし自身の怒りと執念なのかも知れない。そう思いながらふたたびわたしは循環する夢のなかに飲み込まれていった。

 かがり火がたかれている。私は上半身裸で弓矢を打っている。矢を放つ。何本かが当たり、何本かが外れる。汗が流れる。汗がかがり火に照らされて光っている。私は妻が手渡す手ぬぐいをとり汗をぬぐいながら彼女に笑いかける。しかし彼女は笑わずにわたしをうかがうように見上げている。

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