SFの小箱(13)人工知能

小林ひろき

インターホンが鳴ると、宅配で大きな段ボールが届いた。どこからだろうと思ったら千葉の祖父からだった。段ボールを開けるとなかから立派な大根が出てきた。今年は豊作だったと手紙にはあり、きょうの夕食のために大根を使ったレシピを検索する。

祖父のことは好きだった。幼い日に祖父の持つ畑で、野菜を収穫した思い出がふと蘇る。かれこれ七年は祖父の家に行っていない。どうして? と聞かれるとなんともいえばいいのか分からない。祖父の前で私は黙ってしまう、そんな想像がついて、どんどん祖父の家から遠ざかっていく。電車で二時間ほどで行ける距離だというのに。

今年、美大の油彩画二類に入学した。それもあってバタバタしているのが本当のところだ。祖父がどうしているかなと思って、電話番号をスマートフォンのなかから探す。祖父の電話番号を見つけて、通話ボタンを押そうとする手が止まる。話すことがないんじゃない。壁が私と祖父のあいだにはあるのだ。

祖父の作る農作物がどんな食卓に並ぶのかと、祖父に聞いたことがある。祖父はお刺身のツマになるんだよと悲しげに言った。これだけ丹精込めて作ったのにあんまりだと私は言った。そうだな、って祖父は優しく答えた。

手元にある絵画に必要のないサインを書く。今月で二五枚は書いている。いいペースだと思う。学校の課題では教えてくれることはあまりない。学生はただ学校や社会のために絵を生産し続ける道具になっている。対価としての少額のお金が銀行口座に振り込まれてくる。油彩画一類にでも入学すればよかったかなと頭を掻く。そうすれば名のある画家になれたかもしれない。アートフェスタに並ぶお金を払ってでも買いたい絵を描けたかもしれない。

私たちは今日も絵を数枚描く。真っ白いキャンバスに次第に輪郭線が増えてゆき、彫刻のように対象が姿を現す。それは古代から変わらない人間の使える魔法だった。ただその魔法は現代ではさらなる魔法への下準備にしかなっていない。色を重ねる作業自体は楽しい。かけがえのないものだろうと思う。私たち現代アーティストたちは日々、絵を描き続ける。

天国のような青空が見えた。キャンパスにひさしぶりに登校する。手元にあるのは描いた絵を縮小したものがプリントされたノートだった。油彩画二類には講評会はない。教授というものもいない。ただ、外部の工学系の教授たちがずらずらとやってきて、私たちの絵を見ていく。どれもこれもまとめて金額を提示していく。私たちの描く絵はこれから人工知能に学習される。つまり人工知能という新たな創造主の糧となるのだ。人工知能が生成する新たな絵画。そのために私たちが丹精込めて描いた絵は利用される。

誓約書は入学した日に書かされた。それよりも前に学校説明会やオープンキャンパスで説明は繰り返しされている。私たちは新しい発想やアイデアをシステムのなかに組み込んだ。人工知能たちが生成する絵画だけのオークションがあり、鑑賞者も多い。私たちの血と汗はすべて人工知能のなかに現れる。学生のうちに描ける人間の多くは油彩画二類に入って人工知能と運命を共にする。そのことを私たちは疑ったことはなかった。


ある朝、町全体に撒かれたペンキを清掃するアルバイトをした。

そのペンキは俯瞰して空から見ると、ひとつの芸術になっているらしい。屋外アートだ。ただし、その芸術を描いた者は留置場にいる。現代アーティストの多くは失業している。多くは人工知能に関わることを止めて、破壊的な芸術家になっている。今回の一件もそのひとつだ。芸術というものの発端はラスコーの洞窟壁画だろうと言われている。現在の私たちから見ればそれは落書きに過ぎない。絵を描くことの意味が変わってしまった現在ではどうしてこんなに自由なのかはわからないでいる。私はわからない。描くことが自由であるのに、その多くは罪となることが。

家に帰ると描いた絵画が、亡霊のようにこちらを見ている。私は振り込まれた少額のお金で画材を買う。そうして、燃えるように描き、眠った。そんなことの繰り返しをずっとしている。絵を人工知能に奪われると思ったこともあった。過去のことだ。こうして無心に絵を描き続けることができるのは幸福なことだと思う。

多くの学生は油彩画二類から卒業すると、枯れ果てた創造性でなにも出来なくなり、アートから離れていく。私もそうなるだろうと思う。先輩たちは会社員になって芸術とは関係のない人生を歩んでいく。何て言われたって、私には才能なんてない。月並みな絵を描き続けるしかできないからだ。

夜、お酒を飲みつつ、つけたテレビでコメディショーを見る。ほんとうに心から笑うことなんて忘れてしまった。自由になれることはない。壁には海と貝殻のコラージュ写真が飾ってある。ふと気づくと朝になっている。振り返ると描き終えた絵画がこちらを睨んでいる。午後には大学へ向かう。粉末のポタージュをお湯で戻して、飲む。電子レンジで手早く冷凍パスタを温める。部屋を占領している絵画にナイフを突き立てて、捨てる。綺麗なカンバスに布を張り新しい旅に出た。今度はもっと遠くへ私を導いてくれることを信じながら。

私はどこまでも荒れ果てた土を踏みしめている。遠くに人影が見えて、土を耕している。その姿を私は追いかけている。その人の傍に行くと、その人は光り輝く透明な水を私にくれる。私はその水を飲み干している。その人は笑っている。私も微笑む。夢だと気がついたのは、ベッドのうえだった。無意識に横になって眠っていた。時間は深夜の三時。絵画はまだ未完成だ。顔を洗いに行く。鏡の前に立つと疲労の色が色濃く出ている。休まないといけないと思うが、そのまま絵画の前に立ち尽くしていた。記憶や見たことのある風景を何度も描いてきたけれど、きょうはこれというものがなく、爪を噛んだ。外がだんだんと青白くなってきたので、気晴らしに散歩に出る。私の目に散歩の途中の景色は何も映らない。風が頬を撫でるだけだ。

私の絵は、人工知能によって新しい光に呑み込まれる。そんなふうに私の考えは変化した。光のなかでその形はほどけていき、新たな関係性を結ぶ。人工知能のなかで他の絵と押し合いへし合いして、圧倒的な密度を与えられ、ダイアモンドのように絵は輝くだろう。いま、私が描く衝動なんて本当はどうでもいい。私は溶け合いたいのだ。溶けていった先で誰かと本質的な交わりを持ちたい。そのためになら、人工知能だって活用する。


祖父から電話があった。戸惑いを覚えつつ、通話ボタンを押す。

元気だよ、と言うと祖父はしばらく沈黙してから言った。

「ミハル、どんな仕事であれ、真面目にやり続ければきっと報われるよ」

私は黙って、頷こうとした。けれど、

「私のやってることなんて報われないよ。だって知ってるでしょ? 私のやってることはぜんぶ私の手を離れるものなんだ! 私がやっても、他の人がやってもおんなじだよ……」

「かけがえのない仕事もあるよ。今度、おじいちゃんに何か描いてくれ。ミハルの絵、楽しみにしているよ」

優しくしないで欲しかった。祖父はどうして私を気遣ってくれるのだろう。私はベッドでうずくまった。日が沈むまでそうしていた。何も出てこない。とてもゆっくりとしたペースで、私は次の絵画の構想を練っていた。大学から一通のメールが来たのは寒い朝のことだった。

油彩画一類への編入の通知だった。私は、たじろいだ。私は芸術の道では生きられないと、そう思っていたのに。私はキャンバスにふたたび向かう。つぎは人工知能のためじゃなく、自分のために。線を引いて、色彩を乗せる。たったそれだけのことなのに、勇気が出てこない。やっとの思いでひとつの線を引く。あとは導かれるままに一瞬を生きていくだけだ。そう思った矢先で迷う。どこにも行けない時間だけが過ぎていく。カチカチと時計が時を刻む。初めて私は油絵で下書きを描いた。

下絵の細部をペンでなぞる。つぎつぎと絵画の細部が模様として現れてくる。私が油彩画一類のさいしょの授業で描いた絵画はそういう絵だった。油彩画一類の授業で私は初めて芸術家になれた。講評を受けた。人の生の感想をもらった。システムの外にやっと出てこられた。まぶしい世界で、私はお金のためじゃなく絵を描いた。満ち足りた生活の裏で去年、心筋梗塞で亡くなった祖父のことを思い出している。ほんとうに突然だった。あの電話のあと、猛烈な衝動に駆られて、私は一枚の絵を描いた。祖父の家宛てにその絵を送った。祖父がその絵を見たかどうかは分からない。その絵は初めて描いた誰かのための絵だった。芸術的に優れているとか、技巧的に素晴らしいものかは分からない。あの絵の前後で私というものの何かが変わってしまった。私は研究室の窓から、学生たちがノートを持って登校する姿をじっと見ている。パソコンに向かえば今年の人工知能が描いた最大の名画が、否応なしに目に入ってくる。私はその絵を見ながら、かつての私の影を見つける。私だった、私を構成していただろうその絵は私の過去に焦点を合わせている。私は羽化してしまった。ずっと夢を見続けるのを止めた。情熱もあの時代ほどに燃やせるかはわからない。かつてパブロ・ピカソの青の時代と呼ばれたような時間が人工知能の絵画で再現される。人工知能は私と私ではない他者のキメラを今も生産し続ける。

私はたまたまそのシステムから逃れることができたけれど、ずっと、ずっと前から古今東西のあらゆる芸術のディスクールがそこにはある。言葉によらない、非言語的な言説が、線の形になって、あるいは色彩の形になって現れている。それは渦だ。途切れもなく湧いてくる透明で綺麗な水を、私はあんなにも飲み干してきたのに。私は水脈から外れてしまった。こんなにも孤独で、静かすぎる時間を私は迎えている。ここはいつか見た曠野なのかもしれない。祖父の作った大根のみずみずしさだけが、乾いた私に潤いをくれた。(了)