引き伸ばされた時間

小林ひろき

34億人を乗せて土地型列車ランド・トラムは走る。

きょうは東京とロンドンと津軽とニューサウスウェールズを結ぶ。それぞれ9時から10時、17時から17時30分、21時20分から21時45分、23時から23時08分だ。

平山は運転席で函館の夜空が消えていくのを見送った。時刻は0時。次は東京だ。東京の街が姿を現すまで、平山はそこで待機する。

9時間ほどある。

運転席からは雲のようなものが何かのかたちになって消えた。もやもやしたなにかは次の土地なのかはわからない。この現象については何もわからない。

嵐なのかもしれない。

と平山は外の様子を描写した。

外は灰色の雲のようなものが流れている。そして龍のようなかたちになった。 雲らしきものが運転席のガラスに当たるとふわっと散らばった。しばらく平山はその様子を眺めていた。

靄のむこうに次の停車駅が見えてくる。東京だ。

1時間ほどかけて大勢の人々が乗りこんでくる。

「持ち物は最低限にしてください」

と係員がさけぶ。

土地型列車には十分な空きがあった。東京の人口などなんてことない。

乗客のほとんどは一時避難だ。東京が、この時亀裂じきれつで10時以降、存在しないために乗り込んでくる客達だ。

東京の存在が安定してくるまで土地型列車で暮らすことになるだろう。

ここの人々はせかせかしていると平山は思う。そこに係員から連絡が入る。

「乗客の乗り込み完了しました」

「わかりました」

15分も余っている。やはりせかせかしている。

「時亀裂まで15分ほどありますので、乗客の皆さまはそのままでお待ちください。運転手は平山。車掌は奥野です」

アナウンスが終わると、各国の言葉でアナウンスが繰り返される。扉が閉じる。15分後、雷鳴のような音が辺りに響いた。

平山は思う。時亀裂だ。平山は慣れている。

東京の存在が無くなる。そしてあの雲のようなものが列車の周囲を包んでいく。

「出発進行」

平山は言ってはみたものの何もしない。

「7時間か。かなり空くな」

平山は呟く。伸びをすると、腹がぐぅと鳴った。そういえば朝食がまだだった。 平山は食堂に向かうことにした。エスカレーターに乗り、食堂のあるフロアへ行く。

調理室からは煮込み料理の香りがしてくる。ますます食欲が刺激される。涎が出てくる。 とは言え給料日はまだ先だ。ここは控えめでサンドイッチにしよう。平山は空っぽになりそうな財布からコインを一つ出した。

「たまごサンドとハムサンドを頼む」

「あら、平山さん。運転はいいの?」

と調理室のおばちゃんが言う。

「まぁ、次は17時だから」

と平山は答える。

「サンドイッチじゃ、パワーが出ないでしょ。牛すじの煮込み、おまけしちゃう」

「ありがと」

そう言って平山は皿を受け取る。

美味そうな香りがする。有難い。平山は手を合わす。

「いただきます」

煮込みを口に運ぶ。とろとろだ、と平山は思う。続いてたまごサンドを頬張る。

すると後輩の奥野がやってきた。

「おや、平山さん?」

「奥野じゃないか。お前もメシか?」

「まぁ、そんなところです」

奥野はカレーライスの皿を置く。スパイスの香りが漂ってくる。

「お前、いつも同じだな」

奥野がカレーライス以外のものを口にしているのを見たことがない、と平山は思う。

「平山さんだってダイエットのしすぎでは?」

「お、おれは金欠なだけだよ」

奥野は笑った。

「次はロンドンですね」

と奥野が水を向けてきた。

「ああ、このあいだ、停車したときは海の上だったから、もう少し座標をいじってみよう」

「そうですね。それがいいです」

平山はロンドンを想像する。暗い海と灰色の空。そしてフィッシュ・アンド・チップス。それと紅茶。

「停車から時亀裂までは時間があまりないはずだ。東京のようにはいかないだろう」

奥野は頷く。

仕事の話となると二人は真剣だ。

「……っと、メシが冷める。食べよう」

「はい」

二人は朝食を済ませた。

平山は運転席に戻る。

まだロンドンに着いていない。

平山は胸ポケットから手帳を出す。それを開くと娘の写真が顔を出す。年は5歳くらい。ピンク色のほっぺたが可愛らしい。

固い表情だった平山の顔がほころぶ。

今頃、娘が寂しい思いをしていないか気になる。

土地型列車の上では電話は難しい。

現在17時01分。平山は時計を確認する。

もうロンドンが見えてきてもいい。平山は運転席の窓から外を覗き込んだ。靄のようなものは晴れない。

「おかしいな」

そう言った途端に暗い海が見えてきた。列車は水しぶきを上げる。

「座標ではここなんだが……またか!」

ロンドン港だった。平山はロンドンの係員に連絡を取る。

「こちら、土地型列車。どうやら、またロンドン港に出てきてしまったらしい。やれやれだ」

日本語でロンドンの係員が言う。

「念のため、海上輸送船は用意している。港に寄せてくれればいい」

「わかった」

ロンドンが消えるまで30分を切っている。間に合うか? 

海上輸送船が次から次へと人々を乗せてくる。列車の扉が開く。

「こちら運転手の平山。急がず、焦らず、押し合わずに列車に乗ってください」

客達に聞こえているだろうか。通訳インタープリターは正常に作動している。 時亀裂はまだ先だが、人々を安全な車内に乗せてしまわなければならない。人命は最優先だ。

17時28分。もうじき出発というところだ。そこへ奥野から連絡が入る。

「ちょっと車両内でトラブルみたいなんで、行ってきます」

「トラブル?」

「20003号車です」

「いや、そこなら俺がアバターを飛ばしていくよ」

平山の意識は20003号車に飛んだ。

時間に亀裂が入り、ロンドン周辺は時間が本来とは別の方向へと進んでいく。 その範囲は未だよくわかっていない、イギリス全体でロンドンだけが時間の上で存在しないとなれば、経済的な損失は大きい。 ロンドン市民の生活はしばらく土地型列車の上で続いていくのだ。

平山のアバターはトラブルのある場所に到着した。男性は50代くらいでカーキ色のベストを着ている。 髪は白髪で、ハンチング帽を被っている。平山はそれを目視すると近くまで寄っていった。

男性は叫び声を上げる。

「ここは俺の席だって言ってるだろぉ!」

先に席に着いていた男性が言う。

「いや、わたしの席だ。乗車券だってあるんだ」

「どうかいたしましたか?」

と平山が両者のあいだに割って入る。

「この野郎が俺の席を取りやがったんだ!」

とカーキ色のベストを着た男性が言う。

「乗車券を確認いたします」

両者の乗車券を確認する。確かに座席の番号は両方ともおなじだ。

乗車券の発行ミス? そう平山の頭によぎる。平山は思う。これだけの人々が乗っているのだから、当然か。

「念のため確認でスキャンさせてください。……これ前回の乗車券ですね」

カーキ色のベストを着た男性は驚いた顔になった。

「……なにぃ? ほんとうか……」

男性は語気を弱めた。そしてベストのポケットをまさぐる。

「これ! これだ。間違いないだろ? 40023号車? どこだ?」

「ご心配はいりません。私が案内いたします」

平山はアバターを自動オートにした。

平山は思う。こんな雑事に付き合わされるなら、まだ日本で鉄道マンしていたほうがよかったな。

10年前のことだ。

視界良好。

青空がレールの上に続いている。日差しはやわらかい。半袖では少し涼しい。

平山は列車の運転手だった。次の停車駅は上野だ。駅が見えてきたところで目の前の空間が割れていくのを目にした。 咄嗟に急ブレーキをかける。金属の擦れる音が大きくあたりに響く。乗客達が倒れる。

「何だ? あれ」

その先の上野駅が見えない。平山は困惑した。

ブレーキをかけて停車してから、10分。

その空間の異常が解かれた。上野駅は閑散としていた。人がまったくいない。

上野に止まるも、人々は怖がって降りない。

9時から10時のことだった。

この現象は東京のいたるところで起こっていたらしい。

途中で車両が割れたり、列車が消えたりした。

時亀裂の発生である。

この異常を事前に察知できたのは、全鉄道員のなかで平山だけだった。

この事故によって翌日、鉄道会社は全線運休とした。レールや電線が切れて復旧まで時間が必要になった。 駅から人影は消え、電光掲示板には何も映らず、時計だけが動いていた。

でも会社は待ってくれない。

東京では徒歩で会社に向かう人々の姿があった。

この事故の原因は不明だった。

そして今日も9時になった。とある駅でレールの上の空間が砕けた。幸いそこには人はいなかった。 その砕けた範囲は日に日に大きくなっていった。でもそれを見ることができた者は少なかった。

東京の大動脈が止まってしまって、経済損失は跳ね上がっていった。

鉄道会社は運休を続けることが出来なくなった。

危険なあの現象のなかを走ることができる、鉄道マンは平山ひとりだった。

秋の空の下、試運転が始まる。

その日、数両の列車が走ることになった。運転手は平山だ。平山は空間の、あの乱れを目視できた。平山の目だけが頼りだった。

試運転は成功した。しかし平山ひとりで全線を運行させることはできない。

ありとあらゆる交通手段が麻痺していたなかで、列車は運行できるのか? 鉄道会社のトップは頭を悩ませた。この現象を一刻も早く理解しなければならない。

次の日、事態は急変した。

11時に、山手線外周部が消えた。そして20分後には元に戻った。

この現象のメカニズムはまだよく分かっていなかったけれど、はっきりしていることはこの現象は拡大していくのだ。人々は震撼した。

気まぐれにある時刻とともに消える土地のなかを一本の列車が忙しなく走っていく。 鉄道会社はあきらめなかったのだ。レールを複線化し、数両の列車にし、平山に運転させる。列車は高級な移動手段になった。

平山にとっては激務だった。

朝は暗い時間から出勤し、夜は19時まで運転した。これでは過労死してしまう。けれど帰ってから見る娘の寝顔で疲れが吹き飛んだ。

まだやれる、平山は思った。平山の目は死んではいなかった。

次の朝、暗いうちに列車に乗り込むと目の前のレールが途切れていた。 おかしいな、と平山が思うと、彼は直感的に東京自体に、あの現象が来た、と思った。その予感は当たっていた。

東京自体が消えた。つい1時間くらいの出来事だった。

平山は不謹慎かもしれないが激務から解放されたと思った。平山はそこで意識を失った。

平山が自宅に帰ると、娘の美樹がむくれっ面で出迎えた。

「パパ、遊んで」

「ごめん、パパ、今日も仕事で疲れているんだ。また後でな」

「後でじゃ、ヤダ」

そうして美樹は目に涙を浮かべる。

平山は美樹を抱きかかえる。

寂しいのは平山も同じだ。

平山はリビングでテレビをつける。ニュースを見る。ニュースの見出しにあの現象のことが書いてある。 国はあの現象を災害とした。テレビ局の科学デスクが話す。空間亀裂現象というらしい。初めて聞く言葉だった。平山の眉間にしわが寄る。

「パパ、どうしたの?」

「いや、なんでもないよ」

平山はそう言って顔の筋肉を緩めた。

平山は思う。東京がまるごと消えたのだ。今、住んでいるここだって安全じゃないかもしれない。

「きょうの仕事はいいの?」

と妻が後ろで言った。

「ああ、今日は早く終わったんだ」

「土日は休めるの?」

「ごめん、休めそうにない」

「美樹が寂しい思いをしてる」

「ごめん」

壁に美樹の描いたお父さんの絵が飾ってある。列車を運転する平山の絵だ。

「この間の事故で人手不足になって、しばらくは忙しい。ごめん」

妻は溜息をついた。

空間亀裂現象は時空間亀裂現象と名を変えた。時亀裂と略す。時亀裂の頻度はまちまちだった。 だが、たくさんのデータを取り、ある程度の予測が可能になってきた。

時亀裂はそれ自体、非連続な面であるが、その表面はべつの時亀裂とつながっていることが分かった。 これを応用して一種のタイムマシンが構想された。過去へ行くことはできないが、 時亀裂の生み出す新しい時空間に移動することができれば、時亀裂に巻き込まれる人々を大幅に減らせるはずだ。それはシェルターの役割を持つ。

そこで大手ビル会社が名乗りを上げる。十分な居住区域と都市機能を併せ持つ、渡り歩く都市構想を掲げたのだ。それは通称、土地型列車と言われた。

土地型列車の運転手は時亀裂を目視することができる平山に決まる。

平山はその規模に驚いた。

平山は思う。これを俺が運転するのか? 

その心配は杞憂だった。土地型列車に必要なのは運転技術ではないのだ。

土地型列車は世界中で運用が始まった。しかし、あまりうまくいかなかった。時亀裂に入るには運転手の目だけが頼りだった。

その内に大手ビル会社は超巨大メガシティ級の土地型列車を発表する。分散できないならまとめてしまえという発想だった。


一匹の猫が路地を歩いている。水溜まりにその猫の姿がうつる。茶色の毛並みだ。ゆっくり、ゆっくり、あたりを警戒しながらその猫は進む。

彼女は思う。これからどこへ行こうか? 

彼女の目の前には大きな都市が広がっていた。人々の匂いがする。彼女に気づく者はあまりいない。

彼女が道の隅で座って風景を眺めていると、おじいさんがやってきて彼女の頭を撫でた。彼女は目を細めている。

おじいさんがいなくなると、彼女は別の場所へ移動する。道路をまっすぐ歩いていく。 色とりどりの看板や広告が並ぶ中国人街に入っていく。強烈な食べ物の匂いがした。

彼女は思う。まだお腹は減っていない。いや減っているか? 

あるところで止まって鳴く。女性が彼女に近寄っていく。

「メイリ―じゃない。ここにいらっしゃい」

女性はツナ缶を開ける。出されたものはちゃんといただく。彼女の流儀だ。

ツナ缶を食べ終えるとしばらく彼女は女性のそばにいる。

女性が眠ってしまうと彼女はそこから離れた。


奥野は鳥獣保管室から連絡を受けた。猫が一匹、逃げ出したという。

「茶色の毛並みの猫、メスで名前はミウです」

「わかりました。次の駅、キャメロンハイランドでしばらく停車しますから、そのときに探します」

列車が停車すると、奥野は猫の捜索に出かけた。

奥野は最初、人海戦術を試みた。アバターを複数飛ばすのだ。アバターはいくらでも複製可能だ。鳥獣保管室から借りた写真を見ながら探すことにした。

奥野には自信があった。たった一人でもやってみせると奥野は思った。

奥野のアバターは都市の隅々に入っていった。薄い水色のワイシャツを着た奥野のアバター達は異様な光景をつくりだした。

「この猫なのですが、見ていないですか?」

アバターは人に尋ねた。

「いいえ、見てない。この辺には動物なんていない。虫だっていないもの」

「ありがとうございます。何かあればお客様窓口にお電話ください」

奥野の意識は今、別の場所にあった。アバターの入れないメンテナンス用の階段のなかである。

「ミウ? ミウちゃーん?」

懐中電灯の光が暗闇のなかで円を描いた。

階段を上がる奥野は、しっかりと戻る時間を計っていた。折り返すまで3時間というところ。それが捜索のリミットだ。

そのときだった。奥野は階段を踏み外した。どたん、と音を立てて奥野は倒れた。奥野の意識は沈んでいった。

数時間後、胸ポケットに入れてあるスマートフォンの振動音がした。

平山さんからだ、と奥野はぼんやりと思った。

奥野は時間を確認する。まずい、出発の時間だと奥野は気づいた。奥野は電話に出た。平山が怒鳴る。

「何やってるんだ、奥野。どこにいる?」

「すみません、ちょっと眠っていたみたいです。今はメンテナンス用の階段のなかです」

「階段? なんでそんなところにいるんだ?」

「猫探しで」

「何? 事情は後で話せよ。とりあえずアバターを飛ばしておけよ。寝ているお前の代わりに」

奥野が戻ると、平山と目が合った。

平山は尋ねた。

「鳥獣保管室から猫が逃げたらしいな。何で相談しなかったんだ?」

「ひとりでもやれるって思ったんです」

「で、進捗は?」

「え?」

奥野は怒られても当然だと思っていた。平山の反応は奥野にとって意外だった。

「……各都市部にアバターを走らせて情報なしです」

「そうか……」

平山は頭を掻いた。アイデアを捻りだそうとする。そして何かを思いついたようだ。

「飼い主から探すのがいいかもなぁ」

ちょっとした呟きだった。奥野は答える。

「それ! それがいいです!」

早速、彼らは猫の飼い主を探す放送を始めた。

「鳥獣保管室に茶色の毛並みの猫を預けている方。至急、ビル・フロント3階会議室305に来てください」

放送は三度、繰り返された。

二人は会議室で待つことにした。しばらく待って、黒い髪の、ジャージを着た女性がやってきた。

奥野が声をかける。

「あなたが飼い主さんですか?」

「はい」

と女性は答えた。

奥野はひとまず安心した。

これで飼い主とともにミウちゃんを探せばいい、奥野はそう考えた。

会議室の扉がノックされた。

「どうぞ」

と奥野が返事をする。扉が開くと金髪の肌の白い男性が立っていた。

「猫の件で来たんだけど……」

英語で彼はそう言った。

奥野も英語で応対した。

「こちらへどうぞ」

これで飼い主がふたりになった。

「どういうことだ? 奥野」

と平山は奥野を問い詰めた。

「わかりませんよ。確かに鳥獣保管室から逃げ出したのは一匹だけです。それに保管されていた猫も一匹だけ」

「だったらなぜ飼い主がふたりいるんだ?」

するとノックがした。

「どうぞ」

入ってきたのは小太りのアジア系の男性だった。黄色いアロハシャツを着た男性は平山にも奥野にもよく分からない言葉で言った。

「シンダラはどこだい?」

これで飼い主が三人になった。

奥野が英語で話しかけると男性もなんとか英語で話せるようだ。

話はややこしい方向へ進んだ。

会議室いっぱいに人が集まった。全員が一匹の猫の飼い主なのだ。

奥野は猫の名前を飼い主から聞いて書き取った。ミウ、シュミル、シンダラ、ビレッザ……。他にもたくさんだ。

「千の顔をもつ猫ですね」

と奥野は言った。そして腕を組むと、飼い主の顔をそれぞれ見た。心配そうな顔、自信のある顔、楽しみにして待つ顔と様々だった。

「これから、控えた猫の名前を各都市で放送するよ。放送室に行ってくる」

と平山が言った。

「待ってください。それは任せてください」

と奥野は言った。

「いいよ。通訳があるし、俺でもやれるよ」

「いや、これは自分の仕事なんです。だから、やらせてください」

奥野は思った。平山さんは鉄道マンなんだ。こんなことをやらせるわけにはいかない。そして競争心も少しあった。

「そこまで言うなら、わかったよ」

平山は椅子に座った。

奥野は放送室に向かった。

それから様々な言語で猫の名前が各都市に知らされた。

それを聞いていた飼い主の一人が叫びを上げたという。

「メイニューがもし帰ってきたら、誰の家に帰るのだ? 我が家か? それとも別の家か?」

奥野が駆け足で会議室に戻ると、口論になっていた。

「ハルルフはうちに帰るに決まっているだろ」

と灰色の髪の男性が言う。

「いいえ、うちでしょう」

と黒髪のジャージを着た女性が言う。

そこへヒジャブを被った女性が割って入る。

「どこに居たって、アジャマルは、うちに帰ってくる」

「いいや、メイニューはうちに帰るはずだ」

奥野が大きな声で言った。

「喧嘩はやめてください。お客様が喧嘩したところで、お客様の猫が見つからないのは変わりがないのですから」

「おい、奥野。それは言い過ぎだ」

平山が奥野をたしなめる。幸い通訳はオフになっていた。

「申し訳ありません。お客様。猫の件はこれからも捜索を続けます。今回はこの辺で……」

と平山が言いかけたところで、会議室の端から声が上がる。黒いポロシャツを着た男性だ。

「だいたい、中国の都の上に欧州の都があること自体が、おかしい」

その一言に、金髪の目つきの鋭い男性が答えた。

「今はそんなことは関係ないだろ」

黒いポロシャツの男性が言った。

「西洋が二階で東洋が一階というコンセプトが腹立たしい」

「何がそんなにいけないのだ? 二流は引っ込んでいろ」

「アジアはもう西洋に比べて劣ってはいない。なのに、この列車のデザインときたら酷い」

「それはビル会社に向けて言うのだな。我々は土地を奪われてここに住んでいるのだ。それは皆同じだろう。協調しろ」

「いやだね。今頃、チャウリャンが上の階にいると思うだけでゾッとするね。変な病気にかかっていないといいのだけれど」

「言いがかりはよせよ」

と恰幅のよい、丸刈りの男性が言う。

「俺達は喧嘩をしに来たんじゃない。猫を探しに来た」

「だったら、チャウリャンはお前にだけはやらない。覚えておけ」

黒いポロシャツの男性が言うと、周りからブーイングと拍手がした。

「おい、奥野? これはどういうことだ。さっぱりわからない」

「国際的な問題だと思います」

平山と奥野はひそひそと話した。

平山は飼い主全員の名前をノートに記入した。乗車券のコピーも取ることにした。

飼い主達が会議室から出て行く途中に、さっきの黒いポロシャツの男性が丸刈りの男性に殴られそうになった。

「やめてください!」

必死で奥野はそれを止めに入った。


巨人の腕のような柱が上へと伸びていた。柱はいくつかあり、上部の都市を支えている。 天井のデジタルのスクリーンに空が映る。上部の都市は西洋風の建物が並び、いくつもの町を形作る。 中心部はビルが立ち並び、ドームに映る空から光が差し込む。 下部の都市は看板や広告が並ぶ街とその向こうに広がる高いビルの群れ。町は灰色のモザイク状だ。

ふと見上げれば、ドローンが配達に追われている。

客室はセルと言われる。ベッドやキッチン、リビングなどを一揃いにしたワンルームで、一般的な客室である。 セルを12個並べたものが車両に一両にあたる。客室で目覚めた乗客たちは支度を済ませて各々の会社に出社する。 都市周辺部のオフィス街がこの列車の、あるいは世界の、経済を支えている。経済こそがその星の力なのだ。

都市は一つの時間のなかにある。それは地球の時間とは違う、列車内特有の一つの時間だ。

この列車のなかにも夜が来る。スクリーンの調光機能がゆっくりと夕焼けを映し出し、黄昏時を演出する。 少し淋しいような昼の終わりが来る。あたりは深く青い空が包み込み、自分の境界が曖昧になってくる。ぽつり、ぽつりと町から光が溢れ出してくる。

「さようなら」

と誰かが言い、誰かが同じ言葉を返す。

電灯が点をうつ。先ほどから見えなかったものが次第に見えてくる。夜に目が慣れ、空を仰ぐ。 星空が見える。デジタルの星空は鮮明だ。塵のない澄んだ空気のなかで人々は夜を過ごす。

誰かと過ごす者、あるいは一人で過ごす者、各々が夜を楽しむ。騒いだり、静かにしたり、決まりはない。

暗闇の中でデジタルの鈴虫が鳴いている。あるいは夏にはデジタルの蛍が光を放つ。小川の、さらさらとした音がする。

「おやすみなさい」

誰かが誰かに言う。安らぎのなかで私達は眠っていく。そうして私達はゼロに戻る。次の朝を迎えるために。

モノクロの世界が青く色づく。赤いライトが遠くの街で点滅している。少し早く起きた朝はコーヒーの匂いがした。


下部の都市のなかを白い車がゆっくりと走る。その車が停まると、なかから男が出てきて塀に紙を貼る。 その貼り紙には英語で「猫を差し出せ」と書いてあるのがわかる。男は車に戻ると、次の区画でも同じことをする。

下部の都市から上部の都市へと向かうエレベーター内にも、その紙は貼ってある。 上部の都市に働きに出る人々はそれを破り、エレベーターに乗る。 エレベーターを降りると、またうんざりとするような光景が広がっている。あの紙が貼ってあるからだ。

猫一匹で二つの都市は緊張関係に陥ってしまった。ピリピリとした空気が都市を包んでいる。

メディアで二つの都市の情勢が報じられ、ますます事態は硬直した。人々の生活にも影響は広がる。

例えばそれはこのような形で表れた。上部の都市の食料プラントで作られた野菜は下部の都市では全く売れなくなった。 また逆に下部の都市で作られた食肉は上部の都市では売れなくなった。流通は滞った。 お互いに保護主義的になった。都市内の産業を守るためではなく、都市外の商品を消費しないために。

経済の力も弱くなった。二つの都市の友好関係が崩れたからだ。今までの指数的な成長は考えられない。

人々は不安を感じるようになった。

あの幸福な時間は帰ってこない。たった一つの歯車が狂ってしまったせいだ。あの愛らしい、千の顔をもつ猫はどこにいるのか。

今も、その猫はアナウンスで呼びかけられている。飼い主達も探している。しかし猫は見つからなかった。

そんななかでも列車は動いていた。平山は次の駅、ジャカルタを目視した。そして列車はジャカルタに停車した。乗客が乗り込むと、平山は言う。

「出発進行」

次は5分後にケープタウンだ。ところが、10分、20分、30分と経ってもケープタウンは見えてこなかった。

奥野から平山に連絡が入る。

「平山さん、停車駅は?」

「まだだ。見えてこない」

平山は目を凝らす。靄のようなものばかり見える。

「おかしいですね。こんなことは初めてだ」

奥野は戸惑っている。平山は言う。

「このまま運転席で待機するよ。ところで猫の件はどうなった?」

「ダメです。見つかっていません。ほんとうにどこに行ったんでしょう」

それから1時間、2時間、3時間と経っても列車は次の停車駅に到着しなかった。 列車は引き伸ばされた時間ジャムカレットのなかにある。

平山は決断した。しばらくの運転見合わせである。ことの成り行き次第だ。 アナウンスでそれを知らせると、平山は外を見る。外は嵐のようにも見える。 時亀裂のようなひび割れも見える。列車はそこを通過する。しかし、次の停車駅はない。

平山にはこの現象が分からない。経験したことのない現象だった。

そのうちに8時間が経過していた。運休の2文字が平山の脳裏によぎる。しかし平山は集中力を切らさなかった。窓の外をじっと見ていた。

きっと次の時亀裂がみえるはずだ。そう平山は信じることにした。

平山は奥野に連絡する。

「奥野、今はこんな状況だ。お客様も心配しているだろう。お前はその対処にあたってくれ」

「いいんですか?」

「ああ、業務はアバターで構わない。今回は仕方ないだろう」


奥野は業務を中止して、都市へ降りていった。灰色のモザイク状の町が見えた。

猫の件で都市はいいムードではなかった。加えて、この運転見合わせである。列車は走らなければ意味がない。

奥野は悔しかった。自分は何もできていない。平山に頼ることはしたくなかった。自分一人でやってみせると奥野は考えていた。しかし現状はどうだ。

奥野はアバターを大勢飛ばした。愚かだ。同じことの繰り返しだ。

「やれることをするしかない」

そう奥野は呟くと、アバターとともに走っていった。

そこへ放送が入る。様々な国の言葉で猫の名前を呼びかける。そこに答えるものはまだいない。

奥野はアバターを上部の都市へ向かわせると、自分は下部の都市へ向かった。 アスファルトの道路が町へと続いている。奥野は町へ歩き出す。白く四角いセルが並ぶ区画には貼り紙の黒い文字が目立った。 奥野は気にしなかった。セルの扉の隅に、猫の餌などが置いていないかと注意深く見る。

奥野はセルが並ぶ町を後にする。収穫なしだ。

腕時計を見ると、2時間も経っていた。おかしいなと奥野は思う。

奥野は商業地区へ行くことにした。そこには中国人街が広がっている。歩いて15分というところだろうか? 

色とりどりの看板が並ぶ中国人街に奥野はやってきた。そこで奥野はアバターをさらに二人用意した。奥野とアバターは街の入口でわかれた。

乗客は本来セルに住むが、ここ中国人街は特殊だ。セルに住むのが嫌で勝手にビルの部屋に住んでいるのだ。 だが、ここほど商業が盛んな街はない。横浜中華街を想像するが、そこよりずっと規模が大きいものだ。

通りには買い物客がたくさんいる。飲食店もある。食べ物のいい匂いがする。

奥野は帽子をとる。そして腕時計を見る。町にいたときから45分も経っている。

時計が壊れているのか? と奥野は思う。

あまり気にせず奥野はあちこち聞いてまわることにした。

十人目くらいで、奥野は猫の情報を手に入れることが出来た。それは、とある女性からだった。

「確かに、メイリーならこの前ここに来たよ」

奥野は尋ねた。

「それで猫はいまどこに?」

「それが寝ている間にどこか行っちゃって、わからないの。ごめん」

「……そうですか」

奥野は落胆した。ただこれで範囲を絞り込むことができる。

女性は何か言いたげだ。

「どうかしましたか?」

「ええ。メイリーが来たのは、ついこの間の出来事なのに、ずいぶんと前の出来事のように感じられて。おかしいね」

奥野は街から出て行くと、変な気持ちになった。奥野は思う。何か、時間が引き伸ばされているような。これは時計の故障なのか? 

胸ポケットに入れてあった通話機が振動する。平山からだ。

「どうしたのですか? 平山さん」

「奥野、俺はもうわからない。列車を運休させようと思う」

「え?」

奥野は驚きつつも答えた。

「いまは少し待っていてください。運転席へ行きます。それから相談しましょう」

奥野は通話を終了させると、路面電車の駅まで歩くことにした。

ところが、歩いても、歩いても距離が縮まらない。そして路面電車の駅に着いても路面電車が来ない。 奥野はお腹が空いて市街地へ行った。奥野は一軒のレストランに入り、注文をして、 出された氷水を飲んでいると、テレビがあるのに気づいた。テレビでは、上部と下部の都市の対立を記者が報告している。

記者は言う。

「一匹の猫から始まったこの騒動と混迷は出口が見えません。今後もこの情勢は続くでしょう」

するとマイクが猫の鳴き声を拾う。おそらくこの瞬間、土地型列車内の誰もがこの番組に釘付けになったことだろう。記者は猫に気づいた。

「見てください。猫です。あの猫が私達のすぐ前に現れました」

茶色い毛並みの猫は悠然としていた。

テレビを見ていた奥野は立ち上がっていた。

奥野は思う。あそこは一体どこだ? 

奥野の目がぎろりとした。ウェイターが怯えながら、奥野のテーブルにカレーライスを置いた。

「あれはどこだ? あの猫を探しているんだ……」

ウェイターが答える。

「あれはたぶん、アジアの街でしょう」

「アジア? もっと特定できないのか?」

奥野は指で円を作って言った。

「わかりませんよ」

そう言ってウェイターはその場から去った。

奥野は席に着いてカレーライスをガツガツ食べ始めた。

猫がテレビに映ったことで、飼い主達は安心したようだ。猫が生きていることだけでもわかったからだ。 変な病気にも罹っていない。融和ムードに都市は包まれた。

奥野が平山のいる運転席に戻ったのは5日後だった。

「すみません。遅くなりました」

「問題はない。最近、時間の感覚がおかしいからな」

「それで運休の話は?」

「ああ、俺はおかしくなったのかな。時亀裂らしいものを通過しても、その先にまた時亀裂が見える。こんなことは初めてだ」

奥野は窓から外を見る。目を凝らしたが、奥野には何も見えなかった。奥野は平山の様子を見て言う。

「少し休んでみましょう。それで駅が見えるようになるかもしれませんし」

平山は運転席から出る。

奥野は放送で運休を知らせることにした。


平山は休憩室で寝転がっていた。あれほど簡単だった運転がうまく出来ない。平山にはそれがショックだった。

平山は目を閉じたり、開いたりしてみる。確かにここに来るまで時亀裂は見えていたはずだった。

傍らに置いたホットコーヒーはしばらくそうしてあったつもりだったが、熱いままだ。

平山はコーヒーを飲む。少しばかりの安らぎを感じる。そこに放送が流れてくる。奥野だ。

「運休のお知らせをいたします」

平山には奥野の声が間延びしていくように感じられた。この放送が乗客に正確に届いているかはわからない。

平山は休憩室を出た。

平山は思う。少し運動不足だ。散歩にでも出かけよう。

列車の従業員の寮が並ぶ町を出ると、巨人の腕のような柱が見えてくる。柱のなかを上部の都市へ向かうエレベーターが動いているのが見えた。

平山は街を眺める。商業ビルの向こうにオフィス街が見える。平山はオフィス街へ歩き出す。大通りに車は走っておらず、普段の忙しい風景はここにはない。

列車が止まったからか? と平山は心配した。しかし、今日は日曜日なのだ。

平山はそれに気づくと、どれだけ自分が仕事人間だったのかに気づいた。

平山がオフィス街に着いたのは夕方になってからだ。オフィスビルのなかにはぽつり、ぽつりと電気のついた部屋がある。 それを数えながら、平山は中央の公園に入った。デジタルの夕焼けが平山の心を熱くさせる。

平山はぼんやりと、この時間が永遠に続けばいいと思った。でもこの時間は淋しすぎるとも思った。

放送がする。奥野が猫の件について話している。

平山は思う。動物にとってこの時間の流れは脅威なのかもしれない。 例えばショウジョウバエは世代交代が早く、研究によく用いられる。 その命は人間より短いはずだ。同じように猫や犬だって人間より寿命が短い。だとしたら、このまま運休が続けば、どうなるだろうか? 

平山は鳥獣保管室に連絡する。

「すみません、鳥獣保管室でしょうか? 運転手の平山です。猫の生態について詳しくお聞きしたいのですが……」

獣医によると猫の寿命は2年から16年だそうだ。運休が長期に渡れば、猫にとっては良くないはずだ。

「このまま時間が過ぎていったら、飼い主のもとへ帰してやること自体ができなくなる」

平山は決心した。運転に戻ろう。

奥野に連絡すると、運転の再開についての放送が流れる。

「さすが、仕事が早いな」

平山は公園から出て、オフィスビルの明かりを見る。数は減っていない。もしや増えたかもしれない。

デジタルの空には宵の明星が見える。暗くなると、道の電灯が点をうち、線をつくる。その線に沿って平山は歩く。

平山はイメージトレーニングをする。あの特殊な時亀裂を渡る方法だ。平山には考えがあった。 今までは時亀裂ならば何でも飛び込んでいたが、それを止める。 見えてきた最初の時亀裂を通過した、その瞬間に列車を緊急停止させるのだ。 そうすることで列車は固定され、どこかの駅に着くはずだ。平山はこの推測を疑ってないわけではない。 でも、ずっとこの列車を操ってきたことで、得られた勘がそう言っているのだ。

デジタルの月が昇り始める。平山は電話で奥野とこれからのことを話し合った。運転の再開は1時間後だ。

運転席は静かだ。

平山の目には時亀裂が見えている。ただしそこには行かない。平山はただ眺めるように外を見た。 いくつもの時亀裂が目の前に現れては消える。あたり一面が灰色になった。体重を椅子に預けて、平山はただ待っている。

50分が経過していた。

「そろそろか……」

平山は呟いた。すると平山の目は入場ゲートのカメラ映像に釘付けになった。あの猫だ。平山は電話を急いでかける。

「お、奥野か? 猫が入場ゲートに現れたぞ」

「ほんとうですか? いま行ってみます!」

平山は慌てないようにして、レバーを握った。

「出発進行」

そして列車は時亀裂のなかに入っていく。そして平山は列車を緊急停止させた。

激しい揺れがした。都市全体が揺れている。スクリーンの一部が剥がれ落ちる。それはゆっくりと浮かぶように落ちていった。


奥野は入場ゲートに急いだ。すると入場ゲートの扉の前に猫がいるのが分かる。

「ミウちゃん?」

と奥野は猫に声をかける。答えはなかったが、特徴は一致している。奥野は少しずつ距離を詰めていった。

そのとき、激しい揺れがした。奥野と猫は動かなかった。奥野は天井を睨み、何も落ちてこないことを確認する。 そして咄嗟に猫に近づき、猫を抱えた。猫は怯えているようだった。

「もう大丈夫だよ。ミウちゃん」

奥野がそう言うと、入場ゲートが開いていく。辺りの空気が外に吸い込まれていくような、そんな感覚がした。奥野は何か危険を感じてうずくまった。

奥野は思う。そういえば地面の感覚もあまりしない。どうしてだ? 

ゆらりと上半身が外に出て、ふわりとした感覚がする。

「浮いているのか?」

そして奥野と猫は外に出た。白い地面が見える。奥野は思わず叫んだ。

「助けてください! 先輩!」

腕が一本、奥野の背後から伸びてきた。その腕は奥野を掴むと、ひょいと奥野を入場ゲートのなかに戻す。

「だいじょうぶか? 奥野!」

男の人の声がする。奥野はその声の主が分からなかった。平山だと気づくまで数秒かかった。

「平山さん?」

「奥野っ? 平気か?」

「僕は平気です。それに、へへへ……」

奥野の腕のなかには猫がいた。

「やったな。起き上がれるか?」

「はい」

奥野は立ち上がると、入場ゲートの扉の隙間から外を見た。モノクロ写真で撮ったような色彩のない風景がそこに広がっていた。

「平山さん、ここは?」

「驚くなよ、奥野。ここは月面だ」

「へ?」

奥野は固まった。思考が戻るまで数秒かかった。猫が腕のなかで暴れている。

「どういうことでしょう? 時亀裂はそもそも地球の現象ではなかったのですか?」

「それはわからない。でもナビゲーターはここを月面だと捉えているようだ」

奥野はたくさんの質問が浮かんできて、顔が紅潮してきた。奥野は平山の顔を覗いてみる。

奥野は思う。何をこの人は考えているのだろう? 


平山と奥野は入場ゲートを後にした。帰る途中、興奮気味になって平山は話す。

「時亀裂が宇宙的な規模の災害だとしたら、俺達は列車に乗ってどこまでも行ける。 宇宙の果てだって旅できるんだ。これは本社に早く報告しないといけないよな」

「確かに。でも宇宙には人間が居住できる星とそうでない星がありますし、時刻は現行の時刻表で運行できるかどうかも曖昧です」

平山は笑顔になった。

「いや、本社が宇宙用に新しい土地型列車をデザインしてくれればいいんだ」

「先輩、地球に早く戻らないと」

「わかっているさ」

平山はそう言って奥野と別れた。奥野は鳥獣保管室に寄ってから戻るそうだ。

平山は運転席に戻ると生命居住可能領域ハビタブルゾーンのある星でなおかつ停車駅である場所を検索した。 平山は期待に胸を躍らせる。しかし、画面にはエラーメッセージが出た。

「あれ? どういうことだ」

二度、三度、試してみるがうまくいかない。

「機器がいかれたのか?」

平山は奥野に相談することにした。奥野のアバターが運転席に来た。

「どうしたのですか?」

「宇宙にある駅を検索してみたんだが、さっぱり出てこない」

奥野はエラーメッセージを見た。

「このエラーメッセージは地図がないってことみたいですが」

「地図?」

平山はきょとんとした。

「そうです。宇宙の地図です」

「そんなもの、必要なのか?」

「もちろんですよ。会社が用意しているのは地球の地図だけのようですから、仕方がないですね」

「じゃな、宇宙の旅は?」

「ナシです」

平山は肩を落とした。

奥野は平山を諭す。

「いつまでも月面にいるわけにもいきませんし、早く出発しましょう」

「でもさ、奥野。さっきから時亀裂が来ないんだ……」

平山は続ける。気がかりなことがあった。

「それに……」

平山の不安をかき消すように奥野は言う。

「酸素は、あと3日は持つ。待ってみましょう」

「わかったよ。時亀裂が来たら、出発だ」

月面に時亀裂が走ったのはそれから24時間後のことだった。

平山は思う。これで地球へ戻れれば一安心だ。でも戻るべき時間がはっきりとしていない。 インドネシアを出発したのはいつだったか? はっきりしないし、記録がない。

灰色の世界のなかに列車は停車した。停車駅は見えてこない。

戻るべき時間は地球の時間だ。でもこの列車は宇宙の時間に出てきてしまったようだ。 時亀裂は彼方に見え、とても遠いことがわかる。でもあの時亀裂の先は本当に地球の時間に続いているのか? それはわからない。 もしかして遠い星の時間に続いているかもしれない。

もし地球との接点を失うと、経済活動は滞るだろう。この土地型列車の都市は世界の経済を支えているのだ。

平山は焦った。地球の時間へ続く時亀裂と、宇宙の時間へ続く時亀裂の見分けがつかない。 そのまま列車は靄のなかを走り続けた。列車の先には無数の時亀裂が見える。 列車はそれを避けながら進んだ。時には雷のような音がして、平山は怯んだ。

音がする? 平山はふと考えた。音がするなら、その先には大気がある。ならば地球である可能性が高いのではないか? 

平山は耳を澄ませた。あの雷のような時亀裂の音はとても遠くにあった。 ならそこまで走ってみるしかない。列車は音のするところまで走った。 時亀裂が見えたが、音がうるさいだけで、列車の通れるほどの空間はなかった。

「ここもだめか……」

希望は潰えた。

列車は走り続ける。平山は奥野に連絡した。

「奥野か? 運転の見合わせをしようと思う。それでいいよな?」

「構いませんが、何かあったのですか?」

「地球への道すじが見えない。地球へ帰れるルートが俺にはわからない」

「あまり一人で背負い込まないでください。先輩。いくらでも待ちますよ。それに何でも相談してください。僕たちは仲間なんですから」

地球の時間へは帰れそうにない。平山は判断した。

「運行は続ける。でも、乗客達に言ってほしいことがある」

奥野は平山に言われたことを読み上げる。

「この列車はしばらく運休いたします。計器類のメンテナンスのためです。 またこの車両の運行によって、新たな事実がわかりましたので報告させていただきます。 時亀裂という現象は宇宙規模の現象だということがわかりました。 さて、経済は星の力と言われ、この土地型列車に乗り、いつも働いている皆さま、お疲れ様です。 この列車はこれからしばらく運休となりますが、社内サービスの一環といたしまして、バカンス・プランを提案させていただきます。 当プランでは、オフィスの退社時間を大幅に繰り上げ、空いた時間を有効活用していただくプランとなっております。ぜひともこの機会にご利用ください」

平山は放送を聴きながら考えていた。時亀裂がそもそも地球外にも及ぶ現象なのだとしたら、 我々が時亀裂を避けながら働く必要もない。少しくらいサボっても問題はないはずだ。

車内では、動揺が広がっていた。もう働く必要がない? バカンス・プラン? お客様窓口には問い合わせが殺到した。

平山はにやりとした。この都市にはずっと欠けていたものがあったからだ。それは休む時間だ。

するとエンジニアたちが運転席にやってきた。

「修理に来ました」

「お願いします」

「でも修理するところなんて、余程、無理しなければ、ないはずなんだけどなぁ」

エンジニアは困った顔で言う。平山は愛想笑いした。

「うわっ! ちょっとこれ。どういうことなんだ?」

エンジニアの悲鳴がすると、平山は運転席から去った。

休みを告げられた街はオフィスから出てきた人々でいっぱいだ。デジタルの空はこれから暗くなるところで、 商業施設に人々が吸い込まれていく。買い物や食事だろうか。

平山はそれを見守ると、手帳から写真を出して、じっくりと思いを馳せた。いまごろ美樹はどうしているだろうか? 

そこへ連絡が入る。エンジニアからだ。

「はい。平山です」

「修理終わりましたよ。……全く、何てことするんだ。計器が可哀想だ」

「すみません。ああいう使い方しかできなくて……」

列車は元のように運行するけれど、これからは、何かが違うはずだ。

これから列車はサウスビーチとプロ―チダ島とレマン湖とコルシカ島を結ぶ。 それぞれ13時01分から21時19分、23時から6時30分、12時から21時34分、23時17分から4時45分だ。 平山は運転席で靄が消えていくのを見送った。バカンスの始まりである。

オフィス街の明かりはその多くが消えていった。昼過ぎには終業し、休みに入ったからだ。皆は自分のセルで旅支度を整える。 浮かれた人々で土地型列車はいっぱいになった。

さらに長期休暇を取った人々も出て、本格的なバカンスを始めた人もいた。

こうした空気のなかで頑なに働くことを止めなかった人々がいる。日本人である。日本企業はバカンス・プランを導入しなかった。 日本人街のオフィスは夜遅くになっても明かりが点いたままだった。

日本人からのバカンス・プランに対するクレームは激しかった。

しかし、多くの日本企業のパートナーである外国企業がバカンス・プランを導入してしまったために日本企業は仕事にならなくなってしまった。 そうして渋々、日本企業もバカンス・プランを導入することになった。

会社から昼過ぎには放り出されてしまった、日本人達は迷うことになった。休暇をもらってもその時間を有効活用できない。 趣味らしい趣味もないので、寝て過ごすことになった。1日中セルにこもり、テレビを見て過ごした。

その間も列車は観光地に滞在した。自由時間にビーチで泳ぐ海外の人々の様子がテレビで放送されたが、日本人にはピンとこなかったようだ。

バカンス・プランに対する抗議運動が盛んになったのもこの頃だ。小規模な抗議活動だった。 あの猫の件での、都市間の緊張の高まりに比べれば大したことなかった。

ゆったりとした時間が流れた。引き伸ばされた時間ジャムカレットでの長期休暇だった。 昨日とはそこでは過去になり、明日とはそこでは未来となった。時の概念が曖昧になり、溶けていくようだった。人々はもう忙しくしない。 何かに追われることはない。ただ時がゴムのように伸びていくことだけを感じた。

平山はこの10年を振り返る。仕事ばかりの毎日だった。家族にもろくに会えていない。 美樹に会いたい。もうこんな生活は嫌だ。そうだ、もうこの仕事を辞めよう。日本で平凡な毎日に戻るのだ。

平山は休憩室で待機中に、奥野にその話をした。

「奥野、俺はもうこの仕事を辞めようと思う。日本で鉄道マンに戻るよ」

奥野は笑った。

「そんなことできないですよ」

「どうしてだ?」

「だって……それは……」

奥野は躊躇いがちに言った。

「考え直してください。先輩は先輩のままでいるべきです」

「俺だってこの仕事は好きだ。けど代償が大きすぎるよ」

「だったら言いますけど、仕事を辞めるって言ったって、どこに転職できるというんですか?」

「そりゃ、日本の鉄道会社に……」

奥野は何かを言おうとしているのに平山は気づいた。

「なぁ、奥野。なにか俺に隠していることがあるのか? はっきりと言ってみろ」

奥野は決心したようだ。

「仕事を辞めるって言ったって、AIの補助と、本体からの人格の転送が必要な体なのに、辞められるわけがないでしょう?」

「本体? なぁ、奥野。お前が何を言っているか、俺はわからないんだが」

「言った通りですよ」

「じゃあ、俺は一体……」

平山は目覚めた。体が固定されているようで、身動きがとれない。そこは暗い部屋だ。

「なんだ? ここは」

機械の駆動音がする。体がその機械に繋がっているようだ。

スピーカーから声がする。

「平山さん、顔色が悪いですね。今日はここまでにしましょう。外でご家族が待っていますよ」

平山はその機械から這い出ると部屋から出た。待合室に向かうと妻と娘が待っていた。

「きょうはどうだったの?」

と妻が聞く。

「よくわからない。調子が悪くてな」

平山は白髪交じりの頭を撫でる。

待合室から出ると、もう夕焼けに町は包まれていた。美樹が先へ行く。成長した娘の姿がまぶしかった。

「こんなにも時間が過ぎていたなんて。夢中になっていたから分からなかったよ。そうだ、旅の話をしよう。何がいい?」