森になる

小林ひろき

輪郭線が途切れ途切れの時間となっている。奥に眩しいばかりの光が輝く。光の中に私はいた。盲いた目で、森のなかの情報としての私はいつしか私達という群れとなって、うねり、弾け、ほどけて反響している。私はそばにいた存在に聞いた。

「君ハ、誰?」

蝶は言った。

「私ハ羽バタクモノ」

「君ハ、誰?」

鳥は言った。

「私ハ囀ルモノ」

森全体が無数のざわめきとなって振動している。無数の生物からなる森。その世界のおしゃべりだ。言葉が言葉を繋いで、有機的に溶け合ったり、重なりあったり、散り散りになったりしていた。〝響き〟はどこまでも無限に広がっている。拡散していく。

私達を抱いて豊かで大きな森が静かに呼吸した。


1.発症

その病がいつから私達の生活に侵食してきたか? 私は知らない。

駅のホーム? 違う。満員電車のなか? 違う。通学路? 違う。

私は静かに窓の外のグラウンドを見る。白い運動着の男の子が輝く。掛け声がこちらにまで響いてくる。私は目線をノートに映した。か細い、華奢な字が「細胞核」と厳めしい字を作っている。私はさっきまで見ていた男の子のことを頭から消し去る。私が見ていたいのはきっと背伸びしても届かないような、あの人だった。

「西山、ここを解いてくれ」

向こうの生徒が立ち上がり、黒板に解答を書く。隣には清潔感のある青いシャツと地味な色のネクタイ、私はその顔を見つめていた。憧れの先生だ。先生は板書しながら授業の説明をしている。広い背中、低い、伸びやかな声。私は彼が好きだ。まだ春の初めだというのに、外の桜は忙しそうに散っていく。アスファルトが溶けるような暑さと、一変して凍えそうな寒さを一日ごとに繰り返す。全くもってほどほどということを知らない令和の春だ。外はまぶしくて何も見えない。ただ先生の声だけが印象に残っていた。教室にはきっと私と先生しかいないのだ。私の秘密をいつ打ち明けようか。三年間、抱え続ける度胸なんてない。高鳴る胸、先生を見つめ続けるなんてできない。

あれはきっと恋だったのだ。

桜の木の下で先生は花びらをひとつ取った。観察するかのようにじっくりと見る。それがどこか可笑しくて、でも注視しないといけないようなそんな気持ち。私はその佇まいにいつしか憧れて、先生を慕っていた。先生がやがて私を知るようになると、笑いかけてくれた。一生徒に対する軽い対応なのに私は単純だった。ふわふわして、おかしな会話をしたかもしれない。顔が赤くなっていたかもしれない。あとは……。

先生、もう少し私に時間をくれませんか? いつだって話し終わる途中になって思う。楽しかったですと言って「また話しましょう」が言えなくて、時間だけが過ぎていく。帰り際に話したいことを思い出す。いつだってもどかしくて、勇気が持てなかった。

準備室にプリントの束を運ぶ。危険な薬品と人体模型、ハツカネズミのホルマリン漬け。私は学校でも準備室の前は気味が悪いと思っていた。恐る恐る準備室のなかへ入る。奥に先生の部屋がある。部活動の掛け声が校庭から聞こえる。少しだけ傾いた日差しが、窓の外の柑橘類の木の輪郭をぼかしている。

深呼吸して扉を開ける。

「失礼します」

書類の束に隠れた先生のデスクがあった。デスクの横に並べた椅子に先生は座っていた。コーヒーメイカーにはまだたっぷりとコーヒーが入っていた。カップは空だ。

「先生? プリントを持ってきましたよ」

「京野か。それはそこに置いてくれ」

口を大きく開いて欠伸をする。どこかおかしくて笑ってしまいそう。

「テストですか?」

「そんなところだよ」

「京野もコーヒー飲むかい?」

「はい」

先生の淹れたコーヒーの味はよく分からなかった。ちょこんと先生の横に座った私は先生を横目に見る。午前中とは打って変わって、シャツは皺だらけになっている。イメージが少しだけ崩れる。減点。でも温かい飲み物は嬉しい。お腹の底が温まる。ぼんやりとふたりで何も喋らず、時間が過ぎていく。焦りとは違う、落ち着いた時間だ。

コーヒーを飲み終える。先生と視線が重なる。

「何ですか? じっと見て」

「ええと、コーヒーは美味しかったです」

「良かった」

私は先生の微笑みを見て、また彼を好きになる。先生はまた欠伸をする。

「どうしたんですか、夜は眠れていないんですか?」

「眠っているさ」

先生は視線を外に移す。いつの間にか外の部活動の音は消えていた。静かになって、私の鼓動だけが聞こえているんじゃないかと思う。聞こえてはいないはず。

「京野は授業が好き?」

教室に空きの机が目立つようになったのは、夏休みを過ぎた頃だった。感染症のピークは緩やかに収まり終わりに向かっていく。そんな予想がされていた。

それでも、登校してこない生徒の家を訪問してきた先生達の話では、生徒達は眠っているのだそうだ。

それも一日や二日ではない。長くても一週間、あるいは一か月と彼らの眠りの時間は長くなっていった。私達の学校だけの問題ではなかった。同じ県立の学校でも同様の事例が報告された。私達は眠りに落ちる。二度と目覚めない恐怖を感じながらもアラームの音が、夢の終わりを告げる。天井を見つめる。目に涙が浮かぶ。私達の変化を重大な事として受け止めた人間は、この時にはまだいなかった。

変化した世界でも、先生の存在は私の世界の救いだった。先生が笑いかけてくれるから、私は私で不安を感じないでいられた。だから、あの日が来るまでは私は私のままでいられたのだと思う。同級生が次々と眠りから帰って来なくなっても私は登校を続けた。

夏の暑さがまだ残る秋。先生はあの眠りに侵されてしまった。子どもを中心に広がりをみせた〝眠り病〟はついに大人にも発症した。

先生の授業の日だった木曜日の一限は、自習の時間になった。眩暈がした。世界が、日常が溶けていくみたいだった。私はもう何も感じられなくなった。私の世界は決壊してしまった。流れ出した黒い濁流。私は私が壊れていくさまを黙って見ていた。半数以上の同級生が眠り病に侵された。私は粛々と勉強を続けた。勉強をしているだけで何も心には入って来なかった。

雑音の濁流と無音の階調のさなか、私はある考えに思い至った。私が彼を眠り病から救いだしてみせる。これまでの自分の考えから逸脱した一つの思い。

私は夢を見つけた。

私は様々なアプローチから眠り病を探ることにした。人間と睡眠について広く大学で勉強した。今の私は医学を専門としている。

最新の研究では、動物は脳の進化より先に睡眠を獲得していたとされている。睡眠はヒトをはじめとする哺乳類に関わらず、魚類や昆虫になど幅広い動物種で観察されている。いずれの動物種でも、脳と睡眠は切っても切り離せない関係性にあるとされることが一般的であると言われてきた。ところが、原始的な神経系、つまり中枢神経を持たずに散在神経系を有するヒドラにも睡眠現象が見られるか検証したところ、ヒドラも眠ることが明らかになった。このことから類推される事柄のなかには興味深いものがある。動物は覚醒することを進化させてきた生き物であることだ。またそれはこのようにも言い換えられる。動物は睡眠状態が標準の状態であるということである。

私達は眠っているときのほうが自然な姿なのだ。

つまり私達は睡眠時に生きているということだ。

私は眠っている先生の傍らに立つ。先生の胸が上下している。彼は眠ったままで十年以上の月日が経過していた。先生、きっと私はあなたともう一度出会える。叶わぬ願いだと知っていても信じ続ける。私は自分の研究の資料を置いた。実験の日取りは決まっている。明日だ。私の推論が正しければ、あなたと言葉を交わすことができるはずだ。

2.再会

こんな実験がある。ユウレイタケ、エノキタケ、サナギタケ、スエヒロタケの四種類のキノコの真菌に流れる電気について直接測定を行う。結果は四種類とも数分間の長さを持つ、他と比べて電圧が上がるスパイクがある事が測定された。スパイクの長さと頻度は種によって異なり、様々なパターンが見つかった。これらのスパイクについて間隔が狭いものは単語と呼べるのではないか? という意見がある。この単語は五十個ほど見つかっており、菌糸同士で交わされるシグナルなのではないか? と議論の的になっている。

この実験の二年後、自然界の樹木同士にもそうしたシグナルが存在するのではないかという研究が行われた。雑木林の樹木、コナラ、クヌギ、アカマツを流れる電気について直接測定を行った。結果は、前述のキノコ同様に数秒から数分の長さを持つスパイクが測定された。最も複雑性の低いクヌギから、非常に多様性に富むアカマツまで様々なパターンが見つかったのだ。樹木同士で交わされるシグナルの発見である。

議論は森という相互作用システムにまで及んだ。この問題には様々な専門家達が集結した。動物学者や、昆虫学者もこの分野を開拓しだした。結果として森単位、真菌、樹木、昆虫、鳥類、動物に至るまで様々なシグナルが抽出されるに至った。この森のシステムは種によって階層性があり、様々な層で演算が行われている。複数のプロセッサが一日中絶え間なく計算をしており、森全体を一種の巨大なバイオコンピューターと見なす研究者もいるほどである。

この十年で眠り病の患者は着実に増えていった。病床にはゆとりがない。私は病院の隅に作った小さな森に来ていた。論文を読み漁る日々、ようやく眠り病へのアプローチ方法が見つかった。私は森の相互作用システムの援用を考えていた。青写真としてはこうだ。患者の言語野の脳波を電気シグナルに置き換え、キノコや樹木で作った小さな森へと繋ぐ。この森が患者の意識つまり複数の電気シグナルを汲み取り、特定の言語パターンを発するようになる。この言語は既に解読されているので、私達は眠っている患者とこの森を介して会話できるようになる。

森をバイオコンピューターとして統合するシステム開発は二〇二〇年代には既に開拓されていた。真菌や木々を使うことは環境負荷が少なく、次の時代のコンピューターとして有望だったからだ。私は専門の勉強の合間に様々な研究法を調べ上げていた。時に、この研究に予算が下りないことが苦々しく思えたこともあった。次第に資源の少ない日本で森という資源を使うことが注視されるようになり、時流は着実に変わっていった。

小さな森。

病室のなかへと入ると一面に土が敷き詰められている。柔らかい足元の感触が、ここが室内だということを忘れさせる。開け放たれた窓から柔らかな日差しが啓示のように降り注ぐ。鳥が時折、ちゅんちゅんと鳴いている。私は私のしているおかしさをもう判断できなくなっている。室内は湿った空気を帯びて、緑の匂いを充満させた。私は先生のベッドを森になってしまった病室に配置して、解読器を傍らに置いた。

私は睡眠について深く学ぶにつれ、私達の見る夢についても知見を得た。例えば現実を見るということ自体は脳の意識システムの編集の上に成り立っている。ならば夢を見るということ自体も脳の無意識システムの編集の上に成り立っているはずだ。ここから導き出されるのは夢と現実は脳の異なるモードによる真実の投影なのだ。であるとすれば私達は夢であれ、現実であれ、もう一度、出会うことができる。そのとき私達に起こる変化を私達が受け入れられればいいだけの話だ。

これから先生に会う。

この十年、いつでも探していた日常を取り戻すための戦いだ。

私は先生の言語野の脳波を拾う器具をつける。コードが数本伸びている。一メートルほどの延長コードを用いて解読器に繋ぐ。解読器からは音が出る仕組みになっている。先生が見つかったら、私は会話を始める手筈になっていた。

「……君の夏……眩しさは……」

無機質に解読器が話し出した。

「先生? 先生?」

「声だ……何年ぶりだろう……」

「京野です。おぼえていますか?」

「……野、きれいな名前だ」

私は気持ちが抑えきれなくなりそうだった。解読器の声が、あの低い声を再び聞かせてくれることはない。そんなの分かってる。

「……たい……あ……」

「何ですか?」

「……会いたい……」

胸が切なかった。その声がどんなに無機質であろうと、覚えていてくれた。そう思いたい。目を閉じて深呼吸する。声が震える。そんなのどうだっていいや。

「私もまた会いたいです、先生」

たった一言だけ交わした言葉で今の私には充分だった。

先生との会話は続いた。季節が何度も巡って、それでも私は彼を待ち続けた。何度も言葉を交わして、でも彼は夢の中の住人だった。もうこちら側には帰ってこない。手をぎゅっと握る。力をゆっくりと抜く。ここが私達の目的地、最終地点なのだと気づかされる。外の桜や、青々とした緑、紅葉、そして雪。何度も繰り返される生命の営み。その周期にたまたま眠ってしまった人々。哺乳類は本来冬眠するものという話を聞いたことがあるけれど、私達もそんなふうにどこまでも深い眠りに落ちて、二度と目覚めることはないのだと思う。その眠りが生物本来のものだったと結論付けられても。

気づくと僕はプールに浮かんでいて、抜けるような青空をぼんやりと眺めていた。

遠くから声がする。卒業式の後、別れたきりになっていた友人の声だ。ホズミ、僕の親友。

プールから出て、タオルで顔を拭く。ホズミと一緒に外の売店でアイスバーを買い、赤いベンチに二人で座った。眩しい陽の光にたじろぎながら、僕は固いアイスバーを噛む。冷たい。隣に座るホズミも同じようにアイスバーを齧っている。彼の視線はどこか遠い場所へと向けられている。僕とホズミはもう一緒の学校に通うことはない。ホズミのこれから知る世界を僕は知らない。

僕はこの日が明日も続けばいいと考えていた。明日、僕達は離れ離れになる。最後の夏の思い出に一緒に泳ぎに来た。僕は何も言えず黙々とアイスバーを食べた。ホズミが口を開く。

「シゲル、ひとつ大事なことを言うよ」

突然のことで僕は瞬きをする。

「俺はさ、本当はここにいちゃいけない存在なんだ」

彼の言っている意味が分からず、黙り込む。

「何を言っているんだ」

「天使なんだ、俺は」

「え?」

ホズミの顔は真剣で、僕は可笑しくて涙が出そうなほど笑う。

「冗談じゃないんだ、ほんとうさ」

「だったらその天使さまが僕に何の用なんだ?」

ふと、懐かしい匂いがして、何かを思い出しそうになる。でも思い出せない。

「覚えておいてくれ、シゲルには帰らないといけない場所がある」

ホズミの声は聞いたこともない響きとなって胸に迫って来る。僕は次第に真剣にホズミの表情を追っていた。

「帰るってどこに?」

「それは君の心のなかにある」

ホズミの顔は見たこともない表情へと変わっていく。ずっと見つめていたはずなのにホズミは消えていた。

僕の意識は中断した。

3.共生

私は相変わらず「森」を介して先生との意思疎通の真似事を繰り返していた。どんなに望んでも私の願う未来は来ない。私はまた二人で桜を見たいだけだった。あの日々に帰りたいだけだった。いつでもあなたの影を探している。いるわけがないって分かっているはずなのに、視線は彷徨い、あなたの面影を追いかけている。ふとすれ違った男の人の背中にあなたを感じてしまう。私はそろそろ自分の心に限界が来ていることに気づかなければならなかった。自分の気持ちをどこへ? どの時代へ還してやればいいんだろう。私は長い時間の中で迷子になっていた。懐かしさに慣れ親しみ過ぎた。先生への執着が重い鎖になっていた。この十年を思い出すたびに心の傷が強く刻まれていることに気づくべきだった。体が重くて一歩も踏み出せない。

眠り病の患者とその家族に対面するとき、強い憐れみを感じた。ある少女の患者の手をずっと握り続ける母親の手、願掛けのお守り、千羽鶴……様々な願いの集合。直視できなかった。思いが強すぎて心が痛んだ。私も彼らと一緒だから。愛する人がこうなってしまった事実を受け止めるしかない。

温かいコーヒーに口をつけ、飲み込む。甘い香りがして、この味は先生の淹れてくれたコーヒーとは違うとはっきりと分かった。

しばらく経った冬の朝だった。

届いていたメールを確認し、配信された科学の記事を読む。気になる項目はもうない。けれど最後まで習慣で読んでしまう。最後のページの隅の記事に目が留まる。脳科学の論文だ。ブレインマシンインターフェースなどで発展の目覚ましい分野だ。なのにこの記事は大して注目もされずにひっそりと存在していた。内容は荒唐無稽だった。

――人間の脳波から記憶情報を電気シグナルとして抽出する技術の解決策。

私の頬は緩んだ。馬鹿馬鹿しい研究だ。多くの人間はそう思うだろう。けれど、私の脳に電流が走る。

私の喉につっかえていたものがようやくとれた心地がした。私は先生を取り戻すことばかり考えていた。けれど逆のアプローチを取ればいいんだ。私が彼に近づいていけばいいんだ。

窓の外には澄んだ空が広がっていた。

天使が僕の意識を中断させても、相変わらず僕の生活には変化がなかった。友人たちに会い、話をして、笑い合う。とても幸せだった。カラオケで歌って、帰ろうと駅へと向かう。ぼんやりとした夕焼けに向かって歩き出す。駅に着くと、学生たちや買い物を終えた人々、これから夜の街へと繰り出す人々でごった返していた。僕は気にせず改札に向かう途中、一本の桜の木に目を奪われた。ほんとうに美しい桜の木だった。どうして誰も桜を見ないのか不思議だった。僕は桜の木に近づく。桜の枝、花をしげしげと見た。僕の心は幼い日に帰っていく。懐かしい記憶の先にタイムスリップしていく。

祖父の家に桜の木があった。庭で花を咲かせたソメイヨシノ。その姿を祖父はいつも寂しそうに見上げた。

「どうしてそんなに悲しい顔をしてるの?」

「この木はね、一代限りのものなんだ」

人間が助けなければ、長くは生きられない。

その夏、祖父が亡くなった。

桜の木をあのときの祖父と同じような気持ちで見上げる。木はどこか悲しげに見えた。友人だった祖父を亡くして寂しそうに見えた。強い風が吹いて、桜の花びらを散らした。

「一緒に生きていたい……生きていたい……」 

桜の声が聞こえたような気がした。

はっと気づくと僕は桜の木の前でぼんやりしていた。すると何かが聞こえたような気がした。声? 桜の幹に触れる。硬い樹木の感触。何をしているんだろう。手を離そうとした瞬間、確かに声が聞こえた。

「先生……先生……」

女性の声だ。でも僕は先生じゃない。でもその声は聞き流してはいけないような気がした。僕の心の中がざわめく。

「きみは……?」

「忘れてしまったんですか、京野です」

キョウノ、僕の中で言葉が駆け巡り、バラバラになっていた記憶や感情がひとつのまとまりを作っていく。

「京野、京野!」

忘れてはいけない記憶、穏やかな時間がふっと目の前に流れてくるようだった。震える声と言葉を交わす。胸が締め付けられるようだった。長い、こんなにも長い間、彼女のことを忘れていたなんて、あの日常を覚えていなかったなんて信じられなかった。僕は闇の中に立っていた。

あの論文を読んでから、私は国内外の様々な科学者に出会い、議論を重ねた。やがて私達の議論は全人類を「森」つまりバイオコンピューター上に移住させる計画へと結実する。デジタルコンピューターの仮想空間の名前をもじって通称〈バイオバース〉計画と呼ばれるものだ。計画に異を唱える者達は多かった。各国で倫理委員会が立ち上がり、激しく非難された。

私達は増えゆく眠り病に抗うことはできない。眠り病は人類の変化のステージなのだ。私達は訴え続けた。しかし状況は変わらなかった。

いま私は深い森に住む少数民族の村へ向かっていた。

村へ入ると病院や医師団の設営した白いテントが複数見えた。この村の人々の大半は眠り病の患者なのだ。村でたったひとり残された青年と私達はこれから会う予定だ。チェックのシャツに半ズボンの男が花束を持って病院のなかへ入っていく。眠ってしまった恋人に会いに行くらしい。その姿は自分と重なって、つい切なくなった。

病院の前で待っていると待合室に通された。

青年が待っていた。目を合わすと、彼は会釈した。白いカーテンの前で青年とこれまでのことを話し合った。私は少しずつ言葉を切り、時折カーテンの向こう、遠くを見るように話をしていた。とても長い物語を話し続ける。一息つくと外は薄い琥珀色の陽光が差し込んでいて、日が暮れ始めていた。青年は何を感じたのだろう。静かに立ち上がる。彼は部屋から出ていき、戻ってきた。ボトルに入った水を私へと手渡す。

「話は分かりました」

青年は言葉を継ぐ。

「私だって会えることなら彼女に会いたい。やれることなら何だってしたいです」

青年の意思は固いようだった。私は〈バイオバース〉計画を彼に話す。彼の瞳に光が差し込む。

「ほんとうにそんなことが可能なのか?」

「実験は繰り返し行っている。意思の疎通は可能です。もしあなたのような人が計画に賛同してくれるなら私達は嬉しい」

青年の賛同を得た私はメディアを介して計画を発表した。眠り病の患者家族を中心に賛同してくれる人間が次々と増えた。動きは大きな波のようにうねった。もう誰もこの動きを止めることはできないだろう。各国の倫理委員会は少しずつ解散した。〈バイオバース〉に批判的な人々の声はもう届かない。

私達は自ら被験者となって実験を始めた。

十ヘクタールの森をひとつの巨大なバイオコンピューターに作り変えた私達は眠り病の患者と彼らと対話するダイバーを集めた。対話ダイバーには私も参加している。

私の記憶や意思は電気シグナルに置き換わる。私の意思が森のなかに同期される。先生の脳波と私の脳波が同調していく。

ひとつ呼吸して対話の時間が始まった。

静寂。闇の中にぽつんと先生は立っていた。

「先生」

「京野なのか」

「お婆さんになってしまいました」

私は先生の手を取る。私は先生を私達の作った森へ連れていく。

いつの間にか辺りは闇から明るい緑の小道になっていた。私は振り返る。先生はきょとんとした顔で私を見ている。

私の肩にヒバリがとまり、指先にはどこから飛んできたのか、アゲハチョウがとまった。

「京野、説明してくれ。ここはどこなんだ?」

「森の中のバイオコンピューターのなかです」

そう言うと私は先生の手を強く握った。

「ずっとこうして先生に会いたかった……。先生をここに連れてきたのは先生を眠り病から救い出すためです。このバイオコンピューターのなかで私達と共に生きましょう?」

無数のざわめきが空間を響かせ、満たしていく。

「どういうことだい?」

「森を私達はバイオコンピューターとして作り変えました。このコントロールされた森のなかで人間は情報として生きる」

先生は何かを察したように言った。

「この森と一体化するんだな?」

「いいえ、それはきっかけに過ぎない。一体化するだけじゃない。森のネットワークによって私達は拡散する」

「バイオコンピューター内で生きるだけではない?」

「そう、私達は菌糸にも樹木にも昆虫や鳥、動物とだって意思を伝えられる。この意識だって私だけのものではないのかも」

「それが、この技術ならできると?」

「はい。そして私達の命は、全ての命と共生しながら持続する」

「僕達の体が滅んでも続いていく」

「私達の意思は永遠だから。先生……」

「何だい?」

「愛しています」

私達の意思は彼方へと飛んでいく。森全体、生物たちの織りなすサイクルと同調しながら私達の意思は拡散した。自然界とひとつになるのだ。

〈バイオバース〉に移住する前に最後の記録を残す。十数回にもわたる対話で私達は眠り病の患者すべてを〈バイオバース〉のなかへ定着させることに成功した。時を同じくして眠り病の患者数は全人類の九十パーセントに及んだ。私も眠り病に侵された。薄れゆく意識の中で私は思う。〈バイオバース〉の住人は全人類の人口に達するだろう。

そうして人類は永遠の眠りについた。〈終〉